NYARLATHOTEP#11
何やら不自然で、未知なる悪意が漂う惑星。美しい三本足の神はひたすらこの偽りの惑星の豊かな自然の只中を歩き続けた。やがてある事に気が付き…。
登場人物
―ナイアーラトテップ…美しい三本足の神、活動が確認されている最後の〈旧支配者〉。
約50億年前、アドゥムブラリ撃退後:遠方の銀河、田園風景の広がる惑星
名状しがたい黯黒の気配が楽園的なこの惑星に立ち込めているのを嫌悪しながら、美しい三本足の神は威圧的に周囲を窺った。この惑星は何かがおかしい。何故かこの長閑な雰囲気が嘘に思えてならない。いると思わしき謎の敵は幻覚などではあるまい――どこかに潜んでいてこちらを嘲笑っているはずであった。最終的には滅殺してやるつもりであったが、その姿が見えない以上はまずもって偵察する他無い。仔細に環境を観察し、知的生命体の様子からその他の生命体の活動までを判断材料とし、食屍鬼じみた悪臭を放つ仄暗い領域に棲み潜むそれを引き摺り出す事で丸裸にしてやる事程に気が晴れる事柄は無い。這い寄る混沌とはすなわちそれら鼻持ちならぬ邪悪に忍び寄って破滅に導く事を是とする最後の〈旧支配者〉にして、滅んだ楽園の生き証人なればこそ、その残り滓さえ貪り尽くすグロテスクな怪物どもに神罰を下さねばならない。ナイアグホグアであり、〈彷徨う天使〉であり、その他多くの異名を纏う事で悪辣極まる下郎どもを恐怖させる。身が竦めばそれでよし、あくまで抵抗するならば滅殺してくれようがな。
この星固有の植物が鬱蒼と、かつ整然と植えられた田畑がなだらかな丘陵に広がり、近くの背が低い山々は黄色に近い緑の葉を生い茂らせた木々に覆われていた。三本足の神は田畑のすぐ上をすうっと滑るように通過して最寄りの山の斜面に近付いた。ゆらゆらと黯黒のマントが揺れてその中で輝く星空が撓み、深緑のぞっとする程深い深海じみた神造の甲冑が神々しさを周囲の風景に伝播させた。眼下をふと見ると自動化された柔軟な素材の機械が作物の手入れをしており、かの神の爪先のすぐ下辺りではさわさわと波紋のように作物の上端が揺れていた。やがて山の斜面沿いの農道に辿り着いたかの神は柔らかい足取りで降り立ち、体重の軽い鳥のように軽やかな足取りで山へと分け入った。つんとした刺激のある作物の香りが薄らぎ、この星特有の野山の香りが強まった。かの神は少し急な斜面を上りながら草木を掻き分け、ねばねばとした粘液に覆われた小さな環形動物らしき生物は宇宙から舞い降りた蕃神の放つ神々しさや宇宙的な美という未知を浴びて混乱しながら葉から落ちた。落ち葉の下では無数の虫らしきものがおり、微細な蛆のごとき生物が土壌の中で活動しているのを具足越しに感じながら、その点に関してはかの神は満足した。なるほどこうして歩いてみるとどこまでも万緑の香りと活力が蔓延し、これからも永きに渡って続く繁栄を謳歌している事は明白であった。瞥見では足りぬだろうと更に多くの情報を集めようと美しい三本足の神は宇宙的な感覚に身を委ねた。物理的な肉体を通してその本質にまで染み渡るこの惑星の活力や青々しさ、酩酊に誘う動物達の生々しさ。それら親しみを持って迎え入れるべき数多の情報の中に黒い染みのような何かが混ざっていた。だが視覚や聴覚、並びにその他の超自然的感覚でもってしてもその詳細や所在を掴む事叶わず、あのアドゥムブラリと同様の嗤笑が聞こえてくるような気さえした。実際にはそれらグロテスクな実体と同様の何かがいるにせよ、全く手掛かりが発見できぬ以上は鬱屈とした心境を押し殺して更なる見聞をする他無かった。闇の中で手探りの状態が続き、確かに闇こそは己の別の側面にとっての活力なれど、今必要な要素ではなかった。ばさばさと音を立てて飛び立った6枚の翼を備える鳥の4つある目のいずれかに、一瞬だけ何らかの種類の恐怖を垣間見たような感覚を覚えたるも、微妙に確信が持てず三本足の神は押し黙った。
