RYAN:THE ELDER GOD#2
心に大きな傷を負った神は再会した美しい女と共に、雄大なグランドティトン国立公園へと遊びに行った。彼の罪は深いが、しかし他ならぬ神聖なる存在は彼に許しを与え、彼もまた神聖なる存在の『独り善がりな恩赦』を許したのである。ワイオミング州の広大で彩り豊かな自然の中で、今を楽しむ若い男女の物語。
登場人物
―ライアン・ウォーカー/ヴォーヴァドス…元〈旧神〉、元地球の守護神、クトゥルー達の同志。
―シャーロット(シャー)・ベネット・グラッドストーン…ライアンと数年ぶりに再会した女性。
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神。
現在:ワイオミング州、国道重複区間
人間としての生を送る元〈旧神〉ライアンはシャーが借りてきたSUVを二人で中途解約しに行き、それから彼らは徒歩でリバーハウスまで戻って来た。
「見たまえ、悪くはあるまい? なんてね」ライアンはふざけた調子で自分のアウトバックをシャーに紹介した。
「『古びた』って言ったからてっきりもっと古い型かと思ってたわ」
「ああ、それは初代の奴だね。俺はこっちの方が好きなんだ」
ライアンの九八年型アウトバックはドアノブ周りの擦り傷――長い事乗られている証だ――を除けば、洗車も度々行われているようで汚れも少なく、ぶつけた跡も無い。ライアンは『古びた』と言ったが、この年代の車でも手入れが行き届いていればまだまだ大丈夫だ。
ただし、本国日本では走行距離一◯万キロ、換算すると大体六万二千マイルで車を買い換えるという認識が根強く、ライアンはインターネットでそうした情報を見る度に、その日本車はまだまだ乗れるじゃないかと疑問に思うのである――無論の事、走行距離が十数万マイル台ともなればどこの国の車であろうと部品の交換が必要になるだろうが。
この深緑色をした五ドア式クロスオーバーSUVも走行距離はやっと一◯万マイルになった辺りで、ライアンは当時まだ走行距離九万マイルであったこの中古車を見た時は目を疑った。その分割高ではあったが、微妙な調子のスピーカーを交換すると遜色なくなった。スバルは山の多い田舎州で人気があり、ライアンにとってもこうした地形に適した車は都合がよいのであった。
二人は車に入り、ライアンが運転席、そしてシャーが助手席に乗った。十数年前の車にしてはシートも悪くはない。ライアンはMT車の発進作業を数秒で済ませて走り始め、リバーハウス前の車道へと出た。それから彼は数分でジャクソンホール空港前を通る国道重複区間へと出て北へと向かい始めた。
「今日は確かタガート湖でよかったっけ?」
「うん。昨日はジャクソン湖を見てきたから今日はそっちね。あっちは結構人が多かったから、のんびりトレイルを歩いて湖を見ようかなって」
「よしよし、了解」
ジャクソン湖まではそう遠くはないが、タガート湖はもっと近い。ゆっくり走っても所要時間は換算で数曲分だろう。ライアンは前を向いたままブラインドタッチでパネルを操作して曲を流した。するとシャーにも聴き覚えがあるが、しかし何の曲だったか思い出せない曲が流れ出す。
「俺この曲好きなんだよなぁ」短めに切った茶髪と茶色のかかった瞳が特徴的である容姿端麗なライアンは、人懐っこい微笑みを浮かべながら運転しつつ、一瞬シャーの方へと顔を向けた。シャーもライアンと目が合ったのは嬉しかったが、しかし何故か嫌な予感がしてきた。何せこの三枚目に甘んじるハンサムな田舎者は、明らかに抜けている部分があるからだ。そこも含めて彼の魅力ではあるのだが、しかしシャーは少し不安になってきた。そして重い曲調と歌詞を聴いていると段々この曲が何であったかがわかってきた。
シャーの疑惑を他所目に、ライアンはサビの部分を楽しそうに歌っていた。しかし曲はニッケルバックの『ララバイ』で、この曲は妻を亡くした男の姿を描いたMVとの相乗効果で凄まじく悲愴なものだった。もちろんライアンはそれに気が付いていない。やはり彼は抜けていた。
