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FANCY NOVELS  作者: ハゲゼビア
21/302

AMAZING POWERS#1

 戦後のアメリカ。ブラック・パワー、ホモファイル、レッド・パワー…様々なマイノリティの精力的な運動が巻き起こる激動の時代を迎える中で、歴史上古くから存在してきた二種類の超能力者達もまた、この流れに巻き込まれていった。謎の自称未来人、そして六◯年代の生み出した怪物…まずは新たな時代の幕開けを告げるこれら悪しき巨人達にスポットを当てる。

登場人物

―自称未来人…未来から来たと主張し、超能力者の境遇を一変させた男。

―ピーター・ローソン…移民のヴァリアント。

―ナスチャ…ピーターの恋人。

―ヴァーン…いつもピーターに因縁をつける傍若無人な男。


 あなた方が好むと好まざるとに関わらず、歴史は我々の側にあるのです。やがて我々があなた方の埋葬を執り行なう日が来るでしょうねぇ!

――ニキータ・フルシチョフ



一九六五年三月二五日:ニューヨーク州、マンハッタン


 昔から超常的な力を持つ人々の存在は認知されており、その実性質の異なる二つのグループに分類できる。かつて彼ら両方を指していた様々な名称の中からアドヴァンスドという呼び方を暫定的に使用するとしよう。アドヴァンスドは、ある時は黙認され、ある時は弾圧された。

 神話の英雄や神々と混同される場合もあった――中には肉体が変異した者もいたからだ。例えばギリシャやローマでは、善きアドヴァンスドは滅多に姿を現さぬ神々や半神の代理として見られ、実際に彼らは悪しきアドヴァンスドや本物の怪物を始めとする恐るべき実体どもと激闘を繰り広げて、花々しく討ち果たした事もある。

 しかしヨーロッパでキリスト教の影響が強まり、ニケーアの公会議でアドヴァンスドを人間ないしはそれ以上の存在として扱う諸宗派が異端として切り捨てられると、ヨーロッパ各地に残っていたアドヴァンスドの英雄譚を綴る各々の記録は尽く破壊された――だがこれは正確とは言えない。

 人々の証言や調査を元に、『己の能力を把握しているアドヴァンスド』と『己の能力を把握できないアドヴァンスド』とが存在しているとする記録が世界中に残っているが、それらはほとんど謎とされてきた。だがキリスト教圏のヨーロッパでは二つを明確に別扱いしてきた歴史がある。

 人間性を否定されたのは『己の能力を把握できないアドヴァンスド』であり、彼らは悪魔のように扱われた――魔女狩りの裏には彼らに対する理不尽な迫害も含まれていたのである。レミギウスの『悪魔崇拝』の内容も、それらと無関係ではない。『己の能力を把握しているアドヴァンスド』は全く迫害されなかったわけではないにせよ、しかし『己の能力を把握できないアドヴァンスド』との扱いの差は歴然だった。

 では何故彼らはあまり迫害されなかったのか? それは彼らが神の啓示を受けた者として扱われたからだ。己の特殊な能力を知る事のできる彼らは神から贈り物を受けたのだ、と。もちろん『己の能力を把握できるアドヴァンスド』も『己の能力を把握できないアドヴァンスド』も、両者同様に人間離れした異形の者は存在した。

 しかしどうだろう、異形の『己の能力を把握できないアドヴァンスド』がより一掃迫害された一方で、異形の『己の能力を把握できるアドヴァンスド』は試練に直面した者として畏敬や称賛の目で見られた事さえあった――それが全てではなかったとは言え、その傾向は多かったようだ。

 その反対に『己の能力を把握できないアドヴァンスド』は手酷い迫害に晒され、その理由は彼らが己の能力を把握できず度々その力が暴発した事があったため、悪魔憑きのようなものとして忌み嫌われたからでもある。除霊が彼らに効果がない事を教会も知っていたため、悪霊を祓って救ってやるなどという慈悲深さを発揮する事はなかった。

