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幕府による朝廷の完全掌握と帝国の拡大

1735年、九鬼鷹信は大老に再任された。早速、天皇を名古屋に移したかったが、財政赤字が増えていたことや新名古屋城建設が終了したことなどに起因する景気後退が発生していたので延期した。

1745年まで恒例の政策を実行し(武士階級だけの倹約令、フラット税制、特定財源の廃止)、財政再建と景気回復に努めた。また、失業者を幕府陸軍工兵部隊に指揮させて公共事業で臨時雇用している。これまでの幕府の公共事業は失業者救済を目的としていなかった。利権化しない様に、幕府陸軍工兵隊に指揮させて幕府領の失業者を雇っている。幕府陸軍工兵隊は無料で失業者の訓練も行っている。1738年から景気が上向き出したので徐々に規模を縮小している。事前に予告された通り、1741年で終了。当時は、インフラの整備が途上にあり、其れなりに有益だった。この政策は応急措置として効果的であり好評だったが、幕府陸軍工兵部隊は「我々は土建屋じゃない」などと不満たらたらだった。


なお、1740年から始まったオーストリア継承戦争では、英蘭両国との条約に基づいた対応をとった。ただし、今回も条約以上の対応は断っている。九鬼は国内政策を優先していたし、イギリスが接近してく ることも警戒していた。このため、フィリピンも海上封鎖しただけで幕府艦隊は攻撃しなかった。幕府と現地のフィリピン総督府は協議を重ね、現地のオランダ当局やイギリス当局も加わって極東で休戦協定が成立した。趣旨は次の通り。スペインはフィリピンにあるスペイン船を全て日本帝国に引き渡す。その代り、ポルトガル船が物資をフィリピンに輸送する。費用はスペインが支払う。幕府海軍が監視を行い、海上封鎖を続ける。以上の趣旨に英蘭両国も同意した。戦力を分散させたくなかったからだ。前回のスペイン継承戦争でも、早々にフィリピンは幕府海軍によって海上封鎖されて脅威にならなかった。それに、日本帝国は英蘭両国の戦時国債の引き受け国として最大の購入国だった。


 つまり、英蘭両国のスポンサーでもあった。幕府が派遣していた日本人部隊、ヨーロッパ人部隊、インド人部隊は英蘭両国の東インド会社の部隊に所属してインドや東南アジアの英蘭領を守備し、両東インド会社が行う侵略にも役立っていた。また、幕府陸軍部隊も戦時はインドに派遣されて英蘭軍の指揮下で戦闘を行った。前回のスペイン継承戦争でインドからフランスの勢力が駆逐されたのは、幕府陸軍部隊の活躍に負うところが大きかった(主に軽歩兵部隊として活躍した)。


 以上の理由で、英蘭両国も幕府の意見を尊重した。また、日本帝国の態度は英蘭両国にとっても都合が良かった。東南アジアや北東アジアで平和裏に経済活動が営まれていることは、両国にとっても得なことだった。日本帝国の全面参戦を恐れてフランス海軍などが攻撃してこないし、私掠船も不活発だった。私掠船は自国以外の船は構わず、襲撃する傾向があったが幕府海軍は適宜、討伐していた。さらに、フランス当局が賞金を出さないし、海賊と見做してフランスとは無関係として対応するとしたので私掠船も来なかった。北東アジアや東南アジアも英蘭にとって重要な市場になっていたので平和は得なことだった。こうして、今回も東南アジアは平穏だった。幕府は例の如く軍事援助と資金援助を行ったが、今回は資金援助が中心だった。既にインド方面からフランスは駆逐され、スペインはフィリピンでは休戦状態にしていた(本国政府も総督府の措置を追認した)。


このため、資金援助が中心であり、戦費の負担は少なかった。景気が上昇し始めた時期と重なったこともあり、財政赤字が増えるどころか財政黒字が増えた。戦時景気も追い風となった。九鬼は財政黒字が蓄積された1739年から天皇を名古屋に移す準備を本格化させた。そして、1740年4月1日、幕府陸海軍が各地で大演習を行う中(演習開始は3月27日から)、戒厳令が発動された。天皇の行幸時は戒厳令が発動されることは普通だった。このため、諸藩も朝廷も不審に思わなかった。


 信春は小西などと共に幕府第1艦隊の閲兵を行っていた。旗艦の艦長室に入ると、信春、小西、大艦隊の指揮官の竹崎中将、旗艦の艦長である大佐、各諜報機関や幕府陸海軍および士族軍などの佐官達(幕府海軍の制服と階級章を着用)、将軍直属の憲兵隊の将校8名(室内の警護役)以外は部屋から出された。艦長の大佐が同席を許されたのは海軍の慣習として艦長は艦で起こることを全て把握しているのが普通なので席に招かないと却って不自然だったからだ。


信春「さて、小西。計画は動き出した。私の感触では成功確実だ。しかし、全てを保障できるのは神のみだ。御前から見て現時点で不都合は発生しているか?」。

小西「いいえ、上様。万事は今のところ、順調です。しかし、私の視点と洞察力だけで判断するのは禁物です。各機関の佐官からも意見を聞くのが肝要です。まあ、上様には釈迦に説法ですが。しかし、不都合ではありませんが気になることが有ります。薩摩藩の家老が1月8日の会見を申し込んでいることです」。

信春「ああ、あの約束か。表向きには天皇が名古屋城に入城するのは15日だから不自然でもあるまい。断ると怪しいから承知しておいた。それに、8日は事が終わった後だ」。

小西「しかし、無視するのは危険です。薩摩が反幕府で動くと、極めて厄介です。幕府陸海軍と各諜報機関に警告して警戒態勢を強化すべきです」。

信春「いや、計画通り進める。小西、御前の助言は他の状況では適切だ。しかし、計画には諸藩が察知した場合も想定しておいた。現状で計画を急に変えれば、幕府陸海軍や士族軍などが少なからず混乱する。上層部以外には計画の全容を伝えていないからな。そうすると、却って計画の真意を暴露する結果になる。幕府陸海軍の練度を考慮すれば、現段階で薩摩藩が動いたとしても何の問題もない。各諜報機関も諸藩を抜かりなく警戒しているから計画変更をする必然性はないのだ。よって、異例な事だが計画は変更しない。しかし、情報は伝達しておけ」。

小西「上様、流石です。今、私は計画の成功を確信しました。後は各部隊に期待し、万が一に備えるだけです。しかし、万が一は起らないでしょう」。

信春「小西、御前に言われると実に心強いぞ。しかし、各員に再度、強調しておく。今回の計画不変更は異例の措置だ。絶対に、前例や教訓などにしてはならんぞ。各員、直ちに記録しておけ。忘れるな。小西の提案が大半の場合は正解なのだ。計画だけで全てが上手くいくなら二等兵だけで充分なのだ。土壇場でも躊躇は駄目だが変更は躊躇うな」。「上様、諒解いたしました」と出席者の全員が応えて信春に敬礼した。信春は満足して敬礼を返し「では各機関からの現況報告と意見を聞こう」と各機関の説明を促した。その後、信春を始めとする出席者達は3時間以上、話し合った。


