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幕府による安定

 信就は戦時国債や国債の償還に努め、自らも倹約した。戦時国債や国債の償還に努めなければ、財政が破綻する可能性があったからだ。何しろ、税制などによって借金をして戦時国債や国債の購入を奨励したのだから直ちに償還を開始しなければ戦時国債や国債が暴落して士族や町人を破産に追い込む恐れがあった。幕府の信用は失墜して幕藩体制は崩壊する。このことを信就は充分に認識していた。

このため、自らの歳費を半分にし、特定財源にしていた織田一族の経費も一時的に一般財源化している。幕府支藩の藩主達や名門の家にも自発的な倹約を要請し、国庫に寄付させている。幕府に所属する武士は国庫への自発的な寄付が求められた。ただし、士族以下の身分に倹約令を出すことは拒否している。武士の中には儒教的な考えで、士族、町人、農民にも倹約させるべきだと意見が根強かった。しかし、信就は断固として拒否した。


 信就「権利と義務は表裏一体。義務を負わない者に権利はない。逆に言えば、権利がなければ義務を負う 必要がない」。

「しかし、身分の頂点にたつ武士が士族以下よりも負担が大きいのは納得できません」との意見には次の様に答えた。信就「士族には特権を与えているといっても、国政を決定するのは武士だ。町人や農民は権利が少ない。彼らに負担を負わせるのは誤っている。士族、町人、農民に特別な義務を負わせるなら、決定権を与えなければならない。しかし、我ら武士は決定権を与えるつもりは微塵もない。これからも、下の身分を従えていく。それなら、特別な義務を与えてはならない。義務を負わせたのに、権利を与えない体制は崩壊を免れない。古今東西の鉄則だ。無論、逆も然りだ。倹約令を下の身分に強制しようという者は下の身分に権利を与える気があるのか?ないだろう。

その気もないのに、倹約令を強制しても経済が冷え込むだけだ。対外戦争で領土が拡大すれば、恩恵を受けるのは武士だ。武士が領土における政策を決定する。つまり、そこでの規則は全て決める。士族の方が儲ける場合が多い。しかし、どの士族を儲けさせるかは武士が決めている。代償として、武士は対外戦争や幕領以外での戦争の義務も負っている。士族は防衛の義務を負っているが、武士の後から追従してくるだけだ。このことを無視してはならない」。

「しかし、武士が士族以下の身分よりも損をしていては武士の威信が低下します。織田幕府といえども、武士の不満が昂じれば崩壊は免れませんぞ」との文句が出ると、信就は激怒した。信就「この愚か者が!!織田幕府の方針の一つは天下布武!戦争は望む所だ!そもそも、幕府が成立したか。朝廷が軍事と治安を武士に丸投げしておきながら、武士に権利も保障も与えなかったからだ。そのため、朝廷自体も堕落した。武士が威光に服している時、朝廷の勢力は武士同士を殺し合わせて権勢を競った。鎌倉幕府が武士以外からも支持ないし黙認されたのは、そうしたことに終始部が打たれたからだ。

我々が権利を与えないにも関わらず、士族、町人、農民に特別な義務を課すことは朝廷と同じ過ちを繰り返すことになる。我々、武士が他の身分を支配できるのは、武力と同時に特別な義務を負っているからであることを忘れるな!不満があるなら辞職して謀反の準備をしろ!勝てるとは思えんがな!」と言い放った。会議にいた幕臣達は震え上がった。こうして、信就は自ら範を示すことで武士階級に倹約令を受け入れさせた。ただし、信就は倹約令が財政再建に役立つと思っていたわけではない。


 この措置は幕藩体制の身分制度による問題だった。武士は特別の身分が保障され、代りに義務を負っていた。しかし、武士は身分の最上位なので、そうした立場を利用して権力を乱用しても良いと考えがちだった。織田幕府が構築した幕藩体制では武士も商業に係わっており(株主や出資者である場合が多かった)、士族の方が儲けていても武士が主導権を握っていた。多くの士族は武士に昇格したいと思っていたから武士の御機嫌をとっていた。さらに、海外貿易の発展、農業生産の増大、交通網の改善などの相乗効果による経済発展で武士が士族から吸い上げる利益も増大していた。


こうなると、武士は身分制度の優位を利用して職権を乱用して利益を増大させたい誘惑に駆られる。そうなると、行政面を担っている士族は損失を減らすために町人や農民から非合法でも搾り取りたい誘惑に駆られる。汚職が増えることになり、反乱の危険性が増大する。そうなると、幕藩体制の根幹が揺らぐことになる。イメージとしては、武士の立場は現在のロシアのシロビィキに近い。まだ、悪化はしていなかったが、既に兆候が出始めていた。

このため、征夷将軍が自ら範を示すことで武士階級に特別な義務があることを再認識させようとした。つまり、パフォーマンスであり、大蔵大臣を中心にして作成された新税制が立法化された3年後には武士階級の倹約令を解除している(武士階級が倹約をしていると、経済が伸び悩む恐れがあったため)。ただし、自らと織田一族に関しては11年後まで倹約を課した。幕府支藩の藩主達や閣僚は自発的に信就と同じ倹約をした。


 一方、新税法により税収は伸びていく。幕府が創設されて以来、様々な税金が課され、例外規定も作られていた。このため、税法が複雑になり、抜け道も多くなっていた。結果として、徴税コストも増えていた。このため、税金の種類を整理して、税率を適切な水準に引き下げた上で例外規定をなくすことにした。

このため、武士、士族、町人の税制を所得税15%、相続税10%、営業税(現在の法人税)15%、商品税(現在の消費税に相当)5%にした。同時に、朝廷や裁判所などを除いて特定財源は廃止された。例外規定をなくしたことで税収は大幅に増えた。経済発展が進んでおり、商業の比重が増していたので担税能力は増していた。税率を引き下げて例外規定をなくしたことで広く薄く税金が集められた。大会社や大商人に対して税金を安くすれば、その分、人を雇い、下請けにも仕事を回すので金が循環して景気が良くなる。当然、雇用も増えて税収も増えるという訳だ。

戦時中に導入された累進課税制度は戦時下におけるインフレを抑える事と平時に蓄積されていた富を政府が集めるためだった。そのため、戦後不況が発生すれば重税が重荷になる。中小の会社や商人に減税しても効果は少ない。こちらは人を多く雇用することができないし、下請けに多くの仕事を回すことが出来ない。このため、幕府の税制は正解だった。しかし、当時の経済規模では、中小の会社や職人などにとっては大変な負担だった。


 このため、幕府領内では寡占化が大幅に進み、職人も大会社の従業員になるか他の藩に出ていくしかなくなった。このため、職人層を中心に都市部で町人による反乱や一揆が多発する。しかし、幕府は内戦の準備を整えており、戒厳令を発動した。士族軍や幕府陸軍は反乱に対しては情け容赦なく武力行使を行った。

反乱、暴動、一揆が多発し始めた1664年だけで、約1万人が幕府陸軍や士族軍によって殺害され、戒厳裁判所(戒厳令下で臨時に開設される裁判所。戦地の軍事裁判所に近く、即決裁判が行われる)で逮捕者のうち1313人が処刑された。諸藩は大惨事に恐れをなして幕府に妥協を迫ったが幕府は拒否した。幕府の基本方針は天下布武であり、信就を始めとする幕閣は内戦を恐れていなかった。そして、反乱や一揆は急速に収まっていく。幕府の情け容赦ない武力行使の他の理由は次の通り。


 第一に、町人が一致団結しなかったこと。町人の内部でも身分に違いがあった上に、大会社や大商人に雇われれば町人は反乱に組みする気がない者は多かった。元々、町人にとって束縛が少なく、納税の義務以外は少ないことが最大の利得だ。このため、雇われば一揆に加わる動機は乏しかった。ましてや、幕府軍や士族軍の無慈悲な弾圧を見せつけられて反乱に加わる者は少なかった。

幕府も適宜、対応して大会社や大商人に雇用を増やし、下請けに仕事を増やすように促し、士族身分の人間が経営している大会社なども積極的に幕府の要請に応えていく。納税者が増えた方が幕府の得にもなるからだ(消費が増えるので士族のためにもなる)。さらに、経済が上昇するにつれて戦後不況も収まっていく。このため、雇用される者も増えていき、一揆も尻すぼみになっていく。


 第二に、農村部が平穏であり、治安を担う士族軍の負担が軽かったこと。都市で反乱、暴動、一揆が頻発している時、農村は平穏だった。幕府は、農民に対する税率は変更していなかった。幕府領の農民に対する税金は諸藩と比べて割安だった。幕府は商業と農業から経済状態に応じて税金を徴収していた。このため、諸藩と比べて農民から搾り取っていたわけではない(多くの藩では封建制維持の観点から収入を農業に依存していた。このため、納税を米などで行わせていた藩も少なくない。結果として農民にとって重い負担となった)。

第一章で記述した様に、幕府は農民に配慮を怠っていなかった。さらに、士族軍の士族所が農村部を掌握していた上に、富農などの指導的立場にあった農民が士族となっていたので一揆の組織化は困難だった。もちろん、不穏な動きが皆無だったのではないが特別財務局と公安局が連携して、扇動者を多く逮捕している。しかし、概して農民は町人への反感もあって都市部での騒乱を傍観していた。


 第三に、幕府の治安機構が極めて有能だったこと。特別財務局と公安局は連携して、多くの反乱の指導者を逮捕した。また、特別財務局の工作員は暴動や反乱を扇動して、そこを士族軍や幕府軍が攻撃した。特別財務局は偽の反幕組織「易姓会」を事前に結成しており、以前から反幕府の人物や団体を援助していた。そうして、反幕府の人物や団体の信頼を得て、それらを詳細に監視していた。前述した様に、特別財務局の工作員は様々な藩の方言を話したので幕府の工作員だと疑われることは少なかった。さらに、何も知らない士族軍の町奉行所や士族所に追われ、投獄されることもあったのだから疑う者は殆ど居なかった。士族軍や幕府軍が急襲を行った時、戦闘に巻き込まれて死亡した工作員もいた。

このため、「易姓会」は一連の騒乱でも反幕府の人間に、当てにされ続けた。このため、幕府軍や士族軍は容易に反乱や暴動を鎮圧することができた。「易姓会」は騒乱が沈静化してきた1668年に、公安局に一斉摘発されて「壊滅」した。この後も「易姓会の残党」が反幕府の人物達と関わりを保った。このため、特別財務局と連携していた公安局は容易に容疑者を逮捕していった。反幕勢力(騒乱前の潜在的な不満分子が大半)は一連の騒乱で壊滅した。


以上の様な主因により、騒乱は1667年には沈静化していた。しかし、幕府は徹底的に掃討と追跡を行い、正式な終結宣言は1671年にされた(同時に、戒厳令も解除される)。幕府は騒乱を鎮圧したことにより、より権威を増した。なお、幕府は財政再建が進展た1677年から税制を徐々に、累進課税方式に戻している。


 幕府は中小の会社や職人にも配慮が必要なことは認識していたが、財政規律を保つ方を優先した。幕府の方針は天下布武であり、武力が不可欠だったので財政が健全であることは必須の条件だった。

信就曰く、「天下布武のために必要なのは、人材と金だ」。国債が破綻すれば、幕府への信用が失われ、資金調達もできなくなる。大増税と通貨の大量発行で損失を補えば、経済の悪化は必至だった。そうなると、軍備を維持することもできなくなる。そして、反乱が拡大し、諸藩が幕府を打倒することは確実だった。幕府としては何としても避けたい事態だった。これは最悪の想定であり、実際は戦時国債や国債が直ちに破綻する危険は少なかった。しかし、商業に重点を置き、海外貿易を統制することで利益を得ていた幕府にとって危険は回避しなければならなかった。


それに、財政赤字が積み重なると予算が制約を受けて対外戦争、軍備更新、植民地の開発ができなくなる。信忠以来の対外進出政策で、各国への軍事援助(清、オランダ、ポルトガル、イギリス)、北方開発、西洋船建造のための初期投資で多額の債権を発行し、資金を投入していた。さらに、今回の正統戦争による戦費や台湾などの行政費用や開発費用にも多額の債権を発行していた。もちろん、見返りはあった。海外貿易は活発化し、造船業も盛んになった。清、オランダ、イギリス、ポルトガルが船舶、武器などを購入してくれたことも経済を拡大させた。国内の農業生産の増大も相まって日本帝国は大幅な経済発展を遂げた。


 それだけに、通貨や財政の信用が低下することは致命的になる。いわば、「信用創出」によって幕府は領土拡大と経済発展を達成したからだ。さらに、正統戦争では、買った公債を担保にして銀行から金を借り、さらに公債を買うように奨励して税制でも誘導したのだから信用喪失は日本帝国の経済を破滅させることになる。おまけに、諸藩の銀行や大商人なども正統戦争の戦時国債を大量に購入していた。幕府が直ちに信用を回復する措置を講じ始めなければ、財政政策の機動的実施が難しくなる。再び、戦争が発生する可能性もあり、そうなった場合には「信用創出」で予算を捻出するのが困難になる。そうなると、敵国に軍事力で劣ることになり敗北は必至だし、諸藩が謀反を起こす可能性もあった。台湾などの開発費用も必要であり、財政政策の機動的余地は大きい方が良かったのだ。幕府が政権を持続させることができたのは、信就の治世下で財政運営のノウハウが確立できたことも大きい。


