NYARLATHOTEP#15
三本足の神は無人都市上空で今回の消失事件を起こした二の五乗の限界値との交戦へと突入した。敵の下劣で悍ましい行為が垣間見え、いよいよ怒りは限度を超える。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神、活動が確認されている最後の〈旧支配者〉。
―二の五乗の限界値…ノレマッドという種族全体を襲った謎の消失現象。
約五〇億年前、調査開始から約十一時間後:遠方の銀河、惑星〈惑星開拓者達の至宝〉、ノレマッドの無人都市、浮遊ビル上空
「無様にわめくは下郎の証拠、と言ったところか。己の側面を援軍として呼び出す事ができる私を相手に、封鎖もせずに戦うとは随分余裕なものよ、あるいは単なる貴様の無能さが成せる業か?」
美しい三本足の神は一切の容赦も見せずに辛辣さそのものの様子を見せて冷たく嘲笑った。かの神は邪悪が苦しむ様を好むものだから、特にかような名状しがたいグロテスクさを纏った下郎などはうってつけであった。神罰とは下さねばならぬ理由があるために下されるものであり、そしてその理由が眼前で苛立たしい様相で天候を悪化させているのを見ると、胸の内に暗い笑いが宿った。戦鎚を振るい、気が付けばすうっと他の側面が宙で分散して配置された。それら全てを俯瞰的か、あるいは到底人智の及ばぬ手段によって同時に動かしている這い寄る混沌ナイアーラトテップは、悪を討つため怒りの色を隠す事なく放出しながらこの場にいる全ての側面を分散配置させ、自己満足の偽りの玉座から敵を引き摺り下ろすための戦いを開始した。
明るい緑色に輝くエネルギーが都市だけでなく上空高くまで明るく染め上げ、地平線の向こうからさえその輝きが見えるであろう都市の上空では宇宙的なエネルギーが乱舞して激戦が繰り広げられた。結晶じみた戦鎚から放たれたブラストが空間そのものに襲い掛かり、実のところこの位相に己の影から生じた燃え滓を投影して限定的に顕現しているに過ぎない不可視の敵は、三本足の神の理不尽極まる攻撃を受けて驚愕と共に苦悶した。何故僕に攻撃が通るんだ?
「何故、か。それは至極単純な話、貴様が下劣極まり、醜く、そして最上の無能者であるからだ。貴様は果てしなく弱く、虫けらが吠え立てておるに過ぎぬ」
三本足の神の十一体いる化身の一体はさっと戦鎚を振り払い、神々しい煌めきを放ちながらそれを特定の空間へと向けてある種の死刑宣告とした。天高く聳える巨大な浮遊ビルよりも遥かな高みにて輝く何十何百何千光年も彼方の星々はこの惑星に限定的な顕現をしているグロテスク極まる悪辣な怪物に隠しもせず嫌悪を示し、恒星の急激な活動の変化は科学者達の感心事となったであろう――この銀河がノレマッドの全盛期の頃であれば。
お前、さっきから本当にうるさい奴だな。僕の邪魔をするならこっちにも考えがある。不自然なオーロラを用いた発光による言語で二の五乗の限界値は苛立たしげに言い放ち、かの神の宣告に対抗した。偉そうに、僕の高尚な実験にお前みたいな鬱陶しい奴がいちいち口を挟むな。
その瞬間空間が部分的に歪み、時間もまた部分的に逆行し、それらを纏めて時空としての観点から見た場合は、現在でも過去でも未来でもないとある矛盾しながら存在する一点へと吸い込まれているところであった。
同時期:詳細不明
尋常の宇宙ではあまり見ない奇妙な色が乱舞するのが一瞬だけ垣間見えたが、次の瞬間には何故か己があの矮星の宮殿にいる事に気が付いた。己の妻が笑顔を見せ、その様は思春期の少女のようであったが、その表情の裏には何やらやましいものが見えていた。駆け寄った彼女を何も言わずに凝視し、己の他の側面は一端空間を跨いで隠した。そのまま何分か経ち、エルクの女神ははらはらと涙を流して己の不貞に対するしょうもない謝罪と弁解を始めた。白々しい弁解とその他様々な矛盾がかの神の失笑を買ったが、その仕掛け人はそれを続けさせた。天に目を向けるとマクロの視点では星の配置に不完全な部分があり、漏れ出る星間ガスや小さな惑星から大気圏外へと放出されている気流などの再現が雑であった。マイクロの視点で見ると今立っている場所の細部が原子レベルで見ると記憶とは異なり、プラズマの湖もその広さが小数点単位のレベルでわずかに狭かった。これはそこらの芸術作品や模型とは違い、ある種の仮想現実である。それなのにこの程度の稚拙な再現度というのはなんとつまらぬ冗談であろうか。美しい三本足の神はこのまま暫く茶番を見ていようかと考えたものの、至極つまらぬ愉悦に浸る阿呆の事を考えるとそれらの興も消え失せた。身の程知らずにも下劣な実体が己らの創造主を実験対象にするとは、その様が滑稽で仕方が無かったのだ。やはり下郎は下郎に過ぎず、それが成せる事などただの慧眼に欠ける愚者が闇雲に妄想する理想図とそう変わりないか、それ以下でしかなかった。どこまで見下そうと果て無き愚かさとは、まさに笑いが失せる他無し。
