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FANCY NOVELS  作者: ハゲゼビア
3/302

STRANGE DREAMS

 ニューヨークで暮らす普通のクライムファイターが奇妙な夢を見始めるようになる。その夢はただの夢ではなく、太古の冒涜的な実体の姿をちらつかせていた…。

登場人物

ヒーローチーム『ネイバーフッズ』

―ジャンパー/ベンジャミン(ベンジー)・ライト…ニューヨークのクライムファイター。

―ボールド・トンプソン/ロバート・マイケル・トンプソン…人類最強クラスの強力なテレパシー能力を持つヴァリアント。


宇宙の住人達

―ナイルズ…宇宙の危機に立ち向かうヒーローチーム『プロテクターズ』のメンバー。

―カディ=イラ・ノス…多種族連合組織パン・ギャラクティック・ガーズの元隊員にして賢者。

―パラディン…パン・ギャラクティック・ガーズで尊敬を集めるエリート。



 我々は坩堝(るつぼ)のようには混ざり合わないが、美しいモザイク模様のようではないだろうか。それぞれの民族、それぞれの信念、それぞれの憧れ、それぞれの希望、そしてそれぞれの夢。

――ジミー・カーター



現在:外宇宙、PGG宙域


「図らずして巧妙に隠された真相の裏に潜みながら、獲物を前に歓喜を(あらわ)にする白蛆の魔王のごとく、大口を開きて君の事を嘲笑う慄然たる〈真実〉を知ってもなお、君が魂を砕かれる事も精神を引き裂かれる事もなく正気を保っていられる事を、私は心から願っている」

 数時間前に、この美しき穏やかなる神が遠回しな婉曲気味に語った事柄の内容はベンジー・ライトにしてみれば全くもって理解不能のものであったとは言えども、しかし全ての真相が明らかとなった今では、かの神が語った話の内容が骨の髄まで染み込み、彼の心身をがたがたと揺さぶっている事を否応なく感じざるを得なくなってしまった。今まで見てきた夢は地獄めいた悍ましさに彩られた至高の恐怖体験だと信じて疑わなかったが、しかしベンジーは今、そうした視覚的な恐怖が真の恐怖の前では如何に低次元な体験であるかを思い知ったのだ。〈悪夢〉という四次元の断面に過ぎぬ三次元を、遥か無限の高みから見下しては嘲笑う〈真実〉という窮極の次元を意識した事で、ベンジーは己が奇遇にも垣間見てしまったものの持つ食屍鬼めいた獰猛さが心へと食らいついてきては、胸のむかつくような恍惚の表情をしていると考えるようになった。

 しかしやがて彼は、自らが未だ生存しており、その精神も壮健そのものである事に気がつき、アーカム・アサイラムに収監される狂人さながらのグロテスクな夢想から帰還する事ができたか、あるいは何かの作用でそうさせられた。

 崇高なる神は動揺を隠せない様子のベンジーを見て心を痛め、声をかけようとしたものの暫し硬直するに至った。心に突き刺さる無慈悲な〈真実〉の刃を引き抜く真似をする事で、余計に彼を混乱させてしまわないだろうか。しかし結局神は声をかける事を選んだ。

「恐れていた事態よりは遥かにましというもの。されど君の心のざわめきは今や吹き荒れる宇宙ジェットのごとし、君の心の中に惑星でも存在していれば容易に砕け散ろうて。しかるに…」

「…何だい?」まだ落ち着いたわけではないが、ベンジーは返事をした。

「君は強い心を持っているはず。それに君は真実を垣間見たであろう。いかなる悪逆の限りが尽くされたか、その残酷極まりないグロテスクな真実を、君は正しい解釈によって理解したのだ。違うかな?」

「だからって、俺にどうしろってんだ。俺は日々生きてくだけで精一杯だぜ」

 不思議な事なのかも知れないが、しかし確かに、ベンジーの包み隠さぬ本音を聞いて、かの神は微笑んだような雰囲気を見せ、返答を待つベンジーをはっとさせた。

「別に私は君に、これからあの太古の邪悪達と戦って欲しいと頼みたいわけではない。しかしこれだけはわかって欲しいのだよ。真の邪悪とは…」



二ヵ月前:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ


 ぼやけた夢。現実。いや夢か。いいや現実だ。

 ある朝、ベンジャミン・ライトとしてこの世に生を受けて何十年かの年月を過ごしてきた青年は、曖昧な意識から覚醒したままに任せて一気に上半身を起こした。何かの音が聴こえ、まだ頭が完全にはっきりしているとは言い難いが、先程までのような一向に起きられそうにない状況、夢とも現実ともつかぬ状態からは何とか脱する事ができた。何の音だろうかと彼が周りを見渡すと、彼の型落ちのパソコンからエンドレス再生にしておいたYoutubeの動画の音が小さく漏れていた。

 ベッドから立ち上がったベンジーは洗面所に向かって歩き出した。洗面所に着くと鏡に映った己の酷い表情が目につき、それを振り払うように勢いよく蛇口を空けて水を出すと、蛇口の下に差し出した手が水を反射して自分の着ているシャツにしぶきを飛ばすのにも頓着する事なく、顔を洗った。何故か一瞬、己の肌が他者のものであるかのような感覚を覚えてぞくりとした。無論、鏡には彼自信の姿が映っているだけだった。やがて水の出しすぎたと気付いて、それに洗顔はもういい――彼は顔がべたつく方ではなかった――という事で蛇口を閉めて冷蔵庫に向かった。冷蔵庫から牛乳を取り出し戸棚からはオートミールを取り出し、それらを持ってきた器にそれぞれ入れてから着席しようとして、そこで躊躇ってやはりベッドに向かった。どうせ誰も見ていないのだからとベッドに座りながら朝食を食べた。まだ点けっぱなしのパソコンから、エミネムの活力に満ちたラップが流れているのを聴いている内にささやかな朝食が終わると、また次の行動を取るために立ち上がって台所の流しに向かった。こうして行動し続ける事で、彼は昨晩の事を考えないように努力しているのだ。何かの拍子に思い出すと先程のようなぞくぞくとした不愉快な感覚に襲われる事になる。今日もまたグレッグに心配されるかも知れない。

 動画の中で、光の射す暗い部屋の中で歌っているリアーナのフックを聴きながら着替え終えて、必要なものを全て持った事を確認したベンジーはパソコンの電源を落とし、鍵を手にして部屋の玄関へと歩いて行った。


 ベンジーが働くカフェはおよそイースト・ヴィレッジの六丁目東三四◯番台の辺りに位置し、彼の暮らすアパートはカフェからほんの一三ヤード程度しか離れておらず通りから見て同じ側にある事もあって、少なくとも遅刻の言い訳に交通関係の話を持ち出すのは困難を極めていた。もっとも、ベンジーは勤務態度もよく、遅刻や欠勤をした事など一度もなかったため、店側からの評価は高かった。

「おはよう」

「おはよう、ベンジー」

 店には既にグレッグが来ていて、開店の準備をしていた。

「ベンジー…酷い顔色だな」ベンジーがある程度予想していた通り、グレッグは彼の顔色の悪さを指摘した。

「まあね」ベンジーはどこまでも忌々しげだった。あのような夢を見るのはもううんざりなのだから仕方ないのかも知れないが。

「もしかしてまたあの夢か?」

「ああ、俺はひょっとして呪われてるんじゃないかって最近ちょっと不安になってきたよ」

「呪いか。そりゃ随分非現実的…って事もないか」そう訂正したグレッグの呟きに、内心ベンジーは頷いていた。

「超能力だとか魔法だとか、世の中おかしな事が実在してるもんな」

 グレッグにとって面白い話題だったのか、彼の声の調子が変わるのがベンジーにもはっきりとわかった。特にネイバーフッズときたら、とグレッグは髪が後退し皺が増えつつある丸顔――グレッグはよく自分がジャスティン・ビーバーの遠い親戚だと主張して笑いを誘っているが、ベンジーから見ればグレッグの鼻や目元はフランス人風である――に笑顔を浮かべて付け加え、ベンジーはそれに頷いて同意しながらロッカールームに入っていった。そしてドアを閉めてこう思った、俺はそのネイバーフッズのメンバーだけどな!

