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反革命と国民国家へ

 1790年、福富直正の任期が終わり、蒲生派の大葉純信(台湾総督府で赤松総督の元で活躍した。都市部での犯罪組織撲滅や阿片取り締まりに尽力した。また、レンジャー部隊の創設を後援した。赤松総督に高く評価され、副総督まで昇進した。士族から昇格した武士で幕閣に初入閣で初の大老)が任命された(赤松上野介が再任されるはずだったが、赤松が大葉純信を推薦した。赤松は引退した)。この頃、幕府はフランス革命に対して警戒感が強まっていた。


 日本帝国でも似たような革命を起こそうとする動きが起こる可能性もあった。過酷な支配をしている藩もあり、そうした藩でフランス革命に似た革命が起これば、全国に波及する可能性もあったからだ。下級武士が革命の担い手になる可能性が特に警戒された。フランス革命には当初、貴族や聖職者など身分の高い者や商人も加わっていたからだ。フランス革命の情報は対外事務局によって幕閣に詳しく伝えられていた。国王一家などが10月行進でパリのチュイルリー宮に移されたことが伝えられた時点でフランス革命を敵と見做して戦争準備に着手した。


 信優はフランス革命に対応するための閣議を招集した。

信優「さて、フランス革命への対処について話し合う必要がある。遠いヨーロッパの事だ。しかし、日本帝国はイギリスと同盟関係にあるし、オランダやポルトガルとも準同盟関係だ。更にイギリスがインドを征服しつつあることからも分るように、ヨーロッパの大国の情勢は日本帝国にも影響を及ぼす。さて、先ずは大葉の意見を聞こうか」。

大葉「上様、幕閣の皆様。フランス革命を潰すイギリスを全力で支援すべきです。今回は今までの様な帝国主義戦争とは違います。フランスのような大国が革命のイデオロギーに染まれば、日本帝国へも革命のイデオロギーが伝染してくるのは確実です。絶対に許容できないイデオロギーです。三部会から反逆的に離脱して第三身分だけで結成した国民議会の行動は許しがたいことです。ルイ16世は直ちに全員を反逆者として抹殺すべきでした。自分達が不利なら離脱して良いなら他の勢力が議会を威嚇するなどして自分達の議会を作って良いということになります。

 つまり、大衆が黙認すれば政権を転覆して良いことになります。責任感のない大衆は恐怖に従い易く、必然的に殺戮を用いた恐怖政治に繋がります。国王などに忠誠を誓う臣民か国家に忠誠心を誓う国民でなければ、犯罪組織にも劣る未満の政治しかできません」。


 他の幕閣も相次いで大葉に同調した。幕府の上層部では中央集権国家を形成する上で、各国の政治体系を良く研究していた。イギリスの上院(貴族院)は貴族で構成されており、下院とともに実権を二分していた(現在は下院が優越している)。幕府は、立憲政治を追求しながら少しも立憲的でない行動をして恥じない革命派を軽蔑していた。アメリカについては、徒党を組んで政府の決定を無視する行動を容認しなかったので政治姿勢については高く評価している。ただし、幕府はアメリカを謀反人の国と見做しており嫌っていた。幕閣の多くが大葉の意見に同調したのも当然だった。信優も同様だった。


 信優「儂も皆の意見に賛成だ。アメリカ合衆国も気に喰わないが、好みの問題に過ぎん。しかし、フランスは別だ。フランスは革命を布教すると公言しているからな。しかし、ルイ16世も軽蔑するしかない。国民議会の存在を認めて他の身分の議員に合流を促したのだからな。ルイ16世は臣民から愛されたいと願い、武力行使に出ない。阿呆とは奴のためにある言葉だ。それにルイ16世はアメリカ独立を支援してフランスの支援に見合う代償を取り立てなかった。

 あれでは、独立を扇動しただけで植民地に反乱を促すことにしかならない。フランスも植民地を保有しているのだからルイ16世の行動はフランスの国益に反している。あんな愚か者が国王では革命が起るのも当然だ。信直、ルイ16世に代る王族はいないのか?イギリスなどは他の王族を推す気はないのか?」。

 信直(対外事務局の長官)「上様、残念ながらイギリスも他のヨーロッパの大国も他の王族を推す気は有りません。王族の中ではアンギャン公が優れています。しかし、イギリスや他のヨーロッパの大国に効果的な対フランス戦略はないようです。おそらく、各国が連合してもフランスを打倒することはできません。各国とも平時からの軍事改革と軍備強化を怠っています。また、日本帝国はヨーロッパから遠すぎて副次的な役割しか果たせません」。信優「関わるなということか?」。

 信直「いいえ。イギリスを全力で支援すべきです。フランス革命には伝染性があります。フランス革命を主導した中心メンバーにはラファエイトなどアメリカ独立戦争に参加した者が多いです。彼らがフランスに帰ってからアメリカ人と同じように自国も変えてみようと思って行動した結果がフランス革命です。更に、「人間の権利」を強調するのがフランス革命の特徴なのです。つまり、フランスに限定されないことを意味します。

 放置しておけば、国内にも共鳴する輩が発生します。戦争になれば敵対姿勢が鮮明になり、思想の流入も防げます。また、目的が利益ではないので嘗てのスペインと同じ(過激派の大国)です。将来、フランスがアジアに進出してくれば、このイデオロギーを広がるのは確実です。現在のフランスに意図がないとしても、将来は分りません。よって、イギリスに軍事援助と資金援助を行い、フランスをインド方面に進出させないことを戦略目標とすべきです」。

 信優「宜しい、信直の提案を戦略としよう。日本帝国から遠いが、疫病に対処するのは早い方が良い」。他の閣僚も信直の提案に賛成した。こうして、幕府はフランス革命への対処に向けての各種計画の具体的な検討に着手した。同時に、諸藩へフランス革命の情報を詳細に説明し、参戦承認への働きかけを強めていく。10月行進で国王一家が実質的にチュイルリー宮に閉じ込められると、幕府は参与院に対仏開戦の事前承認を要求している。イギリスの要請があれば、直ちに参戦するためだった。


 参与院の諸藩は幕府の懸念については心配し過ぎだとしていた。しかし、国防大臣の石田幸信が諸藩を説得した。石田「皆様と同じようなことを過去に言っていた人々がいました。オランダやイギリスに支配されているインドや東南アジアの王や領主などです。また、清国の影響力下にあるモンゴル、ウイグル、チベットの有力者達もです。脅威が遠くにある時、皆様方のように呑気にしていました。脅威が近づいてからでは手遅れなのです。さらに、フランス革命はイデオロギーを布教することを公言しています。つまり、狂信者です。狂信者の国は利益で判断できませんので膨大な犠牲を厭いません。撃退するには、こちらも多大な犠牲が必要になり、しかも際限なく侵略してきます。狂信者の大国であるフランスが近くに来るまで待つつもりですか?」。

 其れに対して「しかし、フランスは地理的に遠い。対処するのはインドにまでフランスが進出してからでも充分ではないか?」との意見が出た。石田「生憎様ですが、技術の進歩は縮めます。16世紀に、インドにイギリスが領土を獲得するとインドの誰が想像できたでしょうか?昔の最果ては現在の近隣なのです。そして、有事の際は大混乱が常です。平時に対応できない者が、どうやって大混乱の有事に対応できるのでしょうか? 平時の決断が最良であり、平時に決断した者だけが有事の決断もでき、有事に対応できるのです」。

諸藩は石田などの説得により、幕府の提案を支持した。こうして、参与院の事前承認を取り付けた幕府は開戦に向けた準備を本格化させた。主な準備は次の通り。


 第一に、軍情報局に対してオランダの植民地(台湾南西部やインドネシアなど)に対する諜報活動を強化する様に幕閣が特別命令を下した。軍情報局に対して多額の予算が追加された。幕府の官房統計局(表向きにされていた業務は幕府の全機関から提出された報告書を基にして各種統計を作成し、幕閣に統計資料と分析の報告書を提出すること。加えて表向きにされていない業務として、幕府の全諜報機関の報告書を分析および精査を行って幕閣に分析報告書を提出する業務がある)はオランダがフランスに制圧されるのは確実だと判断していた。対外事務局も同意見だった。

 その場合、フランスがオランダに革命勢力の国家を樹立する可能性が高いと判断していた。そうなると、オランダ植民地はフランスにつくので幕府にとって悪夢の事態だった(諸藩も同様の懸念を認識させられたので事前承認を与えた)。オランダの植民地からフランス革命のイデオロギーが宣伝されて日本本土や台湾で騒乱が起こることが懸念された。フランスが北東アジアに進出してくれば、障害となる日本帝国に対して、その種の扇動を高確率で行うと判断されていた。

 また、フランスがアジアに進出する意図がなかったとしても日本国内でフランス革命のイデオロギーに賛同する勢力が出現すればフランスは支援に動くと確信していた。ラファエイトなどはアメリカ独立戦争に参加して革命思想を懐くようになったし、フランスはヨーロッパ各地にイデオロギーを喧伝し呼応する勢力が各国に出現していた。このため、オランダのアジア植民地(台湾南西部やインドネシアなど)を初期段階で制圧してオランダ王に対して忠誠を保たせることが幕府軍の戦略目標だった。このため、秘密工作の本格的な準備としてオランダ総督府の要員の買収、オランダ総督府との秘密協定の締結などを開始した。


 第二に、台湾、琉球などでの幕府陸海軍による演習の実施。これは、例によって攻撃前の準備だった。これに紛れて物資の事前蓄積も開始された。


 第三に、戦時に備えた各省庁の対応計画の作成。大蔵省は戦時国債の発行に向けた計画の作成を本格化させた。他の省庁も準備を本格化させた。第四に、海軍の増強および新型艦艇と新型装備の導入加速。この頃、幕府海軍は新型装備と新型艦艇の導入を行っていた。堤砲車式のカノン砲、ジーベックを基にした細身で長い船体の新型戦列艦と新型フリゲート艦だ。堤砲車式のカノン砲は射角を広くとることができたので他国の軍艦よりも攻撃が柔軟に行えた。堤砲方式のカノン砲の搭載を前提とした新型艦艇はシーベックの戦隊を参考にして従来の艦艇より細く、全長は長かった。このため、スピードは速かったが排水量が多くなり建造費用は増大した。こうした設計になったのは堤砲方式のカノン砲を主力装備にすると重量が増えるので重心が高くなって従来の設計では転覆する可能性が高くなったからだ。このため、排水量が増やされ、全長も長くなった(その分、砲を横に配置でき、上に積まないで済む)。

 このため、幕府海軍の新型艦艇は列国の同クラスより大型だった(ただし、大砲の搭載数は同じ)。排水量が多くて頑丈でありスピードも速かったが、新建造方法だったこともあって建造費用が増大した。このため、フランス革命が勃発するまでは更新ペースは遅かった。しかし、今回の幕府の決定を受けて各造船所の発注数が大幅に増やされた。同時に、台湾人も含めて水兵も大幅に増強された(一番、多かったのはヨーロッパ人の船乗り。オランダ人が特に多かった)なお、陸軍の予算も増額されたが兵数は増やされていない(幕府が海軍を優先したのは最初で最後だった)。以上の主な準備が本格化すれば、噂が発生しない筈がなかった。このため、「幕府がオランダの植民地を奪取する準備をしているのではないか」などと憶測が飛び交った。しかし、幕府は気にしていなかった。

 幕府陸海軍は共に急襲を重視しており、奇襲を好んでいなかった。奇襲だと準備に手間が掛かる上に、相手に与える損害が限られてしまうからだ。このため、頻繁に演習を行うと同時に物資の事前集積も開始することが幕府陸海軍の常套手段だった。これは事前に準備を整えて適時に作戦を発動するためだった。また、何回も相手に警戒態勢を発動させることによって相手側に狼少年現象を引き起こすことも狙いだった。

 実際、幕府軍の戦略は効果的だった。相手側が狼少年現象を起こした頃に幕府が宣戦布告して作戦を発動したので相手側は準備が整わない内に急襲を受けた。懸念は相手側が先制攻撃を仕掛けてくる場合だったが、幕府は、その様な場合は相手も準備不足であり、被る打撃も少ないと割り切っていた。また、事前の頻繁な演習や先制攻撃を受けた場合の国内の不満や動揺も押さえつけられる自信もあった(幕府が諜報機関を重視した理由の一つだった)。もちろん、受ける打撃が少ないに越したことはないので脅威となる国が日本帝国に近づいてこないようにする戦略を採っていた。

 そして、今は革命を起こしたフランスが第一の脅威と想定された。イギリスも仮想敵国の一つだったが、幕府にとっては人口の多いフランスの方が脅威だった。それに、イギリスのインド植民地を攻撃すると台湾なども独立を目指すと懸念していた。更に、革命のイデオロギーに染まったフランスは一大脅威であり、イギリスに対する懸念は棚上げにされた。また、日本帝国と清の関係が悪化してきたことも幕府がイギリスとの友好路線を選択した一因だった。


 幕府は戦争準備を整えていた。こうした中で、1793年1月21日、ルイ16世が処刑された。これにより、第一次対仏同盟が結成された。1793年10月、イギリスから要請されると直ちにフランスに対して宣戦布告した。既に、前年から幕府海軍とフランスの私掠船が交戦していた。幕府は諸藩に総動員令を発した(例によって諸藩の藩軍は防衛のみ)。イギリスと幕府は協議を行い、フランスに対する軍事行動に関する日英軍事協定を締結した。主要な点は次の通り。



 第一に、フランスと単独講和しない。


 第二に、日本帝国は従来の範囲に加えてインド洋全域まで全面的にイギリスを支援する。また、南大西洋にも海軍を派遣すること。


 第三に、イギリスおよび日本帝国は東南アジアで領土拡大を目指さない。また、他国の領土拡大も認めない。


 第四に、戦時国債などで両国の財務当局が協調する。第五に、イギリスのインド領防衛に幕府軍が協力すること。


 以上の様な趣旨だった。調印が終わると、両国の代表団は握手を交わした。調印式には信優と石田も出席していた。イギリスの代表団が帰った後で両者は信優の執務室で話し合った。信優「石田、イギリスはフランスを打倒できるかな?イギリスはヨーロッパで最強かもしれん。しかし、アメリカ独立戦争でも証明されたように、ヨーロッパ大陸に同盟国がいない時は負ける。イギリスが陸軍を大幅に増強して大陸に派遣しなければフランスは倒せない。しかし、今日のイギリス代表団の言動でもイギリスが大陸への大規模陸軍部隊派遣を考慮している節はない。これでは、フランスを打倒することはできないぞ」。