 1667年、信就は征夷大将軍の地位を長男の信秦に譲った(死去は1673年)。本当は1662年に譲りたかったのだが、一連の税制改革で騒乱が発生したので先延ばしにしていた。信就は汚れ役を自分で担う決意をしていた。長男の信秦が憎悪されることは避けたかったのだ。信泰は穏やかな性格で協調型だった。信泰は父親と違い、大老、支藩の藩主、大臣、顧問団に権限を委任して議長的な役割に徹した。そして、討議が纏まらなかった場合にのみ、閣議の議論に参加した。閣議決定の採決でも最後に投票し、大抵の場合は多数意見に組みした。また、諸藩に対しても協調的だった。幕府が強硬な政策を採る必要がなかったこともあって、信泰は広く慕われることになる。


ただし、信泰は操り人形ではなかった。父の信就が閣僚を解任することが殆ど、なかったのに対し、信泰は10年ごとに閣僚と顧問団を大幅に入れ替えている。また、大老は支藩の藩主が慣例になっていたが、これも10年ごとに顧問団の助言を得ながら適任者を任命した。幕府支藩の藩主は閣僚の常任メンバーであることは変わらなかったが、権威は征夷大将軍が任命する他の大臣達や顧問団と変わらくなった。1700年には内閣と省庁の官僚トップの任期を10年ごとにすることを制度化した。実際は、再任される閣僚や官僚のトップの方が多かった。

しかし、任期があることは、特に官僚組織の活力を維持するのに役立った。日本人の常として、大臣が省庁のトップに対して「君より有能な人間(ないしは適任者)が現れたから交代してくれ」とは言いにくく、大臣は代わっても官僚は変わらないことが多かった。このため、幕府の基盤が盤石になるにつれて、官僚同士で互選をして、それを大臣が追認することが増えていた。このため、信就は強権を発動して各省庁の人事を顧問団と共同して行った。信泰によって定められた10年の任期制によって大臣はゴリ押しすることなく、官僚のトップや上級職を入れ替えることができるようなった。このため、大臣が代っても官僚のトップは変わらないということはなくなった。このため、官僚が省益に囚われることが防止されるようになった。このことは、幕府の官僚組織が官僚主義に染まる度合いが少なくて済む最大の要因になった。


 また、信泰は官僚の天下りに関する抑制策も行った。中級から上級の官僚が天下りをすると、俸禄(幕臣としての基本的な給料。幕臣は役職に応じて、俸禄に各種給料が上乗せされる)と年金を打ち切るように法律を改正した(天下り先を退職すると支給が再開される。しかし、その場合、税務調査を受けて所得を正確に申告しなければならない。所得が一定以上なら支給は再開されない)。

信泰曰く、「天下りすれば、多額の給料を受け取ることが多いのだから俸禄と年金は必要ない。幕臣が特権を得ているのは義務を負っているからだ。義務をなくした状態で特権を維持することは許されない。本当に有能なら特権なしでも会社に雇われるだろう。自由を取る武士や士族は特権を捨てなければならないし、特権を取る武士や士族は自由を制限される。それが武士と士族の最低限の規範だ」。これにより、官僚組織が10年ごとに改編されることと相まって、天下り官僚の弊害は抑制された。


10年ごとに、組織改編が行われるので、会社は本当に実力のある官僚しか雇わないので(会社に有益な働きをしなければ解雇された)、実力のない官僚は天下りしなかった。それでも天下りはあったが、そうした天下り官僚の多くは実力を備えており、有益な働きをした。こうして、信泰は幕府の官僚制度を改革し、征夷大将軍や幕府支藩の藩主の有能さに依存しない組織を構築することに成功した。もちろん、征夷大将軍や幕府支藩の藩主が有能であれば、さらに、幕政は良好に行われる。信泰は幕府が19世紀まで概ね良好に機能する基礎を構築した(「御公儀に馬鹿将軍なし」という言葉が後世に発生する)。


 幕府は税制の改革と特定財源の最小限化と並行して、自由化も進めた。会社の寡占化に対応するために、規制を大幅に緩和して諸藩の会社や商人の幕府領への進出を大幅に認めた。公共事業も全て競争入札にし、幕府の官営工場に大幅な民間委託を導入している。

ただし、官営側も民間に敗れていたわけではない。幕府の海軍工廠は自前の技術を利用して、商船、軍艦、捕鯨船を諸外国や諸藩に手広く販売していた。このため、小規模な造船会社(大部分が船大工の集団)の大半が市場から駆逐されてしまったほどだ。官営の方が民間に勝つというのは奇異に聞こえるかもしれないが不思議なことではない(現在のアメリカ合衆国などでも官民競争を行うと官営側が勝つことも多い)。官営側は建物や設備を税金で作ってもらい、従業員の給料も一定額で従業員の訓練費用も負担しなくて良いのだから経営陣が有能なら民間に勝つことは難しくなかった。


幕府の官僚機構は実力主義であり、下級の者が名門の者を追い抜くことは珍しくなかった。征夷大将軍と大臣達は官僚の人事権を握っていたので、人材登用を柔軟に行った。名門の者がスタート時点では優遇されているが、大臣や補佐官達に認められれば下級の者が追い抜くことは珍しくなかった。特に、官営の工場や官営会社、幕府陸海軍、士族軍では、この傾向が強い。このため、幕府の海軍工廠の様な例は珍しくなかった。こうした官営側の経済活動に対して「民業圧迫だ」との声も上がった。しかし、幕府にとって官の効率が高いことは欠かせなかった。大老の蒲生信春曰く、「幕府が商業を重視し、民間の会社の社長を儲けさせるためではない。経済が発展して幕府領内が豊かになり、日本帝国も豊かになることが目的だ。財産権も保障され、経営の自由度も上がっているのだから競争が激化するのは当然だ。官営側と競争する気がない経営者は会社を売却して転職することを勧める。保護を求める民間の経営者は、官僚主義に染まった官僚と同類に過ぎない」。


 こうして、官営側と民間は相互に競い合って競争力を高めた(民間企業の方が成績は良い)。幕府は競争による寡占化は認める方針であり、独占化を防ぐために規制緩和を進めた。これによって、経済は発展し、幕府の官僚機構も効率的だった。また、海外貿易や海外投資による黒字もあって、幕府の財政は余裕ができた。


次に、幕府は裁判所の権限を現在の裁判所と同じにした。裁判官の独立性を強め、弁護士も制度化した。経済活動が活発化した上に、官民が互いの分野に参入してきたので紛争も増えた。身分制度によって官の側(武士や上級士族)が有利であり、民の側(中級~下級の士族や町人)を圧迫していた。これを是正するために、裁判所が強化され、弁護士も制度化された。なお、裁判所の裁判官は下級裁判所(一審)と中級裁判所(二審)が民事専門裁判官と刑事専門裁判官で構成され(ここで大半は結審した)、高級裁判所だけが民事と刑事を管轄する裁判官で構成されていた。

1680年には法務省も創設され、武士や上級士族が下の身分に圧迫を加えることを抑制するようになる。こうして、武士階級の職権乱用は抑制されていった。また、法務省は士族軍の町奉行所や士族所から権限を委譲されて民事事件を担当した。なお、士族軍は寧ろ歓迎している。既に仕事が多かったし、自分達の本務ではないと考えていたからだ。


 幕府が騒乱を乗り切れたのは、幕府の国内向け諜報機関の特別財務局に拠るところも大きい。織田幕府の将軍が国内と国外の情勢を的確に把握できたのは特別財務局と対外事務局のおかげだった。

特別財務局の表向きにしていた任務は、武士や上級士族の金融犯罪および脱税の取り締まり、偽札取り締まり、武士や上級士族が有罪になった場合の資産の凍結と差し押さえ、大使館などの在外公館の監査、諸藩が幕府領の銀行などから借りている借金を徴収することだった。実際、その任務も重要だったが、裏の任務として反幕府の人物と団体、幕府の脅威になる恐れがある人物と団体、犯罪組織、諸藩および藩主などの藩上層部を監視する任務があった。


表向きの任務で、諸藩も含めて全ての財務情報を閲覧できる権限が与えられていた。金の動きを辿れば、不穏な動きが露見することは多いので裏と表の任務は正に表裏一体だった。当然、国内のあらゆる組織にスパイを確保し、工作員を潜入させていた(ただし、暗殺の権限はない)。基本的には国内だが、国内発の案件の場合、特別財務局は海外でも追跡できる(対外事務局は逆)。特別財務局は対外事務局と同様に、表立って行動する時は幕府軍の憲兵局か士族軍の公安局と合同で行動し、同じ制服と腕章を身に着けて目立たない様にした。当然、裏の任務で実績を挙げても特別財務局や対外事務局の手柄とはされない。


 特別財務局や対外事務局の裏の任務を知っているのは、征夷大将軍、大老(征夷大将軍に次ぐ幕府の№2)、幕府軍の軍情報局長(軍情報局は国防省の直属。陸海軍の両方から選抜される。情報局長の階級は中将。他と違い、征夷大将軍が任命する。国防大臣や大将の命令に従うが、征夷大将軍にも報告する)幕府陸海軍の憲兵局の局長(共に少将。憲兵局の局長は征夷大将軍が直々に任命する。国防大臣の指示に従うが征夷大将軍にも報告している)、士族軍の公安局の局長(少将。以下、幕府軍の憲兵局の局長と同じ)、各御公儀裁判所の首席裁判官(他の裁判官と違い、征夷大将軍が任命する)、大蔵大臣と大蔵省の高級官僚4名(彼らが予算を改竄して対外事務局と特別財務局の裏の任務の予算を捻出する。当然、高級官僚4名も征夷大将軍が任命する)だけだった。


他の大臣や老中などの上層部は対外事務局と特別財務局の任務が表沙汰にされている任務だけでないことに気づいていたが、詮索する者は解任された。当然、中級から下級の者は何も知らない。このため、特別財務局や対外事務局の工作員が士族軍の侍所や町奉行所などに逮捕されてしまうこともあった。その場合、工作員は罪を認めて刑務所に入る。そして、暫くしてから秘かに刑務所を出る。刑務所の部屋には代りの罪人が入れられる。なぜ、こういうことが可能かというと、刑務所を管轄しているのが公安局と憲兵局(憲兵局は軍刑務所と国外の刑務所)だからだ。さらに、地方の方言や文化についても訓練されており、幕府領以外の藩の言葉を話した。当然、地元の言葉を話す人間が長期、潜入した(平均3年)。このため、特別財務局の工作員は怪しまれることなく、活動できた。

特別財務局は正に「秘密警察」であり(今回の資料公開まで殆ど知られていなかった)、幕藩体制を支えた柱の一つだった。特別財務局の局員は功績を明らかにされない代わりに幕臣の中で最も高額の給料を与えられ、納税の義務も免除されていた(対外事務局も同様)。


なお、対外事務局や特別財務局と密接に連携した憲兵局と公安局の権限は次の通り。士族軍の公安局は国内専門の諜報活動、組織犯罪に対する取り締まり、反幕府の個人および団体に対する取り締まり、藩を跨いだ犯罪の捜査、刑務所の管理、出所者や執行猶予者の監視、スパイの摘発が任務だった。公安局は表沙汰にしていなかったが、刑務所を管理していることを利用して受刑者をスパイにしていた。それを利用して、独自の諜報活動も行っている。当然、工作員を潜入させたりもしている。特別財務局の活動と重なる部分も多く、特別財務局にとっては絶好の隠れ蓑になった。こうなると、対立が発生しそうだが、密接に連携していた。


 両局の局員の訓練所は共通であり、上級幹部は両局を行き来していた。公安局の上級幹部にとって特別財務局への出向幹部に選抜されることは名誉なことであり、公安局に戻ってからの出世に繋がった。士族軍の最高司令官である大将の三割は特別財務局に出向した経験があり、公安局の長官は全員が特別財務局への出向を経験していた。また、特別財務局の功績も公安局の功績とされたので、公安局が協力するのも当然だった。公安局は日本国外での活動を禁止されていたので、海外に容疑者が逃げた場合は特別財務局の協力が不可欠だったこともある。


 次に、軍憲兵局は、軍内部での警察活動、陸海軍人の監視、軍情報局に対する監査、占領地での警察活動と治安維持を目的とした諜報活動、占領地でのプロパガンダと検閲、軍内部と日本国外の拘置所と刑務所の管理、スパイの摘発を任務とした。憲兵局は対外事務局と密接に協力し、両局の協力関係は公安局と対外事務局の協力関係と、ほぼ同じだ(憲兵局は日本国内での活動が禁止)。


一方、軍情報局と対外事務局の関係は緊張があった。両者が相互に監視するのを任務としていたし、軍情報局と憲兵局は対立関係になりがちだったからだ。相互監視をしていた上、占領地での諜報活動とプロパガンダ活動を巡る対立があった。それでも上級幹部は出向で行き来しており、決定的な対立は避けられていた。幕府が世界に先駆けて諜報機関を広範に整備したのは外国に加えて、諸藩が脅威となっていたからだ。さらに、幕府は諸藩軍を対外戦争に動員したくなかったので使用できる兵力が限られていた。

このため、事前の諜報活動に拠る無駄のない戦略が不可欠だった。幕府軍が対外戦争で的確な戦略と戦術を実行できたのは、対外事務局と軍情報局の諜報活動に拠るところが大きい。幕府軍は事前に、現地の詳細な地図を手にし、現地の情報(町、要塞、港、気候、文化、疫病、水源の位置、住民の態度など)を入手できた。また、国内と国外で一貫した諜報網があることは外国や諸藩と反幕勢力に対処する上で有効だった。対外事務局と特別財務局は情報分析も的確な場合が多く、征夷大将軍や大老から信頼されていた。