 誰もいないロッカールームで得意げな顔をしながら店のユニフォームに着替えていたベンジーだが、こうしてどうでもいい密かな自慢に気を向けた事で、己を苛む忌々しい悪夢関連の事柄が多少なりとも忘れられた事に気が付いた。ひょっとしなくても、今日ぐらいは大丈夫だろうと確信し、それから今日も仕事を頑張ろうと心に決めた。

 ロッカーに入れてある手鏡に映った彼の顔は、さっきと比べればかなり表情が和らいで顔色も良くなったかのようにさえ思えた。今日は金曜だから土日に診察してもらおう。診察帰りにセントラル・パークで一汗かけば尚の事よし。これがベンジーの長所であり武器でもあった。辛い現実に直面しても、何かの希望を見出してそこを突破口にする事ができる。思春期もその後も、彼は自殺を考えた事が一度もなく、それが誇りの一つでもあった。

 もしもそうした、五大湖周辺で鍛えられた真新しい鋼鉄のように強固な精神的強みをベンジーが持っていなければ、夢が潰えたあの高校時代に壮麗なエンパイア・ステート・ビルを階の途中から外に出てよじ登り、WCBSーTVやNY一などの注意を引き、インターネット上で誰かが情報を拡散し、そして最寄りの分署から来た警官の必死の説得も虚しく、飛び降りて死ぬ事を迷わず選んでいた事だろう。



数年前:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ某校


「凄いじゃないか、どんどん伸びてるぞ」

「そりゃどうも」

 講師のティムソンはここのところずっとベンジーに気をかけてくれていた。というのもこれまでさほど目立ってなかったベンジーの秘めたる非凡さを目にしたからで、もっと早くこの有望な一一年生に注意を向けていればよかったとバーで同僚にこぼすぐらいだった。

 ベンジーの方は己が好きで続けてきた体操競技で、今になってその才能が評価される事になるとは思っていなかった――別段そこまで自信があったわけではなかった――事もあり、こうして正当な評価を受けるとそれはそれで幾分気恥ずかしいものがあった。貧しく日陰で生きてきたと自認する分、待遇の変化は彼の多感な心に大きな影響を与えた。褒められた事で恥ずかしそうに、そして恥ずかしがっている事を更に恥じるという未成年らしいところを見せたベンジーを見て、ティムソンも体毛が白くなり皺の増えてきた褐色の顔をほころばせた。

「その…」するとベンジーは少し言葉を詰まらせながら語り始めた。「知ってると思うけど家が貧乏で。たまに親父がコニー・アイランドへ連れてってくれたけどさ、それも俺が成長するにつれて行く機会も減った。最後に行ったのはいつだったかな。だから時間が取れた時はそれより近場のセントラル・パークでよく遊んだんだ。もちろん今でも遊んでるぜ? 親と遊ぶのがダセェと抜かす奴もいるけど、そいつは多分クラックのやりすぎで頭がふやけてるのさ」

「ふむ。それで何が言いたいんだ?」

「おっと。ニュースのレポーターみたいに話慣れしてないんだから大目に見て欲しいな。俺が言いたいのはさ…他にする事がなかったから次第にセントラル・パークで遊ぶようになって、そのうちオリンピック選手の真似事を見よう見真似でやり始めたんだ」

「モーガン・ハムとか?」

 いや違うよ、とベンジーは否定して続けた。

「親父が録画してたテープの中にベティ・オキノの演技が映っててさ」

 これを聞いてティムソンは吹き出しそうになった。そして笑いながら問いかける。

「って事はお前さんの競技人生は美脚目当てから始まったのか」

 対するベンジーもこれには笑った。

「ハハッ、酷い事言いますね。まあ否定はしないよ、実際のところ。まあそれはともかく、芝生の上で色々やってたら案外上手くできるようになってさ。正式に始めたのは一二歳の頃だな。付け加えると、こんな話したのは親父を除けばティムソンさんが初めてだな。仲のいいダチもみんな俺みたいに貧乏だしそれどころじゃない。ホワイトもブラックもラティーノも、貧乏ならみんな同じだと思う」

 ティムソンも、こうした子供達の境遇はわからないでもなかった。

「俺もブロンクスで危ない目にあったりして育った。その俺が今もこうして生きている。だから俺はこう思うんだ、生きていれば何かいい事があるってな」

「あ、それ親父も似たような事言ってたよ」

 ベンジーは今日まであまりティムソンと話し込んだ事がなかった――内部監査のタッカー警部補みたいな人物だと勝手に思い込んでいた――が意外と好感の持てる人物だという事がわかり、少し人生が楽しくなった気がした。



同時期:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ、トンプキンス・スクエア


 幼い頃からベンジーは貧しい環境で育った。母親は彼を産んだ際に力尽きてしまい、父親だけが彼にとっての家族だった。代わり映えせず栄養価だけを重視した食生活で太らずに済んだのは、体操競技で体を絞っていた事が大きいだろう。彼が父親と一緒に現在住んでいるアパートに越してくる前は、そこから東に三ブロックほど行った所で暮らしていた。かつてアルファベット・シティ(アベニュー名が西から順にABCDとアルファベットが振られていた事に由来する)と呼ばれていたそこは、今ではそこそこ治安の改善が見られているものの、かつてはマンハッタンでも屈指の危険なエリアとなっていた歴史がある。歴史的経緯から住民は有色人種の比率が高く、今では白人も増えてきているが、人種構成そのものは多彩と言ってよい。

 アメリカ合衆国の歴史についてはベンジーも学校で習っていたが、しかし彼はホワイトだとかブラックだとか、そういった事を意識してきた事はあまりなく、黒人を始めとした友人達と交流する事が多かった。ベンジー以外にも白人の子供はいたが逆に白人がここではマイノリティな事もあってか、やはり彼らも人種的な隔てなく馴染んでいる子が多かった。

 そしてその日もベンジーは学校帰りに友達といつものようにトンプキン・スクエアでたむろしており、特に際立った楽しみもない彼らにとっては仲間と共に時間を共有する事が何よりの時間潰しになっていた。

「なんだお前エミネム聴いてないのかよ」

「おいおいヒーマン。お前ホワイトならエミネムを確実に聴いてると思ってたのかよ。じゃあお前はサミュエル・L・ジャクソンと友達かって聞かれても困るだろ?」公園の木の近くで固まっている一同に笑いが起きた。

 こうして日々下らない話をして笑うのが彼らの空白の多い心を満たすのに最適だった。ヒーマン――テレビアニメ『ヒーマン』に憧れる体格のよいブラック――、ジム、ジャック、オリーとは特に付き合いが長く、その日も一緒だった。ヒーマンとジムとジャックはブラック、オリーはラティーノで、皆それぞれ生活は大変だったが、それが彼らの団結を一層高めていた。

 そんな彼らに、文字通りのSOBが絡んできたのは全くの不幸と呼んで構わないだろう。

「おおっと、ヘボギャングスタ気取りのノッポとホワイトソース添えじゃねぇか」

 下衆を思わす声が聞こえてきたので振り向くと、六ヤード先に一同が見たくもない顔が見えた。ダ・ガンを自称する、ベンジー曰く『恐竜時代に脳を置き忘れて来たボケ』とその取り巻きの見下すような視線は、ベンジー達のまあまあよかったその日の機嫌を一気に華氏◯度まで下げた。

 表情を憤怒に染めて殴りかかりそうになったヒーマンに、ベンジーがなだめながらほっとけよと言うと、それにダ・ガンが突っかかってきた。

「ハッ、取り入ろうと頑張ってるプレスリーは引っ込んでろよ。大体お前らもヒスパニックだのホワイトだのと仲良くしやがってよ」

 発言の前半部分は、ダ・ガンにとって最大級に面白いジョークなんだろうなと内心憐れみながらベンジーは言い返した。それにオリーは寡黙であまり悪口に反論したりしないタイプだから、自分が代弁してやろうと彼は思ったのだ。

「おい腰抜け、明日俺は練習がねぇ――」

「こいつピッチリタイツ来てチアガールみたいな事やってんだろ? ホモ野郎だぜ!」

 馬鹿の声は大きく、ベンジーの発言を遮って仲間内で爆笑し始めた。しかしそれでベンジーの怒りが消えるわけでもなく、むしろ更に大きくなった。オリーの前で『ホモ野郎』と抜かした虫けらを一喝してやりたくなったのだ。つかつかと歩み寄るベンジーにダ・ガンより先にその取り巻きが気付き、ダ・ガンに知らせた時にはベンジーが六ヤードの距離を詰めて目の前まで歩み寄ってきており、ずいと息がかかりそうな距離で向けられたベンジーの顔がダ・ガンを威圧した。ベンジーは体を鍛えていて、ぶかぶかの服の下にある筋肉の鎧が時折自己主張していた。