 実際、どこかで能力を試してみない限り『己の能力を把握できないアドヴァンスド』は自分の能力の概要がわからない――下手するとまずどうやって能力が発動するかさえわからず、そのため喧嘩などの拍子に辺り一面を焼き払ってしまう場合もあった。『己の能力を把握できるアドヴァンスド』の中にも能力を暴発させたり悪事に使用する者は当然いたが、しかし能力の使い方や概要が把握できるか否かの違いは大きかった。


 歴史を見ればそこにアドヴァンスドの影響がそこかしこに見られるが、それは主に影の歴史である。以前映画化された中世ヨーロッパのとある男を例に挙げると、彼はとても美しい少年だったが一◯歳の頃、『能力を把握できるアドヴァンスド』として覚醒し全身が透明のゼリーじみたものへと変貌し、外からでも内部組織が見えたという。

 己の異形と化した容姿故に彼は苦悩を重ねたが、やがて覚醒を神の試練なのだと考えるようになり、神職に就いて地域に尽くした。彼は人々の心を安らかにするという癒やしの能力を持っていたとされ、教会を訪れる悩める子らの悩みを聞き、そしてその不安を中和させたという。

 彼はこの世を去るまでとても満ち足りていたらしい――やがて彼はアドヴァンスドとしての覚醒を試練ではなく祝福や贈り物と解釈するようになり、そして周囲の人々は彼を親身に支えたし、そして彼は同様に周囲の人々に与える事ができた。

 あの歴史上の人物はアドヴァンスドだったとするような与太話ネタは今でも人気がある。アドヴァンスドは謎も多く、かつて科学的な手段も無しにどうやってヨーロッパでは『己の能力を把握できるアドヴァンスド』と『己の能力を把握できないアドヴァンスド』を判別してきたのかという謎も残っている――自己申告しなければわからないはずだからだ。

 中にはテレパシーなど精神に関わる能力を持つ『己の能力を把握できるアドヴァンスド』がこれらを判別していたのではないかとの学説もあるが、それを証明する確固たる証拠は未だ見つかっていない。


 ではアメリカを例に見てみよう。第一次世界大戦に参加した当時のアメリカでは、『己の能力を把握できないアドヴァンスド』の扱いは先住者であるアメリカン・インディアンや奴隷として連れて来られた黒人と同様のものであった。

 もちろんWASPの白人であろうと、『己の能力を把握できないアドヴァンスド』であればその人権が保障される事は決してなかった。そのため無用の混乱や迫害を避けるために己がアドヴァンスドである事を隠す者も多かったはずであり、異形化しなかったアドヴァンスドは容易く隠せたはずだ。

 さて、『己の能力を把握できるアドヴァンスド』は完全ではないにせよ、カミングアウト後もその扱いは比較的まともであった。もちろんもう一方の扱いについては言うまでもなかろう。だが結局アメリカは選択を迫られて、例えば軍隊では『能力を把握できないアドヴァンスド』だけで構成された部隊が存在していたという。

 第二次世界大戦においても、さして特別扱いを受けない『能力を把握できるアドヴァンスド』だけでなく『能力を把握できないアドヴァンスド』も確かにアメリカの勝利に貢献した者達の一部である。

 しかし移民社会アメリカにおいて戦後も依然白人以外の人種の扱いが蔑ろにされている――そして忘れてはならないが、一緒くたにされがちな白人同士の中にも差別が存在する――のと同様、『能力を把握できないアドヴァンスド』の扱いもそれほど改善されなかった。

 あらゆるマイノリティが合法的に迫害される社会に対する不満が募ると、やがて五◯年代以降に見られるマイノリティの積極的な運動が始まったのである。バスボイコット闘争を機に、困窮の中で理不尽な扱いを受ける黒人達が変革を求めて起こし始めた公民権運動は盛り上がりを見せ、その中でキング牧師やマルコムXのようなカリスマが現れた。

