CU CHULAINN#17
世界最大クラスの駅内人口を誇る新宿駅内で繰り広げられるアルスターの猟犬とゾンビ群体型コズミック・エンティティの死闘。単一の群であるそれの増殖スピードと、殺すわけにはいかないという制約が彼を苦しめるが…。
登場人物
―キュー・クレイン…ドウタヌキと呼ばれる尋常ならざる妖刀群を追う永遠の騎士。
―群体型コズミック・エンティティ…殺害によって新たなゾンビを増やす事で己の総体を成長させるゾンビ群体型コズミック・エンティティの幼体。
大阪での一件の翌日、追跡開始から数十分後︰日本、東京都、新宿区
駅構造は大体頭に叩き込んでいたが、しかしいついかなる時でも初めて来る場所で戦う時は緊張感から逃れる事ができない。特に今回はいかに広大とは言え結局は駅、そのそれぞれの通路やホームの広さにも限度があった。
だというのに世界最大クラスの駅人口密度であれば、そしてそれらの大半が現在進行中でゾンビ化しているとなれば、混沌とした状況は避けられない。
敵は致命傷を負わせてゾンビ化させた市民を己の統制化に置いていると考えられ、そしてそれは単一の意識によって操作される総体である事はほぼ確定していた。となれば恐らく敵はいずれかのゾンビが見聞きした情報を全て共有できると思われた。
ゾンビは仲間を増やすにあたって、あまり噛み付きは使っていないようであった。噛み付きは最終的な手段であるように思われ、見るも無惨な喰い散らかすよりも、むしろ喉などの急所に噛み付いて致命傷を与える目的で噛み付きは使用され、専らの手段は打撃が多かった。
噛み付きに頼らずとも打撃だけで鈍器じみた威力を放てるらしく、殴られて血を噴出しそのままお仲間になったのであろうゾンビにも多く遭遇した。
騎士は己目掛けて迫って来たゾンビと言う名の単一を打撃で押し退け、その際に肉が腐敗する過程の悪臭を嗅いだ。体内の器官が狂って呼吸音は奇妙な音となり、あるいはあと少しすれば呼吸は全く別の行為に置き換わるのかも知れなかった。
伸ばされる腕を打ち払い、迫る顔を蹴り上げ、足払いで転倒させて逃げ果せた――胴の痛みを除けば特に問題は無かった。
だが騎士にとって敵の性質を知る事ができたというのはすなわち、己の目の前で守り切れなかった人々がいたという事であり、老若男女問わず無数の人々が絶望や苦悶と共にゾンビからリンチを受ける様は心を抉られるような感覚であった。蠢く肉の海の向こうを把握するのは難しかった。
昨日撃たれた傷は当然ながら未だに痛み、穢れの乗った弾丸は摘出できたが、その付随する穢れそのものは今も彼の体内を蝕んで苦しめていた。汗がじわりと滲み、自然と表情は険しくなった。己の痛みと他者の痛みが混在し、全身が燃えるように熱く、頭が朦朧とした。
それにしても、群がられて血が吹き荒れる様の恐ろしい事よ。転倒した兵士を刃で突き刺すように、総体の一部が群がって拳や脚を振り下ろす様はキュー・クレインに必死の阻止を敢行させたが、腐った肉の壁の向こうには後一歩で届かなかった。
苦痛が、否、負傷そのものが彼の技を鈍らせたのだ。痛みに耐えたり無視する訓練は積んでいるから、後は肉体がどの程度動いてくれるかが問題であった。
会社員らしき男性が抵抗の果てに喉を喰い破られた様などは、そのような様をこれまで何度も見てきたアルスターの猟犬に悍ましさよりも怒りを想起させた。
既に駅は血の匂いで充満し、まるでここが戦場であるかのごとく夥しい量の血がそこらを汚した。駅の照明が血をてかてかと鮮やかに照らし、それらの上をゾンビが這ったり踏んだりして血に不純物も混ざり始めた。
血はそうやって足跡や手の跡として広がったが、観察した限りでは血や空気などを介した感染ではないらしく、あくまでゾンビが生存者に致命傷を負わせた時点でゾンビが増えるものと思われた。
ごく少数だが市民の死にもの狂いの反撃によって活動停止したゾンビもいたが、それを見るに一般的に知られるゾンビ以上の生命力を持ってはいないらしかった。
