表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/18

帝国憲法の公布と議会政治の始まり

武士の身分廃止が完了すると、帝国政府の要人達は分裂していく。江藤新平や伊藤博文を中心とする「明治派」(政府内では少数派。共産主義やフランス革命を警戒しつつも、集会および結社の自由や言論の自由を基本的には認める)と、小西和信や大久保利通を中心とする保守派(政府内では多数派。共産主義や日本版のフランス革命が日本でも流行すると確信しており、集会および結社の自由や言論の自由は法律で定めた範囲内で認める)に大別される。

ただし、両派とも徴兵制を実行する以上、選挙を実行して議会政治を行わなければならないと確信していた。また、両派の中でも意見は様々だった。


明治派は外交問題で意見の相違が大きかった。アジア主義派から親英米派まで様々だった。


一方、「保守派」は集会および結社の自由や言論の自由を、どこまで認めるかで意見の相違が大きかった。保守派は次の二派に大別される。小西和信や小栗上野介などは柔軟だった。彼らは、小西和信を始めとして多くがエドマンド・バークに傾倒していたので「バーク派」と呼ばれた。


対して、阪井幸信や大久保利通などは集会および結社の自由、言論の自由を基本的に認めない方針だった。阪井幸信もエドマンド・バークなどの影響を受けていた。しかし、イギリスやスイスなどのような伝統がない日本で政治的な自由を認めることは危険だとして断固、反対した。阪井幸信は、日本帝国独自の保守主義として「保障主義」を提唱した。


保障主義とは、「全ての人間には保障が与えられている。対して、自由や権利は日本の伝統になく、天皇と国家に忠誠を誓った国民が政府から貢献に応じて恩賞として与えられるべきだ」という趣旨だった。例えば、殺人や盗みは世界で共通して悪と認識されてきた。容認ないし黙認されていても理由が必要だったし、例外だった。対して、自由や権利は戦争に参加することの代償や多額の納税などによって獲得されてきた。また、文化圏によって自由の定義や認められてきた範囲は異なる。

このため、イギリスやスイスなどの様に自由の伝統がない日本では政府から自由や権利が貢献に応じて恩賞として与えるべきだとした。なお、保障には所得面の保障も含まれるが、政治的な権利や自由がない者は保障額を決められない。自由や政治的権利を与えられた有資格者達が所得保障の額も決める。よって、不都合が生じれば有資格者達によって是正される。また、天皇と国家に忠誠を誓う国民であることが前提条件だから、有資格者達の行動と選択は自ずと適切になる。


以上の趣旨の主張に大久保利通や岩倉具視などが賛成した。大久保利通や岩倉具視も自由の伝統がない日本で政治的な自由を認めるのは極めて危険だと考えていたからだ。徴兵制を行えば、ナポレオンのようなクーデター、日本版フランス革命、共産主義革命などの危険性が増すと考えていただけに尚更だった。阪井幸信や大久保利通などは「保障主義派」と呼ばれた。


なお、孝明上皇(この頃は種痘後の脳炎の後遺症により、公務を殆ど明治天皇に委ねている)と明治天皇は保守派に賛同していたが、岩倉具視や三条実美などを通じて間接的に意思表示をすることが多かった。いずれ、徴兵制を実行して国民軍を創設することは確実だったので一方に極端に肩入れすることは避ける必要があったからだ。明治天皇は、閣議では議長役に徹した。このため、首相が国政を主導することになる。なお、小栗首相は保守派であったが柔軟であり、革命思想や武力蜂起は徹底的に弾圧したが他の思想については緩い規制をおこなっただけだった。このため、自由民権運動も許容されていた。

対して、大久保首相は次第に自由民権運動を弾圧していく。同時期に、岩倉具視を中心として華族制度の強化が行われた。ただし、これは保守派が一致して推進したことだった。岩倉具視と小西和信が中心だった。


小西和信が岩倉具視に協力したのは華族制度が革命防止に欠かせないと判断していたからだ。小西和信はフランス革命でジャコバン派が貴族制度を解体して自派を崇拝させたのを鑑みて、「貴族がなければ、代って政治結社などが貴族の地位を占めて暴君の集団となる」と断言した。小西和信はナポレオンも将軍達を貴族や王に任命して権威をもたせていたことを指摘した。さらに、ヨーロッパではヴェネツィア共和国などが傭兵隊長に貴族の地位を与えて忠誠を獲得していったこと、フランドルやスコットランドなどで貴族が市民軍を組織して指揮していたことなども指摘した。


近世の例でも、オランダのオラニエ家などが任命していた将軍達やマールバラ公も貴族か貴族的な人物達であり、ナポレオン軍を破ったイギリス軍やプロイセン軍なども将校は貴族や准貴族が中心であることも指摘した。そして、イギリスの上院が貴族によって構成されていることも指摘し、貴族制が有効であることを指摘した。


続いて、「確かに、貴族達が君主を守るとは限らない。フランス革命の例で明らかなように、貴族は潜在的に君主を疎んじていることも多い。しかし、イギリスの上院は貴族で構成されている。イギリスで産業革命が達成され、ナポレオンが率いていたフランスを破ったことからも明らかなように、実力主義を伴った貴族制は有用なのだ。もちろん、貴族達が自分達の地位が君主制に由来していることを自覚し、君主に忠誠を尽くしていればの話だが。フランス革命の余波がイギリスに及ばなかったのは、イギリスの貴族達が社会に対して有効に影響力を行使していたことが大きい。

対して、貴族制が解体されたフランスではジャコバン派を制止できる勢力はなかった。これは当然だ。扇動者に対抗するには、社会的な地位による防御と余裕が必要なのだ。平穏に暮らしている普通の人間は扇動者に屈する方を選ぶ。これを防ぐために、日本帝国の実情に合った貴族制が必要だ。大名家や自然的貴族などを華族として天皇に忠誠を誓わせて藩屏とし、扇動者の影響力を封じることが最良だ。我が国の国体を維持し、安全を保つには天皇制を堅持して華族を天皇の盾としておくことが最良なのだ」と述べた。


更に、「そもそも、扇動者達が廃止を叫ぶことが貴族制が如何に扇動者達の防壁になるかを証明している」と述べた。岩倉具視と小西和信は協力して華族制度を天皇の藩屏とすべく尽力した。


華族制度の概略は次の通り。第一に、旧藩主達を貴族院での議席を与えることを定めた。旧藩主達は地方で影響力が強いから、貴族とするには最適だった。旧藩主の階級は侯爵。また、支藩の藩主は伯爵に叙された。


第二に、自然的貴族を受勲して華族とするという趣旨で受勲制度を拡大した。自然的貴族とは血統の貴族ではないが、富と才能と人格が自然に備わっている人物を貴族として扱おうとするものだ。これにより、政府は功労者を受勲していく(受勲されると、法人税以外の直接税を免税されるなどの特権が与えられる)。ただし、余り貴族が増えすぎても困るので一代限りの華族として男爵(軍人、諜報機関の元要員、警察官など)と子爵(議員および文官系の官僚など)が定められた。男爵と子爵の上には、公爵、侯爵、伯爵が位置した(この三つの階級は世襲。なお、皇族は全員が公爵)。


第三に、貴族院は華族だけで構成されることになった。公爵、侯爵には議席が割り当てられる(ただし、皇族には割り当てられない。採決以外は代理人が出席することが多かった)。伯爵は貴族院内での他の貴族院議員による互選で貴族院議員として選出された。男爵と子爵は選挙により選出されることで議席が割り当てられる。有権者は兵役経験者、志願兵の予備役および徴兵の予備役(陸海軍と内務省軍。近衛兵庁の兵士は有権者ではない)だった。


男爵と子爵からの議員を兵役経験者と予備役によって選出することは小西和信が強く主張した。小西和信は「選挙権を与えず、兵役のみを課す国家に忠誠を尽くす兵士はいない」と述べた。岩倉具視は反対だったが、明治天皇陛下を始めとして政府の多数が小西和信に賛成した。なお、男爵と子爵の選挙では選挙運動が制限されていた。兵役経験者と予備役はパンフレット、官報の政見表明で判断していた。以上のような概略の華族制度を政府は陸海軍、内務省軍、近衛軍に対する統制にも活用していく。例えば、廃藩置県後に、陸軍大将となった酒井吉之亟、近衛師団長で大将の西郷隆盛は中将に戻された。その代り、伯爵に叙され、褒賞も行われた。当時は藩ごとの意識も強いので、軍内で過大な影響力を持った人物を出現させないためだった。これ以後、平時は大将が10年ごとに交代させられた(中将の中から国防大臣が首相の承認を得て任命する)。


