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国民国家の実現

 日本帝国内で中央政府と国民国家の創設に向けた動きが活発化しつつあった1840年にアヘン戦争が勃発した。原因は、清国がイギリス商館から武力で威嚇して阿片を没収したことだった。当時、阿片は合法的な商品だった。イギリスを始めとするヨーロッパ諸国で阿片が禁止されたのは1910年代に入ってからのことだった。清国や日本帝国では禁止されていたが、特殊な事例だった。それでも清国では禁止されていたから取り締まりは正当だった。


 しかし、それで公使館などの外交施設や公海上の船を襲撃、包囲などをすれば戦争行為と断定される。このため、幕府陸海軍では条約に従ってイギリス側で参戦すべきだとの意見が強かった。しかし、幕府は参戦を拒否した。イギリス側の先制攻撃なので参戦の義務はないと回答した。幕府が拒否したのは清国の行為が不当であることは間違いないが、先制攻撃による戦争行為とまでは断定できなかったからだ。理由は次の通り。第一に、イギリスの開戦理由の一つである「公海上のイギリス船舶」からの阿片没収の真偽が疑わしかったからだ。イギリス船舶というのが碇泊させた廃船であり、当然だが航海能力もなく公海かどうかも微妙だった。

 第二に、イギリス人達は無事に商館から無事に退去できていた。それに、当時、清国とイギリスの間に条約は締結されていなかった。このため、イギリス商館が外交施設かどうかは微妙だったし、イギリス人達が無事に退去できているので戦争は過剰行為だと幕府は判断した。更にイギリスの外交使節のエリオットらが軍艦で香港島に上陸して基地を設営したのは不法占拠だった。  

 第三に、イギリスの開戦目的の一つが自由貿易だったことに幕府は困惑した。貿易を戦争の大義名分にするのは幕府にとって理解できなかった。貿易は当事者同士の了解で行われる商行為だと幕府は理解していた。自由貿易を戦争で強要するのは押し売りだった。もちろん、幕府も利権を獲得することに関しては遠慮がなかった。イギリスとオランダの東インド会社の大口出資者である幕府は東南アジアやインドに日本の商社を進出させて多額の税収と権益を得ていた。

 しかし、それは日本帝国の影響力を広げて権益を得る行為であり、帝国主義による勢力拡張政策だった。当然、商売の一環である貿易とは別だった。自由貿易が開戦理由になるなら、関税障壁などの保護措置も開戦理由になる。理屈上は、日本帝国も標的にされる。ヨーロッパの国同士の貿易でも関税障壁を設けたりするのは普通だから、イギリスの開戦理由は大義名分に欠けると判断された。それに、押し売りの拒否が先制攻撃に該当するなら戦争が際限なく発生すると幕府は判断した。

 今後、イギリス人商人とトラブルが発生する度に東南アジアの各国と戦争することになる。際限がないし、東南アジアのパワーバランスが崩壊してしまう。当然、ウィーン会議で締結された極東秩序条約は崩壊する。自由貿易が開戦理由の一つに挙げられると「イギリスの目的は、済し崩し的に極東秩序条約を崩壊させることではないのか」との懸念が幕府陸海軍で発生し、参戦論は霧散した。


 以上の理由で、幕府はイギリスの参戦要求を拒絶して中立を鮮明にした。当然、幕府が参与院に開戦提案を提出する筈もなかった。イギリスは条約違反だと抗議したが、幕府は前述の理由を纏めた回答を詳細な調査報告書(アヘン戦争の開戦理由についての詳細な調査報告書。対外事務局が作成)と一緒に、イギリスの首相府とイギリスの上院および下院に送った。新聞などにも発表して、通商外交省が宣伝に努めたのは言うまでもなかった。結局、イギリスは日本帝国との同盟関係を維持することにした。

 幕府も清国に戦争を仕掛けたかったが、イギリス側の開戦理由が妥当ではなかった。幕府は清国を庇う気はなく、清国から要請されても仲介には応じなかった。当時の外相である福富幸知は「仲介は強国の外交手段である。日本帝国は強国だが、双方の恨みをかうことになる行為を軽々しく行うことはできない」と述べた。


 しかし、清国は幕府が戦争を計画しているとは判断しなかった。このため、イギリスに敗北した後も日本帝国に対する態度は変わらず、清国の役人の中には日本人に対する侮蔑的な態度を強めて「侮日」の態度を示す者もいた。このため、参与院は幕府に対してイギリス側で参戦すべきだとの決議を行ったが、幕府は拒絶した。幕府も激怒していたが、表面上は平静を装った。幕府の表面上の態度により、清国では侮日が盛んになった。清王朝は黙認するに留まらず、称えた。儒教的な民心獲得の政策だったが、幕府は開戦を決意して幕府陸海軍に準備を進めさせた。

 例によって、演習を繰り返して作戦計画の問題点を洗い出し、物資を集積した。詳細な作戦計画も作成され、軍艦による偵察が繰り返された。対外事務局や軍情報局が工作員を潜入させて諜報網を拡充したのは言うまでもない。1842年には準備を完了していた。幕府の真意に清国は気づかず、アロー号戦争を迎えることになる。ただし、幕府の表面上の態度が諸藩の反幕府の理由の一つになった。


 幕府は参与院への提案を繰り返し続けたが、否決され続けた。しかし、徐々に賛成する藩が増えていった。理由は次の通り。第一に、ナポレオン戦争の衝撃だった。ナポレオンが徴兵制による国民軍を率いて諸外国に連戦連勝したことは衝撃的であり、諸藩も国民国家の必要性を認めるしかなかった。このため、多くの反対論は維新同盟による役職独占を批判して分権的な政府を求める意見だった。

 第二に、幕府の硬軟両面の藩切り崩し策。幕府陸海軍は演習を繰り返して諸藩を公然と威嚇した。また、官報局は幕府の補助軍に参加した諸藩の藩士にも協力させて大々的なプロパガンダを展開した。

 一方で、幕府を始めとする維新同盟は諸藩と秘密裏に接触して切り崩し工作を行った。幕府や将来の中央政府のポスト、利権の提示などが行われた。内戦が勃発した場合の終戦後の処理策や恩賞も協議された。こうした折衝が行われていれば、噂が発生しない筈はなかった。云わば囚人のジレンマが生じて、諸藩は互いに疑心暗鬼が生じ団結が損なわれた。

 諸藩の内部でも同様だった。幕府が利用したのは言うまでもなく、幕末に発生した諸藩の藩内での抗争の多くは特別財務局によって惹き起こされた。幕府は天皇を抱え、軍事力と経済力で諸藩を遙かに上回っていた。この現実が諸藩に公然と反幕府の動きを起こすことを躊躇させ、幕府の硬軟両策を効果的にした。

 第三に、諸藩の内部にも賛成論が多かったこと。藩上層部はナポレオン戦争で国民軍の強さを見せつけられて必要性を認めていた。また、版籍奉還後も藩主が知藩事に再任されることが保障されているので積極的に対立する気は多くの藩になかった。もちろん、廃藩置県、議会の設置、武士の身分の廃止が予想されていたので反発はあったが多くの藩の上層部は渋々ながら必要性を内心で認めていた。また、諸藩の藩軍や治安職の中級武士や下級武士の中にも維新同盟の構想に賛成している者も多くいた。ナポレオン戦争の衝撃を受けて必要性を認めた国益面からの賛成と、新政府への登用の期待や門閥ないし高級官僚に対する反発からの私益面からの賛成が入り混じっていた。


 以上の理由で賛成する藩は着実に増加していき、世論の理解も深まっていった。しかし、万事が維新同盟の思惑通りに運んでいたわけではない。最大の問題は孝明天皇が中央政府と国民国家の創設に反対していたことだった。孝明天皇は頑迷ではなかったが、守旧派であり単純な朝廷の復活を頑固に主張した(ただし、孝明天皇は討幕などの動きには断固として反対だった)。このため、幕府を始めとする維新同盟は天皇の威光を前面に押し出すことができなかった。


 これに乗じて、種々の反幕府の動きが発生した。廃藩置県、徴兵制による国民軍の編成、議会の設置、武士の身分の廃止が予期されたので(維新同盟は「検討はしている」などとして曖昧にしていた)、猛反発が発生した。幕臣、維新同盟の藩の藩士、佐幕派の藩士に対するテロ事件が頻発し始めた。中心は、藩軍や治安組織に属していない諸藩の下級武士と中級武士だった。彼らは新政府に加われる見通しが暗かった。

 維新同盟の構想では、日本帝国陸海軍の将官、士官、下士官は引き続き武士が担うことになっていた。日本帝国陸海軍は志願兵中心の職業軍的な性格が強い軍になる予定だった。武士が陸海軍の中核を担うのは当然だった。幕府陸海軍は海外で多くの実戦経験を積んでいた。幕府の内務省軍も台湾などで経験が深かった。彼らを陸海軍、内務省軍などの中核に据えるのは当然だった。急に、徴兵制を実施しても将官、士官、下士官がいなければ陸海軍は機能しなかった(幕府が維新同盟に加えた4藩は幕府の補助軍に参加している武士の比率が高かった)。一から養成するよりも幕府や維新同盟の武士を採用した方が戦力化も早いし、費用も安上がりだった。維新同盟の首脳部は大陸型の大規模陸軍を創設しないことで一致していた。日本帝国は島国であり、防衛には海軍も活用できたからだ。更に、大陸に領土を得る気がなかった。


 諸藩の藩軍や治安組織に所属している武士達も採用の見込みはあったし(幕臣や維新同盟の藩士が優先されるのは明らかだったが)、予備役の将校や下士官として登録されることも保障されていた。内務省軍を始めとする治安組織は消耗の度合いは低いので武士が中心になることが確定していた。しかし、軍や治安組織に属していない武士や士族は身分を失った上に失業することが確実だった。多くの藩では多くの武士が非軍事部門や非治安部門に勤めていた。彼らは新政府に受け入れ先がなかった。


 維新同盟は武士だけではなく、士族からも人材を選び予定で将来は平民からも採用する予定だった。そうなると、新政府に採用される人員は補助軍に採用された各藩の武士、実務に精通している士族になるのは確実であり、各藩の武士の採用が僅かになることは確実だった。彼らが廃藩置県、徴兵制による国民軍、議会の設置、武士の身分の廃止に賛成することは有り得なかった。


 彼らは孝明天皇が反対であること(幕府は天皇を名古屋城に抱えていたが、側近の公家が外部に天皇の意向を外部に拡散した。ただし、孝明天皇は自身の意見が過激な反幕運動の発端になったので困惑した)、幕府の対外協調的な態度(清国だけでなく、イギリス、オランダ、アメリカ、フランスに対する外交姿勢も非難していた。中にはアジア解放を唱えるグループもあった。しかし、彼らも台湾などの独立を認める気はないのだから矛盾も甚だしかった。また、反幕府運動の武士達の多くは中国や朝鮮と、日本帝国が同盟できると夢想していた)、維新同盟による専横(維新同盟の目的は国益以外に私益的な目的もあったから、これは妥当だった。ただし、幕府が寡頭制的な性格が強い新政府を構築しようとしたのは多数の藩が加わると諸改革の断行ができないとの判断があった)を糾弾するという形で反幕運動を展開した。


 幕府は内務省軍を特別財務局や公安局が支援する治安体制が構築されていたので、テロは殆ど成功しなかった。幕府領内に潜入した過激派の多くは内務省軍によって多くは殺害された。しかし、諸藩ではテロが頻発した。幕府は戒厳令を発動して反幕府派に対する大弾圧を開始する。特別財務局の秘密工作や暗殺、公安局と各藩の治安機関が連携して多数の逮捕で反幕府派は衰退する。反幕府派は約2千人が処刑ないしは暗殺。1万3千130人がカムチャッカ半島などの特別刑務所に収監された。諸藩の中には幕府の大弾圧に抗議する藩もあったが、信倫は「過激派の見方をする者は過激派流の作法で歓待するだけだ。過激派に味方するなら遠慮はいらん。自藩に帰れ。1ケ月の猶予を与える。戦争の準備をせよ」と述べた。反発していた藩も沈黙した。


 幕府と各藩は言論統制を強化し(検閲を受けたことさえ分らないようにさせた。また、プロパガンダも共同して行っている)、指名手配犯を裁判なしで殺害することも合法化した(越境犯罪特別法。藩の境界を越えた指名手配犯に適用。出頭すれば、解除された。暗殺よりも指名手配犯を無期限に拘束して、スパイに転向させるなどの秘密工作に利用された)。幕府による反幕府派の弾圧が短期間で成功したのは、幕府諜報機関の特別財務局や公安局によるところが大きかった。

 また、諸藩も積極的に協力した。諸藩は幕府の軍事力を怖れていたし(維新同盟の4藩の軍事力も加わる)、天皇を抱えている幕府に逆らう大義名分もなかった(他藩との連携の見込みがない)。また、諸藩も反幕府派の過激さに仰天し、藩の秩序を揺るがす動きとして徹底的に弾圧した(既述のように、多くの藩の上層部は内心で国民国家の必要性を認めていた)。治安対策は成功したが、幕閣は複雑だった。


 幕閣は各藩が治安対策に協力しないのを口実にして内戦を開始しようとしていたからだ。幕府は中央政府の権威づけに当たっては内戦による勝利が欠かせないと判断していた。廃藩置県、武士の身分の廃止は軍事的な敗北という現実を各藩に味あわせない限りは達成不可能だと判断していた(内戦による軍事費の支出で各藩を疲弊させることも狙っていた)。だが、幕府内務省軍が内戦に慎重だった。特別財務局と公安局の諜報活動で各藩でも理解が深まっていることを把握していたからだ。結局、反幕府運動の鎮圧が成功したことで維新同盟は内戦を一先ず先送りにした。


 1853年、幕府は漸く孝明天皇から維新同盟の構想について「原則的な同意」を得た。幕府を始めとする維新同盟は孝明天皇との間で、1853年の誓文を結んだ。内容は次の通り。