 かの有名なボクサーのアリもマルコムXと交友があった事で知られている。白人の側からも五四年のブラウン対教育委員会事件における人種隔離政策に対する違憲判決、五七年のリトルロック事件における黒人生徒の通学を守るための軍出動など、幾らか歩み寄りは見られていた。

 他方ではホモファイル運動と呼ばれた性的マイノリティの活動もまた、この時代を語る上で外せないだろう。マタシン協会やビリティスの娘達などの団体、そして六九年の『ストーンウォールの反乱』。

 もちろんこの国の先住者から目を背けるわけにはいかない。インディアン部族によるレッド・パワー運動も六◯年代から目立ってきたもので、他のマイノリティと同様、不当と戦うための活動だった。

 そしてこれら各マイノリティ同士の活動は、少なからずお互いに影響を与え合ってきたはずだ。もちろん『能力を把握できないアドヴァンスド』も様々な活動を開始していた時期だから、その存在は無視できない。五八年の『インディアナ事件』が全米に与えた影響は決して小さくあるまい。

 当時インディアナ州各地でもアドヴァンスドのデモ活動が多発していた。そして物質操作能力を持つ『能力を把握できないアドヴァンスド』のフランク・コリガンが、自分達の権利を主張するラファイエットでのデモ行進中に、熱烈な反アドヴァンスド主義者であるジョージ・フォックス――彼にとっては『能力を把握できるアドヴァンスド』と『能力を把握できないアドヴァンスド』の区別は存在せず、そういう意味では平等主義者だった――にナイフで刺され死亡する事件が起きた。

 この時フォックスは周囲の激怒したアドヴァンスド達に報復の集団リンチを受けて死亡しかけたが、刺し傷によって死に瀕した六◯代のコリガンは最期の力でフォックスの傷を治したのである。

 フォックスは『穢れた血の力だ』と狂乱し自殺を図るも、駆けつけた警察に取り押さえられ、裁判でも負けた。出所した彼に残されたものは、己の無知や偏見、恩人への非礼に対する壮絶な後悔であった。


 六五年のあの事件はアメリカのアドヴァンスドを巡る歴史を完全に変えてしまった。アドヴァンスドが死語になり、『能力を把握できるアドヴァンスド』がエクステンデッドと呼ばれ『能力を把握できないアドヴァンスド』がヴァリアントと呼ばれるようになったあの事件のカラー映像はYoutubeで全編視聴でき、再生回数は数十億回にも達している――しかしこの動画は転載であり、誰が編集したのかがわからないのだが。

 そもそも、世界中がこの放送をリアルタイムで見られるよう六五年の事件は最初から全てが筋書き通りに仕組まれていたという説も存在し、陰謀論の中でもそこそこ人気である。


 六五年三月二五日午前一一時二◯分、突如マンハッタン上空に謎の黒い要塞が出現した。全体的にラインは丸みを帯びているが所々が尖っており、不気味に赤く輝く巨大な電飾かSF的な砲門のようなものを備えており、横方向の直径が一六◯◯フィートはある分厚い円盤の形をしていた。

 アメリカ本土に正体不明の存在が出現した事実が与える衝撃は並大抵のものではなく、所々でパニックが起こったという。そして午前一一時二五分、展開しつつあるアメリカ陸海空軍とマンハッタン市民、そして中継を見ている全世界の人々の前で遂にあの放送が始まったのである。

「二◯世紀の諸君、私は未来から来た人間だ。今日は重大な発表をせねばならない。私の使命はそれだけだから、発表後は速やかにこの時代を立ち去る。戦争をしに来たわけではないからだ」

 放送はテレビやラジオを通して世界中に配信された。映像では黒いフードとローブに身を隠した人物が暗い部屋の中にいるように見えた。カラーテレビで見た人々にも男の身体的特徴は一切見えなかった――唯一声で男だと判別できた。男の声は知性が感じられるものだが、仰々しくはなく淡々とした調子であった。

