CU CHULAINN#16
アルスターの猟犬vsゾンビ――東京の駅内で繰り広げられる激闘は、思わぬ方向へ…。
登場人物
―キュー・クレイン…ドウタヌキと呼ばれる尋常ならざる妖刀群を追う永遠の騎士。
―群体型コズミック・エンティティ…殺害によって新たなゾンビを増やす事で己の総体を成長させるゾンビ群体型コズミック・エンティティの幼体。
大阪での一件の翌日、追跡開始から数分後︰日本、東京都、新宿区
騎士は名状しがたいグリッター・プレイトリアンを排除し、しかしそれらの死骸はグロテスク極まるため現場は悍ましい光景に支配された。駅のプラットフォームにタイミング悪く電車が入って来る音が聴こえ、彼は今日程電車のアナウンスを疎ましく思った事は無かった。
これでは無関係な人々が更に巻き込まれるかも知れなかった。己の知る限り未だ犠牲者ゼロと思われたが、しかしこのままではどうなるか予想もできない。彼らには彼らの物語があり、可能であればここで何かしらの野望を挫かれた阿呆の事を生き延びて他の誰かに伝えて欲しかった。
駅の床に広がる、人間の吐瀉物を悍ましくも倍加させたがごとき悪臭には辟易したが、しかしそれとてこの永き人生では飽きる程堪能した。
今現在屍を晒しているような類いの獣と対峙した経験は一度や二度に非ず、それの体液が顔面に付着した事もあれば深手を負わされた事とてあった。とは言えアルスターの大英雄がこうしてここで謎の敵の妨害を図れるのはそれら全ての障害を尽く斬り伏せて踏み越えて来たからに他ならなかった。
剣と盾に汚物じみた怪物の血液を滴らせるキュー・クレインが予想以上に厄介であると察した敵はさっと後退し、更にプラットフォームの奥へと移動した。騎士は不意に質問した。我々とは?
「我々とはつまり、あなたの他にも誰かが動いているとでも?」
相手はしかし質問には答えず、仄暗い古ぶしき詠唱を始めた。駄目だ、話になるまい。では追い掛けっこもここまで。
相手の詠唱が実を結び始め、点滅するように発行する人間を戯画化させたような霊体じみた何かがその周囲に現れ始め、更には周囲が奇妙な肉塊じみたものに侵食され始めてそこから触腕じみたものがびっしりと生えた黴のごとく成長を始めた――これは何度か見た事があるが、敵は駅を己の有利な環境に作り変え、あまつさえ周囲の生物を不気味な霊魂に憑依させて操る気であろう。
そう考えた瞬間に彼の姿は消えた。アルスターの猟犬目掛けて厭わしく迫った点滅する幽鬼どもは完全に彼の姿を見失い、そして彼はいつの間にか作業着姿の敵の背後に移動しており、背後からの強烈な回転蹴りで相手の胴側面を痛打し、そのまま吹き飛ばした。その先は線路であり、そこに落下した敵にこの駅を通過する予定の電車が激突した。
落下後即座に立て直した敵は辛うじて強烈な電車の追突を両腕と肩とで受け止め、ざあっと滑りながらそれに急ブレーキを掛けた。火花が飛び散り、腕から出血し、顔面の片側が打撲で腫れた。衝撃で割れた運転席ガラスが降り注ぎ、それは敵の顔面や頭部をきらきらと彩った。
しかし詠唱を中断されて先程までの事象を打ち切られやり直しとなった敵は己の左腕を電車に突っ込み、名状しがたい肉腫じみた物体が電車前面を侵食し、それが運転席から生えて運転手を取り込もうとした。後退る運転手の恐怖の表情は騎士の心を痛め、それ故彼はそれら恐怖を終止させるため再び消えた。
「私の目の前でそのような事はしないで頂きたいのですが」
気が付けば距離を詰めていた騎士は冷ややかに、敵のすぐ近くで囁いた。冬の隙間風のように冷え切ったそれはしかし、敵にとって胸でめらめらと燃え盛る苦痛を相殺するまでには至らないらしかった。
キュー・クレインは己の愛剣を相手の胸に深々と突き刺し、無感動を貫く敵とてその肉体に致命傷を負わされてはその淡々とした様も滑稽でしかなかった。作業服が刺突を喰らった箇所から徐々に赤に染まり、じんわりと広がるそれはどこまでも痛々しく、周囲への侵食も時間が遡行するかのようにして萎び、それに留まらず腐り果てて消滅を始めた。