 第一に、幕府と朝廷は中央政府に統合される。織田氏は尾張藩とされる。

 第二に、織田氏と諸藩の陸海軍は中央政府に引き渡される。ただし、治安維持に必要な兵力は残される。

 第三に、全国の諸藩は版籍奉還を行うこと。

 第四に、天皇陛下も諸大名も基本法に従う。

 第五に、中央政府の発足後に、参与院は廃止される。

 第六に、新憲法を作り、新しい議会を開くこと。それまでは基本法を有効とする。

 第七に、中央政府の発足に当たって具体的な実行は幕府、筑前藩、薩摩藩、丹後藩、安芸藩に委任される。幕府と4藩は参与院で本誓文を誓うこと。

 第八に、中央政府の発足前に維新同盟で直轄軍を創設して、天皇陛下と中央政府に忠誠を誓うこと。天皇陛下も基本法に従うことを誓い、表明する。

 第九に、以上の誓文で誓ったことは参与院が版籍奉還に賛成した後、直ちに実行すること。

 第十に、天皇陛下も中央政府の閣議決定に従い、個人的に意見表明をしない。以上の内容で、維新同盟は孝明天皇の同意を得たことになるが、廃藩置県や国民国家などの内容が含まれていないことから分るように原則的な同意だった。


 これで中央政府が維新同盟の人間を中心に構成されることは決定された(天皇と幕府が同意した中央政府を否定する権限は参与院にはない)。幕府と対立していた孝明天皇陛下が同意したのは現状が飾り物であり、中央政府の発足に天皇家の復権を期待したからだった。また、同意しなければ幕府が天皇の意向を無視して中央政府を発足させる恐れもあったからだ(朝廷の役職を一方的に廃止して新しい役職を創設する案もあった。また、天皇や上皇の意見が無視されることは武家政権以前でも珍しくなく、そうした案も慣例違反とは言えなかった)。更に、ナポレオン戦争で国民軍の有効性が証明されたので孝明天皇陛下も渋々ながら必要性を認めた。


 幕府と維新同盟の4藩は孝明天皇陛下の同意を得ると、版籍奉還を諸藩に先駆けて宣言した(幕府は織田氏としての版籍奉還)。同時に、中央政府の発足と直轄軍の編成を宣言した。筑前藩、薩摩藩、安芸藩の陸軍が名古屋に集結して、幕府陸軍、丹後藩の陸軍と合流した。幕府陸軍部隊と4藩の陸軍部隊により、約5万の日本帝国陸軍の発足が宣言された。台湾などの幕府陸軍と傭兵部隊も日本帝国陸軍に編入された。幕府と4藩の海軍も伊勢湾に集結して日本帝国海軍の発足も宣言された。なお、維新同盟の陸海軍は今回、本格的に電信機を使用して高度な連携を見せた。

 同時に、1853年の御誓文も名古屋城で孝明天皇陛下から諸藩の代表者に表明された。同時に、参与院に天皇と維新同盟の連名で1853年の御誓文の宣誓書が提出された。

 10月5日、参与院は版籍奉還を賛成多数で決議した。幕府や維新同盟の4藩は内戦が勃発すると思っていたが、参与院で版籍奉還が決議されると1853年の内に全ての藩が版籍奉還を行った。諸藩が版籍奉還に同意した要因は次の通り。

 第一に、天皇陛下と幕府が同意した以上、中央政府に逆らう大義名分がなかったこと(他藩との連携が期待できない)。参与院は幕府が設置した議会だから幕府と朝廷が統合されて発足した中央政府に逆らうことはできない。

 第二に、日本帝国陸海軍、幕府と維新同盟の4藩の陸軍や内務省軍などに対抗できる見込みがなかったこと。これ以上、拒否すれば幕府と維新同盟の4藩によって武力で打倒されることは確実だった。

 第三に、既述のように、藩上層部や藩軍の幹部達は国民国家の必要性を理解していたからだ。これまでは、天皇の同意がなかったから不同意もできたが孝明天皇が原則的でも同意したから版籍奉還に同意するしかなかった(藩士を説得する材料にもなった)。さらに、幕府や維新同盟の4藩の裏工作とプロパガンダも作用していた。以上の要因で、平穏のうちに版籍奉還は完了した。1854年1月10日、幕府は中央政府に統合されて正式に廃止された。同時に、参与院の廃止も布告された。


 一連の手続きが終了すると、維新同盟の5藩は中央政府に直轄領を提供した。尾張藩は山城、摂津、長門、河内、和泉、佐渡、小倉を中心とする一群、台湾など全ての海外領を提供した。筑前藩は肥前、壱岐、対馬を提供した。薩摩藩は日向を提供し、安芸藩は呉港と宇品港の二群を提供した。大胆だったのは丹後藩であり、廃藩して丹後は直轄領となった。丹後藩の藩士は新政府に採用されたが、廃藩は重い決断であり藩主などは岩倉具視らと同級の華族とされた。こうして、維新同盟の5藩から提供された領地と陸海軍で中央政府の基盤は固まった。

 引き換えに維新同盟の5藩の人材が中央政府を主導していくことも確定した。版籍奉還後に中央政府(以下、帝国政府)は知藩事達を華族とし、収入の一割を歳費として保障した。こうして、発足した帝国政府は幕府の機構を概ね継承した。大きく変更されたのは、対外事務局が対外特務庁とされ内閣府の直轄となり、特別財務局が内務省の傘下となって国内特務庁とされたことだ。この二つの諜報機関が表に出されたのは諜報員達が織田氏に忠誠を誓っており、帝国政府に同様の忠誠を誓うか危ぶまれたからだ(杞憂だったが)。


 こうして、強力な力を手にした帝国政府は中央集権化を推進していく。首相には鍋島直正が選任された(任期は10年)。主要な政策は次の通り。第一に、諸藩の制度の統合。税制や身分制度が藩によって異なっていたので統合が諸藩に命令された。概ね、諸藩の制度が旧幕府の制度に合わされることになる。これにより、身分は武士、平民、下民となった。税法は統一され、全ての藩が金納となった。刑法や民放も統一され、裁判所も統合された。職業選択と移住の自由も認められた。

 第二に、軍事力の統合化。まず、諸藩の海軍は全て日本帝国海軍に吸収された。これは、殆ど反対はなかった(元々、沿岸警備隊レベル)。しかし、陸軍は問題だった。一挙に統合を行うと、内乱の勃発は避けられないので段階的に統合が進められた。

 まず、諸藩の陸軍から日本帝国陸軍への志願者を募り、選抜した上で編入した。次に、各藩の軍備を中央政府に提供することが求められた。まず、維新同盟の4藩の陸軍が前装ライフル砲の山砲、榴弾砲、野砲、騎馬砲の八割を砲兵部隊ごと帝国陸軍に編入した。兵器工場は全て引渡し、武器弾薬などの軍需物資も約五割を政府に引き渡した。

 それから、諸藩にも提供が命じられた。諸藩も全ての兵器工場、軍需物資の五割を提供させられた。そして、軍需産業は全て帝国政府に従うことが定められた。諸藩は中央政府からしか軍需物資を買うしかなくなった。こうして、諸藩は帝国政府に従うしか他なくなった。

 第三に、政府への財源移譲。各藩の税制が統一されると、順次、政府に財源が引き渡されていった(税によって異なるが、多くは税額の半分)。


 以上の主要政策を実行するに当たって、帝国政府は諸藩の人材を多く引き抜いている。しかし、中心は維新同盟の藩の人間だった。これにより、藩閥政治との非難を受けたが、帝国政府が気にした節はない。旧幕府の人間は諸藩の総意を得ようとしていては何も決まらないと判断していた。こうして、改革は断行されていったが一挙に廃藩置県、徴兵制の実施による国民軍の創設が行われても不思議はなかった。そのような意見も強かったが、孝明天皇陛下は改革に消極的だったし、鍋島直正は内戦を避けたかった。また、他の政府の要人も版籍奉還が内戦なしに実行できたので内戦なしでも改革の達成は可能かもしれないと思い始めていた。このため、軍事力の強化を進めつつも改革は慎重に行われた。前述の主要政策が達成されたのは、鍋島直正の任期が終わる1864年になってからのことだった。


 1857年、アロー号戦争が発生した。今回の開戦理由は、アロー号の拿捕だったので日本帝国は条約に従って参戦を決めた。なお、アロー号の船籍は10日前に切れていたが、領事などの認証があればアロー号はイギリス船と仮定しなければならない。当時、清国はイギリスと領事裁判権を認めた条約を結んでいたからアロー号は解放してイギリス側と共同で捜査しなければならない。

 それでも、イギリス人が捕まったわけでもないので戦争は過剰だったが、イギリス側は一連の外国人襲撃事件に苛立っていた。以前から「侮日」を受けていた日本帝国も復讐の機会を窺がっており、イギリスの参戦要請は渡りに舟だった。このため、今回、日本帝国は躊躇なく参戦した。


 1857年3月にイギリス、日本帝国、フランスは清国に宣戦布告した。日本帝国陸海軍は電信機で部隊間の調整を行い、迅速に集結した。ところが、インドで5月セポイの反乱が発生してイギリス軍が足止めされた。このため、日仏艦隊が先行して広東城を攻略した。清の総督は皇帝の指令を機械的に解釈して非武装で交渉を拒否するという信じがたい態度に出た。

 5月7日、日仏艦隊は艦砲射撃で砲台と清国海軍のジャンク船を破壊してから海兵隊と陸軍部隊(約5千)を上陸させた。日仏軍部隊は総督などを拘束した後、広東城の住民を退去させてから火薬庫などを爆破して香港に引き揚げた。日仏艦隊は清国海軍や清国の漁船、商船を撃沈し、各地の港を焼き払った。

 5月11日、日本帝国海軍の第一艦隊(九鬼成信中将)が旅順を急襲した。第1艦隊は蒸気1等艦5隻、蒸気3等艦10隻、蒸気フリゲート艦10隻、対地攻撃用の大型モニター艦15隻(蒸気船)、輸送艦77隻(帆船と蒸気船)で構成されていた。第1艦隊は1等艦5隻、3等艦5隻、大型モニター艦10隻が旅順港を砲撃して陽動作戦を展開している間に、残りの艦隊が鳩湾から陸軍部隊と海兵隊(約2万1千。3個旅団、教導歩兵連隊、教導砲兵連隊、教導騎兵連隊、1個海兵隊連隊。林正治中将が指揮)を夜明けと同時に上陸させた。


 海兵隊が橋頭堡を固め、日本陸軍部隊は教導歩兵連隊を先鋒として進撃し、西側から突入した。清国陸軍は約1万人だったが、正規兵が約1千人しかいなかった。正規兵も戦列歩兵でしかなく、武装はフリントロック式の滑空銃だった。残りは民兵部隊であり、大部分は槍と火縄銃で武装していた。遭遇した斥候や民兵が捕虜になり、教導歩兵連隊から以上のことが報告された。日本陸軍部隊は城を包囲して攻勢戦の構築を始めていた。そこに、この報告が齎された。林「何だ、報告以上に弱いな。よし、急襲に変更だ。包囲線の構築を中止する。砲兵隊が砲撃した後に、突入だ。直ちに、各旅団と各連隊から参謀を呼べ」。各部隊の参謀と海軍の参謀が集まり、作戦を打ち合わせた。


 まず、教導歩兵連隊が大案子山を占領する。日本陸軍部隊の主力は攻囲線の構築を中止し、急襲の準備を始めた。工兵隊が主導して砲兵陣地が優先して構築される。正午になり、砲兵陣地に砲兵隊が布陣する。各砲兵隊が試射を開始する。日本陸軍のカノン砲や榴弾砲が相次いで火を噴き、現代風の円柱形の砲弾が飛んでいく。着弾すると、砲弾が爆発する。清国兵は動揺する。清国軍の大砲の主力であるカノン砲は基本的に鉄弾しか撃てず、砲弾は爆発しないからだ。臼砲や榴弾砲からは榴弾も撃てるが、主力でなく数は少なかった。怯えて逃げる兵士も出た。


 日本陸軍の砲兵隊は最初の着弾を観測して目標より距離が長かった場合、誤差を二倍して射程を縮め、弾着距離を短くする。こうしてできた二発の着弾点の間隔が莢叉距離だ。この莢叉距離を徐々に縮めていき、目標に命中させる。日本陸軍の砲兵隊は充分に砲撃訓練を積み、開戦前に砲撃を行いデーターを収集していた。このため、少ない試射で有効弾が出始めた。「効力射」の命令で本格的な砲撃が始まった。次々に砲弾が命中し、炸裂していく。清国軍の大砲が吹き飛び、兵士が死んでいく。清国側からも砲撃が返されるが、射程不足で殆どが届かない。届いても鉄弾であり、土嚢などで補強された砲兵陣地に全く脅威を与えられない。約2時間が経過して城壁の清国軍の砲兵隊は沈黙した。


 林中将は砲撃を満足げに見ていた。林「さて、清国に中華意識が誤りであることを教授して差し上げよう。攻撃部隊、接近開始。突入は命令を待て」。主力の3個旅団が前進する。小隊ごとに散開しながら歩兵部隊が前進する。清国軍の砲兵隊で残存していた数門の砲が砲撃する。しかし、鉄弾の上に練度不足で散開した歩兵部隊に当たらない。忽ち、日本陸軍砲兵隊からの砲撃が降り注ぐ。清国軍の大砲が吹き飛ぶ。


 日本陸軍部隊は気にせず、進む。歩兵部隊に続いて山砲部隊と臼砲部隊が前進する。ロケット発射機部隊も続く。大型臼砲部隊と山砲部隊は前進して位置に就くと、砲撃を開始し城壁の上を砲撃する。臼砲部隊は歩兵部隊と共に前進し、城壁の上を砲撃する。ロケット発射機部隊は待機する。既に、城壁の上の清国軍は身を潜めているだけだった。日本陸軍のカノン砲部隊は城門に砲撃を集中する。歩兵部隊、臼砲部隊、山砲部隊が位置に着くと、合図の信号ロケット弾2発が撃たれる。