また、平時に陸海軍、内務省軍、近衛軍の少将が中将に昇進する際は貴族院の承認が必要だった(戦時は国防大臣が首相の承認を得て昇進させることができる)。このように、貴族院と、後に設置される枢密院、内閣が陸海軍、内務省軍、近衛軍を統制していく。衆議院は、当初、全く軍への影響力を付与されなかった。これは、日本版のフランス革命を衆議院が起こすのではないかとの保守派の一致した懸念によるものだった。


この他にも、貴族院と枢密院は諜報機関、警察や検察などの治安機関に対する人事権の一部(基本的には内閣)と監査権(監査の後で予算の一時差し止めの決議を行うことができる)を持っていた。このため、日本帝国の官僚組織では内閣、貴族院、枢密院に忠誠を尽くす文化が確立した。なお、貴族院議員の任期は8年で定年は70歳。


大久保首相は貴族院や枢密院の仕組みを検討し終えた上で、1878年4月1日、徴兵令と10年後の議会政治の開始を発表した。こうして、陸海軍の徴兵と衆議院の有権者登録が始められた。陸軍の徴兵の比率は都市部と農村部が半々だった(旧幕府領では都市部での徴兵が多かった)。


ただし、この段階では本格的な徴兵ではなかった。徴兵された半分は志願兵の選考過程や仮採用過程で不合格になった者達だった。徴兵されれば、志願兵の選考過程や山丹総合会社などの民間戦争会社の採用で有利となった。このため、実質的に大半は志願兵だった。これは、議会政治が始まっていないのに本格的な徴兵を行うことは職業軍的な国民軍の健軍の意図に沿わないからだ。保障主義派の急先鋒である阪井幸信は「権利と義務は一体である。逆に言えば、権利を与えぬ者に義務を課す資格はない」と述べた。この点は、保守派は一致していた。


逆に無神経だったのは明治派だった。財政的な見地などから、議会政治開始前の本格的な徴兵制の開始、農村部に偏った徴兵、大陸型の大規模陸軍を主張した。明治派の代表格だった大村益次郎少将は陸軍内で孤立して辞職した。そして、明治派の提案したヨーロッパ大陸型の徴兵制は予想以上に評判が悪かった。帝国政府の官報局が自由民権派に対するプロパガンダに利用した程だった(自由民権派には明治派と同じような兵制を主張する者が多かった)。


これは、日本の稲作では働き手を徴兵されると、稲作の過程が中断されて農家が大打撃を受けるためだった。水田の手入れを怠れば、忽ち収穫量は激減する(中国のように広い農地があれば、こうした弊害は軽減される)。農業機械が殆ど発明されていない当時、これは深刻だった。さらに、明治派の主張した兵制は軍人への特典が不充分だった(ヨーロッパ各国では日本帝国ほどではないが各種の優遇措置を行っていた)。そして、選挙権を与えることも前提とされていなかったので国民からは苦役のように受け取られた。明治派は素朴に国民を信じたのか、単に金が惜しかったのか気にしていなかった(恐らく両方)。


一方、保守派の兵制は、徴兵された兵士の給料は低かったが税制の優遇措置(徴兵期間中と除隊後の2年間は直接税を免除、相続税の免除など)、前述した選挙権の賦与、社会的な優遇措置(除隊した兵士を雇用した企業は法人税を減税され、表彰される。また、政府が再就職を全面的に支援する。他にも、医療保険などの優遇措置が行われた)といった特典が与えられた(戦死した場合は兵士の家族に特典が与えられる)。これは、徴兵を名誉ある職務として社会的に認知させるためだった。農民兵や市民兵(スイスは農民兵と市民兵、オランダなどヨーロッパの都市部も初期は市民兵が主力)の伝統がない日本で徴兵制を実行すれば、徴兵された兵士が蔑まれる可能性が大きいと保守派は判断していた。


そうなると、野心を懐いた将軍や将校達が兵士達を組織してクーデターを起こすのではないかと懸念された。ましてや、当時、貧しい人間が多かった農村部から大量に徴兵すれば日本版のフランス革命が起るのでないかと懸念された。このため、大村益次郎は陸軍内で「日本のラファエイト将軍閣下」と揶揄されていた。


一方、志願兵は徴兵の兵士以上に優遇されていた。なお、中佐以下の志願兵まで。大佐以上は給料が高いので優遇措置は相続税の免税を除いて採られなかった。志願兵は給料が民間の従業員の平均よりも高く(物価スライド制)、税制でも優遇されていた。直接税は他の国民の半分の負担、相続税は非課税などだった。予備役でも同じ。ただし、相続税の免税を除いて優遇措置は50歳までだ(負傷で重度の後遺症が負った場合は生涯、継続)。社会的な優遇措置も多かった(徴兵された兵士と同じ。さらに、志願兵の家族も志願兵ほどではないが優遇されていた)。


なお、兵役を逃れた国民には特別税が戦時に科される。こうした軍制では大規模な陸軍の編成は不可能だったが、保守派には中国大陸に進出する意図がなかった(最大でも朝鮮半島と沿海州の一部まで)。陸軍を上陸させる体制を整えていたのは、それ以外に清などに決定的な打撃を喰らわせる手段がなかったからだ。慎重に徴兵は行われていった。


同時に、議会政治を行うための準備が本格化した。主な措置は次の通り。第一に、1879年から県知事が県民の選挙により選出されることになった。県議会も創設され、県議会議員の選挙も行われていく。


第二に、憲法の原案を作るために伊藤博文を団長とする憲法調査団が編成されてヨーロッパに送られた。伊藤博文を中心とした調査団が帰国後に憲法の原案を作成して枢密院に提出することも閣議で決定された。明治派が憲法の原案を出すことになったわけで保守派の多くは反発した。しかし、これは小西和信と阪井幸信が謀議し、大久保利通と岩倉具視の同意を得た謀略だった。4人は明治天皇陛下の賛同を得て、憲法についてバーク派と保障主義派の有力者達の意見を調整した。両派は伊藤などが原案を提出したら、大幅に修正することで合意した。明治派に憲法の原案を創らせることにしたのは、保守派が憲法の原案を作成するとなれば自由民権運動が激化すると予測されたからだ。


 第三に、自由民権運動に対する本格的な弾圧の開始。これまで、帝国政府は自由民権運動を本格的には弾圧してこなかった。国会開設の署名も受理していた。しかし、徴兵制の本格化と選挙の実施を前にして帝国政府は徹底弾圧を決意する。これまでは、自由民権運動に対する弾圧は明治派とバーク派により抑制されていた。しかし、中江兆民と植木枝盛によるフランス革命礼賛が自由民権運動によって急速に広がった。二人は扇動罪で投獄されていたが二人の著作が密かに回されていた。次に、自由民権派が朝鮮や中国への干渉やアジア主義など過激な外交方針を掲げ各種団体が政府の外交方針に反した行動を海外で展開し始めた。このため、バーク派も保障主義派に同調して自由民権運動を徹底弾圧する方針を決定した。


 まず、植木枝盛と中江兆民の著作の単純所持も禁止する言論統制法(これまでの各種規制を一本化した)が制定された。伊藤などがヨーロッパに到着した時点で大弾圧が開始された。阪井幸信が内務大臣に任命され、内務省軍と諜報機関を総動員して大弾圧を開始した。実質的には政府が自由民権派に対して内戦を仕掛けた。言論統制法の他にも各種法律が制定された。


 まず、行政内から弾圧が開始された。約2万人が各種法律で起訴され、約1万人が公職追放された。公職追放された者は公職に就くことが禁止された他、言論の自由の完全な剥奪、選挙権と被選挙権の剥奪、移動の自由の剥奪などの処罰が下された。


 続いて、自由民権運動のスポンサーである地主や新聞社などが標的になった。約3万人が起訴され、約8500人が有罪となって公職追放者と同様の処罰を受けた。多くが政府との誓約書に署名して監視を受け入れて処罰を免れた。自由民権派は資金を断たれ、鉄道や船舶に乗ることも禁止された。電報や郵便の発信や発送も拒否された。このため、テロ事件や武力蜂起が頻発し始めた。