騎士は残念ながら長年培ってきた防御の技術を封じられていた――鎧や盾や武器で敵の攻撃を受ければ、あの防御を無視するゾンビの能力によって損壊する可能性があり、実際に頑強な盾の表面、及び先程車内で鎧に付いた傷を見ればもやは疑うべくも無かった。
まるでビデオゲームのような不自然極まる能力だが、世の中には信じられないような事など沢山存在するので、騎士はその辺りについては既に深く考えるのを諦めていた。戦闘に集中しよう、そうすれば痛みは紛らわせるだろう。
アルスターの猟犬は生前のような狂戦士化する能力を使えなくなっており、そういう意味では弱体化していたかも知れなかったが、しかし使用不能な以外の技はかつて以上に研ぎ澄まされていた。
そして正直なところ、例え駅内の全員がゾンビ化しようとも、はっきり言えばその程度の数は猛り狂った心に身を任せずとも皆殺しにしてやる事はできる。
單に彼らが守るべき人々であって、そのためゾンビに成り果てようと、元に戻せる可能性が否定できない以上は殺すわけにはいかないという、それだけの話であった。ゾンビ化は彼の知らない範囲でも急速に広がりつつあり、このままでは駅の外にもそれらの群が漏れ出てしまう。そうなれば最悪のシナリオであり、それだけは避けねばならなかった。
最初に殺したあの男の死体は未だにそのままであり、あれが親という事はつまりあれもまた群体型の一部であろうが、ともかくそれの死体はゾンビ化していなかったため、生者を己の手で殺さなければ感染――と呼ぶべきかどうかは微妙であった――はできないものと考えられた。
それにしても数が多い。腹の槍で手加減する事はできないでもないが、しかしこの駅に今現在いる人間の数はざっと計算して十万人を超えていると思われた。
ヨーロッパ各国の主要駅を超える混雑具合であり、ラッシュ時の様相がほとんど戦場じみていたムンバイCST程の人数はいないにしても、それでもこの新宿駅は駅としては世界最大クラスの人口密度である事は間違いなかった。
殺すならともかく手加減技で無力化するとなると数十倍の手間がかかり、その間に敵は己の一部を更に増やすであろう――いかなる偶然であろうか、敵は彼が数年後に対峙する事となる〈旧神〉と似たような性質を持っていた。
ゾンビはそこら中から現れ、階段から、線路を挟んだ向こう側から、ともかくあらゆる場所から現れていた。どうやら緊急連絡があったらしく、先程から退避のアナウンスが響き、更には新規の電車が現れず、時間にうるさいこの国の電車が遅れているなれば、つまりは駅に入る手前で停車させて避難させたものと思われた。
その点に関しては素晴らしい、伊達にこの国も他の国々と同様に無数の驚嘆すべき事件に見舞われているわけではないらしかった。強いて言えば問題はまだ彼が九三体の敵の部分を無力化できたに過ぎないという点であった。それは差し当たって己で対処するしかない。
腹の槍を投げる事は躊躇われた――投げた先で敵があの槍に損傷を与えては困る。しかしこの槍は大型であり取り回しが悪く、主力として使うのは未だに慣れなかった。己がかつての狂気を纏えるのであれば小枝のように振り回す事とて容易かろうが、しかし今はそうもいかなかった。
相変わらず全力疾走で殺到するゾンビの勢いは衰えず、それどころか更に勢いが増しており、それは恐らくこの路線とその周辺が制圧された事を意味していた。となれば既に敵は駅の外に溢れ出ているのではないか。それを思えば絶望とて生温かった。生温い風が望みを絶ち、死は甘美であり、それはまさに抱擁であった――。
「そこです!」
騎士はゾンビの群れの頭上を這うようにして疾走し、そして次の瞬間には目的のゾンビを蹴り倒した。傷がずきずきと痛むため、蹴り方も随分適当であった。
着地と同時に横一回転しながら槍を振り回して時間を稼ぎ、痛みに耐えながら倒れたゾンビを片手持ちの腹の槍でぞんざいに突き刺した。手加減されているとは言え、数時間は動けなくなるはずだ。