 日本陸海軍の艦隊と砲兵部隊が旅順市街地に砲撃を開始する。旅順の風上にある町が最初の標的になる。榴弾砲部隊とモニター艦から榴弾が町に降り注ぐ。相次いで榴弾が炸裂し、建物の屋根が吹き飛び、火災が発生する。火災の発生が確認されると、大型臼砲部隊とロケット弾部隊が焼き玉と焼夷弾ロケットを一斉に撃ちこむ。沖合の艦隊も焼夷弾ロケットを大量に発射する。風上の町が燃え上がる。日本陸海軍は砲撃を続けて風下の町まで火災を延焼させた。大火災で煙が立ち込め、城壁の上にも煙が立ち込める。清国軍は混乱し、動揺していた。


 信号ロケット弾5発が打ち上げられ、日本陸軍部隊が急襲を開始する。臼砲と山砲に援護されながら、日本陸軍部隊が進む。国友1853(シャープス銃)装備の猟兵部隊が臼砲や山砲と共に城壁の上の清国軍を狙い撃つ。種子島1853(ウィットワース銃)装備の戦列歩兵部隊は銃撃しつつ、梯子を持って突撃していく。梯子を架けて数人が途中まで登るが、是は陽動だった。工兵隊が戦列歩兵部隊と合同で進み、城門に爆薬を仕掛ける。導火線に点火され、「退避―」の号令で日本陸軍兵士達は離れる。カノン砲の砲撃で脆くなっていた城門が爆破される。


 混乱に乗じて、戦列歩兵部隊が突入する。戦列歩兵部隊は突入すると、横列で展開して銃撃する。猟兵部隊が戦列歩兵の後ろに展開して国友1853で銃撃を始める。元込め銃の国友1853の射撃速度は速く精度も充分で日本陸軍猟兵の技量もあって次々に清国軍兵が倒れていく。戦列歩兵部隊は猟兵部隊の援護で前進する。一斉射撃の後、銃剣で清国軍を追い散らすと遮蔽物を確保する。そこから銃撃を開始し、猟兵部隊が後続する。以上の要領で、日本陸軍部隊は進撃していく。


 城門突入に続いて、城壁にも急襲が行われた。臼砲部隊、山砲部隊、猟兵部隊、狙撃班の援護で戦列歩兵部隊が梯子で駆け上がる。既に清国兵の多くは動揺し、援護部隊の砲撃や銃撃で碌に応戦できなかった。日本陸軍の戦列歩兵は尖り笠とバフコートで護られ、白兵戦の訓練も充分だった。梯子で駆け上がると銃剣で清国兵を追い散らした。将校達も駆け上がり国友1853やリボルバー拳銃で兵士達を援護した。清国兵との距離を空けると、戦列歩兵部隊は銃撃を開始して後続の突入を援護した。日本陸軍部隊は城壁を上下から攻めたてて制圧した。


 城門付近の城壁と周辺が制圧されると、臼砲部隊と騎馬砲兵隊が展開した。騎馬砲兵隊は徒歩で進み、軽砲部隊として歩兵部隊を援護した。日本陸軍部隊は放火しつつ、民兵を掃討しながら進撃した。日本帝国陸軍の歩兵部隊は分隊や小隊ごとに進撃して正確な銃撃で清国軍の民兵部隊や戦列歩兵部隊を蹴散らしていった。4人一組の狙撃班は狙撃して効果的に清国軍を怯えさせ、士官などを狙撃した。稀に、白兵戦になった場合でも幕府陸軍の歩兵部隊は尖り笠とバフコートを着用し、銃剣戦闘の訓練も充分だったので蹴散らしていった。


 夜間になると、日本陸軍部隊は土嚢、柵、杭で陣地を構築した。夜襲も照明用のロケット弾で闇を照らし、主に銃撃で撃退した。火災による炎にも姿を照らされ、日本陸軍部隊による優れた銃撃で清国軍兵士は次々に倒れていった。翌日も掃討は順調だった。終盤で清国軍の戦列歩兵部隊の約200が縦列で銃剣突撃を敢行した。日本陸軍の猟兵部隊が国友1853で射撃する。清国兵が次々に倒れる。日本陸軍の戦列歩兵部隊は1列目と2列目を横隊で密集させる。3列目と4列目の兵士達は散開したまま銃撃した。清国兵は銃撃で次々に倒れていくが、それでも突撃した。しかし、距離約150mで「対騎兵射撃―!撃てー!」の号令で日本陸軍戦列歩兵部隊の2列目による立射の一斉射撃が行われた。清国兵達が薙ぎ倒され、生き残りは逃げる。1列目の戦列歩兵部隊には「対歩兵射撃用意―!狙えー!」の号令で狙いを定め、約4秒後に「対歩兵射撃!撃てー!」の号令で膝射のまま小隊ごとに発砲する。清国兵が次々に倒れ、猟兵や散開している日本陸軍戦列歩兵の射撃と併せて約200の清国兵は全て死傷して動かなくなった。突撃した清国軍は約140が死亡し、残りは捕虜になった。これで組織的な抵抗は終わった。


 日本陸軍部隊は清国軍の本営を包囲し、周りを柵と土嚢で囲んだ。通訳や捕虜が降伏を呼びかけた。清国軍の将軍は降伏を拒んだ。銃撃と砲撃に援護されて、工兵隊が接近する。爆薬が仕掛けられ、導火線に点火された。爆発が起き、本営が崩れ去る。後の捜索で清国軍の将軍の遺体が発見された。その日の内に、旅順全域が制圧された。清国軍は約3400が死亡し、約4500が捕虜になった(捕虜は重傷者を除いて直ちに輸送船に積み込まれて本土の捕虜収容所に送られた)。残りは逃亡した。日本陸軍は旅順を3日で占領した。日本帝国陸軍の損害は戦死が86、負傷が301に過ぎなかった。旅順の建物は全て焼失した。


 日本陸軍は生き残りの住民を全て旅順から退去させて(金と物資を渡した)、旅順や周辺の山に陣地を構築した。便意兵(民間人に偽装して攻撃してくる者。捕虜の資格はない)を防ぐために、旅順周辺の村も住民に物資と金を渡して退去させてから全て焼き払った。清国軍が便意兵を禁止しておらず、寧ろ推奨していると対外特務庁が把握して報告していたためだ。


 日本帝国陸海軍は次に、金州城を攻略した。こちらは約3千の守備隊だった(正規兵は百数十名)。日本陸軍部隊と海兵隊は上陸して金州城を包囲した。艦砲射撃と砲兵隊の砲撃で清国軍の砲兵部隊を沈黙させると、降伏を勧告した。清国軍は又も拒否した。日本陸海軍の砲兵部隊と艦隊が猛砲撃を金州城に浴びせた。金州城の施設は次々に砲撃で破壊されていった。砲兵隊も沈黙し、城壁も崩れ始めた。銃撃と砲撃の援護で、工兵部隊が歩兵部隊と共に接近して爆薬を仕掛けた。爆破で城門と付近の城壁が崩れた。

 日本陸軍部隊は突入せず、砲兵部隊と艦隊が金州城の町を砲撃した。榴弾が次々に着弾し、炸裂する。多数の焼き玉と焼夷弾ロケットが撃ち込まれ、大火災が発生した。砲撃は続き、金州城は炎に包まれた。清国軍の民兵部隊は堪らず逃亡し始めた。


 多くは合印や軍服などを捨てて便意兵となって逃走した。日本陸軍部隊は歩兵部隊の銃撃、山砲部隊と騎馬砲兵隊の砲撃で多数を殺傷した。捕虜や通訳から「便意兵は捕虜にしないが、識別できる者は保護する。軍服や合印などを捨てるな」などと呼びかけられて残りは降伏した。慌てて合印や軍服などを取りに行く者も多かった。金州城の住民の男性で証人がいなかった者は全て便意兵として即決の軍法会議の後、銃殺された。

 清国軍の正規兵(約100人で戦列歩兵部隊)は本営に立て籠もった。例によって、降伏は拒否された。日本軍の砲兵部隊や大型モニター艦が榴弾砲と臼砲で滅多打ちにした。次々に榴弾が着弾し、炸裂する。猛砲撃で建物は崩れていき、火災も発生する。清国兵の大部分は砲撃で死亡していた。三十数名が脱出を図る。しかし、容赦なく銃撃されて多くが倒れた。11名の負傷者が捕虜になった。


 金州城が包囲されている間に清国軍(騎兵部隊と民兵部隊の混成で約2500)が救援に来た。しかし、日本陸軍や海兵隊に撃退されて約400を失って潰走した。日本側の損害は戦死が6、負傷が25に過ぎなかった。日本陸海軍は金州城を占領すると生き残りの住民を退去させて(金と物資を渡した)、爆薬と艦砲の直射で城を完全に破壊した。日本陸海軍は遼東半島に残存していた清国軍(大半が民兵部隊)を掃討していった。住民からも武器の没収を行ったが、火縄銃と槍の所持は認めた(退去させた住民にも日本軍は火縄銃と槍を渡している)。匪賊に対する自衛のために必要だったからだ。日本軍は旅順を強化して、大量の軍需物資を運びこんだ。旅順と金州城の攻略が終わると、林中将は「中華思想が終わり、清国が普通の国として歩むか滅亡するかを選ぶ時が訪れた」と述べ、報告書の冒頭にも記した。


 同時に、清国兵の中華意識の強さも報告した。清国兵が日本陸海軍に降伏したがらないのは把握されていた。しかし、ここまで頑固なのは予想外だった。清国の正規兵は殆ど降伏せず、負傷で動けない状態で日本陸海軍部隊に捕えられた。広州では割と降伏する兵が多かっただけに驚きだった。彼らもフランス軍に降伏したことになっていたが。日本帝国政府は清国における中華意識による「侮日」の傾向に驚き、戦争遂行の決意を更に強めた。是ほどの敵意と見下した感情を懐く者が多い国を放置することはできないからだ。こうした事が日本帝国内にも政府の広報や㎝からの手紙で知られるようになり、日本帝国では清国への敵意が燃え上がった。帝国政府は強力な支持を受けて戦争を遂行していく。


 日本帝国陸海軍の軍備は世界で最高クラスだった。陸軍の歩兵部隊はウィットワース銃(ライセンス生産品。種子島1853)を装備した戦列歩兵部隊とシャープス銃(ライセンス生産品。国友1853。日本陸海軍は歩兵銃の方を多く装備した)を装備した猟兵部隊で構成されていた。なぜ、二種類の正式銃を装備しているかというと、幕府陸軍の歩兵部隊と幕府海軍の海兵隊は戦列歩兵部隊(約50m以内の銃撃戦と銃剣による白兵戦が任務)とライフル銃兵部隊(約200mからの銃撃戦が任務。銃剣は自衛目的でしか使用しない)で構成されてきたからだった。


 それが、種子島1847(ミニエー銃)の導入で事態が変化した。今や、対歩で300m、対騎で500mで命中させられる小銃が導入されたことで歩兵部隊を二つに分ける意味がなくなった(幕府陸軍の戦列歩兵部隊は散開戦闘も行えた)。このため、幕府陸海軍の軍制を採用した日本帝国陸海軍は歩兵部隊の編成と訓練方法を根本的に変更しなければならなかった。大人数の人員を訓練しなければならない軍隊にとって、これは避けたい事態だった。


 それを避けるために、ウィットワース銃とシャープス銃が導入された(種子島1847はオランダ軍に売却された)。兵站上は、正式銃は一種類の方が望ましい。しかし、当時の日本帝国陸海軍は諸藩の反乱を常に心配していた。このため、編成と訓練方法を変更して空白期間を発生させることは避けなければならない。

 更に、日本帝国の軍需産業は当時から世界で最高クラスの生産能力と技術力があった。フリントロック式銃の時代から幕府陸海軍の工廠は高い賃金、良好な待遇、制服と訓練およびサボタージュや新技術への抵抗に関する弾圧(死刑も含む。イギリス海軍の水兵統制法を参考にしていた)で軍事産業に係わる労働者を従わせるノウハウを確立していた。需要が拡大するにつれて、幕府陸海軍の工廠からノウハウが民間の軍需産業に教授されていった。国友、種子島の二社は急成長していき、幕府陸海軍の工廠を上回る生産力を持つ様になった(国友、種子島の二社は造船会社も買収して幕府海軍などの需要も奪うようになった)。日本帝国の軍需産業は東南アジアとインドのイギリス軍とオランダ軍の兵器の五割以上を供給していた。こうした事情により幕府陸海軍は新技術を積極的に導入でき、諸外国の陸海軍に比べて優位を保てた。

 徴兵制が導入されていないこともあり、陸海軍の工廠、国友、種子島で苦も無く二種類の正式銃と両方の弾薬を供給できた。また、弾薬は紙薬莢だった。このため、弾と火薬の再利用は簡単だった。弾は溶かして型に流し込むだけ、火薬は紙を破いて別の紙に入れるだけだった。金属薬莢と違い、厳密な加工精度は要求されなかった。種子島1847で充分だとの意見もあったが、日本帝国陸海軍は諸藩の脅威にも対応しなければならなかった。このため、積極的に新装備を採用する必要があった。


 日本陸海軍は当時、世界でトップクラスの性能だったウィットワース銃とシャープス銃を装備したことにより銃撃戦で圧倒的に有利となった。練度も良好で列強の軍の中で最も射撃が上手かった。ウィットワース銃を装備した戦列歩兵部隊(旧戦列歩兵部隊の役割を担った。ウィットワース銃は黒色火薬を使用した銃では最も命中精度が高かった。300m以内ではミニエー式の銃弾を使用した。その距離までなら命中率に大きな差はなかったからだ。生産に手間が掛かるウィットワース銃専用の六角弾は400m~500mの敵兵に使用)をシャープス銃装備の猟兵部隊(旧ライフル銃兵部隊の役割を担う。ミニエー銃の導入後に、名称を猟兵に変更。元込め式で信頼性も高く命中精度も良いシャープス歩兵銃を装備していたので清国軍の突撃を粉砕することが多かった)が支援した。日本帝国陸海軍の歩兵部隊は諸外国の歩兵部隊に比べて小隊や分隊単位の戦闘にも慣れていた(これにより後の時代の戦闘でも他国軍に比べて損害が少なかった)。