政府は戒厳令を発動し、陸海軍も動員して容赦なく武力を行使した。このため、一連の武力蜂起で自由民権派は約4千人が現場で殺害され、約1千人が処刑された。また、約1万人が終身でアリシャーン列島などに遠島刑となった。中江兆民と植木枝盛も刑期を終えていたが活動を再開していたのが摘発された。二人は再投獄されて終身の遠島刑に処された。武力蜂起が起こる度に言論人や自由民権派の活動家が逮捕されて、更に約2万人が公職追放者と同様の処罰を受けた。


 また、官報局は自由民権派の個人情報を流し、激烈なプロパガンダ攻撃を行った。植木枝盛の私擬憲法が70条~72条で暴力革命を合法としていたこと、第40条で国民と外国人を同等に扱うと宣言していたことが徹底的に糾弾された。これは、立志社の草案とされていたので自由民権運動は日本版のフランス革命運動とされた。国民の間にも自由民権運動に対する不信が広がった。明治天皇は自由民権運動に不信感を懐いていたが、政府の激烈な大弾圧に仰天して弾圧に反対し始めた。しかし、植木枝盛や中江兆民らの思想及び活動、共産主義の脅威などを説明されて沈黙した。政府の仕掛けた事実上の内戦により、自由民権運動は衰退した。また、日本に蔓延り始めていた左翼思想は撃滅された。


 この間、陸海軍で増やされていた徴集兵達は殆ど動揺せず命令に従った。士官だけではなく、准士官と下士官も志願兵であり政府に忠実だった。軍隊の兵士は士官、准士官、下士官により統率され、特に准士官と下士官の影響力が大きい。准士官と下士官が政府に忠実だったことにより、兵士達は自由民権派に同情しなかった(国防省の指導で准士官と下士官が兵士に思想教育を行った)。


それどころか除隊しても自由民権派に反発した。政府のプロパガンダと相まって予備役と後備役を中心に自由民権派への反発が広がった。このため、政府の大弾圧中も徴兵逃れは却って減少した。こうして、政府内で議会を開催しても安全だとの意見が多数派となった。


 第四に、枢密院が貴族院、衆議院に先駆けて設立された。枢密院の権限は、両院の議長の任命、中央銀行の総裁および委員の任命、裁判官の任命、公正取引委員会の委員の任命、有識者会議の有識者の選任、軍機裁判所の裁判官の任命が主要な権限だった。近衛兵庁、特別会計監査庁、最高検察庁が枢密院に所属していた。長は天皇であり、枢密院議員は貴族院と衆議院が半分ずつ任命した。

任期は10年で1期のみ。枢密院の議員は、任期中、政治活動と言論活動が禁止された。万が一、クーデターなどで内閣が機能を停止した場合は枢密院が代替することになっていた。以上の様な主要政策は、伊藤などが帰国する前に大部分が終わっていた。このため、政府内の明治派は騙されたと感じ、自由民権派に接近していく。


 バーク派が保障主義派に同調したのは自由民権派の過激な対外姿勢に危機感を懐いたからだ。自由民権派のアジア主義、大陸への進出指向、中国や朝鮮への内政干渉などが入り混じった姿勢は保守派として容認しがたかった。保守派はナポレオンでさえ、徴兵制を乱用して限界を超えた戦争を行ったことにより、敗れたことを重視していた。また、大規模陸軍で無制限に出兵を繰り返して大量の戦死者を出せば、国民が政権に対して信頼を失って革命が引き起こされると確信していた。


保守派が戦争の開始や領土拡大に慎重で、職業軍的な国民軍に拘ったのは彼らが徹底した軍国主義者だったからだ。幕府は元々が軍事機構だった。旧幕府系の人材が多い保守派は、対外戦争が簡単でないこと、兵士は退役すると優遇措置がなければ不利になること(他の国民から見捨てられる)、日本の農村部にとって徴兵が大変な負担になることなどを熟知していた。また、常に革命などに用心すべきだと確信していた。


逆に明治派や自由民権派は良くも悪くも国民を素朴に信じていた(このため、配慮が足りなかった)。常に国内にも用心しているので、中国が敵対行為を示さなければ軍事行動や干渉を行う気もなかった。ただし、欧米列強が要請すれば共同で干渉を行う用意はあった。その場合でも領土を獲得しないのは保守派の共通認識だった。また、欧米列強と戦争する積りは全く無かった。欧米列強が仮想敵国である中国を侵略するのは大歓迎だったし(ロシアだけは歓迎されていない)、列強の植民地を奪っても軍事費と行政費が過大になり、脅威が増えるだけだった。欧米列強と協調した方が経済的にも得だった。


 ましてや、アジア主義など論外だった。列強の植民地が独立すれば、台湾などにも独立運動が飛び火すると保守派は判断していた。さらに、日本帝国の仮想敵国の一つは中国だった。小西和信が明言したように、保守派は日本と中国が仲よくできるとは考えていなかった(逆に日本人の考え方を押し付ける気もなかった)。そして、中国も周辺の民族や国家に干渉や侵略を繰り返してきた国家であり、人口過剰で過激とくれば味方する理由はなかった。


ところが、明治派や自由民権派は中国が周辺の民族や国家に干渉と侵略を繰り返してきたことには無関心だった。保守派から指摘されても、「中国と日本が協力していけば信頼関係が深まり、我々の意見にも耳を傾ける」、「近代化は世界の趨勢であり中国でも趨勢に従うしかない」などと言うばかりだった。それだけならバーク派も危険視はしなかった。しかし、自由民権派が大陸浪人などを使って清国や朝鮮の勢力と通じ始めると危険視し始めた。彼らは清国や朝鮮を近代化するのを大義名分としていた。


 前述の様に、保守派は一致して中国の情勢に干渉することや領土を獲得することに反対だった。当然、朝鮮の親日勢力に肩入れすることは断固として反対だった。小西和信は「自由民権派はジロンド派だ。左翼と愛国は矛盾しない。彼らの姿勢は革命を広めていったフランス共和国と瓜二つだ」と述べた。中国や朝鮮が近代化した場合、両国が日本帝国の脅威になると保守派は確信していた。更に、自由民権派などの行動は日本帝国を意図せざる戦争に巻き込みかねない危険な行為だった。彼らの行動は中国や朝鮮で諸勢力の反発を受けるし、黙認したら軍や諜報機関が独自に類似した行動を起こすのは確実だった。このため、小西和信などのバーク派は再三、自由民権派に警告した。


 小西「中国人が自国の政体を外国人に決められて喜ぶと本気で思っているのか?自分達を中国人の立場に置き換えてみろ。中国人が我々を敵視するのは確実だ。仮に、中国人が同調して近代化を達成したとしよう。近代化を達成した中国人は日本人を追い出し始める。当然だ。近代化を達成したら、自国に不当な干渉を行った外国と仲良くする国はいない。そして、諄いが中国は日本帝国の敵だ。中国が近代化すれば、日本帝国も標的になる。国民国家となった以上、国民の意向は無視できない。道義上の問題だと諸君は主張する。しかし、外交に道義などない。

もし、道義を重視するなら中国を近代化させてはならない。国民国家となった中国が少数民族に酷い扱いをするのは確実だ。少数民族は最低でもアメリカインディアンのように居留地に押し込められる。おそらく、更に酷い扱いを受けるだろう。これまでは王朝の支配だったので多少は抑制されていた。しかし、国民国家となったら漢民族による少数民族への圧迫を政府が抑制するのは困難だ。自国民から敵視されることを喜ぶ政府はいない。中国が人口過剰である以上、この傾向が変わることはない。大体、諸君も我々も自国民のために働くのが最低限の道義だ。諸君の外交政策は日本帝国を破滅させることにしかならない」。


 しかし、自由民権派は大陸浪人への援助、中国や朝鮮への内政干渉を止めなかった。更にイギリスやオランダの植民地の独立派を匿う勢力も現れたので忍耐も限界に達した。幕府の時代から日本帝国はイギリスやオランダと同盟関係にあった。経済的な繋がりも大きかったし、安全保障上も両国との同盟関係は望ましかった。イギリスは中国に進出することで中国が日本帝国の脅威になることはなかった。それにイギリスはヨーロッパ、インド、アフリカの事も考慮しないわけにはいかない。よって北東アジアや東南アジアでは日本帝国との友好関係が不可欠なのであり、理想的な同盟国だった。オランダにしても日本帝国と対立すれば、植民地を失うことになるので日本帝国との同盟は不可欠だった。