その後、出席者達は通常の日程に従う振りをして別れた。既に、事態は進行していた。幕府陸軍と士族軍が各地で配置に就く。黒服の幕府陸軍歩兵部隊が進軍していき、各所に構築された陣地に増強されていく。幕府陸軍の騎兵部隊と歩兵部隊が街道や山などを巡回し、家や林などを隈なく点検する。茶色の服の士族軍が検問を開始する。沖合では幕府海軍が船舶の臨検を開始する。しかし、天皇の行幸時には見慣れた光景だった。誰も不審に思わない。当の幕府陸海軍や士族軍の大半も通常の事だと思っている。しかし、幕府の狼煙台から狼煙が一斉にあげられ、憲兵隊によって号砲が各地で5発ずつ撃たれた。


 そして、異様な光景が始まる。各陣地に続々と砲兵隊が配置される。これまでも一部に砲兵隊が配置されることもあったが、明らかに戦闘配置だ。工兵隊が陣地の増強を始め、輜重隊が続々と軍需物資を護衛付きで運んでいく。各地の旅団司令部では合図を報告された旅団長が憲兵隊の将校から作戦計画書の入った鞄を受け取る。そして、全員に作戦の全容を伝達した。旅団長から「上様はルビコン川を渡った。我らも続く。静かに作戦書類を見ろ」などと言われて作戦書類を渡された。作戦書類には「賽の規格化」と表紙に記されていた。其々が読んでいった。部下の将校達は大半が驚きつつも静かに喜び、旅団長に敬礼した。


 沖合での幕府海軍の艦隊で戦闘配置が告げられた。ただし、鐘は鳴らされず、将校が巡回して「艦長から訓示がある。静かに集合せよ。訓示が終わっても騒ぐな」などと言って兵員を集合させた。水兵達や海兵隊員達は下士官も含めて通常と違う将校達の行動を怪しみながらも命令に従って集合した。各艦で艦長が計画の全容について全乗員に告げて訓示を行った。水兵達や海兵隊員達は驚いて戸惑っていた。下士官達は驚きつつも喜んだ。彼らにとって主君である織田信春の方が天皇陛下よりも大切だったのだ。艦長は下士官や兵士の反応に満足し、作戦開始を告げた。総員が敬礼をし、艦長が答礼した。そして、各員が配置に就いていった。こうして、幕府陸海軍と士族軍は1日の夕刻から本格的に作戦行動を開始した。


幕府陸軍と士族軍が各所に進撃する。各部隊は所定の作戦行動に着手した。京都では全ての公家が外出を禁じられ、軟禁状態に置かれた。各藩の藩邸、郵便局、船着き場、馬車駅、港、船着き場、印刷所、新聞社や瓦版屋などの報道機関、集会所、各国の外交施設の周囲などにも幕府陸軍と士族軍が配置されて封鎖した。各施設で憲兵による厳重な検問が始まり、大渋滞が起こった。各藩の藩邸、印刷所、新聞社や瓦版屋などの報道機関は実質的に軟禁状態となった。当然、郵便も差し止められた。馬車や馬での通行は幕府陸海軍と士族軍以外は禁止された。乗っていた者は強制的に降ろされた。京都への通行は鳥羽と伏見以外は禁止され、他の長城の門は閉じられた。水路の通行は厳禁された。


 特に異様だったのが幕府陸軍と士族軍が柵、杭、土嚢から成る陣地を各地に増設されたことだった。黒服と茶色の将兵が各地に展開し、砲兵隊も配置されたのは異様だった。天皇の行幸時は各地で厳戒態勢がとられるのは普通だったが、砲兵が配置されることはなかった。各地で合図の狼煙が上がる。


4月2日、幕府陸軍の教導歩兵連隊と教導騎兵連隊が護衛した天皇の行列が出発した。天皇の行列は行幸する予定だった土地を素通りして新名古屋城に直行した。天皇は4月6日、新名古屋城に入城した。天皇の行列が入城すると、新名古屋城の門は全て閉じられた。信春は天皇の行列が入城したのを確認すると「さて、これで事は成った。祝砲だ!日本帝国が中央集権国家への第一歩を踏み出した事への記念に相応しくな!」と命令した。新名古屋城から101発の祝砲が撃たれた。


 まず、名古屋城下で幕府陸海軍の将兵と士族軍の将兵から歓声が上がった。狼煙と早馬で各地の幕府陸海軍と士族軍にも伝達された。各地の部隊で歓声が上がり、旅団ごとに21発の祝砲が撃たれた。最初、展開していた幕府陸軍と士族軍の兵士の多くは未だに計画の全容を知らされていなかったので戸惑っていた。しかし、憲兵隊がパンフレットを大隊ごとに配布して将校達が説明した。暫くしてから各部隊で歓声が上がった。幕府陸海軍と士族軍の将兵は「幕府万歳―。日本帝国と幕府に栄光あれー」などと叫んだ。


陸海軍の上層部、国防省の上層部、士族軍の上層部、諜報機関の上層部、幕閣以外は今回の計画を知らされていなかった。真相が伝わると、幕府の各機関でも歓声が上がった。沖合の幕府艦隊も21発の祝砲を旗艦が撃った。

 祝砲が木魂する中、小西が「上様、おめでとうございます。日本帝国と幕府にとって偉大なる一歩が踏み出されました」と述べて敬礼した。部屋の全員も小西に続いて敬礼した。

 信春は答礼し「諸君、ありがとう。私は幸運だ。諸君は完璧よりも実行を優先する。しかし、多くの人々は完璧を追求して何もしない方を選ぶ。諸君の様な人材により、幕府は天下を制している。同時に、日本帝国も繁栄している。諸君は大いに誇ってよい」と述べた。

 小西は「我々が活躍できるのは織田家と織田幕府の御蔭です。日本帝国と織田幕府の利益は一致しています」と述べて再敬礼した。信春は答礼し、小西と固い握手を交わした。他の高官達も敬礼と握手を信春と交わした。一頻り、御祝いを高官達が述べると、小西が「さて、諸君、御祝いは勝ってからにしよう」と述べた。信春は満足げに頷き、高官達は職務を再開した。幕府内が歓喜している頃、他では混乱が発生していた。


祝砲が各地で撃たれ、場所によっては轟音が木魂した。このため、複数の地域でパニックが起こった。既に「幕府陸海軍を中心としたクーデターが起こった」、「第二の本能寺の変が起こった」などの噂が乱れ飛んでいた。イギリス大使は既に自国民の救出のための艦隊派遣要請をシンガポールに送っていた。他の国も同様でイギリス、オランダ、ポルトガルの外交官達は共同で三国の邦人退避の協力協定を急遽、結んだ。


 国内の諸藩は尚更だった。各諸藩は厳戒態勢を敷いた。既に「信春公などが処刑された」との噂も流れていた。こうした雰囲気の中で祝砲の轟音が各地で轟いた。各地の都市、町、村では内戦が始まったと思った人々が荷物を抱えて避難を始めた。主要な街道が封鎖されていたので、避難民は山などに逃げた。銀行では取り付け騒ぎが起こった。しかし、幕府陸軍や士族軍が対応した。混乱は想定されており、対応は迅速だった。秩序は回復されていった。幕府陸軍と士族軍の歩兵部隊と騎兵部隊が巡回して泥棒や不審者などを拘束し、天皇が名古屋城に入城しただけであることを告げて回りパンフレットを配った。騎兵がパンフレットをバラ撒き、各所で立札が立てられた。銀行には現金を積んだ馬車が幕府陸軍や士族軍に護衛されて到着し、現金を積み上げていった。こうしてパニックは収まり、暫くしても何も起こらないので避難民も家に帰った。