 砲兵部隊も、当時、技術的に高度だったウィットワースの各種後装ライフル砲を装備していたので圧倒的な優位を誇っていた。ウィットワース砲は技術的に高度だったが、後装式なので装填が早い上に信頼性も高かった。軍艦も導入しており、対地攻撃で圧倒的に優位だった。ただし、流石に砲弾の供給には苦労したので弾種を榴弾に統一している(臼砲は焼玉と榴弾、ロケット砲部隊は焼夷弾も装備)。当時の火薬である黒色火薬は現在の火薬に比べて爆発力が弱いので、これは弱点とされていた(しかし、後に新型の火薬が導入されて榴弾の威力が向上すると逆に有利になった)。


 騎兵部隊は列国の陸軍と大差なかった。しかし、当時、騎兵部隊は既に脇役になっていたので問題なかった。それでも日本帝国陸軍の騎兵部隊はウィットワース製の騎馬砲の支援を受けることができたので有利だった。日本帝国陸軍の騎兵部隊は偵察、騎兵スクリーン(敵の偵察部隊を妨害する)、乗馬歩兵としての任務(下馬して歩兵銃で戦闘を行う。後に、ボーア人の部隊がイギリス軍を苦戦させた)、夜間襲撃、後方攪乱、歩兵部隊の支援が任務だった。このため、騎兵の種類は竜騎兵に統一されていた。シャープス歩兵銃とサーベルを装備していた(シャープス騎銃は内務省軍、海軍の水兵、砲兵部隊員が自衛用に装備していた)。


 一方、日本帝国海軍も陸軍と同じく強力だった。蒸気船の運用方法も確立されていた。軍艦は全てスクリュー船だった。上陸作戦の手法も世界で一番であり、陸軍を効果的に支援した。このように強力な日本帝国陸海軍に対して清国軍は余りに弱かった。八旗兵も漢人部隊もフリントロック式の滑空銃を主装備としていた(八旗兵の二割ほどはライフル銃を装備していた。しかし、こちらもフリントロック式で丸玉を使用した旧型だった)。騎兵部隊は密集突撃を任務としており、偵察が苦手だった。砲兵部隊も旧式な上に(カノン砲が主体。前装式で鉄弾を使用)、訓練費用が削られて練度も低かった(榴弾砲部隊も直射しかできなかった)。多くの民兵部隊は更に悲惨であり、火縄銃と槍を装備していた(清国は反乱を怖れて民兵部隊の兵器を火縄銃と槍に限定していた)。太平天国の乱が始まってからは規制が解除されたが、急にフリントロック式銃を渡されても使いこなせなかった。


 こうした中で、曽国藩の湘軍と李鴻章の准軍は雷管式の滑空銃(大半がブラウンべスの改造品。湘軍と准軍は自分達で資金を集めて調達していた)を装備し、外国人傭兵を教官にして訓練を行っていた。湘軍と准軍は太平天国軍を打ち破っていた(准軍はミニエー銃の装備も始めていた)。しかし、湘軍と准軍は正規軍ではないし、太平天国軍との戦闘に忙殺されていたので日英仏軍と戦闘することはなかった。戦闘すれば敗北した可能性が高いが。

 清国海軍は問題にならなかった。数が少なかった帆船の戦列艦もアヘン戦争で全滅しており、ジャンク船しか残っていなかった。この様な軍備で、諸外国に挑発的な態度をとる清国の姿勢を外国は理解できなかった。これは漢民族の中華思想に迎合した故だった。清王朝は満州族なので漢民族の反発を和らげるための懐柔策だった。清の皇帝達や満州族は効果があると思い込んでいた。


 イギリス軍がセポイの反乱で到着しないので日仏軍は苛立っていた。日仏軍はイギリス軍の到着を待っていては清国軍の防備が固くなると判断して、7月から天津の攻略を開始した。

 7月6日、日仏艦隊は大沽を攻撃した。蒸気戦列艦が沿岸砲台を砲台の射程距離外から砲撃を行う。榴弾が次々に着弾して炸裂していく。砲台は約2時間で沈黙した。続いて、大型モニター艦に支援されて日仏軍の海兵隊と陸軍部隊が上陸を開始した。大沽には清国軍の正規軍の約5千(戦列歩兵部隊が約3千、騎兵部隊と砲兵部隊が約1千ずつ)と清国海軍の沿岸砲兵隊が布陣していた。


 日仏軍は大沽砲台の7㎞南に上陸した。第一波として、日本軍が約7千(第1旅団、教導歩兵連隊、第1海兵連隊)、フランス軍が約2千(フランス外人部隊と海兵隊)が上陸を開始した。清国軍は陽動作戦に惑わされ(輸送船とフリゲートが実施)、対応が遅れた。日仏軍部隊が上陸を開始すると上陸地点に向かってきたが、大型モニター艦部隊が砲撃した。榴弾が次々に着弾して炸裂し、清国軍の騎兵や歩兵を吹き飛ばした。日仏軍部隊は揚陸艦(喫水の浅い蒸気船。艀を接続して桟橋を造る。兵士が濡れずに上陸できる)から素早く上陸した。山砲と騎兵砲の揚陸も始めた。日仏軍の兵士達が艀を渡り、荷車を引きながら海岸を走る。荷車から資材が下される。日仏軍部隊は土嚢を積み上げ、杭を打ち込んだ。柵も立てられ、山砲と騎兵砲の部隊が砲撃準備を始める。


 清国軍は上陸地点に殺到してきた。艦隊からの艦砲射撃で砲兵隊が集中攻撃されつつも、歩兵部隊と騎兵部隊が展開する。清国軍の攻撃は日本軍に集中した(侮日の風潮のために日本を侮っていた)。清国軍の戦列歩兵部隊は横列を組んで進撃する。同時に、八旗兵も散開して向かってくる。日本陸軍部隊と日本海兵隊は戦列歩兵部隊も猟兵部隊も散開して陣地で待機する。


 距離が約450mになると「通常射撃開始ー!」の号令で日本戦列歩兵部隊の銃撃が始まる。分隊長の指示で目標が指定され、次々に戦列歩兵達が銃撃を行う(現代の歩兵部隊の射撃と同じ)。種子島1853の六角弾は兵士の練度もあって多くが命中した。清国の戦列兵は次々に倒れていく。清国軍の将校や下士官達も狙撃班からの国友1853による狙撃で次々に倒れていった。清国軍の戦列歩兵部隊に動揺が走る。将校と下士官が全て死傷して潰走する部隊も出始めた。清国の八旗兵部隊も約300mに入ると、猟兵部隊に国友1853で銃撃されて圧倒された。猟兵部隊による素早さと正確さを兼ね備えた銃撃で八旗兵も次々に倒れていった。

 八旗兵部隊も全く前進できなくなった。清国軍でラッパが鳴り、将校達や下士官達が戦列歩兵部隊の隊形を縦列に変えた。突撃ラッパが鳴り、清国軍の戦列歩兵部隊による縦列での銃剣突撃が始まった。しかし、余りにも無謀だった。日本軍戦列歩兵部隊による銃撃で次々に清国軍の戦列歩兵は倒れていった。対騎兵射撃の命令も出されず、通常の射撃により余裕で阻止された。約300mからは国友1853の部隊の連射も喰らって潰走した。


 八旗兵部隊も戦列歩兵部隊の攻撃に呼応して突撃してきたが、次々に銃弾を受けて倒れていった。退却のラッパが鳴らされ、八旗兵部隊も退却した。清国軍の騎兵部隊も呼応して突撃してきたが似たような結果になった。清国軍の騎兵部隊は山砲部隊と騎兵砲部隊から狙い撃ちにされていた。それでも突撃してきたが死体が増えただけだった。清国軍はフランス軍に目標を切り替えたが、似たような結果となった。フランス軍は対歩で約300m、対騎で約500mからミニエー銃で正確な銃撃を行って撃退した(山砲部隊は榴散弾で騎兵部隊を狙い撃ちにした)。清国軍の砲兵部隊は散開している日仏軍部隊に殆ど砲撃を命中させることができず、日仏艦隊からの猛砲撃で潰走した。清国軍は退却した。清国軍を撃退した日仏軍部隊は橋頭堡を強化し、揚陸作業を続けた。砲兵隊も着々と展開を完了する。清国軍は夜襲も仕掛けたが、撃退された。


 両軍の損害は次の通り。清国軍は戦死が約2100、負傷が約3800、捕虜が377。日仏軍は戦死が77、負傷が169。翌日から、日本陸軍部隊は橋頭堡の防衛をフランス軍と日本海軍の海兵隊に任せて大沽砲台に進撃した。清国軍は撤退しており、日本陸軍は砲台群を爆破して砲の残骸は海中に投棄した。周辺の砲台も同じように爆破され、日仏軍は白河の河口を掌握した。一週間後、日仏軍は白河沿いに進撃して天津を目指した。砲艦を中心とする日仏艦隊も陸上部隊と共同で北上した(艦隊が陸上部隊に補給を行った)。


 7月14日、天津の南方から日本陸軍第1軍団(林正治中将が指揮。3個旅団、教導歩兵連隊、教導砲兵連隊、教導騎兵連隊、第1騎兵旅団。合計で約2万)とフランス軍(約3千)が迫った。日仏連合陸軍の指揮は林中将が執った。清国軍は約1万5千(戦列歩兵が約7千、八旗兵が約3千、騎兵が約3千、砲兵が約2千)で迎撃した。


 清国軍は野戦築城で一連の野堡を構築していた。日仏軍の砲艦と砲兵部隊が野堡を砲撃する。次々に榴弾が着弾して炸裂する。約2時間で清国軍の砲兵部隊は無力化された。日本陸軍の第1旅団と第2旅団が野堡の攻略に着手した。砲兵隊から榴弾が次々に撃ちこまれ、炸裂する。その援護で歩兵部隊が前進し、山砲部隊と臼砲部隊が後続する。日本陸軍部隊は戦列歩兵部隊が猟兵部隊、山砲部隊、臼砲部隊の援護で突撃して着実に陣地を攻略していった。しかし、深追いは禁じられ、第1線より深入りすることは許可されなかった。


 清国軍は日本陸軍が野堡群を攻撃し始めると逆襲に転じた。日本陸軍の左翼を固める第3旅団を約4千(八旗兵が1千、戦列歩兵部隊が3千)で拘束する。清国軍部隊は銃撃と砲撃で撃ち竦められるが執拗に攻撃を続けた。その間に、約5千(八旗兵と騎兵の合同部隊)がフランス軍を急襲した。しかし、フランス軍は落ち着いて応戦した。集合ラッパが鳴り、伝令が走る。フランス陸軍部隊は3列横隊で素早く方向転換した。清国軍の騎兵部隊は日仏陸軍の砲兵隊の猛砲撃を受ける。それでも清国軍の騎兵部隊が迫る。しかし、約300、約200、約100からの一斉射撃で粉砕された。続いて、八旗兵部隊が迫るが約300mからの正確な銃撃で次々に倒れていく。その後も八旗兵部隊と騎兵部隊による清国軍の攻撃が続くがフランス陸軍は清国軍の突破を阻止する。


 林中将はフランス陸軍部隊が攻撃されると予測しており、直ちに予備戦力を繰り出した。同時に、第1旅団と第2旅団は後退する。日本陸軍の教導歩兵連隊と教導騎兵連隊が共同して5千の清国軍の側面を突く。戦列歩兵部隊と猟兵部隊が展開し、八旗兵部隊に銃撃を加える。教導騎兵連隊は教導歩兵連隊を支援する。下馬して銃撃を行う部隊、教導歩兵連隊の山砲部隊、教導騎兵連隊の騎馬砲部隊の援護下で清国軍騎兵部隊を撃退していった。第1騎兵旅団が更に南に回り込んで清国軍を半包囲しながら攻撃した。一転して清国軍は防戦に追い込まれていく。


 一方、第3旅団は銃撃戦で清国軍を圧倒し、約4千の清国軍を追い散らしていた。日本陸軍の中隊は2個小隊が射撃し、その間に2個小隊が前進した(後退時も同じ戦術を行う)。清国軍の戦列歩兵は次々に倒れ、潰走する部隊が続出した。八旗兵も日本陸軍の正確な銃撃に圧倒され、次々に撃ち倒された。しかも、清国軍の士官が次々に狙撃班によって狙撃された。清国軍の指揮官は刀やピストルで戦っていたので簡単に狙撃された。特に、戦列歩兵部隊は士官が狙撃されると故障したロボットのようになった。第3旅団は第1旅団から援軍を受けながら追撃した。清国軍は総退却していく。


 一方、半包囲された約5千の清国軍は日仏軍の攻撃で圧倒されていった。突撃してくる清国軍の騎兵部隊は日仏陸軍の銃撃によって阻止され、八旗兵はフランス軍や教導歩兵連隊に圧倒された。第1騎兵旅団が騎馬砲兵隊の援護で第1騎兵旅団が突撃を敢行し、清国軍は崩れ始めた。教導騎兵連隊も呼応して、突撃した。疲弊していた清国軍騎兵部隊は日本陸軍の騎兵部隊によって蹴散らされた。第1騎兵旅団は清国軍の騎兵部隊を追撃し、教導騎兵連隊は反転して八旗兵部隊を背後から急襲した。教導騎兵連隊が背後に殺到する。槍装備の騎兵部隊によって八旗兵達が崩され、サーベル装備の騎兵部隊が次々に斬り倒していった。


 教導歩兵連隊とフランス軍も教導騎兵連隊に呼応する。日仏陸軍の歩兵部隊は3回の一斉射撃を行い、銃剣突撃を敢行した。日本陸軍の猟兵部隊が掩護射撃する。前後から挟撃されて八旗兵部隊は完全に動揺する。八旗兵が次々に銃剣で衝かれ、死んでいく。戦線を立て直そうとする将校や部隊も猟兵部隊や狙撃班に撃たれ、騎兵の突撃や日仏陸軍歩兵の銃剣で死んでいく。日仏陸軍の突撃で粉砕された八旗兵部隊は潰走した。教導歩兵連隊とフランス軍は八旗兵部隊を蹴散らした後、清国軍の背後に回り込む。第1騎兵旅団と教導騎兵連隊は再集して、清国軍の背後から突撃を敢行した。清国軍の陣地と第3旅団を攻撃していた部隊は背後から急襲される。林中将は全部隊に総攻撃を指令した。清国軍の全部隊は完全に動揺して潰走した。