「それは諸君がアドヴァンスドなどと呼ぶ特殊な力を持つ者達についてだ。彼らは空を飛び、弾丸よりも速く動き、手から炎を出したりする。個人差により千差万別だ。そして知っての通り、アドヴァンスドは二つの分類に区別できる。一方をエクステンデッドと呼ぼう。彼らは己の能力の概要を知っており、人類の味方となるだろう。一方でどうか? 私の時代ではもう一方をヴァリアントと呼ぶが、彼らはどうか? 彼らは何かの拍子に能力を覚醒させて、それを手探りで使ってしまう。それは諸君も歴史上で経験してきたはずだ――悪魔に取り憑かれたかのように、能力を制御できないヴァリアントが惨事を引き起こした事は一度ではあるまい。そしてまだ見ぬ己の力によって彼らは大いなる野心を育むのだ」

 ヴァリアントの話が始まった辺りから男の淡々とした調子に熱が入り始める。しかし身振りに変化はなく、依然表情さえ読み取れない。しかし男はヴァリアントの悪い事例だけを出して、意図的にエクステンデッドの悪い事例を出さなかった――だが悲しいかな、人々の大半は提示された情報だけを鵜呑みにする。

 それは月日が流れて、世界がインターネット普及後の時代を迎えても変わらぬ、不変の事実であるようだった。

 もちろん自称未来人のこの男は、明らかに『集団Aから悪人が輩出された場合と集団Bから悪人が輩出された場合、往々にして世間は集団Aと集団Bにそれぞれ異なる反応を示す』という事も知っていたのだろう。恐らくはその上で、念を押すための印象操作を含ませたのだ。

「我々の時代では、人類はヴァリアントの専横を許しそうになっている。人類とエクステンデッドは世界を支配せんとするヴァリアントの脅威と戦っている…だが戦線は常にヴァリアントが押しているのだ。やがてヴァリアントは我々人類を滅ぼすか、その支配下に置いて征服を完了するだろう…」

 男の口調は熱を帯びてはいるが、しかし悲観的で、彼の言うヴァリアントの脅威によって精神が磨り減った事を物語っているようにさえ見える。

「おっと失礼…東の大国がこちらへ向けてミサイルを発射してきたので迎撃させてもらう」

 あっけらかんと彼はミサイルが発射されたと言ってのけ、その瞬間マンハッタン中が更に混乱した。そしてミサイルに呼応して男は何かを使用した――しかし要塞の表面に変化はなく、何も見えない。高温の何かが発生していた事はわかっており、恐らく強力なレーザー兵器だろうと見られている。そして記録では確かに某海上空でミサイルが撃墜されている。

「ミサイルの脅威は去り、私の持つ力も理解してくれたと思う。だがもう一度言うが私は侵略の意志を持たず、発表する以外には何もしない。では話に戻ろう。既に言った通り、ヴァリアントは未来では人類に仇なす存在となるだろう。彼らの弾圧の歴史を鑑みれば同情の余地はあるかも知れない…しかし彼らは一線を越え、我々を駆逐するか支配するまで止まるまい。おや、今度はヴァリアントの攻撃か」

 ヴァリアントの権利を求めるこの時代に、男のスピーチはあまりにも都合が悪い。ヴァリアントが人類の敵だと主張されているようなものだ。それ故に憤慨したヴァリアント達によって彼が座乗していると思われる要塞に様々なものが発射された――岩や金属、強酸や高温のブラスト、そして飛行できる者は体当たりを仕掛け、一説によれば強力な物質操作や精神操作も敢行されたとされ、ヴァリアントだけでなくエクステンデッドも攻撃に参加していたという――中にはこの未来人の狙いを察知した者もいたに違いない。

「見ての通り、我が要塞は強固な守りを持つ。しかし繰り返すように、諸君を攻撃するつもりはない。話して帰る、それだけだ」

 男はまさに高度な科学力を持つSF小説の異星人そのものであり、絶対者の余裕さえ感じられた。ヴァリアントの総攻撃は尽く無力化された。男にとって、これら全てがまさに計算の内だった、今ではそんな説さえある。

