NEW WORLD NEIGHBORHOODS#8
ヒーローとしての初出動で散々な目に遭うダニー。しかし彼は蟇の神オサダゴワーが作り出す混乱の中で、むしろ逆境であるが故に自らの矜持を作り上げる事ができた。
登場人物
―ダニエル・オーバック…生活費のため正式登録のヒーローとして働く事を決意した新人ヒーロー。
―Dr.エクセレント/アダム・チャールズ(ドク)・バート…滅んだ異宇宙からやって来た天才科学者、ネイバーフッズ・チェアマン。
―アッティラ…現代を生きる古の元破壊的征服者、ヒーロー活動という新たな偉業に挑むネイバーフッズ・チェアマン。
『ストレンジ・ドリームス事件』(コロニー襲撃事件)の約十一カ月前:ニューヨーク州、マンハッタン
降り頻る雨はとても冷たく、この場で何かしら留まる必要のある全員をうんざりさせた。雷鳴が時折煌めき、遅れて拡散する轟きが摩天楼を揺さぶっていた。
臓腑に無理矢理入り込んでくるような暴力的な振動に耐えながら、ダニーは自分がヒーローに志願し、そしてそれによって母を支えたいと志した事を思い出した――やめておけばよかった。
何故このような思いをせねばならないのか? ドクが作ったコスチュームは露出していない箇所に関しては防寒できている。
しかしとりあえず受け取ったマスクは目元のみを覆っており、頭部はびたびたと打ち付ける雨によって冷却され続けた。
歯ががたがたと震え、思考も邪魔され、冷たさは痛みとなった。耳が千切れそうに思え、思っていた以上にヒーローとは苛酷である事を知った。
日本及びそのインターネット環境に日々の情報源の多くを依存していた――それすらも積極性は薄いが――ダニーは知る由もあるまいが、上空で曇天と雷雨を発生させて好き勝手振る舞うオサダゴワーは幾ら髪としてはごく平均的な能力しか持たないと言えど、やはり隔絶した生物であった。
真に神として振る舞う際のハヌマーンであればこれに真っ向から対抗する事も可能であり、実際打倒すら可能であろうが、しかし今の彼には叙事詩で謳われる程の力は無く、あくまで制限されていた。
そのような事情はともかく、今こうしてダニーが崩落するビルとその噴煙を尻目に地上でジャンパーに手を貸してもらった事は事実であり、まさに嵐そのもののこの悲惨なデビュー戦で初めて温かいものを感じた。
「まあアッティラもライト・ブリンガーも悪い奴じゃない、っつーかちゃんと真っ当にヒーローやれてると思うぜ。だけどこんなクソみてぇにゴチャゴチャとした状況じゃ仲間への気配りもちっと雑になっちまうしな。まあ気にすんなって」
「…ありがとう」と消えそうな声で日本から渡って来た少年は言った。正直ほとんど聞き取れなかったがそれでもジャンパーことベンジー・ライトは「どう致しまして」と軽く言った。
それからベンジーはダニーの背中に軽くタッチして言った。「行こうぜ、俺達を必要としてる人達がいる」
「あなたは…その…」
「ベンジーでいいぜ。ああ、もちろんヒーロー活動中なら部外者がいない時限定でそう呼んでくれな」
「ベンジーは超能力とかそういうのが無いのに、ヒーローを?」
「それ言うなよ、俺だって結構それコンプレックスだし」
ベンジーは軽く笑って小走りしていた。それを追うダニーも少し温まってきた。
「ごめん…」
「まああれだな、俺にはバットマンの頭脳や財力もねぇし、ホークアイみたいな百発百中の腕もねぇ。だがそれでも軽業師みたいに動き回る事はできるし、それこそロビンの真似事はできる」それからプラントマンがコミックを含むオタクであった事を思い出し、心の中で『多分ロビンの真似事はできるな、多分』と付け加えた。
要はDCコミックスのロビンはその長い長い歴史の中で、ベンジーが知らないとんでもないような凄技を披露したかも知れないし、それを確認するつもりも無かった。今はまず混乱を抑制せねば。
「終わりだ、終わりだ! リゲルの暗い天使がグノーシス放射を始めたんだ! 殺される、奴らの時間冷却銃で殺される!」
雨の中で汚い身なりの男が大声で叫んでいた。歩道も車道も乗り捨てられた車や瓦礫で埋まりつつあり、先程の崩落で何かあったのか、地面が割れた箇所から水が土砂降りに逆らうかのように天向けて噴出していた。