「そのジーザス並みに神聖なる体操の練習が明日はねぇ…おい、自分では何もできねぇカス野郎。テメェに度胸があるなら明日学校が終わったら五時に、ここに一人で来いよ。俺は一人で来て『ディア・ママ』でもハミングしながらテメェが膿の溜まった脚でヨロヨロやって来るのを六時まで待ってやる。大体何が『ダ』(『ザ』と同義)だよボケが、『イン・ダ・クラブ』聴いてる時にお前のツラ思い出してムカつくんだよ」

 ダ・ガンの目に、一瞬恐怖の色が見えたのをベンジーは見逃さなかった。ダ・ガンは目を逸らして「クソ白人が何か言ってるぜ」と擦り切れたレコードのような捨て台詞を吐きながら取り巻きと共に公園から出て行った。

「ムカつく奴だぜ」

 一番最初に口を開いたのはヒーマンだった。

「あいつはブラックとしかつるまねぇ」

 野球帽を被り直しながら、呆れたようにジャックは吐き捨てた。

 ジムは昔あのボケによく嫌がらせを受けたと、忌々しそうにしていた。

 オリーが心配になったベンジーは彼に声をかけた。

「おいオリー、あんなクソの言う事は気にすんな」

「どうでもいいね」

「ハッ、まあお前はそれでいいんだよそれで。ジャック、あのボケはマジでどうにかならねぇのか?」

「あのボケと来たら口を開けばブーマーとのコネの話だからな。結局あの甘ちゃんは自分じゃ何もできねぇんだよ。一発痛い目見りゃわかるだろうな」

 地元でも名の通っているブーマーとの関係は脅し文句にはなかなかのものだが、確かにダ・ガンとブーマーが一緒にいるところは何度か目撃されている――二人の間柄は不明だ。ベンジーはダ・ガンがブーマーの専属コックサッカーだと思っていた――し恐らく事実なのだろう。それでも、彼らは気に入らなければダ・ガンを殴り飛ばすつもりだった。

 鬱陶しい輩のイメージを頭から追い出そうと努めていたベンジーは、唐突にそうだ、と思い出したように呟いた。

「おう、そういやジムの妹の成績がすげぇって聞いたんだが」

 随分唐突だったため、ジムと一同は面食らったように黙ったが、やがて困惑から立ち戻ったジムが口を開いた。

「ああ、まあな。妹はウチの希望みたいなもんだ。俺も高校卒業したら、働いて妹の学費稼いでやりたいな。いい学校に行って欲しいし」

「それいいな…俺もそういうの目指そう」

「おいベンジー、お前一人っ子だろ? 義理の妹でもできたのかよ」とヒーマン。

「いや、俺も体操で成績残せばスポーツの奨学金でも出るんじゃねぇかって。そっから頑張ってプロ目指して、そんで親父に…その、ああ恥ずかしいな畜生」

 ボストンで水揚げされたばかりの瑞々しいロブスターのように若々しく爽やかな一同の笑い声が、斜陽のマンハッタンの片隅に響き渡った。



三ヵ月前:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ


 飲みに行くと出所していたダ・ガンに出くわしてしまい、ベンジーは疲れが更に溜まった事にうんざりした。あの腰抜け野郎が。彼は一二時に帰宅すると、すっかり落ちぶれた旧敵の醜態を頭から追い出しながら、明日に備えて特に何をするでもなくそのまま眠りに就いた。


 気がつくとベンジーは今まで見た事もないような場所にいた。足元を見ると磨きぬかれた未知の黒っぽい岩が地面を覆っていた。恐らくは歩道なのだろうかと考えを巡らせて、そしてどうせ夢だろうと思いながらも、しかしどこか心騒がせる感覚が彼の心に一筋の影を射していた。星明かりと弱々しい月明かりが周囲の状況を朧げな光景をベンジーの視覚へと訴えかけていたが、ぼんやりと見えるそれらの光景をベンジーが杓子定規で考慮した時、彼はどうしても解せぬある点に気が付いた。専門知識のない者にもはっきりと高度な人工物ないしは建築物が立ち並んでいるのだから、こうも周囲が闇の帳に包まれているのは些か不可解な事ではないか。光源がなければ夜道は暗くて仕方がないだろうに。ならばこの夢に出てきている闃とした未知なる場所は、一体どのような土地なのか。

 幼い頃から星がよく見えない環境で育ったものだから、ベンジーは星空が大体どのようなテンプレートを形成しているのかなど知る由もなかったので、漠々と推測するのが精々ではあったものの、己が恐らくは別の惑星に存在しているのだろうと結論つけた。もちろんそれらの根拠は彼の薄弱なSF映画の知識に裏づけされたものだから、確固たるものではないが、次に月へと目を向け、そして確信に至った。地球から見える月にしては大きく、表面の模様も雑誌等で見かける見慣れた月の表面とは明らかに違っていた。ここは地球と同じく単一の衛星を持ちながらも、しかし地球から遠く離れた異星なのではないか。ベンジーは幅約七ヤードの道を渡って道に面した建造物らしきものへと近付いたが、その意匠はよくわからないとしか言いようのないものだった。その細部たるや、大してその分野の知識がない彼をして未知だと結論付けさせるものであり、どこの異界のものともつかぬ幾何学に基づいた表面の模様から、恐らく人類とは何の接点もないだろう事が漠然とした奇妙な確信をもって理解できた。専門知識は別としてベンジーの明敏さは並み以上のものがあって、それ故にこの夢とは言えど明らかに尋常ならざる異次元じみた体験に彼が放り込まれたところで、軽々と自失呆然の有様を晒すには至らなかったのだ。

 ベンジーが建築物の、近寄る事でようやく斜めになっていると気付けるぐらい垂直そうに見えた壁の斜面をなぞると、予想していた粗雑なコンクリートのざらざらとした感触ではなく、またも形容に困ってしまうような漠然とした感触で、そこにひんやりとした触り心地が加わっていた。暫しその手触りを調べていたベンジーの耳に凄まじい金切り声のごとき音が聞こえ、もしや何かの生き物がいるのだろうかと壁伝いに声のする方へと歩み寄って行った。近くに何か未知の実体がいる事による興奮や緊張で神経が高ぶり、ここがブロック構成の街かはわからないにせよ、恐らくニューヨークで言うところの同じブロック、いやそれどころか通りの反対側ぐらいの至近距離から聞こえてきたと、彼の頭脳はコンピューターさながらの忙しい情報処理を繰り返していた。やがて道の両側それぞれに今彼が触れているような建築物が長々と続いている事がわかり、もしかすると城壁のようなものに挟まれた道だろうかと推測しながら歩みを進めた。上を見上げたが、星の隠れ方からして少なくともアパートの二階よりは高そうだった。やがて淡い緑の光が微かに洩れる窓のようなものが見えてきて、先程の状況から察するにこの妙な色のガラスらしきものの中にある空間から謎の絶叫が聞こえてきたのだろうと考えた。

 一体どのような光景を目にするのか想像もつかず、胃がきりきりとしていた。しかしベンジーは思い切ってその内部を覗き込んだ。するとその暗さに目が慣れてきた事で、己が見ているものがいかなる類のものであるかを脳が理解し、当惑極まりないながらも夢の中で気を失ってしまった。


 些か心騒がせる眠りから覚醒したベンジーは、己の良好な視覚能力によって熱した鉄印でするかのように脳へしっかりと焼き付けられたあの光景を思い出した。彼はひゅうひゅうと慄然たる冷風が吹き抜けていくのを感じたが、それが実際には錯覚で、本当は先程の尋常ならざる光景への恐怖から、これまでに感じた事もないような悪寒に身を震わせたのだと、恐怖で健全な思考能力が低下した頭でぼんやりと悟った。いかに寒いニューヨークの冬であろうと、このような性質の寒さを感じるはずがないからだ。

 夢の中でベンジーが気を失う前に見たものは、弱々しい淡い緑の光を浴びておりその正確な色は不明だったものの、何本もの蠢くものが見えた。それはどこかプランクトンを思わせる半透明の組織を持っており、更に凝視した事で半透明の蠢くものは上下が軽く潰れた球形から生えている付属器官である事がわかった。その表面にびっしりと生えた鱗はホラー映画に出てくる腐敗して蛆に覆われた死体を想起させる悍ましいもので、どうしてそうした考えと結びつけてしまったのかはベンジー自身にも当初わからなかったものの、やがてその理由がわかった。ベンジーは先程の体験を、勇気を振り絞って更に思い出してみた。気絶する瞬間、悍ましい付属器官を生やした実体の上部にぎらつく何かが見え、それはよく見ると厭わしい一個の複眼で、その異様にぎらつく眼光が同じく淡い緑の光を浴びる二◯インチ程の、場違いな愛らしい造形のぬいぐるみじみた謎の実体へと向けられていたのだ。そしてその複眼に浮かぶ感情は恐らく、往年のホラー映画の名作さえも霞むぐらい底冷えのするような、悪霊めいた激しい負の感情であろう事を推測してしまったのだ。