「あれ、この曲好きじゃなかった?」ライアンは不思議そうに尋ねてきた。
「そ、そうじゃないけど…あの、もっと明るい曲にしましょ!」察してよぉ…シャーはポーカーフェイスに必死だった。
「え? あ、そう? じゃあ…」
ぽちぽちとライアンはパネルを操作して曲を変えた。次にリタ・オラの『アイ・ウィル・ネヴァー・レット・ユー・ダウン』が流れ始めた。曲調も明るく、歌詞もいい雰囲気だ。
そしてジャクソンホール空港近くまで来た時に『アム・アイ・ロング』が流れ始めた。海外のアーティストの曲だが、その旋風はアメリカまで到達し、ビルボードでも上位にランクインしていた。シャーはなんとなく風景を見たくなったので車を路肩に止めてもらった。エンジンをかけたまま、暖かい社内でエネルギッシュでキゾチックな曲を聴いているうちに、気が付くと二人で笑顔を浮べて見つめ合ったり聳える山々の絶景を眺めたりしながら、一緒に熱唱していた。前向きでこれからも頑張ろうと思える曲であり、自信を持てるいい曲だ。
その次はフロリダ・ジョージア・ラインの『ディス・イズ・ハウ・ウィー・ロール』で、再び走り始めたアウトバック車内はとても明るい雰囲気だった。ジェイソン・デルーロとのフィーチャリング・バージョンであったため、途中歌詞に際どい部分があって二人で笑った。そして一緒にサビを熱唱しているうちに、ティートン・パーク・ロードを通ってタガート湖行きのトレイルに着いた。
そう、これが彼らのライフスタイルなのだ。
数分後:ワイオミング州、グランドティトン国立公園、ブラッドリー・タガート・ループ
この辺りは雪もかなり溶け始めており、二人は充分厚着をしていたからさして寒さは感じなかった。まだ朝だが、今日は気温も高めになりそうだ。昼間に歩くと汗をかきそうなので、そういう意味ではこの時間帯の散策は正解と言えた。
あと何ヵ月かすれば夏の野山を見られるが、冬の終わりのグランドティトンも趣きがある。都会暮らしのシャーには肌寒いかも知れないが、確かに春の気配が感じられる。木々の向こう、西方の彼方にはネズ・パースなどの山々が聳え立ち、朝のオレンジがかかった空の下でそれら雪被りの山々が輝いて見えている。
二人は休みを取りつつゆっくりとタガート湖を目指した。この分だと隣のブラッドリー湖に行く時間さえもありそうだ。
「可愛い女神よ、寒くはないかね?」
「もう、やめてったら。でもありがとう、寒くはないわ」
前を歩くシャーは笑いながら振り向いて後ろ向きに歩き、それから厚手の手袋をはめた手を胸の前に掲げて大丈夫な事をアピールした。その姿を見て、まさに女神だなー可愛いなーとライアンはうきうきしている。
「疲れは?」
「まだ全然大丈夫ね。昨日もそんなに疲れなかったし」
まだまだ冷え冷えとしているが、少しずつ気温が上がり始めており、湖に着く頃にはもっと暖かくなっているはずだ。
「ねぇ、ちょっといいかな?」シャーが少し遠慮がちに尋ねる。
「何だね?」ライアンは優しい声で答えた。
「その、前世って、どんな感じだった?」
ライアンは渋い顔をした。何せ前世ではかつて絶望的に穢らわしく、その姿を見るか匂いを嗅ぐかするだけでも常人であれば自殺してしまう〈旧神〉のメンバーだったからである。それはまさに地獄めいた事実であり、収監された狂人の奔放な妄想に登場する名状しがたいイメージに腐敗した死体の山を足したものよりもグロテスクであった。
それら光り輝く黯黒神はそれ故に、その存在を認知している知的生命体の大半から禁忌として煙たがられているのだ。
「ごめん、嫌なら無理に言わなくていいわ」
「大丈夫だ。もっと詳細に話そうではないか。私は紛れもなくあの腐れ果てた邪神どもと同類であったから。