相手がただの人間であれば手加減しようと〈致死の槍〉は死をプレゼントするかも知れなかったが相手はゾンビ、そのお陰で手加減は成立しており、無力化されたテレパシー能力者の肉体から発せられる恐るべきテレパシーの侵食が停止した。
しかしこれでは不味い、確かに考えてみれば、何らかの能力を持つ市民がこの駅にいても不思議ではないし、そしてその者がゾンビ化すれば、敵はそれを駆使して追い詰めてくるだろう。
彼の鎧は強固だが、所謂現実歪曲やその他の強力な異能にどこまで耐えられるかはわからず、彼自身の抵抗力をもってしても危険である事は変わらなかった。
しかも神の力を宿した武器によって負傷した身で、いつまでも立ち回っているわけにもいかない。自分のペースのみでやって行ける監視や尾行とは違い、こちらは不意に力んで痛みがやって来るのだ。血が鎧の下で滲むのを感じ、腹部がじわじわと熱くなり、そしてそれは紛れも無き苦痛であった。
今いるゾンビ全てが敵の触覚だとすれば、情報を共有する事で彼の位置を常に把握し、そこの戦線に特に強力な一部を投入してくると見るべきだろう。時間をかければその分不利となる事は間違いない――しかし一つわかった事もあった。
もし敵が非常に強力な能力を持つ民間人を掌握していれば、それが一瞬で勝敗を決めるぐらいに強力であれば、既にキュー・クレインは敗北を喫しているはずであった。そうなっていない以上はこの駅にそこまで強力な者がいなかったか、未だに持ち堪えているか、あるいは既に脱出しているものと思われた――。
とそこで、突如の奇怪な音が響き渡った。不意に空間が斬り裂かれるのを見て、騎士は敵が恐るべき能力を手に入れたのかと考え、地面を蹴って一気に移動し、痛みを堪えながら電車の側面に張り付いた。触れた手がべたりとして、血に触れた事を悟ったが、しかし気にせず険しい表情で状況を見た。
洪水のようにゾンビの群れが己目掛けて一斉に押し寄せ、言いようのない威圧感が感じられた。顔色が悪い者、血だらけの者、怪我が酷い者、それらがぎこちない動作で全力疾走して来るのだ。
無言で佇んでいると鼓動と共に全身を突き抜ける痛みがとても鮮明になり、それが逆に集中力を研ぎ澄まさせた――まるで生前最期の瞬間のごとく。
だが斬り裂かれた空間から這い出て来た何者かが、細く長い何かを神速にて振るい、それは空気を爆発させて敵の群れに殺到させた。
黒々とした毛並みが頭部と露出した腕部に見え、それは現代的にアレンジした安土桃山時代風の白と赤とで彩られた陣羽織を纏い、胴と前腕と脚部にこれまた現代らしくアレンジした鎧を装着しており、巨大なブーツを履いた足が異様に目立っていた。
立派な兜は被っておらず、明らかに人間のそれではない四肢と頭部とが見え、そして騎士はそれがゴリラのそれである事を悟った。とは言え今更何が起きようと驚く事もあるまいが。
腰には打刀ぐらいの長さの刀を帯び、左手で釣り竿のように長い鞘を持ち、実用本位でありながら恐ろしいまでの妖艶さを秘めた長刀を鞘に収め始めていた。
よく見れば腰に下げる刀も尋常のそれではなく、そしてそれらの正体がマガツ二神の力を秘め、彼が今現在追い掛けている妖刀シリーズの内の二振りである事は疑うべくも無かった。しかし幸いにもそのゴリラの剣士の目には、穢れや〈混沌の帝〉の気配は感じられなかった。
そして更なる闖入者――立ち上がろうとしたり、己を踏み越えて行こうとしている一部と互いに邪魔になったりして足止めされているゾンビの群れに、いずこかの次元から出現した触腕が何本も振るわれ、それらによってデモ行進じみたゾンビの混雑した群れは後ろ向けて再び薙ぎ倒された。
何事かとキュー・クレインが窺うと、先程のゴリラと共に一人の老いた男が現れていた。魔術師の類いであろうか。
一つ言えるのは、言葉すら交わしていない今ですら、彼らが己と同じ目的を共有しているであろうという確信であった。