ベンジーとティムソンが話し合ってから一年後:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ某校


 ベンジー・ライトの才能に目を付けたティムソンはコネからNCAA(全米大学体育協会)に話を持ちかけ、ベンジーに対するスポーツ選手奨学金を取り計らってくれるよう頼み込んでいた。ベンジーは床競技で素晴らしい才覚を示しており、将来有望に見えたため協会側も乗り気になってきていた。恐らく彼は良い大学に行けるだろうと、誰もが思っていた。

 ベンジーはこの時彼なりの夢を抱いていた。このまま才能を発揮して上手くいけば、体操選手になって父親の負担を減らせるようになるかも知れない。そうなれば最高ではないか。一一年生の頃、あのトンプキンス・スクエアでの無駄話から真剣に考え始めた夢が、今明確なヴィジョンとして彼の頭の中で組みあがっていた。

 華麗に床を蹴って錐揉みするように宙で回るベンジーの演技に暫し見惚れていたティムソンは、はっと意識を戻してからベンジーに声をかけた。

「昨日より良くなってるんじゃないのか。いやきっとそうだ」

「それもこれも先生のお陰だよ。ありがとうございます、サー。マジで感謝してますよ。俺みたいな奴でも夢が見られるんだってね」

 タオルで汗を拭うベンジーの均整の取れた肉体がホールに差し込む斜陽を受けて、堂々とエーゲ海を臨む削り出されたばかりのギリシャ彫刻のごとく美を放っていた。

 故にその後、あのような事件が起きてしまったのはあまりにも残酷で苛烈な運命なのではないかと、これがいかなる冒涜への罰なのかと周囲の人間はその理不尽さを勘ぐらざるを得なかっただろう。



同時期:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ、アベニューB路上


「まずもってベンジーの激怒と暴走に、ある程度の正当性ややるせなさがある事を認識しておかなければなるまい」

 ネイバーフッズの正式メンバーで地球最強クラスのテレパシー能力を持つヴァリアント『ボールド・トンプソン』はベンジーと飲んだ時にこの話を聞き、大体上記のような内容のコメントを残した。


 クソ野郎。その日何度目の心の呟きかは本人も失念している事だろうが、とにかく歩道を猛然と走るベンジー・ライトの心には木星の大嵐さながらの激しい怒りが渦巻いていた。

 その日は日曜日で、遅寝遅起きをしようとしていたベンジーを叩き起こすように自宅の電話が鳴り響き、父が不在で渋々自分が出なければならない事に気付いていらいらしながら電話に出ると、ジムの怒鳴り声が聞こえてきて、寝ぼけていた彼は何かジムを怒らせる事をしただろうかと考えていたが、よくよく話を整理してみると確かにジムの乱脈なる様子も至極真っ当な態度に思えてきた。というのも話は非常に胸糞の悪いもので、今朝早く家を出て遊びに行ったジムの妹がダ・ガンによって路地裏へと連れ込まれ、暴行されそうになったというものだったのだ。幸い彼女は逃げ出す事に成功したので未遂に終わったものの、いかに凶悪事件と隣り合わせなこの世界都市の住人であろうと自分がそうした目に遭うのはたまったものではないし、実際にそのような極限の体験をさせられた彼女の心中はベンジーにも察して余りあるものであった。

 ベンジーはジムをいい奴だと思っていたが、強いて言えば少し気が弱くて、ダ・ガンとその取り巻きに殴りかかったところで、リンチされるだろうと歯噛みするしかできなかった。ベンジーとしてはジムの無念を一刻も早く晴らしてやりたいと思っていたため、ジムとの電話が終わるとフッドの仲間達に連絡を取り、ダ・ガンの目撃情報を早々と集めた。ジムからかかってきた第一報から二◯分もしないうちにダ・ガンの居場所を特定したベンジーはまさにアメリカ軍の即応部隊さながらの手際で準備が終わり、短距離走者のような爆発的なスタートを切って通りへと飛び出した。


 そこから白昼の路上で何が起きたのかは近隣住民の目撃情報によってのみ補完されているが、そうした目撃情報は常識という観点で否定される事も多かった。しかし結果と状況証拠から見て、食屍鬼めいた獰猛さを持った何かが鼻持ちならないダ・ガンとその取り巻きを完膚なきまでに叩きのめした事を認めざるを得ないのである。目撃した住民達は口々に言ったものだ。ジェイソン・ステイサムやマイケル・J・ホワイトでも見ているようだった、と。


 通報を受けて駆けつけた警官達はこの非現実的な事件に困惑した。確かに現実として、人並み外れた異能や人外の存在が地球上に実在しているのだが、そうした力を持たない普通の白人の男子高校生が、黒人の同級生六人を纏めて殴り倒したというのは些か信じがたいものがあった。ベンジャミン・ライトと名乗った男子高校生は殴りすぎて擦り剥けた拳の他には外傷がなく、顔に酷い痣を負った黒人の同級生達とは対照的に思えた。

 白人が黒人を一方的に殴りつけたと噂が広がれば不味い事になると市警は懸念したが、野次馬の中に多くの目撃者が混じっていて、興奮気味にやってきた新参の野次馬達に事の真相を教えていた。

 後日、この件をよく知らない別のブロックに住む黒人がベンジーに襲いかかってきた事もあった。ベンジーが白人であるという事実が危険だった。事情をよく知らなければこの事件が人種的な対立に対して、導火線の火を付けたような類の事件に見える以上は仕方ない。事件の背後にある真相を耳にした丸々太った巨漢のブーマーが口を開くと、ベンジーに対するそうした見当違いの襲撃は次第に減っていった。あのホワイト野郎は不当なブラック・オン・ブラック(黒人同士の間で起きる事件)への報復のために六人を殴り倒したのだと情報が意図的に流されたためだ。

 ベンジーはブーマーに呼び出された時さすがに腹をくくったものだが、実際にはブーマーがダ・ガンの恥知らずな行ないに憤りを感じている事がわかった。だが謝られるのは予想外だった。あのバカガキのせいでお前のダチに迷惑をかけ、結果的にお前の未来も暗くなっただろうとブーマーは残念そうに語っていた。

 ベンジーはダ・ガンへの制裁には成功したのだが、その代償はベンジーにとって計り知れないものだった。



同時期:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ某校


「ベンジー! お前を信じていたのに!」

 後日呼び出されたベンジーは、ティムソンの言う事ももっともだと思っていた。自分は確かに取り返しの付かない事をしてしまったのだから。

「お前を思って話をつけてきたんだ。お前の事を思って! なのに暴力事件を起こすとは!」

 ティムソンの泣きそうな顔なんて見たくなかったな。恩師のそんな顔なんて。後悔しかできなかった。

「推薦は取り消されたし、お前を推薦した俺も信用を失った。ジーズ、どうしてこんな…」

 ベンジーは退学にはならなかったし、ダ・ガンは強姦未遂の疑いで取り調べを受けている。どうせジムの妹ともみ合った際にドラマよろしく皮膚片でも落ちていて、そこからゲームセットに追い込まれる事だろう。しかしそれでは不充分だった。

「ティムソンさん、確かに俺が悪いよ。でもダチの妹が犯されそうになったってのに、その犯人を見逃すなんて俺には――」

「ああそうだな、そして俺とお前はその代償を支払うんだ」

「じゃあ俺はあのコックサッカーを見逃せばよかったと――」

「もうやめろ! お前に裏切られた俺の気にもなってみろ! お前の行ないで他の推薦された生徒にも危うくレッテルが貼られかけた! それだけは回避できたが、今後我が校からの推薦話に、向こうは渋るだろうよ! 未来の有望な若者の夢にこれから何度、暗い影が射す事になるか、よく考えろ。お前は暴走せず警察に通報すればよかったんだ」

 ベンジーは頭に昇った血が引いていくのがわかった。己の正義がどのような代償を支払わされる代物であったのかという事が冷静に理解できた。『目には目を』の精神は世界を盲目にすると授業で習った。ならば友人の無念が晴らされない世界なんか、いっそ盲目になってしまえばいい。