 潰走する清国軍は日仏軍に徹底的に追撃されて、天津に逃げ込んだ。日本陸軍とフランス軍は天津を完全に包囲した。両軍の損害は次の通り。清国軍の損害は戦死が約5500、捕虜が約5千、負傷が約2千。日仏軍の損害は戦死が289、負傷が743。天津には約5千の民兵部隊が残存していたが、日仏軍に敗北することは明らかだった。日仏軍は降伏を勧告したが清国側から返答はなく、日仏軍は攻囲線の構築を進めた。攻勢線は天津を囲み、完全に包囲した。その後も日本陸軍の後続部隊と物資が次々に到着する。兵站線の警備が強化され、特に砲弾が集積されていく。天津の防備は強化されていた。このため、日本陸軍の第1攻城旅団が展開して砲弾が備蓄されていた。このため、本格的な攻撃は延期された。日仏陸軍部隊は塹壕を掘り進め、清国軍との距離を詰めていった。


 7月23日、日本陸軍の第1攻城旅団を中心に日仏軍の艦隊と砲兵部隊は猛砲撃を開始した。5日間に亘って砲撃は続いた。城塞と陣地の砲兵隊は大打撃を受けて沈黙した。陣地も大幅に損傷し、城壁や城門も崩れ始めた。日仏陸軍部隊が煙幕を展開しながら塹壕から出る。砲兵隊の援護もあって、外周の陣地は日仏陸軍部隊によって着実に攻略されていった。

 併行して日仏艦隊は天津の市街地を砲撃して焼き払った。榴弾が炸裂し、焼夷弾ロケットが降り注ぐ。天津市街は炎に包まれた。艦隊と砲兵部隊に掩護されながら日仏陸軍部隊は接近する。歩兵部隊に援護された工兵隊が城門を爆破する。天津に突入した日仏陸軍部隊は陣地を構築しながら着実に進んでいった。清国軍の正規軍と民兵部隊も抗戦したが、市街地が焼き払われて勝ち目はなかった。

 なお、清国軍は便意兵が日仏軍に効果がないと理解していた。このため、天津攻防戦では便意兵は殆ど発生しなかった。数十人の脱走兵や数百人の容疑者が拘束されたが、軍法会議で死刑になった者はいない。


 8月1日、天津は占領された。日仏軍は捕虜を日本本土の捕虜収容所に送り、天津の住民に物資と金を与えて退去させた。日仏軍は防衛陣地の構築を行った。ここで、日仏軍は清国と本格的な交渉に移った。天津を押さえれば、北京は実質的に孤立する(当時、陸路や水路は天津から各地に伸びていた)。この頃、イギリス軍も漸く到着して天津に布陣した。イギリスは内地通行権と外交使節の北京常駐に拘ったが日本側の全権である小西和信(小西家の親戚)が妥協を促した。


 小西「中国では使者殺しも美徳とされ、外交官は人質になるだけです。中国で軍事力を直ちに行使できない範囲では条約は無意味です」。

 エルギン「小西官房長官、確かにその通りだ。しかし、内地通行権と外交官の北京常駐は戦争目的の一つでもある。清国の中華意識を潰す必要がある。中国の意識を変えるためにも内地通行権と外交使節の北京駐在は外せない」。

 小西「エルギン卿、仰ることは御尤もです。しかし、外交は結局のところ、相手次第です。清国が条約を守るなら、今回の戦争は必要なかった筈では?日本帝国の方が貴国よりも中国との付き合いでは経験が深いのです。中国では信用が重視されません。内地通行権と外交官の駐在は結局、相手国が信用を重視するかに懸かっています。清国に要求しても無意味な事です。それよりは実質的な利益を得るべきです」。 エルギン「確かに、貴方の言うことにも納得できる部分は多い。では、代わりに清国から何かを提供させる必要がある。貴殿の意見を窺がいたい」。

 小西「上海の租界を公式に認めさせることです。租界を正式化すれば、清国の政府や民衆の違法行為から有効な防御になるでしょう。自国に外国の聖域が確保されたとなれば、中国人の態度も徐々に変化するでしょう。同時に、貴国の国民の要望にも適う筈です。租界が正式に認められれば、安心感も増すでしょう」。

 エルギン「確かに、その通りだ。しかし、租界の公式の承認は余りに中国側にとって屈辱的ではないか?内地通行権と外交官の駐在は通常の事だ。何故、租界承認の方が受け入れやすいのだ?」。

 小西「エルギン卿、中国は普通の国ではありません。普通の国とは違う扱いをするべきです。中国は、中華意識に基づいた形式に拘る国です。これまでも北方の遊牧民から征服ないし領土を割譲されたり、貢物を納めさせられ続けたことなどはあります。

 しかし、歴代の王朝は、国内では虚勢を張ってきました。また、中国の民衆も歴代王朝の態度を支持しています。内地通行権と外交官の北京駐在は、その虚勢を完全に破壊します。租界よりも受け入れがたいのです。それから、我が日本帝国にも配慮してください。清国で騒乱が起きれば、我が国は同盟に基づいて出兵します。内地通行権と外交官の北京駐在が実現すれば、中国の態度からして何度も騒乱が起きます。我が国は際限なく出兵する必要があります。貴国が同じ立場に置かれれば議会は如何なる反応をするでしょうか?」。エルギンは尚も拘っていたが、フランス代表も日本帝国に賛成した。このため、エルギンも妥協した。


 8月25日、清国の代表は日英仏の代表と会談し、天津条約に清国は同意した。日英仏軍は天津から撤退したが、林正治中将は清国側が条約を批准するかどうか怪しんだ(対外特務庁が警告していた)。このため、日英仏軍は条約が批准されるまで大沽などの白河の河口と旅順を占領しておくことにした。調印後に、日本帝国政府は拘束していた清国の総督など一部の捕虜を広東に送還した。


 1858年8月27日、日英仏の外交使節を乗せた艦隊が天津に向かっていた。日英仏艦隊は木柵を発見したので引き返し、清国側に撤去の要請を行った。既に清国側が再戦の準備を進めているとの情報を得ていたからだ。清国側は返答を渋り、何の進展もなかった。


 10月1日、日英仏は最後通牒を発して北京での批准、批准までの間の天津~北京間の防御施設の撤去を要求した。日英仏軍は増援部隊を旅順に集結させ、合同演習を繰り返した。

 10月19日、約3万の清国軍が白河の河口に集中してきたので日英仏軍(約1万)は大沽を除いた拠点から撤収した。拠点を占領した清国軍は大沽を取り囲む形で布陣した。遼東半島でも清国軍が集結し始め、金州城の跡地に野戦築城を始めた。旅順周辺にも便意兵が出没し始めた。日本陸軍は偵察を強化し、徹底した掃討を行った。殆どの便意兵は発見され次第、射殺された。拘束された便意兵は日本軍への協力を拒むと、即決裁判の軍法会議を経て銃殺された。


 最後通牒期限前の10月30日、清国軍は夜襲を敢行してきたが日英仏軍は照明弾(ロケット弾)を打ち上げた。日英仏軍の銃砲撃で清国軍は撃退された。日英仏軍は軍事行動に移り、日英仏艦隊が先行した。清国側が設置した木柵は無人の旧式外輪船2隻(黒色火薬と大量のニトログリセリンを頑丈な容器に内蔵し、時限装置が仕掛けられていた)で爆破された。爆破の後、日英仏艦隊は天津に進撃した。複数の隠蔽された砲台が砲撃してきたが、日英仏の艦隊に反撃されて何れも破壊された。日英仏軍は海兵隊を上陸させて砲台を完全に破壊した。


 11月1日、日英仏陸軍(約3万)は天津で防衛線を敷いていた清国軍を攻撃して散々に打ち破った。清国軍は既に前回の戦闘で陸軍部隊の訓練良好な部隊が消耗していた。このため、戦闘は前回よりも一方的だった。日英仏軍に戦死者はなく、清国軍の損害は戦死が約3千、捕虜が約6千だった。日英仏軍は天津を完全に包囲し、降伏を勧告した。

 清国側が拒否すると、11月7日から第1攻城旅団を中心とした砲兵部隊と艦隊が猛砲撃を開始した。次々に天津の外周陣地は陥落した。再建され始めていた市街地も焼き払われた。

 日英仏軍は11月10日、三つの城門を爆破して突入した。日英仏軍は便意兵を防ぐために、天津と周辺を念入りに掃討した。

 11月14日、天津は完全に占領された。日英仏軍は天津と周辺の町や村から住民を退去させて(金と物資を渡した)、陣地を強化した。11月17日、日英仏陸軍(約3万)は北京に向けて進撃を開始した。清国側は使者を送り続けたが追い返された。日英仏軍は北京を大砲の射程内に入れるまでは本格的な協議に移るつもりはなかった。八里橋に清国軍は防衛線陣地を構築していたが、日英仏陸軍に大敗した。清国軍の損害は戦死が約2900、負傷が約5500.日英仏軍の損害は戦死が76、負傷が257に過ぎなかった。


 11月21日、日英仏軍は北京の安定門に10分間、砲撃を加えた。日英仏軍は陣地を構築し、清との交渉に移った。

 清国側は皇帝の意向で講和条件を協議し続けたが、11月25日、日英仏軍は最後通告を発した(同じ頃、金州城跡の清国軍も日本陸海軍に撃破されて退却の真っ最中だった)。やっと、清国の代表は日英仏側の要求に応じることを表明した。詳細を詰めるためにイギリスとフランスはハリー・パークスなどを護衛付きで北京に入れた。日本は中国の侮日の風潮を考慮して軍使を北京に入れず、英仏の外交官に詳細は任せていた。ところが、三回目の協議後にパークスなど英仏の39名が拉致された。清の皇帝が中国語を話すパークスとウェードをイギリスの黒幕と思い込んだためだった。日英仏の全権代表や将官達はパークスらが戻ってこないので不審に思っていた。


 翌朝、日本の対外特務庁が事態を確認して報告した。日英仏陸軍の将官達、日英仏の全権代表は激怒した。

 エルギン「許しがたい!しかし、人質がいるのでは攻撃できない」。

 林中将「エルギン卿、失礼ながら其れは過ちです。直ちに、攻撃を敢行すべきです。このまま、待ち続けていれば中国側の態勢は整います。人質を完璧に隠して奪回を不可能にします。今なら、態勢も整っておらず、攻撃してくるとは思っていません。直ちに攻撃を許可してください」。

 エルギン「確かに、貴官の言うとおりだ。しかし、激高した清国軍の将官が人質を皆殺しにするのではないか?」。

 林「エルギン卿、清国の立場で御考えください。連中には人質しか有力な手段がありません。人質を簡単に殺せるでしょうか?更に、交渉しても中国人の常として人質を殺害したり、虐待したりします。結果として、多くの人質が犠牲となります。貴殿は交渉を不利にするか人質を見殺しにするかを選ぶ羽目になります。今、攻撃すれば清国は休戦のために人質を解放するしかありません。御決断を!」。

 エルギン「貴官の意見は正しい様だ。連合軍の最高司令官は貴官だ。すべて御任せする。どのような結果になっても貴官と日本帝国を支持することを大英帝国の代表として誓う!」。この後、エルギンはフランス全権代表にも同意を求めた。フランスも直ちに同意した。


 林中将は日本陸軍部隊の指揮官達に事件を説明し、直ちに北京に対する攻撃を開始することを伝達した。次に、英仏軍の指揮官達も集めて北京攻略の作戦を確認した。北京攻略のための作戦は立案済みであり、砲兵隊の試射も済んでいた。林中将は「個人で投降した者は捕虜とせず、全て殺害せよ。将校に統制されて降伏した投降者だけを捕虜として扱え。少しでも疑わしい民間人も全て殺害しろ。時間がない。ただし、人質の救出が目的なので役に立つ者は捕虜とする。後でリストを送る。直ちに、行動開始だ」と指示した。

 林中将の指示は冷酷なようだが、当時は珍しくない。将校の統制下で投降した者が捕虜として認められ、保護の義務があった。しかし、個人で投降する者を保護する義務はなかった。そのため、個人投降者は射殺されることも多かった。ただし、一旦、捕虜として受け入れれば保護する義務が生じる。日本陸海軍は是まで個人投降者も受け入れるのを命令していた。アロー号戦争が始まってからも個人投降を受け入れていたが、今回は人質救出のために原則を変更した。


 日英仏軍部隊が配置に就く。砲撃が開始された。安定門と周辺陣地に砲撃を集中する。既に、試射も終わっていたので多くの砲弾が早々に命中した。榴弾が炸裂し、清国軍の大砲が吹き飛ばされていく。約30分で清国軍の砲兵隊は大打撃を受け、完全に沈黙した。続いて、風下の市街地が標的になった。榴弾砲部隊と大型臼砲部隊から多数の榴弾が撃ち込まれ、着弾して爆発する。多数の建物が爆発して崩れる。やがて、火災が発生し煙が立ちこめる。すると、日本陸軍のロケット発射機部隊が大量の焼夷弾ロケットを発射した。多数が着弾して火災が大幅に広がる。火災が大きくなると、大型臼砲部隊と榴弾砲部隊は目標を城壁に移した。


 併行して、工兵隊と歩兵部隊がカノン砲部隊、山砲部隊、臼砲部隊の援護を受けながら前進した。砲兵隊の榴弾が次々に炸裂し、清国兵が吹き飛ばされる。猟兵部隊の援護を受けながら、日本陸軍戦列歩兵部隊が前進する。清国兵が数人、手を挙げたが途端に射殺された。負傷者も次々に射殺されていった。日本陸軍部隊は、将校が統制した集団投降による投降者以外は皆殺しにした。英仏軍も同様の措置をとった。日英仏軍部隊は素早く進み、城門に進んだ。銃撃、山砲や臼砲による砲撃で援護された工兵部隊が爆薬を仕掛ける。導火線に火が点火され、大爆発が起きて城門は破壊された。