いずこからか呼び出された忌むべき霊の群れは、次々と断末魔めいた聞くに堪えないグロテスクな悲鳴と共に己らが元いた領域へと押し戻された。
「私は単にこの半永久的に続くかも知れない第二の人生で捻くれて、冷めて、そしてそういう自分の在り方が気に入っているというだけであって、人々が理不尽な殺傷に巻き込まれる事に無関心を貫いてるなどというわけではないのですから」
キュー・クレインはブーツで敵の胴を蹴って剣を引き抜き、その命の灯火が消えるまでを監視した。蹴られてよたよたとなって線路逆側の壁にへたり込んだ敵は無感動ではあるが致命的な様で藻掻こうとし、やがて力が抜けてだらんとなった。
民間人の悲鳴が木霊する地下でアルスターの猟犬は漸く一息と言ったところであり、目の前で血を垂れ流す愚かな男の死をもってして安寧を得た己はやはり今の世ではアウトサイダーであろうと思った――ふと横を見れば、先程ぎりぎりで己が救えた運転手は明らかに己をも恐怖していた。
まあそれでも、例え守るべき人々から恐れられようとも、救えたのであればそれでよしとしようではないか。騎士はそう考えてその場から風のごとく掻き消えようとしたが、まったく出し抜けに彼の得た勝利は破壊された。人々の平穏は守れずともその命は守れたと考えていた矢先であり、完全なる不意打ちであった。
雑多な騒音のせいで常人には聞き取れない可能性が高かったが、ともかく明らかに他とは異なる種類の悲鳴が停止させられた車両の中から凄まじい勢いで響き、はっとした騎士は車両の方へと向き直った。車両のほとんど割れたガラスの残骸を突き破って中へと入り、先程助けた運転手を尻目に彼は車内の人混みを掻き分けて声のした方へと接近した。聞こえ方からして恐らく先頭から二両目。
急停止の混乱の中で突如現れた異装の男にどよめく車内を駆け、彼は乗り込んでいる客の頭頂と天井までの間に僅かな隙間がある事に気が付いて、ふっと掻き消えていつの間にか先頭車両の後端へと到達していた――もう少しで何が起きているのかが見える。伝播する恐怖の悲鳴は地獄じみていた。
「ゾンビだ! ゾンビが出たぞ!」
ゾンビ、アフリカ系の伝承に由来を持ち、主にアメリカで文化的発展を遂げた人喰らいの元人間、腐敗した肉体で食欲のみに突き動かされるグロテスク極まる怪物、死体を貪るとされる中東伝承の食屍鬼どもとも何らかの関係があるかも知れぬ、悍ましい群れ。
しかしキュー・クレインが今回の地球帰還の際に得た情報によれば、基本的にそれらはあくまで架空の存在であったか、あるいは人知れず誰かにその発生を潰されているか、そもそもそのような術を用いる者が少ないと思われた。
ではゾンビが出たとは、一体どういう事なのだ?
「逃げろ!」
「来るな!」
その他様々な言葉にならぬ怒号と悲鳴。不味い、急いで状況を確認せねば。車両間を隔てるドアを強引に開け放ち、混乱する人混みの向こうへ――。
そこにいたのは人間を悍ましくも戯画化させたものに他ならなかった。周囲の乗客が離れてできた円の中央でびくびくと仰向けで痙攣し、顔は青褪め、目は充血し――そしてそれは一体のみならず見れば群衆の中で騒ぎが起きていた。どうやら他にもあの類いがいるらしく、それが他の乗客にも襲い掛かり、そして新たな悲鳴が別の車両から。
不味い、一体何が起きているのだ。
「いいえ、目の前で起きている事こそが…!」
騎士はゾンビじみたものへと変貌した市民に掴み掛かり、強引に引き剥がした。その際暴れる腕が己の鎧へと当たり、他にも床や椅子にも当たったが、床に引き倒して上着を脱がして拘束した。
「馬鹿な」と彼は冷めたままで口にした。というのも、素晴らしい強度を誇る己の鎧があのゾンビじみた怪物の腕や指で殴られた程度であるにも関わらず、表面が抉れて周囲に罅が入っていた。床や椅子も同様以上の被害を受けていた。では人間は?