 無論、この街の警察は優秀だから、ベンジーが直接手を下さずとも憐れなダ・ガンがライカーズで本物のギャングスタ達による『開通記念式典』を受ける未来は覆らなかっただろう。ベンジーはティムソンに、何も言い返す事ができなかった。

「親父になんて説明すりゃいいのかな…」

 消えそうなベンジーの呟きにティムソンははっとした。ベンジーの全てを失ったかのような表情に、今度はティムソンが何も言えなくなった。



二ヵ月前:ニューヨーク州、イースト・サイド


 予定通りベンジーは週末に精神科を訪れた。夢を見る際は確実にあの謎めいた異星の夢を見る羽目になったからだ。さすがに放置していては、健全な生活に支障が出る。少なくとも彼は、夢破れた今の第二の人生――人並みに働きつつローカルなヒーローとして地元の治安維持に努める――が気に入っていたからだ。あのマスコットのようなぬいぐるみ生物はどこかの異星人で、あの夢に出てくる街は果たして、彼らの作り上げた蒼古たる都市なのであろうか。ならばあの、不潔な肉塊は一体何なのか。あのグロテスクな鱗は見ているだけでぞわぞわとベンジーの心を蹂躙し不愉快な気分にさせた。まるで干からびた湖に横たわる腐敗した魚のように腐れ果てているかのようだった。半透明のあの肉体には一体何色の血液が流れているのかなど、想像したくもなかった。狂人の妄想にのみ登場する異形の怪物を、悍ましくも戯画化させた様相のあの化け物達と同じ空気を、たとえ夢の中であっても共有してしまったという紛れもない事実が、彼の心にのしかかった。

 そうした悍ましい悪夢の情景から抜け出そうと、予定通り遠出してイースト・サイドまでやって来た。何しろ体を動かすのが好きな彼は、わざわざ海岸に面したルーズベルト・ドライブ沿いの高架下の道まで出て、そこから摩天楼とクイーンズを眺めながら北上していた。冬のニューヨークを颯爽と走る彼の姿は然して特異な光景ではなかったが、彼がこの大きな街を交通網も使わずに移動しているという背景を知っていれば、なかなか面白い光景と言えるだろう。

 しかも彼は近場の精神科ではなく、わざわざイースト・サイドまで走って来ているのだから。黒いアディダスの上下ジャージに身を包み、小さなリュックを担いで走っている彼は意外にもほとんど汗をかいておらず、制汗スプレーを使わずともタオルだけで事足りるようだった。

 八◯丁目まで海沿いを北上し、そこから内陸へと二ブロック程進んだところに(くだん)の精神科があった。雑居ビルの三階で、中はそれなりに綺麗だった。受付と話し、案内に従って中に入ると、診察室で椅子に腰を下ろした中年のアジア人――ティムソンよりは若そうだ――が彼を迎えた。

「シモンズです、よろしく。さてライトさん、妙な夢を見るという事ですが。具体的には?」

「なんというか、自分でも意味がわからないな。どう説明したもんか」

 そこから彼は夢の詳細をできるだけ言葉に置き換えて話し始めた。時折あの名状しがたい怪物の姿が脳内で鮮明に上映され、その都度彼はとても不安そうにしていた。幸いその内容のほとんどは人間の言語能力で説明できるものではあったが、その内容の奇怪さには耳を傾けていたシモンズも次第に怪訝な表情を浮かべざるを得なくなってきた。

 地球と同じく一つの衛星を持ちながらも、異星であると断言できる謎の地、そこに立ち並ぶ異様な建築物、その内部にいた半透明の付属器官を持つ球形の怪物、そして怪物と向かい合っていたぬいぐるみじみた謎の実体。夢はどんどん進行し、最近では両者が対立している事が明白となった。怪物とぬいぐるみが複数個体ずつ登場して、お互い戦っているようだった。その様子を見て、恐らく怪物がぬいぐるみに襲いかかっている事、怪物の姿は強いて言えば以前映画化されたスパイダーマンのドック・オクを思わす感じだった事も含め、己の見解を付け加えながら説明した。ベンジーは説明しながら果たしてこうした注釈めいた自己流補足が診断してもらうのに必要なのか悩んだが、それでも恥ずかしがらずに話し続けた。


「通院歴もないし、薬物も使用した経験なし…ふむ」

 話を聞き終えたシモンズは暫く考え込んだ。一般的なストレスやトラウマに起因する症状だろうか。

「ライトさん、失礼だが何か心的トラウマなどは?」

 答えようと口を開きかけてベンジーは少し躊躇った。精神へのトラウマに該当するものとは何か。ヒーロー活動中に力を尽くしても被害者を助けられない事もあるが、しかしその悔しさを忘れずに彼はやり遂げてきた。抗争で撃たれ、血に濡れたブラックの青年――ベンジーより若かった――の脈が弱り、救急車が来る前に亡くなった時の光景は今でも忘れないし、そうした犠牲者の最期は今でもまざまざと思い出せる。しかしそれが果たして重大な精神的負担なのか。確かに辛いが、身が引き裂かれそうな苦痛ではなかった。辛いからこそ、次は頑張ろうと自分を励ませてきた。でなければ今頃ヒーローはとっくに引退している。

 たっぷり一◯秒間、そうした事に思いを巡らせて、ベンジーはこれを否定した。

「いやないね。心当たりがない。例えばこの街のシンボルが消えた日は学校休んで親父とフィラデルフィアの親戚宅へ遊びに行ってたし。ニュースで聞いた時はショックだったけど、それは原因じゃないと思うな」

 彼は己の発言がいかにもな素人の見解に思えたので補足した。

「そういう色々な思い出や体験はテディベアとドック・オクの殴り合いとは関係ないかなって」

「まあ精密な検査を行わないと何とも言えませんが、確かに一見無関係に思えますね」

 では、とシモンズは続けた。

「過度のストレスに悩まれているという事は?」

「楽天的な性格だと思うし、重大な悩みはないね。強いて言えば冬のニューヨークって寒いよなってぐらいで。これも生まれてずっとこの街で暮らしてるから、実際慣れたけど。むしろこの悪夢自体が俺にとってのトラウマだか精神的負担だかになってる気がしてなぁ」


「へぇ、ブラッド・ヤスダ・シモンズって名前なんだ。教えてくれてありがとう。先生日系の人?」

「よくわかったね」

「ヤスダのイントネーション聴いててなんとなくね」

 幾つかテストを行なった後、結局この日は薬を出して、それで暫し様子見という事になった。

「祖父は日系人部隊に入ってヨーロッパ戦線まで行って、何とか生き延びたと聞いた。大変な時代だったみたいです」

「俺みたいな白人のガキが言うのもあれだけど、ルーズベルト政権下じゃ辛かっただろうな…」

「そりゃもう。しかしアメリカ人としての忠を貫いた事で、戦後は周囲からの目が一変したとかで。祖父は生前そう語っていましたけど、本当は帰還後もまだまだ風当たりが強かったんだと思いますがね」

 シモンズはベンジーの学生時代の体験談も聞いたが、それは彼の見ている悪夢の直接的な原因とは言い難いと判断した。

「そ、そうか…それは…えーと元々ハワイに住んでたって言ってたよね」

「実家は向こうですからね。真珠湾攻撃の頃には、既にこの国に二世である祖父の帰属意識が向いていたそうで。それでも太平洋戦線に派兵されていたらキツかったでしょうが」

「色々あったんだなぁ」

「ライトさんの方が色々あったんじゃないですか? 直接にはね」

「ハハハ。感情に任せて過剰に殴りつけるのは印象が良くなかったな。ヒーローみたいに、スマートな攻撃でノックダウン、なんてのはどうせ俺にはできないけどね」

 心の中で、今はできるけどなと付け加えた。

「余談ですが、今度時間があればゆっくり図書館にでも行って、この国の歴史を調べてみるのも楽しいですよ。私なんかは若い頃自分のルーツ辿りに夢中になって、そこから色々調べたものだ。今ではインターネットや通販もあるし、そこら中に素晴らしい資料が転がっている」

「なるほど…帰りにグッゲンハイムに寄ってみようかな」

「おっ、あそこのオススメは――」


 シモンズは博識なタイプの人間だった。引き出しの差により、少し話していて疲れたものの悪い気分ではなかった。根本的な解決には至っていないとは言え、専門家と色々話をした事で心の中に溜まっていた、悪夢に対する鬱憤が幾らか大気中へと放出された気がした。その代償として地球温暖化が更に進んだとしたらそれは申し訳ない事だが。

