PLANTMAN#4
あの後アールはフィリスの作業を手伝うために残った。彼らは当たり障りのない会話を続けたりしつつも、それは傍から見れば充分に仲睦まじく見えるものだった。
登場人物
―プラントマン/リチャード・アール・バーンズ…エクステンデッドのヒーロー、出版エージェント業。
―フィリス・ジェナ・ナタリー・リーズ…アールの担当作家。
午前2時01分:ニュージャージー州、ベイヨン
「このアメリカ文学のなんたらかんたらってのは?」
すっかり深夜になり、アールとフィリスはオレンジ色の淡い照明に照らされながら作業していた。
「ああ、それは…そうね、それは片付けないで」
「これって何に使うんだ?」
アールはその少し重たい本を右手で持ちながら肩を竦めた。
「間違えちゃいけないようなお約束を間違えたら恥ずかしいでしょ。そういう資料を用意しておけば変な箇所が無いかを確認できるわ」
「へぇー、やっぱ本書くって大変だな。いや、今更だけどさ」
「下調べしないなら適当でもいいでしょうね」
「ああ、そして冬の星座が夏に見えてるシーンを書いちまうんだな」
「ふふふ、まあそういう事ね」
書斎にはまだまだ大量の資料が乗っかっていた。それらは立派なハードカバーから表紙が折れ曲がったソフトカバー、そして何を書いてるのかぱっと見ではわかりにくい走り書きのメモ用紙やレターサイズの紙――一つ手に取ってみると、文字がびっしりと書き込まれており、しかも少し恥ずかしそうにフィリスがそれを彼の手からすっと奪ったものだから、アールは苦笑しつつそれ以上は追及しなかった。何となく彼女が何故恥ずかしそうにしたのかは理解できていた。
「それで…さっき俺が手に取ったような類――多分取材のメモだと思うが――は片付ける? それとも片付けない?」
フィリスは眼鏡のブリッジを右手の中指で軽く押してから顔を上げて答えた。
「それらはまさに次回作のメインキャストね。可能な範囲で取材の仕方、捜査の仕方、裁判の手順なんかを書き留めてあるわ」
「すっげぇ、アティカス・コディアックみてぇだ」
「え? ああ、えっと、ちゃんと取材してるって事かしら? そりゃもう、それぐらいやらないと世の中わからない事だらけよ。普通に生きていく分には問題にならなくても、こうして何か書くにあたって『そういえばあれってどうなってるの?』という疑問が頻出するものなの」
「こうして作家の裏側を見たのは初めてだから、色々驚かされたよ」
とは言え、よく考えればドン・フレッチャーが色々と資料を漁っていたのは見た事があるし、それらには取材したものも含まれていたのを思い出した。
「じゃあ次回作はどういう話に?」
「それは機密ね。楽しみに待ってくれると嬉しいわ」
淑やかに微笑むフィリスを見ていると、アールも自然に笑顔が溢れた。
「それにしても気が早いね」とアールは口にして、しまったと思った。それにしても気が早いね、まだ君はこれからデビューするところだし、それがヒットするかもわからない――という意味合いにも取れるからだ。
「どうかしたの?」
彼女は特に気にした様子もなく、資料の山を漁っていた。
いつの間にか外は土砂降りになっていたようで、時折外がフラッシュを炊いたように光り、その数秒後に遅れてごろごろという音が届いた。風向きの変化で度々窓を打ち付ける雨音が聴こえるものだから、アールはその度にあーあと嫌そうな顔で肩を竦めた。
「今夜は快晴で、空には天の川と流星群が見える事でしょう。ですが頭上を見上げ、異星人の降下艇が降ってきていないか注意しましょう」
「もう、ちょっと何なの?」
真面目腐った調子でニュースを真似たアールの余興を聞いて、フィリスは面白そうに笑ってくれた。
「このまま嵐の大合唱を聴いてもいいけど、何だか単調なんだよね。この本はどうする?」