 門を破壊すると、日英仏陸軍部隊は城内に雪崩れ込んだ。城壁の上の清国軍はカノン砲部隊に撃ち竦められていた。日英軍が清国軍の民兵部隊や正規兵の残存部隊を掃討しながら前進した。フランス軍は城壁を制圧していった。日英軍は事前に区画を設定しており、一区画ごとに掃討していった。日英軍とも民間人でも疑わしいと兵士が判断すると、容赦なく殺害した。銃声が鳴り響き、清国兵や清国人の死体が多数、転がった。殆どの家が放火された。民兵部隊に不意を突かれないように一区画を制圧すると隣の区画が掃討されるまで待ち、横一線で掃討していった。後続してきた臼砲部隊、騎馬砲兵隊、山砲部隊が配置されて砲撃で日英軍を援護した。


 フランス陸軍部隊は臼砲部隊から多数の榴弾を撃ちこみ、階段から城壁に駆け上がった。臼砲部隊の援護を受けながら銃剣突撃を敢行して一挙に、城壁に橋頭堡を確保した。後は隊列を整え、清国兵を銃撃していった。臼砲部隊もフランス陸軍部隊の前進を援護した。日本陸海軍の外人部隊には多くのフランス人が所属していたので意思疎通は良く、的確な支援が実施された。フランス陸軍も、将校に統制された投降者以外は皆殺しにした。


 清国軍は大混乱に陥っていた。パークスらを人質にしたので日英仏軍は攻撃を躊躇すると予測していたからだ。そこに日英仏軍の猛攻が開始された。火災や日英仏軍の砲撃と銃撃から逃げる避難民の群れにも巻き込まれたことも混乱に拍車を掛けた。そこに日英軍が銃撃や砲撃を行う。日本陸軍戦列歩兵部隊は種子島1853で射撃を加える。猟兵部隊は清国軍の反撃に備えて待機した。銃撃で清国兵や民間人が次々に倒れていった。清国軍が銃撃で反撃してくると、猟兵部隊は発砲煙に向けて的確な射撃をした。清国軍の将校達も狙撃班や日本陸軍部隊の将校達によって次々と撃たれていった。

 騎馬砲兵隊や臼砲部隊も布陣して榴弾を容赦なく撃ちこんだ。清国兵や民間人が吹き飛び、肉片が散らばった。清国兵や民間人の多数の死体で進撃が邪魔になり、戦闘中に除去作業をしなければならなかった。


 安定門の一帯が制圧されるとカノン砲部隊と榴弾砲部隊が城内に布陣した。城内に布陣した榴弾砲部隊とカノン砲部隊は紫禁城に対して砲撃を開始した。ここで、日英仏軍は三十数人の捕虜(部隊を率いて降伏した将校達)に「直ちに人質を解放しなければ紫禁城も含めて北京を壊滅させる」との書簡を持たせて紫禁城に向かわせた。清国側は大混乱に陥っていたが、恭親王が人質の解放を命令した。清国の軍使が到着した。中国語を完璧に理解した対外特務庁の数人の工作員達が尋問を開始した。対外特務庁の工作員が清国の軍使から監禁場所を聞き出した。拷問はしていない。具体的な尋問方法や買収の有無は不明だ。


 日本陸軍の教導騎兵連隊が救出に向かった。中国人の日本側スパイから監禁場所について情報を得ていたが確証はなかった。教導騎兵連隊は清国の軍使を強制的に連れて行き、監禁場所の刑部に向かった。途中で恭親王が派遣した部下達とも遭遇した。双方とも銃を構える。対外特務庁の工作員が旗や制服などから恭親王の部下達だと察して「撃つなー!敵ではないぞー!」と叫び、日本陸軍の将校が「銃口を下ろせ」と命令した。騎兵部隊員達は銃口を清国兵から外した。何時でも撃てるようにはしていたが。清国兵から工作員が下馬して白旗を振った。それから軍使を連れて行き、清国軍の将校と暫く話をした。清国軍の将校の指示で清国軍兵士も銃口を下ろした。その後、両部隊は一緒に人質が監禁されていた刑部に急行した。


 2名の工作員が清国軍の将校や軍使と共に刑部へ張り、日本陸軍騎兵隊の1個小隊が担架などを持って続いた。清国軍将校の指示で刑部の要員は外に出ていった。刑部を中心に教導騎兵連隊は防衛線を敷いた。清国軍将校らに先導されて日本陸軍小隊は進み、パークスらを発見した。工作員から鍵を渡された日本陸軍兵士達がパークスらを手早く担架に乗せて運び出していった。人質のうち、4人が重傷だった。更に、他の英仏の人質も拷問されていた。幸い、命に別状はなかった。しかし、2人の行方が不明だった。工作員と日本陸軍将校が厳しく清国軍の将校を問い詰めた。清国軍の将校と軍使は大いに戸惑い、捜索を約束し、直ちに部下に指示した。日本陸軍兵士達と対外特務庁の工作員達が刑部内を捜索し続けた。なお、この二人は清国軍の将軍に殺害されていた。人質が城外の野戦病院に収容されると、ロケット信号弾7発が打ち上げられた。


 日英仏軍は戦闘を停止する。砲撃が中止され、日英仏軍の部隊は戦線整理のために後退した。ただし、刑部と周辺は日英仏軍部隊が占領した。北京の火災は大火となり、市街地の半分を焼き尽くした。火災が燃え盛る中、日英仏軍の将校達と清国軍の軍使の一行が安定門で休戦協定に署名した。


 日英仏の全権代表は恭親王を11月28日に円明園に呼び出した。そこで交渉を始めた。日英仏軍は円明園を秩序だって略奪していった。宝物が木箱などに梱包されて運び出されていった。宝物は天津に送られていった。宝物を運び出した後、イギリスは円明園を破壊する積りだったが日本側の代表団に制止された。

 小西「エルギン卿、御怒りは御尤もです。しかし、円明園のような文化財を焼くのは好ましくありません。既に復讐は充分です。清国も代償の大きさを思い知ったようです。パークス殿達に賠償金とは別枠で賠償と謝罪が行われます。恭親王の名義ですが。

 しかし、犯人と首謀者は何れにしろ、死ぬことになります。一歩、間違えれば我が国の要員がパークス殿などと同じ目に遭わされていましたからね。また、円明園には別の使い道があります。円明園を中心に各国の大使館を建て、周りを囲む要塞を造れば良いのです。勿論、費用は賠償金と別枠で清国政府に負担させます。それから安定門を各国の管理下に置けば良いのです。そうすれば、好きな時に清国と交渉できますし、大使館も安全です」。

 エルギン「パークスらを拉致した連中への措置は貴国に一任する。犠牲者が2人だけで済んだのは貴国の功績だ。大英帝国は貴国を完全に信頼している。心から感謝する。また、貴方の提案は興味深い。しかし、北京に外交官を駐在させるのは戦争目的の一つだ。前回は租界の公式承認で妥協したが、今回は是非とも認めさせる。それから円明園は破却するのが清国への確かな警告となると思うが」。

 小西「エルギン卿、我が国にも配慮が必要です。北京市内に貴国も含めた各国の大使館があっては救援を行うことが困難です。騒乱時には、日本陸海軍が救援軍の主力を担うのは確実です。清国が騒乱を起こすとすれば、更に準備するでしょう。円明園を中心にした要塞があれば、救援到着まで守備できます。また、円明園は清国皇帝の離宮です。列国が共同で管理することは中華秩序を否定する意味で大きな意味を持ちます。如何でしょう?」。

 エルギン「貴方の提案にも納得できる部分は多い。そして、今回の戦争の勝利に最も貢献したのは日本帝国だ。その代表である貴方の意見が重視されるのは当然だ。貴方の提案通りにしよう」。

 小西「エルギン卿、感謝します。それから、もう一つ提案があります。ロシア帝国が清国に領土の割譲を認めさせました。しかし、我が日本帝国は是を容認できません。ロシアの南下は日本帝国にとって脅威です。貴国にとっても好ましくないでしょう。そこで、清国にロシアへ割譲する領土を縮小させます。貴国は黙認してください。勿論、今回の条約に影響はさせません。清国が関連させれば、再度、戦争です」。

 エルギン「素晴らしい。日本帝国が大英帝国の同盟国であることは神の恩寵だ。また、貴殿や林中将が今回の戦争における責任者であることは勝利の重大な要因だ。また、日本陸海軍は我が国の陸海軍にも匹敵する。深く敬意を表したい」。

 小西「エルギン卿、恐縮です。貴殿の賛辞は、我が日本帝国にとって大いなる誇りとなります。日本帝国にとっても大英帝国が同盟国であることは神の御恩寵です」。

 二人は固く握手を交わした。その後、二人はフランス代表も交えて交渉の打ち合わせを行った。


 日本側の全権代表である小西和信が恭親王との会談を主導した。今回の戦争の最大の貢献国は日本帝国であり、小西和信は中国語も話せたからだ。小西和信は小西数馬の子であり、官房長官だった。幕府の軍情報局に所属しており、高い評価を受けていた。主に、中国方面での諜報活動を統括していた。外交官として清国の高官と会談することも多く、恭親王とも数回、会っていた。こうした経歴から帝国政府の発足時に官房長官に抜擢された。小西が講和会談を主導したのは当然だった。


 小西と恭親王は会談の最初に握手を交わし、丁寧な挨拶をして着席した。

 恭親王「今回の戦争は我が国の敗北であり、日本帝国、大英帝国、フランス帝国が大きな対価を受け取るのは当然だ。また、不幸な事件もあった。しかし、日英仏軍の報復行為は限度を超えている。特に、日本軍の報復行為は酷い。小西殿に説明を求めたい」。

 小西「恭親王殿下、殿下の率直な姿勢に敬意を表します。また、殿下の丁寧な対応が今回の会談に結び付きました。殿下が清国の外交を主導なさっていれば、今回の戦争は起きなかったでしょう。しかし、今回の北京攻略における日英仏軍の作戦行動は正当です。貴国が同様の行為を受ければ、同じことをするのは確実でしょう。また、貴国の軍隊が征服した国や地域で都市部などに突入した際の行動と比べれば、寧ろ穏やかな方です。

 将校に統制された投降者は認め、捕虜として丁重に処遇しています。そして、報復が目的ではなく人質の救出を目的とした作戦行動でした。また、日英仏の三国では貴国の行動を善意に解釈しています。情報に拠れば、パークス殿らの拉致を指示したのは清国皇帝陛下の指示だったそうです。しかし、諜報活動では不確かな情報が普通です。よって、日英仏の三ヶ国は貴国の善意を信じ、一部の将軍による独断であったと判断します」。

 恭親王「諒解した。今回の戦争では不幸な事が多かった。双方に行き過ぎがあったが、言い合ってもしょうがない。講和の条件に付いて協議したい。三ヶ国の条件を検討したが、余りにも過酷だ。是を全部、履行したら清王朝は崩壊する。貴国らも清王朝が崩壊して条約を履行する政権が消滅すれば困る筈だ。条件を緩和してもらいたい」。

 小西「恭親王殿下、御丁寧な返答に感謝します。しかし、日英仏軍の行動が適正であったことは再度、強調しておきます。さて、条件に関してですが、細かい点は調整の余地はあります。しかし、大枠については譲歩できません。軍使を拉致するなどの貴国の今回の戦争における態度や平時からの外国人への暴力行為などを考慮すれば妥当な条件です。

 今回、日本帝国は貴国がロシアに割譲する筈の領土の半分以上を返還させることも考慮してください。貴国が他国に軍事侵攻した時に出す講和条件と比べて、今回の日英仏の要求は苛酷ではありません。日英仏の三ヶ国は清王朝を滅ぼす意図はないのです。条件の大枠を受け入れた方が賢明です」。

 恭親王「余りにも過酷だ!現状の条件では、流石に清国の全ての階級の人間が黙っていない。我が国の人口は多く、領土も広い。全土で抵抗すれば、貴国らが勝つのは容易ではない。貴国らには思いがけぬ災いになる。更に、世界には貴国ら以外の強国もいる。我が国との戦争ばかりするわけにもいかないだろう。条件の緩和は御互いのためだ。熟慮を求める」。

 小西「恭親王殿下、失礼ながら明白な事実を述べさせていただきます。中国人は外国人に中国が征服できないと思い込んでいる。それは、一面、正しい。確かに貴国の国土は広く、人口も多い。しかし、それは弱点でもある。生産力や水資源の割に人口が多く、飢饉が発生すれば直ちに大惨事になる。さらに、国土が広く人口が多いので行政費用も膨大になり、腐敗も発生しやすい。貴国を征服することは困難だが、貴国の弱点を利用して政権転覆を行うことは容易だ!更に、周辺国と同盟して貴国を分割させる戦術もある!