「奴らは、そして私はそもそもどこで生まれたかを忘れた。どこの宇宙、という意味合いでだ。奴らは次第に狂い始め、終わりなき輪廻へと旅立った。私は奴らの方針、すなわち異種族の排除へと反対し、リーダーの男と言い争ったものだ――私は元々どことも知れぬ別の宇宙の地球に生まれ、日本で暮らしていたと思う。名は何だったか…まあそれは構うまいか。そして奴らは数え切れない程の長い年月を生き長らえた。まだ初期の記憶は完全には思い出せないが、私も結局は奴らに洗脳されて、共に〈旧神〉へと登り詰めたのだ。恐らく長い年月を経て古ぶしき存在となったために〈旧神〉なのだろう」
風はほとんど吹いておらず、とても静かだ。
「その後は酷いものだった。我々はまず自らの宇宙に存在する異種族との戦争を始めた。あれは確かナマコのような異星人を襲った時であったか。振り下ろした腕が背中を突き破って返り血がかかったのをはっきり覚えている。腕虫のようなインセクトイドを襲った時はまず大人を皆殺しにしてから怯える子供達の皮を剥いで肉を喰らった。どちらもとても美しい種族であったが…記憶を何度消しても忘れられぬ。だが無条件ではなかったな。何か異種族を悪と決めつける基準があったはず、いずれ我が友ナイアーラトテップに尋ねよう…彼は何かを知っている可能性がある。
「そしてそう、この宇宙に〈旧神〉の魔の手が伸びた。その汚濁を撒き散らすグロテスクさによって流血を齎し、美麗なるクトゥルーやハスターの親族を皆殺しにした…もしかすればクトゥルーの子供はまだ生きているかも知れないが、希望は薄いな。しかも彼らの場合、それを崇拝する〈人間〉――まあ知的生命体という意味だ――を根絶やしにされてしまっている。幾ら洗脳されていようと、私が加担した行為は決して許されない。そして我々は無限に増え続ける諸世界を守護するアザトース率いる最も神聖な諸力に反逆したのだ。アザトースとヨグ=ソトースは最果てに追いやられ、全ての時空に身を接するヨグ=ソトースと被創造物の神聖なる繋がりとが断たれたようだ。そしてシュブ=ニグラス、山脈のごとく蠢くこの美しい女神もまた、姿を消した。もしかしたら滅ぼされたのかも知れん…アブホースとウボ=サスラ、そしてハイドラはどうなったのだろうか? 私に言えるのは、アザトースと六柱の創造主達は追放か抹消されたという事だ…ナイアーラトテップを除けばな」
「私は大凡を思い出した――己が善良な人々にどれだけの暴虐を働いたのかを。故郷の宇宙で私が殺戮をしていた頃、とある惑星で一人だけ生存者がいたと思う。彼は優れた才能を持つ魔法使いで、優れた科学者でもあった…もう随分昔の事だから遥か昔に亡くなったはずだが、それでも謝罪をしたい…例え自己満足であろうと謝らなければならない。我々は諸世界における最もグロテスクで邪悪な悪鬼だからだ」
言い終えたライアンは、早朝よりは随分気分が優れているようにも見える。表情は深刻そうだが、それでも一片の希望が見て取れる。
「あなたの苦しみは多分私なんかにはわからないでしょうね。そこまで多くの命を奪ってしまったなんて、しかも自分の意志に反して」
「それは私が罪から逃れるための言い訳でしかない。私が悪いのは事実だ」
「そうね。そうかも知れないわ…私は別に、こんな時あなたの心を穏やかにできる一言を言えるわけじゃないの。私にはあなたを癒やす事ができないかも知れない。でも忘れないで、あなたがよければ、私はあなたと一緒にいるから」
人間に生まれ変わった〈旧神〉ヴォーヴァドスは、この話題を始めてから初めての微笑みを見せた。雪が溶けるように、少しずつ苦しみから解放されつつあるかのようだ。
「それだけでよい。君がいれば私はそれで。私はこれからも苦しみ続けるだろう…だが君といる事が許されるなら苦しみに耐えられる。さあ、行こうか」
一時間後:ワイオミング州、グランドティトン国立公園、タガート湖
それから彼らはひんやりとした水辺に辿り着いた。湖畔には誰もいなかった。陽光を波立つ水面が反射し、山々の反対像が湖に映っていた。誰もいないのにこの絶景を堪能できる幸せを噛み締め、そして少し長めのトレイルを歩いて来た達成感を実感し、シャーはとても満足そうだった。