 勿論、保守派は両国の植民地支配が搾取であることを完璧に理解していた(特にオランダの支配は苛酷)。更にいえば、両国と戦争になることも想定していた。特に、アメリカが進出してくれば両国とも日本帝国との同盟関係を破棄する可能性が高いことも予期していた。当然、両国は本国の安全を重視するからアメリカにつく。しかし、その場合でも両国は出来れば植民地を保持したいから日本帝国とアメリカの仲介を行ってくれる必然性があった。このため、保守派は一致して両国との同盟関係を支持していた。更に、アメリカ以外の列強に対する障壁としては効果的だった。小西和信も含めてバーク派もエドマンド・バークなどの考え方を日本に応用することが効果的だと考えていたのであり、イギリスを信頼したわけではなかった。


 明治天皇に問われて小西和信は次のように述べた。小西「イギリスを信頼しているのか?ということなら答えは否です。イギリスがインド以東に存在していれば、我が国とイギリスは何度も戦争しているでしょう。我々はバークなどのイギリス保守主義者の保守主義に賛同しているのです。国家としてのイギリスを信用するかは別問題です。イギリスは野心に満ちた普通の国家です。当然、我が国が弱体化すれば侵略してくるでしょう。

しかし、有史以来、どの国家も民族も得なら征服を行ってきました。それが普通のことなのです。そして、イギリスがインドなどを搾取することも世界史的には普通のことなのです。我々がイギリスとの同盟を重視しているのはイギリスが日本帝国との友好関係を必要としているからです。さらに、距離的に遠いイギリスが日本帝国を征服するのは困難です。逆にイギリスにとっても安全ですから両国の利害を一致させることは容易です。この状態なら同盟は双方にとって得であり、同盟は有意義です。イギリスは有力な軍事力もあるから尚更です」。

 明治天皇「確かに、その通りだ。しかし、イギリスはアメリカとの接近を強めている。イギリスはアメリカとの関係を優先するだろう。アメリカはハワイなどに野心を懐き、君主制にも嫌悪感を露骨に示している。こうしたアメリカと関係を強めていくイギリスとの同盟を如何にすべきだと思う?」。 

 小西「陛下、御懸念は御尤もです。遺憾ながらイギリスが当てになる時代は終わりが見え始めています。国力を増したアメリカが西方から進出してきます。ナポレオン戦争の前後なら、イギリスはアメリカを滅ぼそうと思えば滅ぼせました。しかし、イギリスはナポレオンを滅ぼしてアメリカと仲良くする方を選びました。イギリスがアメリカに懐く親近感は本物です。また、アメリカの国力は南北戦争で示した生産力や兵力から明らかなように強大です。

イギリスが近くのアメリカを遠くの日本帝国よりも重視するのは当然です。日本帝国とアメリカの緊張が高まれば、結果は明らかです。イギリスは躊躇なくアメリカの側に立ち、戦争になれば我が国との同盟を破棄するでしょう。しかし、それでもイギリスにとって日本帝国と戦えば失う物も多いですから、アメリカとの仲介を努めてくれるでしょう。アメリカと不必要な対立を避ける意味で有意義です。それに、他国に対してならイギリスとの同盟は極めて有効です。以上の点からイギリスとの同盟は有意義です」。

 明治天皇「御前の説明には概ね、納得できる。しかし、溜息が出るぞ。信頼できる国家と同盟を築くことはできないのか?」。 

 小西「陛下、外交に信用と軍事力は不可欠ですが信頼は無用です。利害が異なれば同盟は破棄されますし、昨日の友好国が敵国と同盟するのは普通です。イギリスが代表例です。典型的な例としては、スペイン継承戦争と七年戦争です。イギリスは途中で同盟国を見捨てました。しかし、それが普通なのです。陛下、今も昔も世界は戦国時代なのです。

恐れ多いことですが、陛下も国家の間に信頼は期待しないでいただきたいのです。日本帝国がイギリスとアメリカのような特殊な関係を築くことはできません。例外となるのは、フランス革命や共産主義など国家の枠を越えて思想や宗教を広める国家や団体に対抗する時です」。

 小西幸信は他でも「外交に信用と軍事力は不可欠だが信頼は不要とされている」と述べた。これは保守派の総意だった。


 また、小西幸信は「外交に置いて信頼は不要なのが基本だ。だからこそ、日本帝国は外国に信頼されなければならない。それが日本帝国の特異性となり、外国は日本帝国に信用されようと努めることになる。しかし、同時に恐怖されなければならない。信頼を得ようとする行為に付け込む国や団体なども多いからだ。また、常に公正であろうと努めなければならない。同盟国間で利害を調整する時や講和などで合意を得るには公正さも不可欠だからだ。」と述べた。保守派は幕府の「信頼されよ。同時に恐怖されよ。そして、常に公正であれ」を安全保障政策の基本にしていたから当然だった(自由民権派は保守派が自国民に対しても此の原則を適用していると批判していた)。


このため、ロシアの進出も歓迎はしていなかったが、戦争だけではなくロシアとの協定も考慮していた。保守派はロシアの進出方向が北京方面なら容認することで一致した。ロシアと清国が戦争するのは日本帝国にとって歓迎すべきことだったからだ。保守派は一致してロシアが協定に応じた場合はイギリスの意向に関わらず、対露戦を行わないことで合意した。


自由民権派の安全保障政策とは全く違い、妥協の余地はなかった。自由民権派は保守派が一致して自派の安全保障政策を拒絶したので猛反発した。大陸浪人の活動は活発化し、政府の慎重な安全保障政策について激烈な抗議運動が展開された。こうした中で、任那事件が発生した。


 1879年12月27日、憲兵局が朝鮮の大使館の駐在武官と数名の書記官を逮捕した。彼らは大使と共謀して朝鮮の開化党や大陸浪人を支援していた。軍情報局も対外特務庁も関与していない工作であり、発覚したのも軍情報局が憲兵局に通報したからだった(当時、朝鮮半島での諜報活動は軍情報局に優先権が与えられていた)。


なお、軍情報局も対外特務庁も自由民権派や明治派の考え方には反対していた。両諜報機関も保守派と似たような考えであり、朝鮮の内政に干渉しても反発されるだけだと判断していた。更に、両諜報機関は朝鮮で主導権を握るために清国と戦争することにも反対だった。両諜報機関とも日本の勝利は確信していたが、清国が弱体化すれば隙をついてロシアが満州に進出してくるのは確実だと報告した。ライバル関係にある両諜報機関の一致した見解であり、朝鮮半島での開化党や大陸浪人に対する援助が行われる筈もなかった。


 ところが、軍情報局の数名の将校が承認書類を偽造して朝鮮大使館の駐在武官に渡した。駐在武官は憲兵局の大佐に一連の偽造書類を渡して確認させた。当時、軍情報局は軍情報部以外の軍人でも諜報活動に関与させていることがあった。このため、憲兵局の大佐は不審に思わなかった。書類の形式だけではなく、文章の暗号(承認書類には情報部と憲兵局で取り決められていた暗号が承認文の中に混ぜられていた)、専用のタイプライターで決められた手順でタイプされていたこと、承認印の押し方とインクの成分も適正など完璧だった。

憲兵局の大佐が副官と二重チェックを終えると、承認書類は専用鞄に入れられて専任の憲兵分隊が名古屋の憲兵局本部に届けた。本部でもチェックされたが見抜けなかった。工作の内容も一件ずつは大した内容ではなく、他の諜報員達の補助任務と見られた。憲兵局は長官(中将)も含めて軍情報局の工作の概略しか知らされていなかった。


 一方、軍情報局と国防省にも当然のことながら承認書類が提出されたが対馬の工作本部、名古屋の軍情報局本部、国防省の会計検査室(予算の監査の他に裏の業務として軍情報局の監視を行う)も騙された。当時、朝鮮での諜報活動は軍情報局にとって最優先事項とされていた。このため、承認書類の数は多かった。識別手順がクリアされ、全体の諜報活動と矛盾しなければ承認されていた。

内務省と内閣府にも軍情報局から承認書類は回された。こちらも承認書類の数が多いために、専門の監察官は小規模な工作についてはマニュアル通りのチェックしかしていなかった。このため、駐在武官の行動は全く怪しまれなかった。駐在武官は諜報活動の名目で大陸浪人達や朝鮮の開化党を援助していた。


 ところが意外な所から、偽装工作が露見した。1878年5月、対外特務庁が公安局(内務省)と合同で台湾において活動していたアジア主義者の団体を摘発した。この団体はフィリピンの独立派を援助していた。軍情報局の諜報員達は此の団体の構成員を任務の補助に使っており、彼らは此れを隠れ蓑にしていた。対外特務庁の諜報網に彼らが引っ掛かった。