 両局は工作員の活動や秘密工作の故に他の諜報機関から際立っていたわけではない。両局が優秀だったのは、他の諜報機関からの報告や公開情報を自局の情報と併せて分析する能力が優秀だったからだ。両局は征夷大将軍の直属であり(表向きは大蔵省と外務省の所属)、前述の関係と併せて他の諜報機関と協力しながら幕府を支えることになる。こうした諜報機関の制度を完成させたのは信就だった。信忠の頃から整備され始めていた諜報機関を機能的に運営した信就は、諜報機関に対する要求も的確だった。「どのような情報が欲しいか」を諜報機関に要求しなければ、諜報活動が機能しないことを理解していたからだ。また、専従の補佐官を置いて諜報機関の方でも「征夷大将軍などが、どのような情報が必要としているか」を把握させ、諜報機関の方から積極的に征夷大将軍などに報告させるようにする仕組みも確立した。


後に、権限が分化され、幕府支藩の藩主や大老に対しても対外事務局や特別財務局が報告するようになったが、大枠は変わらなかった。信就は歴代将軍の中で、最も諜報活動の運用に秀でており、日本帝国が領土拡大に成功したのも当然だった。なお、幕藩体制下で諸藩は幕府が広範な諜報網を国内外に構築していたのを殆ど知らなかった。特に、対外事務局と特別財務局の裏の任務については、三藩しか気づいていたことは確認されていない(島津氏の薩摩藩、北条氏の陸奥藩、鍋島氏の広島藩)。この三藩にしても諜報活動の全容は把握していなかった。


 信泰に征夷大将軍の地位を譲った織田信就は大御所に就任しなかった。そのまま、引退した。信就は自分が憎まれていることを自覚していたからだ。信泰が外交と軍事についても主導することになった。騒乱を乗り切り、財政再建を成し遂げた信泰は、次の領土拡大の狙いを北方に定めた。山丹総合会社が北方を影響力下に置いていたが、併合は達成できていなかった。山丹総合会社は強引な併合が軍事経費の増大を招いて、結局は会社の損になると認識していた。幕府は台湾や東南アジアに進出することに忙しく、北方に関しては山丹総合会社に任せていた。しかし、ロシア人の東方進出が始まっていた。当初、幕府はロシア人が牧草も乏しいユーラシア北東部まで遠征してくるとは考えていなかった。


1640年代からロシアの探検隊が清帝国と衝突するようになっても遠征が困難で、当時は価値のない土地をロシアが本気で征服しようとしているとは考えていなかった。このため、山丹総合会社はロシア人を多数、雇用していた程だった。

しかし、1651年にロシアがアルバジンに砦を建設すると、幕府は警戒心を強めた。

1652年、山丹総合会社に雇用されていたロシア人の従業員は割増しの退職金が支給された上で全員が解雇された。一部はロシアに帰ったが、大半のロシア人は日本帝国に帰化して山丹総合会社の下請け会社に雇用され、現地に住みついた。その後も、清に攻撃されてロシアの東方進出は足踏みした。その後も清とロシアの国境紛争は続いたが、ロシアの進出スピードが低下したこと、幕府が東南アジア方面への進出やスペインの排除に全力を挙げていたことから北方は従来のままだった。しかし、ロシア帝国が進出を継続したこと、財政再建も進展したことから北方全域の制圧に踏み切る方針を決定した。幕府陸軍が現地人を圧倒できる軍事力を備えたこともあった。


 幕府陸軍に関しては財政再建中も怠りなく、強化、最新の装備と戦術に関する研究が行われていた。幕府は一国の支配権を決めるのは陸軍であることを理解していた。このため、財政再建中も陸軍関連の予算は増額されている。画期的な点はフリントロック式銃とソケット式銃剣の導入だ。


まず、フリントロック式銃は1630年代に、日本帝国に輸入されていた。幕府陸海軍でも1632年に試験運用が行われている。しかし、幕府陸海軍とも採用しなかった。フリントロック式銃はフリントの反動で銃がブレルので火縄銃よりも命中率が低かったからだ。火縄を携行しなくて良いという利点はあったが、新式銃に更新する程のメリットはないと判断された。そして日本では良質の燧石が少なく、輸入に頼るしかなかった。


しかし、1640年に幕府の陸軍工廠がフリントロック式ライフルの試験を行ったところ、良好な命中率が得られた。このため、直ちに採用が検討されたが、当時は砲兵隊の拡充が優先されて採用されなかった。その後も、幕府は、軍事援助、海軍の大幅増強、正統戦争などに予算が必要でフリントロック式銃の導入は後回しにされた。正統戦争が終結した1660年から漸くフリントロック式銃の導入が始められた。各国や日本国内から提案されたフリントロック式銃の試験が行われ、幕府陸海軍にオランダ製のヤクトゲベール銃が採用された(ゲベールはドイツ語で銃の意味だが、幕府陸軍の翻訳ミスで、こちらが定着した)。ヤクトゲベール銃はオランダ製のフリントロック式の前装ライフル銃だった。


これは少し驚かれた。当時、ヨーロッパでもフリントロック式銃の導入が始まっていたが、何れも滑空式の前装銃だった。当時のライフル銃は弾がライフリングに引っかかるので装填に苦労した。このため、一斉射撃を基本とするヨーロッパの軍隊ではライフル銃が正式採用されることは躊躇われた。しかし、日本の火縄銃兵部隊は命中率を重視する各個射撃が基本だった。オランダ軍の教練が導入されても、この大枠は維持され、実際に効果的だった。このため、ライフル銃が導入された。幕府陸軍は燧石を輸入に頼るなら、命中率の良いライフル銃を採用した方が良いと判断した。


 更に、訓練を大幅に変更しなくても良いとの利点があった。火縄銃兵部隊だけを新規に訓練すれば良いし、命中率を重視する日本の火縄銃兵部隊にとって変更は困難ではなかった(燧石の輸入も少なくて済む)。さらに、当時はヨーロッパでもフリントロック式銃兵部隊の運用方法は模索中だった。プラグ式の銃剣は既に登場していたが、銃口に差し込む方式だった。差すと装填ができない上に、外れやすかった。このため、ヨーロッパでも導入を敬遠する軍も多かった。幕府陸軍は以上の様な事情からフリントロック式の前装ライフル銃を採用するという珍しい決定を下した(幕府の士族軍も同時に採用)。


 一方、幕府海軍はゲベール銃(フリントロック式の滑空銃。同時に、プラグ式銃剣も導入)とヤクトゲベール銃の両方を採用した。幕府海軍が両方を採用したのは接舷戦闘も多い当時の海戦ではフリントロック式の滑空銃も有効だったことによる。それに、幕府海軍は陸軍に比べれば日本人兵士の数は少ないので兵器の更新や訓練の変更が楽だった。


 こうして、採用されたヤクトゲベールは1664年から始まった騒乱鎮圧に大きな威力を発揮した。幕府陸軍と士族軍のライフル銃兵部隊は火縄銃と同じ発射速度で発砲し(1分間に1発)、約180mから的確に暴徒を射殺した。幕府陸軍と士族軍のライフル銃兵部隊は徹底的に訓練され、鉄の槊杖を使用していたので火縄銃と同じ発射速度で発砲できた(火縄銃は無理をすれば、1分間に3発の発射速度で発砲できたが戦場では無理だった)。その一方で、幕府陸軍と士族軍も全兵にフリントロック式銃と銃剣を装備させたいと考えていた。全体の火力を上げた方が良いのは自明の理だったからだ。このため、プラグ式銃剣に代わる銃剣を外国まで含めて公募していた。


 1678年に発明されたソケット式銃剣は待ち望まれていた物であり、試験運用を経て1680年から急速に配備されていった(同時に、幕府海軍も採用)。順次、長槍兵部隊はゲベール銃とソケット式銃剣を装備する戦列歩兵部隊に転換されていった。ソケット式銃剣の採用は世界に先駆けたことであり、国友1612型で採用された金属製の槊杖とともにヨーロッパの陸軍にも影響を与えた。国友1612型の前は、木製の槊杖が使用されていた。オランダ軍やポルトガル軍から各国に伝播していく。ソケット式銃剣も同様。イギリス陸軍は予算不足のせいか、どちらの導入にも消極的だった。燧石の輸入量が増大することは幕府にとって頭の痛い問題だったが、諸藩も脅威だと考える幕府にとって軍備の質の向上は不可欠だった。フリントロック式銃とソケット式銃剣の導入により、幕府陸軍は北方の先住民に対して決定的に有利となった。


 北方の先住民が無知だったということではない。先住民の多くは直ぐに銃の操作を習得して抵抗した。しかし、先住民には決定的に不利な点があった。火器や弾薬の製造能力を持っていなかったことだ。このため、戦闘が続くと、武器弾薬が底をついてしまい、敗北した。それでも、銃兵が火縄銃を装備している時代は、他の兵は槍を装備していたので先住民にも対抗できた。火縄銃兵が威力を発揮できるのは槍兵などの援護を受けているからであり、そうした連携を崩せば先住民が勝つことは可能だった。幕府は植民地の戦闘に専念できる状況ではなかったので戦場に投入できる兵力は限られていたし、兵站も大々的に行うこともできなかった(しかも、日本人は寒冷地への適応能力が低かった)。このため、先住民の保有する火縄銃で充分に対抗できた。このことが幕府を自制させていた。


 ところが、フリントロック式銃とソケット式銃剣の登場が状況を劇的に変化させた。全員が均一な火力を発揮できるようになったことで、連携を崩しても侵攻軍は崩れにくくなった。さらに、先住民がフリントロック式銃を装備しても(加えてライフル銃も)、密輸に頼るしかない先住民側は兵站面の負担が増大し、武器弾薬が欠乏して敗北する。銃の操作や戦術に優れていたアメリカのインディアンが植民地者に敗北したのも同様の要因だった。


 なお、幕府陸軍や山丹総合会社の戦列歩兵部隊は他国や日本の多くの藩の戦列歩兵部隊と違い、全員がヨーロッパの軽歩兵部隊の様に小隊や分隊の単位で戦闘を行うことが出来る様にも訓練されていた。(現代の軍隊と比べれば密集しているが)。これは、幕府陸軍や山丹総合会社の兵士達が身分制度によって武士の身分が保障されていたので逃亡の心配が少なかったことによる。なお、外国人の傭兵も武士と同様の金銭面と医療面での保障が行われていた。10年の契約期間が終わると、希望すれば日本帝国に帰化することもできた。このため、先住民側が地形を頼りに抗戦しても、抵抗は長続きしなかった。


 幕府陸軍、山丹総合会社軍は1682年から全面的な侵攻に踏み切り、樺太と千島列島を1683年には併合した。幕府陸軍は山丹総合会社軍から冬季戦の指導を受けており、侵攻は順調に進展した。その後も侵攻は続き、1690年までにカムチャッカ半島やマガダンなどを始めとするオホーツク海一帯を征服して併合した。なお、幕府の北方征服は他国と比べれば穏やかだった。先住民の権利を侵害しても保障がなされ、幕府の支配下に置かれると先住民の人口は増えている。


 勿論、先住民が喜んで征服されたわけではなく、各地で熾烈な戦闘が発生した。しかし、前述の要因で先住民側は敗北していった。さらに、山丹総合会社が長期の経験を活かして先住民側を分裂させ、懐柔していった。山丹総合会社は現地の文化や部族同士の関係などを熟知しており、部族を懐柔させるのは難しくなかった。さらに、先住民の部族同士も対立があり、一致団結したことは一度もなかった。こうして、幕府は北方の征服と併合を達成した。当時、アラスカも併合すべきだとの意見もあったが兵力不足で実行されず、周辺の島々(アリューシャン列島など)が併合された。幕府にとって不本意なことに日本人の入植者が集まらず、アイヌとヨーロッパ人(ロシア人を除く)を入植させるしかなかったからだ(オンドルかペチカの家屋を建てること、ジャガイモとパンを主食とすることなどの規則による)。


 これらの入植者には徹底した日本語教育、国旗の掲揚や国歌の斉唱が義務付けられた。ナショナリズムが強調されていない時代では珍しいことだったが、幕府はアイヌやヨーロッパ人の入植者達が自然な忠誠心を持つのは不可能だと判断して、この方針を採用した。幕府領内でも同様のことが始まる。入植者にだけ行わせるわけにはいかないというわけだ。幕府は同時期にグアム島周辺の島々など中部太平洋一帯も併合している。こちらは、漁業資源の確保、捕鯨、ヨーロッパ各国の接近阻止が目的だった。こちらは割に諸藩からも入植希望者が多かったが、数年ごとに、土地と家を転売して日本に帰る日本人が多かった。このため、中部太平洋の日本人の人口は増えず、幕府を悩ませている。こうして、信泰の時代に日本帝国は大幅に領土を広げた。


 幕府陸海軍と諸藩軍の差が明白になってきたのも、この頃だ。幕府陸海軍は実戦経験を積み、組織改革を何度も行って、世界屈指の強さを誇る軍隊に成長していた。加えて、イギリス、オランダ、ポルトガルの各国軍に参加した幕府陸海軍の将兵達によって絶え間なく実戦経験が蓄積されていた。また、是等の将兵達の報告書も教訓に取り入れられ、将官達や幕閣達に読まれ各種の教練本にも活かされていた。当時の軍隊として極めて異例な事だった。是は、外国に加えて諸藩が幕府にとって脅威であり、軍隊が強力かつ効率的でなければならなかったからだ。