ゆっくりと歩いていたにも関わらず宇宙的な筋力を持つかの神は小さな山の尾根をものの数分で越え、その反対側の斜面の方へと無造作に歩いて行った。大して踏ん張るでもなく不自然なまでに軽い足取りで下山し、頭上を覆う木々から溢れる陽光が甲冑を照らして明るい色に染め上げた。頭上を見ると薄く引き伸ばされて今にも消え去りそうな雲が何かの模様のように空に浮かび、それよりは視線を落とすと太陽光と空気中のきめ細かな細菌を吸い上げてその巨体を維持する海月じみた大型の生物が数匹、穏やかな様子で作物の上を流れていた。ぐうっと唸るそれらは濃い茶色の襞と触腕をぐわんと動かして空中を流れており、時折体表の頂点から下部向けて緑色の眩い光の輪が素早く降りて行った。この惑星のなんと平和的で長閑な事よ。栄養と太陽の恵みを受けて育つ草木や作物、美しい動物の織り成す生態系。ここがコロニーなのかそれとも本星なのかまでは未だ定かではないが、そのいずれであろうとかくも素晴らしい宝石に囲まれて暮らすというのは、比較的多くの種類の〈人間〉にとって好ましい事であり、本来であれば美しい三本足のナイアーラトテップはその様を祝福してやりたかった。だがやはり何度見てもこれら見せかけ上の平穏は嘘臭く、耐えがたい悪臭を放つ名状しがたい実体の姿がどこかに紛れている事は明白であった。常人が見れば唖然としてしまうような悍ましい真実が裏に隠れており、それを暴き出してこの惑星を正常に戻す必要があった。吠えたける黯黒の獣達を排除した後に必ずしもよい結果が訪れるとは言えなかったが、主体性を破壊してしまう不要な干渉を望まぬかの神には邪悪を討つ以外の事はできなかった。仮に未だニルラッツ・ミジが使えたとして、それが何になろう。全てを粘土細工のように作り直してそれでよしとする事がこの宇宙に棲む無数の生命のためになろうか。己は創造主であって、かと言って既存の被創造物を自由自在に造形したところでそれはただの傲慢に思えてならなかった。そうした問答を己の中で何度も続け、そして己が切り倒した悪の華から溢れた蜜が何を齎したかを思い出してみた。それら虚しい哲学的な思考を一端打ち切り、美しい三本足の神は山から降りて反対側に出た。こちらには田畑が無く、無造作な草原には背の高い雑草が無数に生えていた。濃いアルカリ性の小川の中にはその実この星でよく食べられる蛭じみた水棲生物が小さな群れを作って泳いでおり、かの神は片膝を立てて屈むと己の手を川に浸して暫し心を落ち着けた。雑多な水棲生物達は途端に酩酊としたが、やがてはその小さな知性で遼遠より来たる美麗なる神を畏敬した。
だがやがてその心地よい感覚の中にグロテスクな嗤笑が混じり、かの神は激烈な怒りを押し殺しながら立ち上がった。
「下郎よ、せいぜいほざいておれ。何せ貴様が私を嘲笑ってつまらぬ愉悦の毒酒に浸れるは、我が怒りが貴様の喉笛を食い破るまでの事なるぞ。所詮貴様など私の持ち込む窮極的な破滅を恐れて己の仮庵で打ち震えるのみ」
朗々とした宇宙的な美しさを備えた声が響き渡り、小動物の鳴き声が静かに木霊する粛々たる野山に闃とした幕間が訪れた。
黄昏時となり、斜陽が燦然と照らす手付かずの平野部はオレンジに燃え上がり、柔らかく吹く風が夜の闇帷が迫っている事を告げていた。湿っぽい夜の空気が混じり始め、遠くで山のように大きな獣が大気を震わせるように嘶いていた。溢れた内臓のごとく垂れた触腕が歩行に合わせて揺れ、見たところ海月じみた浮遊生物と同じ方法で養分を取り込んでいた。この獣は夜を告げるものであると思われ、己はこれから安息所たる寝床へ向かうのだろう。恐らく夜になると活動を休止するらしかった。代わりに昼ではなく夜を選んだ魑魅魍魎がごとき無数の生命が昼間のそれと交代して活動を始め、かの神はがさがさと揺れる叢を眺めて暗視しながら、例の厭わしい何らかの敵の手掛かりが無いかと探査を続けていた。
この惑星に降り立つ際にはあまり仔細に都市部を観察しなかったが、疑問は確信へと変わった――いかに田園なれど未だにこの惑星の〈人間〉の姿を発見できていないではないか。農業を自動化しているからこの付近には誰もいないのか? 夜の闇帷は嘲笑うかのごとく、周囲の風景を黒と濃紺で塗り変え始め、美しい三本足の神はマントを翻して歩き続けた。
その様子を名状しがたいグロテスクな不可知の下郎がにやにやとしながら愚弄し続けている事のみ、かの神は探知する事ができた。
異星の田園風景というのはなかなか難しい。