「下郎らしい様よ」とかの神は冷たく言葉を紡ぎ、戦鎚を地面にごとりと落下させ、それは宇宙的な輝きと共に全てを消し去った。見せかけ上の矮星はその表皮を剥がれて発光言語による数列の羅列が表示され、そしてかの神に弁解をしていた偽者の妻は同様の数列となって拡散した。風景は崩れ果て、空間を跨いで隠れていたこの場に十いる側面を全て呼び出してつまらなさそうに佇んだ。
「どうした? 貴様の誰も面白いと思ってはいない阿呆の所業もここまでか? ナイアーラトテップその人にプレゼンテーションができる機会なのだぞ? なれば少しは必死さを見せて己の無価値な趣味を披露してみよ、まあ可能であればだが。おっと、私が貴様の作った不細工な舞台を破壊してしまったところであったな。言っておくが――」
空間が凄まじい勢いで歪み始めた。かの神の主観では正常な視界であったものの、光すら引っ張られる異常重力が黯黒を作り上げ、全てを飲み込んだ。物質を細かく分解して引き伸ばすブラックホールの残酷極まる高重力はしかし、かの神に影響を与えるでもなかった。
「言い忘れておったがな、私のような実体は降着円盤で海水浴をし、事象の地平線で遠泳や潜行を楽しむのだ。貴様ごときが再現できる偽りの再現現象が、まさかこの私に通じるとでも思ったか?」
そしてここは黯黒そのものであり、かの神はともかく通常であれば視界などというものは一切存在しない世界であった。あるいは高次元への入り口とも信じられているが、ここはとりあえず無慈悲な墓場でしかなかった。黯黒を通り越した真なる黯黒は、例えここで生存が可能であろうとその正気を奪ってしまう。外に出れば光がある状況とは違い、脱出不能故にどこにも光が存在しない牢獄だとすれば、それ以上の拷問が視覚を持つ種族に存在しようか。しかも時間の法則から大きく埒外にあるこのような空間においては。
だが所詮それは美しい三本足の神ナイアーラトテップには何ら関係の無い話であり、かの神は星空のマントを周囲の異常重力でひらひらとはためかせてせせら笑った。
「私相手に黯黒とは、笑わせるな」
言うが早いか黯黒の獣が十一体現れ、それらは凄まじい力を持つ己の翼を振るって時空を斬り裂き、ここでも己の影の燃え滓を使って顕現しているに過ぎない――簡単に言えばテレビの向こう側の視聴者であった――二の五乗の限界値に激痛を伴ったダメージを与えた。
「莫迦な奴よな。死にゆくブラックホールがエネルギーを喪って弱り果てる過程で発せられる放射光でも再現すればよいものを、貴様はそれを観測した事が無いと見える」
それ故敵はそれを再現できない。恐らく二の五乗の限界値は限定的なニルラッツ・ミジまたは現実歪曲を持っているが、それは己が観測した事のある現象でなければ再現できないと思われた。あるいはかの神の技を模倣しないところから見て、低確率ではあるが手を隠している事も考えられるものの、恐らく実際には観測しても再現不能な現象があると予想ができた。すなわち弱くてちっぽけな下郎でしかない。周囲の空間が歪み始め、虚構が崩れ始め、異物である三本足の神の十一いる側面を外側へと吐き出した。
だが外側へと出てきた三本足の神はあの空間を構成していた数列をざっと読み上げてその中から非常に許しがたい事実を知り得た――かの神をこうして弄ぼうとしたのと同じく、消失した全てのノレマッドは時間線上のどこでも無いとある時間へと引き込まれ、あのような独り善がりでしかない実験に使われているのだ。
なんだ、お前も僕の実験を見たのか。あれはとても興味深い試みで、よくある極限状況の実験だけじゃなく、様々な状況を想定して作り上げた実験場だ。最も感動的な自己犠牲サンプル同士の比較、遡行や旅行で過去へ向かった者が過ちを繰り返さない確率、破綻した愛が再燃するための要因の中で最も効率的なものの探求、他にも…。
「黙れ、下郎。気色の悪い奴よ。今まで話し相手がおらなんだがために、私に貴様のその気色悪い趣味を饒舌に語るか? ああ、これだから貴様のような実体は虫けらでしかないというものを。そして私は必ずや貴様を滅殺する」
空間から滲み出るようにして今〈惑星開拓者達の至宝〉の上空へと戻った十一の側面は既に翼を持つ闇の獣から三本足の姿へと戻っており、その怒りは先程まで以上に燃え上がっていた。