「私は誰も殺してはいない。突撃してきた者はトラクタービームで地上へ戻した…最後にこの短いスピーチを締め括ろう。私は人類諸君に、ヴァリアントの駆逐や更なる迫害を求める事で、ヴァリアントによる絶望の未来を変えて欲しいのではない」

 男は密かに『諸君』から『人類諸君』に言い方を変えていた。

「ただ、ヴァリアントが齎す暗黒の時代が迫っている事を知っておいて欲しかったのだ。それでは失礼する」

 男は来た時同様の唐突さで姿を消した。要塞は一瞬で姿を消して、三月下旬の晴れ空と、マンハッタンの混迷が残された。

 世界的に見れば、男のスピーチが与えた影響には地域差がある。しかし少なくとも元々ヴァリアントが迫害されていたアメリカでは、それを更に後押しする結果となってしまったのは間違いない。

 後にアメイジング・パワー運動と呼ばれたヴァリアントの権利活動に対抗するかのように、反ヴァリアント運動が六五年以降目立つようになったからだ。現代の中立的観点から見れば、自称未来人が人類及びエクステンデッドとヴァリアントの対立構図を作り出したか加速させたと言っても過言ではなかろう。

 そして男は明らかに確信犯のやり方で、とある恐ろしい言外の事実を提示しており、それはヴァリアントへの脅威論をより一層掻き立てたのである――男がただのメッセンジャーなのかそれとも高い地位にあるのかは別にしても、彼が実際に座乗していたと思われているあの要塞は数千マイル先のミサイルを一瞬で捕捉して破壊し、マンハッタンのヴァリアント達による実力での抗議運動をものともしなかった。

 ではそれ程高度な科学力を持つであろう未来の人類を追い詰める未来のヴァリアントとは、一体どこまで恐るべき存在なのかと、言外に示唆していたのである。



一九六八年:東海岸某所


 アメリカがとある怪物を生み出してしまった事はそれなりに認知されているが、それがこの年の事だったと知る者は少ない。怪物が以前どこに住んでいたのか、それもまたほとんど誰も知らない事だ。

 アメリカ国内では他の各マイノリティがそうするように、ヴァリアントも各地で自分達の街を形成し始めていた。だがヴァリアントとは複雑な存在であり、彼らはヴァリアントであると同時にアングロサクソン系であり、南欧系であり、東欧系であり、アフリカ系であり、アジア系であり、チェロキーやオネイダでもあった――ヴァリアントである前に何らかの人種・民族のアメリカ人なのだから、例えばプア・ホワイトのヴァリアントが他人種のヴァリアントを見下す事で己の惨めさから目を背けようとする虚しい事例もあるにはあった。

 もしくは黒人のヴァリアントが黒人コミュニティ内で爪弾きにされた事例も少数ながら見られたとされている。しかし基本的に彼らは社会から虐げられた者の集まりであり、ヴァリアントだと発覚して捨てられたとか離縁されたとか、大体はそうした行き場のない人々だから、往々にして人種や思想の壁を飛び越えて絆が結ばれる事も多かった。

 だが全てのヴァリアントがそうしたヴァリアントのコミュニティ内で暮らしているわけではなく、それ故にあの怪物が生まれてしまったのである。


「失せやがれ、イワンめ!」

「すみません」

「クソソビエト野郎が、ベトコンの同類め」

 ヴァーンと呼ばれていたその太った男はいつもピーター・ローソンに因縁をつけてきた。自称イギリス貴族の末裔であるそのでぶはピーターがロシア系である事が気に入らないようで、ピーターの安アパートの前まで乗り込んできたり道端でずかずかと詰め寄ってきたりしては、何を睨んでやがるだのアカのスパイだろだのと文句を言ってきた。