 石田「上様、御尤もです。スペイン継承戦争と七年戦争でイギリスが勝利できたのは大規模な陸軍部隊を大陸に派遣して同盟国を支援したからです。海軍による補給の支援を受けたイギリス陸軍の存在は敵国にとって厄介であり、同盟国への最も有効な支援になりました。其れに次ぐのが同盟国への資金援助です。しかし、現在のイギリスは陸軍の大増強に踏み切っていません。現状の小規模な陸軍では、フランス陸軍に勝つのは無理です。資金援助もイギリス陸軍が大陸にいてこそ、効果的です。同盟国は金を貰ってもイギリス陸軍が大陸にいなければ、戦争の継続を躊躇します」。

 信優「御前の言うとおりだ。小規模な上陸作戦や反革命勢力への援助を行うことしか現在のイギリス陸軍にはできない。イギリスの海軍力が意味をもつのは、御前の言う通り大規模なイギリス陸軍が大陸にいてこそだ。これでは、何年経ってもフランスは打倒できんぞ。日本帝国は距離の関係で援助しかできない。幕府の権威にも係わる。イギリスはフランスを打倒できるかな?」。

 石田「上様、日本帝国は援助しかできないのでイギリスが助言を容易に受け入れるとは思えません。しかし、イギリスが容易にフランスに屈服すれば、フランスがインドに進出する時期が早まります。無意味ではありません。それに、イギリスは革命派のフランスと共存するのは無理です。陸軍を大増強して大陸に派遣するしかないことを悟るでしょう」。

 信優「よし、イギリスに賭けるとするか。どちらにしろ、革命派のフランスは日本帝国の敵だからな。完璧を追求するよりも次善の策を実行することで幕府は危機を乗り切ってきたからな。しかし、長引くことを国防省や幕府陸海軍だけでなく幕府全体に周知徹底せる必要がある」。

 石田「上様、御同感です。一応、イギリスがフランスに屈服してインドなどの植民地を譲渡した場合の作戦計画も作成しています。しかし、次善の策でも実行に全力を挙げねば効果は期待できません」。

 信優「その通りだ。まずは、実行し、修正しながら最善の策を考えていけば良い」。二人は各作戦計画について話し合った。


 調印後、国防省から各種命令が幕府陸海軍に伝達された。。幕府陸海軍は直ちに行動を開始した。まず、幕府海軍の第1艦隊(増強されており、全て新型艦艇で構成。1等艦5隻、3等艦15隻、帆走フリゲート10隻、シーベック5隻)がインド洋に派遣された。第1艦隊は、後続の艦隊にインド洋での任務を引き継ぐとカリブ海に移動してマルティニーク島などのフランス植民地の攻略作戦に参加した。その後も各艦隊は作戦計画に従って配置についていった。幕府陸軍も行動を開始した。傭兵部隊はインドに派遣され、幕府陸軍も台湾やマレー半島のマラッカで配置に就いた。オランダがフランスに占領された時に素早くオランダの植民地を掌握して、反フランス側に留めておくためだった。


 イギリスは日本帝国がインド方面をカバーしたことにより戦力を他に振り向けることができた。1794年から幕府海軍はアフリカ南岸まで作戦範囲を拡大した。また、従来と同じく多額の資金援助も行われている。幕府海軍はフランスの私掠船の討伐に尽力し、イギリス海軍の負担を軽減させた。イギリス海軍はフランスとアメリカ合衆国の間の通商破壊を強化した。一方、フランスは徴兵令を発動して大規模な国民軍を創設し陸軍で対仏同盟の各国軍を撃退していった。すると、ロベスピエールらジャコバン派はテルミドールのクーデターで打倒された。しかし、戦争は続く。


 フランス軍は逆に対仏同盟側に侵攻を開始した。1795年、オランダがフランス軍に占領され、フランスの衛星国であるバタヴィア共和国が創設された。幕府陸海軍は直ちに作戦行動に移り、オランダ植民地に対して攻撃を開始した。台湾やインドネシアでは幕府軍情報局の事前工作が効を奏して戦闘は最小限だった。両軍とも最大射程で打ち合いを行い、砲煙や銃煙ばかりが派手な形ばかりの戦闘だった(両方の戦闘で、幕府陸軍の死傷者は約20、オランダ軍の死傷者は約100)。セイロン(現在のスリランカ)やインドのオランダ領でも幕府艦隊とイギリス軍が速やかに展開しオランダ軍を牽制して現地を掌握した。各地のオランダ当局はバタヴィア共和国の命令に従うことを拒否し、引き続きウィレム5世に忠誠を誓うと宣言した。これにより、イギリス側は戦力を分散せずに済んだ。イギリス側の中にはオランダ領を奪えなかったので残念がる向きもあった。しかし、幕府の要請でオランダ側は後に、インドやセイロンにイギリス軍の基地の設置を認め、市場も自由化した。


 しかし、フランスの陸での優勢は変化しなかった。イギリスが海上で優勢でもフランスは人口を養い、経済を維持できるだけの国土の豊かさがフランスにはあった。そして、陸軍の主力を国外に置くことで自国民の負担を軽減していた。イギリスがスペイン継承戦争のように強力な陸軍部隊を派遣しない限りフランスが敗北する筈もなかった。幕府はイギリス側に大規模な陸軍部隊を派遣するように勧告しているが、強くは主張できなかった。距離が遠すぎて幕府陸軍を派遣することは実質的に不可能だったからだ。フランスは引き続き優勢に戦局を進めた。イタリア戦線でナポレオンが率いるイタリア方面軍が優勢に戦局を進めた。1797年、オーストリアがフランスに敗れて対仏同盟から離脱する。スペインもフランス側に鞍替えして参戦しようとしたが、イギリスと幕府が「スペインが中立を保たないなら南米と中米のスペイン植民地を攻撃して独立させる」と恐喝したので辛うじて思い止まった。


 1797年、織田信優は征夷大将軍職を長男の織田信城に譲った。戦時中だということなので、信城は閣僚の全員を留任させた。信優は大御所に就任して信城を補佐した(ただし、信城に聞かれなければ何も発言しなかった。幕政は戦争も含めて信城が主導していくことになる)。幕府は引き続き、イギリスを支援していくことを決定した。当時のフランスは人口が多く、徴兵制によって大軍を編成できる一大強国だったので幕府にとって脅威だったからだ。こうした国がアジアに進出して来るのは幕府にとって悪夢だった。


 1795年、乾隆帝は引退した。これにより、日清関係は破綻した。乾隆帝の後を継いだ嘉慶帝は日本との一連の条約を破棄し、日本帝国を下位の国とした。これに幕府は激怒した。嘉慶帝が日本帝国との条約を破棄したのは日本帝国やオランダが清国と対等に扱われていることが漢民族から反感を受けていたためだった。この頃、清朝は力が衰え始めており、嘉慶帝は漢民族からの反感が和らぐことを期待していた。幕府が激怒したのは、中国の歴代王朝が下位とされてきた国々に干渉や侵攻を繰り返してきた歴史があったからだ。幕府は中国から下位とみられることの危険性を理解していた。このため、幕府はイギリスを支援して友好関係を深めた上で中国進出を支援した方が得策だと判断した。


 見返りとして北東アジアは日本帝国の主導下におき、東南アジアは現状維持を求めることにした。もちろん、裏付けとしての軍事力があってこその決定だった。幕府は中国にイギリスが進出することを脅威とは考えなくなっていた。軍事力には自信があったし、イギリスが中国を植民地か投資先として扱うなら日本帝国の協力か好意的な中立は不可欠だからだ。イギリスが日本帝国に敵対姿勢をすれば、イギリスの影響力下にある中国を攻撃すれば良いからだ。そうなると、イギリスは日本帝国に敵対することを躊躇うと判断していた。中国の中華意識を打ち砕き、周辺国への侵攻や干渉を停止させるにはイギリスの進出を支援した方が効果的だった。こうした戦略方針を幕府は決めていたが、当面はフランスに対する対応で手一杯だった。このため、幕府は清国の要求に従った。


 諸藩は幕府の姿勢に反発した。これを受けて、信城は自ら参与院で諸藩の代表者達に説明した。信城「諸君らの言われるとおりに清国に抗議したとしよう。それが、何の国益を日本帝国に齎すのか?単に、相手側の官僚から世辞を言われるか世辞を書き連ねた外交文書でも貰えれば諸君は満足するのか?今回の一件で問題になっているのは中国人の態度ではない。中国人が傍若無人なのは秦が中国を統一した時から変わらない。今更、怒っても仕方がない。問題は清朝が我が日本帝国を対等の立場と認めなくなったことだ」。

「何故、中国の中華意識が問題なのですか?それよりも外交的手段と軍事的手段を組み合わせて日本帝国の国益の侵害を軽減させる方が先なのではないですか」との質問がされた。

 信城「中華意識こそが最大の問題なのだ。清朝および中国の歴代王朝の行状からして下位の国は中国の侵略目標となる。我が国は中国の隣にあるので大問題だ。よって、必ず清には我が国を対等の国と認めさせ、対等な国として遇するようにさせる。その手段は何か?言うまでもない。中国の幻想を打ち砕くには武力しかない。そして、御存じであろうが、織田幕府の基本方針は天下布武だ。中国が友好を望まないなら中華式に歓待するだけのことだ。今は、フランスへの対応を優先しなければならない。中国への対応は後回しだ。それに、西洋の諺にもある通り、復讐は冷めた方が美味いのだ。中国には日本帝国を対等に扱わないことが極めて害になることを理解させる。以上の説明で、納得していただけたかな?」。

 信城は穏やかな顔で穏やかに語った。しかし、参与院に出席した諸藩の代表者達は「信城公の目が異様な光を帯び、殺気が漲っていた」などと記録したように信城は激怒していた。諸藩は幕府の方針に納得して、この問題は先送りにされた。


 1798年7月、ナポレオン指揮下のフランス軍がエジプトに侵攻した。陸戦では連勝を続けたが、ナイルの沖海戦でイギリス艦隊がフランス艦隊を撃滅した。このため、フランス軍はエジプトで孤立した。一方、ヨーロッパの列国は協議を重ね、第二次対仏同盟が12月に結成された。ロシア軍の増援を得たオーストリア軍が攻勢に出て、戦局を優位に進めた。北イタリア、ライン戦線でオーストリア軍・ロシア軍はフランス軍を破り占領地を拡大した。フランス軍はスイス戦線で反撃して攻勢を挫いたものの、劣勢であることに変わりはなかった。こうした状況でナポレオンはエジプトを脱出してフランスに戻った。


 そして、11月9日、クーデターを起こして執政政府を樹立する。1800年からナポレオン指揮下のフランス軍は反撃に転じて北イタリア戦線やライン戦線で反撃に転じてオーストリア軍を破った(ロシアは既にフランスと講和していた)。1801年、オーストリアはフランスと講和して第二次対仏同盟から離脱した。この後、イギリスは武装中立同盟を構成して敵対したデンマークを攻撃して武装中立同盟を瓦解させた。イギリスは制海権を掌握したが、フランスを打倒するのは無理だった。このため、1802年3月25日、アミアンの和約で両国は講和する。同時に、幕府もフランスと講和した。こうして、平和が訪れたかに思われた。


 アミアンの和約は双方とも順守せず、英仏間の緊張は高まった。イギリス海軍がフランスの商船隊を拿捕したことにより戦争が再燃した。1803年、イギリスはフランスに宣戦布告して戦争が始まった。イギリスは宣戦布告前に日本帝国に参戦を要請していたが、幕府は拒否した。閣議で信城も含めた幕閣の大部分が再戦に反対だった。信城「イギリスは大規模な陸軍部隊を派遣する意向を全く示さなかった。フランスを打倒できる見込みはない。今度も同様だろう。大体、ナポレオンは革命派を起こした連中とは明らかに違う。信直、解説を頼む」。

 信直「ハッ、上様。概略を述べさせていただきます。ナポレオンは以前の革命政府と違い、譲歩する時は譲歩しています。

 第一に、ナポレオンは他国を完全に抹殺しようとしたことはありません。何れの場合でも、他国とは講和しています。講和の条件も妥当です。イギリスの説明通りなら、ハンガリーなどの独立を扇動してハプスブルク帝国の解体を画策した筈です。

 第二に、ナポレオンは王党派も含めて軍隊や行政に人材を登用しています。明らかに革命派とは違います。反逆者は容赦なく処罰していますが、それはイギリスや我が国も含めた他国も同様です。

 第三に、ローマ教皇と和解しました。社会の安定に宗教は不可欠です。それに、フランス人は元がカトリックでした。フランス人の道徳の基盤はカトリックです。道徳の基盤を否定したままで社会の安定を回復することはできません。ナポレオンは高く評価できます。また、ナポレオン法典などは我が国でも参考にすべきです。以上の様に、ナポレオンは理想的な君主です。過激派ではありません。寧ろ、友好関係を築くべきです」。

 信城「全く、御同感だ。今回の戦争はイギリスにとっても必要なのかな?北米を再征服した方が得だと思うが。ヨーロッパ大陸ではフランスが他の大国を完全に滅ぼした時だけ介入すべきだ。大規模な陸軍部隊を派遣する気も相変わらず無い様だ。今度の戦争でイギリスを支援するのは金を溝に捨てるも同然だ。イギリスとの同盟を解消してオランダやポルトガルと同じ友好関係を再構築する手もある。その場合、フランスとも同様の関係を結びイギリスとフランスを牽制させよう。両国が均衡していれば、インドも完全征服されない。皆の者は、この策について如何に思う?」。多くの閣僚が信城の意見に賛成した。多くの閣僚はイギリスの戦略に不信感を懐いていた。更に、イギリスも脅威であることに変わりはない。信城の策は名案だと多くの閣僚は賛成した。