 グッゲンハイム美術館よりはセントラル・パークでの運動の方が魅力的に思えて、結局そちらに足を伸ばした。

 木々に茶色いものが混ざり、空もいかにもな冬空ではあったが一応は晴れ晴れとしていて、冬の運動には上出来な気候と言えた。身を引き裂かんと吹きすさぶ風も、体を動かしていれば気にならなくなった。

 ベンジーは学生の頃そうしたように得意な床技を試してみた。ここまでランニングしてきたとは思えない軽快な己の肉体機能に満足しつつ、一時間の間日常の事は忘れて楽しんだ。確かに彼の儚い夢は破れた。

「だがそれでも、今の生活は好きだな」

 ふっと笑ったベンジーの声が、冬のニューヨークの空へと消えていった。



同時期:ニューヨーク州、イースト・ヴィレッジ


 どのような作用なのか薬は確かに効いて、夢の中での視覚がぼんやりとしたものへと劣化し、少なくとも名状しがたい光景を直視しなくてもよくなった。そのうちこの夢を見なくなるか、慣れるかも知れないと思ったが、しかしどこかベンジーは心に引っかかるものを感じていた。薬を飲み始めて夢が霞み始める前に見たもの。幾度となく繰り返された怪物とぬいぐるみの抗争に、形容には困るがそれでも何らかの違和感を覚えるようになったのだ。

 暫く考えた彼は、自室のベッドに寝転がったまま、頭の中で強い思念を飛ばすようなイメージを作り上げた。それ自体は本来何の意味もない行為だが、ベンジャミン・ライト――またの名をジャンパー――のチームメイトであるボールド・トンプソンことロバート・マイケル・トンプソンにはそれで充分だった。彼の凄まじいテレパシー能力が、この惑星に渦巻く思念の海の中からベンジーの思念を掬い上げた。彼は全人類のプライバシーを無条件で監視しているわけではないが、少なくとも仲間との精神的な繋がりは常に持っていた。こうして彼らは無料通話を楽しむ事が度々あった。

 ベンジーことジャンパーはネイバーフッズの補欠メンバーという立場に甘んじている。経済的に豊かではないため、彼は生活をまず優先しているが、それでもヒーローというボランティア活動への熱意は高く、プロアスリート並みの高い身体能力と他のメンバーから習った格闘技能によって、ジャンパーというヒーローは一人前と呼んでも差支えがなかった。

『ベンジー、どうした?』

『ボブ、お前にはまだ話してなかったよな』

『どうかしたのか?』

『今日は俺がこの頃見てる悪夢について…あー畜生』

『はい?』

『説明するのが面倒くせぇ。俺の記憶を読んで悟ってくれ』

『頭の中散らかってないか?』

『昨日掃除したよ。始めてくれ、ボールディ』

 友人の頭の中へと侵入したボールド・トンプソンは他の無関係な記憶や思考をスルーしながら件の記憶へと辿り着き、その物語を読み解き始めた。惜しむらくは彼もジャンパー同様若手ヒーローであり、まだそこまで人智を超越した光景に直面した経験は多くなかった。

『なんだこりゃ…ベンジー、お前あれか? スパイダーマンのなんとかってヴィランが好きなのか?』

『言うと思ったぜ、そういう事はプラントマンに言ってやれよ。でもあの意味不明な場所自体についてはどう説明すりゃいいのかわかんねぇわ』

『俺にもさっぱりだな…メタソルジャーに相談するか?』

『あの人お悩み相談室なんかやってたか?』

『知らん、だがチームのチェアメンの一人だ。それかDr.エクセレントに』

『そりゃ最高だ…ってそうじゃねぇ、俺の記憶の中にこういう部分あっただろ、なんか疑問感じてるって部分が』

『ああ、でも俺にはお前が一体何に疑問を抱いているのかさっぱりわからんぜ。深層心理まで見たところでな、お前がそもそも何に対する疑問を抱いているかが、どこにも書かれていない』

『ドラマに出てくる教授にレポートの問題点を責められてる気分だぜ』

『まあそうだな…今度会議で話そう、そうしよう。俺達はチームなんだからな』

『補欠のためにありがとよ』

『気にするな。友達だろう』



数時間前:ニューヨーク州、ヴェラザノ・ナローズ橋


 ニューヨーク周辺の寒さは幾らか鳴りを潜めるに至り、春はそう遠い季節ではなくなってきていた。夕闇迫り、煌びやかな街明かりが空を覆い始める時間帯が近付きつつあり、橋上に佇む二人の男の姿が、橋の明かりで照らされていた。

 世界を震撼させたドレッドノートとの戦いは一人のヒーローの尊い自己犠牲で幕を閉じた。滅んだ宇宙からやって来たと主張するDr.エクセレントは、今頃ドレッドノートのドメイン内に囚われている事だろう。ドレッドノートとの戦いから帰って来たメンバーからこの話を聞かされてベンジーは愕然とした。仲間を事実上失ってしまったのだから。

「なあ、なんでいきなりここにテレポートしたんだ?」

 ベンジーの問いに、長身の黒人男性が堂々とした声で答えた。

「ここなら君とゆっくり話ができるし、それに個人的にはここが好きだ」

 ドレッドノートとの戦いで援軍にやって来たプロテクターズとかいうヒーローチームのメンバーに、どうやらボールド・トンプソンかメタソルジャーがベンジーの奇妙な夢の話をしてくれたらしい。いかに宇宙で活躍しているチームだろうと、変な夢の相談をされても困るだろうとベンジーは苦笑したが、撤退してきた際にプロテクターズのメンバーの一人がついて来て、どうしてもベンジーと話がしたかったのだという。

「えーと、サー。なんて呼べばいいかな?」

「とりあえずナイルズと呼んでくれたまえ」

「ナイルズね。聞いてると思うけど、俺はジャンパーって呼ばれてる」

「ああ、よろしく」

 ベンジーはナイルズという響きを心の中で呟きながら、話を続けた。

「…エクセレントの件は残念だったな。いい人だったよ」

「いかにも。私は彼と個人的な付き合いがあったわけではないし面識も薄い。しかしながら、掛け替えのない己の人生を贄とし、異界の女公を侵略から手を引かせたその精神は、気高く美しい」

 おいおい何をわかった風に、と思わないのがベンジーは自分でも不思議に思えた。この男の発言は嫌味やお世辞が混ざっていない純粋な賛辞と惜しみであり、果たして交友のない者のためにここまで感傷的になれるこの男は一体何者なのかと訝しんだ。ベンジーのフッドにいる黒人達とは異なるエキゾチックな印象を受ける顔立ちをしていて、もしかしたらジャマイカ人かも知れなかった。しかし何故ベンジーは彼がジャマイカ人だと思ったのか、それは彼自身にもよくわかっていない。ただ、彼が話す英語自体はとても流麗で、声もどこか心地が良かった。神父が着る黒ずくめのローブを纏い、落ち着いた印象を醸し出していた。

「ああ…本当にそうだよな」

 不思議な黒人の言葉に後押しされたかのように、ベンジーは眼下を流れるナローズを眺めながら、感傷の海へと航海を始めた。遠くの埠頭から船の軋みが微かに聞こえてきて、背後からは絶えず車が通行している音が聞こえてきた。柔らかい風が吹き、潮の香りを彼らの元へと運んでいた。ベンジーはたっぷり五分思い出に浸った後、待たされた事に文句も言わず不快ささえも見せなかった黒人に視線を戻し、本題へと移った。

「待ってくれてありがとう。この話も聞いてるかも知れないが、俺は謎としか言いようのねぇ夢を何ヵ月も見てる。ナイルズ、あんたは俺と話したい事があるみたいだけど、もしかしてこんな眉唾みたいな話に心当たりがあるって?」

 ナイルズの表情が、深刻そうなものへと変わった。

「大いにある。だがこれは、実は君だけの問題ではない」

「そりゃどういう意味だい」

「これから全ての真相を明らかにするつもりだ。ついて来て欲しい」

「どこへ?」

 するとナイルズは顔を頭上に広がる天球へと向けた。

「これから君を、栄光あるパン・ギャラクティック・ガーズの宙域までお連れする。そこで君に、この尋常ならざる事態の裏に棲み潜む、全ての忌むべき真相が明かされるだろう」

 そして、と彼は付け加えた。心なしか、顔に表れる深刻さの度合いが増したようだった。

「図らずして巧妙に隠された真相の裏に潜みながら、獲物を前に歓喜を顕にする白蛆の魔王のごとく、大口を開きて君の事を嘲笑う慄然たる〈真実〉を知ってもなお、君が魂を砕かれる事も精神を引き裂かれる事もなく正気を保っていられる事を、私は心から願っている」