 工場のラインでせっせと働いて帰って来たピーターはいつも憂鬱な気持ちになり、しかし内気な彼は何もできなかった。やがてヴァーンから漂うきついサラミのような体臭を嗅ぐだけで心が曇るようになってしまったていた。ピーターはロシア系だとバレないように名前を変えていたが、ところどころ英語が訛るし、スラヴらしい顔立ちは隠せない。ヴァーン以外にも影でこそこそ悪口を言う輩がいるにせよ、彼よりは遥かにマシだった。

 しかし古く汚いアパートに帰れば、そこには彼の天使が待っていて、それだけが毎日の生き甲斐となっていた。木造の色褪せた廊下を抜けて部屋の前まで来て、彼は無言で中に入った。

「ナスチャ」

「ピョートル」

 ナスチャと呼ばれた彼女は丸いテーブルの上に粗末な夕食を並べて待っていて、ピーターは心にしんみりと染み渡る感慨に浸った。鉄と油、そして汗の匂いが染み付いた作業着を着替えながら、ピーターはナスチャとロシア語で会話した。ナスチャは英語がほとんどできないのであまりアパートから外に出ない。

 不定期にピーターはナスチャでもできる内職を見つけてきてやっているが、とにかく彼もこの穢れた世界にナスチャを出したいとは思わなかった。特にヴァーンにはナスチャの存在を知られたくない。あの男は面倒なアウトローどもとの付き合いがある…幸いナスチャも外が嫌いなようだ。

「うん。お前は仕事もまあまあできるし勤務態度もいいから、このまま延長するって」

「よかったわ。私、ピョートルにはいつも助けられてばっかり」

「ナスチャ、いいんだよ。それに私も君がいなきゃこんなところで生活できない。君だけが希望なんだ」

「ありがとう、ピョートル…ねぇ、今日も見せてくれる?」

 ピーターは微笑んだ。ああ、もちろんだよ。彼はテーブルの上に乗ったコップを逆さ向けた。本来なら中の水がテーブルにぶち撒けられるが、しかし水はテーブルの一インチ上に留まり、少し暗い白色灯の光を受けてきらきらと輝きながら円盤型を保っていた。やがてその表面が波立ち、円盤が崩れて形を変えた。キリル文字が表れ、よく見ると水はナスチャと書いていた。

「綺麗…」ナスチャはピョートルの芸に目を奪われていた。

「でも水だから正直見にくいね」

 ピーターがそう言うと二人は一緒に笑った。ナスチャはピーターの事を気味悪がったりせず、変わらぬ想いを持ち続けてくれた。ピーターはそれこそが人生の唯一価値あるものだと確信していた。二人は愛を囁き合い、キスを交わした後、知り合いに譲ってもらった染みの付いたベッドで静かに愛し合った。



数日後:東海岸某所


 ピーターは怒りと無念とその他様々な感情のブレンドを味わいながら床に座り込み、己の左下腿を両拳で殴り続けていた。というより、そうせざるを得なかった。

 抉じ開けられたアパートのドア、荒らされた室内、漂うサラミじみた強烈な匂い、むわっとした空気と体液の匂い。そしてベッドの上で冷たくなっているナスチャ。

 ロシア語でぶつぶつと言いながらピーターは左の脚部を殴っていた。そうすれば現実を変えられる、もしくはそうすれば現実に耐えられるかのように。震える口から呪詛を吐きながら、痛みさえ霞む悍しく残酷な己の運命に絶望しながら、涙と鼻水の混じったものが彼の作業着や床を汚した。

 何故こんな事に。何故ナスチャの存在を知られたのか。ピーターが足を殴るたびに古い床板がぎしぎしと軋み、部屋そのものさえも泣いているかのようだった。

 サラミの匂い、サラミの匂い、サラミの匂い、サラミの匂い、サラミの匂い、サラミの匂い…。

 厭わしいその匂いを嗅ぎ続けた事で、ピーター・ローソンの中で何かが壊れ、彼は慄然たる幽鬼のごとき目をして立ち上がろうとしてよろよろと体勢を崩した。心の痛みに比べれば左足の痛みなど痒み程度でしかないが、下腿は痣だらけで骨も砕けているような感じがした。