 特に、ロシアは貴国を征服する意欲も力も充分です。この条約を調印して日英仏との関係を安定化させるべきです。貴国が存続する確かな道です」。

 恭親王「失礼だが、余りに過激だ。今回の条約を清国が全て履行したと仮定して、清国が存続できると考える根拠を提示できるのか?それについて納得できなければ、清国政府として民衆に条約を厳守させることはできない」。

 小西「恭親王殿下、条約を厳守する方が得であることは明白です。大英帝国もフランス帝国も、これまで中国に侵攻してきた民族の様に反乱を扇動したり、政権奪取のために中国の王朝を継承することを宣言していません。また、貴国に傀儡政権を造る動きもしていません。他にも、是まで中国を征服してきた国や民族が用いてきた手法は何もしていません。我が日本帝国も同様です。

 対して、ロシアは康熙帝陛下の時代に領土を着実に広げてきました。今回、我が日本帝国がロシアの領土拡大を阻止することを明確にしています。大英帝国もフランス帝国もロシアのような動きは示していません。どちらを信用すべきかは明白です。講和をする気がなければ、其れでも結構です。遺憾ながら、太平天国を援助します。清国の返答を御聞かせ下さい」。

 恭親王「貴国らは戦勝国だ。従おう。しかし、ロシアに対する件を確約し、日英仏の三ヶ国が清王朝を政権として認めることを明確にしてもらいたい。それから、太平天国を反乱勢力と公式に宣言し、兵器の売却などを明確に禁止してもらいたい。以上を受け入れてくれれば、清国は条約を受け入れる。条件は受け入れ、全て履行する。しかし、賠償金支払いの期間や金利などについては協議を続けたい」。

 小西「恭親王殿下、御賢明です。清王朝が信用できる政権であることが確認できました。それから、恭親王殿下が提示された条件を日本帝国は完全に受け入れます。恐らく、大英帝国もフランス帝国も同様でしょう。貴国は条約を批准したことを後悔しないことを保障します」。小西は英仏の全権代表と別室に向かい、暫く話して同意を得た。その後、恭親王と日英仏の三ヶ国の全権代表は条件の詳細についての継続協議で合意した。そして、条約文書に署名した。


 こうして、1858年12月2日、紫禁城で北京条約が締結された。批准が終わるまで天津と旅順は連合軍に占領された。

 1859年10月1日、批准書の交換が円明園で行われ、アロー号戦争は完全に終結した。既に円明園を囲む要塞と各国大使館の建設工事が始まっていた。要塞は、円明園要塞と名付けられた。外国人は北京市内に宿泊することを禁じられ、円明園要塞に宿泊することが義務付けられた。なお、アロー号戦争の最中にロシアは清国に対してアイグン条約を締結させて領土を得た。


 北京条約で日本側が清国に認めさせた条件は英仏とは大分、異なっていた。共通していたのは日本の領事裁判権、賠償金、片務的最恵国待遇だった。日本側が清国に認めさせた他の条件は次の二点だった。

 第一に、ロシアに割譲する領土を縮小させた(現在の沿海地方とハバロスフク地方の南部の割譲中止)。しかし、清国はロシアにも多額の賠償金を支払う羽目になった。日本帝国はロシアが接近してくることを望まず、日本海に海軍基地が造られることは容認できなかった。清国側はロシアに攻められることを懸念した。しかし、日本帝国はロシアに割譲する領土を縮小しなければ、日本帝国も清国の領土を占領すると恐喝した。日本帝国は清国にシベリアでロシアが補給に苦労していることなどの情報を伝えて納得させた。また、ロシアに清国の領土割譲の縮小を認めなければ戦争に突入すると伝えた。

 シベリア鉄道がない当時、ロシアが沿海地方などを保持しようとした場合、海上輸送で物資を運ぶほかなかった。日本帝国が反対すれば、ロシアが領土を獲得することは不可能だった。ロシア国民は激怒したが、ロシア政府は平静を装った。


 第二に、朝鮮を日清両国の共同の被保護国として認めさせた。当時の日本帝国政府は朝鮮を併合しようとは考えていなかったが、他国に海軍基地や鉄道を設置させたくなかった。それに、朝鮮が小中華の思想で中国と同じく侮日の風潮が発生していたので、それを否定する意味があった。両国は朝鮮委員会を設置して朝鮮を管理していく。他にも、違いがあった。日本帝国は清国の関税自主権を認め、開港地も従来と同じく広東だけだった(上海の租界にも多数の日本人が居住していたが欧米企業の従業員だった)。


 また、公使館を北京の円明園要塞に設置しないこと(日本帝国の公使館は上海、領事館は広東)、阿片の輸出禁止、日本人宣教師の渡航禁止にも合意している。このため、日本帝国内からは帝国政府に反発する意見が上がった。

 しかし、「日本帝国政府はイギリスとの条約に従って出兵した。また、中国の侮日の認識を崩壊させ、大陸の秩序を日本帝国に有利な秩序とする意味合いもあった。商売のためではない。中国で日本人が商売を成功させるには次の二つしか方法がない

 。一つ目は、中国に軍事介入し続けること。中国人は日本人を嫌っているから平穏に商売を行うには軍事介入し続けるしかない。際限がなく、帝国にとって不毛な結果を招くことは明らかだ。そして、外国人の好き嫌いを操ることはできない。さらに、中国人には日本帝国を好きになって得をすることがない。中国は日本が消えれば経済上の競争相手が減る。また、中国の人口は過剰だから中国人の頭から日本征服の誘惑が消えることはない。

 二つ目は、中国に迎合し続けること。これを行えば、日本人は中国で平穏に商売ができる。しかし、技術は流失し、富と雇用は中国に流れ続けることになる。それしか、中国人が満足する方法はない。しかし、それを行えば中国が裕福になり、日本帝国が危機に晒される。ナポレオンが言った通り、戦争に必要なのは金だからだ。そして、中国に迎合し続ければ、中国人は益々、日本人が嫌いになる。なぜなら、自分の国を害する意思がある国に迎合する人間を信用するほど中国人は愚かではないからだ。中国人は日本人を中国より強い国が現れれば、直ぐに裏切る民族と認識することは確実だ。中国と日本帝国が友好的に接するには、日本人が中国にいないことが一番だ。中国にいれば、人口過剰な中国人が経済的な競争相手である日本人を敵視するのは避けられない。軍事介入も迎合も前述の結果を招く。そもそも、個人同士と同じように国同士でも仲良くできない国はいる。日本帝国と中国は赤の他人でいることが最良なのだ」と小西和信は明言した。帝国政府も同様の趣旨を広報した。当時の日本帝国政府は大陸進出など考えてもいなかった。


 アロー号戦争に参戦して清国に大勝したことで帝国政府の権威は増した。帝国政府の軍事力が証明され、中国での侮日の風潮が打ち砕かれたことで中央政府は国民から大いに支持されることになった。幕府の外交を踏襲したことによる軟弱外交(表面的な姿勢の一面を論っただけだが)という批判が根強かったからだ。こうした批判が根強かったのは、幕府も帝国政府もロシアからアラスカを奪わなかったからだ。当時、アラスカはロシアが領有していた。ロシアが南下政策により日本海や黄海を目指していたのは承知の事実だったし、中央アジアの国々やオスマン帝国などに対する侵略を鑑みても日本帝国を狙ってくるのは明白だった。このため、日本帝国内ではアラスカをロシアから奪い取るべきだとの意見が強かった。


 しかし、幕府陸海軍が軽々しく戦争を行うことに断固として反対した。日本軍がサンクトペテルブルクを占領することは不可能だからだ。サンクトぺテルブルクを攻略するにはイギリスなどに要請するしかないが、そんな要請に応じる国はいなかった。さらに、鉄道が発明されたことで、将来的にロシアが鉄道を使って征服を進めることが予想されていた。このため、幕府陸海軍は安易にロシアと戦争してロシアの復讐の標的にされることは避けるべきだと判断していた。更にロシアが孤立しているアラスカを領有している限り(当時、砕氷船は発明されていない)、日本帝国との友好関係は不可欠だった。こうした幕府陸海軍の意見により幕府はアラスカを奪わなかった。旧幕府の人間が多い帝国政府も方針を踏襲していた。


 しかし、アロー号戦争の最中にアイグン条約でロシアが日本海への入り口を確保しそうになった。そうなると、ロシア海軍が日本海で作戦行動ができるようになり、アラスカにも軍事的な意味合いが出てくる。これを防ぐために、日本帝国政府は清国に割譲する領土を縮小させ、ロシアを恫喝した。この結果、ロシアが日本海に出ることはできなくなった。アロー号戦争の勝利で、ロシアの脅威の防止と中国の侮日の粉砕が達成されたので帝国政府に対する賞賛が高まり、帝国政府は国民の信頼を堅固にした。小西和信官房長官と林正治中将は複雑な心境だった。2人は最高勲章を授与され、帝国政府や帝国陸海軍の重鎮となっていく。しかし、2人とも旧幕府の人間であり、幕府の周到な準備が成果を挙げたのに帝国政府ばかりが賞賛されるのは不満だった。しかし、帝国政府は国民の支持を獲得し、廃藩置県などを断行していくことになる。


 1864年、鍋島直正の任期が終わった。後任の首相には小栗上野介が選任された。小栗上野介が首相に選任されたのは、維新同盟の藩閥の間で調整がつかなかったからだった。そのため、小西和信の推挙で小栗上野介が選任された。


 小西和信が小栗上野介を推挙したのは、廃藩置県にあたり維新同盟の藩閥以外から首相を選ぶ必要があると認識していたからだ。これまでは、維新同盟の藩閥で事を進めた方が効率的だった。しかし、廃藩置県は日本帝国の国益のために行う行為だった。それを維新同盟の藩閥の人間が行えば、特定の人間のための行為と認識される恐れもあった。徴兵制による国民軍の創設を行うことを考えると、これは重大だった(既に議会が創設されないことで批判が出ていた)。更に、廃藩置県、国民軍の創設などは内戦が発生する可能性が高かった。内戦の際に、藩閥に属する人間が首相では国益のための政策だと納得されることは難しい。内戦を早期に終結させるためには、ある程度の支持は必要だった。


 更に維新同盟の藩閥間で対立が激しくなっており、クーデターの噂が流れた程だった。廃藩置県、国民軍の創設、武士の身分の廃止などでは強権の発動が必要だが、そうなると首相が陸海軍や内務省軍などにいる自藩の人間達を組織してクーデターを起こす可能性があった。ナポレオン3世による自己クーデターの例もあり各藩閥は疑心暗鬼に陥っていた。

 こうした措置の後の武士に対する救済措置、既得権益の再配分などで維新同盟の藩閥によらない人物が首相になって実行しなければ、失業する武士の全てが内戦に加わる可能性があった。内戦が長引けば、徴兵制によって徴集される兵士達がフランス革命に類似した行動を起こす可能性もあった(当時の日本帝国陸海軍の将官達は、これを怖れていた)。


 こうした事から、小西和信は維新同盟の藩閥に属さない藩出身で廃藩置県を提唱していた小栗上野介を推挙した。小西和信は孝明天皇の賛成を取り付けた上で小栗上野介の首相選任を各藩閥に働きかけた。孝明天皇は自分の意見が政府内で否定されることが多かったこともあり(天皇も閣議では他と同じく一票)、積極的に政府内での働きかけを行った。各藩閥は他の藩閥との調整がつかないこともあって、小西和信と孝明天皇陛下の働きかけに応じていく。各藩閥内でも小栗上野介を容認する声も多くなっていった。廃藩置県、武士の身分廃止などを断行すれば憎悪されることは確実であり、「この際、小栗に憎まれ役をやらせた方が良い」という趣旨の意見が多くなっていた。


 こうして、小栗上野介が首相に選任された。鍋島内閣で大蔵副大臣に任命されていた小栗は、当初、首相就任を固辞していた。しかし、友人であった小西和信、孝明天皇、宮内庁長官の岩倉具視(保守派の中でも守旧的であり、小西とは仲が悪かった。しかし、国益に鑑みて小西と共同して各藩閥への働きかけを行った)に説得されて首相に就任した。


 小栗は首相に就任すると、廃藩置県に向けて準備を本格化させた。主要な準備は次の通り。

 第一に、近衛兵庁を創設した。近衛兵庁の役割は、天皇陛下と皇族の警護、陸海軍および内務省軍に対する憲兵業務と監視、諜報機関に対する捜査と監視、閣僚および閣僚の家族の警護、陸海軍や内務省軍が反乱を起こした場合の鎮圧だった。近衛師団も創設され、陸海軍と内務省軍の志願者の中から選抜された。近衛兵庁は天皇の直属であり、近衛兵庁の長官は近衛師団長を兼ねていたが最終的な指揮権は天皇にあった。

 近衛兵庁の長官には西郷隆盛が任命された。近衛兵庁が創設されたのは、藩閥がナポレオンのようにクーデターで政権を獲得する可能性を摘み取っておくためだった。また、廃藩置県時に各藩の陸軍を武装解除することも目的だった。内務省軍も藩閥の影響力が強いことは周知の事実だったからだ。


 第二に、内務大臣に大葉秋信(大葉純信の孫。内務省軍の中将だった。全国で発生した反政府運動の撃滅で諸藩の治安機関を連携させて反政府運動の取り締まりに成功した)任命して内務省改革に当たらせた。内務省軍の権限が縮小され、国家警察庁が創設された(所属は内務省)。内務省軍は組織犯罪に対する捜査と諜報活動、憲兵業務、内乱鎮圧などに専念させられた。

 警察庁が指揮する警察は通常の犯罪捜査と取り締まりを担当することになった。当時、内務省は権限が肥大化しており、業務が非効率的になっていた。このため、権限を縮小して本来の任務に専念させる必要があった。内務省軍は本来の業務に専念できるようになり、後の騒乱に的確に対処していくことになる。大葉は公安局などの改革も進め、内務省全体を効率的にした。内務省軍は砲兵隊を追加され、増強されている。内乱に備える意味もあったが、軍によるクーデターに備えるためでもあった。


 第三に、華族制度の再構築。旧藩主(知藩事)を廃藩置県後に華族とすることが内定していたので華族制度を再編する必要があった。華族制度の再編と拡充は岩倉具視が推進したが、小西和信も賛同して協力している。この二人は仲が悪いにも関わらず、結果として小栗の首相在任中は協力し合うことになった。


 以上のような主要政策の他にも、着々と準備が進められた。陸軍大将には酒井吉之丞が任命された(少将に任命された頃から酒井吉之丞の有能さは高く評価されており、アロー号戦争時の派遣司令官の最有力候補だった。しかし、当時の国防大臣だった阪井幸信が「中国で効率良く勝利するには中国のルールで戦闘することを苦にしない軍人の方が良い」と述べて林正治中将を任命した。これも藩閥色を薄め、各藩に対して廃藩置県が国益に鑑みた政策であることを示すためだった。


 また、日本帝国陸海軍の新型小銃に村田銃(種子島1864。口径11mm。金属薬莢)が採用され、急速に配備と訓練が進められていた。当時、砲弾に充填されていたのは黒色火薬であり、爆発力は後の時代の砲弾に比べて低かった。このため、小銃は極めて重要だった。また、廃藩置県後の帝国陸海軍の象徴として示す意味もあった。軍帽もケピ帽に更新された。編成も確立された。是までは旅団(約5千名。諸兵科連合で小型師団)が単位だったが、徴兵制が予定されていたので師団(約1万6千名)が基本単位になった(海兵隊は従来通り、旅団)。師団は徹底した諸兵科連合で3個旅団戦闘団(諸兵科連合で小型師団)と司令部から成っていた。経費は掛かるが、不正規戦やジャングル戦などにも対応し易かった。