 しかし、国防大臣の石田幸信が反対した。石田「上様、他の閣僚の皆様。イギリスに対する苛立ちは御尤もです。イギリスの戦略でフランスを打倒することは無理です。また、イギリスはスペイン継承戦争や七年戦争で同盟国を見捨てており信用できません。しかし、日本帝国はイギリスを援助した方が得です。イギリスがフランスに併合されれば最悪です。フランスがヨーロッパ全域を支配すれば、強大な力がアジアに指向される恐れがあります。日本帝国に選択の余地はありません」。閣僚達は溜息をついた。信用できない国を援助し続けなければならないからだ。しかし、石田の意見が的確だと皆が感じていた。その後も、閣僚達は意見の遣り取りを続けたが、石田の提案に代る有効な対案を誰も出せなかった。石田も乗り気ではなかった。後に、「幕臣は不愉快な事実も述べるのも義務だ」と語った。結局、最後は信城に判断が求められた。


 信城「結論を総合すると、石田の意見通りにイギリスを支援するしかなさそうだ。しかし、イギリスが現状の戦略を変更するまでは参戦は無駄だ。そこで、東南アジアなどの指定海域で停戦海域を設定するに留めておく。後は条約に規定された援助しかしない。ただし、スペインがフランス側で参戦した場合にはイギリス側で参戦する方針でフランスとスペインに警告する。イギリスとの経済関係は重要だ。そして、スペインがフランス側で参戦するとイギリスの戦力が分散してしまう。すると、イギリスがフランスに敗北してフランスに併合される危険性が高くなる。よって、スペインがフランスに付いた場合はフランスおよびスペインに宣戦布告だ。他に名案があれば遠慮なく言ってくれ」。他の閣僚も同意し、採決が行われて信城の方策が閣議決定された。珍しく、全員一致だった。


 幕府の決定はフランスに伝えられた。ナポレオンは同意して指定海域内でのフランス私掠船の活動を禁止する法令を布告した。幕府は財政再建に努めた。このため、イギリスの方針にも辟易していたが参戦の準備を怠らず、戦時国債の返済の繰り延べを認めた。スペインはイギリス海軍にスペイン船が攻撃されたのを切っ掛けに1805年、フランス側で参戦した。このため、幕府は不本意ながらフランスとスペインに宣戦布告した。そして、イギリス海軍と共同作戦を開始した。前回と同様の支援も行われた。事前の作戦計画に従って、幕府陸海軍は素早く行動を開始した。


 幕府艦隊はフリィピンを海上封鎖し、ルソン島に幕府陸軍を上陸させた。幕府海軍第2艦隊はマニラ湾に侵入し、幕府海兵連隊が陽動作戦を展開した。主力の幕府陸軍はマニラ近郊のバコール湾に上陸した。幕府陸軍の兵力は約2万(3個旅団、教導歩兵連隊1個、騎兵旅団1個、教導騎兵連隊1個、教導砲兵連隊1個。原英吉中将が指揮官)が上陸した。スペイン軍は約1万以上の兵力があったが、半分は現地人兵だった。スペイン軍は孤立無援であり、救援の見込みもなかった。


 幕府軍が増強されてからでは勝ち目が完全に無くなるとしてスペイン軍は、揚陸作業中の幕府軍を攻撃することにした。幕府陸軍は上陸すると、カビテの砦やバコール湾一帯を占領して野戦築城に着手した。杭、柵、土嚢による陣地が構築された。そして、砲兵部隊の揚陸が完了した。幕僚達は揚陸作業が完了するまで沿岸陣地に留まるべきだと進言した。

 原「いや、ここはスペイン軍の思惑通りにしてやろう。基本に反するが、状況に応じた作戦を採るのが指揮官の仕事だ。我が軍は装備的でも練度でもスペイン軍より上だ。更に、野戦でスペイン軍を敗北させれば攻囲線は短期間で終わる」と述べて進撃を命令した。幕府陸軍部隊はバコールの町を占領しようと行軍を開始した。


 スペイン軍は幕府軍がバコール付近に上陸してくると予想しており、迅速に移動して戦闘に移った。スペイン軍はバコールに約1千の部隊と囮専門の俄か兵部隊(急遽、強制徴募した現地人兵)を進軍させて陽動作戦を行わせ(旗を多く携行し長い隊形で行軍して多数に見せかけた)、主力の9千はイマスから進撃した。バコール湾南のイマス付近から接近してくるスペイン軍を偵察の騎兵部隊が発見して幕府陸軍の各部隊は迅速に方向転換した。カウィットの付近で両軍は激突した。スペイン軍は急襲を掛けようとしていたので整然と布陣するのではなく両軍の部隊が逐次、戦闘に参加した。


 幕府陸軍の第12旅団がスペイン軍の主力の頭を押さえた。まず、大砲の打ち合いになった。第12旅団の砲兵隊のカノン砲から次々に鉄弾が放たれた。鉄弾はバウンドしながらスペイン軍の戦列に向かい、スペイン兵や現地兵を次々に薙ぎ倒していく。第12旅団の砲兵部隊はカノン砲の射線を斜めにして発射しスペイン軍の戦列を引き裂いた。第12旅団の榴弾砲部隊も自軍の戦列を飛び越えて曲射を行った。


 当時は観測が面倒な上に弾道計算が難しい榴弾砲は野戦では敬遠されていた。投入されても直射をすることが多かった。幕府陸軍は大金を費やして試し打ちを行い、弾道計算のデーターを集積した。当時のヨーロッパの砲兵は榴弾の爆発力が口径の割に低かったので空中炸裂を狙うことが多かった。しかし、幕府陸軍砲兵隊は隊列を攪乱させることを意図して地面で爆発させるようにした。空中で爆発させようとすると、調整が難しく効果が不確実だからだ。それに爆発力が口径の割に低いといっても現在の砲弾の半分の威力はあった。


 幕府陸軍砲兵隊は確実な砲撃方法を好み、的確な砲撃を行った。その成果が活かされた。榴弾がスペイン軍の戦列に転がり、暫くして爆発した。兵士が吹き飛んでいく。スペイン軍の兵士達は動揺した。当時の榴弾は導火線方式なので消すことも可能だったが、カノン砲から鉄弾がバウンドして向かってくる中での作業は困難だった。更にスペイン軍の主力である戦列歩兵部隊は散開して戦闘を行うことに慣れていなかった。士官達も同様で榴弾が爆発する前に部隊を前進させることしかできなかった。このため、榴弾が爆発するまで漫然と歩くか隊形を乱して駆け足で前進するしかなかった。



 対して、スペイン軍の砲撃は効果が殆ど無かった。幕府陸軍部隊に対して砲の数が劣っていた上に、幕府陸軍歩兵部隊が散開していたからだ。幕府陸軍戦列歩兵部隊は第1列と第2列が横隊で伏せており、3列目と4列目は散開していた。ライフル銃兵部隊は完全に散開していた。散開と言っても現代と比べれば密集していたが、当時の砲弾の特性から充分だった。第1列と第2列の兵士も砲弾を避けることを認められていた。幕府陸軍の兵士達は逃亡が稀で直ぐに列へ戻った。スペイン軍の鉄弾に運の悪い兵士が当たって死ぬこともあった。しかし、それは稀で殆どが避けられるか命中しなかった。スペイン軍は跳弾射撃ができなかったことも幕府陸軍部隊の被害を少なくした。


 砲撃戦が不利になる一方だったので、スペイン軍は部隊を駆け足で前進させた。幕府陸軍部隊は続々と布陣し、砲兵隊が砲撃する。原中将は砲撃戦を見ながら「如何に平時からの軍事改革が大事か解る。怠っていれば、多くの兵士達が死んでいたことは確実だ」と述べた。原中将はスペイン軍の戦列が駆け足で接近するのを見ながら第1騎兵旅団を歩兵部隊の背後に展開させた。スペイン軍の歩兵部隊が駆け足で幕府陸軍歩兵部隊に近づいていく。ラッパが鳴り響き、幕府陸軍の戦列歩兵部隊は横隊で密集して膝射の姿勢で待機した。ライフル銃兵部隊も膝射の姿勢で待機する。


 スペイン軍の歩兵部隊が約180mまで近づく。「ライフル銃兵、立てー!銃撃開始―!」の号令を士官や下士官がメガホンで伝達する。戦列歩兵部隊の後ろでライフル銃兵部隊が立射で射撃を開始した(ライフル銃兵は銃撃が終わると膝射の姿勢で装填を始める)。ライフル銃兵部隊から鉛玉が次々に飛んできて兵士達が悲鳴を上げて倒れていく。士官や下士官も例外なく倒れていった。ライフル銃兵部隊の将校や下士官、狙撃班がスペイン軍の将校や下士官を容赦なく狙撃した。スペイン軍の兵士達は次々に倒れ、将校や下士官も倒れていく。ヨーロッパの戦場ではライフル銃兵の数が少なく、短時間の銃撃で大量の兵士が倒れることは少なかった。更に、将校や下士官も倒れていく。当時としては相当の恐怖だった。


 スペイン軍の戦列に綻びが生じた。兵士達に恐怖が蔓延して逃げる部隊が出始めた。将校や下士官が全て死傷して立ち止まる部隊も出た。その間もカノン砲から鉄弾が放たれ、バウンドして兵士達を薙ぎ倒していく。

 焦ったスペイン軍は銃剣突撃に切り替えた。突撃ラッパが鳴り、戦列歩兵達が突撃していく。スペイン軍が約90mまで迫ると、幕府陸軍のライフル銃兵部隊の銃撃が中止された。「ライフル銃兵!銃撃やめー!銃撃やめー!」と将校や下士官がメガホンで伝達し、ライフル銃兵をスペイン軍の側面が撃てる位置に移動させていく。幕府陸軍の戦列歩兵部隊の将校や下士官はメガホンで「焦るな!呼吸を整えろ!落ち着けば死なんぞ!」と伝達した。幕府軍の戦列歩兵部隊はスペイン軍が約50mまで接近すると「対騎兵射撃用意―!」の号令で第4列が立ち上がった。立ち上がると兵士達は訓練通り狙いをつける。約4秒した後、「対騎兵射撃―!撃てー!」の号令で一斉射撃が行われる(射撃が終わると幕府陸軍の戦列歩兵部隊も膝射の姿勢で装填を行う)。


 幕府陸軍の戦列歩兵部隊のフリントロック式銃が一斉火を噴き、スペイン軍兵士達が倒れていく。スペイン軍の勢いは削がれる。それでも士官や下士官の号令でスペイン軍は突撃を続ける。第3列は約40メートルの距離まで引き付ける。「対騎兵射撃―!撃てー!」の号令で一斉射撃が同じように浴びせられる。スペイン軍の戦列歩兵部隊は又も大量に倒れる。流石に、スペイン軍は突撃を止めて部隊を後退させる。スペイン軍の士官達や下士官達は約90mの所で戦列歩兵部隊を整列させて通常の射撃戦を展開させようとした。


 後退するスペイン軍に第2列が小隊射撃を浴びせた(幕府陸軍の小隊射撃は左翼か右翼の小隊から順に行う)。「対歩兵射撃用意―!」の号令で第2列が立ち上がる。「狙えー」の号令で兵士達は呼吸を整え、狙いを正確にする。「対歩兵射撃―!撃てー!」の号令で第2列の兵士達は小隊ごとに発砲していく。射撃が終わった小隊は膝射の姿勢で装填を開始する。第2列が射撃を終えると、第4列が同じ様に立射で小隊射撃を浴びせた。第4列が射撃を終えると第3列が同じように小隊射撃を浴びせた。スペイン軍は完全に動揺した。潰走する部隊が出始めた。距離が約60mを超えると戦列歩兵部隊は膝射の姿勢になり銃撃を中止した。


 勿論、スペイン軍の戦列歩兵部隊からの銃撃で倒れる幕府陸軍兵士もいる。しかし、その数は少なく動揺は起きなかった。倒れた戦列歩兵は将校や下士官などによって後送された。ライフル銃兵部隊の銃撃、カノン砲からの鉄弾やキャニスター弾の砲撃も続いていた。スペイン軍兵士の逃亡が相次いだ。スペイン軍は約90mの位置から銃撃戦を行い始めた。しかし、約50mを超えるとライフル銃の命中率が格段に高くなる。更に、スペインの戦列歩兵部隊(他のヨーロッパ諸国もだが)は歩兵個人の射撃術を軽視していた。このため、散開して各個に立ち上がって銃撃してくるライフル銃兵に対応できなかった。


 第12旅団がスペイン軍を撃退している間に、幕府陸軍の第16旅団も展開を終えて攻撃を本格化させた。スペイン軍は押さえ込まれた。スペイン軍は数の上では優勢だったが、幕府陸軍の機動力で行く手を遮られてライフル銃兵部隊の射撃で数を擦り減らされていった。さらに、馬に乗った士官が次々に狙撃された(幕府陸軍の士官は騎乗を禁止されていた)。幕府陸軍の戦列歩兵部隊は砲弾を避けるために適宜、士官の判断で散開し、再び横列に戻した。幕府陸軍の戦列歩兵部隊は逃亡の心配が少なく、損害を軽減できた。ただし、逃亡の例がないわけではない。しかし、後ろのライフル銃兵部隊に容赦なく撃たれるので士官の警告を受けると列に戻った。身分意識によるプライドと身分の保障を失う恐怖もあって逃亡は稀だった。銃撃戦は終始、幕府陸軍が優勢だった。


 更に、赤松中将は第1旅団をスペイン軍の右翼に迂回させて攻撃させた。スペイン軍は幕府陸軍の各部隊に完全に押さえ込まれて劣勢になり、後退を開始した。態勢を立て直すために、スペイン軍の騎兵部隊に突撃が命じられた。スペイン軍の騎兵部隊は移動中で砲撃を中断していた第1旅団を攻撃した。スペイン軍の騎兵部隊が幕府陸軍の戦列歩兵部隊に迫る。戦列歩兵部隊が方陣を形成して進撃を止めるのが普通だった。しかし、幕府陸軍の戦列歩兵部隊は横隊を維持して膝射の姿勢をとっただけだった。ライフル銃兵部隊と戦列歩兵部隊の一部は移動中の砲兵隊を護るために方陣を敷いた。


 幕府陸軍の戦列歩兵部隊の一斉射撃でいずれも撃退された。約40m、約30m、約20m、約10mの順で各列が「対騎兵射撃」の号令で一斉射撃を行い、スペイン軍歩兵の銃剣突撃を撃退した時と同じように騎兵部隊を撃退した。一斉射撃の度に多数の馬が薙ぎ倒され、それに後続の騎兵が足を取られて倒れていく。他の騎兵が倒れた人馬の間を縫ったり飛び越えたりしようとして隊形が乱れる。それでも一部は突入してきた。突っ込んできた騎兵が戦列歩兵の銃剣に刺されて倒れる。しかし、それで乱れた隙間に他の騎兵が突っ込んでくる。数人の戦列歩兵が蹴り飛ばされる。戦列歩兵と騎兵の白兵戦が随所で繰り広げられた。