「ほら、ああいう困った野郎もいる。これだからヒーローってのは楽しいんだよな」
「あの人どうしたの?」とダニーは明らかに引いていた。彼の着る白と淡い水色のコスチュームが雨の中でぼうっと浮かんでいた。
「さあ? クスリでブッ飛んだか、それかあー、心の治療が必要とか」でもなと彼はそこで区切った。「だからってああいう奴でも死んでいいわけじゃないしな。そりゃ気味悪いにしても、ヒーローならその傘だかマントだかでああいうオッサンにも雨除けを与えてやるべきだと思うぜ」
そう言って彼はいきなり加速して男に近付いた。正直体臭は酷かった、彼の担当するエリアや事件で嗅ぎ覚えのあり過ぎる匂い。
しかし彼は相手に話を合わせながらなんとか避難を促した。明らかに慣れており、その手腕には驚かされた――彼は明らかに一人の男をこの状況下で救い、異能など無くとも、その意志さえあればヒーローとして成立する事を証明した。
不意にダニーは、不本意ながらヴァリアントとして更なる孤独を抱えた自分に酔っているような気がしてとても恥ずかしくなった。
「よう、お前はどんな能力が使えるんだっけ?」
少年は現実に引き戻され、ミュート状態であった雨の音、人々の悲鳴や怒号、上空での激戦の音、破壊される建物の音、それら様々なものが場を再び満たした。
けたたましい車のアラームが鳴り響き、火災の音も微かに聴こえた気がした。そこでふと彼は気が付いた――今もこの一角のどこかで、誰かが命の危機に曝されているのではないか。
「僕は…その…」
彼は思考しつつ答えようとしたが、しかし能力の内容はあまりにも複雑過ぎた。創造を司るような全能の神がいるとすれば、と彼は思った――何故こんな能力を?
だがぐずっていてどうするのか。今こうしている間にも誰かが動けない状態で火に迫られていたら?
「ごめん! 人助けには使えそうにない!」
こうして大きな声で話したり叫んだりするのは正直なところ久しぶりであった。高校まではハーフである事によっていじめられた。
『ガイジン』という言葉は小学生の頃はそこまで悪意によって用いられず、その頃は時々面倒もあったがいじめではなかった――と彼は考えていたが、いじめられるというのはその人の尊厳に関わり、認められない事も往々にしてある。
そして中学の頃は一番酷かった。彼は顔立ちが整っており、それに嫉妬する声もあったのであろうが、とにかく無視やしょうもない嫌がらせ、ぶつかられる等の行為が彼に向けられた。
相手の方が体格がよかった時、心の中でその者を数百回殴ったり、あるいは殺すまで行った。しかしそうした『暴力的妄想』で表情が険しくなり、呼吸が上がり、強気になったところで、本来内向的で口下手な彼はそれを相手にぶつける術を持たなかった。
いじめグループはよく言った、『あ、外人じゃん!』と。アメリカ兵がどこかの基地で問題を起こしたというニュースがあれば、それを元にからかわれた。
時はアメリカの中東における戦争中、イラク戦争の長いその後がニュースで流れていた。『テロリストと戦って来いよ!』と言われた時、頭の中で何かが爆発したかのような屈辱を感じた。
母はどうしていいのかわからなかった。いじめられている事を悟られるのがダニーにとって苦痛であり、そして恥ずかしい事はよくわかっている。だが我が子が『問題にならない程度の塩梅で』密かにいじめられていて、それを親が何も思わないはずがない。
一方で父はいて欲しい時にいてくれなかった。しかも父の『アメリカ人の血』こそが、己の悪夢の元凶に思えてならなかった。母に同情を抱くにつれ、父には憎しみが募った。
このような地獄めいた学生生活において、携帯とパソコン、及びゲームが救いに思えた。サブカルチャーに没頭している時、聖域とも言える己の不可侵の家にいる時のみは、全ての苦痛から隔絶している気がした。
次第に漫画やアニメにも詳しくなり、その手の掲示板やまとめサイトなどに入り浸る事も増えた。辛い学校での時間にじっと耐えれば、すぐさま下校して聖域に駆け込めるという考えが支配的となった。
中心的なグループは隣のクラスの五人であったが、だが結局この屈辱の日々も唐突に終わりを迎えた。不意に担任達はいじめの撲滅に精力的になり、そして放課後のいじめグループのリーダー格の動向はほとんどばればれであり、尾行や追跡は大人にとって容易かった。
