SPIKE AND GRINN#1
地球最強の魔術師としてオカルティズム的なトラブルの解決を請け負っているスパイク。彼は定休日に趣味のドライブに出掛けた。しかし朝のロサンゼルスでフリーウェイを走っていた彼は、ビルのへりに立つ謎の少女と遭遇する。
登場人物
―スパイク・ジェイコブ・ボーデン…地球最強の魔術師。
―リン・マリア・フォレスト・ボーデン…スパイクの母親。
―グリン=ホロス…スパイクと出会った謎の少女。
人知れぬモンタナ山中の事件後、5月下旬:カリフォルニア州、ロサンゼルス、ダウンタウン
朝日が差し込み、冷却された涼しい風が吹いていた。室内にはこの家の持ち主が自分で塗った塗装の生新しい匂いがまだ少し漂っており、ダウンタウンの清々しい朝が訪れた。純白の真新しいシーツの上でぐっと欠伸をする青年は母親と共に暮らしており、彼らは幼少期に金銭的な問題でコンプトンやサウス・セントラルを転々とした。今の仕事は自宅が事務所でもあるため、彼は嫌でも慣れ親しんでしまったゲットーの空気を想い、安上がりな治安の悪いエリアに拠点を置こうかとも考えたが、親孝行がしたかったのでより安全なエリアへと引っ越した。
右腕に広がる刺青が目を引く青年は軍人のように短くカットした髪と鋭い目を備えたやや精悍寄りの美しい顔を持ち、以前モデルのスカウトを受けた事もあった。コーク割りジャック・ダニエル色をした肌は綺麗でよく手入れされており、実際彼は美容にも気を配っていた。今の仕事に客受けのよさを考慮すべきなのかは不明ではあったが、しかし大抵の場合彼を見た客はその容姿にふっと目を惹かれるものであった。6月近いため今日も結構な気温になると思われ、彼が白のタンクトップ及びそれとお揃いの白いクォーター丈パンツ姿で寝ていたのはおおよそ自然な事だと思われた。鍛えられた肉体が程よく誇示されたこの姿は、所詮ただの寝間着姿であるにも関わらず彼という芸術の持つ価値を高めていた。天井を黒い染みが移動しているのが見え、彼はそれに崩した軽い敬礼で答えた。おはよう、タフ・SOB。
母親が煙草を嫌ったため地獄めいた禁煙を続け、心の中でちらついていた誘惑者のジョン・ドゥは鳴りを潜めていた。起き上がった青年は清潔な寝室を出て廊下を歩き、階段を下りながら朝食の事を考えた。リビングに入るやスマートフォンと連動させているプレイヤーを起動させ、『カントリー・グラマー』のご機嫌なリリックが心を弾ませた。リビングと繋がっているキッチンからは既にいい香りが漂い、彼は曲に合わせてくねくねと囁かなダンスを踊りながら顔を洗いに行った。クリームをたっぷり付けて髭を剃り、洗い流すと鏡には面皰跡はおろか肌荒れ一つ見当たらない綺麗な顔が水を滴らせているところがくっきりと映っていた。完璧だ、と青年は踵を返してタオルを取ってそれで顔を拭き、キッチンに歩いて行った。卵料理を母が焼いており、その香りが鼻や口を通って、睡眠を挟んだ事で何時間も食物を収められなかった胃が痛んだ。彼は早く食べたいという欲求と戦い、分泌された唾液を飲み込みながらコーヒーの準備をして、冷蔵庫から昨日頼んだピザの残りを取り出した。タッパーだらけの冷蔵庫から目的のものを取り出し、更に盛った後その上に余っていた野菜や肉を盛り付けた。元々裕福ではなかったから今の悠々たる暮らしを送るようになってからも昔の癖がところどころ残っていた。消えたものもあれば残り続けるものもあるのであった。
「今日は休みかい?」
青年の母であるはじゅうじゅうと音を立てるフライパンを手にして皿にその中身を移しながら言った。月曜は定休日であった。
「ああ、今日はゆっくりぶらぶらそこらをほっつき歩けるな」
「他にする事はないのかねぇ」
彼はそれには答えずコーヒーを注ぎ、残り物のピザをより美味そうに仕立てた余り物を母と分けた。鼻孔に染み渡る朝食の芳しい香りが味覚と同時に楽しませてくれ、一日のスタートとしては悪くなかった。じんわりと染み渡る朝食の味はかつて母の言い付けで商品券片手にお遣いした頃の事を不意に思い出させた。フッドでは周りも似たような貧乏暮らしなものの、それでも現金ではなく商品券で買い物をするのはとても恥ずかしかった。かつては厳しく、素晴らしいタフ女――もちろん面と向かって言う勇気は無い――として彼を育て上げてくれた愛しい母。クソったれの顔も知らない父とは違い、彼を見捨てなかった母。