報告を聞いて信春は満足した。信春「小西、騒ぎが起こったのは寧ろ良いことだ。事態が不明確なら反幕府派は的確な動きが起こせまい」。

 小西「しかし、上様、騒ぎが大きくなり過ぎです。現に、イギリス、オランダ、ポルトガルは自国民の避難を始めています。騒乱が起こった印象を持たれると、経済にも悪影響が出ます。早々に各国の大使館に書簡を送り、各国の大使を呼んで会見なさるべきです。既に、羽柴外務大臣が書簡を各国の大使館などに送っています。更に各国の大使とも順次、会見しています。しかし、上様も同様の措置を取るべきです」。

 信春「そうだな。早速、御前の提案通りにしよう。それから、諸藩が抗議してくるだろうが私は会わんぞ。御前も会うな。頭の血が引けば、幕府の軍事力と経済力を再認識する。諸藩は幕府に従うしかないのだ。しかし、薩摩藩の家老には予定通り会うことにする。薩摩藩は今回の計画を察知していたかもしれんからな」。

 小西「上様、それが良いでしょう。薩摩藩は他藩と違って落ち着いているのは明らかです。流石は武を実用的に重視している島津家です。武士を観念的に捉えて火器を軽視している多くの藩とは違いますな。上様、薩摩藩を如何に遇しますか?」。

 信春「将来の中央政府に参画させた方が幕府にとって得だ。薩摩藩は地理的にも軍事的にも侮れん。それに、織田家の独裁で中央政府を形成しようとすれば、内戦が大規模になる。中央政府の創設に賛成する藩を取り込んでいく方が良い。薩摩藩とは考え方が合いそうだしな。薩摩藩が計画を妨害しなかったのも其れを期待したからだろう。御前の意見は?」。

 小西「上様の御考えに賛成です。内戦で日本帝国が荒廃しては何にもなりません。厄介な薩摩藩が幕府に味方するのは良いことです。上様、会見の際、薩摩藩が何を望むか明白にさせるべきです」。

 信春「そうしよう。それから、朝廷や他の藩にも油断するなと各機関に伝達しろ。では、各国への書簡を書くから文面の検討を始めよう」。こうして、幕閣は祝いをする間もなく対応に追われた。


翌日、事態が明白になると名古屋の諸藩の代表者達は怒り出した。天皇が名古屋城にいることは朝廷が幕府に吸収されることを意味するからだ。諸藩の運命も幕府の判断次第となる。諸藩の怒りは信春などの幕閣が面会を拒絶して次官などに説明させていたので否応にも募った。議論は熱くなる一方であり、諸藩は連名で抗議しようとした。しかし、薩摩藩の家老は「我が薩摩藩は同調できない。今回の事態は、幕府が朝廷を吸収していたことを明白にしただけだ。実質的に、何の変化もない。抗議して幕府との戦争になっても良いのか?」と述べた。諸藩の代表者達は沈黙するしかなかった。


 信春は各藩の態度に満足して7日に各藩の代表者達と謁見を行った。信春は各藩の代表者達に対して、幕府と各藩の関係には何の変更もないことを確約した。そして、それを記した起請文を各藩の代表者達に渡した。諸藩の代表者達は納得するしかなかった。こうして、「賽の最適化」作戦は成功した。天皇は済し崩し的に新名古屋城に居住し続けることになる。天皇陛下は天守閣を備えた本丸部分に居住するようになった。天皇陛下の側近や従者なども新名古屋城に移り住んでいく。公式には御所は移転されなかったが、天皇が名古屋城にいることで自然と名古屋が首都であると認知された。

 1740年以後、幕府の外交文書や地図などでは名古屋が首都であると記載された。諸外国には4月15日から、首都移転の通知が送付された。朝廷は丹後藩(近衛家が当主。事実上、幕府の支藩であり閣僚に任命されるのが慣例だった。今回、正式に幕閣の常任となった)の藩主が武家伝奏として運営することになった。


諸藩は猛反発したが、既に幕府に対抗できる軍事力はなかった。幕閣は今後の対応を協議した。九鬼「上様、他の幕閣の皆様。一気に朝廷と幕府を融合させた中央政府を創設すべきです。今回の件で幕府の狙いは明確になりました。躊躇していれば、抵抗が増すだけです」。

 蒲生「反対だ。人心が荒れているし、中央政府の創設は早すぎる。確かに、躊躇すれば抵抗は増す。しかし、中央政府が全国を効率的に支配できる通信手段と交通手段が開発されていない。この状態で政府の規模を大規模化すれば腐敗が蔓延るのは確実だ。中央政府の創設は手段に過ぎない。九鬼殿の申されるとおり、躊躇は好ましくない。しかし、私は着実に前進することを提案する」。

 小西「私も蒲生殿の意見に賛成だ。蒲生殿の見解に加えて、中央政府を創設する大義名分がない。イギリスやフランスなども、今のところは日本帝国に脅威となる位置までは接近していない。これでは、日本帝国で支持を得ることはできない。確かに、人気を得ることが目的となってはいけない。しかし、実行の前には幕臣全体に目的を周知させる必要があるし、内戦は短いに越したことはない。避けられる戦は避ける必要がある。中央集権化の目的は、イギリスやフランスに対抗することだ。内戦が目的ではない。

 そして、中央政府に重要なのは人材と金だ。今や、幕府の財政能力は高く、景気変動にも対応できる。そして、内戦のための資金も充分に調達できる。内戦の後、国土を復興させるのにも充分だ。しかし、人材のためには大義名分が必要だ。確かに幕府は日本帝国内で優秀な人材を最も多く抱えている組織だ。しかし、幕府陸海軍にも諸藩の人間が大勢、補助軍として入隊していることを忘れてはならない。さらに、幕臣達も内戦には抵抗があるだろう。幕府の力を最大限に発揮するには、幕臣達を一致団結させなければならない」。

 九鬼「小西殿も蒲生殿の御懸念は尤もだ。しかし、何事も相手がいるのを忘れてはいけない。諸藩は馬鹿じゃないことは御存知だろう。今は、軍事力が隔絶していても将来は違う。今が好機なのだ。それに、幕臣達の忠誠心と実力を見縊ってはいけない。上様と我らが全力を尽くせば、彼らは期待に応えてくれる」。

 小西「勿論、幕臣達は不本意でも命令に従うことは確実だ。しかし、組織としての能力を最大限に発揮するのには一致団結が必要だ。そのためには大義名分が必要不可欠だ。幕臣の士気に配慮を忘れてはいけない。次の事は納得していただけるだろう。最も金を持った組織が勝つのではない。金を巧く使う人材を多く登用している組織が勝つのだ。それは、幕府だ。そして、諸藩が努力を続けても幕府が改革を続ければ諸藩は追いつけない」。