 幕府陸軍戦列歩兵部隊の将校達や下士官達は「怯むなー!止まった騎兵なぞ雑魚に過ぎん!」などと叫びながら戦列歩兵達を纏めた。突入してきた騎兵の馬に戦列歩兵達が銃剣を突き刺し馬が倒れる。至る所で騎兵は取り囲まれて銃剣で馬が倒されていく。幕府戦列歩兵部隊の士官や下士官は小銃で騎兵を撃ち倒したり、戦列歩兵に混じって銃剣を馬に突き刺したりした。幕府陸軍戦列歩兵部隊は一歩も引かず、突入してきたスペイン軍騎兵を全て撃退した。中には混乱に乗じて後方部隊を攻撃しようとした騎兵もあった。しかし、方陣に攻撃を阻止される。方陣の間を二十数騎の騎兵が取り巻くが方陣は動じない。同士討ちを避けるため、ライフル銃兵部隊の兵士は射撃せず士官や下士官が騎兵を狙撃した。


 突撃ラッパが鳴り、第1騎兵旅団の騎兵部隊が方陣の周りの騎兵に殺到する。突破したスペイン軍の騎兵は袋叩きにされ、全員が死ぬか捕虜になった。スペイン騎兵が撃滅されると、方陣が解かれる。ライフル銃兵部隊は散開し、砲兵隊は砲撃準備を始める。スペイン軍騎兵部隊は突撃が粉砕され、動揺しながらも再集し始めた。赤松中将は布陣したばかりの教導騎兵連隊にスペイン軍騎兵部隊を攻撃させる。第1旅団の砲兵隊が展開を終える。榴弾砲部隊は再集しているスペイン軍の騎兵部隊を狙った。榴弾砲が次々に火を噴き、榴弾が飛んでいく。榴弾は地面を転がり、暫くして爆発する。騎兵が吹き飛び、隊形が乱れる。


 スペイン軍騎兵部隊の混乱を見た幕府陸軍の教導騎兵連隊がスペイン軍騎兵部隊に急襲を掛ける。教導騎兵連隊の騎兵が隊形を整え、騎兵砲部隊が砲撃準備を完了する。騎兵砲から鉄弾が次々に撃ちだされ、鉄弾がバウンドしてスペイン騎兵を薙ぎ倒していく。続いて、突撃ラッパが鳴る。槍を装備した幕府陸軍騎兵部隊が突撃していき、スペイン騎兵を槍で突き殺し突破していく。続いて、サーベルを装備した騎兵部隊がスペイン騎兵を切り倒していった。スペイン軍の騎兵部隊は潰走した。誘導騎兵が教導騎兵連隊の騎兵を再集させる。第1旅団から共同攻撃の要請があり、直ちに教導騎兵連隊は応じた。


 幕府陸軍の教導騎兵連隊はスペイン軍歩兵部隊に対して突撃の構えを見せた。スペイン軍の戦列歩兵部隊は方陣を形成する。すると、幕府第1旅団の榴弾砲部隊が方陣を集中砲撃した。榴弾砲部隊が次々に榴弾を撃ちだし、榴弾がスペイン軍の方陣に飛んでいく。榴弾が地面を転がり、暫くして爆発する。スペイン軍歩兵が吹き飛ばされていく。更に、教導騎兵連隊の騎馬砲兵隊が鉄弾を方陣に撃ち込む。鉄弾がバウンドして方陣に飛び込み、歩兵を薙ぎ倒していく。


 合図のロケットが上がり、第1旅団の砲撃が方陣から横列のスペイン軍歩兵部隊に移される。突撃ラッパが鳴り、教導騎兵連隊が突撃を開始した。まず、槍を装備した騎兵部隊が突撃し、剣装備の騎兵部隊が後続した。槍を装備した騎兵部隊に崩れかけた方陣が完全に突き崩される。サーベルを装備した騎兵部隊は続けて突入し、スペイン歩兵を次々に斬り倒していった。一つの方陣を潰すと幕府陸軍の騎兵部隊は深追いせず、誘導騎兵の指示で再集した。騎馬砲兵部隊が次の方陣に鉄弾を撃ち込み、騎兵部隊が同じ要領で突撃していく。幕府陸軍の騎兵部隊は同様の戦術で方陣を潰していった。


 呼応して、第1旅団の歩兵部隊も攻撃を開始する。カノン砲部隊が鉄弾を撃ち込み、榴弾砲部隊が榴弾を撃ちこむ。鉄弾がバウンドしながらスペイン軍の戦列に向かっていき、スペイン軍の戦列歩兵を薙ぎ倒す。榴弾も着弾して地面を転がり、暫くして爆発する。スペイン軍歩兵が吹き飛ばされる。第1旅団の戦列歩兵部隊は砲撃に援護されて前進する。スペイン軍の戦列との距離が約150mになると、停止して膝射の姿勢で待機する。ライフル銃兵部隊が立射で銃撃を開始する。スペイン軍歩兵が次々に倒れていく。スペイン軍の歩兵部隊に動揺が広がっていく。


 更に、スペイン軍は重大なジレンマに直面した。幕府軍騎兵を防ぐなら方陣だが、方陣は銃撃や砲撃に脆弱だ。各所で幕府陸軍の騎兵部隊と歩兵部隊は協力して攻撃を行った。幕府陸軍の戦列歩兵部隊から第3列と第4列の戦列歩兵が分派されて散開射撃を行う。散開して約50mまで接近した幕府陸軍の戦列歩兵達は分隊長の指示で伏射を行う。銃撃により、スペイン軍歩兵が次々に倒れていく。スペイン軍歩兵の方陣に綻びが生じる。続いて、幕府陸軍の騎兵部隊が騎馬砲兵部隊による砲撃の後に突撃した。第1旅団と教導騎兵連隊の攻撃でスペイン軍は左翼が崩れて総崩れになった。

 幕府陸軍は追撃に移り、教導騎兵連隊の騎兵を中心に追撃が行われた。スペイン軍の右翼も第16旅団と第1騎兵旅団から分派された騎兵部隊の合同攻撃で崩壊した。バコールから陽動部隊が機動してきたので壊滅は免れたが、陽動部隊も幕府陸軍の各旅団の集中攻撃を受けて潰走した。この時点で、原中将は追撃を中止した。揚陸作業は半ばであり、弾薬が不足し始めていたからだ。


 スペイン軍の受けた損害は甚大だった。スペイン軍の損害は、戦死が約3000、捕虜が約2500、負傷が約1300。対して、幕府軍の損害は、戦死が約500、負傷が約1700。幕府軍は再編成と揚陸作業を行い、二日後に進撃してマニラを包囲した。幕府陸軍は直ちにマニラを包囲して攻囲戦の構築を始めた。第1攻城旅団の揚陸が完了するまで、待つ必要があったので攻撃開始は二週間後になった。


 第1攻城旅団は24ポンドカノン砲16門、20ドイム砲16門、24ポンド榴弾砲16門でマニラに猛砲撃を開始した。この援護下で、幕府陸軍工兵部隊が戦列歩兵部隊の増強を受けて本格的な攻撃を開始した。幕府軍は典型的なヴォーバン戦術で攻囲戦を行った。最初に、敵の城壁と並行に第一攻囲壕を掘る。次に、第一攻囲壕が完成したら、そこから対壕をジグザグに掘り進めていく。

 次に、城壁との中間地点に第二攻囲壕を掘って、臼砲や榴弾砲を要塞に接近させる。そこから対壕を同様の手順で掘り進め、それが完了すれば最終的な第三攻囲壕を掘り進める。

 第三攻囲壕が完成したら、臼砲や榴弾砲を配備して圧倒的な攻撃を行い、敵を降伏に追い込む。さらに、第三攻囲壕に幕府陸軍はライフル銃兵部隊を塹壕に展開させて城壁の上の敵兵に銃撃を浴びせた。塹壕には踏み台が設けられた。これもヴォーバン戦術だった。攻城第一旅団や他の幕府陸軍部隊の猛砲撃で第三攻囲壕が完成する頃には城壁からの応戦は沈黙し、城壁も崩れ始めた。第三攻囲壕が完成すると、幕府軍はカノン砲の猛砲撃を城門に集中し、城門を破壊した。


 要塞施設も榴弾砲や臼砲により次々に破壊された。ここで、幕府陸軍は降伏勧告を行い、スペイン軍は受諾した。原中将は「今回の勝利は平時から改革と強化を怠らなかった国防大臣、陸軍の将官達、国防省の文官達の成果でもある。彼らにも栄誉と栄光が与えられ、後世の教訓としなければならない。人は平時の功績を忘れやすいが、平時の改革と強化なくして戦時の勝利はない」とマニラへの入城式で述べ、報告書にも冒頭で記した。各地の残存スペイン軍も順次、掃討されていった。こうして、フィリピンは占領された。


 幕府海軍は作戦の重点を南米のスペイン植民地においた。幕府海軍は南米のスペイン植民地とスペイン本土とのシーレーンを断続的に攻撃した。多くのスペイン商船が攻撃されて焼き払われた。幕府海軍は敵船の乗員を救助した後に焼き払うので作戦効率が良かった(イギリス海軍でも捕獲が好まれていた)。幕府艦隊は効果的にスペインのシーレーンを切断し、仏西両国の私掠船と商船を多数、焼き払った。また、南米の各地の港に襲撃を敢行し、火船攻撃と沿岸砲撃(風上の街を艦砲射撃で炎上させ、風下の街まで延焼させる。臼砲艦や砲艦の他に、戦列艦も焼玉と焼夷ロケット弾で砲撃に加わった)で多大な損害を与えた。イギリス海軍は戦力を他方面に集中させることが出来た。幕府はスペインの南米植民地の独立を扇動しようとしたが、イギリスの要請で中止した。ポルトガルがイギリス側になったので、ブラジルへの波及が懸念されたからだ。このため、幕府海軍は通商破壊、沿岸襲撃、イギリス船団の護衛を継続した。

 

 1805年5月7日マルティニーク島の沖合で、スペイン艦隊15隻(戦列艦11隻、フリゲート艦4隻)が護衛する船団を幕府海軍第4艦隊(1等艦5隻、3等艦10隻、フリゲート艦5隻、ジーベック5隻。村上三郎助中将)が発見して攻撃した。幕府第1艦隊はフランス艦隊を捜索しながら沿岸を襲撃していた。フランス艦隊が西インド諸島に向かったという情報がイギリス海軍から齎されていたからだ(フランス艦隊は大西洋に出撃したがイギリス艦隊に遭遇してアフリカ西岸に逃げてからカディスに戻った。フランス艦隊は当初から西インド諸島に向かうつもりはなく、北フランスに向かう予定だった)。


 スペイン艦隊はフランス政府からの要請による陽動作戦と植民地の船団を本国に帰還させることを目的としていた。「敵艦隊!10時方向!」の報告を受けて、村上中将は望遠鏡でスペイン艦隊を遠望した。村上は「この一戦で西洋における日本帝国の評判が決まる。全艦に伝達せよ!作戦は第1計画だ!こちらも伝達せよ」と命令した。スペイン艦隊は船団を逃がすために、幕府艦隊に向かった。幕府艦隊も縦陣でスペイン艦隊に向かっていく。


 幕府海軍第1艦隊の第1戦隊(5艦とも1等艦)はスペイン艦隊との距離が詰まると左に回頭してスペイン艦隊の右翼に出た。第2と第3(どちらも3等艦)は直進して左翼に向かい、第4戦隊フリゲートは更に左翼に迂回した。第5戦隊ジーベックはスペイン艦隊の先頭艦に横陣で向かい、オールによる航行に切り替えて先頭艦の頭を押さえた。幕府海軍の軍艦は堤砲式であり、射界を左右に広くとることができた。このため、通り過ぎた艦や真横につく前の艦も射撃できた(縦射に近い砲撃や縦射が容易にできる)。このため、砲火を集中することができた。このため、スペイン海軍の軍艦は横の艦に加えて、前後の艦からも砲撃を受けることになった(つまり、応戦できない位置から砲撃を受けた)。


 約400mでカノン砲が次々に火を噴き、鉄弾がスペイン軍の戦列艦に向かっていく。命中すると、鉄弾は木片を撒き散らして乗員を殺傷する。スペイン艦隊からも砲撃により、多数の鉄弾が飛んでくる。しかし、スペイン海軍はフランス海軍の影響を受けて帆やマストなどを狙ったので鉄弾が上に逸れがちで命中率が低かった。更に、命中しても乗員の死傷数は少なかった。このため、砲撃戦は幕府艦隊が有利だった。更にジーベックがスペイン艦隊の先頭艦を押さえ込んだので主導権は幕府艦隊が握った。スペイン艦隊は左右から挟撃されて猛砲火を受ける。スペイン艦隊の先頭艦は左右から砲火を受ける。その後で第5戦隊、1等艦1隻、3等艦2隻の集中砲火を喰らった。砲撃で鉄弾が次々に撃ちこまれ、スペイン海軍の乗員が殺傷される。ジーベックはバリスタから焼夷弾付きの太矢を多数、撃ち込む。マストや帆が炎上し始めた。砲撃で空いた穴にも太矢が撃ち込まれて船内でも火災が発生した。1等艦や3等艦もバリスタから太矢を浴びせた。


 当時の軍艦にはタールが塗っており、火災には脆かった。その上、砲撃で多数の乗員が死傷しており消火は無理だった。先頭艦が撃破され、スペイン艦隊は行き詰まり囲まれ始めた。幕府艦隊の各艦は砲火を浴びせつつ、バリスタから焼夷弾付きの太矢を放って敵艦に火を点けた。当時のヨーロッパの海戦では敵艦を焼き払うことは少なかった。このため、スペイン艦隊は対処できなかった。統制が失われて各艦の連携が失われた。このため、スペイン艦隊は司令官のグラビーナ提督は全艦に信号旗で接弦戦闘を指示した。スペイン艦は近くの幕府艦に向かう。このため、幕府艦隊の統制も乱れて各個戦闘になった。接近されると、集榴弾などで焼夷弾が燃やされる恐れもあるので幕府艦は焼夷弾付きの太矢を投棄した。各所で接舷戦闘が展開された。