現在:外宇宙、PGG宙域


 メンバーを遥か深淵の彼方へと連れて行く事に、ネイバーフッズのチェアメンは難色を示したが、ジャンパーと歳の近いボールド・トンプソンとプラントマンの説得に折れ、最終的には承諾した。責任を以て送り届けるというやけに清漣としたナイルズの態度がネイバーフッズには不思議に思えたが、それでもその誠実さは明らかに本物のようだった。


 出発するにあたって、ナイルズは妙な箱を取り出した。あまりに異様な箱だったため、ベンジーはそれに目が奪われた。不均整な面を持ち多面的ではあるものの全体的には直方体と言えなくもない黒い箱で、その表面の模様は全くどこで生まれたのか見当もつかない生物が彫り込まれており、細部の形状から見て彫刻のテーマが羽の生えた甲殻類らしきもの達の中央に佇む、三本の足で直立する何らかの不思議な実体を主題としたものである事がうっすらと理解できたが、何故その顔に口意外の器官が見られない三本足の実体に優美さを感じるのかまでは、終ぞわからなかった。ナイルズは、この何の用途に使われるのか事前情報がなければ推測する事さえ難しい謎の箱を開け放った。蝶番で開く蓋の中から、細部に赤い線の入った黒々とした謎の石が出てくるとベンジーは更に目が離せなくなった。直径四インチの石は見たところ未知の鉱物であり、箱同様に全くもって謎めいた事に、何の意図があったのかこれまた不均整な面を備えた多面体であった。これを作った者が何を意図したのかなど彼は知る由もないが、しかし恐らく、あの悪夢に出てくる建物と同じような、人類と接点のない文化ないしは観念によって作られた産物なのだろうと漠々ながらも納得するに至った。

 するうちベンジーは意識がその奇妙な宝玉に吸い込まれるかのような奇妙な錯覚を覚えた。はっと我に返り周囲を見渡すと、見慣れたアメリカから遠く離れた異境へと転移した事を、張り詰めた五感が教えてくれた。そこは直径八ヤード程度の円形の部屋で、周囲を取り囲む黒々とした材質で作られた壁と床が目に入り、高さ一三フィートはある天井からは異界的な幾何学に基づいて削り出された淡い赤色の光を放つ結晶を五本備えた照明が垂れ下がっていた。部屋に漂う香りは不快なものではなかったが、例としてあげるものが思い浮かばぬ、非常に当惑させられる名状しがたい香りだと形容する他なかった。そしてそれら諸々の要素はあまりに非日常的なはずでありながら、どこか優美な印象を与える部屋だった。

「ど、どこだここは――」と言いかけて、ベンジーは言葉を飲み込んだ。

 大海の遥か下の深淵を思わすぞっとする程濃い深緑の甲冑で胴と肢体を覆い、光さえ届かない暗闇に閉ざされた銀河間空間のような冷え冷えとした漆黒のマントをローブのように纏い、二本の強壮そうな腕を自然に垂らし、逞しい脚で力強く直立する、七フィート程の長身を誇る実体がナイルズの代わりに立っていたのだ。口が一瞬開いた時に、莫大な数の星々を生み出しながら想像を絶する重力を伴って回転する銀河中心部の煌きが見えた気がして、ベンジーは彼の美貌に見惚れる他なかった。

「ナイルズか?」

「そうだ。私が生を受けた時の姿を君に晒している」

「人間の姿は仮の姿って事か?」

「察しがよくて嬉しい」

 疑問というよりも既に自己完結的に結論が出ていながらも、しかし尋ねずにはいられない問いがベンジーの心に浮かんだ。

「あんた、ひょっとして神様なのか?」

「是認する。そして改めてよろしく、我が可愛い子よ」

 我が可愛い子という語句が一体どのような宇宙的な意味合いを持つのか、ベンジーにも何となく察する事ができた。悠然と立つその姿は巌のようで、同時に風に揺られる木々のような柔軟さをも備えていた。まだ見ぬ宇宙の数多の神秘を気後れせず煌びやかに纏い、高次なる者の誇りと無償にして無窮の慈悲が甘美な花の香りのように流出しており、この神がいかに神聖な存在であるかをよく表していた。その顔はもちろん、全体像に至っては最低でも地球に存在している全ての美術作品と美しい男女、並びに美しい動植物を揃えたとしても到底敵う事はない、窮極的な宇宙的角度に彩られた美の化身と呼ぶべきものであった。

「この世界に、こんな美しいものが存在してたんだな…」

 すらすらと口から溢れた己らしからぬ美への称賛に気を留める事なく、ベンジーはかの神の姿を暫し眺めていた。

 その非日常的な感覚から彼を連れ戻したのは、背後から聞こえてきた聞き覚えのないパターンの音であった。ベンジーが思わず振り向くと今度は驚愕が彼を襲った。

 振り向くと背後で自動ドアらしきものが閉じていた。ベンジーが目にした実体は、全体は淡いピンク色をしていて、頭部には太い毛のようなものがびっしりと生えており、きらきらと輝く半透明の材質の服飾らしきものの下には甲殻に覆われた胴と、そこから生えている四対の雄々しい節足が目を引いた。うち最も下部のペアの脚部で立ち、素足でありながら大層綺麗で乙女のごとき脚部の先端部が黒い床を踏みしめていた。背部に見える翼が真空の宇宙を切り裂いて飛翔するところが簡単に想像できた。意外と身長は低く、大体五フィートしかなかった。ベンジーは目の前の実体がナイルズの箱に掘られている実体であると気が付き、恐らくこの種族があの箱と石を作り出したのだろうと考えた。

「老いてなお、益々叡智増したるかな、賢者よ」

 ベンジーが背を向ける形になっていた美しい神が、彼の肩ごしにピンクの生物へと語りかけた。

「子孫の名にかけて、高らかに歌い上げたくなる程の光栄の極み」

 意外だな、とベンジーは思った。SFの典型から外れて、この蟹じみた生物は発声器官を持っているようだ。


「で、どうやって説明したもんか」

 テレパシーで解説してくれる彼の友人はここにはいない。些か奇妙な言語感覚を持っていてもおかしくないこのピンク色の実体に夢の内容を説明する必要があるようだが、そう簡単に伝わるのだろうかとベンジーは不安がった。

 すると案じることはない、と神は答えた。

「賢者ガディ=イラ・ノスは優れたテレパシーの使い手ぞ。君の思考も読み取ってくれようて。敷衍(ふえん)すべき部分があれば私がやってあげよう」

「ロード・オールマイティ! さすが、美しいお方は心も美しいね」

 邂逅よりまだ数時間なれど、ベンジーはこの美しい神の事がいたく気に入っていた。新たに入室したこの奇妙な賢者の事も、無視しがたい程濃密に漂う知性によって、非常に好印象を以て迎えていた。


 そこから起きた怒涛たる物事の移り変わりは、ベンジーの価値観に大きな打撃を与えるに留まらず、核の業火を思わす凄まじい音量の警鐘として心の中に鳴り響いた。

「俺はベンジー、ジャンパーとも呼ばれてるんだが、今日は悪夢に(うな)されてるからその相談に…」

 異星人との会話に緊張しながらベンジーは話しかけたが、賢者は然してそれを気に留めている風でもなかった。

「我はイラ・ノス。長年の貢献が身を結び、ガディの称号を得たり」

 ガディ=イラ・ノスというこの甲殻を持つ賢者は不思議な声質で言葉を紡いでいて、それがベンジーにはかなり印象的に思えた。

「ちなみにえーと、何年ぐらいその、仕事を?」

 少し会話に自信が持てたベンジーはぱっと思いついた質問を投げかけた。

「君達の基準で言えば…およそ八年になろう」

「えっ」

 予想より短かったため、盛大にがくりとなりそうだったが、そこへ神が補足を付け加えた。

「ジャンパー、彼らの寿命は君達の年月に換算すれば、長くて二◯年なのだ。宇宙には様々な種が存在する事を覚えておいて欲しい」

「でも俺でさえここのテクノロジーがすげぇって事はわかるぜ。そんな科学力の持ち主が、さ。この人だって俺より年下だなんてそんな」

 神の代わりに賢者が自ら答えた。

「我らは己が種族の寿命を、短きものとは思わず。賜いし命の恵みを無駄にせぬよう生けん、それが我ら故に」

 賢者の言葉には妙な説得感があった。実際の年月で言えばベンジーよりも年下であっても、人生経験は既に老人のそれである事を物語っていた。

「ああ…わかった。ならいいんだ。失礼な事言って悪かったよ…それじゃテレパシー頼むよ」

「了解(つかまつ)った」

 するとベンジーは己の心にイラ・ノスの手が入ってくるのを感じた。わざわざ彼にもそれとわかるように感触を残しながら入ってきたようだが、その感触は思った以上に温かかった。ボールド・トンプソンのそれとはまた違った不思議な感触だった。