 小西の意見に信春も賛成し、当分の間は現行の体制を続けることが決定された。この閣議の後、信春は薩摩藩の家老と会見した。そして、幕府への協力に謝意を述べ、幕府が管轄する山丹総合会社などの株式を平均で3%ずつ譲渡した。代償として、将来への中央集権化に協力させ、恩賞なしでの薩摩陸海軍の出兵を確約させた。これ以後、幕府は各藩に働きかけ、有力藩を幕府に取り込み中央集権化への布石としていく。


多くの藩は幕府が天皇を強引に名古屋城に移し、事実上、遷都を実行したことに疑惑を懐いた。「幕府は諸藩を打倒してヨーロッパの王朝に似た中央集権体制を確立しようとしているのではないか」との疑念が発生し、絶滅状態だった反幕府派が発生した。このため、諸藩は軍事力の強化を検討し始めた。しかし、諸藩が討幕の準備を始めたわけではない。多くの諸藩は久しく戦争の脅威から遠ざかっていた。このため、武士の大半が行政職を務めている藩が多かった。このため、数字上は充分でも実際の軍事力は貧弱だった。幕府陸海軍と違い、諸藩軍は訓練も不充分で武器弾薬の備蓄も少なかった。演習や実弾訓練の度に「弾がないのが、たまに傷」と自嘲するのが多くの諸藩軍の将官達の常だった。


 その上、武士が行政職を担っているということは多くの兵士がプロでないことを意味する。このため、武士道が観念化して火器を軽視するようになっていた。一応、当時のヨーロッパの戦列歩兵部隊と同様の装備だった。しかし、諸藩軍には幕府陸軍のようにライフル銃兵部隊を編成しておらず、戦列歩兵部隊は横列の密集隊形による戦術しかできなかった。このため、諸藩軍の歩兵部隊は火力と柔軟性で明確に劣っていた。


 戦列歩兵部隊の基本的な能力でも劣っていた。幕府陸軍の戦列歩兵部隊は射撃速度が1分間に3発で戦闘中も、それを維持した(訓練では1分間に4発)。方陣を組まなくても対騎兵射撃で(ヨーロッパの戦列歩兵部隊でも模範とされるような大隊もしくは中隊での横列射撃)、インド諸侯軍の騎兵部隊を撃退していた(損害の多い場合を除いて方陣を組まなかった)。諸藩の藩軍は幕府陸軍戦列歩兵部隊の能力に及んでいなかった。射撃速度は訓練では3発だったが、幕府陸軍の戦列歩兵部隊と違って完全装備でない上に、行軍していない状態で訓練していた。


 このため、補助軍に志願した諸藩の兵士達(全て武士)は幕府陸軍方式の訓練を受けると(完全装備の上で1時間、横列で行軍する。次に、分隊ごとで30分間、基本動作をさせながら軽く走らせたうえで射撃訓練を開始する。実戦と同じように、横列、小隊、分隊の隊形で射撃訓練を行う)、射撃速度が平均で1分間に1発まで低下した。騎兵部隊も必要以上に怖がっていた。このため、徹底的に再訓練を受けさせられる羽目になっている(砲兵部隊と騎兵部隊の兵士達も似たような状態であり、同じく再訓練を受けさせられた)。さらに、砲兵部隊と騎兵部隊も規模と練度(特に諸兵科連合能力は幕府陸軍が圧倒的だった)で幕府陸軍が圧倒していた。辛うじて、幕府陸軍に対抗できたのは、薩摩藩(島津氏)、安芸藩(鍋島氏)、北陸奥藩(北条氏)の陸軍だが劣勢だった。


 海軍はさらに力の差があり、幕府海軍は世界でもトップクラスの海軍力を誇っていたのに(軍艦が現役艦135隻、予備艦115隻。有事になると、輸送艦などとして武装商船が加わる。有事の際は山丹総合会社などの官営会社の戦隊と商船隊も編入)、諸藩の海軍は実質的に形骸化していた(最大の戦力の安芸藩でも軍艦が現役艦2隻、予備艦が3隻。平均戦力は現役艦1隻、予備艦1隻。補助として、武装商船が海上警察任務をしていた)。この状態で謀反を考える藩が出現するはずもなかった。しかし、多くの藩は幕府の姿勢に危機感を深め、再軍備に着手した。


ただし、再軍備が直ちに討幕を意味したのではない。全ての藩の再軍備は自衛が目的だった。幕府打倒を目的とした意図もなかったし、予算の増額も平均が5%増だった。しかも、初年度の話であり、その後、幕府が暫く何もしなかったので多くの藩の軍事予算は横ばいとなった。理由は次の通り。第一に、諸藩が幕府を信頼していたこと。諸藩は幕府によって安全を保障され、恩恵を享受していた。幕府によって外国からの脅威から免れつつ海外貿易で利益を得ていた(幕府と幕府領の商社が海外貿易を統制していたが)。通貨価値も安定も幕府の中央銀行と大蔵省によっていた。こうした経済面だけではなく、藩の情勢を安定させる意味でも幕府は諸藩にとって有りがたい存在だった。


多くの藩は幕府ほど統治機構が厳密ではなく、藩主と家臣の関係は安定していなかった。藩主が暴虐だと家臣の多数が判断すれば(藩主が暴虐でなくても家臣の多数派が反感を懐けば)、「押込め(藩主を監禁)」という手段に出た。対抗手段として藩主は、罪状があると判断すれば切腹を命令できた(多数派の家臣の黙認が必要だが)。幕臣達は裁判なしで罪人とされることなど心配していなかったし(幕府の裁判官は征夷大将軍の訴追でも無罪と判断すれば無罪判決を下した。それで処分されたり解任された裁判官は確認されていないし、そうした裁判官の近親者が征夷大将軍の側近だった例も多い)、征夷大将軍や幕府支藩の藩主達は「押込め」の類の危険など想像もしていなかった。幕府は初期から各藩の安定に努めていた。典型例が福岡藩(羽柴氏)に対する介入だった。羽柴秀吉が誕生した幼子に後を継がせたいばかりに、羽柴秀次らを処刑しようとしたが幕府が介入して事態を穏便に収めた(秀次らは幕府領に追放された)。

 この時、幕府は幕府軍を集結させ、武力介入さえ匂わせた。四国藩(長宗我部氏)や肥後藩(滝川氏)にも動員令が下された。このため、秀吉も事態を穏便に収めた。逆に、藩主が押込めなどをされた時も幕府軍が出動して事態を収拾している(秀吉も死の間際に幕府に要請して、幕府軍の警護下で家督継承を行った)。藩主にとっても家臣達にとっても幕府は有益な存在でもあった。また、幕府は参与院に一定の権限を認めて、諸藩の意見や立場も尊重した。こうした姿勢により、幕府は諸藩に信頼されていた。幕府が諸藩に対する疑心暗鬼に苛まれていたのとは対照的である。


第二に、幕府の巧妙な諸藩の弱体化政策。幕府は城普請なども最小限だったし、多くの場合は予算の相当額を交付した。また、幕府によって取り潰された藩は一藩もなかった。参勤交代なども採用されなかった。しかし、幕府は諸藩を巧妙に弱体化させていた。まず、道路や橋の毎年度の建設や整備を義務付けて、事実上の特定財源化した(飢饉、災害などの時は免除)。最初は諸藩も嫌々だった。しかし、次第に利権化して多くの藩は文句を言わなくなった。これが藩財政を圧迫した。