「それは本棚に仕舞って。そうね、確かに退屈だわ」そう言ってから、フィリスは落ち着いた様子で一点訂正した。「でもあなたと話すのは楽しいわね」
「そういうフォローは嬉しいよ」そう、君のそういうところも可愛いね。彼は上機嫌だった。
それからアールはスマートフォンで自宅のCDの山――彼はCD派だった――から取り込んだ曲によるプレイリストを再生させ、ピットブルやダリアス・ラッカー、リアーナやカルヴィン・ハリスなど広く浅く、よく耳にするアーティストの曲を流した。たまに数年前や数十年前の懐メロが流れ、2人をノスタルジックな気分にさせた。
「ところで一ついいかしら?」
「どうぞ」
「立派な体型だけど、何かスポーツをやっていたのかしら?」
待ってました。
「高校までフットボールをやってたよ。今でも時間があればトレーニングしたり、ビール片手に好きなスポーツを観戦したり」
「本当はもっと節制していそうだけど」
「ああ、もしかしてあれ? ほぼササミだけで生活してるとかそういう」
「あー、そうね。そんな感じ」
「俺はそんな苦行はしてないよ。こういうのって個人差があるから、適当な生活でも俺の場合は肉体を維持できるみたいだね」
「羨ましいわね」
フィリスはプリント数枚をとんとんと纏めながら、微笑んで流し目をアールに向けた。大人らしい成熟した魅力があって、それはアールにとっては最高に可愛かった。
「いやいや、君のスタイルは俺好みだよ」
「もしかして変態さんを家に上げてしまったのかしら」
「惜しいねぇ、君は早く会話を打ち切って帰宅するべきだったよ」
彼らは互いの顔を見合わせて、それから近所迷惑にならない程度に笑い合った。
それから時間は刻々と過ぎ去り、半ば流れ作業と化した分別が続き、たまに時計を見れば1時間が過ぎていたりしたものだった。アールは全く眠くなかった――時折彼は、そんな己が悲しくなった――が、フィリスは少し疲れてきたようにも見える。
短い話し合いの結果必要な資料を分別するついでにそれらをオフィスソフトの文章作成機能でリストアップする事を決め、フィリスがそれを請け負っていたが、4時半以降は彼女も段々とうとうとし始めたらしかった。時折眼鏡を外して目を擦っていたが、それと同時に時折瞼が閉じられている時もあった。
「フィリス」
はっとしたように、彼女は目が覚めたらしかった。再びしっかりとした様子の彼女が戻った。だがアールには、そうした可愛らしい様子を見せてくれたフィリスを咎めるつもりはなかったから、声と口調に咎めの色が出ないよう気を付けながら告げた。
「もう4時40分だ。君はもう寝たらどうだ? 美容に悪いし」
「いえ、手伝わせておいてそれは駄目だわ」
「大丈夫大丈夫、こういう時はこの便利な年下のハンサムを頼ればいいのさ」とアールは自嘲気味な声色で、しかし優しく申し出た。
「何から何まで悪いわね」
フィリスはアールの言葉に甘えようと思った瞬間に、睡眠がとても甘美なものに思えてきた。そうした自分の浅ましさに溜め息をついたが、結局はアールの好意を受け入れた。
引き継ぎ作業は5分もかからず、いつもアールがやっているような雑多な書類作成と大差無いので、残りがそこまで多くなかった事もあって5時17分頃には全ての作業が終わっていた。
気が付けば雨は止み、空が少し明るくなり始めていた。フィリスは罪悪感からかベッドではなくこの書斎として使っている部屋のソファで仮眠みたいに眠ったが、寝返りを打った際にはアールがずれたタオルケットを直した。その時に間近で見たフィリスの無防備な姿はとても小さくか弱いものに見え、不健全な気分次第を抱かないでもなかったが、しかしアールは彼女があくまで己を信頼していると考えた――こうして目の前で眠っているのも別にサインではなく彼への信頼なのだと解釈し、若いカップルのような事にはならなかった。
