NYARLATHOTEP#16
この悍ましい消失現象がノレマッドという種族に行なった事、その内容はあまりにも一つの種族を弄び、尊厳を踏み躙っていた。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神、活動が確認されている最後の〈旧支配者〉。
―二の五乗の限界値…ノレマッドという種族全体を襲った謎の消失現象。
約五〇億年前、調査開始から約十一時間後:遠方の銀河、惑星〈惑星開拓者達の至宝〉、ノレマッドの無人都市、浮遊ビル上空
ある男女の物語であった。女は男の煮え切らない態度に業を煮やし、離れて行った。青春の甘くほろ苦い思い出。恋人未満の関係の終焉は男の心に大きな亀裂を作った。後悔が胸に込み上げ、何故あの時ああしなかったこうしなかったと虚しい『もしも』を思案した。学業で優れても、仕事で優秀な業績を打ち出しても、その一点だけは決して消えずに残り続けた。ふと一人で夜眠る時、瞼の奥に己と離別した女の笑顔が浮かび、一人でどうしようもなく泣いた。
数十年経ち、彼らは偶然仕事の関係で再会する。運命的な偶然はしかし男に慎重さを呼び覚まし、まるで少しでも手元が狂えば崩れ落ちる砂の城塞を扱うかのように、男は女が再び離れないようとにかく慎重に行動した。しばしば気を遣い過ぎ、しばしば機械的な印象を女に与えた。彼女の方では彼があの頃とすっかり変わってしまったのかと認識し、正体不明の寂しさが女を襲った。図らずしも甘酸っぱいかつての日々が今現在の彼らを役者に据えて再演され、徐々に彼らの距離は狭まった。
不意に仕事で大失敗を犯した女を男がフォローした際、まるで青春時代当時のように彼らは本当の気持ちをぶつけ合う機会を得た。誤解からの言い合い、徐々に見えてくる『今の各々の在り方』、そして小賢しい打算とは無縁な無垢さの再発見。彼らは己らがあの頃から本質的には変わってはいなかったのだと気が付いた。
やっと。そう、やっと彼らは素直になり、やっと後悔を置き去りにして未来を見据える事ができた。過去を過去として処理し、思い出として振り返って笑える段階まで進み、その先へと進める。
それからは素直になった事で新たな思い出を作る事ができた。出先で動かなくなった車を直していたら二人で雨に打たれて身を寄せ合い、外国へと旅をして全く違う世界観を目の当たりにして、そして特に何も無く自宅で共に過ごした。彼らは素直になれた事を忘れないようにしていた。
しかし『素直になれてから』の一ヶ月記念日、男は急な事故で倒れた。意識は戻らず、しかし死ぬでもなく。女は目の前が真っ白になり、泣く事すらできなくなった。神に祈り、まじないを試し、様々な治療法を探し、その全てが無駄に終わった。男は眠り続け、女は虚ろであり続けた。
だが五年後の事であった。女は遂に男を救う手段を探し当てた。太古の昔に失伝したとある奥義、それを使えば植物状態からの復帰も可能としたと、そのような都合のよい話が転がり込んだ。これで彼を救える、女はここで初めて涙を流し、そして躊躇う事無くその奥義とやらの代償を支払った。
男は奇跡的に生還した。己がどうなったのかを朧気ながらも悟っていたが、しかし傍らに最愛の人はいなかった。何があったのか? 知人達は口を閉ざし、しかし最終的にはその真相が語られた。己が何故こうして元気になれたか、女が今どこにいるのか。
男は何日も泣いた。とにかく疲れ果てるまで泣き続け、顔のあちこちが腫れてひりひりと痛み、獣のように容姿を乱して漸く泣きやんだ。やがて男は思うようになった、『お前は今もっといい場所に昇った』のだと。
美しい三本足の神はノレマッドの巨大都市の遥か上空に己の側面を浮かべ、星間宇宙を映す漆黒のマントをはためかせながら苦虫を噛み潰したかのごとき表情を浮かべた。
下らない、全くもって稚拙で既に誰もが試行錯誤し尽くした題材、設定、展開。美しい三本足の神は二と五乗の限界値が作り上げた悲劇だか切ないお話だかがあまりにも微妙であったため、久々に猛烈な吐き気に襲われた。細部の演出も独り善がりで、そして悲劇としての徹底も足りない。更に胸を突き刺すような激痛を齎し、それでいて胸を打たれるかのような感慨を抱ける内容にする事は可能であろうが、しかしこの幼稚で外道極まる消失現象はその限界故にこれ以上高度な作品を作り上げる事が不可能であった。所詮虫けらは虫けらに過ぎぬという基本的な原則を再確認させられた事になろうが、何であれ愚劣極まる。死を賜る事こそこの虫けらに対する最善の救いだと思われた。しかし本来的にはこうした自覚無き下郎程しぶとく、己の愚を知覚していなかった。それ故美しい三本足の神はこの消失現象に対してあの忌むべきグロテスクな〈旧神〉と酷似した性質を見出した。あるいはこれら下郎どもには名状しがたい何らかの関連性があるのかも知れなかったが、いずれであろうと神罰を下すべき事に変わりなかった。先程かの神の妻を妄想の世界で不義に走らせた事とて、熟達した脚本家であればもう少しまともというか、少なくとも暇潰しに照覧してやっても構わぬという気持ちになれたかも知れなかったが、実際のところこの名状しがたい怪物は己の尋常ならざる力を用いて幼稚な行為に走っているだけであった――そしてそれは実害でもあったため、なればこそ〈旧支配者〉の名にかけて滅殺する他あるまい。