第三に、幕府のプロパガンダ。幕府は内閣府の官報局(表向きにされていた業務は、世論調査、経済に関する基礎データーの収集と経済予測、幕府の広報活動、法令の周知。しかし、裏の業務として、幕府の全省庁の監視、日本内外の工作員やスパイを使った日本全体に対するプロパガンダ、新聞などへの工作員を使った圧力、知識人の監視、士族軍などに検閲の指示を行っていた)がプロパガンダ活動を行い、諸藩で儒学者などを使って商業に対する軽蔑を広めていた(工作員が儒学者に資金を提供していた。なお、意図的に幕府のスパイとなっていた儒学者も数人ほどいたが、大多数は知らずに官報局の手先となっていた)。

 このため、大部分の諸藩は商業への対応が遅れ、財政的に苦しくなった。税金の金納化も遅れる。これは、米相場に諸藩が影響されるようにするためだった。税金を米などにしていると、豊作や不作に左右されやすく財政が不安定になる。さらに、米相場の取引所は全て幕府の管轄下にあり、多くの諸藩は幕府に首を掴まれているも同然だった。商品経済の浸透、貿易の発展に加えて産業革命の胎動で幕府と諸藩の経済力は開くばかりだった。

 更に銃砲を卑しむ風潮も官報局の多年にわたるプロパガンダ活動が寄与していた(一番の要因は幕府に依存して各藩が平和惚けしたことだが)。このため、諸藩の藩軍は訓練費用を節約する意図もあって、実弾訓練を最小限にしていた。代わりに、銃剣突撃や騎兵の密集突撃を重視していた。士官や下士官も日本刀を装備しているのが普通で、射撃が下手でも煩く言われなかった。このため、砲兵部隊の砲手達が砲撃よりも槍兵としての能力が高い藩もあった。こうした風潮に多くの藩上層部は不味いと思っていたが、改革には消極的な意見が多数を占めるのが常で多くの藩の改革は挫折した。


 第四に、反幕府の大義名分がなく、討幕の必要性もなかったこと。幕府が天皇を名古屋城に移したことは重大な慣例に反する行為だったが、それが反幕府に繋がったわけではない。都は、一応、京都だったし、御所も移転していなかった。後鳥羽上皇や後醍醐天皇を島流しにした鎌倉幕府と比べれば、見様によっては穏便な措置だった。また、幕府は足利義満などのように皇位継承に介入しなかったので際立って不当だという理屈も成り立ちにくい。武家政権が成立する前から天皇は藤原氏などの傀儡にされてきたし、武家政権の成立後は象徴に近かった。

 このため、事実上の遷都が直ちに反幕府の大義名分になるはずもなかった。さらに、名目上とはいえ天皇陛下を長とし一体化した幕府を攻めても呼応する動きが発生することなど想像もできなかった(その前に経済力と軍事力が違いすぎるが)。そして、謀反を起こすとなると、誰が長となるのかという問題が出てくる。幕府を打倒した後にできる政府が諸藩にとって良い政府となるかは不明だった。諸藩の中で討幕を検討した諸藩は一藩もなかった。諸藩は幕府から疑われない様に、自発的に反幕府の動きを大弾圧した。


 第五に、諸藩の政治体制が硬直化していたこと。藩閥一辺倒の人事や行政組織の官僚主義化により多くの藩の政治体制が硬直化していた。藩主や老中が人事権を実質的に行使できなくなっていたことが原因だった。藩閥一辺倒だったり、能力主義だけで結果として官僚の互選により人事が決まってしまっていた。藩政改革や再軍備化は藩閥(必ずしも無能ではない)や官僚主義者にとっては嫌なことであり、幕府に従った方が自分達の私益にはなった。多くの藩主は反対派に抵抗されて途中で断念した。こんな状態で討幕を真面目に検討する藩主が出現するはずもなかった。以上の主因で、幕府の優位は続く。その後、イギリスのアジア進出のペースが予測よりも遅かったことにより、幕府の中央集権化政策は休止状態になる。このため、諸藩の再軍備化と改革のペースは鈍化した。


 ただし、この頃から将来の国家像を巡る議論が始まった。ヨーロッパ諸国の様に、近代的な中央集権体制を構築するという方向性は一致していた。しかし、どこを主体とするかは議論があった。多くの藩上層部は幕府が主体となると予想しており、その過程で自藩がどれだけの権限や利益を得られるかを考えていた。天皇陛下が名古屋に移されたことで幕府と朝廷は事実上、一体化した。さらに、幕府はヨーロッパ諸国と比べても上手く国政を運営しており、幕府が中央政府の主体となることに不満はなかった。幕府が天皇を名古屋に移したことに、秘かに理解を示す藩主や重臣も少なくなかった。朝廷よりも幕府の方が国政の運営は上手だったからだ。天皇陛下は、暴虐な独裁者を出現させないための安全装置、日本神道の長などの役割を果たし武士達からも尊敬されていた。


 しかし、政治の主体とは見做されていなかった。諸藩が幕府を中央政府の主体として考えたのも当然だった。こうして、議論の主体は幕府を中心とした中央政府を如何に創設するかになっていく。ただし、前述の様にイギリスやフランスのアジア進出の速度が予想よりも遅かったので関心は冷めていった。議論が本格化するのは19世紀にイギリスのアジア進出が本格化してからのことになる。


 1741年、60歳で織田信春は征夷大将軍職を長男の信篤に譲った。信春は既に多くの権限を信篤に委ねていたので大御所に就任しても実質は隠居に近かった。

1748年に、オーストリア継承戦争は終結した。プロイセンがシェレジェンを得て一番、得をした。そして、バイエルンが決定的に没落した。この他の変化は少なかった。これは、イギリスやフランスのアジア進出を好まない幕府にとって都合が良かった。また、同年、清がジュンガルを滅ぼした。八旗軍と漢人部隊の歩兵部隊を騎兵部隊と砲兵部隊が支援する清国軍にジュンガル軍は火力で圧倒された。ただし、乾隆帝が鎖国の度合いを強めたこと、政治の腐敗、儒教を支持する官僚達の増長などで清の国力が衰える兆候が出始めた時代でもあった。なお、乾隆帝の時代までは清と日本帝国の関係は良好だった。こうした国際関係も考慮されて、幕府の中央主権化政策は休止状態になる。遷都に起因した動揺も沈静化していった。日本帝国内は景気変動もあったが、極めて平穏だった。1750年、任期が終わり、大老には蒲生信家が任命された。九鬼鷹信は引退を決意し、家督を自らの長男である九鬼成信に譲った。


 1752年、信篤は征夷大将軍職を長男の信優に譲った(小西吉信も顧問の任が終わる。小西吉信は官房長官も自発的に辞任した)。信篤も大御所に就任したが、既に信優を信頼していたので信優から助言を求められない限り意見は述べなかった。信優は最高顧問に石田幸信(羽柴氏の重臣である石田家の遠戚。台湾総督府で高い評価を受け、信優に抜擢される)を任命し、官房長官を兼ねさせた。蒲生信家は無難に幕政を運営し、台湾などの開発に力を注いだ。この頃の開発で、台湾は大きく発展することになる。