 幕府陸軍は当時のヨーロッパの軍隊と比べても強力だった。ライフル銃兵部隊に支援された戦列歩兵部隊は強力であり、オランダ軍などへの援兵でも活躍した。幕府陸軍や幕府海軍の海兵隊の戦列歩兵部隊は従来の槍兵の役割を果たし、ライフル銃兵部隊は従来の火縄銃兵部隊の役割を果たしていた。幕府軍の制服は陸海軍とも共通であり、鉄製の尖り笠、マンテル、ズボン、バフコート、軍靴だった。鉄製の尖り笠や革製のバフコートは剣を防ぎ、銃剣に対しても、ある程度の防御効果があった。幕府陸軍が射撃戦を基本としつつも白兵戦も少なくないと認識していたことによる。

 実際、ヨーロッパでも白兵戦は少なくなかった。尖り笠、制服とも色は黒だった。刀は装備していたが、騎兵隊用のサーベル1本だけを士官、下士官、兵が帯びていた。軍服には、階級章が隠せる覆いが付けられていた。両肩に錦切れと呼ばれた肩章、織田家の家紋である織田木瓜の肩章を付けている。


 騎兵部隊を除く全員が小銃を携行していた。狙撃を警戒したためだ。日本の火縄銃兵部隊は各個射撃が基本なので、士官や下士官が兵士と違う装備をしていると狙い撃ちされたからだ。このため、当時の軍服としてはカムフラージュに配慮していた。ベルトも黒でボタンも黒だった(ヨーロッパの戦列歩兵は白のベルトや金色のボタンを狙い撃ちされた)。騎兵部隊に関しては、基本的に、正統戦争の頃と変化はなかった。歩兵との連携が前提なので、野営や歩哨以外では小銃を携行しなかった。このため、幕府陸海軍は騎兵銃を採用していない。工兵部隊と砲兵部隊はヨーロッパの軍隊と同水準だった(工兵部隊は幕府陸軍によって正式化され、オランダ軍が続いた。その後、各国も工兵部隊を正式化する)。


 なお、この時期に榴弾砲も正式装備として導入された。しかし、この時期は幕府陸軍も扱いに慣れていなかった。攻城戦でしか有効に活用できなかったのだ。当時の榴弾は火薬の爆発力が低いので口径の割に威力が低かった。更に初速が遅く着弾まで時間が掛った上に、導火線式なので爆発前に敵部隊が駆け足で逃げてしまう事が多かった。このため、当初は第1攻城旅団と教導砲兵旅団にのみ配備されている。有効活用されるようになったのはスペイン継承戦争やインドでの戦争などでの経験とデーターが蓄積されてからの事だった。


 なお、規律の維持に関して激しい体罰が幕府陸海軍でも規定されていた。当時のフリントロック式銃を使用した戦闘では戦列歩兵部隊が撃たれるのを覚悟で密集隊形を維持する必要があったからだ。しかし、幕府陸海軍と幕府が組織した外国人部隊では体罰などの制裁は憲兵の監視下で行われた。しかし、バフコートや尖り笠の上からで怪我をすることは少なかった。後遺症を残すような制裁は厳禁されており、違反した将校や下士官は軍法会議の後で銃殺刑に処された。体罰などの制裁に頼るだけの死間や下士官は降格か文官に転属処分となった。これは幕府陸海軍の兵士達が武士(ないしは準ずる身分)であり、強い立場にあったからだ。


 また、幕府も当時のヨーロッパの戦列歩兵部隊を再現する気は全く無かった。当時のヨーロッパ風の統制を単純に模倣すると、政権基盤が崩壊する怖れがあったからだ。幕府陸海軍にヨーロッパの戦列歩兵戦術の気風(激しい体罰、虐待など)が伝染するのを嫌って外国人部隊の兵士達も同じ待遇にした程だった。このため、ライフル銃兵部隊を中心にした射撃戦を基本とした戦術を採用した。戦列歩兵部隊も散開戦もできる万能歩兵部隊として訓練した。諸外国に比べて費用は掛かったが、時代を先取りする結果となった。幕府陸軍部隊と幕府海軍海兵隊は如何なる地形にも対応できる部隊として活躍した。オランダやイギリスも軽歩兵部隊として東南アジアやインドで有効に活用した。幕府陸軍の優れた特性は日本帝国の強みの一つにもなった。


 一方、幕府海軍はヨーロッパ海軍の主力と対決する機会がないこともあって、1等艦が配備されていなかった。3等艦(74門艦)を主力にして、5等艦とシーベックが補助していた。しかし、士官と砲術は優秀であり(既に、艦砲をフリントロック式に切り替えていた)、水兵の士気も高かった(水兵の待遇が良く、艦自体も居住に配慮されていたため)。1668年から漸く1等艦の建造が開始された。幕府陸海軍が強力だったのに対し、諸藩軍は弱体化していた。幕府が対外戦争に極力、諸藩軍を動員しない方針だったので実戦経験が積めず、組織改革もできなかった。それどころか、幕府の軍事力に依存する空気が強まっており、戦術も装備も旧式だった。大部分の藩はプラグ式の銃剣とフリントロック式銃(ヨーロッパやインドから輸入した中古品も多かった)を装備した戦列歩兵部隊が主力であり、中には槍兵、火縄銃兵、騎兵、砲兵で構成された旧来の軍制を維持していた藩軍も数藩、あった。こうした状況は幕府の思惑通りであり、幕府は漸く諸藩の謀反を心配しなくなった(後知恵で言えば、元から心配過剰)。しかし、幕府の基本方針は天下布武であり、諸藩の軍事力の弱体化を引き続き放置した。その方が大半の諸藩にとっても望ましいことであり、幕府が信頼される最大の要因だったからだ。このため、19世紀になると幕府は慌てることになる。


 幕府が財政再建を進めつつあった1673年、清の康熙帝は呉三桂、尚可喜、恥仲明の支配する三藩の廃止に着手した。康熙帝は謀反が発生すると確信して日本帝国とオランダに、海上封鎖の準備を要請している。ところが、呉三桂などは謀反を起こさず、引退した。既に、反清勢力は存在せず、日本とオランダが清と同盟していたので勝算が薄すぎたからだ。康熙帝は元三藩の王を拝謁させ、忠義を褒めて日本帝国への移住を「穏やかに勧めた(脅迫)」した。呉三桂らは素直に従い、日本帝国に移住した。幕府は清からの要請に応じて、呉三桂らを佐渡に住まわせて島外に出ることを厳禁した。


 こうして、三藩を処理した康熙帝は1677年になってからロシアを攻撃し始めた。一連の武力行使でロシアをチタまで追い払い、1680北京条約を締結させた。会談と条約の締結は対等に行われたが、内容はロシア側に不利だった。ロシアは現在のザバカリエ地方から東への進出を禁じられた。幕府はロシアが遠ざけられたので、大いに安心した。


 清軍の主力はプラグ銃剣とフリントロック銃を装備した戦列歩兵で(漢人部隊。将軍や士官は八旗兵が多い)、八旗兵(満州人部隊。ヨーロッパの軽歩兵部隊と類似した戦術で戦闘する)が支援していた。この頃の清には、西洋の技術に対する拒否反応も少なく軍隊も平均的な強さだった。ヨーロッパの戦術が戦列歩兵を機械のように戦わせる戦術だったので漢人部隊を制御しやすいことが好まれたという事情もある。しかし、清は儒教を基本にした政治を行うようになり、後に弱体化していく。しかし、それは18世紀の後半になってからの話だ。康熙帝は国内を整備し、外征にも成功した。雍正帝、乾隆帝と発展していくことになる。この時代、日本帝国と清との関係は良好だった。


 1677年、77歳で信就は亡くなった。信就は歴代将軍の中で最も憎まれていた。確認されているだけで11回の暗殺未遂事件が発生し、影武者の一人が死亡した。しかし、信就は満足していた。幕府は順調に領土を拡大し、諸藩も幕府に依存するようになった。諸藩が謀反を起こす心配は大幅に減少し、経済も安定した。日本周辺の脅威も消えた。だが、死の直前も信就は信泰などに警告した。信就は市の一か月前に信秦を自室に呼んで1日中、話をした。


 信就「日本帝国は繁栄し、幕府も安泰となった。しかし、油断するな。諸藩は礼儀正しいが、本質は戦国大名だ。幕府が衰えれば、必ず謀反を起こす。そして、組織というものは盤石に見えても必ず衰退する場面が出てくる。なぜなら、組織は人間の集まりだからだ。よって、人間の体の様に病気になったり、衰えるのは避けられない。それを乗り切り、改革を成し遂げた国家や組織が生き残ってきたのだ。そして、衰退し始めた時に諸藩の力を借りてはならない。外国が侵攻してきた時でもだ。間違っても諸藩と一致団結して外国に備えようと思うな」。

信秦「父上、何故ですか?外国軍が侵攻してきた場合は諸藩を一致団結させるのは当然だと思います。外国が日本帝国を支配すれば、諸藩も破滅です。この道理が解らないほど諸藩が愚かだとは思えませんが」。

信就「それが解らんのだ。諸藩や反幕勢力は外国に通じるか、闇雲に戦争を叫ぶかのどちらかだ。そして、全ての責任を幕府に押し付ける。鎌倉幕府が元を退けて感謝されたか?朝廷や下の身分にしても同様だ。日本帝国は四方が荒れた海に囲まれた攻めにくい国だ。海が荒れていなければ、イギリスの様に侵略を頻繁に受けただろう。しかし、これにより外国よりも自国の勢力争いに関心が向きがちだ。攻められた経験が極めて稀だから当然だ。また、外国が明らかに強くても強硬な主張を繰り返す可能性が高い。自分達の責任だと思わず、外国に占領された場合の害を認識できない。よって、面子の問題から根拠なしで強気を装うのだ。

 また、こうした輩に限って平時からの富国強兵を嫌がる。負けたとしても酷い目に遭うことはないと無意識で思っている。日本帝国で尊敬されるのは周りに配慮しつつ責任を担い従わせる政権だ。誰もが配慮されるのは喜ぶが、責任を担わされるのは嫌う。よって幕府が諸藩に命令することはあっても諸藩と一致団結してはならない。諸藩に一致団結を促せば、諸藩の中の数藩は幕府が狼狽えているなどと言いだすだろう。そして、謀反が発生する。幕府が衰えているのを見た諸藩は日和見を決め込み、謀反側に勢いが付けば裏切るだろう。なぜなら、武力こそが武士の本質であり、成功してしまえば謀反は悪とされない。

 謀反が成功したら、幕府は無能だと言うだけの事だ。平清盛が頼朝や義経を助けて感謝されたか?延暦寺を攻めずに誉められたか?奈良の寺は焼いても僧達を粛清しなかった。そして、一族が滅ぼされたばかりか、未だに嘲られている。忘れるな、危機が迫った時に諸藩が考えることは、自藩の幕府を作ることだ。下の身分の者は自分が得をする方に味方するのだ」。

 信秦「それでは父上、外国に対しては屈服しかないということですか?」。

 信就「言葉が足りなかったな。日本帝国の臣民は、断固とした命令には忠実に従う。日本帝国の臣民は真面目であり、命令通りのことが実行されない危険性は極めて少ない。逆に自発的な行動は期待できない。幕府が命令すれば諸藩は忠実に従うが、諸藩が責任を担うことはない。

 よって、幕府は幕府だけで判断して危機を乗り切るしかないのだ。織田幕府の基本方針は天下布武であることを忘れず、諸藩を信じるな。目的について諸藩には意見を求めず、命令に従わせろ!ただし、方法については諸藩の意見を考慮しろ。幕府の姿勢が断固としていれば、諸藩は意見する時に良く考慮する。こうした意見は幕府の方法の死角を補う。神でない以上、幕府の方法にも弱点はあるからだ。しかし、決定は幕府が主体となって行うのが大前提だ。解ったかな?」。

信秦「確かに、理解しました。諸藩などの意見は参考にするだけです。実行するのは幕府の決定にします。幕府が第一の責任を負って諸藩を導くことが日本帝国の基本とします。諸藩などと責任を共有すれば破滅のみです」。

 信就「宜しい!もう一つ、言っておく。改革に当たっては自己の知恵を過信せず、先人の教訓に学べ。先人とは織田一族だけでなく、鎌倉幕府、室町幕府、戦国大名達だ。現在の視点から過去を見れば、何とも過去の人間は愚かしく見える。しかし、人間に未来を見通すことはできない。そして未来の人間から見れば、我々も愚かしく見えるのだ。そして、我々にも未来は見えない。以上のことを忘れるな」。

 信秦「父上、諒解しました。御任せ下さい。日本帝国は幕府と共に繁栄していきます」。

 その後、信就と信秦は思い出話や海外の情勢などを語り合った。信秦は信就の言葉を基本とした政治を行っていく。後の幕府の征夷大将軍も同様であり、幕藩体制の終了まで日本帝国の政治の基本となった。


 信就が亡くなった後で、信泰は幕府支藩の藩主、大老、大臣、老中(名誉職。大臣の多くは老中から征夷大将軍によって指名される)、顧問、特に信頼されている幕臣を集めて訓示した。