ブラック・コーヒーのきついこくが寝起きによく効き、昨日は快眠できたため気分もよかった。家を空けて何日か戻らない日や朝までああでもないこうでもないと書斎でデスクワークや調合などを続ける事もあり、そういう時はクラブに行ってラップやEDMのリズムに会わせて踊り、一期一会の女達と酒を飲み明かして再充電するのが常であった。
女受けする方ではあったものの彼もまた人間であり、どこでへまを踏んだのか『メールだけの付き合いにしよう』と言われて事実上破局した事も2回あり、腹が立ったのでそれからは一度も彼女達とは連絡を取っていない。母親に『前の子はどうした』と言われる度に気が滅入るが、今の生活は充実感があり、やり甲斐を感じられる仕事にも満足していた。無論の事、それには危険が伴っているのだが。
彼は先週報酬のついでにもらったミックステープを聴き、ラッシュアワーが来る手前ぐらいに家を出る予定であった。食べ終わると自分の食器を洗って退出し、寝室に行って服を着替えた。淡い青の上下ジャージに着替える最中、タンクトップを脱いで外用のシャツに着替える彼の右胸にある奇妙な刺青が顕となった。あまり飾り気もない何かのエンブレムで、暗い紫色のそれはある意味では大昔の戦士達が施したものに似ていた。着替え終えると金庫のダイヤルを回して解錠し、中から金のロープを取り出した。サングラスをテーブルの上に起き、香水を振り撒き、鏡を見て状態をチェックした際にふと笑った――以前見た何かの映画でDMX演じるアウトローな主人公が組織の下っ端の恰好を見て『これからキャンプでも行く気か?』と散々揶揄していた場面が薄っすらと思い出され、己の恰好もそれに似ているような気がした。
寝室と書斎を直接繋ぐドアを空けて書斎に入り、出先で遭遇する急ぎの用などを考えて一応準備をしておくべきかと考えた。休みの日は可能な限り一日まったりする事にしていたが、それでもお人好し故かその場の現金払いで依頼を受けた事も少なくない。溜め息を吐き、ゼロ・ハリバートンの黒いアタッシュケースに必要な物を詰め込んだ。触媒となるいつもの店で買った、行方不明者の出るモンタナ山中で採った樺から削り出した弾丸サイズの木片、そしてそれを撃つためのリボルバー。このリボルバーは以前大阪で騒動に巻き込まれたというクールな男から引き取り、銃自体に染み付いた穢れや混沌を中和させる事で彼の新たな相棒となった。いずれ本来の持ち主に返すつもりだが、その本来の持ち主は引退したヒーローであるから、暫くは自分で持っているつもりであった。曰く付きの銃とその弾をケースに収納し、ふとあの樺が取れる森に居座るという怪異が対峙された事を風の噂で聞いた事を思い出し、クソったれがいなくなるのは結構だが仕事道具としては使い勝手がよかったので少々残念ではあった。それでもこれまでに出たであろう不特定多数の犠牲者に祈りを捧げ、また時間が空いた時に教会を訪れようと決めた――月曜以外の日に。
やがて家を出る時間となり、彼は玄関近くで振り向いた。白く清潔な壁から黒い煙が滲み、それは頭部が骸骨になっている隆々とした肉体の男の上半身を形成して揺らめいた。青年はそれに驚く事なく、いつものように話し掛けた。
「それじゃ、自宅警備は頼むぜ」
すると地の底から響くかのような声が発せられた。
「それは契約にはない」
その仕草さえも恐るべきもので、こちら側の領域に現れてよいものとは言えなかった。
「そうだな。ま、俺の外出中にワルを気取ったイミテーション野郎やマジモンのワンクスタが来たら幾らでも美味い料理が食えるだろうよ」
「いかにもそうだ。恐怖こそ私の糧、私の拠り所。血肉や魂など不味くて吐き気がする」
「ああ、じゃあなオロバス」
しかしそうした地獄めいた実体にも上手くやれば使い道があり、直接的な危害ではなく恐怖を刻み、その感情を食す事に最大の美味を感じる実体というのは、『やり過ぎない留守番』にはちょうどよかった。恐らく大抵の場合において、この名状しがたい実体は彼の愛する母リンを守ってくれるだろう。もっとも、リンはこの実体が話し相手としてはいまいちつまらない事にうんざりしていた。そもそもオロバスという名さえ本当のものかどうかわからず、この実体と遭遇した昔の人間が悪魔の分類法に当て嵌めてその名を与えたのかも知れなかった。
出発から数十分後:カリフォルニア州、ロサンゼルス、フリーウェイ上