 台湾総督府に送り込まれた赤松上野介総督(赤松圭介中将の子孫)は総督府の台湾人の昇進機会を広げ、局長まで昇進可能とした。また、台湾の先住民も正規の総督府要員として採用されるようにした(既に補助要員として所属していた)。また、総督府に採用された台湾人の子孫達は自動的に日本帝国の臣民とされるようにした。既に、総督府に採用されていた台湾人の子孫達も遡及的に日本帝国の臣民とされた。これは、山丹総合会社の手法を真似た手法だった(山丹総合会社は日本帝国に帰化すれば先住民も日本帝国臣民と同様の権利を認め、総督府に採用されることも可能にした)。既に、台湾各地の学校で日本語の無料教育が行われ、日本語が浸透していた(職業訓練なども行っていた。また、国旗の掲揚、国歌の斉唱が毎日、行われていた)。


 このこともあり、赤松は昇進を認めないことは不合理だとして山丹総合会社の手法を採用した。赤松の任期中に、台湾総督府の要員は台湾人と日本人との混血人が多くなり、最終的には要員の約五割を占めるようになった。本土では懸念もあったが、これらの台湾人と混血人は日本語の読み書きが完璧にできた上に、国旗の掲揚や国歌の斉唱が当たり前とされて育ってきたので日本人よりも日本人らしい程だった(この頃は幕府領以外で国旗の掲揚や国歌の斉唱を義務化している藩は少なかった)。こうして、台湾総督府は現地での適応力を高め、幕府の実効支配地域を広げていった。それまでは、地図上では日本領でも支配が及んでいない地域も多かった。


 特に、山岳地帯は殆ど掌握されていなかった。台湾総督府の士族軍は幕府陸軍を指揮下にいれて山岳地帯を征服していった。通常、幕府陸軍が士族軍の指揮下に入ることはない。総督府だけが総督府の士族軍の指揮下に幕府陸軍を置くことが出来た。しかし、これまで一度も権限が行使されていなかった。この時、北米での英仏軍の戦闘を参考にしてレンジャー連隊を結成して侵攻軍の先鋒とした(レンジャー部隊は緑色の軍服で、海軍用のシャコ帽を被っていた。有能だったので旅団に拡充される)。レンジャー部隊は分隊単位で戦うのを通常(最大でも70名)とするジャングル戦と山岳戦のエキスパートだった。これまでの士族軍や幕府陸軍の偵察部隊などと違い、台湾人(先住民が多い)が将校として指揮を執ることが多かった。幕府陸軍や総督府の士族軍も小規模戦闘には慣れていたが、台湾の環境には苦戦した(ジャングルと山岳の組み合わせ)。このため、地元の環境に慣れ、地理や気候にも詳しい台湾人将校(総督府に5年以上、所属している台湾人から選抜され、訓練を受けさせた。兵士は日本人が多い)が指揮を執った方が合理的だった。


 レンジャー連隊は士族軍や幕府軍を先導して多くの攻撃を成功させた。また、反抗する先住民の集落に対して狙撃や襲撃を行って戦意を削いだ。特に、ライフル銃による狙撃が効果的だった(酋長などを標的とする)。レンジャー部隊によって幕府陸軍は部隊から独立した狙撃チームの有効性を認識した。ライフル銃兵部隊は戦国時代の火縄銃兵部隊の役割を果たしており、敵兵の数を遠距離から減らすのが役目だった(狙撃も行われていたが、ライフル銃兵部隊の将校や下士官が行っていた。彼らが部隊から離れるわけにはいかない)。


 併行して、道路建設と地図の作成が行われた。士族軍が幕府陸軍の増強を得て、士族軍工兵部隊の指揮下で道路建設を行った。道路建設には総督府の統治に服している先住民も補助要員の制服を与えられて雇用された。道路を伸ばす一方で、前哨基地が設置された。前哨基地には市場が開設されて、先住民達の生産品を塩、布、鋏、煙草などの生活必需品や医薬品と交易できるようになった(先住民に有利な条件で交易が行われた。ただし、支払いは軍票)。無償援助を行うべきだとの意見もあったが、赤松は却下した。総督府の日本人要員や台湾の中国系住民の要員に先住民に対する差別感情を懐いている者が多いのは厳然たる事実であり、無償援助を行うと彼らが「恵んでやっている」と驕り高ぶる可能性があったからだ。また、酋長などの頭越しに援助を行うと、彼らの面目を潰して新たな対立を発生させる可能性があった。


 このため、先住民に有利な交易を行うことで(もちろん、それを表面化させない)、先住民の酋長などに台湾総督府と友好関係を築いた方が得だと認識させるようにした。さらに、前哨基地で無料の医療サービスを提供し、代りに何がしかの貢献をしてもらった(情報提供、酋長などへの手紙の受け渡しや仲介、プロパガンダのビラの配布など)。酋長などから招待を受ければ、レンジャー部隊に護衛された士族軍ないし幕府陸軍の分隊が訪れて部族などと接触を開始した。酋長などに贈り物をし、情報を提供してもらった。代償として軍票を渡した。傷病者がいれば医薬品を配り、部族で治せないと軍医が判断すれば傷病者を前哨基地まで運んだ。


 一方で、道路周辺も含めて詳細な地図の作成が進められた。幕府陸軍の工兵部隊や士族軍の工兵部隊が歩兵部隊に掩護されながら、測量を行って地図を作製した。レンジャー部隊は周辺を偵察して、測量部隊の安全を確保した。襲撃してくる先住民を待ち伏せや狙撃で撃退したことも多い。こうして、情報が蓄積され、ある程度の地図も出来上がると先住民の集落との接触を本格的に進める。レンジャー部隊に掩護された総督府の士族軍将校が率いる混成中隊(戦列歩兵部隊、ライフル銃兵部隊、工兵部隊、衛生兵部隊の混成部隊)が部族を恒常的に訪問するようになった。混成中隊は総督府への協力と引き換えに、無料の医療サービス(家畜に対する医療サービスも含む)、建物の建設、燃料(主に木炭。酋長などには贈り物のランプ用の鯨油)の提供などを行った。混成中隊は併行して地図の作成を進めた。こうして、先住民との接触が確立されるとレンジャー部隊は先住民の案内人を活用して、偵察範囲を拡大していった。案内人は報酬を与えられ(家族は前哨基地で保護された)、希望すれば総督府に採用された。


 この情報を基に、道路建設、前哨基地の前進、地図の作成が進められた。信頼関係が熟し、道路や前哨基地が近くまで進められたら日本帝国への服属化が要求された。酋長などは前哨基地の近くの旅団駐屯基地で総督府の高官と協議を行い、幕府に服属する協定に調印した。協定は先住民に幕府臣民としての権利を認めて日本人と同じ権利を認めるというものだった。代わりに、先住民は村ごと日本帝国に帰化して幕府臣民となる。協定に調印すると、軍票が通常の通貨に交換された。差別意識が無くなるわけではなかったが先住民の権利は概ね守られ、幕府の実効支配地域は拡大していった。自発的に、幕府への服属を申し出る部族も増えていった。もちろん、抵抗する部族もいて武力衝突は絶えなかったが、1755年までに幕府は台湾全土を掌握した。一方で赤松は中国系住民が多い沿岸や平野部での治安対策も断行した。