ふと見れば先程襲われていた市民は明らかにただ殴られたよりも怪我が酷かった。とは言え己の鎧が受けた被害よりはまだましであるように思われ、それを思えば単に凄まじい威力の攻撃を放てるゾンビというわけでもないように思われた。だが
彼は一旦脳内で仮定した――このゾンビの放つ打撃等の攻撃は強度や防御力をある程度無視する。すなわち防御は悪手、攻撃こそ最大の防御か。
ただし彼らを即座に殺す事は躊躇われた。このゾンビ化とて不可逆の変貌だとは限らず、元に戻せるかも知れぬ人々を殺めるのは躊躇われた。ならばあの恐るべき腹の槍を使う他あるまい、加減をして放つ技を使えるようになったあの殺戮兵器を。
騎士は虚空より召喚した腹の槍で車内のゾンビ達を刺突し始めた。もしも往時であれば、その一撃一撃がそれらの体内をずたずたに引き裂いて、内臓が溢れたであろう。しかし今は違うのだ――。
〈致死の槍〉、かつて師より授かりその技を伝授されしこの恐るべき腹の槍は、今では殺す以外の技をこの呪われた第二の人生で練り上げるに至ったのだ。今のところ根本的なゾンビ化の解決は一切思い浮かばないし、腹の槍の一撃を受けようとゾンビ化が解ける可能性も高いとは言えない。だが少なくとも時間稼ぎにはなるであろう。騎士は尋常ならざる槍を振るい、その技でもってしてゾンビを無力化し始めた。己の無力化より速いスピードで人々が傷付けられ、ゾンビにしては打撃中心というのが引っ掛かったものの、ともかくそれに殴られ致命傷を負った人々が次々にゾンビ化する中で彼は神速の攻撃を放ち続けた。狭い車両の中で重い槍は扱い辛いため、彼はその怪力で電車の壁を吹き飛ばして使い易くしたりもした。
突き刺されたゾンビ達は致命傷を負う事無く力が抜け落ち、行動不能になって倒れ伏した。見ればゾンビ達は肌の色が病的になる程度から腐敗する程度まで様々な個人差が見られ、それはある種の適合差であろうかと思考の隅っこで思案した。だがそこで信じられない事が起きた――否、目の前で起きている事に信じられない事などあるまい。
‹お前はアルスターのキュー・クレイン›
口許がぐずぐずに崩れたゾンビの一体が喋った。ホームにもゾンビが溢れ、走って階段を登り始めていた。
‹我が親から継承した知識にあった›
顔が死体色となり目がぎょっと飛び出した太ったオタク風の青年が同じ声で言った。正直なところこれまで様々な領域を旅した事で様々な体験をしてきた騎士はなんとなく相手の性質が理解でき始めた。そしてそれはそうとして更に五体のゾンビを行動不能にして投げ飛ばした。人々の悲鳴が己に限界を超えさせようとしていた。
「なるほど、群体型の実体ですか。群体知性かそれとも――」己の友である美しい三本足の神と同じ、別々の場所にある己の躰の群れを俯瞰的に掌握して動かしている実体。親とは何か? 親、あの先程殺した男であろうか? ならばあれも同じく群体型の実体、それもコズミック・エンティティ級の実体である可能性すらある。そして何であれ、己だけでこれの拡散を防ぐのは相当に厳しい。
‹お前は己の息子を殺した›
‹お前は深い悲しみを負った›
‹私と一つになれ、そうすれば息子ともわかり合える›
騎士は鼻で笑った。確かに、己の自業自得ではあった。若さが判断を誤らせ、美しい女であった敵方の武将を抱き、その女に己の子を孕ませ、そして当時としても理不尽なゲッシュを約束させて己はさっさと国に帰った。キュー・クレインは後で気付いたが、あれでは己の息子が己と対決する事は到底避けられなかった、なのにあの時、ほとんどのりで生きていたあのめらめらと燃え盛る戦士としての日々は、深く考えればそうなる事がわかるはずの事を己にやらせたのだ。
己の恐るべき腹の槍が最後は己の内臓をずたずたにしたのと同様、過ちは巡り巡って己へと舞い戻り、深い慟哭が身を包んだ。後で師はこう言った、お前と殺し合わせるためにその息子を育てているような気がして、いつも心が晴れなかった、と。そして彼女は初めて彼に謝罪を述べた。
「――ですが全ては私が蒔いた種、私の行ないが帰って来ただけの事」
迫るゾンビの群れを引き付けて、壁や天井を蹴って翻弄し、一箇所に纏めてクラウド・コントロールをやり易くした。
彼は師に言った、あなたは全く悪くなどありません、と。師は言った、だが私はお前がその息子に殺されるという最期を迎えるのが怖くて、結局は腹の槍への対策を教えなかった、と。だが彼は疲れた笑みを浮かべてこう反論した、いいえ、俺はあなたの弟子であり、それはすなわち例え俺をも圧倒し得るその息子であろうと、彼がその対策を知っていようと、それでも結局俺こそはアルスター最強の戦士だから、その技からは彼とて逃れられませんよ、と。そして彼は伝承通り、親しき者どもや宿敵なる者どもの後を追うようにして壮絶に散っていった。
「むしろあなたこそ心配すべきでしょう、何故なら――」彼はゾンビどもの頭上を跳び越えながら、その間に腹の槍の技を放ってそれらを黙らせた。「――アルスターの猟犬であるキュー・クレインがあなたの成長を阻止する側にいるのですから」
冷たい眼差しが地下鉄を貫き、増え続けるソンビ群体型のコズミック・エンティティ――その幼体――は感じるはずなどないはずの感情に身を打ち震わせないわけにはいかなかった。