青年が運転する車はサンタ・モニカ・フリーウェイを西へと走り続けた。現在の地元近辺にあるリトル・トーキョー、チャイナタウン、コリアタウン、スキッド・ロウは仕事とプライベートで何度も訪れ、これまでのドライブではアナハイム方面にも行ったしハリウッドやエコー・パークなどはもう既に道をほとんど覚えてしまった。サンタ・モニカ方面に向かって初夏の海でも眺めようかと考えており、彼は機嫌がよかった。今更言うまでもない名曲である『カリフォルニア・ラブ』が車内で鳴り響き、全てのリリックを暗記していたからそれらをすらすらと曲に合わせて一緒に歌った。LAは危険もあるが常に改善の努力が行われ、一例を上げるならかつてブラッズとクリップスに入っていたギャング達が共同でフッドの若者を導き、道を踏み外さないよう助けている。そうしたブラックのコミュニティに寄付をしたり手伝った事もあるし、それは彼の人生をよりよく彩ってくれた。善行というのはなかなかどうして中毒性があるらしく、彼はドラッグに手を出したり売買した事は一度も無いが、善行というドラッグならばその中毒性が致命的であろうとも服用して構わないと考えていた。子供も好きだから、彼らが健やかに育ってくれると嬉しかった。他の人種や民族のコミュニティとも接触して色々と話し合った事もあるし、彼らがこの世界的大都市を美しくしようと活動している事が誇らしかった。
彼は暇人だと思われるのは嫌いだがいつも宛のないドライブを楽しんでおり、背後に聳えるこの都市の象徴たるダウンタウン中心の高層ビル街や遠くに見える野山が朝の陽射しに彩られ、晴れやかな気分であった。結構道は混んでいるが急いでいるわけではなかったから、気にはならなかった。少し前に若手ヒーロー達が集まって交流会をする事となり、彼の家がその会場になったのだが、その時も『カリフォルニア・ラブ』をかけるととても好評であった。サグという言葉そのものである生き方をしていた伝説の男達が、彼ら流に地元愛を綴ったこの名曲は最近なら『ロサンゼルス決戦』でも使用されていたし、色褪せる事はなかった。運転しながら曲に合わせて体を揺らすのは常日頃の癖で、彼が駆るオレンジの79年式カマロはこの広いフリーウェイの中でも目立っていた。血管の中を血球がどろどろと流れるがごとく無数の車が西へ向かい、彼は少し『ずる』してまで追放してやった心の中の禁煙反対家であるMr.ドゥに心の中で中指を立てた。くたばりな、お前がしゃぶってるどっかの悪魔によろしく言いやがれ。まだ完全ではないものの、禁煙はかなりいいところまで来ていた。ちりちりと燻る欲求に小便をかけ、口汚く罵倒し、そしてきっぱりとそれに関する思考を打ち切った。
次の曲は打って変わってハードウェルの曲であり、その次はディジー・ラスカルであった。ヒップホップ以外のジャンルもある程度聴く方であったから、先日の交流会でも話が弾んだ。NYCに住むベンジーとは酒が入っていた事もあってか、黎明期から最近のラップシーンの話題まで幅広く盛り上がったものであった――同好の士との出会いは嬉しいもので、普段溜めている想いや熱意を吐き出せる機会は非常に貴重であった。そうやって色々考えながら朝日を受ける市街を眺めつつ車を走らせていると、右前方に見えるビルの上で何かが煌めいた――通り過ぎる際自然とそちらに目を向け、振り向くように視線を追従させた。そして彼は焦って最寄りの出口を探し、そこから道を降りたのであった。
彼は低めのビルの屋上に女の姿を発見し、その姿がはっきり見えたのは彼女がビルのへりの上で立っていたからだ。
車を止めるや否や空へと飛び上がった。誰かが写真を撮ってツイッターかインスタグラムに載せるだろうが、それはどうでもいい。自分の目の前で自殺者が出るなど到底受け入れられるものではなかった。気に入らないし、心にずっと残り続ける事だろう。そのため彼は急いでビルの屋上目掛けて飛び、角度的には推定自殺者の背後から現れる事となった。ビルの屋上に着くと後ろ姿が見え、脅かして弾みで落下しないよう音を立てずに接近した。
「何か用ですか?」
振り返りもせず、そして自殺志願者とは思えない声色でその女は答えた。声はとても美しく、若い恒星のようにきらきらとしたものを感じた。本当に人間なのか? 粘土遊びの感覚で己の姿を変えられる実体とているのだから、何が起ころうと不思議ではない。