 これらの地域では開発が進んでいたが、腐敗や犯罪の増加が問題になっていた。主要な対策は次の通り。第一に、都市、町、村以外での居住を禁止した(町や村は統廃合された)。浮浪者は施設に収容され、一軒家も全て撤去された(家主には別の家が与えられ、補償もされている)。都市、町、村は全て城壁で囲われた。城壁は治安対策用で(壁は高くない)、夜間は門が閉じられた。夜間に城壁が意に出ている者は総督府の要員を除いて逮捕された。同時に、全ての台湾人に臣民番号を割り振った。これらの対策で、犯罪組織の活動は大幅に抑制された。


 第二に、台湾全体を鎖国に近い状態にした。台湾人や日本人入植者の出入りを規制し、船舶の寄港する港を7港に限定した。漁民も幕府の運行する漁船団に乗せられて漁業を行うようにさせられた。寄港地以外の海岸が封鎖され、夜間は寄港地周辺の海岸も封鎖され、海岸にいた者は逮捕された。幕府海軍などの取り締まりもあって、密輸と密入国は激減する(1760年に解除)。


 第三に、阿片の厳重な取り締まり。当時、台湾では阿片禁止令が有名無実化していた。注意しなければならないのは、当時、阿片などの麻薬が厳密に禁止されていた国は少数だったことだ(日本帝国と清ぐらいで、ヨーロッパ諸国では合法。他の地域でも規制は緩かった)。この状態で、阿片禁止令を厳格化しても説得力がない。このため、総督府は阿片を合法として総督府の専売制にした。同時に、日本帝国内の医療用の阿片(現在でもモルヒネは阿片から抽出される)の輸入が台湾に限定された。台湾の阿片は総督府が全て買い上げて本土に輸出するようになり(阿片の精製は本土で行う)、台湾での流通と本土への密輸は激減する。先住民の地域が総督府の掌握下に置かれたことも大きかった。

 同時に、阿片の栽培農家に対して別の産物の栽培に転換するための援助と指導が行われた。こうした配慮もあって、阿片の弊害は日本帝国内では解決された。以上の様な対策の他にも、裁判官に台湾人を採用すること、三審制の台湾での導入(本土の幕府領では導入済み。他の国と違い、上告の是非、再審の可否のみを判断する)などを行った。こうして、赤松総督の統治時代に台湾は安定して、大いに繁栄していくことになる。中部太平洋、北方地域も大いに発展した。この時代に、台湾などの海外領土は日本帝国の領土として定着した。


 1756年、七年戦争が勃発した。日本帝国は例によって条約通りの支援を行った。途中でスペインがフランス側で参戦する。幕府とスペイン政府との間でオーストリア継承戦争の時と同様の休戦協定が結ばれてフィリピンは海上封鎖された。幕府内では全面的に参戦してフィリピンを奪取するべきだとの意見もあったが蒲生信家も却下した。蒲生信家は英蘭の支援に積極的だったが、イギリスがアジアに進出してくるのは警戒していた。当時、イギリスは東南アジアに進出していたが、ポルトガルと共同統治しているマラッカに基地を置いているだけだった(また、コロンボ島もポルトガルと共同統治していた)。イギリスが東南アジア方面で強大な勢力を築くのは日本帝国にとって好ましくなかった。このため、資金援助の金額は増額されたが、参戦はしなかった。

 1763年に終結した七年戦争の結果、イギリスは一人勝ちした。イギリスは北アメリカや西インド諸島の植民地の多くを手に入れた。このことで幕府はイギリスをさらに警戒した。イギリスが次の標的を東南アジアに定めることが懸念されたからだ。しかし、イギリスも疲弊しており、懸念は後退した。


 1760年、蒲生信家の任期が終わり、後任として九鬼派の福富直信(福富直正の子孫)が任命された。福富直信は中央集権化を推進したかったが、九鬼派の中からも反対意見が出て断念した。代わりに、将来の統一政権のための憲法を検討し始めた。検討は内閣府で、極秘に始められた(国防省などでも内戦用の作戦計画の立案が極秘で進められていた)。福富直信は無難に幕政運営を行った。諸藩は幕府が中央集権化を進めなかったので安心し、藩政改革や再軍備化を中止してしまう藩が多くなった。幕府が中央集権化を目指して着々と計画を練っているとは思っていなかった。しかし、福富の中央集権化に向けた具体的な行動は信優によって却下され続けた。このため、福富は不満だった。しかし、福富は忠実に職務を遂行した。


 1770年、蒲生派の赤松上野介が大老に任命された。赤松上野介は無難に職務を遂行していた。当時、日本帝国の国際問題はなく、産業革命の初期の経済発展も進行していた。幕府には深刻な課題はなく、幕臣の多くも平和を楽しんでいた。幕閣は中央集権化に向けた諸計画を立案して精査を続けていたが、大義名分が見い出せなかった。イギリスやフランスは東南アジアに強大な勢力を築いているわけではなかったからだ。幕閣は将来への備えをするだけだった。平穏が続くかと思われていたが、1775年、アメリカ独立戦争が発生した。日本帝国は困った立場に置かれた。イギリスとオランダの対立が激しくなっていたからだ。対外事務局は英蘭戦争の可能性を強く警告した。このため、幕府の通商外交省が英蘭双方に自制を促した。しかし、外交は相手の意思次第なので戦争の対応を検討しておく必要があった。幕府側ではイギリスとオランダが開戦した場合の対策について激論が展開された。


 第一案は、イギリス側として参戦し、東南アジアのオランダ植民地を併合する案だ。

 第二案は、中立を保つ。日英蘭三国極東同盟は、条約国同士が交戦した場合、発動の義務はない。このため、中立を保ち、東南アジアや北東アジアでスペイン政府と結ばれた休戦協定と類似した休戦協定を英蘭両国と締結して、これらの地域の平穏を保つ。

 第三案は、フランスやオランダと同盟してマイソールを支援し、インドからイギリスを駆逐する。赤松は第二案に賛成した。信優も支持したので、閣議で第二案の採用が決定された。第二案が幕府の実力に相応だし、慣れているからだ。オランダもイギリスも日本帝国が敵に回るのを望むはずがないからだ。


 対して、第一案は幕府の戦略に反していた。ヨーロッパの強国の北東アジアや東南アジア進出を抑制することが幕府の戦略だった。日本帝国の周辺地域に、イギリスやフランスが進出してくれば日本帝国にとって脅威となるからだ。オランダはフランスやドイツ諸国が侵攻を受ける恐れが常にあり、脅威とは見做されていなかった。オランダの勢力を駆逐することは緩衝地帯をなくしてイギリスやフランスのアジア進出を容易にしてしまう。幕府陸海軍の戦力は強力だが充分ではない(外国だけではなく、諸藩の脅威を抑止する必要がある)。更に支配地域が広がれば確実に兵力不足となる。オランダとの経済関係も深いこともあり、第一案は却下された。