 しかし、幕府海軍の優勢は揺るがなかった。砲撃でスペイン艦の乗員の死傷者数が多かった上に、水兵の練度が高い(列国の海軍と違い、幕府海軍は反乱の心配が殆どなく水兵もフリントロック銃を携行し戦闘でも戦力になった)幕府艦の方が優勢だった。水兵が6ポンド旋回砲やバリスタからの矢でスペイン水兵や海兵隊を攻撃する。散弾や矢が降り注ぎ、甲板上のスペイン海軍の海兵隊員や水兵が殺傷される。更に近づくと水兵達がフリントロック銃の掃射(三人一組で装填と発砲を行う。旋回架に銃を付けて射撃する)を行う。


 接舷すると海兵隊が2列で2回の一斉射撃を行った。その後、海兵隊がスペイン艦に雪崩れ込み、水兵は援護射撃を続ける。幕府海兵隊は甲板を制圧すると、焼夷弾の成分を詰めた樽などで放火された。それが終わると、幕府艦は離れる。幕府艦隊が優勢だった。その上、幕府海軍のフリゲートやジーベックが交戦しているスペイン艦を背後や正面から攻撃した。鉄弾が乗員を殺傷し、太矢が火を点けていく。ジーベックは艦長室などを狙って太矢を撃ち込んだ。艦長室などは窓ガラスが多く、艦内に火が回り易かったからだ。スペイン艦は次々に炎上していった。火災が広がったスペイン艦は相次いで降伏した。こうして、スペイン艦隊は全滅した。幕府艦隊は降伏した艦から敵乗員を救助すると、捕獲したスペイン艦も焼き払った。そして、輸送船団を追跡した。しかし、輸送船を7隻、炎上させただけだった。


 スペイン艦隊の奮戦で船団は脱出に成功した。幕府艦隊は追跡を諦め、海戦の現場に戻ってスペイン艦隊の乗員を救助して撤収した。幕府海軍は輸送船団の撃滅には失敗したが、スペイン艦隊に最終的な打撃を加えてスペイン海軍を実質的に戦争から脱落させた。これ以後、幕府艦隊が大規模な海戦を経験することはなかった。幕府艦隊はイギリス艦隊と共同して沿岸襲撃、シーレーンの破壊、私掠船の討伐を行って南米海域とカリブ海で制海権を確立した。

 後に、村上中将は「輸送船団の撃滅に失敗したのだから大勝利とは呼べない。勿論、艦隊の兵士達は栄光ある存在であり、栄誉が与えられなければならない。しかし、私は違う」と述べて、この海戦による勲章を拒否した。そして、「マルティニーク島沖の海戦よりも、一連の沿岸襲撃、シーレーン破壊、イギリス輸送船団の船団護衛が遙かに戦略的な意義は大きい。国防に関わる高官は軍人であれ文民であれ、派手さではなく実質的な成果を重視するのが義務だ」と述べた。こうした戦略的な成果を重視する姿勢が後の帝国海軍にも受け継がれていく。村上中将は戦後に昇進して幕府海軍の海軍大将(海軍のトップ)になったが、南米の沿岸襲撃の成功が昇進理由だった。


 1805年10月21日、トラファルガー沖海戦でイギリス艦隊はフランス艦隊を撃滅した。しかし、フランスの陸上における優勢に変化はなく、戦争自体の影響は限定的だった(イギリスにとっては本土進攻の心配が消滅したという意味では意義があった)。ウルムの戦い、アウステルリッツの戦いでフランス軍はオーストリア軍とロシア軍に対して圧勝した。オーストリアはフランスと講和して屈服した。こうして、第三次対仏同盟も崩壊した。

 1806年に、プロイセンが危機感を懐き、フランスと敵対したので第五次対仏同盟が結成された。しかし、プロイセンはフランス軍に敗北した。ロシア軍はフランス軍を苦戦させたが、結局は敗れて講和した。幕閣や参与院ではイギリスの勝利の展望が見えないのでフランスと講和して戦争から離脱すべきだとの意見が強まっていた。しかし、ナポレオンが大陸封鎖令を強行したことで戦局が変化していく。大陸封鎖令でヨーロッパ各国は経済的に困窮し(産業革命を達成していたイギリスの役割をフランスが代替することは無理だった)、大陸封鎖令を維持するために各国への圧力を強めるしかなくなった。


 ナポレオンはポルトガルを占領し、スペインの内政に干渉して兄のジョセフを王位に就けた。しかし、これが反乱を誘発し、1808年にウェリントン指揮下のイギリス陸軍がポルトガルに上陸した。これを受けて、幕府は戦争を継続することにした。漸く、イギリス陸軍が本格的な戦闘に加わったので勝利の展望が開けたと判断した。ナポレオンが自ら侵攻してくると、イギリス軍は撤退した。しかし、ウェリントンの指揮下でポルトガルに戻り半島戦争を継続した。スペインでのゲリラ戦激化もフランス軍の足を引っ張った。このため、フランス軍は苦戦して半島戦争は泥沼化した。


 

幕府は半島戦争でも重要な役割を果たした。幕府はイギリス軍とポルトガル軍に大量の管打ち式ブラウンべスと管打ち式のベイカーライフルを供給した。雷管は、1805年にイギリスのフォーサイスによって発明された。イギリス軍は採用しなかったが、幕府のイギリス駐在武官が着目して特許の権利を買い取り、フォーサイスのために研究所の職も提供した(フランスからも誘いがあったがフォーサイスは断っている)。幕府陸軍工廠の研究者達はフォーサイスと共同して1807年に金属製の雷管を開発した。雷管を使用した管打ち式は悪天候にも耐え、使用も手入れも簡単だった。更にフリントロック式に比べて反動も少ないので有効射程も伸びた(約100m)。

 

 幕府陸海軍は大喜びで採用し、イギリス陸海軍にも採用を勧めた。しかし、イギリス陸軍は採用しなかった(イギリス海軍は採用)。このため、幕府はポルトガル陸軍に供与を始めた。当初はポルトガル陸軍の軽歩兵部隊だけが装備していたが、好評だったのでポルトガル陸軍全体が採用した。イギリス陸軍もイベリア半島の軽歩兵部隊から配備が始まり、済し崩し的に半島の全イギリス陸軍が装備するようになった。そのまま、イギリス陸軍も採用した。このため、イギリス陸軍やポルトガル陸軍は銃撃戦で有利になった。なお、イギリス陸軍とポルトガル陸軍の勝利に貢献した新兵器があった。


 後装式のファーガソンライフルだ。当時の小銃として命中精度が高い上に、実戦での発射速度は1分間に5発(無理をすれば、6~7発。先込め銃は1分間に2~3発)だった。アメリカ独立戦争で使用され、日本帝国の国防省が真剣に導入を検討した。しかし、技術的限界による量産の困難と高いコスト、榴弾砲の導入と榴弾の調達、砲兵隊の訓練費用の増大などで導入を断念した。結局、狙撃班に限定導入された。しかし、高額にも関わらず多くの将校達が購入した。その後も鉄道や蒸気船などの導入で狙撃班とライフル銃兵部隊しか導入できなかった。ナポレオン戦争中はイギリス陸海軍とポルトガル陸軍の狙撃手に供与され、多くのフランス陸軍将校を狙撃した。


 なお、日本帝国が資金を提供して編成した1個軽歩兵旅団はファーガソンライフルを装備している。日本帝国はポルトガルを支援するためと、幕府陸海軍の将校達に実戦経験を積ませるために歩兵、騎兵、砲兵の1個旅団ずつ(約5000。将校は日本人中心、兵士はポルトガル人中心)を編成してポルトガル陸軍の指揮下に置いた。この3個旅団はイギリス陸軍とポルトガル陸軍の双方から高く評価された(後の、ワーテルローの戦いでも活躍)。同時に、ポルトガル陸軍を支援するためにイギリスと共に大量の資金援助を行った。海軍力の優勢による兵站の優位もあって、半島戦争ではイギリス陸軍とポルトガル陸軍が主導権を握り続けた。フランス陸軍が勝利してもイギリス陸軍とポルトガル陸軍は一時的に後退するだけだった。半島戦争にフランスが苦戦している間、ヨーロッパ各国は大陸封鎖令で疲弊し、反発が強まっていた。


 また、フランスの私掠船の活動も大幅に抑制されていた。幕府海軍が南米やカリブ海にも展開していたので、イギリス海軍は戦力を集中することができた。また、南米や中米のスペイン植民地はイギリス海軍や日本海軍の沿岸襲撃と通商破壊に音を上げ(スペイン植民地の港で火船攻撃と沿岸砲撃を受けなかった港はなかった)、非公式に日英両国と休戦協定を締結していた。このため、フランスの私掠船は寄港を拒否され、活動範囲を狭められた。スペインの植民地は残存の商船を便宜上、ポルトガルに編入してイギリスとの通商を始めた。ヨーロッパ各国も密貿易を行っていた。大陸封鎖令は抜け穴だらけだった。こうした状況を受けて、1809年に第五次対仏同盟が結成され、オーストリアがフランスに宣戦布告した。オーストリア陸軍はフランス陸軍を苦戦させたが、結局は敗北した。オーストリアは広大な領土を割譲され、賠償金を支払わされた。第五次対仏同盟も崩壊した。


 1809年11月15日、幕府は閣議で戦争継続について協議した。信城「またも、対仏同盟は崩壊した。しかし、儂は戦争から離脱すべきではないと思う。既に、イギリスなどに莫大な資金を援助しているし、最早フランスとの和平は不可能だ。そして、ヨーロッパで戦争が長引くほどヨーロッパ各国のアジア進出は遅れるので戦略的に極めて好都合だ。更に、イギリス陸軍がヨーロッパの戦場にいる以上、ナポレオンは安泰ではない。イギリス陸軍は充分にフランス陸軍に対抗できる。しかし、皆の者の意見も聞きたい」。対外事務局の長官である信直が発言した。

 信直「上様、私も戦争継続に賛成です。対外事務局はナポレオンが没落すると判断します。ナポレオンはハプスブルク帝国を崩壊させませんでした。今回の戦争で、ナポレオンはハンガリーなどの独立を扇動してハプスブルク帝国を解体すると予測していました。ところが、ナポレオンは領土を大幅に割譲してもハプスブルク帝国を崩壊させようとしません。ハプスブルク帝国は今回、単独でフランスに挑んだことからも明白なように和解する気が皆無です。是を許しては駄目です。ハプスブルク帝国は必ずフランスを裏切ります。ナポレオンの決断は鈍ってきています。

 次に、イギリスの経済力は予想以上です。ナポレオンの大陸封鎖令にも関わらず、特に衰えていません。大陸封鎖令の効果が不充分なこともありますが、イギリスの財政運営能力は世界一です。更にフランスや他のヨーロッパ諸国がアメリカ市場などから締め出されたので輸出力も健在です。フランスの経済力も強いですが、イギリスに追いつける見込みは皆無です。是では消耗戦に負けます。イギリス陸軍は質量ともに強くなっていますし、他のヨーロッパ諸国もイギリスの援助を期待できます。ナポレオンの終わりは始まっています。個人的にはナポレオンを尊敬していますが、国益の観点から戦争続行を進言します」。

 信城「信直、良い判断だ。対外事務局の予測通り、ナポレオンは没落するだろう。儂も対外事務局の分析には概ね賛成だが、ナポレオンへの見方については違う。ナポレオンが没落し始めた最大の要因は皇帝と陸軍の最高司令官を兼務したことだ。ナポレオンの決断力は鈍っていない。職務が多くて収拾がつかなくなり、混乱しているのだ。人間の職務遂行能力には限界がある。判断することが多すぎれば、決断は粗製乱造品のようになってしまうのだ。儂は諸君らのような良き家臣達に恵まれて幸せだ」。

 信直「上様、恐縮です。我らも上様に仕えることができ、幸せです。また、織田幕府が中央政府であることは日本帝国にとって極めて良いことです。上様の御話で再認識いたしました」。信直の発言に、他の閣僚も大きく頷いた。信城「何だ、そんなに畏まるな。しかし、御前達の様な幕臣がいることは日本帝国と幕府にとって何よりの吉兆だ。さて、他の者も意見を聞かせてくれ」。


 この閣議で、戦争継続が正式に決定され、直ちにイギリス大使へ伝えられた。1810年、ロシアは公然と大陸封鎖令を無視し始めた。ナポレオンはロシア遠征を決意し、1812年にロシア遠征を決行する。ロシア陸軍は後退しながら冬を待った。ナポレオンはボロジノでも決定的な打撃を与えることが出来ずにモスクワに入城する。ロシア側の放火でモスクワは焼き払われ、ナポレオンは無為にアレクサンドル一世の返事を待った。しかし、当時の首都はサンクトペテルブルクであり、ロシア皇帝が講和に応じる筈もなかった。このため、冬の訪れとともにロシア陸軍の逆襲が始まる。フランス陸軍はロシア陸軍に追尾されてウクライナに向かわず、元の道を退却し始めた。このため、フランス陸軍は壊滅した。ロシア陸軍も大量の死者を出し、べレジナでフランス陸軍に打撃を与えただけだったが勝ちは勝ちだった。人口比で比較すれば、兵士の死者は同数でもフランスの方が打撃は大きかった。


 この敗北を切っ掛けに第六次対仏同盟が結成された。プロイセン陸軍とロシア陸軍が戦闘を開始し、フランス陸軍と交戦した。フランス陸軍が勝利したが、損害はフランス陸軍の方が多かった。最早、フランス陸軍は無敵ではなかった。オーストリアとスウェーデンもフランスに宣戦布告する。イベリア半島でもイギリス陸軍とポルトガル陸軍が攻勢に転じた。フランス陸軍は弱体化しており、ナポレオンが直率する軍団以外は負けることが多かった。ナポレオンは1813年10月のライプツィヒの戦いで決定的な敗北を決した。これにより、戦争の趨勢は決した。連合軍はフランス国内に侵攻する。ナポレオンは戦術的には勝利し続けたが、損害はフランス陸軍の方が大きかった。連合軍がパリを占領したのでナポレオンは降伏を余儀なくされた。1814年、ナポレオンは連合軍に降伏した。