 しかしそれさえもじんわりとしたかすかな熱にしか感じられない。ピーターはぶつぶつと呟いて木の箒をテーブルに叩きつけてへし折り杖代わりにして、動かないナスチャの躰を清めてから瞼を閉じさせて別れのキスを交わし、口に残る冷たい感触だけを唯一の己が感じられる生の感覚と定義して辛うじて心のバランスを取りながら、ゾンビのようにゆらゆらと外に出た。

 空いた右手には彼が二人だけのショーに使ったコップが握られ、その中の水は不自然にごぼごぼと煮え立つように蠢いていた。煮え滾るマグマじみたそれは、ルリエーが眠る黯黒の海底のような、ぞっとする程に深い憎悪を秘めており、この世に降臨した復讐の精霊の残す後光を思わせた。


 ヴァーンは夜の静まり返った歩道で仲間と飲んでいた――だが今日何があったかは黙っていた。殺人はまずい。太った男の笑い声はやがて不自然な足音によって遮られ、にやにやと笑うでぶが後ろを振り向くと人間を戯画化させた幽鬼であるかのようなスラヴの男が、恐るべき憎悪によって叩き折られた木の棒とコップを持って立っていた。ヴァーンは一瞬焦ったが、ピーターを見て笑う。

「おい、アカ野郎がのこのこ来やがったぜ!」

 下品な笑い声を受けて微動だにしないピーターの尋常ならざる様子にヴァーンの仲間達はぞわぞわと鳥肌が立つのを感じた。コップに彼らの目線が注がれ、その不自然さに慄いていたがヴァーンだけは何も気が付かなかった。

「なんとか言えよ」

「ヴァーン、君は」聞き取り辛い程に小さい声。

「なんだって?」ヴァーンは聞こえないふりをした。

「君は一線を越えたな」

 ピーターは星間宇宙めいた冷たい声ではっきりと言い直し、そしてコップの中でごぼごぼと泡立っていた水をヴァーン達目掛けて振りかけたのであった。ちかちかと点滅するスラムの電灯の下で、きらきらと輝く水が彼らにかかったが、しかしそれは彼らの予想していた水に濡れた感覚を与えず、服の上に付着していた。

 今までそんなものを見た事がないので、ヴァーンさえも絶句してしまった。このクソイワンはどんな手品を使いやがった? まさかこいつ…。

「お前もしかしてヴァリ――」そこまで言いかけたが、その先は仲間達の甲高い悲鳴に遮られた。彼らの着ていたシャツや厚手の革の上着が奇妙な水によってびりびりと切り裂かれ、微かにその下の表皮から出血していたのである。恐ろしい事に、ピーターは水を凶器に変えてしまった。

「ナイフのように切れる」幽鬼じみたピーターの様子はなお一層彼らに恐怖を与えた。「形跡から見てヴァーンの単独犯だろう。君達は邪魔しなければ見逃してやる」

 杖をついたこのロシア訛りの男は怪物じみた風貌を点滅する電灯の下で垣間見せながら、既にこの場の生死を己が握っている事をそれとなく主張していた。異常犯罪者など大した事はないと思っていたヴァーンの仲間達でさえ、明らかに恐るべき狂気か憎悪を湛えたピーターの目を見て身震いしてしまっていた。

「聞こえなかったか?」

 するとがりがりと音を立てて地面の薄汚れたコンクリートに溝が掘られ始めた。つまり、謎の水はそれぐらい硬く鋭い刃なのだ。その気になれば軍用ナイフのように切り裂き、肉切り包丁や裁断機のように切断できるのだろう。それを理解したヴァーンの仲間達はヴァーンを置いて一目散に逃げ出した。