 次に、第三案は幕府の実力を超えていた。まず、イギリスの勢力を遠ざけるということでは幕府の戦略に合致する。マイソール軍も優秀であり、陸戦では勝利できる可能性が高い。また、海戦でもフランス海軍やオランダ海軍と連合すれば勝利できる可能性は高い。しかし、イギリスを駆逐した場合、フランスが勢力を伸ばして東南アジアや北東アジアに進出してくることになる。この場合、オランダは確実にフランスの側に付く。なぜなら、フランスが陸軍でオランダに侵攻する危険性が高い以上、オランダがフランスに味方するのは当然だ。日本帝国がフランスを占領することは不可能だからだ。下手をすると、イギリスも復讐のためにフランスと共同して侵攻する危険性がある。そうなると、仏英蘭の三国と戦争をすることになる。当時のイギリスとフランスの両方を敵にして勝てると思うのは妄想だった。結局、第二案を採るしかないということになった。


 幕府はイギリス、オランダ、スペインに休戦協定を締結して、東南アジアや北東アジアを平穏にしておくように要求した。1776年から提案していた。当時はフランスもイギリスと戦争するか決め兼ねていたし、オランダやスペインは考えていなかった。イギリスも、フランスやオランダなどと戦争することになろうとは思っていなかった。幕府は対外事務局の諜報網でイギリス軍の報告書の内容を入手しており、アメリカ独立軍が意外に手強いことを認識していた。


 以前から、イギリスとオランダの対立が激しくなっていることは把握されていたので、幕府は心配していた。オランダが密かにアメリカ独立軍を資金援助していることも察知していたから尚更だった。イギリス、オランダ、スペインは幕府の提案に同意した。日本帝国を敵に回した場合、東南アジアやインドの植民地が危うくなるからだ(オランダの外相は「心配し過ぎだが、貴国との友好関係を考慮して、貴国に安心してもらうために締結する」と白々しく述べている)。イギリスとオランダは両国が交戦した場合、貸し出されている幕府陸軍部隊が離脱すること、撤収する部隊を収容する幕府海軍の輸送船団の安全を保障することも同意した。


 その後、幕府の懸念通り、フランスやスペインが1778年にアメリカ側で参戦した。1780年にはアメリカを支援した上に武装中立同盟に加わろうとしていたオランダをイギリスが先制攻撃した。これにより、第四次英蘭戦争も始まる。幕府はインドや東南アジアから幕府陸軍部隊や傭兵部隊を撤収させた。幕府は一貫して中立を保ち、東南アジアや北東アジアの平穏を維持した。何度か、イギリスやオランダの艦隊が衝突したが、幕府海軍が牽制したことから中途半端な交戦に終わった。スペインは自発的に交戦を控えた。三国とも日本帝国を敵に回すことは避けなければならなかったので、休戦協定を守った。結局、1783年、パリ条約でイギリスはアメリカ独立を認めて終戦となった(英蘭戦争は1784年まで続く)。


 幕府はイギリスの勢いが弱まったことを喜んだ。ただし、幕府はアメリカ独立戦争中にイギリス側に敵対行為をしたことはない。イギリス船舶は指定海域で幕府海軍によって護衛されていた。また、幕府は財政援助をしなかったが、一貫してイギリスの国債の引き受けの大手だった(オランダやフランスよりもイギリスの工業力の発展を高く評価していたためだ。また、この時期に苦境に陥ったイギリス東インド会社に資金援助も行っている)。対照的に、オランダの国債は幕府が購入しなかったために日本帝国では不人気で下落を続けた。既に、オランダの国力が低下しつつあったのにイギリスと戦争したので苦境を見透かされていた。


 幕閣はアメリカ独立戦争によってスペインが植民地をイギリスから奪回したので、親英路線に方針を転換していく。フランスとスペインが友好関係にあり、オランダが反英側に付いたからだ。このため、フランスがスペインと組んで東南アジアに進出してくるのではないかと懸念されたからだ。さらに、陸軍で本国が侵攻を受けるオランダがフランスやスペインの側に付いて共同侵攻してくるのではないかと懸念された。このため、イギリスやオランダと個別に締結された新極東同盟でイギリスが各上として扱われた。


 なお、三国極東同盟は第四次英蘭戦争時に廃棄された。イギリスとオランダが戦争した場合に、日本帝国が参戦の義務を免れるのは同じだった。しかし、イギリスに対してはオランダと戦争した場合でも資金援助、幕府陸軍部隊や傭兵部隊の貸し出しなどの軍事援助が継続されることが約束されていた。オランダ側は不満だったが、日本帝国を敵に回すことは東南アジアや台湾南部の植民地喪失を招くので我慢した。幕府はイギリス東インド会社やインド方面のイギリス陸軍に、幕府陸軍部隊や傭兵部隊を貸し出すことを再開した。このため、イギリスと日本帝国の友好関係は深まっていく。


 1780年、アメリカ独立戦争が続く中、赤松上野介の任期が終わり、後任に福富直正が再任された。福富直正は中央集権化を始動させるべきだと再び主張した。イギリスが敗れたとはいえ、北アメリカの陸軍に対する兵站を維持したからだ。これがアジアに向けられれば、脅威になると大葉は主張した。また、他のヨーロッパ諸国(特にフランス)も何れはイギリスと同じ力を持つので今から始めておかなければ間に合わないと主張した。しかし、信優が「内戦に陥った際の大義名分がない」として反対し、他の幕臣達も反対した。このため、福富は不満を抱きつつも幕政を無難に運営していった。またも、福富は何も成すことなく(本人的にはで、行政手腕が信優や他の幕閣の閣僚からは高く評価されている)終わるのかと思っていた。


 幕閣で福富の意見が支持されなかったのは、多くの幕臣達を納得させる大義名分がなかったからだ。イギリスもフランスも東南アジアや北東アジアで巨大な勢力を確立しておらず、内戦の必要がなかった。この状態で中央集権化を進めれば、全ての諸藩が討幕に立ち上がる恐れが高い。幕府陸海軍は諸藩を打ち破る実力がある。しかし、内戦で国土は荒廃してイギリスやフランスに侵攻される可能性が高まる。この懸念がある以上、中央集権化を始動する時期は遅らせた方が良いとの意見が幕閣の大勢を占めるのは当然だった。このため、福富は失望を深めたが職務を忠実に遂行した。諸藩では、この頃になると幕府が何の動きも示さないので安堵する空気が広がっていた。このため、統一政権に向けた議論も冷めていた。ところが、幕府にとって予想外の事が発生した。


 1789年のフランス革命だ。当初は大した反乱ではないと思われていた。対外事務局も革命に発展するとは思っていなかった。ルイ16世は優柔不断であり、断固、鎮圧しようとはしなかった(スイス兵に発砲禁止命令を出している)。このため、フランス革命は成功し、革命政府が樹立された。幕府は一先ず、フランス、南ネーデルランド、オランダ、イタリア北西部、スペイン、フランスと隣接したドイツ諸国、スイスの日本邦人を国外に避難させた。遠いヨーロッパの事であり、日本帝国にとって基本的には無関係だった。このため、日本帝国内での関心は高くなかった。しかし、幕府は対外事務局に諜報活動を強化させた。ヨーロッパの大国であるフランスが、どの様な国家になるかは重大な関心事だった。フランスも東南アジアや北東アジアに進出してくる可能性が高かったからだ。


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