 ナポレオンはエルバ島に追放され、ルイ18世が即位して王政復古となった。1814年、講和会議としてウィーン会議が開催されることになり、幕府の代表として蒲生信訓(外務副大臣としてロンドンに赴任しており、広範な権限が与えられていた。実は対外事務局の副長官でもあった。実際に蒲生家の人間かは不明)が代表者として出席した。蒲生は幕府の訓令に従って、東南アジアにおける列強の国際秩序を決める一連の条約と協定を提案した。

 提案の趣旨は次の通り。第一に、フランスにフィリピンを割譲する。引き換えに、フランスは東南アジアおよび北東アジアで領土を拡大しない。ただし、中国を除く。第二に、日本帝国、イギリス、オランダ、フランスは東南アジアと北東アジアで現行領土を維持して植民地を広げない。また、他国の進出を助けず、基地なども提供ないし貸与しない。ただし、各種権益の獲得は容認する。権益の獲得も4か国で構成される極東委員会で承認を得ること。これも中国を除く。第三に、前述の取り決めに反して他の国が進出してきた場合、4か国は進出国に対して各種の制裁を実行する。また、当該進出国と4か国の中で交戦状態になった国がでた場合は他の3カ国は各種軍事支援、財政支援を行うこと。第四に、東南アジアは自由貿易地域として市場開放を前提とする。以上の趣旨で、幕府は東南アジアと北東アジアでの秩序維持を図った。


 中国に対する進出が容認されているのは、幕府が中国を脅威だと判断していたためだ。幕府は参与院で次の様に諸藩に説明した。中国の歴代王朝は中華秩序に染まっており、周辺国に干渉や出兵を繰り返してきたからだ(それも、利益を度外視して行ってきた)。さらに、中国は昔から人口の割に農業生産力が低く、安定していなかった。このため、幕府は中国が人口増大の捌け口として周辺国に狙いを定め、侵略の度合いを強めると予想して警戒を強めていた。幕府はヨーロッパの列強が中国を侵略して分割してくれた方が日本帝国の安全保障にとって好都合だと判断していた。ヨーロッパの列強が中国に基地を置いたとしても、兵站線の短い日本帝国の方が断然、有利だった。さらに、中国の人口は多く、ヨーロッパが植民地化しても行政費用や治安費用の増大は確実だった。


 このため、幕府はヨーロッパの中国における植民地は寧ろ日本帝国に対するヨーロッパ列強の弱みになると判断した。ヨーロッパの列強が敵対すれば、日本帝国が中国にある植民地を攻撃するだけのことだからだ。中国にある植民地の維持には日本帝国の協力か最低でも好意的な中立が不可欠だった。以上の趣旨で説明を行い、ヨーロッパ列強の中国侵略は歓迎すべきことだと幕府は締めくくった。諸藩の代表者達は幕府の生々しい帝国主義に困惑したが、概ね幕府の説明に同意した。数人が反対を表明したが、大葉純信がダメ押しの説明を行った。


 大葉「諸君が中国よりも西洋列強を恐怖するのも無理はない。しかし、西洋列強の態度は普通の国の態度に過ぎない。対して、中国の行いはどうだ?ヨーロッパも唖然とする程の侵略と理不尽な干渉の歴史だ。チベット、ウイグル、越南(現在のベトナム)などが何回、侵略され、理不尽な干渉を受けていると思う?また、信用できない。中国は中華秩序に染まり、下位とされた国を騙すことを躊躇わない。典型的な例が宋の態度だ。宋は遼を滅ぼすために金と同盟し、遼を滅ぼすと金を滅ぼそうとした。そして、金に敗れた。さらに、中国では目的さえ良いと自分達が思えば騙しは美徳とされる。典型的な例が劉邦だが、問題は中国人が美談だと思っていることだ。自国内でさえ、この振る舞いだ。外国では、さらに酷い。そして、先程の説明にあった危険性もある。こうした国が隣国であることは大問題だ。中国は日本帝国にとって脅威であり、ヨーロッパ列強による中国侵略は歓迎すべきことだ」。

「しかし、清国とは友好関係が長期間、続いた。清王朝は他の中国王朝と違う。仲良くするのは無理でも中立の態度を示して西洋列強の侵略は歓迎せず適切に支援してやるのはどうか?もちろん、清国の力が強くなり過ぎないように考慮してだが」との意見が出た。

 大葉「先の説明にあったように、日本帝国の利益に適うよう国益に基づいて判断しなければならない。幕府が清との友好関係を重視してきたのは清が日本帝国を対等の国だと認めてきたからだ。中国は下位の国か夷敵だと見做す国には侵略や干渉を利益度外視で行う。際限がない。清は、そうした心配がないことを保障した。これなら、損得の判断で戦争か平和は選択される。ところが、清は日本帝国を下位の国と見做すと表明してきた。つまり、将来、侵略や干渉の標的にすると宣言したも同然だ。なるほど、中国が侵略や干渉を行ってくるのは当分、先だ。

 しかし、中国の歴史からして、そうした行為に及ぶのは太陽が昇るよりも確実だ。身分を問わず、共通して支持されてきた外交政策だ。さらに、中国が西洋列強から侵略されれば、軍備を近代化するだろう。それを防衛だけに使うと本気で思われるのか?当然、これまで夷敵ないし下位とされてきた国にも使う。それどころか、夷を以て夷を制すで西洋の国と組むだろう。その方が周辺国を侵略するのに好都合だからな。よって、日本帝国は西洋列強の中国侵略を妨害すべきではない」。

「確かに、その通りだ。しかし、ヨーロッパやアメリカでは人種差別の傾向が強まっている。清国との連携は問題外だとしても西洋列強の侵略傾向を抑制していくべきではないか?」との発言が出た。

 大葉「アメリカ人やヨーロッパ人が人種差別的なことは、どうでも良いことだ。他人の好き嫌いを自分に合わさせようとするのは不毛だ。それをしようとすれば、中国の様に中華秩序に染まって他国に侵略や干渉を繰り返すしかなくなる。外国人に求めるのは条約を守り、日本国内で法律を守って礼儀正しく振る舞うことだ。諸君らは戦乱から久しく遠ざかっているから忘れているが、世界は戦国時代だ。過去も同じだったし、未来も変わらない。アメリカ人やヨーロッパ人の態度は戦国大名と同じだ。中国と違って損得で判断し、条約を守り、対等な国として遇してくれている。それで充分だ。安全保障政策の目的は日本帝国の安全を確保することであって、外国人の感情を操ることではない」。参与院は幕府の方針に賛成した。

一方、ウィーン会議で、イギリスは幕府の提案に賛同した。


 この地域ではシンガポールなどを領有して既に影響力を確保していたからだ。また、米英戦争が続いていたし、インド支配も未完だった。フランスが安定するかも不明確だったし、戦争で多額の戦費を使っていた。このため、幕府にイギリスが東南アジアにおける権益獲得について優先権を得るとの協定を結ぶことを条件にして同意した。日本帝国が戦争に参戦し、多大な貢献をしてきたこともあってイギリス議会も同意した。また、フランスに対する懐柔策にもなり(既にプロイセンやロシアに対する警戒感が芽生えていた)、東南アジアに他国が侵入してくるのを防げるのでイギリスにとってもメリットが大きかった。オランダとフランスも同意した。このため、極東問題の交渉は12月21日に纏まり、最初に合意文書が作成された(極東秩序条約として調印された)。蒲生は副使に後を任せてロンドンに戻った。


 米英戦争や戦時国債の償還などでイギリス政府と協議を行う必要があったからだ。イギリス政府は米英戦争についても支援を要請したが、蒲生は「アメリカ合衆国を滅ぼす気があるなら参戦します」と回答した。幕府はナポレオンが政権を掌握してからはイギリスにフランスとの戦争を止めて、アメリカ合衆国を攻めるべきだと提案していた。アメリカを征服した方がイギリスの利益になると盛んに勧めていたが、イギリス側は拒否した。


 しかし、1812年、アメリカがイギリスに宣戦布告して米英戦争が始まった。イギリスは日本帝国に参戦を要請したが、幕府はフランスとの講和か休戦をしなければ参戦しないと回答した。イギリスはフランスとの戦争続行を選んだ。イギリスはアメリカとの経済関係は良好であり、同じ英語を話す国民同士ということもあって全面戦争に躊躇いがあった。このため、今回も蒲生の回答により参戦要請を断念した。蒲生はイギリスがアメリカを滅ぼす気がないと確信した。幕府の訓令に従って、外交使節をアメリカに送った。


 日本使節は国交成立と通商条約の締結を目指して交渉を開始させた。当時、両国の外交関係は悪く、交渉は難航することになる。幕府は、王政ではないアメリカを嫌っていた。特にアメリカ独立宣言が気に喰わず、アメリカから革命を広める動きが起こるのではないかと懸念した。合衆国憲法で、そうした懸念はなくなったが距離が遠いこともあって国交は結ばなかった。その後は、両国の間で問題は起きなかった。フランスとの戦争勃発後も、アメリカはフランスと戦争寸前になっていたので特に問題はなかった。幕府海軍がアメリカの商船隊を護衛することも多く、イギリス大使館が両国の関係を仲介した。


 しかし、両国の関係は次第に悪化した。スペイン参戦後に、幕府海軍がスペイン植民地を攻撃し始めた。幕府海軍の沿岸襲撃の主要な手段である港湾に対する火船攻撃で多数のアメリカ商船が巻き添えを喰った。米英戦争が始まってからは幕府海軍とアメリカの私掠船が交戦することが頻発して、両国は全面戦争寸前になった。結局、オランダ亡命政府の仲介で全面戦争は回避された。こうした経緯もあって交渉は困難になり、アメリカと日本帝国との国交が樹立され、通商条約が成立するのは1816年になった。蒲生は米英戦争の問題を決着させた後もロンドンで、戦時国債の償還や東南アジアでの協定について詰めの交渉を行っていた。


 こうした中で、1815年3月1日にナポレオンがエルバ島を脱出してフランスに上陸したとの急報がロンドンにも届いた。3月20日にはナポレオンがパリに入城する。蒲生は幕府海軍に急報を発して、日本本土への引き上げを延期させた。ウィーン会議は6月9日に、ウィーン議定書を取り纏めて終了した。しかし、6月18日、ナポレオンはワーテルローの戦いで敗北した。これにより、第二次パリ条約が締結され、フランス側に対する条件は厳しくなり賠償金が課せられ、連合軍の駐留と経費負担も課された。幕府も賠償金を受け取ることができたが、蒲生はフランスが日仏不可侵条約(互いに攻撃しないことを約束した他に、フランスが東南アジアで権益を求めないこと、フィリピンで他国に基地を提供しないこと)の締結を条件として賠償金の権利を放棄した。


 こうして、幕府のフランス戦は終わった。幕府とイギリスの友好関係は深まり、両国の全領土を範囲とした1815年に日英同盟が締結された(先制攻撃時は義務なし)。双方は、連絡将校の各地域の拠点の常駐、共同演習、平時からの作戦協議、戦時に双方の敵国に金融上の制裁を科すことなどを定めた日英の安全保障上の条約に加えた。


 幕府陸海軍は対フランス戦で多大な経験を得た。特に、海軍は広大な海域で作戦を経験した。兵站、通商護衛、通商破壊、沿岸襲撃のノウハウを確立して、イギリス海軍に次ぐ戦闘能力を会得した。私掠船を封じ込めたのは幕府海軍であり、イギリス海軍を大いに助けた。大規模な艦隊決戦を一度しか経験できなかったのは幕府海軍にとって不満だったが、私掠船との戦闘で負けた軍艦はいなかった。一方、幕府陸軍はオランダを監視するためにインドネシアなどに駐屯していた。イギリスからの要請を受けてインドに約2万の兵力を投入した。既に東ンド会社に貸し出されていた傭兵部隊、東インド会社軍と共同でマイソール王国にトドメを刺した。


 その後のフィリピン戦の経験と併せて、幕府陸軍は有益な経験を得た。幕府陸海軍は諸藩の陸軍に更なる差をつけた。幕府は陸海軍が組織としての経験を積んだ他にもフランスとの戦争で利益を引き出した。極東秩序条約と日仏不可侵条約で東南アジアと東アジアで勢力範囲を確定させ、イギリスが突出して強大な勢力を形成することを防いだことだった。これにより、台湾の安全を確保することができ、日本帝国内の政変時にイギリスが介入しにくくなった。他に東南アジアの市場を一カ国に独占させることを防ぎ、日本の権益の確保を確実にした。


 これにより、幕府は外国の干渉を心配せずに中央集権体制の構築を本格化させることができるようになった。外国の干渉を心配しなくても良くなり、幕府陸海軍の組織としての経験も積めたので諸藩を恐れる必要もなくなった。幕府陸海軍の全将官、全将校達、半分以上の下士官、兵士の多くは幕府の勅許会社、台湾などの海外領、オランダ軍やイギリス軍やポルトガル軍で実戦経験を積んでいた。しかし、幕閣は組織全体としての実戦経験ができるまでは慎重だった。


 また、フランス革命の徴兵制による国民軍の出現が必要性を認識させた。幕府にとっても衝撃的だった。身分保障もされていない人間を大量に集めて真剣に戦う兵士で構成された軍隊が編成されたからだ。ナポレオンが国民軍を最大限に駆使して大戦果を挙げたことで選択の余地はなくなった。このことは、幕府にとって不本意なことだった。徴兵制で大量の国民軍を編成するには、権利を分与して国民のための政府を作るしかないからだ。当然、国家元首は天皇だ。つまり、幕藩体制は解体するしかなく、幕府の消滅は避けられない。最低でも織田家が征夷大将軍職を世襲する体制は終わる。幕府にとっては避けたいことだったが、選択の余地はなかった。


信城曰く、「確かに、幕府を解体して中央政府に改編することは忍び難い。しかし、選択の余地はない。フランスの例でわかるように、徴兵制で編成された国民軍が最も強いことは明らかだ。確かに、幕府陸海軍も質は互角だが物量差で負けることは確実だ。織田家、幕府支藩、幕臣の利害だけで判断してはならない。日本語を話す我々が住む所は日本帝国以外にない。さらに、この国ほど素晴らしい国はない。国土に住む人間の一体感、豊富な森林と水、天皇制などの優れた慣習など他の国にはないものばかりだ。命を懸ける価値はある。