 信泰曰く、「幕府の基盤は盤石であり、日本帝国も繁栄している。しかし、天下泰平などと思うな。諸外国を見ろ。戦乱続きだ。そして、これからもだ。大国は、全て天下布武を基本方針にしている。中国に至っては中華思想を持っており、損でも他国を従属させようとする。そして、諸藩も礼儀正しくなったが、危機が迫れば本性を現すだろう。よって、幕府の基本方針は変わりなく天下布武である。

 幕府陸海軍の改革を怠らず、幕府の行政組織の改革も忘れてはならない。人間の集まりである組織は必ず、衰退する場面が出てくる。平時に改革を怠らないことで、漸く危機を乗り切ることができるのだ。平時に改革をできない組織が、大混乱を常とする有事に改革をできるわけがない。

 しかし、忘れてはいけないことがある。自分達の知恵を過信せず、先人達の教訓を参考にして改革を行うことだ。先人達がいるからこそ、我々は存在できる。未来を見れない我々が先人達よりも賢いと考えることほど、愚かなことはない。しかし、過去と現在は同じではないし、過去にも明らかな愚か者はいる。過去を繰り返すのではなく、過去を教訓にして改革を行うのだ。

よって、これを念頭に幕府の方針を示す。一つは、言うまでもなく天下布武である。

 二つ目は、{信頼されよ、同時に恐怖されよ。そして、常に公正であれ}だ。対象は、諸藩と人民だ。諸藩の脅威は言うまでもないが、人民に対しても警戒を怠ってはならない。室町幕府の衰退には土一揆も関係しているし、石山本願寺の例もある。最近では、父上の代に町人共の騒乱もあった。諸外国でも人民の反乱が起これば、王朝が衰退して謀反や外国の侵攻を招くのが常だ。しかし、時に不人気な政策を行う必要もある。

 しかし、清の様に独裁を行えば腐敗を招き、結局は国が崩壊する。なぜなら、王や皇帝は一人で全てを把握することはできないからだ。また、中央政府だけでも腐敗は進む。今の科学技術では地方の実情を把握するのは困難であり、腐敗は避けられない。つまり、藩が行った方が良い分野も多いのだ。よって、幕府は諸藩と人民に信頼されなければならない。同時に、恐怖されなければならない。平清盛が好例だ。恐怖されなければ謀反も防げず、尊敬も得られないのだ。そして、常に公正でなければならない。人間の判断には必ず、間違いが生じる。さらに不正を許す気持ちが生じれば、腐敗するのは避けられない。常に公正であるように努めて、漸く間違いの多くを避けることができるのだ。

 しかし、今、述べたことは何も特別なことではない。基本は、織田家の祖先達が行ってきたと同じだ。我々は祖先の遺産により、楽に政治を行える。油断せず、天下布武を行い、我々の祖先達と子孫達に対する責任を果たさなければならない」。


 こうして、幕府の基本方針は、「天下布武」、「慣習を基本にして不足を法律で補う」、「信頼されよ。同時に恐怖されよ。そして、常に公正であれ」の三本立てとされ、幕府上層部に訓示された。前の二つは公表されていたが、三つ目は非公表だった。しかし、訓示された人数が多く、公然の秘密だった。諸藩も知っていた。当時の諸藩は平和を楽しんでおり、幕府が神経質なのが理解できなかった。やがて、19世紀から始まる変化を予期していなかった。幕府も予期していなかったが、用心していた。この差が幕藩体制の崩壊の際、幕府にとって有利に作用することになる。


 信就が死去した後、信泰の統治は順調だった。信泰は憎まれておらず、経済が発展していたこともあって評判は上々だった。財政も健全であり、司法制度の整備も好感されていた。1690年に、北方地域が全て併合されたので幕府の威光は、さらに増した。台湾の統治も順調であり、この頃から日本人が続々と移住する。幕閣は征服地を植民地とせず、自国領とする方針を採る。このため、先住民にも幕府領の臣民としての権利を認めた。先住民に下民の身分を設定しなかった。無用な反発を招きたくなかったからだ。それでも、喜んで征服される人間は少数派であり、反乱は発生した。

 しかし、山丹総合会社の経験により幕府軍は征服地の占領政策に慣れており、硬軟両方の策で手際よく鎮圧していった。こうして、幕府内外の課題が一段落したのを見て、信泰は幕閣に重大な課題を極秘で、具体的な検討を行わせた。信久以来の念願である天皇を名古屋に移すことだった。天皇が京都にいたままでは天皇が幕府に対して反抗できる可能性があるという外観が残ってしまっていた。


 実際は京都全体が長城に囲われており、厳重に管理されていた。京都は戒厳令が普通だった。諸藩の武士の身分の者は藩主でも京都に入ることはできなかった。勿論、京都には藩邸もない。公家の手紙などは幕府の役人が代筆して配送していた。贈り物も幕府が注文を仲介して贈り、直接、贈ることは厳禁されていた。公家は幕府の役人に同行してもらわなければ京都から外出することができなかった。夜間は出入り禁止で、長城の内側に旅行者などが宿泊することもできなかった。事実上、朝廷全体が軟禁されていた。


 このため、天皇が幕府に反抗する可能性は殆ど無く、諸藩が天皇を利用して幕府に謀反を起こす可能性も殆ど無かった。京都は幕府領の真ん中だったし、前述の様に厳戒態勢が敷かれている京都で策謀を行うことは極めて困難だった。そもそも諸藩は謀反など考えていなかったが、幕府は諸藩が謀反を考え始めたら天皇を利用することを予期していた。このため、諸藩に謀反を考えさせないため、天皇を名古屋に移し、名古屋に建設する新城を御所にして征夷大将軍と天皇が同じ城に所在することを考えていた。天皇と征夷大将軍が同じ城にいれば、諸藩が謀反を考えることは非現実的になる(万が一、謀反が成功しても大義名分がないので政権の正統性がなく、他の藩に打倒される危険性が高い)。


 しかし、かなりの反発が予想されるうえに、天皇と将軍が住む城となると警備の観点からも大規模にするしかない。莫大な費用が必要なことは確実であり、これまでの幕府では、そこまでの余裕はなかった。しかし、1690年になると北方地域や中部太平洋の征服も完了し、台湾の開発も進展していた。いよいよ、時期が到来したかに思われたが、1688年からヨーロッパで大同盟戦争が勃発した。


 幕府はオランダやイギリスから参戦を要求されたが、断っていた。領土は現状で充分だし、何よりも幕府の内外の懸念が片付いた時期であり組織としての休養が必要だと判断したことによる。そして、軍事的な限界があった。幕府軍は外国人兵、諸藩からの武士と士族の志願者で構成される補助軍で補強されていた。これ以上、領土を広げると諸藩軍を動員する必要があり、それは幕府にとって最も避けたいことだった。しかも、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社に雇われていた日本人部隊、ヨーロッパ人部隊、インド人部隊もおり、再編成中(征服地の治安時に当たる部隊を捻出するため)だった。


 しかし、同盟国であるオランダ(極東同盟の範囲は台湾からインドネシアまで)、準同盟国であるイギリスの要請は無視できなかった。オランダと日本帝国の軍事上と経済上の利益は一致していたし、幕府はヨーロッパの大国であるフランスが東南アジアに領土を保有するのを好まなかった。このため、オランダやイギリスに資金援助や軍事援助(主にインド方面)が行われ、東南アジアのオランダ領、北東アジア~東南アジアと中部太平洋のシーレーンの防衛を幕府軍が肩代わりすることになった。幕府は、参与院に対して承認を1688年から要求していた。1690年、参与院は幕府の提案を承認した。


 1690年、幕府はフランスに最後通牒を発した。趣旨はフランスが通商破壊作戦を指定海域(北太平洋と中部太平洋、北東アジア~東南アジア沖)で行った場合、アジア方面のオランダ領(台湾南西部やインドネシアなど)を攻撃した場合は戦争状態に突入するということだった。フランスは日本帝国の最後通牒に驚き、フランスが最後通牒に抵触しない限り、日本帝国が参戦しないとの協定を日本帝国と締結した。フランスが妥協したのは日本帝国に参戦されると、インド方面からフランスが駆逐されるのは確実だと判断したからだ。また、フランス海軍の通商破壊作戦は大西洋が中心であり、東南アジア方面は重視していなかった。日本帝国が参戦してくるとインドや東南アジアのイギリス軍やオランダ軍が他に転用されるので、大西洋の作戦に支障をきたすことになる。


 これにより、日本帝国は参戦しなかったが、オランダやイギリスを大いに助けた。指定海域で幕府海軍は英蘭の商船をフランス海軍の私掠船から護衛し(私掠船は自国以外の船を本国政府の意向に関係なく襲撃することが多かった)、東南アジアのオランダ領の防衛を全面的に肩代わりした。また、インド方面の兵站を大幅に支援し、英蘭軍のインドでの作戦費用を全額、賄った。幕府軍の戦列歩兵部隊とライフル銃兵部隊は、インド方面の英蘭軍に従軍していた(主に軽歩兵部隊として使用)。イギリス東インド会社やオランダ東インド会社に貸し出されていた日本人部隊、ヨーロッパ人部隊、インド人部隊も加えると、インド方面の陸軍兵力の大半は日本軍だった。実質上、日本帝国は参戦していた。


 このため、フランスは激怒して全面戦争も検討したが、日本帝国が遠すぎること、敵国が既に多すぎたことから断念した。このため、幕府は天皇を名古屋に移すことを断念した。フランスと全面戦争になる可能性が高く、防衛態勢を固める必要があった。さらに、前述のような英蘭に対する軍事援助に加えて、英蘭本国の戦時国債も大量に購入していた。このため、莫大な軍事予算が必要であり、諸藩にも防衛態勢をとらせていたので構想の実現は無理だった。


 幕府は赤字の増加に対処するため、1692年から税制を信就の時と同じフラット税にし、特定財源も同じく大半を廃止した(1700年まで継続)。武士階級に対しても倹約令を発令した。3年後には解除。ただし、信就と同じく自身は赤字削減が進展する1697年まで倹約を続けた。幕府支藩の藩主、名門、高級官僚などは自発的に信泰と同じ期間、倹約を続けた。今回は、騒乱は起きなかった。


 主な要因は次の通り。第一に、戦時景気で経済が好調な最中に税制改革が行われたので弊害が出にくかった。製鉄産業、銅産業、真鍮産業、造船業、軍需産業、官営企業(幕府海軍工廠などがダミー会社を創設し、インド方面の英蘭軍の兵站業務を行っていた。特に港湾業務)、金融業、養蚕業、綿織物業が特に好調だった。時計製造、砂糖産業、茶産業、海運業も大幅に発展した(輸入量は大幅に減少し、逆に輸出が増えていく)。

 この時期に、オランダ東インド会社を通じて資源を購入し、日本で加工して輸出するパターンが定着する。農村部にも手工業が浸透していく。農村部の士族(富農など)が自分達の資金を集めて集団で出資し始めた(銀行は農村部に融資を行うことが幕府によって禁止されていた)。農村部の士族は都市部の士族に比べて所得が低く(ただし、茶や砂糖で大儲けしている士族もいた)、幕府への影響力も相対的に低かった(幕府は納税額の多い都市部の士族を登用する傾向が強かった)。身分制度を維持するための幕府による各種規制のため、長い間、この状態は変わらなかった。

 しかし、経済全体が発達し、農村部の士族が公債や配当で得た資金で手工業や養蚕業を自力で行うことが可能になった(養蚕業も流通過程を全て都市部の士族が押さえていたので、従来は農村部の士族が行うことは実質的に無理だった)。士族は行政の担い手だったので幕府は拒否することができなかった。ただし、規制は維持されていたので農村部の手工業が急速に発達したわけではない。それでも、農村部に変化が発生し始めたことは確かであり、19世紀になると身分制度を揺るがすことになる。幕府も含めて、誰も予期していなかった。


 第二に、幕府側が対応策に慣れていたこと。前回の騒乱の経験から税制改革は早めに行われた。戦争景気が持続している内に行えば、弊害は少なくて済むからだ。また、期間も短くて済む。

 また、幕府が一連の救済策を行ったこと。まず、労働基準法と最低賃金法を制定したこと。これにより、労働環境が改善され、景気が上向けば直ちに賃金が上がるようになった。町人の多くは景気の恩恵を直ちに受けられたので不満は少なかった。

 次に、労災法が強化され、労働監督局が司法省内に設置された。これまでは、労災法があっても雇用者が意図的に労働者を傷つけたか、他の法律に違反していた場合でなければ労災法は適用されなかった。士族軍の機関である町奉行所や士族所は自分達の仕事ではないと考えていたから不熱心で、町人や農民の労働者の訴えは無視していた。

 ただし、幕府の士族軍は士族に対しても武士に対しても他の法律は容赦なく執行し、拷問許可状なしでは拷問も行われなかった。戒厳令下で逮捕された者、反乱や暴動の現行犯、殺人などの重罪で指名手配された者、前科3犯以上の者以外の取り調べには拷問許可状が発行されることはなかった。多くの諸藩とは対照的であり、評判は良かった。労災法が強化されたことで不注意でも補償金を出さなければならなくなったので労働基準法の制定と共に労働環境の改善に寄与した。労働監督局は町人や農民の訴えに、熱心に対処した。

 次に、生活困窮者に現物支給(食糧や衣服)で援助が行われる制度が始められたこと(慈善法)。それと引き換えに、支給対象者は、道路や下水などの清掃活動、遺品整理、ゴミ収集、火災などの災害時の後片付けなどに従事させられた。支給対象者は施設に収容され、夜間の外出は禁じられた。これにより浮浪者は減り、治安も一層、向上した。