この団体が接触していた数人のフィリピン人は対外特務庁のスパイであり、この団体の活動を助けていた数人の華僑は対外特務庁の工作員だった。工作員の部下の華僑達も半分は対外特務庁のスパイだった。ただし、華僑の日本側スパイは互いのことを知らされていなかった。殆どは犯罪組織のために働いていると思っていた。対外特務庁は旧幕府以来の諜報活動で華南語などの地方の言葉を楽に読み書きできる工作員達も保有していた。このため、フィリピンの華僑社会に諜報網を築くことは容易だった。元々はスペインに対する諜報活動であり、次にフランスを警戒するための諜報活動に変わった。


 しかし、日本帝国はフランスと日仏不可侵条約を結んだ。そのため、フランスに敵対的な諜報活動だけではなく、独立運動などの脅威からフランスのフィリピン支配を護る諜報活動も開始された。フランスがフィリピンを支配していれば、他国(特にアメリカ)が侵入してくるのを防げる。更に、フィリピンが独立すれば台湾でも独立運動が発生する可能性があった。このため、公安局と同号で捜査が進められ、情報が集まると一挙に摘発された。事前に、内務省から戒厳令の発動が内閣に要請されていた。内閣は承認し、摘発の前日に台湾全土で戒厳令を発動した。


 団体の構成員が次々に逮捕される一方で、海軍、陸軍、軍情報局に対しても捜査が行われた。内務省の公安局が憲兵局と対外特務庁を指揮する形で捜査が行われた。海軍と陸軍で将校2人、下士官と准士官が5人、兵士3人が逮捕された。このうち、将校と下士官が軍機裁判所(軍や諜報機関などに対する平時の裁判を行う。議会の三院の議決がなければ裁判記録は非公開)で起訴された。

将校は銃殺と終身刑、准士官と下士官は全員が不名誉除隊の判決が下された。軍情報局からは逮捕者は出なかったが、諜報活動を行うに当たって事前の承認手続きと事後のチェックが雑だったとして国防省から処分が下された。台湾の軍情報局支部長の少将は大佐に降格の上で更迭を始め、副司令官以下にも厳罰が下された。


 国防省と憲兵局(近衛兵庁、内閣府、対外特務庁の要員も参加)が主導して諜報活動全般の見直しが行われた。軍情報局の内部調査も行われた。この過程で軍情報局の監察官が奇妙なことに気付いた。有罪となった将校2人は団体の構成員達を軍情報局に紹介していたのだが、時期が諜報活動の申請が集中している時期や憲兵局および軍情報局局内の監察官による不定期調査が終わった直後に集中していた。最高機密に通じていた軍高官か国防省の高級官僚が関与していたとしか考えられなかった。

フィリピンでの諜報活動は対外特務庁に優先権が与えられていたので対外特務庁が軍情報局の活動も統制していた。諜報活動の申請も多くなく、国防省や憲兵局の審査も困難はなかった。当然、監視も誤魔化しにくい。つまり、軍情報局の諜報員達はアリバイが成立していた。


 このため、軍情報局に情報要求を行い、諜報活動の全体像を把握していた作戦課の高官達が疑われた。監察官達は作戦課の情報要求を洗い直し、国防省からの命令や諜報活動の承認記録と照合した。すると、朝鮮の政治情勢の要求が多すぎ、政治関係の任務の承認も多すぎることが判明した。このため、朝鮮半島の諜報活動が見直され、大陸浪人が広範に協力者として関与していること、補助任務が多すぎることが判明した。補助任務の中には軍情報局の諜報活動の趣旨に反する任務が多数、あった。

終了した任務、優先順位の低い任務の補助任務が多く、現地の諜報員達が知らない補助任務も多かった。諜報員達は互いの任務について詮索することは厳禁であり、誰も咎めなかった。軍情報局は憲兵局に通報し、憲兵局は作戦課を始めとして参謀本部と軍情報局を捜索した。同時に、内務省などにも伝達した。これにより、朝鮮での駐在武官を中心とした私的な秘密工作が露見した。


 駐在武官と副官、通商外交省の大使と書記官7名が逮捕された。偽造書類を作成して渡していた軍情報局の将校5名も逮捕された(中佐、少佐、大尉、中尉、少尉が1名ずつ)。前述のように識別手順をクリアでき、諜報活動の全体像を把握できた人物は限られていた。軍情報局で承認書類が作成できる工作本部や支部は厳重に監視されていた。当然、軍情報局の要員は監視され、厳重にチェックされていた。前述のように、複数の機関もチェックしていた。このため、国防省の高級官僚か軍情報局の機密棟に出入りできる作戦課の人間が疑われた。


 この中で疑惑が向けられたのが参謀本部の作戦課に所属する児玉源太郎准将だ。逮捕された5人の軍情報局将校は児玉准将と私的に会っていたし、児玉准将は承認手続きの詳細について職務上、熟知していた。さらに、承認印、専用のタイプライター、インクなどを製造していた陸軍工廠や海軍工廠の特殊部門にも出入りしていた。違法ではなかったが、必要もないのに出入りしているのは不自然だった。児玉少将は新型の暗号機器などの開発を依頼していただけだと弁明した。其れなりの理由だったが、対朝鮮、対清国、対ロシアの作戦計画立案で忙しい筈の作戦課の准将が陸海軍工廠の特殊部門に出入りするのは不自然だった。


 更に、憲兵局が承認書類を作成している部門や承認印を押せる将官達を調査すると、全員が児玉大佐か、児玉准将と懇意にしている将校や国防省の文官と頻繁に懇談していた。このため、憲兵局は児玉大佐が識別手順の機密事項を聞き出していたのではないかと疑った。おまけに、児玉准将は台湾の事件とも関連があったことが判明した。逮捕されて有罪となった将校、准士官、下士官を軍情報局に採用させたのは児玉准将の後輩で可愛がられていた軍情報局の少佐だった。

 更に、児玉准将が台湾時代に要請した情報要求が台湾の事件の隠れ蓑になっていた。児玉准将が後輩の軍情報局少佐の手引きで反清国の中国人団体と接触していたことも発覚した。公安局と憲兵局は児玉准将を逮捕したかったが、決め手がなかった。結局、児玉准将は逮捕されず、大使と駐在武官などだけが軍機裁判所で起訴された。


 大使は懲役10年、駐在武官と副官は軍籍剥奪の上で懲役10年、軍情報局の将校5名は銃殺、書記官7名は懲役7~15年の厳罰が下された。朝鮮や台湾で逮捕された団体の構成員達(92名)は通常の裁判所で懲役7~10年の判決を受けた。保守派は自由民権派と軍が海外で戦争を惹き起こしかねないと危機感を強めた。事件に関与した軍関係者と書記官は全員が自由民権派と考えが近い明治派であり、逮捕された構成員は全員が自由民権派だった。この事件は朝鮮に対する諜報活動の作戦名が「任那」だったので任那事件と呼ばれた。


 この事件でバーク派も自由民権派が対外戦争を勝手に惹き起こしかねない危険な勢力だと認識するようになり、徹底弾圧に同意した。こうして、前述のような政府による大弾圧が始まる。一方、軍情報局は任那事件の後、対外諜報局に倣った諜報活動を行うようになった。組織も大幅に改編された。憲兵局や公安局など他の諜報機関も軍情報局の諜報活動や秘密工作について大臣や上級幹部達は把握できるようになった。対外特務庁にも同様の措置が行われた(不祥事を起こしていない同庁は反発)。これまでの監視に加え、近衛兵庁が全諜報機関を常時、監視する体制が確立した。


 全諜報機関は内閣府の諜報部門が統合指揮するようになった(現在のアメリカ特殊作戦軍の指揮系統に近い)。これ以後、軍情報局の要員が民間団体と共謀することはなかった。任那事件は自由民権派に対する大弾圧の引き金を引くことになったが、軍および国防省と政治団体との馴れ合いを断つことにもなった。明治派の軍人達も自己の思想や心情で行動することが絶対に黙認されないことを思い知らされた。これ以後、軍人が独断で秘密工作などを行うこともなく、日本帝国陸海軍は政府に忠実との評価を確立する。


 1883年10月、政府による大弾圧が吹き荒れる中、伊藤博文らが相次いで帰国した。伊藤博文らは自分達が騙されたと憤っていたが、表面上は平静を装った。伊藤博文は井上毅などと共同で憲法案の詰めに着手した。