第一、と三本足の神は思わず失神しかけた。そもそも何故か二の五乗の限界値は〈旧神〉の種族と同じ恋愛観をあろう事か全く異なる系統樹で進化したノレマッドに適用したのだ。これは悍ましい拷問としか言いようがあるまい――全く異なる種族にそのようなものを適用したため、この消失現象が己の実験に使用しているそれら〈人間〉は深刻な拒絶反応を起こしているにも関わらず、そのような悲痛なる事実に決して目を向けようとしない。これではまさにあの〈旧神〉と同じではないか。ノレマッド権力階層構造はこのような虫けらに目を点けられ、そして不幸にもその独り善がりな実験の礎となってしまった。言うまでもなくこの傲慢極まる思い上がりは諸世界の創造主たる〈旧支配者〉への冒涜であり、許されざる叛逆行為であった。にわかに信じられない事をする莫迦がいる、そのような目を背けたくなる事実が実在する事にナイアーラトテップは頭を痛め、できれば理解する事すら拒みたいとさえ思った。それが想像をも絶する下郎を目の当たりにした際に正常な精神の持ち主が抱く至極真っ当な感想であり、かの神のこの場に顕現している十一の側面は結晶じみた戦鎚を、荒ぶる雷鳴やオーロラの複合物へと同時に向けた。
「偉大なる種族が己らの科学によって観測し、そしてその感性や観念によって名付けられた出来損ないの虫けらよ。貴様の実験にどのような価値があるか、釈明する事を許可する」
美しい三本足の神は激甚なる声で釈明の場を設け、束の間の慈悲を与えるに至った。というよりも、かの神の宇宙的な知性をもってしてもこの消失現象やその類似どもには理解が全く及ばなかったため、ある種の緊急的な措置であった。今後このような理解すらしたくもない畸形の化け物が再び出現せぬとも言い切れず、もはや己らの管理下から逸脱した現在の諸世界を思えば何が起きようと決して不自然とは言えなかったのだ。かの神の声は大気を怯えさえ、野山を震撼せしめ、そして惑星そのものが慈悲を請うために微心で電磁波を放った。
しかし二の五乗の限界値はその愚かさを改める様子も無しに、相も変わらず悍ましい言葉を光による言語によって放った。光のパターンは一見実直であるように見えたが、その実自惚れ強く、神経質で、周りが見えず、己を疑う事を知らぬ。
――お前の口うるさい偉そうな言い方にも腹が立つが、まあいい。この世界は不完全だ、だから俺が一から設定を作り直す必要がある。
「ほう? 具体的にはどこを修正せねばならぬか? どこを校閲すべきか? 何が問題であるか言ってみるがよい」
すると再び自惚れに満ちたオーロラが異様なパターンで輝いた。
――例えばこの種族は姿が歪だ。恒星の影響で放射線を浴びて変異したのか? 宇宙にはこういう化け物みたいな種族が無数にいる、だから俺はそれらを一から作り直す、手始めにこのノレマッドとかいう種族を作り直してる最中だ――
それ以上の句を告げる事はできなかった。何せこの現象の『口』であるオーロラと雷鳴とが宇宙的なエネルギーの奔流によって薙ぎ払われたからだ。それを放ったのは赤い結晶じみた戦鎚シャイニング・トラペゾヘドロンであり、それぞれ戦鎚を握り締めた三本足の神の十一いる化身達は、下方にて輝く巨大なエネルギーの大木が放つ光を浴びて甲冑が朝日のように煌めき、強い怒りと共に分散して追撃を開始した。
「貴様! 既に手を加えおったか! 我が子らに、愛する我が子らに貴様のごとき虫けらが!」
青天の霹靂がごとき怒声が夜闇を斬り裂いた。突然の猛攻に驚いた消失現象は雷鳴を再び煌めかせ、限定的な現実歪曲能力によって原子間の結合を広範に渡って解いた。しかし三本足の神にその程度の攻撃は通じず、かの神が反撃として手を振るった際に発せられたレベル10のハイアデス関数的性質による時間遡行が雷鳴を起こしていた上空の大気をすっかり消し去ってしまった。大気の空白部分へと大風が吹き込む様子を眺めながら、冷酷なる処刑人としてこの場に現れた三本足の神は二の五乗の限界値へと一斉に攻撃を仕掛け、戦鎚による神域の打撃はこの消失現象から伸びる影の単なる燃え滓でしかない不可視不可知の非物質への攻撃であるにも関わらず、その本体へと攻撃が通ったため二の五乗の限界値は惑星の地表へと叩き落されて森林地帯で大爆発を引き起こした――そもそもがこちらの位相には一切出現していないにも関わらず。
ノレマッドはあの幼稚な物語だけではなく、他にも無数のつまらない物語を演じさせられており、そこには彼らの主権などなく、ただの人形として扱われているに過ぎなかった。なればこそ滅殺以外に道は無し。
独り善がりな遊びで大勢を踏み躙るクズの元へ怒らせたらいけない系のキャラを介入させる実験的なストーリーとして書いている。