「俺のお悩み相談だけじゃかわいそうだしね」ライアンは大きく深呼吸し、森の空気を味わった。「君にも楽しんで欲しいし、とりあえずのんびりしますか」
「でもあなたにも楽しんで欲しいって思うのは、贅沢?」
シャーは隣にいるライアンの手を握った。
「え、マジ? 俺こんなにいい思いしていいの? ありがとよ、ナイアーラトテップ!」
寄り添う二人の前には湖と森、その背後には雄大な山々が広がっていた。白い山々を眺めて、二人は偶然再会できた喜びを味わい、それから思いっ切り探索と絶景を楽しんだ。
昼:ワイオミング州、グランドティトン国立公園、ブラッドリー湖
「そうか。私も次は参加せねば…」
ライアンとシャーは隣のブラッドリー湖にも訪れた。それ程タガート湖とも差はないが、こうして色々見て回るのも楽しい。若い頃というものは活力があって、人生を楽しみたいのであればこの時を逃す手はないのだ。
リュックに入れて持って来ていた昼食を食べ終えた頃、ライアンの携帯が鳴った。出てみると三本足の神であった。彼が携帯を使う姿を想像して苦笑しつつ、ライアンは『二人の時間を邪魔して申し訳ない』というかの神の謝罪の前置きを、この現在の生にて手に入れた田舎者の寛容さで受け入れた。まあまあいいって、今彼女はまだ飯食ってるし。
「しかし君には新たな人生がある」
「それじゃ駄目だね。俺はケジメをつけなきゃならない。俺はあのグロテスクな神々と親友だったんだ。そんな俺の悪行も、ヴォーヴァドスという穢れた名前も全部、新たな同志として受け入れてくれたクトゥルー達にかけて、俺は絶対あいつらを阻止する」
暫く間が開いた。それからナイアーラトテップは答えた。
「君の決意はわかった、それは嬉しい」
「そうそう、一つ聞いていいか?」
「ああ」
「〈旧神〉はどのような基準で異種族を殺戮したのだ?」
ナイアーラトテップがその質問に答えた時、ライアンは己が聞いた内容が信じられなかった。というより意味がわからず、漸く理解した時には猛烈な嫌悪感に襲われた。それはまさに妖艶なる白蛆の魔王ルリム・シャイコースのにやにや笑いのように厭わしく、気が付けば魂を収奪されかねない程だった。
「実は新情報がある」
「どんな?」
「君と同じ宇宙で生まれた青年を見かけた。とても美しく、正義感が強い。同胞を全て失ったという」
ライアンはそれを聞いて、あの唯一の生存者が脳裡に浮かんだ。
「彼は今どこに?」
「もう去っていった。だがいずれ君とも遭遇すると私は思っている」
「…」ライアンは声と溜め息の中間的な音を漏らした。
「大丈夫かね?」
「大丈夫さ。もし会ったらちゃんと謝らないと。殴られるか、殺されるかもしれないけど」
「恐らく許してくれるだろう。ではライアン、午後も雄大な自然を楽しんで欲しい」
「ああ、知らせてくれてありがとう。じゃあね」
振り向くとシャーが聴き耳を立てていた。
「あ、ごめんなさーい…」そそくさとしているシャーに、ライアンが走って迫った。彼は両手を頭より高く掲げて、伝承の魔物を戯画化して模したのである。
「悪い子は風のイサカに連れ去られるぞ!」
わーわーと彼らは湖畔で子供のようにはしゃいで、追いかけ合ったりじゃれ合ったりした。とても楽しそうな、春に似合う満開の笑顔が咲き誇っていた。
ライアンは、自分のような掠奪者にはこうして笑ったり幸せに浸ったりする事さえも許されないのかも知れないと思っていた。確かにかつて、洗脳されて大量殺戮に携わった。だが宇宙的な角度の窮極的な美に彩られた三本足の神ナイアーラトテップ――この世界の設計者達の一員、すなわち被創造物を心から愛する創造神――の許しが出たので、今日のところは思い切り楽しませてもらった。
そう、これが彼らのライフスタイルなのだ。
楽ですね、他の話との繋がりをほとんど意識しないで済む作品は。世界観構築の話を3話続けて書いたので今回は気楽な一本を。