 1885年3月5日、明治天皇を長とした憲法制定会議が名古屋城で開催された。伊藤博文を中心として作成された憲法案が示され、これを基に議論が始まった。天皇から議長に任命された三条実美が議事を進行した。まず、明治天皇が憲法の条文を現代語に改めるように指示した。憲法はスローガンではなく、日本帝国のための法律であり解釈の余地が広すぎてはいけないとした。三条実美が素早く賛否を参議達に問い、多数が天皇の指示に従うべきだとした。その後も類似した形で審議は進み、伊藤案は忽ち修正されていった。


 三ヶ月後には殆ど別の憲法になっていた。全く変わっていなかったのは、第1条と第2条だけだった。議院内閣制、枢密院の規定、貴族院と衆議院の同権、憲法改正の規定(枢密院と内閣だけが提案できる)、首相と内閣の規定、軍の規定、治安機関の規定、諜報機関の規定など次々に加えられ、伊藤案の条文で矛盾する条文は修正されるか削除された。このため、伊藤案の趣旨は消滅した。注目された修正は次の通り。


 第一に、第11条は次の様に改正された。「日本帝国の全軍は天皇陛下の統帥に従う。国民が忠誠を尽くす代償として、天皇陛下は統帥権を内閣に授権しなければならない」。これで統帥権が内閣にあることが明確になった。なお、第11条の1~5項で内閣が戦争や革命などで機能を停止した場合や内閣が反逆した場合などは天皇陛下が枢密院と共同で統帥権を行使すること、天皇陛下と枢密院は可能な限り速やかに憲法で規定された内閣を組織し、統帥権を授権しなければならないと定めた。

 また、第12条も改正され、「天皇陛下から授権された統帥権により、内閣は日本帝国の全軍の編成および兵力を定める」となった。


 第二に、第29条は次の様に修正された。「日本帝国国民の言論、出版、集会、結社の権利は法律の範囲内で認められる」。原案から自由を削り、権利に変えた。これにより、これらの自由を認める時は一々法律で定めなければならなくなった。


 第三に、第20条は次の様に改正された。「日本国民は兵役の義務を負い、代償として天皇陛下から参政権を与えられる。日本国民の中で、兵役の義務を遂行することが困難な者や兵役の義務を課されなかった者は法律で定められた貢献を行うことで天皇陛下から参政権を与えられる」。これにより、兵役の代償として参政権が与えられることが明確になった。以上の他にも大半の条文は修正され、多くの条文が追加された。議院内閣制、首相と内閣の規定が加えられたことで伊藤案に比べて格段に安定度は増した。しかし、自由の範囲は経済的な自由を除いて明確に制限された。


 このため、自由民権派は失望した。しかし、議院内閣制を保守派が憲法に定めたことで衆議院の選挙で政権獲得を目指すことにした。保守派は当初から此の点では一致していた。徴兵制を実行する以上は国民に参政権を与え、国民が選んだ議員が主役を務める内閣が国政を担うのは当然だった。保障主義派も国民に義務を課したにも関わらず、実権を与えないのは道義面からも国益上も不適切だと確信していた。


 保守派は「義務なくして権利なし。権利なくして義務なし」で一致していた。フランス軍がフランス革命時にルイ16世を裏切ったのはフランス軍の兵士達が国防と王室の防護を担っているにも関わらず、蔑まれる境遇にあったからだと確信していた。このため、国防を担う兵士達の意見を国政に反映させるのは当然だった。


 「御恩と奉公」が武士の基本であり、武家政権が日本の政治を行ってこれた一番の要因だった。このため、守旧派も保守派に同意した。安全装置としての枢密院と貴族院もあり、心配は少なかった。自由民権派の過激派や左翼は政府の大弾圧によって排除され、大弾圧でも陸海軍の徴収兵達も政府に忠実だった。最早、政党内閣が誕生しても大丈夫だった。衆議院と貴族院は同権であり、議員の数も同じだった。更に天皇を長とする枢密院が両院を調整し、内閣を助けるので問題はなかった。大久保首相は保守派の一致した意見を受けて、自由民権派による内閣が誕生しても阻止しないことを守旧派にも徹底させた。天皇に要請して、その旨の勅命も出してもらった。


 伊藤博文などの明治派は自分達が虚仮にされ、明治天皇からも疎まれていると感じて帝国政府を去った。明治派は議院内閣制を否定していたことで暫くは自由民権派からも攻撃されていた。なお、バーク派の中には伊藤案に魅力を感じる者も多かった。そのため、統帥権、議院内閣制、首相の規定を改めて後は伊藤案でも良いのではとの意見も多かった。


 そもそも、保障主義派との合意で前文に「法の支配を法解釈では基本とする」の一節を入れたこと自体がイギリスの保守主義の考え方から外れていた。しかし、小西和信は「憲法は帝国を革命思想から守る盾だ。盾が不要ならイギリスの様に憲法を制定しなかった」と述べた。「日本帝国とイギリスは違う。残念ながら日本では命令法に権威を感じ、慣習法を軽んじる輩が多すぎる。イギリスのような法の支配に基づいた政治を行えば、忽ち国会で成立された法律によって平和的に共産主義などが成立する」としてバーク派の意見を纏めた。


 1885年、大久保首相の任期が終わり、後任として鍋島直正が再任された。議会政治が始まるまでの管理内閣だった。

 1886年4月5日、枢密院での憲法審議は終わり、保守派の意向を強く反映した「日本帝国憲法」が欽定憲法として発布された。同時に、衆議院の詳細も発表された。衆議院の議員定数は336名。この内、96名は知事(通常は代理人が出席)と県議会の代表だった。残りの議員は予備役、後備役、法律に定められた貢献をしている成人男性(軍需産業や研究機関に勤めている人間が多い)、中所得以上の成人男性が有権者となって選出した。このため、議員は徴兵される人数が多い都市圏に偏った。知事や県議会に議席を割り当てたのは、これを緩和するためだった。衆議院議員の任期は知事や県議会の代表を除いて5年で定年は70歳。こうして、日本帝国の基本は定まった。


 1886年7月1日、日本帝国は朝鮮に最後通牒を突きつけた。日本帝国は北京条約に基づいて清国が朝鮮を日清共有の保護国として認めたのだから宗主権を受け入れろという内容だった。鍋島直正は政党内閣が成立する前に朝鮮問題を解決することにした。朝鮮の侮日の風潮は黙認できなかったし、自由民権派が政府を此の問題で攻撃していたからだ。国防大臣の鍋島茂昌は例によって演習を繰り返し、陸海軍に準備を完了させていた。


 7月25日、日本帝国は朝鮮に宣戦を布告した。海軍が朝鮮半島を海上封鎖し、各地の港を攻撃した。日本艦隊は対地攻撃用のモニター艦を中心とする艦砲射撃で朝鮮側の砲台を砲撃し、海兵隊を上陸させて完全に砲台を破壊した。砲台を破壊すると海兵隊は撤収し、艦隊が港に艦砲射撃を加えて破壊した。いずれの戦闘でも、朝鮮軍は一方的に敗北した。


 8月中に、日本陸海軍は済州島などを占領した。併行して、清国の仲介で交渉が行われていたが難航していた。日本軍はソウルを攻撃して一挙に戦争を終わらせることにした。艦砲射撃や偵察などの陽動作戦が展開され、日本帝国軍が釜山か郡山を狙っているように見せかけた。


 9月14日、仁川沖合の島々が海兵教導連隊に占領された。9月15日、第1艦隊の援護で約2万の日本陸海軍部隊(陸軍の大谷亮介中将が指揮)が仁川港に上陸した。第1艦隊は月尾島に集中砲火を加えて砲台を無力化した。

 午前6時30分、第1海兵隊旅団は満潮時に朝鮮側が防備を固める干潟ではなく、岸壁に梯子を使って上陸した。モニター艦10隻が朝鮮軍の守備隊に制圧砲火を加える中、第1海兵隊旅団は橋頭堡を確保した。第1海兵隊旅団は狙撃班の活躍や艦隊の援護もあり、逆襲してくる朝鮮軍に大損害を与えた。