 そして、そのためには諸藩の武士や士族、町人、農民の力も必要だ。彼らに政治の権利を与え、国民を代表する政府を創設するしかない。確かに、従来の慣習からすれば逸脱しているように見える。しかし、武士が権力を獲得したのは朝廷が軍事を放棄し、責任を放棄したからだ。武士は軍事力を担うことにより、政権の獲得を正当化された。これに従えば、武士や士族だけで国防が困難であれば他の身分の人間に権利を与えて国防を分担してもらうのは正当だ。

 彼らも国民とされ、武士と対等な権利を持つ国民に昇格する。国防の責任を担う以上、国民を代表する中央政府が幕府に取って代わるのは当然だ。徴兵制だけを施行すれば、建武の新政の二の舞になることは確実だ。逆に言えば、国防を忌避する者、国家に忠誠を誓わない者などには当然に権利を与える必要はない。日本帝国を存続させるには、この原則が不可欠だ。さらに、我々は先祖と子孫達に責任がある。日本帝国の国益を考えて判断する義務が我々にはある。国防に責任を持つことが国民の義務である以上は、国民を代表した中央政府が不可欠なのだ」。幕閣は中央集権体制の本格的な構築と国民国家の建設に向けて行動を開始した。

 諸藩でも、類似した議論が巻き起こり始めた。幕府も諸藩も目指す方向性は似通っていた。しかし、「誰が新政府の中心になるか」、「改革の方法論」、「既得権益の再配分」などでは対立があり、激烈な対立が発生することになる。


 1817年、終戦の翌年に織田信城は幕府支藩の藩主と閣議の承認を経たうえで、征夷大将軍職を次男の織田信倫に譲った(織田信城は大御所にも就任せず隠居した)。長男は国民国家への移行に反対だったので次男の信倫が征夷大将軍職を継承することになった。既に、ナポレオンの影響で国民国家のことは議論の的であり、幕府は中央集権化と国民国家の構築を本格化させていく。九鬼派も蒲生派も時期が到来し、選択の余地はないと意見は一致していた。信倫は最高顧問に蒲生信訓を任命し(官房長官も兼務)、首相に原英吉を任命した。原英吉は台湾総督府でも副総督に任命されて、行政面でも評価が高かった。信倫、蒲生、原は改革を本格化させていく。主要な政策は次の通り。


 第一に、幕府陸海軍の制服をレンジャー部隊の制服に変更した(尖り笠とバフコートの色も緑に変更)。そして、士族軍の軍服を旧幕府陸海軍の黒の軍服にした。肩章は錦切れと織田木瓜のままだった。これは、重大な意思表示だった。士族軍は幕府の所属でも藩の所属でも他領では活動できないことになっていた(越境することができるのは、錦切れの制服を着用した幕府陸海軍だけだった。諸藩の陸軍も同様)。錦切れを付けたままの制服を採用したということは、士族軍が越境することを意味する。士族は幕府でも藩でも行政職を担っているので士族軍の越境は幕府の行政権を藩の枠を越えて行使することを意味する。幕府が中央集権体制の構築を公然と表明したことになる。諸藩は衝撃を受け、内戦の噂が飛び交い始めた。


 第二に、基本法に、天皇を中心とする中央集権体制の構築を明記した。信倫を始めとする幕閣は織田家が世襲する幕府が中央政府に移行できないことは承知していた。幕府陸海軍は諸藩の藩軍に比べて強力だったので、諸藩を薙ぎ倒すことも不可能ではなかった。しかし、それでは内戦の激化で国土が荒廃することは確実だった。それでは本末転倒であり、内戦を覚悟している幕閣も選択しなかった。このため、諸藩の態度を探るために中央政権の設立と国民国家への移行を明確にして諸藩の反応を見ることにした。多くの諸藩は幕府が独裁政権を樹立する気がないので安堵した。しかし、新政府の構築に主導権を握った者が権力と権益を握ることになるので、激烈な主導権争いが発生することになる。幕府は各藩の態度や実情を特別財務局によって探らせ、諸藩の値踏みを始めた。中央政府の樹立と国民国家の実現にあたって幕府に協力する藩を定めておくためだった。


 第三に、蒸気船の導入と補給体制の整備。幕府海軍はフランス戦が終わった後、蒸気船の導入を開始した。しかし、当時の蒸気機関の燃費は最悪な上に(蒸気機関の燃費は後の時代でも悪かった)爆発事故も多かった。このため、通常ならイギリス海軍のように採用を見送るところだったが、幕府海軍は諸藩との内戦を想定していた。帆船では風向きによって艦長の意図に関係なく浅瀬に向かってしまうこと、寄港中に風上になってしまい港から艦隊が出港できないことなどが起こるので艦隊の運用に制約を強いられた。幕府艦隊がジーベックを列国海軍に比べて多数、就役させていた理由だった。

 海岸線が長くて浅い港湾や狭い水道での機動が不可避な日本近海では蒸気船の運用が不可欠だった。このため、幕府海軍は多大なコストを覚悟した上で蒸気船採用を強行した。蒸気船を本格採用する前に、幕府領内の多数の港に給炭所を建設した。陸軍の蒸気機関車導入が困難を極めていたので保険の意味合いもあって幕府は多額の予算を幕府海軍の蒸気船関連予算に投入した。幕府海軍工廠は民間の造船会社とも協力し、逐一、蒸気船を改良して信頼性を高めていった。この努力により、日本帝国では世界に先駆けて軍艦や商船が蒸気船に更新されることになった。


 第四に、身分制度の改革。国民国家の創設に向けては、国民としての権利を与える必要があった。このため、身分制度の改革は不可避だった。1818年、身分制度の改革が開始された。まず、農民と町人が統合されて平民とされた。さらに、武士と士族も統合されて武士に一本化された。ただし、急に統合を行うと大混乱は確実だったので移行は30年を掛けて行われることになった。これは、国民を誕生させるための第一歩だった。幕閣はやがて武士の身分を廃止しなければならないことを想定していた。

 しかし、自分達が命令しても幕臣を含めて全国の武士や士族が納得しないことを承知していた。幕府は国民国家の創設と徴兵令の実施による国民軍の創設は天皇を中心とする中央政府に任せることにした。幕府は、これまで行われていなかった農民への教育にも力を入れ始めた。このため、農村部向けの学校を建て始めた。授業料は割安であり、次第に通わせる親が増えていった。


 第五に、中央政府の樹立に向けた移行計画の作成作業の開始。中央政府が創設されてから官僚制度などを考えていては大混乱が必死なので移行計画の作成が始まった。この作業は極秘であり、内閣官房で行われた。


 以上の様な主要政策を見ると、幕府は中央政府の創設と国民国家の創設に積極的だったことがわかる。しかし、幕閣は残念がっていた。幕閣が積極的だったのは、ナポレオンが示したように国民軍の物量と強さが圧倒的だったからだ。国民国家にならなければ、ヨーロッパ列強に敗北することは確実だったからだ。この頃のヨーロッパ列強はウィーン体制で現状を維持していたが、徴兵制による国民軍に対抗する手段がないので変革は不可避だった。


 このため、幕府はヨーロッパ列強に先んじて国民国家を創設して、ヨーロッパ列強に日本帝国と戦争することが割に合わないと思わせることが必要だと確信していた。もちろん、幕府が中央政府と国民国家の創設に尽力すれば、旧幕府派が権力と既得権益を握れるとの私益に基づいた打算も大きかった。ただ、この時期の幕府では中央政府と国民国家の詳細については検討中だった。このため、幕府による改革は始動したが歩みは遅かった。しかし、幕府が諸藩に先んじて改革を始動させたことにより、幕末の主導権は幕府が握ることになる。


 諸藩は幕府が中央政府と国民国家の創設に向けて公然と改革を始めたので狼狽した。幕府が天皇を中心とする国家体制を目指すことを基本法に明記したので少し安堵したが、どの藩が主導権を握るかで激烈な主導権争いが始まった。藩内でも暗闘が開始される。諸藩は取り敢えず藩軍の強化を始めた。しかし、多くの諸藩は武士が行政職を担っており藩軍が弱体化していた。有能な人材は幕府の補助軍に志願していることが殆どであり、そうした藩士の多くは幕府の海外領に住みついて藩に帰ってこなかった。門閥や能力主義一辺倒の人事に不満であり、藩が急に帰藩を呼びかけても帰ってくる筈もなかった。


 また、下手に官僚制度が発達していたために藩主や老中が人事権を行使できない藩も多かった(つまり、官僚の互選による人事で省益優先になる)。このため、幕府に比べて改革は遅れた。ただし、全ての藩が遅れたわけではなかった。また、諸藩は藩主がリーダーシップを発揮すれば(これが難しいが)、藩の改革を断行することはできたので一般的なイメージのように硬直していたわけではなかった。


 1823年、幕府は改革を進めていたが慎重だった。諸藩は模索の渦中だった。このため、幕府と諸藩は密議を重ね、互いに腹の探り合いをしていた。このため、表面上は平和だった。こうした中で、アメリカがモンロー宣言を発した(モンロー大統領が宣言したわけではなく、年次教書演説の中で示された外交姿勢がモンロー宣言と呼ばれた)。幕府はイギリスがモンロー宣言の趣旨に賛成していたこともあり、モンロー宣言を尊重した。この時期に、アメリカとの関係を改善している。通商条約を改正し、北太平洋や中部太平洋での捕鯨についても参入を認めた。


 1825年、日米不可侵条約が締結された。この日米不可侵条約で、幕府はアメリカ大陸に進出しないこと、太平洋でも領土を広げないことも約束した。引き換えに通商条約で、最恵国待遇、関税を一定額に留めることなどを認めさせた。幕府は内戦に備えて全ての火種を潰していった。清国の屈辱的な扱いは酷くなっていたが、幕府は無反応だった。幕府は「清国との貿易は自己責任で行え」との通達を出した。諸藩は反発したが、幕府が「戦争する覚悟があるのか」と言うと沈黙した。


 幕閣は激怒していたが、内戦に対する備えを優先して清との対決は先送りにしていた。このため、日本の商社は中国での保護を受けられなくなり、両国の貿易は激減した。幕府は外交関係を維持したが、日本船が難破した場合などに対応するためだった。こうして、戦争もなく経済も発展していたので幕府は改革を着実に進めることができた。この時期から産業革命の成果が明確になり、日本帝国の経済は一層、発展する。この時期の日本帝国の経済規模はイギリスに次ぐ世界第二位だった。平民は経済発展の恩恵を受けて所得を大幅に増やすことになる。最早、武士や士族も平民の力を無視することはできなかった。


 1827年、原英吉首相の任期が終わった。信倫は首相に福富博信(福富直正の子孫。赤字に陥り始めていた山丹総合会社に出向して社長に就任し、立て直しに成功した。その後は陸軍に戻り活躍)を任命した。福富博信は政策を基本的に踏襲した。幕臣達も急激な変化に戸惑っていたからだ。内戦になった場合は幕臣達の一致団結が不可欠だったので、福富は待つことにした。幸い、幕府は安全保障政策を担ってきたので幕臣達の理解は早かった。


 しかし、多くの幕臣は内戦に抵抗感があった。幕閣は中央政府と国民国家の創設は慎重に行っていく必要を理解していたので(何しろ約800年間、続いてきた武家社会を終わらせることになる可能性が濃厚)、改革を着実に進めることにした。福富博信の任期中に目立った変化は、1831年から鉄道の敷設が始まったことだ。結局、イギリスの蒸気機関車を導入した方が安上がりであり、この時期の蒸気機関車はイギリスの蒸気機関車のライセンス生産品だった。それでも、長年の研究のおかげで技術力の向上は早かった。鉄道レールの製造は既に始まっており、幕府は多額の予算を投入して鉄道建設を進めていく。これにより、物流が活発化して経済が発展した他、鉄道により軍隊の素早い移動が可能になった。当然、兵站も楽になる。

 幕府陸軍は鉄道による兵力移動や兵站の演習を重ねていく。同時に消防の充実や区画整理も推進された。内戦になれば放火が多用されることは確実であり、消防の充実、延焼の防止は不可欠だった。この時期の幕府の政治は比較的、地味だったが着実に経済力や軍事力の向上、政治制度の改革が行われていた。


 1837年、福富博信首相の任期が終わり、信倫は小西数馬(通商外交省の次官としてアメリカとの一連の条約を取り纏めるなど実績を挙げた。幕府の首相では唯一の文官出身者と思われているが、フランス戦中にロンドンで対外事務局の工作員の指揮官としてヨーロッパ系の工作員達を指揮していた。アメリカに赴任してからも現地にスパイ網を確立している。本当に小西家の遠戚かは不明)ロンドンを任命した。小西首相の時代は福富首相の時代よりも地味だった。これは、幕府が改革の成果が具体化するのを待っていたからだ。


 1848年にならないと身分制度の統合は完成しないし、鉄道の敷設なども完了していなかった。さらに、この時代は蒸気機関車や蒸気船に代表されるように技術の進歩が極めて急速だった。新しい技術のためには新型のインフラが必要であり、多額の投資が必要だった。このため、幕閣は経済発展を重視して内戦を先送りにした。諸藩の間でも議論が進み、藩上層部だけではなく中級武士、下級武士、士族でも国民国家の必要性が認められ始めていたことも重要だった。幕閣は内戦を決意していたが、内戦による戦災が少ないに越したことはないので、理解が深まるのを待つことにした。このため、小西の任期中、日本帝国は平穏だった。小西の任期中に鉄道による物流が本格的に始まった。海運も日本帝国の領海内は蒸気船が主流になった。しかし、台湾以西では帆船が海運の主役だった。幕府がヨーロッパ海軍による侵攻を警戒して貯炭所などを整備しなかったからだ。また、イギリスなども蒸気船の導入に消極的だったので1869年のスエズ運河開通までは帆船が海運の主役だった。


 1847年、小西数馬の任期が終わり、原英吉が首相に再任された。原英吉は中央集権体制の構築、国民国家の創設を本格化させる様に信倫に進言した。幕府の経済力、軍事力は充実し、幕臣達の理解も充分だった。1848年の身分統合の完了を待って新政府と国民国家の創設に向けた第一段階を始めるべきだと進言した。信倫も同意し、幕閣も賛成して閣議で決定された。