 彼らの荒い息遣いと荒い足音を聞きながら硬直していたヴァーンだが、我に返って逃げようとした。しかし胸の上でさっと激痛が走り、そのまま蹲っ(うずくま)た。

「ヴァーン、君は逃さないぞ」

 こつこつと不慣れな杖の音がヴァーンの元へと近付いてきた。まるで処刑斧を携えた処刑人のごとく、ゆっくりとした足取りで死を携えながら。このままではこのアカのヴァリアント野郎に殺される…そう悟ったヴァーンは腰に挿していた.四五口径を素早く取り出して構えた――構えようとした。

 銃声の代わりに、悍ましい叫び声が響き渡ったが誰も助けには来ない。そしてピーターもヴァーンも、自分がそのような街に住んでいる事を知っていたのである。


「君は何故あんな事をした?」

「畜生、この気持ち悪い化け物野郎め!」

 尋問官の冷酷さを纏った問いかけを受けるも、ヴァーンにとってはそれどころではなかった。先程まで右手の人差し指と中指があった場所からどくどくと鮮血が流れ、じんじんと彼の痛覚を刺激し続けた。取り落とした鈍い輝きの.四五口径に、ヴァーンのどろどろとした血が滴り落ちている。

 一方でピーターの心に『化け物野郎』という言葉が刺さった。自分はソ連のクソ野郎と罵られ続け、今度はヴァリアントである事を蔑まれた。では、どうすればよいというのだ?

「何故だ?」尋問官ピーターが右手を向けると血が意識を持ったかのように、かすかに蠢き始めた。ピーターにとっては新たな発見だった――血のような、普通の水から程遠い液体を操作するのは難しいらしい、と。無論の事、既に抵抗の意志さえ失ったヴァーンにとってそれは更なる恐怖の追い打ちでしかなかった。

「そうか、答えられないか。君は心の痛みがわかるか?」結局このでぶは自分より惨めな者を見つけ出していたぶる事しかできないのだろう。目の前で出血して蹲る肥満の男を見ていると、ピーターの心が急速に冷めていった。

 ヴァーンはピーターの目を見て、その目が孕む尋常ならざる悍ましい様相を読み取って至高の恐怖に襲われた。具現した恐怖の化身じみたピーターの醸し出す空気がヴァーンを凍えさせる。そして彼は当然ヴァーンを殺す前に拷問するだろうから、その絶望的な結末が訪れる事に慄いたのである。

「ば、化け物野郎、何をするつもりだ!? おいやめろ! やめてくれ――」

「人間とはこうも醜い生き物なのか」


 死体そのものはさして珍しくない。暴力は日常茶飯事だからいつも誰かが死ぬ。だがその死体が全身を切り刻まれていると、それはギャングか異常者の仕業となる。しかも激しい損傷を受けたそれがヴァーンの死体だと辛うじて判別できたため、一体何が起きたのかと人々は囁き合ったものだ。


 かようにして、歴史は怪物を生み出してしまった。もしもピーターがヴァリアントだとヴァーンが事前に知っていたら? もちろん同じかそれ以上に酷い結果を生んだ事だろう。結局怪物は生まれるべくして生まれたのだ。今や悪しきヴァリアントの首領としてその名が知られている事は言うまでもない。ピーター・ローソン、またの名を…。

 という事で今回は謎のヴィランっぽい未来人の初登場、及びマグニートー的な立ち位置にする予定のヴィランのオリジン、ついでに簡単なオリ戦後アメリカ史を掻い摘んで書きました。

 マグニートー的なピーター・ローソンですが過激派テロリストみたいな役回りは控え目にする予定。じゃあどんなヴィランなのか? それは次話以降で。


 さて…ホントはあまり『冷蔵庫の中の女性(Women in Refrigerators)』のような安直すぎる鬱展開って好きじゃないんですけどね。それなのにピーターのオリジンを悲惨っぽくするために結局やってしまった事は、要反省でしょう。

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