 午後5時30分、後続の第5師団が橋頭堡に上陸し、月尾島に教導歩兵旅団が上陸した。日本陸海軍は日没までに仁川港を占領した。朝鮮軍の装備は良くてフリントロック式銃であり、多くは火縄銃と槍を装備していた。当然、話にならなかった。朝鮮軍は夜襲をかけてきたが、守備を固めていた日本陸海軍部隊は多数の照明弾を打ち上げて制圧砲火を浴びせた。日本陸海軍部隊の兵士達は夜間射撃の訓練も充分に受けており、正確な銃撃を浴びせた。朝鮮軍は撃退されて夜間の内に退却した。

 翌日から、第5師団と教導歩兵旅団はソウルを目指して漢江沿いに進撃した。9月19日、朝鮮軍を破って第5師団と教導歩兵旅団はソウル郊外に達した。


 ここで、朝鮮は日本帝国の要求に合意した。清国は救援を拒絶し、勝ち目はなかった。大谷亮介中将は清国の公使に「日本帝国は朝鮮の併合を目指しているわけではありません。貴国との条約で定められた宗主権を行使するだけです。朝鮮に従った方が賢明だと御伝え下さい。しかし、朝鮮が従わないなら、それでも構いません。こちらは朝鮮を征服するだけのことです。また、便意兵を組織しても無駄です。朝鮮全土を焦土作戦で荒廃させるだけのことです。焼け跡から新しい建物を建てた方が安上がりですからな。朝鮮に好きな方を選べと伝えてください」と述べた。


 日本帝国は朝鮮に対して日朝和親条約を締結させた。主な内容は、日本の領事裁判権、片務的最恵国待遇、賠償金、朝鮮が日清共同の被保護国であることの確認、済州島などに日本帝国陸海軍の基地を設置することだった。これ以後、日清両国は朝鮮委員会(これまでは朝鮮の攘夷で機能していなかった)で朝鮮を管理していく。朝鮮委員会はイギリス、日本帝国、清国で構成されていた。提案できるのは日本帝国と清国であり、イギリスがどちらかの提案を支持することで決定が行われた。


 1887年4月3日、日本帝国は朝鮮委員会で清国に朝鮮を各国に対して開国させる様に提案した。朝鮮委員会に加わっているイギリスも賛成した。清国も強くは反対しなかった。清国は朝鮮を守る余裕はなかった。この結果、朝鮮は1887年に、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツなど12ヶ国に対して開国させられ、不平等条約を押し付けられた。当然、一連の不平等条約の特権は日本帝国にも認められた。


 なお、ロシアは排除された。日本帝国はロシアに強い警戒反応を示し、ロシアが朝鮮に入る余地を与えなかった。ロシアが太平洋や日本海に進出してくれば、ロシアが日本征服を企むと確信していた。ロシアは度重なる日本帝国によるロシア排除に怒りを募らせた。しかし、当時は何も手段がなかった。1867年にアラスカもアメリカに売却していた。このため、シベリア鉄道建設の予算を大幅に増やした。しかし、ロシアが当分の間、北東アジアで何も手段がないことに変わりはなかった。日本帝国はロシアの脅威を心配することなく、国内の発展に専念することができるようになった。帝国政府が最後の外交問題を片付けたことで自由民権派の攻撃は鈍った。しかし、自由民権派は保守派が主導する外交政策に依然として不満だった。


 1888年4月7日、日本帝国で初の衆議院選挙、貴族院の男爵と子爵の議席の選挙が行われた。

 1888年9月8日、開票作業が終わり、衆議院では自由民権派系の憲政党が第一党、第二党は明治派系の立憲政友会、第三党は保守派系の帝国党だった。憲政党の党首の江藤新平(政府による事実上の内戦に抗議して辞職後は自由民権派のリーダーとなっていた)は政府が素直に政権を渡すか危ぶんでいたが杞憂だった。

 衆議院と貴族院で結果が異なったので両院協議会場で決戦投票が行われ、1889年、江藤新平が首相に選出された。首相の任期は6年で再選は2期に制限されていた。

 衆議院では憲政党が第一党だったが、両院が同権であり議員定数も同じなので貴族院の協力も必要だった。両院の結果が異なれば、両院協議会場で両院の議員による多数決が行われる。このため、江藤首相は保守派にも働きかけて政治を行っていく。主な政策は次の通り。


 第一に、諜報機関の権限の縮小。プロパガンダを専門とする諜報機関の官報局は廃止され、首相府の広報部門が政府(全省庁の後方も含む)の広報を行うようになった。官報局の要員は国防省の対外広報局に移された(こちらは国外向けのみのプロパガンダ活動が許可されていた)。

 次に、公安局と憲兵局の権限の縮小。両諜報機関は刑務所の管理も行っていたので服役囚にスパイになるよう強要していた。また、服役囚が裏切ったとの偽情報や偽装工作を行って抗争を発生させることもしていた。江藤首相が容認する筈もなく、これらの行為を直ちに違法とした。更に公安局は国内特務庁に吸収された。憲兵局は憲兵庁に見かけ上は格上げされたが、権限を縮小された。


 国内の刑務所の管理は法務省に新設された秩序監視庁に移管された。秩序監視庁の任務は、刑務所の警備および管理、通常裁判所が判決を下した服役囚を対象とした釈放後の監視および社会復帰の支援、麻薬常習者や精神異常者などの強制的な治療、検察庁から要請された事件の捜査および容疑者の尋問、検察庁の要員(検事も含む)が事件を起こした場合の捜査だった。元服役囚をスパイにすることは勿論、諜報活動を行うことも禁止されていた。元服役囚が行方不明、国外逃亡、犯罪組織に復帰した場合は内務省の国内特務庁に連絡する義務が定められた。国内特務庁は連絡班を常駐させ、情報を受けとることができた。秩序監視庁の権限で監視できなくなると、国内特務庁が直ちに任務を引き継いだ。ただし、国内特務庁も元服役囚をスパイにすることは厳禁されていた。国内特務庁や対外特務庁など他の諜報機関も従来と比べて権限を縮小され、制約が課された。


 ただし、江藤首相は諜報機関を嫌悪はせず、日本帝国に必要だと確信していた。しかし、諜報機関は基本的に保守派の牙城だったので「天皇陛下と国家に忠誠を誓う国民に奉仕する機関」に変革するよう求めた。こうした江藤首相の姿勢は憲政党内部でも支持された。内務省、軍、諜報機関は憲政党や立憲政友会の選挙運動を一切、妨害しなかった。それどころか、守旧派の選挙妨害を取り締まった。他の行政機関の公務員が37名、逮捕された。


 江藤首相にとって決まりが悪かったのは、検察庁から7名の逮捕者が出たことだった。検事3名、検察事務官4名は最高検察庁によって起訴された。内、検事3名と検察事務官1名が懲役3~7年の判決を受けた。鍋島内閣時に法務大臣を務めていた江藤首相は検察庁の権限強化に尽力していたからだ。このため、秩序監視庁に検察庁の権限を移して検察庁もチェックさせることにした。こうした姿勢は枢密院や貴族院にも信頼された。このため、憲政党の政策は貴族院でも可決されていった。


 第二に、自作農増加の推進。土地に関する税金の引き上げ、相続税について一定面積以上の農地については増税、小作人に土地取得の補助金や無利子の融資、地主が小作人に土地を売った場合は売却益を非課税などを行って地主に土地を小作人に渡すように促した。江藤首相は貧しい小作人が多いことに個人的に心を痛めていたし、小作人達が革命勢力に加担する恐れをなくしておきたかった。内務省軍などで鎮圧できることに疑問の余地はなかったが、そうなると幕府と類似した体制になることは確実だった。このため、事前に危険を除去しておくのが賢明だった。

 しかし、自由民権運動のスポンサーは地主が主だったし、党員にも地主が多かった。このため、憲政党内では反対が渦巻いた。


 しかし、江藤首相は「我々は国民の代表として国会議員に選ばれた。幕府は国益を優先して中央政府を創設した。旧幕府派を始めとする保守派は我々が政権をとることを妨害しなかった。彼らが軍国主義的であろうが、決断の動機に私益が含まれていようが、どうでも良いことだ。重要なのは、彼らが国益を優先して決断してきたことだ。我々が特定の支持者のためだけの政党として行動すれば、国民から永久に軽蔑される。

 また、廃藩置県に応じた諸大名達にも遙かに及ばないことになる。自分達の利益よりも国益を優先することが国民の資格だ。ここで我々が国民に値しない行動をとれば、我々を選んだ国民も国民としての資格があるか疑問を持たれるのは確実だ。勿論、支持者達の要望を立法によって実現するのも我々の重要な役割だ。しかし、我々に投票した支持者の中には大地主以外も含まれていることを忘れるな。ここで我々がエゴに満ちた行動をとることは彼らへの裏切りだ。我々が日本帝国と国民に雇われた者に過ぎないことを忘れるな」と述べた。