まだ二六歳の若い教師が、どうやって踏み込んで怒鳴ろうかと色々考えながら踏み込み、必要以上に大きな声で怒鳴った時、その教師は非常階段で鼻血を流して倒れるリーダーと、ダニーの姿を見た。
屈辱が悪い天気であれば、それもいつかは終わる時が来る。いつかは晴れ間が見えるはず。幼い頃に父がビールを飲みながらそう言っていたが、皮肉にもその通りになり、なんとも言えない虚無が心を満たした。
やがてそうした虚無感によってか、日常で『外人』という言葉を聞いても何も思わなくなり始めた。嫌な沈黙が続く中学生活は終わり、彼は頑張って地元から少し離れた所にあるやや難しめの高校に受かった。
果たして高校デビューには成功し、完全にゼロとは言えなかったものの、それでも蔑視に曝される事はほぼ無くなった。
世の中わからぬものであり、オタクとそうでない者の境界は曖昧であった――少なくとも彼の高校の、彼のクラスとその周辺では。オタクかどうかよりは、その生徒がちゃんと受け答えしてコミュニケーションが取れ、雰囲気がよいかそうでもないかが問題であるように思えた。
そのような緩い気風の中で、『現実世界』における同好の志を得て、しかも一緒に遊んだりもできた。女子との交流もあった。言ってしまえばそれぐらいのものではあるが、しかし彼にとっては夢のような生活であった。
己がヴァリアントとして覚醒するまでは。
だがそれでも、今ここにこうしている事に意味があった。できる事をしなければ、誰かが死ぬかも知れない。そう考えると怖くなり、自然とすべき事がわかった気がした。
上空にて交戦中の蟇の神オサダゴワーは引き戻した〈王の旗竿〉を触腕で振るってハヌマーン及びアッティラと打ち合い、その他の触腕で他のヒーロー達を相手取りながら、つまらなさそうに呟いた。
「なーんだ、あのまま心が潰れるかと思ったのに。じゃあちょっとした不可逆性の操作でもして遊ぼっと」
あり得ないレベルで美しいサソグア一族の放蕩息子は蝙蝠じみた翼をぴんと伸ばし、それと共に恐るべき劣化の波が黄色いエネルギーとして周囲へと広がった。
それは一瞬でマンハッタン全域を蹂躙し、その忌むべき力は無機物も有機物も問わず全てを劣化させて崩壊させた――否、それに抗う力が働き、劣化は元に戻った。
前線で戦うアールは生きた心地がせず、一瞬だけ土のように崩れ去ろうとした己の肉体に恐怖した。彼もまだ日が浅く、己の堅牢な肉体にすらよく効く能力というのは恐ろしかった。
『ケイン、これもいつまでもは保たない! このままじゃ全滅だ!』
ドクはソヴリンの技術を解析して発明した限定的な時間操作用の装置を接地し、そのアンテナがフォース・フィールド内で天向けて聳え、そこから不可視のエネルギーが放たれていた。
アッティラはふと考えた――この蟇の神も『敵』の差し金と仮定しているが、この神はどこまでやる気であろうか? このままマンハッタンごと滅ぼす気か? あるいはそれ以上を? しかしメリットは無い。
神の行動を普通の観念で推し測るのは愚かかも知れないが、しかしマンハッタンを襲撃するメリットが薄い。
最悪の場合ハヌマーン経由で様々な古代の英雄達の介入を生むやも知れず、かつてエアリーズの陰謀粉砕に大きな貢献をしたインドラジットとアージュナのコンビはもとより、太陽を父に持つ北米の伝説の狩人ジョナヤイイン、究極の人間最終兵器の座を掛けて激突し友となったベーオウルフとバトラズ、妖魔達の新たな指導者として多大な貢献をした不死の英雄カイクズィ、そして創世術師グルスキャップ。
これらの介入は明らかに、神にとっても脅威である。では一体今回のマンハッタン攻撃は、どのような意図であるのか?
何にせよ、再びオサダゴワーが放つあのエントロピーの波がやって来る。今回か次辺りが不味いかも知れなかった。
果たして己の〈神の鞭〉はどこまで劣化現象を斬り裂く事ができるか?
そして無慈悲にも蟇の神格は己の全身から再び劣化促進の波を放射し、黄色い光であるそれは万物を朽ちさせんとして迫った。
いかにもその時、何者かが降り頻る雨の中で介入して来た。それは一人の黒衣の男であり、手には有機物じみた美しい肉腫剣が握られていた。