多分そうした自分のかっこつけた行為は世間から馬鹿にされるものだろうが、彼はそんなものなどどうでもよかった。そもそもそれを誰かに話すわけでもない以上は関係ない。
午前7時50分:ニュージャージー州、ベイヨン
「おはよう」
そう言われて、フィリスは目を擦りながら眼鏡をかけた。一瞬この男は誰だと思い胃が痛んだが、すぐにあの面白い年下のハンサムを泊めた事を思い出した。それからすぐに自分の服が特に何かされた形跡も見られない事に気が付き、嬉しいのか悲しいのかよくわからずに言葉を噤んだ。
「まあ俺もそこまで節操無いわけじゃないんでね。というかそれなら君だって覚えてるはずだよ」
「てっきりあなたと寝たのかと」
「そうした方がよかったならそうしたけど、君は俺に対して児童向け冒険活劇の主人公みたいに貞淑なのを望んでたのかなと思ったから。あ、今のはさっき適当に考えたよ」
「ふっ、まあそうね。こうして結構話も趣味も合うし、もしかしたらあなたにはそういう健全さを求めていたのかも知れないわ」
「マジで。まあとにかく、寝込みに迫っても面白くないしね。ほら、俺って純情だし?」
フィリスは笑った。
「よく言うわ、大学の頃だって、色んな女の子達を惑わせてたんでしょう」
「うーん、正直言うと昔どういう女の子が好きだったとかそういうのはもうどうだっていいね」
フィリスは半信半疑じみた様子で、アールに尋ねた。
「どうして?」
「今は君がいるよ。それに比べたら、そういう昔の与太話なんか価値が無いんだ。まだ出会ってほとんど経ってないってのに、俺は君を頭から追い出せない。君は本当に可愛い人だから、俺は…おっと恥ずかしいな。だが言おう。とにかく、俺は君が好きだね」
フィリスは半分程度確信できていた事が完全な確信へと変わった事で、金髪の皮肉屋を気取ったマッチョの言った言葉を一言一句吟味し、それからあの頬笑みを浮かべた。それを見たアールもまた、口の左端を釣り上げてそこそこ自然な笑顔を作った。
「私もあなたが好きだわ」
彼女は恥じる事なく己の意志を伝えた。だがあまりにも真っ直ぐ見据えてきたものだから、アールは自分もついさっき同じ事をしたというのに恥ずかしくなってきた。
「こうして作家とエージェントが好き合っていいのかは知らないけど、文句でも言われたら中指でも立ててやろうかしら。少なくともあなたの前では、もう好意を隠しはしないわ」
アールの目が泳いでいたので、フィリスはどうしたのかと尋ねた。
「俺は照れ屋なんだ」と彼はぶっきらぼうな風をわざとらしく装って、書斎机の黒い一枚布の背もたれ椅子に座って後ろへともたれ掛かった。フィリスはそれを疎ましくは思わず、むしろ魅力的に思った。
「そういうあなたも可愛いわ」
フィリスは彼の元へと寄り、その金色の短髪を撫でた。
「調子乗ってリードしてたけど、まあやっぱりこうなるよな」と、彼は恥ずかしさを紛らわすように呟いた。「でも俺が君に期待していたのは、こういう事なんだろうな」
「あなたと私には、そう違いがあるわけじゃないわ。ただ何年か私の方が先行してるだけ」
女王、というわけではなかったが、今の彼女は己のために働いてくれた男にその対価を与えようと、彼が求めているであろう安らぎや導きを与えようとした。
その頬笑みは柔らかさがいつの間にか消え失せ、恐ろしいまでに美しい、厳然たる女神めいたものへと変わっていた。だがむしろアールにとっては、こちらの頬笑み方が更に可愛く見えたので、気持ち悪くない程度ににやにやしながら、頭に触れる彼女の優しい手の感触に身を委ねた。
もしかしたら本当に彼女はいずこかの神格かも知れぬとさえ思えてきたが、それは彼にとって魅力の上塗りでしかなかったらしかった。
もうちょい可愛くしたいところ。