 次に、災害や犯罪などで発生した孤児、被災者、犯罪被害者に支援を行う制度が始まったこと。法務省が担当省になり、支援が始められた(不慮の犠牲者救済法)。こちらは現物支給だけではなく、現金も支給された。親族に引き取り手がいた場合などは現金を返済する義務があったが、毎月、僅かずつでも返していれば良かった(このため、完済されたことは少ない)。武士や士族が慈善事業として弁済を行い、返済の義務が免除された者も多い。


 以上の他にも、幕府は様々な対策や法律の細かい変更によって救済措置を行った。このため、町人や農民の多くは幕府に対して忠実になっていく。一連の幕府の救済措置に文句を言う士族もいたが(町人や農民に対して士族に近い権利を認めるため)、結局は納得した。町人が消費することで経済が成長するし、農民向けの商品(農村部の販売は町人階級に限られていた)が売れることでも同様の効果があることは理解されていた。それには町人や農民が所得を増し、没落から立ち直ることも重要だった。幕府の救済策は、士族のためにもなることだからだ。


 第三に、経済が成長し、全体の所得も伸びていたので中所得層から低所得層の半分には得なことだった。税制のおかげで好景気になり、給料は増えた。さらに、税金が安いから所得も伸びる。逆に、当初は低所得層の半分は苦しんだが救済措置が講じられていたし、好景気だったので結局は所得を増加させた者が多かった。生活困窮者には前述のような救済措置が採られていた。以上の様な主因で、今回、騒乱は起きなかった。信泰の評判は上々だった。


 実際、信泰は優しく協調性もあった。不慮の犠牲者救済法の救済措置を強化させようとし、援助の返済義務をなくそうともしている。このため、返済は努力義務とされ、僅かずつでも返済すれば良いだけとなった。返済の義務をなくすことも検討されたが、支給額が増大すると当時の経済力では財政が破綻する恐れがあった。このため、心理的なハードルとして返済義務が残された。救済措置の多くも信泰の指示で官僚達が立案して大臣に提案した。


 ただし、信泰は優しいだけではなかったし、操り人形でもなかった。閣僚や高級官僚に対する要求は厳しく、歴代将軍の中では最も交代が行われた(信泰に信頼され続けて信康の死まで幕閣に居続けられた閣僚は6人しかいなかった)。前述のように、内閣や省庁の体制を任期制にしたのも信泰であり、参与院で渋る諸藩(多くの諸藩はフランスとの全面戦争を恐れて幕府の提案に反対していた)を説得して英蘭両国への援助を承認させたのも信泰だった。信泰の治世で経済は大幅に発展し、諸藩も完全に幕府に依存するようになった。


 ただし、多くは信就時代の成果でもあり、信泰は仕上げを行った。しかし、任期制を導入し、征夷大将軍や幕府支藩の藩主の能力に依存しない政治体制を構築したことは19世紀の変化に幕府が対応できる重要な要因の一つになった。信秦は「私の成果は父の遺産に拠る。私は確実に実行した。是も重要だが、基本的には父の遺産による成果だ。一般の者は忘れても中央政府である幕府の人間は前の政権の功績を忘れてはならない。前の政権の功績を忘れないことは政権を謙虚にし、政策の実行に当たっての道標となる。しかし、猿真似では駄目だ。考え抜いて決定された目的の堅持と方法の柔軟な変更が重要なのだ」と述べている。


 1697年、織田信泰は亡くなった。信泰は征夷大将軍職を長男の信輝に譲らなかった。理由は、信輝が独裁指向だった上に過度の領土拡張主義者だったからだ。信輝は父の慎重姿勢に不満であり、領土を拡張するべきだとの意見の持ち主だった。

 このため、信泰は1689年に閣議の承認と幕府支藩の藩主全員の同意を取り付けて、1695年、征夷大将軍の地位を次男の信春に譲った。信春は能力不足と見られていたが、信泰は対外戦争の危険を冒すよりは良いと判断した。実際、信春は信輝と比べて断然、格が落ちた。特に、演説は下手であり、一度も演説しなかった。閣議でも信春は支藩の藩主や大臣達の意見に従うだけだった。このため、実権は九鬼鷹信(幕府支藩の志摩藩の藩主)と蒲生信家(幕府支藩の三河藩の藩主)が大老を交互に任命されて担うことになる。ただし、この二人は優秀であり、幕府の基盤は微動だにしなかった。


 また、最高顧問の小西吉信(小西元信の弟。内閣府の官房長官も兼務している)は非常に優秀であり、信春を補佐して当時の幕政に最も貢献した。九鬼派(鷹信は海軍の伝統がある九鬼家の中で異色の存在。山丹総合会社で勤務して会社から高い評価を受けて取締役になっていた。長男でありながら父に疎まれており、父は家督を譲りたがらなかった。父の死後に漸く幕府支藩の志摩藩の家督を相続した。九鬼派は国内政策を優先する。最優先課題は天皇を名古屋に移し、中央集権化を進めることだと主張した。九鬼派は士族軍の公安局や幕府軍の憲兵局に近い人物が多いので治安派とも呼ばれた)と蒲生派(信家は台湾総督府に勤務して、高い評価を受けた。台湾で副総督に昇進していたが、兄が急死した。このため、四男でありながら父が支藩の閣議の承認を経て幕府支藩の三河藩主に就けた。蒲生派は対外政策を優先する。最優先課題は獲得した海外領土の一層の開発だと主張した。また、英蘭両国への積極支援や東南アジア情勢への積極介入も二番目の優先課題として主張した。蒲生派は、台湾総督府や幕府の通商外交省に近い人物が多いので外地派とも呼ばれた)の対立を抑えて幕府の政策を適切に実行した。


 信光は無能ではなかったが、征夷大将軍に乗り気ではなかった。このため、小西吉信に情勢に応じて九鬼派と蒲生派を選ばせて政治を行わせた。信春が全く関与していなかったわけではないが、この時期の幕政は基本的に、小西吉信が大老職に九鬼鷹信と蒲生信家を情勢に応じて任命していくことで行った。全体の監査も小西吉信に任されており、小西吉信は異例なことに対外事務局と特別財務局に指示する権限を信光から与えられていた。


 1697年、大同盟戦争は終結した。ヨーロッパではフランスが戦局を有利に進めつつも、戦略上は反フランス同盟(イギリス、オランダ、ハプスブルク、ドイツ諸国など)の勝利に終わった。レイスウェイク条約で反フランスの国々は概ね領土を回復した。また、フランスのインド領は全てイギリス領(ジャンデルナゴルを中心とする地域)とオランダ領(ポンディシェリを中心とする地域)になった。当初の条約案ではフランスに返還されることになっていたが、幕府がオランダとイギリスに働きかけてフランスに返還させなかった。幕府の代表団の団長である小西元信(外務副大臣。当時、ヨーロッパにおける幕府の諜報と外交を統括。小西の姓は名誉として同家から与えられている)はイギリスの国王となっていたウィリアム3世に謁見した。一頻りの挨拶と雑談が済むと、小西は本題を切り出した。


 小西「国王陛下。言いにくいことを申し上げさせていただきます。貴国を援助し、同盟の義務以上のことをしたのはフランス王国の脅威を接近させないためです。もし、貴国などが自国の安全だけを優先するなら日本帝国はフランス王国と同盟するまでです。マキャべリは、寛容と忍耐をもってしては人間の敵意は決して溶解しないと言っています。もちろん、マキャベリは敗者ですし、ルイ14世が条約や約束を守る可能性もあります。しかし、ルイ14世は、過去のフランスに有利な根拠だけを一方的に抽出して領土を拡張しています。極めてマキャベリスト的な人物です。ルイ14世の信義を当てにするのは極めて危険だと思いますが?」。

 ウィリアム3世「確かに、ルイ14世は信頼できない。しかし、我がイングランドにもフランスと妥協する必要がある。御存知だろうが、フランスは強い。我が国の領土が増えるとはいえ、フランスとの講和を破談にすることはできない」。

 小西「国王陛下、御尤もです。しかし、日本帝国との友好が貴国にとって得なのは明らかです。我が国は間接的とはいえ、重要な貢献をしています。インド方面では事実上、参戦しています。ネーデルランド共和国とイングランド王国のヨーロッパにおける戦費も大幅に援助しています。仮にルイ14世が条約を守ったとしても、我が国と同様の事をすると思われますか?日本帝国は今後も貴国とイングランド王国を支援し続ける方針です。しかし、我々にも配慮があって良いはずです。ルイ14世の誠意に依存するか我々に配慮するか、どちらが得かは賢明な国王陛下にとり明確なはずです」。

 ウィリアム3世「ふむ、確かに貴殿の理屈は正しい。しかし、日本帝国において他人のための戦争について同意は継続できるのかな?外見上は日本帝国の利害に関係しないように見えるぞ」。

 小西「国王陛下、御心配は無用です。御存知でしょうが、幕府は軍事政権です。安全保障政策の重要性は下級まで理解しています。また、ネーデルランド共和国やイングランド王国と同じくカトリックへの警戒感は極めて強いです。この二つの要員が合わさりますから決意が鈍る筈もありません。また、先制攻撃以外は幕府内で全てが決定されます。ルイ14世の誠意よりは確かだと断言できます」。

 ウィリアム3世「安心した。日本帝国を信用しないのは愚かだ。では、次回の戦争についての協力も盛り込むなら直ちに合意しよう。日本帝国がネーデルランドと同盟国であり、イングランド王国とも極めて親しいのは神の恩寵だ」。

 小西「有り難い御言葉です。日本帝国にとっても両国と親しい関係にあることは幸運なことです。幕府の代表として、国王陛下の条件に同意を表明します。国王陛下は日本帝国との友好を尊重したことを決して後悔なさらないでしょう」。こうして、ウィリアム3世は次回の戦争でも日本帝国が同様の援助を行う条約を結ぶことを条件に同意した。


 ルイ14世はインドのフランス領の返還が日本帝国によって潰されたので激怒したが、結局は講和した。スペイン国王カルロス2世の死期が近く、スペイン王位がフランス王族の手に入る可能性があったからだ。そうなれば、フランス王国とスペイン王国は同君連合を形成することも可能になる。これは当時から懸念されており、ウィリアム3世が講和破綻の危険を冒して日本帝国の要求を受け入れたのも次回の戦争に備えて、日本帝国の支援を取り付けておきたかったからだ。イギリスでは反対意見も多かったが、自国領が増えるので議会も承認した。


 この後、1699年に日英蘭極東同盟が締結された。内容は、日蘭極東同盟と同じだった。同時に、フランスとの戦争が発生した場合、今回と同様の支援を行うことも明記された(例外はイギリスとオランダが戦争を起こした場合)。幕府は当時の最強国であるフランスの接近を阻止することができたので大いに満足だった。当時、イギリスの国力は発展し始めていたが、国内が不安定だった。オランダは経済的にはフランスよりも上だったが、陸軍と海軍の両方に予算を配分する必要があった。その上、絶えず、フランスの脅威に悩まされていたので幕府は脅威と見做さなかった。


 1701年、スペイン継承戦争が発生した。スペイン継承戦争が発生したのはカルロス2世の遺書をルイ14世が受諾してスペイン王を孫のアンジュー公にすると決めたこと、スペイン領ネーデルランド(現在のベルギー)に軍を進めた上にオランダ軍(レイスウェイク条約により駐屯が認められていた)を拘束したことが主な原因だった。幕府はイギリス、オランダ両国の要請に従って支援を開始し、フランスに最後通牒を発した。この時の大老は蒲生信家だった。この時点では九鬼鷹信も含めて九鬼派も反対しなかった。フランスの接近を事前に阻止しておくことは両派の共通認識だった。


 フランスの対応も前回と同じだった。フランスは、既にインドから追い出されていたので日本帝国と全面戦争を行う必要がなかった。ただし、感情面では最悪だった。当時、フランスでは日本帝国が最も嫌われていた。日本人は入国禁止だった。対して、日本帝国の方もフランスを嫌っていた。ナントの勅令を廃止してユグノーを追放したルイ14世は過激派の王と見做されており、カトリックの幕臣達を含めて嫌っていた。それを歓迎するフランスの臣民も嫌悪されていた。このため、スペイン継承戦争の開始と同時に日本からも全てのフランス人が退去させられた。しかし、フランス海軍の私掠船は殆ど来なかった。フランスは戦力に余裕が全くなかった。このため、私掠船にも幕府海軍の活動している地域での活動には罰金を科すと布告していた。このため、前回の戦争に比べると幕府軍は暇だった。


 このため、英蘭両国は幕府に護衛範囲の拡大を要請した。このことが幕閣で大議論になった。蒲生信家も英蘭両国の提案には難色を示した。イギリスにおいてトーリー党とホィッグ党が政争を繰り広げていたからだった。対外事務局はイギリスの政争が深刻であり、状況によっては勝手にイギリスが停戦しかねないという趣旨の分析を報告した。このため、イギリスがフランスと勝手に停戦した場合、日本帝国だけがフランスとスペインの敵意に晒されると判断した。一番の問題として幕府軍の戦力が足りなかった。既に、日本帝国の領土は本土に加えて、中部太平洋の島々、台湾、樺太、千島列島、カムチャッカ半島などのオホーツク海一帯、アラスカ沖の島々だった。これらの領土と周辺海域を守備する幕府陸海軍の部隊が必要だった。