そしてそれは振り向いた――コートのように大きなオレンジがかった赤いストールを巻き、その下には袖を捲り着崩した少しサイズの大きなワイシャツを着ており、それ自体が上着であるかのような印象を受けた。タイトな淡いジーンズは彼女の脚の細さを際立たせ、短い房を横から垂らした茶色いフリンジ・ブーツが洒落ていた。それらを纏う女の年齢は20歳になっているかどうかというもので、とは言えこの少女が本当に外見通りの年齢である保障がない事は承知していた。仄暗い黯黒の実体であるかどうかはともかく、首元まで伸びた髪がさらさらと風に吹かれる様そのものは悠久の時を閲した像のごとく神秘的であった。髪は首元に垂れ下がっている下部分は黒いが、上の方の髪は珍しい天然の綺麗な金髪であった。白い肌は人工物のように荒れが見られず、それでいてどこまでも自然であった。すうっと引き締まった顔のラインや目元、整った鼻や唇は心に突き刺さるようにして染み渡った。
しかし何かが奇妙であった――まるで本質を覆い隠しているがごとく、言いようのない印象を受けた。それが好感触なのか、それとも不快感なのか、それさえも己にもわからぬ有り様であった。
「秘める魔力は莫大であり、そして様々な方法でそれらを供給する術を持っているようですね。するとあなたがこの惑星最強の魔道士…オカルト事件の解決を生業とするスパイク・ボーデンですか」彼女は小首を傾げる仕草を見せ、現時点で最強の魔術の使い手であるスパイクの全身を見渡した。声は淡々としており、ある種の機械的な印象を受ける口調であった。
「思った以上に容姿は美しいですね。研究に明け暮れている不健康そうな白髪で鳥の骨のような老人、そのようなものを想像していたかと言うと、さすがにそうでもありませんが」
そこで漸く、この少女に圧倒されていたスパイクは口を開いた。容姿には自信があったものの、かような浮世離れした実体にそれを言われるというのは常日頃の称賛とは性質の違うむず痒さを帯びていた。
「そいつはありがとよ。ローパーにガガにブロンドの子達が揃ってるってな」
「私の髪を指した引用ですか。力だけでなく教養もあるようですね」
教養、かというと言葉に困るものの、スパイクは適当にお茶を濁した。そもそも有名な曲とは言えよく楽曲からの引用だと彼女が気付いたものであった。
「そして恐らく、あなたもまた、ほとんど伝説的な血統が薄らいだこの時代において、先祖帰りのごとく発現したある種の窮極なのでしょう」
「何の話だ?」
流れる空気の色が変わったような気がした。少女が急に切り出した話の意味がわからず、しかし彼女自身はそれの意味を把握しているであろうところが不愉快であった。仄めかしにはうんざりなのだ。
「おや、知らなかったのですか。ですが時が巡れば知る事になるでしょう」
随分勝手気ままに話すものであった。相変わらず喋り方は平坦であり、人間ではない何かと話しているような雰囲気が漂っていた。
「おいおい、勝手に納得して説明無しとは訴訟モンじゃねぇのか?」
「私にとって今は重要事項ではありませんので。もっと重要なのは、あなたとこうして偶然にも出会ったという事です。微かに感じられる濃密な魔力に引き寄せられた結果が今の邂逅なのです」
「そりゃ照れるな。出会っていきなり会えた事が重要とは随分ホットな子だ」
西に住むこの魔術的窮極は、持ち前の調子を崩さぬまま話したが、先程の仄めかし以降は警戒を強めていた。ここからは死角となる場所に止めていた車にブラインドで働きかけて鍵を開け、イメージ上でその中からケースを取り出した――これらの作業はポーカーフェイスで歯に挟まった肉を舌で取り出しているような感覚であった。
「そうですね、あなたに私の愛を一心に注いでやっても構いませんよ」
「なんだって?」
ただし、とその実体は右人差し指を胸の前で上向けて掲げた。
「私に協力するならば、その対価としてそれを払いましょう。あなたは階梯が上の実体と伴侶になった事を無数の現実に向けて誇示する事で己の付加価値を高めるといいでしょう、然るべき選択をしたその暁には、グリン=ホロスと共に人生を歩む栄誉を与えてやろうではないですか」
その名を聞き、ゲットー的なファッションの魔術師は驚愕させられた。あろう事か、あの慄然たる〈混沌の帝達〉の対極に位置する実体達の一柱ではないか。
メズとハサスのアレと被っているような気がしてならないが…。
どこにでもいるゲットー育ちの地球最強の魔術師が謎の人外美少女と出会って云々を書きたいだけの話だが、『ジャスト・ア・ドリーム』に即した切ないエピソードも考えている。