 他にも様々な準備が進められ、1867年4月7日、閣議で廃藩置県を予定通り断行することが確認された。当時、朝鮮は北京条約で日清両国の共有の保護国とされたことに反発して、倭館から日本人を強制退去させたりするなど攘夷の行動を行っていた(朝鮮軍が出てくると日本人は軍艦で退避した)。このため、日本国内では征韓論が高まっていた。このため、朝鮮出兵の名目で陸海軍の演習や物資の集積などを行うことができた。日本帝国陸海軍、内務省軍は臨戦態勢をとった。


 6月30日、日本本土の知藩事達が名古屋に集まるようにとの招集命令が下された。知藩事達は朝鮮出兵を行うに当たって国内の保安体制を固めるための指示が下されると思っていた。

 1867年7月14日、日本帝国全土で戒厳令が発動された。近衛師団が厳戒態勢を敷いた名古屋城に知藩事達(旧藩主達)が入城した。名古屋城の天守閣の謁見の間に知藩事達は集められた。知藩事達が揃うと孝明天皇が詔書を読み上げ、廃藩置県を宣言した。知藩事達は朝鮮出兵が宣言され、知藩事達に挙国一致の勅命が下されると思っていたからだ。孝明天皇陛下が詔書を読み終えると、関白(帝国政府での職務は天皇の補佐)の三条実美が廃藩置県の詳細を説明した。趣旨は次の通り。

 第一に、知藩事は全員が免職される。元知藩事達や一族は華族に叙されるので、名古屋に移住すること。

 第二に、藩の債務は全て日本帝国政府が引き継ぐ。

 第三に、県には政府が任命した県知事が派遣され、知藩事の職務を引き継ぐ。なお、藩士の禄は政府が支給する。


 他にも、廃藩置県による職務の引き継ぎの概略が説明された。知藩事達が驚愕している間に、孝明天皇が退位して上皇となることが孝明天皇によって宣言された。そして、孝明天皇が知藩事達を大広間に誘い、これまでの忠勤を讃えて慰労会を執り行った。慰労会後、孝明天皇と三条実美は知藩事を個別に呼んで歓談した。知藩事達は翌日から行われる明治天皇の即位式のために名古屋城に留め置かれた。丁重に持て成されたが、命令の伝達や書簡などは厳重に監視され調べられた。知藩事達は名古屋城に泊まることが命令され、実質的に軟禁された。


 廃藩置県の儀式が終わると同時に、勅使が近衛師団の部隊を伴って、知藩事専用の各宿舎を回った。勅使は知藩事達に随行してきた藩の幹部達に廃藩置県を宣言した。

 翌日、明治天皇の即位式が行われた。三条実美が詔書を読み上げ、元号を明治に改めることも宣言された。式典が終わると、祝宴に移った。知藩事達は孝明上皇や明治天皇と歓談した。祝宴の後も、知藩事達は個別に孝明上皇と懇談した。名古屋城を退出する時は勅使も同行した。そして、各知藩事達は勅使と共に宿舎に戻った。


 7月18日、知藩事達は相次いで名古屋を離れ、勅使と共に藩に戻っていった。勅使を近衛師団の小隊が護衛した。陸海軍や内務省軍は既に各地に展開していた。近衛師団の小隊に連隊を合流させて増強すると共に、万が一に備えた。各藩の陸軍や治安機関は知藩事と勅使の指示に従って警戒態勢を敷き、武器弾薬を陸海軍や内務省軍に引き渡し始めた。心配された藩の陸軍や治安機関による反乱は起きなかった。各藩の知藩事達は県知事に引き継ぎを済ませると、順次、名古屋に向かった。そして、名古屋城で正式に知藩事を免職され、華族に叙された。


 同時に、日本帝国陸海軍や内務省軍が本格的に進駐した。勅使が各藩の陸軍から日本帝国軍と内務省軍への武器弾薬の引き渡しを監督した。県知事達が着任すると、各藩の陸軍や治安機関の中で、陸海軍、内務省軍、国家警察、県警に採用されなかった者の任が正式に解かれた(彼らは武装解除されたが、殆どは陸海軍や内務省軍の予備役として登録された)。明治天皇陛下は廃藩置県の措置が終わった県を行幸していった。

 廃藩置県は順調に進み、1869年4月7日、廃藩置県の完了が正式に宣言された(薩摩藩の屋敷に引き篭もっていた島津久光は前日に名古屋城に到着した。出発前に、花火を打ち上げまくった)。1868年9月には完了していたが、知藩事を引き留めようとする農民一揆などが発生していたので鎮圧完了まで政府は正式な完了宣言を出さなかった。都道府県は50となった。こうして、帝国政府は中央集権体制の構築、国民国家の創設に向けて大きく前進した。


 廃藩置県を完了させた政府は1870年から士族の身分廃止に向けて一連の措置を講じ始めた。主要な政策は次の二つ。


 第一に、平民からの志願兵募集を本格化させた。これまでは、旧幕府領を除いて平民からの志願兵採用は行われていなかった。また、旧幕府領でも武士の軍人の能力が高いこともあって平民の採用は少なかった。それ以外の藩では武士が軍人や治安機関を独占していた。このため、徴兵制の創設に当たって士官、下士官の原資となる平民からの志願兵募集が始められた。武士だけで大規模な消耗戦で将校や下士官を補うことが出来ないのは南北戦争で明白だったからだ。

 帝国政府はロシアやプロイセンのような大陸型の大規模陸軍を創設する積りはなかった。日本の防衛上、海軍は欠かせないし、大陸や東南アジアなどに出兵するにしても上陸作戦となるので大規模な陸軍は使い勝手が悪かった。そもそも、帝国政府の要人の多くは朝鮮半島や中国を征服する気がなかった。徴兵制を採用したのは、海軍にも大人数が必要なのと、陸軍を上陸させる以外に相手国政府に決定的な打撃を与える手段がなかったからだ。第一次大戦中に、フランス人はイギリス人に「君達はトラファルガーではなく、ワーテルローで勝ったのだよ」と言った。イギリスでも陸軍の意見が重視されていた。職業軍的な性格の強い志願兵中心の陸軍の方が即応性も良く、海軍との連携にも長けていた(既に幕府陸海軍がノウハウを確立していた)。

 更に志願兵なら革命勢力に呼応する可能性も低かった(フランス革命では国王軍が裏切ったが、彼らの待遇は悪かった。社会的に蔑まれていたし、革命の数年前から下士官や古参兵が昇進できる制度が廃止されていた)。現に、プロイセン陸軍やオーストリア陸軍は革命勢力に呼応しなかった。フランス陸軍も職業軍的な性格を強めており、六月蜂起では陸軍が蜂起を徹底的に攻撃して鎮圧した)。更にイギリスは平時の徴兵制がなかった。以上の理由から帝国政府は、士官、准士官、下士官が全て志願兵で構成され、徴兵制で下級兵士を補う兵制を採用した。これは、既に陸海軍に属している武士にとっても歓迎できる兵制だった。陸海軍に属している武士達(大半が維新同盟の藩の出身)は実戦経験も豊富であり、新技術への対応能力も高かった。これを活用しない手はなく、大村益次郎少将などの意見は退けられた。


 第二に、武士への救済策が用意された。まず、金禄公債が発行され、武士の俸禄からの転換が始められた。金禄公債は非課税だった。さらに、金禄公債の運用益も非課税であり、運用する銀行や証券会社とも帝国政府が契約して運用に責任を持たせた(武士が金禄公債を売却することを禁止するなどしたが最低限の金額は保障されていた)。このため、武士の殆どは収入が減ったものの没落はしなかった。その他の救済策も行われた(警備会社を新規に開業できるのは武士に限られるなど)。金禄公債は一代限りだったが、武士の家系の人間が日本帝国において有利な社会的地位を占めるようになった。


 余りに政府の救済策が手厚いので、平民からは不満が噴出した。しかし、帝国政府は方針を変えなかった。帝国政府が武士を厚遇したのは反乱を防ぐ意味もあったが、平民が日本版のフランス革命を起こすのではないかと危惧していたからだ。日本には平民が団結して政府を樹立して敵と戦った伝統がなかった。スイスやオランダなどの例は皆無だった。堺の商人も町人の大部分は従業員に過ぎず、傭兵を雇っていた。雑賀衆は中世的な議会を持っていたが、参加できるのは頭目だけだった。このため、帝国政府は平民が目先の利益で日本版フランス革命を起こそうとする扇動者達に同調すると疑っていた。当時、既に共産主義が生まれていたからだ。しかし、武士に対する厚遇は政府内でも批判された。帝国政府の政策に対する平民の反発により、後に自由民権運動が発生することになる。


 以上の二つの政策を中心とした準備が整った1873年4月5日、秩禄処分と廃刀令(銃器の所持も原則として禁止)が同時に発令された。同時に、戒厳令が発動された。内務省軍は陸海軍によって増強され、武士から刀、槍、前装銃(既に後装銃は禁止されていた)、ピストルなどを回収していった。この時、農民からも回収が行われた。抵抗は神風連の乱と秋月の乱だけだった。いずれも反乱勢力の内部に潜入していた国内特務庁の工作員達が暴発させたものだった。


 神風連(約170名)は12月23日、熊本城(内務省軍の駐屯地であり、県庁、県警本部、要人の宿舎も入っていた)を奇襲しようとした。しかし、内務省軍の教導連隊の部隊が待ち伏せしていた。他の内務省軍部隊は兵員に武装を命じていただけで戦闘配置に就いていなかった(県警は警戒態勢をとることを禁じられていた)。熊本城の跳ね橋が降ろされる。神風連が橋を渡り、熊本城内に雪崩れ込む。叫び声が上がり、鐘が鳴らされ始めた。神風連は内通者達が襲撃を開始したと思い、成功を確信して突撃した。


 しかし、先頭の数人がロープに引っ掛かり鈴が鳴る。「通常射撃開始―!」の号令が響き、猛烈な射撃が始まった。内務省軍のガトリング砲3門が連射を開始する。神風連の団員達が薙ぎ倒される。照明用のロケット弾が打ち上げられ、姿が浮かび上がった神風連の団員達を内務省軍の歩兵部隊が容赦なく銃撃した。慌てて神風連は退却を開始した。しかし、家に隠れていた内務省軍の歩兵部隊が銃撃を開始した。狙撃班も次々に発砲する。道を内務省軍の歩兵部隊が密集隊形で塞ぎ、銃剣を構える。神風連の団員達は次々に撃たれていった。内務省軍部隊は積極的に逮捕しようとせず、降伏を呼びかけなかった。両手を上げた者や武器を捨てた者も撃たれた。「銃撃中止ー!銃撃中止―!」の命令で漸く銃撃が中止された。重傷者の7名のみが逮捕された。


 熊本県庁内にいた国内特務庁の二重スパイが橋を下した。また、叫び声は数人の死刑囚を内務省軍部隊の将校達がサーベルで刺殺したことによるものだった。5発の号砲が撃たれた。内務省軍部隊と警察が一斉に神風連の本部や団員達の自宅などに向かう。封鎖線が熊本県全域に張られた。警察署や官舎に向かった神風連も待ち伏せを受けた。狙撃班が次々に発砲し、歩兵部隊が密集隊形で道を塞ぐ。神風連の団員達が突撃してくるが、「対騎兵射撃―!撃てー!」の号令が響き一斉射撃で薙ぎ倒されていく。態勢を立て直すそうとする神風連の団員達を歩兵部隊が追撃し、建物と路上から容赦なく銃撃していった。騎兵部隊も展開し、騎兵砲により榴弾を容赦なく浴びせる。騎兵部隊も主に小銃で攻撃した。陸軍の第3騎兵旅団も急行してきた。2日間で神風連は壊滅した。神風連の全員が逮捕か殺害された。


 一方、12月23日から秋月の武士(約200)も神風連に呼応して秋月学校と天満宮に集結した。そこを待ち伏せしていた内務省軍のレンジャー部隊が奇襲した。内務省軍の第2騎兵連隊なども急行し、容赦なく攻撃した。秋月の乱も2日で制圧された。


 政府の処罰は厳罰であり、両方の乱の現場で逮捕された者は即決裁判の後で全て銃殺した。この二つの乱で411名が処刑ないし殺害された。更に、自宅などで228名が逮捕されてアッツ島への遠島(アッツ島から出れば死刑。しかも駐屯していた海軍の陸戦隊は有事の際に全員を直ちに殺害するように命令されていた)を科され、金禄公債などの特権を剥奪された。こうして、九州の反政府勢力は壊滅した。他の武士達は政府の容赦ない弾圧と武士への優遇措置の詳しい説明を受けて、反政府の動きを示さなかった。


 1874年、小栗上野介の任期が終わり、後任として大久保利通が選任された。同年、廃刀令と秩禄処分の措置が完了し、近衛師団に護衛された明治天皇が各地を行幸して武士達を鎮撫した。このため、帝国政府の予想に反し大規模な内戦は起きなかった。

 1875年4月1日、大久保利通は正式に首相に就任した。

 1876年、正式に武士の身分が廃止され、国民とされた。同時に、下民も廃止された(下民の独占だった職業は下民出身者以外の参入は、当分、禁止された。規制解除は25年後とされた)。そして、帝国政府は新たな身分制度を発表した。天皇陛下、華族(法律上は皇族も含まれる)、国民の順で序列された身分制度だった。

 政府内には江藤新平(前法務大臣)のように、身分制度の全廃を唱える意見もあったが採用されなかった。政府は日本版のフランス革命の可能性を根絶するために、階級制度を堅持することを決意していた。帝国政府の多数派は階級制度を全廃すれば、平等をスローガンとした日本版のフランス革命や共産主義の勢いが増すと判断した。保守派の急先鋒の阪井幸信(国内特務庁長官)は「フランス革命が起ったのは階級制度に非ず、平等を求める勢力を黙認した国王にある」と述べた。保守派の中でも柔軟だった小栗上野介と小西和信(前内務大臣)も日本版のフランス革命を警戒していたので「四民平等」など認める筈もなかった。武士の身分廃止が実現されたことにより、帝国政府による国民国家の創設は大きく前進し、山場を越えた。


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