 これに加えて、指定海域での英蘭両国の商船隊の護衛、両国の東インド会社の支援、陸軍部隊のインド方面への貸し出し、全面戦争に備えての予備戦力を確保しなければならない。これ以上、戦力増強は諸藩軍を動員して海外派兵させなければならないので不可能だった。諸藩軍を動員して外征をさせれば恩賞を出さなければならないからだ。それに、折角、諸藩が幕府に依存しているのに、その状態が崩れてしまう。織田幕府が鎌倉幕府や室町幕府の失敗を繰り返さないことが幕閣共通の至上命題だったからだ。


 そして、イギリスに対する懸念もあった。イギリスはオランダと違い、島国であるという利点がある。このため、海軍に重点を置き、片方で同盟国を支援できる。陸軍は規模を拡大し過ぎる必要がないので質も維持できる。対外事務局、軍情報局はイギリスの勢力拡張を警戒していた。幕府の対外政策の基本方針はヨーロッパの大国の日本への接近阻止なのでイギリスが日本の近くに接近してくるのは好ましくないことだった。このため、これ以上は戦争に深入りしない方が良いと蒲生派も判断していた。このため、条約に定められた通りの援助が続けられた。


 戦争の経過はフランス王国がバイエルンを支援してハプスブルクを追い詰めたが、イギリスのマールバラ公が指揮する英軍を中心とする連合軍がフランス軍を打ち破っていった。連合軍はフランス軍を相次いで破り、フランス国内に侵入した。1709年にはフランスが追い詰められて和平を各国に求めた。ところが、連合側の条件が厳しすぎて和平は破綻した(ルイ14世がフェリペ5世の退位を実現できなければ戦争を再開するという条項が原因だった。ルイ14世の孫とはいえ、フェリペ5世は言いなりではなかった)。このため、戦争は続き、フランスは持ちこたえた。イギリスでは政争が続き、厭戦気分が蔓延していた。トーリー政権からマールバラ公も妨害されるようになり、戦局は膠着状態に陥った。イギリスは単独でフランスと交渉を深めていく。


 1713年、ユトレヒト条約でイギリス、オランダなどがフランスと講和した。ハプスブルクも1714年にフランスと講和した。今回は日本帝国の貢献は目立たなかったが、インド方面(前回と同様、作戦費用は全て日本帝国が支出。両国に幕府陸軍の部隊も貸し出されている)も安定し、東南アジアや指定海域では平穏な経済活動が営まれていた。英蘭本国の戦時国債も大量に引き受けた。この事は両国の軍事行動を大いに助けた。


 この戦争中に、モーリシャス、ブルボン島(現在のレユニオン)がイギリス東インド会社軍に占領されてフランスはインド洋から完全に排除された(幕府が資金を提供した)。また、海賊の拠点だったモーリシャスもイギリス海軍によって占領された。英蘭両国は日本帝国との同盟関係が有益であることを改めて実感した。このため、三国の友好関係は深まっていく。しかし、幕府はイギリスを警戒し始めていた。イギリスが強国になってきたこと(自国に侵攻される危険性が増す)、同盟国を見捨てて(ある局面では騙して)戦争を離脱したためだ。また、イギリスとオランダの関係が次第に対立していくことになるので幕府の外交政策は困難さを増していく。これに伴って、蒲生派と九鬼派の対立が激しくなっていく。


 1709年、織田信春は征夷大将軍の地位を長男の織田信邦に譲った。織田信春は大御所にも就任せず、完全な隠居生活に入った。信邦は引き続き、小西吉信を最高顧問兼官房長官とした。このため、信春時代の政治力学が続いていくことになる。


 この頃、日本帝国は安定しており、本土は平和を謳歌していた。この頃から、洋服と靴が一般にも普及していった。洋服は幕府陸海軍が軍服を洋服にしたことから日本に普及し始めた。当初は幕府陸海軍だけが洋服の軍服の着用を許可されていた(当初、幕府の士族軍も尖り笠、筒袖、陣股引、軍靴、バフコート)。幕府陸海軍だけが着用を許可されることで洋服の軍服が特別な軍服であることと認識させて、転換に抵抗をなくした(特別な服と言うことで当初から人気があった)。このため、士族軍の兵士達からも洋服の軍服を求める声が起こり、士族軍にも洋服の軍服が導入された(士族軍の軍服の色は茶色。肩章は織田木瓜のみ)。当初は綿が割高だったこともあり、洋服は普及しなかった。


 しかし、シーレーンが安定してインドから綿が大量に輸入されるようになってから状況は変化した。士族軍が全面的に洋服の軍服に切り替え、幕府海軍が水兵向けに水兵服(幕府海軍の海兵隊は幕府陸軍と同じ。水兵は身軽に動けるように筒袖、陣股引、シャコ帽をしていたが、洋服で灰色の水兵服に変更された)を採用した。幕府海軍が幕府海軍の水兵だけではなく、商船隊の船員にも着用を許可したことから洋服が済し崩し的に普及した(有事の際は日本の全商船が幕府海軍の指揮下に入るため。ただし、肩章は織田木瓜のみ。藩の所属を問わず同じだった。諸藩の海軍も同様)。


 これにより、洋服の需要が増大し、綿織物産業が発展する切っ掛けともなった。また、幕府海軍が採用したシャコ帽のおかげで断髪も流行した。幕府海軍がシャコ帽を採用したのは丁髷が洋上で乱れることが多いので断髪させて短い髪形にさせるためだった。例によって、当初は幕府海軍だけに限定していたが(幕府陸軍は将兵の選択に任していた)、商船隊の船員達からも要望があって商船隊の船員にも許可された。こちらも済し崩し的に普及していく。軍靴から靴も普及した。ただし、洋服、断髪、靴、洋帽が許可されたのは武士階級と士族階級だけだった。諸藩も幕府の例に倣った(ただし、軍服の肩章に錦切れを付けられるのは幕府陸海軍だけだった)。このため、日本帝国において洋服、洋帽、靴、断髪は武士階級と士族階級の身分を象徴する物となった。


 この頃から、水力を使った工場が幕府や一部の諸藩で出現し始めた。これはイタリアの技術だった。14世紀からイタリアでは水力による絹の紡ぎ機械を使用していた。これをフランスやオランダがスパイ行為によって盗んで使用していた。しかし、絹織物は高価な上に作業服や軍服として適していなかった。このため、絹織物は基本的に少数の高額注文だった。このため、イギリスのトーマス・ロムが創設したロム製作所も産業革命の担い手とはならなかった(参考にはなったが)。


 しかし、イギリス政府がインド産綿布のプリント地や染料の輸入および着用を禁止するキャラコ禁止令を制定した。このため、イギリスの綿産業が保護され、成長の切っ掛けとなった。需要が増えて労働賃金が高止まりしていたこともあり、機械化が始まった。労働賃金を下げることが困難なら(当時は、紡績工と織工に注文するのが一般的だった。イギリスは下請けの権利が保護されており、政府の強制力が行使されにくかった)、機械化による大量生産で生産コストを削減しようというわけだ(ついでに、工場での勤務なら雇用主の強制力が行使しやすいので労働賃金の高止まりも防げるし、作業時間も伸ばせる)。


 このため、徐々に機械化が進行し、産業革命の胎動が始まる。毛織物は毛の繊維が機械化に適さず、この流れに乗れなかった。一方、日本帝国の幕府領では事情が違った。信就時代の騒乱で、紡績工と織工など(町人階級)に認められていた権利が幕府によって剥奪された。このため、士族の経営する工場に職人達が集められ、実質的に工場労働者と変わりなかった(極めて技術力の高い一部の職人を除く)。ところが、今度は都市部の士族達の工場が製品コストを高止まりさせた。都市部の士族達は幕府陸海軍などの官側の需要があるのだから、無理して増産するよりも生産ペースを落として価格を安定させた方が良いと考えた。当然、下請けの町人達も同調する。幕府は怒ったが、行政の担い手である士族に強権を発動するわけにもいかなかった。


 このため、農村部の士族達が始めていた農村部での手工業を後押しすることにした。幕府陸海軍は軍服の発注先を幕府領の農村部にも広げた。さらに、幕府陸軍の陸軍工廠が水力式の機械による軍服の生産を開始した。幕府海軍も陸軍工廠と農村部から軍服を発注するようになった。さらに、この動きを見た武士達が農村部に投資を始めた(銀行の融資は依然として禁止されていた)。こうなると、コストの安い農村部が断然、有利だった。都市部の士族達は慌てて手動式の機械を改良して増産に乗り出した。飛び杼やジェニー紡績機の導入などが有名。ジョン・ケイやジェームズ・ハーグリーブスなどが顧問として雇われた。日本帝国の産業革命には外国人顧問の貢献も大きい。同時に、陸軍工廠から技術を買収して機械化にも乗り出した。機械化による大量生産で農村部を圧倒しようというわけだ。このため、日本帝国の幕府領でも済し崩し的に産業革命への胎動が始まった(幕府が産業革命を起こすために誘導したわけではない)。


 幕府陸軍工廠が水力式の機械で軍服の生産を開始できたのは、対外事務局が産業スパイと合法的な買収(当然、第三者を経由する)を組み合わせて技術を入手していたからだ。特に、イギリスのロム製作所の技術を参考にして綿に応用していた。当時はイギリス当局の関心が薄かったこともあり、大部分の技術は買収で入手された。もっとも、当初は非常用として導入されたので生産量は多くなかった。しかし、都市部の士族達が製品の価格を高止まりさせると、製品価格の高騰で巨額の設備投資が採算に見合うようになった。


 これにより、陸軍工廠が大量生産の先駆けになった。陸軍工廠は都市部の士族の工場が技術を求めてくると、買収に応じて設備を売却し生産を順次、縮小した。海軍工廠と違い、技術を他の分野に転用できないので民間に任せることにした。この様に、日本帝国では幕府の官営部門や官営会社が技術発展を促すことが珍しくなかった(現在のアメリカ国防総省のDARPAと関連企業の関係に近い)。幕府の官営部門や官営会社が高い効率性を挙げたのは幕府の監督が厳しかったことによる。官営部門は実力主義の度合いが強く、幕閣が満足しなければ10年の任期を待たずに指導部が変えられることが多かった。官営会社に対する要求も厳しく、官営会社は全て民間にも株式を取得させていたので民間からの突き上げもあった。官営会社は欧米の会社と同じく株主が強く、経営陣は全て幕府主催の官営委員会(幕府と民間の株主による委員会)が決めていた。そもそも、幕府が最も厳しい株主だった。


 官営部門も官営会社も、監査役は全て外部だった。しかも、多くの場合はライバル部門だった。例えば、海軍工廠を監査するのは、幕府陸軍事務局(陸軍工廠の要員も参加)、大蔵省の官営査察部、幕閣の官房調査団(征夷大将軍の顧問を長としている。関係大臣の顧問、外部の専門家、関連企業の社員がメンバー)だった。逆に、陸軍工廠を監査するのは、海軍事務局、官営査察部、官房調査団だった。定期監査は3年ごとに行われたが、幕閣が必要と判断すれば、いつでも不定期の監査が行われた。


 幕府が官営部門や官営企業に高い効率性を求めたのは、外国に加えて諸藩を脅威と見做していたからだった。幕府は最早、諸藩に謀反を起こす気はないと判断していた。しかし、諸藩の本質は「礼儀正しい戦国大名(織田信就)」だとの認識は変わらず、幕府の力が衰えれば謀反が起こると確信していた。また、諸藩が謀反を起こさなくても過激派が発生して、過激派に諸藩が呼応することが懸念されていた。このため、幕府は油断しなかった。


 諜報活動に熱心なのも同様の理由だった。内外の情報を事前に収集して、先手を打っておくことが幕府にとって不可欠だった。ヨーロッパでの諜報活動は、軍事技術や産業技術の入手、大国の政治情報や軍事情報(主に、イギリス、フランス、オランダ、スペイン)が主な目的だった。対外事務局が主に諜報活動を行った(軍情報局は東南アジア、中国と朝鮮、インド方面にスパイ網を構築することに専念していた。軍情報局は軍の直接支援を主な目的としていたからだ)。対外事務局の諜報活動は気づかれていたが、ヨーロッパ諸国の官憲の杜撰な取り締まりのおかげで順調だった。

 ヨーロッパの官憲はヨーロッパで活動していた日本人を監視していたが、対外事務局は帰化した欧米系の臣民やその二世を工作員にして(主に山丹総合会社の開発地域で日本帝国に帰化したヨーロッパ人と、その二世)ヨーロッパ方面での諜報活動に従事させた。日本人工作員もヨーロッパに展開していたが、連絡や分析作業などに当たっていたのでスパイ活動が露見する筈もなかった。


 ヨーロッパ人でスパイとして対外事務局の手先としてリクルートされていたのは、カトリック教国ならカトリック、プロテスタント国ならプロテスタントだった。イギリスでの諜報活動の場合、イギリス国教会の信者とピューリタンがリクルートの対象だった。カトリック、ユダヤ教徒などには対外事務局は接触していなかった。

 いくら間抜けな役人でも警戒しているし、民衆も常に疑っていたからだ。このため、スパイとしてリクルートするのは其の国の多数派であり、スパイとなった者にも日本帝国の手先になったことは悟らせなかった。例えば、イギリス人でスパイとなった者は、オランダ、スウェーデン、ハプスブルクなどのイギリスに近い国の手先になっていると考えていた。対外事務局の工作員はそれぞれの国の言語や習慣を熟知しており、不審に思われなかった。