 そうして暫く時間が過ぎていった。部屋は(げき)としており、あまりの静けさにベンジーには己の呼吸音以外何も聞こえない気がした。他にする事がないので彼は自分の前に立っている賢者を観察していた。すると賢者の様子に変化が現れ、どうやら何かに気が付いたかのようだった。

「これはなんと悍ましきものか。悪逆の限りを尽くしたる邪悪なるものどもなり」と賢者は心底厭わしそうな声色をあげた。

「そうだな、それでこの肉塊の化け物どもは一体何者なんだ?」

「肉塊? まあそのような形容もできようか。奴らは我が一族に伝わる太古の邪悪にて候」

「そういう事だと思ったぜ。あのグロテスクな半透明の触手が蠢いてる姿ときたらさ…あれと同じような化け物が出てくる映画見た時はマジでビビったぜ、スティーブン・キング原作だっけな、ああいやこっちの話――」

「待たれよ」

 賢者がベンジーの言葉を遮った。ベンジーはつい間抜けに口を開けて、立ち尽くした。

「君達の価値観からすると確かに醜悪に映るやも知れぬが、彼らは善良な市民であろうに」

 イラ・ノスの言っている内容がベンジーにはよくわからなかった。どこかお互いの話が噛み合っていない。

「何? ちょっと話を整理しよう、あのドック・オクみたいな触手の化け物がぬいぐるみを襲ってるんじゃないのかよ?」

 彼は内心焦っていた。そんなはずはない、そんな事があるはずがないのだ。もしそれが真実であるとすれば、彼が今まで見てきた全てを覆してしまう。自分が暮らしている世界が猛る巨獣の体毛の一本だと知ったら、微細な虫は何を思うのだろうか。インターネットで見た覚えがある、とある思想がベンジーの脳裡を過ぎった。自らを知性あるものとして見ている人間が大宇宙の中では微生物に過ぎず、その中を意のままに闊歩する巨神達からすれば、人類の歴史は道端の石にさえ満たない…何故その思想が思い浮かんだのかはベンジーにもすぐにわかった。すなわち同じなのだ、実は人類が宇宙の中では遥かに矮小であるという思想同様、彼が今認めかけている慄然たる〈真実〉もまた、認めてしまえば今までの全てを覆してしまうのだ。

 それを認めまいと躊躇っているベンジーに、賢者は見かねて真相をありのままに、あっさりと語った。

「逆だ、君の言う怪物こそが、真の怪物によって掠奪と暴虐に曝される真の被害者ぞ」


「お、おいおい、マジかよ!」とベンジーは焦りに焦った。今まで怪物だと思っていたあの触手の者達はあの謎の都市の住人であって、それをあのぬいぐるみじみたマスコット動物状の実体が殺戮しているなどと、まさかあの漠然とした違和感の正体が、被害者と加害者とが逆である事を示唆していたとは。ならばあの怪物達がマスコット達に向けていた負の感情がこもった眼差しの正体は、もしかすると至高の恐怖なのではないか。ベンジーは救いを求めて美しい神へと視線を向けたが、そこに救いなど無かった。

 異様な力がこもった三本足で床を踏みしめ、発せられる実体化した怒りがあの銀河間空間のごとき漆黒のマントを揺らめかせ、その内側に煌く数多の恒星をちらつかせていた。勇気を上げてその御顔を拝むと、宇宙全域の美の総和にさえ等しく、つい先程まではそれ程に美しかった無貌は、地球人類と接点を持たぬ造形でありながらも明確な憤怒の表情を表していた。右手にはあの奇妙な石と同じ黒々とした大きな結晶が握られていて、殺戮者の頭蓋を砕くための戦鎚のようだった。恐らくはあの奇妙な石は、実際にそうした仄暗い邪悪なるものどもを(ほふ)るために作り出されたのだろう。それを握り締める右手にこもった力の凄まじさたるや、光さえも貪欲に飲み込んで食い散らかすブラックホールのような圧倒的な破壊力がこもっていて、それでも壊れぬ結晶の戦鎚の頑丈さは推して知るべしものだった。もちろんナイルズと名乗ったこの美しい三本足の神は、触腕を生やした半透明の『市民』達を虐殺する、愛嬌のあるマスコットのような『怪物』達が許せないのだ。

「マルコの福音書、五章を参照。かの悪霊リージョンとは、奴の事なり。ジャンパーよ、愛しい我が子よ、君が夢の中で見た小動物らしき生物の群れこそが、この宇宙にて数多の命を踏み躙り滅殺せしめた屠殺者集団が一人。かの書においては単一の躰に宿る千の意思のように見受けられるが、しかし実際にはその逆なのだ」

 三本足の神は何故かリージョンを単数として見ていて、それがベンジーの心に引っかかった。

「…なあ、そりゃ一体どういう意味だ? どうして単数でそいつを呼ぶんだ? あのマスコットどもはいっぱいいたぞ」

 美しい三本足の神は、隠しきれぬ邪悪への憤怒を何とか抑えようと努力しながら、続きを聞かせた。

「何故なら奴は単一の自我で群としての躰を持つリージョンであるが故に。奴こそが許されざる者ども、〈旧神〉(エルダー・ゴッズ)の一柱なれば」

 〈旧神〉(エルダー・ゴッズ)とは一体何者なのか、ベンジーは知る由もなかったが、そう言えばオタクのプラントマンが何やらそういう話をしていたような記憶が蘇ってきた。

「あの殺戮する群体には他にも仲間がおり、その中でも首領格の神格についても記録が残っている。地球ではスラヴの民がシャーノボーグの名で呼んだ――私も彼らが何を実践したのかは知らないが、恐らくは『エイボンの書』、あるいはその他を用いて過去の歴史を覗き込んだのであろう。そして彼らには〈旧神〉(エルダー・ゴッズ)の主神が光り輝く黯黒神に見えたという。恐らくアフリカに伝わる魔王ングウォレカラの伝承も、あの厭わしき主神を示唆しているのだろう。どうやら彼ら先人は君とは違い、見た目に惑わされる事なき公平な視点を持っていたようだな?」

 ベンジーはうっと気まずそうに唸った。彼は知る由もないが、この三本足の神は悪戯好きな性格であった。激怒しながらも話し相手をからかう余裕は持っているのだ。

「それともう一つ、私も神なのである程度のテレパシーを使う事ができる。恐らく君にとっては驚愕に続く驚愕となろうが、君の夢は非常に重要な案件なのでPGGが誇る聖なる騎士、パラディンにこの部屋へ来てくれるよう呼んでおいた」

「ナイルズ、重要ってどういう意味だ?」

 少しは和らいだ三本足の神の重々しい雰囲気が再び濃霧のように滲み出てまとわりついた。

「君の夢は正夢なのだ。今まで誰も気が付かなかったが、実際にあの星の民が〈旧神〉(エルダー・ゴッド)に襲われている」

 あまりに急な話だった。嘘だろ、とベンジーが言いかけたところで、彼の背後にあるドア、賢者が入室した際に一度だけ開いたあの不思議な自動ドアが再び開かれた。すかさず振り返ったベンジーは、美しい三本足の神が言った通り、やはり驚愕せざるを得ない状況に放り込まれる事になった。驚きのあまり声を出す事さえできない状況に。

「私の故郷が襲われているという話は本当か!?」

 恐らく普段ならば気品があって、パン・ギャラクティック・ガーズ内でも尊敬を集めるに相応しい気高さがあったのだろう。それらを少し損ねた慌てふためいた様相で声を荒げたパラディンと呼ばれる人物は紛れもなく、ベンジーの夢に出てきた触腕を備えた半透明の『市民』と全く同じ種族だったのだ。

 最後まで読んで頂いてありがとうございます。半透明の触手生物はヘンリー・カットナー作『侵入者』において、クトゥルーを始めとする地球の神々に撃退された異次元人が元ネタです。

 この一話扱いのワンショットのテーマは、映画『ミスト』の逆バージョンで、借りてきたミストを観た時からやりたいなーと思っていたプロットでした。

 名状しがたい存在が逆に襲われてる!?という一発ネタですね。あとはナイアーラトテップが擬人化せずにヒーローしてる姿を書きたかった…。

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