 当然、内戦に向けた準備も本格化する。軍事的に大きかったのがミニエー銃の配備開始だった。幕府陸海軍は内戦に備えて新兵器を渇望していた。このため、各種新兵器の購入や試験も積極的に行われていた。このため、1847年からフランス陸軍が使用し始めていたミニエー銃を同時期に幕府陸海軍も導入していた(ミニエー大尉に幕府の国防省は多額の報酬を支払っている)。ミニエー銃により、小銃の有効射程は画期的に向上した(幕府陸海軍のミニエー銃は種子島1847と命名された。口径は15㎜。有効射程は、対歩兵なら約300m、対騎兵なら約500m。幕府陸海軍は戦列ではなく、単兵と単騎を目標にして有効射程を決めていた)。また、ミニエー銃は従来のライフル銃と違って装填の手間は滑空式のフリントロック銃と同じだった(1分間に3発の発射速度で発砲できた)。


 なお、狙撃班とライフル銃兵部隊はシャープス銃の初期型を導入している。ミニエー銃に加えて、国防大臣の命令で幕府陸海軍の工廠はミニエー銃の原理を用いた前装ライフル砲を共同開発して採用した。幕府陸海軍は急速にミニエー銃と前装ライフル砲(艦砲、野砲、榴弾砲、山砲)の配備を進めて諸藩の藩軍に明確な差をつけた(幕府は従来と異なり、新兵器を諸藩に販売しなかった)。


 1848年、幕府領内の身分統合は完了した(幕府領内の身分は武士、平民、下民となる。これに伴って、士族軍は内務省軍に改編された。士族所と町奉行所も統合されて内務省治安局になった。農村部と非農村部の職業選択と移住の自由も認められた)。幕府はこうした軍事力を背景にして、1850年、中央政府の創設を発表した。諸藩に人材の出向を呼び掛けるとともに、版籍奉還を要求した。

 幕府は新政府に版籍奉還を行うことを発表し、幕府の官僚機構を委譲することも発表した。諸藩が版籍奉還をした後は征夷大将軍職などを廃止して織田氏も新政府の一員として加わると付け加えたことは当然だった。また、藩主は知藩事として其のまま藩を統治するが権限は諸外国の知事にまで縮小される。しかし、参与院が幕府の決定は無効だとの決議を発した。諸藩に対する処分なので参与院の決定に幕府は従うしかなかった。もっとも、信倫も原も参与院が否決することは百も承知していた。幕府の宣言は諸藩に対する事実上の宣戦布告だった。


 注目すべきなのは、参与院の評決で薩摩藩(島津氏)、安芸藩(鍋島氏)、筑前藩(羽柴氏)、丹後藩(近衛家)が幕府に賛成していることだ。このうち、丹後藩は幕府の事実上の支藩だから賛成するのは当然だった。しかし、丹後藩の近衛家は天皇や皇族に対して影響力が強いので幕府の構想実現には大きな力になった。薩摩藩、安芸藩、筑前藩の藩主達は中央政府と国民国家の創設に賛成であり、その意思を何らかの形で表明していた。このため、幕府から働きかけを受けると、直ちに賛成した。幕府は、中央政府の要員を幕府と此の4藩を中心にして構成すると決定した。薩摩藩、筑前藩、安芸藩は藩政改革も進んでおり、藩政も効率的で経済力も充分だった。


 このため、三藩の陸軍は強力であり、幕府陸軍にも対抗可能だった(丹後藩の陸軍は事実上、幕府陸軍と一体だった)。海軍は全国の諸藩を結集しても幕府海軍には遠く及ばなかったので問題なかった。原は薩摩藩、筑前藩、安芸藩からの出向者を幕閣に加えた(丹後藩は藩主が幕閣に加わっている)。特に目立ったのが、調所広郷で中央銀行総裁に抜擢された。同時に、幕府と四藩の間で維新同盟が結成された(軍事同盟と政策協定を含んだ内容)。


 多くの藩は幕府と4藩の動きに狼狽した。幕府が最近、表面上は中央政府と国民国家の創設に向けた動きを示してこなかったからだ。閣議で数人の閣僚が内戦の開始を主張した。「今こそ、内戦を開始すべきです。幕府の統治方針は天下布武です。今や、国民国家への流れは不可避です。しかも穏やかな改革である版籍奉還を多くの藩は拒否しました。これでは国民国家は実現できず、西洋列強に対抗するのは不可能です。最早、内戦の時です。幕府陸海軍は最強であり、外国の干渉の恐れもありません。今こそ、好機です」との意見が出た。

 信倫「却下する。戦争は孫子も言う通り軽々しくすべきではない。勿論、躊躇は死への道だ。他に実行すべき方策がある。参与院で版籍奉還の承認を得ることを目指して提出を続け、各藩に働きかけて自発的な奉還を促す。そして、賛成する諸藩を増やしていく。この過程で反対派を炙り出し、反対派が少数になったら内戦を開始する。運が良ければ、内戦は回避できる。勿論、諸藩が拒み続けるなら内戦だ。しかし、手段と目的を混同してはならない」。

 「上様、内戦に慎重なのは結構です。しかし、上様の方策は複雑化し躊躇となる恐れがあります。それよりは幕府、薩摩藩、安芸藩、筑前藩、丹後藩の連合軍で内戦を開始した方が良いです。今日の優勢は明日には変化します」との意見が出た。

信倫「確かに幕府と4藩の連合軍で諸藩を薙ぎ倒すことは可能だ。勝利はできるだろう。しかし、それを行えば参与院を破壊することになる。新政府には正当性が必要であり、武力を安易に行使すべきではない。新政府を樹立して議会を構成しても、参与院が破壊されたとの前例が残れば不安定になる。必要もないのに武力を行使すれば、新体制も暴力によって打倒しても良いとの認識が暗に形成される。将来、徴兵制を実施する以上、この弊害は無視できない。エドマンド・バークは時効を重視し、制度の変更に極めて慎重だった。そして、幾世代にも亘る入念で慎重な選択、言い変えると承諾も重視していた。

 参与院は機能してきた制度であり、幕府も諸藩も承諾していた。幕府が効率的だったのも参与院による抑制が大きい。幕府は諸藩の謀反を心配することなく意見を聞くことが出来たし、諸藩も決定に従った。諸藩も幕府に謀反の疑いを懸けられることなく、幕府に意見したり処分を修正することができた。このように、有益な制度を破壊することは絶対に避けなければならない。また、効用が少なくてもバークの言うように、時効と承諾を重視しなければならない。

 さもなければ、中国の易姓の革命の様に無限ループに陥ることは確実だ。人間の知恵は限られている上に、正義の基準は個人によって異なるからだ。フランス革命が証明した通り、時効と承諾の支えがない新体制は暴力次第で覆せるのだ。フランス革命で実現された民主主義体制を誰も命を懸けて守ろうとはしなかった。ナポレオンの帝政が歓迎されたのは当然だ。圧倒的多数が革命の終わりを望んだし、誰も正しい体制が何なのか分からなくなっていたからだ。ナポレオンの一番の功績はフランスという国家を安定させるために、兵士達を代表して革命を鎮圧したことだ。我々はフランスを反面教師とし、バークらの忠告を真摯に受け止めるべきだ。このことを忘れれば、我々が日本版のフランス革命か易姓革命を起こすことになるぞ。バークの言う通り、変更を加えるのは保守するためだけだ」。

 幕閣と4藩の代表者達は信倫の言に同意した。このため、内戦の開始は先送りされた。4藩の代表者達は、内心、安堵した。


 当時、幕府陸軍にはナポレオンの信奉者が多数、存在していた。彼らは内戦により中央政府を樹立し、逆らう藩は全て潰すことを主張していたからだ。彼らは「ナポレオンが没落したのはオーストリアを分裂させなかったからだ。ナポレオンの二の舞にならないように、少しでも逆らう藩は潰すべきだ」、「織田氏は武力によって天下を統一した。内戦は中央政府の正当性を弱めない。寧ろ、勝利の栄光によって中央政府の門出を飾る」などと主張した。信倫を始めとする幕閣も内戦を決意していたし、織田幕府の基本方針は天下布武だった。しかし、幕閣は信倫を始めとして中央政府の正当性を心配していた。天皇を抱え込んでいる幕府を中心に創設される新政府が謀反の心配をする必要はない。諸藩が逆らったとしても大義名分がない以上、藩同士の同盟は団結を欠いてしまう。


 幕府は、内戦に関しては勝利の確信があった。しかし、内戦の後で中央政府を創設した後が問題だった。徴兵制を敷いて国民軍を創設するとなると、多数の兵士を納得させる正当性が不可欠だった。さもないと、フランス革命の様に暴力で政権が転覆させられることが確実となると危惧していた。このため、参与院で承認を得る方向で事を進め、できるだけ多くの大名の賛成を取り付けるように努めることにした。内戦を早期に終結させるためにも、味方の藩が多いのは得なことだった。内戦が目的ではなく、中央政府と国民国家の創設が目的だからだ。

 幕閣は他に方法がないと確信していたし、国土が荒廃しては中央政府の政策が困難になるからだ。幕閣は既に廃藩置県と武士の身分の廃止も避けられないと判断していた。そうなると、内戦の再発は避けられないと判断されていた。流石に国家が崩壊する恐れもあり、慎重になるしかなかった。こうして、幕府、丹後藩、薩摩藩、筑前藩、安芸藩は諸藩に支持を広げていくことに全力を傾けていく。


 信倫を始めとする幕閣は、常にフランス革命の二の舞を避けることを肝に銘じていた。国民国家、徴兵制による国民軍はフランス革命との共通要素だからだ。フランス革命のような革命の連鎖に陥る可能性は常にあった。フランス革命はヨーロッパ版の易姓革命と、幕府に断定されていた。全く、立憲的ではなかったからだ。


 1792年、フランス革命政府の一院制議会である立法議会は1791年憲法を廃止してしまう。定員745名のうち、248名しか出席しておらず、373名以上でないと議決できない憲法の規定に反していたにも関わらず廃止された。次に、新憲法制定のための国民公会が設置された。しかし、国民公会は1795年8月まで約3年間もの無憲法状態を選択した。国民公会は公安委員会と革命裁判所を設置して恐怖政治を展開していく。そして、ジロンド派を抹殺したジャコバン派は公安委員会で起草した憲法を国民公会に提出した。そして、二週間の審議で可決した。しかし、呆れたことに、国民公会は「平和回復までフランス臨時政府は革命政府である」と定める法律でもって、この憲法を施行しなかった。こうして、ジャコバン派はテルミドールのクーデターまで恐怖政治を行った。しかし、ジャコバン派の行動はシェイエスやラファエイトなどが行ったフランス革命初期の行動と本質は同じだった。


 なぜなら、三部会から離脱した第三身分による「憲法制定国民議会」の行為と程度は別にして同じだからだ。こちらも暴力を大々的に用いて軍隊を味方につけて権力を掌握している。国民公会の審議が常にジャコバン派の群衆によって威嚇されていたのもフランス革命の思想では合法だった。「国民の意志」が「至上至高の法」とシェイエスは主張し、ジャコバン派以外の革命派も賛同して行動原理としていたからだ。しかも、テルミドールのクーデターの後の選挙で王党派、王党派に近い一派(総裁政府の多数派は王党派に分類したが)が多く当選したことからもわかるように、シェイエスのいう「国民」が国民の多数派かは疑問だった。そもそも、多数派だから(もしくは多数派に見えれば)手段を選ばなくても良いがフランス革命に参加した革命派の共通した行動理念だった。立憲政治が行えるわけもなかった。このように、無法を基本とするフランス革命を幕府や諸藩が嫌悪したのも当然だった。


 一方、フランス革命の混乱を収拾してフランスを大きく発展させたナポレオンに対する評価は高かった。ナポレオンが徴兵制の軍隊を良好に統制し、優秀な警察機構を活用して国内を安定させたことは幕府にとって良い参考になった。心配したイギリス政府が代表団を本国から送ってきた程だった。多くのフランス兵が幕府陸海軍の外国人部隊に採用された。特に、フランス人の砲兵隊員に対する評価高かった。こうしたフランス人兵士から幕府陸軍や幕府海兵隊にナポレオン崇拝の空気が伝染したのは当然だった。


 特に、幕府陸軍では織田信倫にナポレオンの役割を期待する声が大きかった。幕府陸軍の将官達の数人は信倫を皇帝とし、天皇陛下を「日本国民統合の象徴」としてしまえば良いとの趣旨の意見書を幕閣に提出していた。

 しかし、幕府は次のような訓示を全ての幕臣達に発した。「幕府による中央政府と国民国家の創設にあたって、確認すべきことがある。幕府がナポレオンを目指すことはない。確かに、ナポレオンは偉大な皇帝であり偉大な軍人だ。しかし、ナポレオンはフランス革命を起こしてしまったフランスを統治した皇帝であり、日本帝国が目標にすることは有り得ない。ナポレオンは徴兵制による国民軍と国民国家の統治方法の参考だ。エドマンド・バークの言うように、国体を我々の尺度に従って理解し、直ちに理解できなければ崇拝すべきだ。公が言われたように、未来の人間から見れば我々も愚か者にしか見えないからだ。よって、過去の人間より我々が賢人であるというのは妄想に過ぎない。中央政府と国民国家は必要性から採用すべきシステムであって目標ではない。徴兵制による国民軍に対抗できる軍事システムは見当たらないからだ。我々は祖先と子孫のために改革を実行するのであって過去を破壊するためではない。過去を破壊すれば、全ての保障は消滅して自然界の弱肉強食の論理が全てになる。この様な社会で我々は安泰であることはできないし、祖先と子孫に対して申し訳がない。我々が行う改革は過去を未来に継承していくための改革であることを忘れてはならない」。


 幕府が、このような訓示を発表したのは徴兵制による国民軍の創設に当たって議会の創設も不可欠だと判断していたからだ。選挙権なき徴兵兵士は奴隷兵士でしかなく、恐怖でしか戦わない。そうした兵士で構成されてきたインドや東南アジアの軍隊がヨーロッパの常備軍に敗れてきたのを目の当たりにしてきた幕府陸海軍の将官達にとって、選挙権を与えずに徴兵制を実行するなど問題外だった。ナポレオン体制はフランス革命の混乱ゆえに議会を無視できた特殊な体制であることを幕府は理解していた(ナポレオンも議会を廃止してはいない)。さらに、恩賞を与えずに義務だけを課すことが謀反を誘発することは武士の常識だった。天下布武を基本とする織田幕府であったが故に、中央政府と国民国家の創設に当たっては幕藩体制の解体と議会の創設が不可避であることを納得されていたのだった。


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