 江藤首相は何とか党内を説得して、法案を提出した。立憲政友会は反対したが、帝国党は意外な行動をとった。帝国党は江藤首相の提案に賛成した。保守派は江藤首相の論理にも一理あると認めていた。徴兵される兵士の中には小作人の世帯の次男以下もいるので兵士として国家に貢献している者達に報いることは国家の義務だと保守派は考えた。


 「権利と義務は一体である。逆に言えば、権利を与えぬ者に義務を課す資格はない(阪井幸信)」はバーク派も保障主義派も共通した保守派の総意だった。このため、江藤首相を毛嫌いしている保障主義派も江藤首相の主張を全否定はできなかった。もちろん、帝国党にも大地主の議員および党員もおり他党ほどではないが有力だった。しかし、帝国党を支持する大地主達は旧幕府領の大地主が多かった。彼らは古くから行政を担ってきた伝統から責任感が強かった上に、銀行の株主や企業の経営者などを兼ねている者が多かった。治安機関や軍に親戚や家族が所属している者も多く、予備役である者達もいた。このため、江藤首相の主張に強く反発することはできなかった。


 帝国党が自主投票にしたことで貴族院の公爵達や伯爵達も江藤首相の主張に耳を傾けるようになった。枢密院も江藤首相を妨害しなかった。一連の法案は衆議院でも貴族院でも可決された。多くの国民に、この政策は支持された。保守派は江藤首相の政策は社会主義的だと感じており、積極的には支持しなかった。しかし、前述の様に徴兵制を採用している以上は小作人達の境遇を改善しないわけにもいかなかった。このため、帝国党は江藤首相の提案に賛成した。また、江藤首相の提案は地主達にも配慮していた。帝国党の大地主の議員や党員達も強くは反対せず、帝国党に亀裂が発生することはなかった。この件を切っ掛けにして保守派と自由民権派の主流派は和解していく。


 第三に、戦時や内戦時を除いて言論、集会、結社、出版の自由を大幅に認める一連の法案を提出した。ただし、共産主義やフランス革命礼賛などの過激思想は引き続き厳禁した。これは、江藤首相にとって当然の事だった。自由民権運動の目的は立憲政治であり、共産主義などの過激思想に機会を与える気などなかった。「共産主義などを拒否できないような議会なら必要はなく、幕府に戻すしかない」と江藤首相は公言していた。

 江藤首相は「自由を革命や犯罪などの手段として用いる輩には弾圧あるのみだ。なぜなら、そういった輩が政権を握れば、自由の抹殺か大量虐殺ないし両方を行うのは確実だからだ」と断言した。このため、言論、集会、結社、出版の自由を認める法案の多くは成立した。これらに帝国党は反対し、立憲政友会は概ね賛成した。貴族院議員達も江藤首相を信頼するようになってきており、多くの法案が修正された上で、両院協議会で可決されていった。


 以上の様な主要政策の他にも、江藤首相は戒厳令の発動の制限(戦時~講和条約批准までの期間を除く)、直接税の累進率の上昇、低所得者を雇用することを目的とした公共事業の増加、家庭内暴力や児童虐待などへの対処の強化、風俗業に対する規制の強化などを行った。江藤首相の政策の多くは低所得者、社会的弱者に配慮していた。このため、社会主義的だとして保守派は多くの政策について反対していた。しかし、江藤首相は自派の政策の弊害についても認識しており、弊害が生じると修正した。主な修正は次の通り。


 第一に、景気が悪化すると累進税制を止め、フラット型の税制に変更した。幕府以来の保守派の常套手段の税制だった。このため、憲政党の左派は反発したが江藤首相は方針を変えなかった。税収の増加と景気回復に有効なことは幕府が実証していたからだ。景気が回復した後は、段階的に元の税制に戻された。


 第二に、財政規律についても鈍感ではなく好景気時は国債の償還額を増やし続けた。


 第三に、公立の教育機関での思想および言論の統制の再強化。公立大学などを中心に共産主義、中江兆民や植木枝盛らの革命思想、無政府主義などを広める教授や教職員が増加してきた。このため、政府は規制の再強化と極左および左翼の公務員の追放(一部、極右も)に踏み切った。江藤首相を始めとする憲政党の執行部は共産主義や無政府主義などの脅威に敏感だった。折角、藩閥から自由を獲得したのに、共産主義者などが政権を握ることは容認できなかった。


 江藤首相は「無政府主義や共産主義などと闘わない政治家は日本帝国と国民に対する裏切り者だ。我々は日本帝国に忠誠を誓う国民から藩閥に代って責任を担うために雇われたのだ。国民に責任を押し付けるのではなく、政治家が主体的に日本帝国と国民を脅かす敵を打ち破らなければならない」として全面的に極左(一部の極右とも)と対決した。1892年から江藤首相は排除を実行し始めた。


 まず、憲法の天皇制の講義をしていなかった教授を始めとして秘かに共産主義や無政府主義などを主張していた教授55名、助教授および助手24名が解雇された。さらに、国立大学の全学生達に警告状が出され、共産主義や無政府主義などに賛同していた場合は大学を退学させ、企業などに情報を提供すると警告された。生徒会なども廃止され、公立大学の自治も禁止された。政府は職員も大幅に入れ替えた。大学教授達は研究に関しては概ね自由であり予算も増額されたが、大学全体の方針は政府から任命された官僚達が決めるようになった。文部省以外の官僚達が任命されて「日本帝国の益になる学問および研究」が基本方針とされ、学問のための学問は否定された。


 高校以下も類似した措置が行われ、文部省による統制が強化された。なぜ、このような措置が行われたかといえば、政府による強烈な皮肉を交えた制裁だった。当時、共産主義や無政府主義の信奉者が公立大学に多かったからだ(教員に限れば公立高校以下にも多かった)。

 共産主義は私有財産を否定し企業を国有化するので自由を否定する。当然、金を握る政府が全てを統制する。それを主張するなら、国の方も税金で雇われている教授などに自由を与える必要はない。国に統制される気分を自分達で味わってみろというわけだ。また、無政府主義者に対しては無政府主義なら国に雇われている身で主張するのは身勝手だ。更に無政府主義者は政府を維持したがっている多数派の人間に反して無政府主義を強要するから自由を与える必要はない。

 実際、外国の無政府主義者は革命を目指して暴動などを起こした。このため、政府に雇われている人間で無政府主義を唱える者に居場所はない。以上の理由で政府は断固として共産主義者や無政府主義者などを公的機関から追放した。


 ただし、江藤首相は革命を扇動しなければ民間で左翼的主張をしても弾圧しなかった。このため、共産主義や無政府主義を公然と主張する者達は逮捕されたが、左翼的な主張をする者は逮捕されなかった。また、民間の教育機関は従来通りの自由を認められていた。共産主義や無政府主義などの著作を所持していただけで逮捕されることは、当然、なかった(公的機関に雇われている人間を除く)。このため、大半の国民にとって江藤首相の方針転換は害にならなかった。


 寧ろ、憲政党に対する支持は確かなものになった。これまでは、憲政党は共産主義や無政府主義に寛容と疑われていたからだ。江藤首相は共産主義、無政府主義、極右などの過激派の主張を行う新聞や雑誌などに対しては再販制度の適用を除外するなどして利益を上げにくいようにした。また、官報などで大々的に反論を行い、国民に対する啓蒙活動を主として対抗するようにした。こうした政府の方針は後にアメリカなどの欧米諸国が共産主義に対抗した際の措置と類似していた(アメリカも赤狩り、共産党を取り締まる法律を成立させるなどしている)。


 こうした憲政党の姿勢は貴族院や枢密院からも信頼された。こうしたことから法案も通りやすくなった。この時期に、江藤内閣で活躍したのは、林義介法務大臣と井上純啓内務大臣だった。この二人は江藤首相を支えて日本帝国でも政治上の自由と秩序が両立できることを証明した。両者とも徴兵されたことがあり、アレクサンダー・ハミルトンなどから影響を受けていた。このため、江藤首相と共に極左からテロを仕掛けられた。しかし、いずれも失敗に終わった。憲政党の議員達も三人を支えた。こうして、予想に反して議会政治は順調にスタートした。国民の自由度も上がり、日本帝国は国民国家化を無難に成し遂げることが出来た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