 稀にヨーロッパ系の工作員が逮捕される場合もあったが、こうした工作員はダミーとなる犯罪組織に属していることにしており(対外事務局が設立した組織で、密輸団、窃盗団、違法な金融業者が多かった。実際に密輸、窃盗、マネーロンダリングも実行している)、逮捕された場合は其の組織のメンバーだったと嘘の供述をして刑に服した。短期刑なら真面目に刑期を務め、長期刑(7年以上)の場合は可能なら対外事務局の秘密工作部隊が救出した。長期刑なら大抵の場合は流刑地が植民地なので救出は難しくなかった。

 植民地の入植者、看守などは賄賂を掴まされると、多くの場合、協力するか黙認した。もちろん、接触したのはヨーロッパ系の工作員だった)。このため、ヨーロッパの官憲の取り締まりは的外れも甚だしかった。イギリスならカトリック、フランスならユダヤ人やプロテスタント系諸国の商人が逮捕される場合が多かった。このため、対外事務局は西欧に広範なスパイ網を構築することに成功した。幕府は西欧の情勢を把握して、対応策を適切に講じることが出来た。軍事技術や産業技術も多く入手している。工作員や協力者のスパイが盗み出すこともあったが、多くは、偽の会社か協力者のスパイが経営する会社を通じて正規の手続きで購入した。こうした対外事務局の活動に、ヨーロッパ各国が気付き出したのは19世紀になってからの事だった。


 1715年、幕府の大老に九鬼鷹信が任命された。3月10日の閣議で、九鬼鷹信は天皇を名古屋に移すことの実行を強く主張した。蒲生信家は反対した。

九鬼「今こそ、歴代将軍の悲願を実現すべきだ。天皇を名古屋に移し、朝廷を幕府に完全に吸収する。今や、幕府陸海軍は充分に強力であり、士族軍による治安維持も万全だ。諜報機関も優れており、国内への対処は万全だ。内戦になったとしても余裕で幕府が勝利できる。更に、西洋列強は戦争が続き疲弊している。介入は事実上、不可能だ。是ほどの好機は滅多にない。上様を始めとする皆様に申しあげる。今、決断しなければ後悔するのは確実ですぞ」。

蒲生「九鬼殿、申し訳ないが反対だ。諸藩の反発を受けるし、巨額の費用が必要だ。それに、現状でも朝廷は幕府の管理下にある。内戦の危険を冒しても天皇陛下を移す必要性はあるのだろうか?」。九鬼「皆様方の御懸念は尤もだ。しかし、断行する必要性はある。確かに朝廷は管理下に置かれている。しかし、首都である京都(名目上)に天皇陛下がいるので外見上は幕府から独立しているように見える。これは、諸藩が謀反を起こす可能性を残しておくことになる。また、外国から見ても二重政府の様に映る。国家は危機に陥る時もある。外国に干渉できると見られかねない余地は無くしておくべきだ。

 よって、幕府は一層の中央集権化が必要になる。ヨーロッパでは中央集権による強力な中央政府が確立された。各国は自国の力を総動員できるようになりつつある。この流れに乗り遅れれば、将来、ヨーロッパの大国がアジアに侵攻してきたら対抗する事は困難になる。これまでも、幕府は諸藩にも備えていなければならないので対外政策が極度に制限されてきた。

 この上、ヨーロッパの大国が接近してきた場合、防ぐのは困難になる。諸藩の軍事力を強化すれば、幕府に対する脅威が再燃して鎌倉幕府の二の舞になる恐れがでてくる。対外戦争に諸藩軍を動員できれば、ヨーロッパの大国の接近も防止できる可能性が高い。しかし、諸藩には恩賞を与えねばならないし、諸藩は政治の実権を要求して謀反を起こしかねない。

 この事態を回避するには中央集権化を少しずつ進め、やがては廃藩置県を実行しなければならない。諸藩には警察力だけを残して、幕府の元に軍事力を集中して国防軍と警察軍を創設するべきだ。県知事には藩主を再任するが自治権も大幅に縮小し、朝廷と幕府を一体化した強力な中央政府を構築する。天皇陛下を名古屋に移すことは第一歩だ。日本帝国では物事が本格化するまで時間が掛るのが常だ。今、始めなければ間に合わない。皆様の御決断を求めたい」。

蒲生「確かに、九鬼殿の御意見は的を得ている。しかし、ヨーロッパ諸国の中で自国の力を総動員できる政府は、今のところは出現していない。その流れに向かっていることは確かだが、まだ、先の事だ。今、着手すべきではない。優先すべきは、台湾、太平洋諸島、オホーツク海一帯の領土の一層の開発だ。これらの地域の開発は進展していたが、日本本土と比べれば立ち遅れている。

 特に、台湾は日本帝国にとって極めて重要な拠点であり、開発を強力に推進しなければならない。強力な中央集権体制の政府を創設するには莫大な資金が必要であり、そのために経済を一層、発展させる必要がある。そのために、開発と整備を優先すべきだ。また、工場の機械化が始まっており、産業が急速に発展する可能性もある。科学技術も急速に発展する可能性もある。そうなると、官営工場などの新設や改修のために莫大な資金が必要になる。今は、経済の発展を優先すべきだ。九鬼殿の推察は卓見だ。しかし、幕府の第一の方針は富国強兵だ。富国を更に進める絶好の機会を見逃す手はない。富国を達成して強兵を更に強化することが統一を結果として早期に達成することになるのだ」。

九鬼「それでは時間切れになってしまう。蒲生殿の御意見は御尤もだ。しかし、物事の達成には機会が重要だ。国内情勢や国際情勢は残念ながら幕府の都合だけでは動かない。富国が達成するまで待っていては機会が失われる。何時の時期でも不安要素はあるのだ。完璧を目的にしていれば何時までも何も実行できないのだ」。その後も両派の発言は続き、協議は紛糾した。議論は数週間も続いた。織田信邦は小西吉信に判断を任せた。


小西「九鬼殿の方策を実行すべきだ。今、ヨーロッパの主要国は戦争で疲弊しており、アジアに介入できる可能性は低い。また、英蘭両国への軍事支援も当分は必要ない。今のうちに、中央集権化を始めておくべきだ。九鬼殿の申された通り、日本帝国は始まりが遅い。早めに始めるのが丁度良い。更に富国が進展すれば、自然と諸藩の力も増す。今、幕府陸海軍は諸藩軍よりも遙かに強力だ。しかし、富国が進展すれば、是は必然的に変わる。予想できる限り、好機は今だ。上様、御決断を!」。

信邦「九鬼も蒲生も、日本帝国と幕府のために真剣な討論を行ったな。実に喜ばしいことだ。どちらの意見も素晴らしいが、私は九鬼の意見を支持する。理由は小西が述べたから繰り返さない。付け加えるとすれば、今回ほど苦しい選択はない。しかし、利点の多い方に決めなければならないのだ。そして、大事なのは実行だ。論争で生じた感情的な蟠りが実行に影響しない様にしろ。賢人の集まりである諸君を心配してはおらんが、部下達が心配だからな。では採決を行う」。

採決で閣僚の過半数が九鬼を支持した。閣議が終わると、信邦は蒲生に労いの言葉を掛けた。信邦「君の意見も素晴らしかった。しかし、相対的に九鬼の提案が優れていると判断した。しかし、消極的とも見られかねないのに待ちを主張したことは立派だ。今回の件で君を先送り論者と思うことはない。君の意見も着実な実行を主としている。君が幕閣にいることは幸運だ」。

蒲生「上様、恐縮です。九鬼殿の方策に決定した以上、私も全力で達成に取り組みます。重要なのは決定された目標を実行することです。決定した後で実行に全力を挙げないのは犯罪です。逆の立場であれば、九鬼殿も同じ趣旨のことを言うでしょう」。

信春「君が他の諸藩に生まれなくて良かった。安心して報告を待てるぞ」。蒲生「上様、期待していてください。では」。蒲生は敬礼をし、信春は敬礼を返した。閣議が終わった後、自分の執務室で信春は小西と話した。


 信邦「小西、蒲生は心配ない。九鬼の方は如何かな?」。

 小西「九鬼殿の方も心配は御無用です。実行に全力を挙げるのに注意を集中しています。蒲生殿を悪く言う素振りもありません。しかし、部下や取り巻きは御二人ほど立派には振る舞えないでしょう。今後、注意しておく必要があります。人間は群れた時の方が傲慢に振る舞います。どちらの派閥も優れた人材が多い。対立を建設的な対立に維持していくのは幕府のためだけではなく、日本帝国のためでもあります」。

 信邦「御前の言うとおりだ。二人を中心に二大派閥が形成され、派閥対立が始まったのは父の指導力不足が原因だ。認めたくはないが、事実だから仕方ない。そして、私も指導力が不足している。しかし、君も含めて良き部下に恵まれている。職務に全力を尽くすのみだ」。

 小西「上様、御自分を卑下するのは止めてください。私の閣議での意見も上様が決断された事ではありませんか。上様は征夷大将軍として充分に適格です。もう少し、自信を持たれて下さい。上様が率先垂範されれば、両方の派閥の対立は自然に沈静化します。日本帝国と幕府のために、前面に出るべきです。私を前面に立てるのは止めるべきです」。

 信春「そう言うな。人には向き不向きがあるのだ。だから、私は弟の信澄が征夷大将軍を継承するのが良いと言ったのだ。父、幕府支藩の藩主、御前も含めた幕閣が半強制的に将軍職を継承させたんだぞ。しかし、継承した以上は仕方がない。現に、私は職務に全力を尽くしているぞ。そして、征夷大将軍の役得は部下を自由自在に使えることだ。よって、御前を征夷大将軍たる私の意のままに使うのは当然だ。御前は影の将軍と呼ばれ、世間での評価も高まる一方だぞ。役職の兼務で報酬も高いし、遣り甲斐もある。一体、何が不満なのだ?大体、幕閣内で対立が発生しているのは悪いことかな?」。

 小西「上様、確かに私は是以上のない御恩寵を戴いて感謝しております。しかし、征夷大将軍が前面に立たねば幕閣内の争いは収まりません。確かに、幕閣内が和気藹々も困ります。馴れ合いに拠る体制の弱体化か幕閣による征夷大将軍の傀儡化を招きます。

 しかし、幕閣内で対立が恒常化することは幕府の機構で深刻な機能不全を齎す恐れがあります。例えば、陸海軍、士族軍、諜報機関の関係です。確かに、上様は諜報機関によって幕府内の情報を把握し、人事を柔軟に行っておられます。是は今のところ、効果的です。官僚的な縄張り争いをする輩などは適宜、排除されています。しかし、これ以上、両派閥の対立を放置していれば各機関の連携に支障が出るのは確実です」。

 信春「そこを調整するのが御前の役目だ。そして、それは成功している。私が全面に出た統率よりも御前の調整の方が効果的なのだ。蒲生も九鬼も共に優れた人材だ。二人を競争させた方が良き結果を出すのだ。私の特質からも現状の態勢が望ましい。そういうわけで是からも頼むぞ。辞めたければ、御前に代わる人材を推薦してから辞めろ」。

 小西は首を左右に振って溜息をついた。それから二人は先程の決定の詳細を詰めるための閣議の日程について話し合った。


 このように、信春は小西を前面に立てていたが決して小西の操り人形ではなかった。一方に肩入れしない様にしただけだった。調整役でしかない官房長官が前面に立てば、一方の派閥を依怙贔屓したように見えないからだ。肝心な決定は全て信春が実は行っていた。信春は子供達に「儂の統率方法を絶対に真似しては駄目だぞ。幸運の産物に過ぎんからだ。蒲生と九鬼の両派閥の頭目は優れており、二人が日本帝国と幕府の利益を第一に考えて行動する。そして、優れた調整役の小西がいる。この条件がなければ、忽ち亡国への道だ。しかし、この幸運の産物は偶然にも日本帝国と幕府にとって最良の政治を実現している。しかし、幸運の産物であることに変わりはない。改革は不可避となるのを忘れるなよ!」と語っている。当時、日本帝国と幕府は共に上昇期の最中であり多少の軋轢も強みになってしまう程の時期だった。この様な幕府の内情を抱えながらも1715年4月23日の閣議で、天皇を名古屋に移し、都も京都から名古屋に移すことが決定された。


 諸藩の猛反発が予想されたので決定は極秘とされた。一先ず、幕府を安土から名古屋に移す決定が発表された。表向きの理由は、安土が手狭になったので名古屋に幕府を移すということだった。幕府は織田信久の頃から、幕府の省庁を名古屋に移したがっていたので特に諸藩は警戒しなかった。幕府は織田氏の地元に幕府を置くことで、日本帝国の事実上の国家元首が征夷大将軍である織田氏の当主であることを諸藩と外国に示したかったのだ。


 ところが、その後、国内政策と対外政策に多額の費用が必要になり、幕府は安土に置かれたままだった。当時の幕府では天皇を名古屋に移すことは信久を除いて幕閣は反対であり、幕府を移すことだけが計画され、具体的に検討された。このことは諸藩も知っており、その後の幕閣や征夷大将軍が天皇を移す意向がなかったことから気にしていなかった。実際、信久の構想は幕閣内でも忘れ去られていた。1715年までは協議されたこともなかった。天皇が幕府や諸藩の要請(事実上の強制)で行幸することがあっても京都の御所に戻っていたので誰も気にしなかった。幕臣達の大半も幕府の名古屋移転が正式な首都移転の一環だとは思っていなかった。1715年6月から名古屋移転の予備調査と土地買収の交渉が始まった。既存の名古屋城は取り壊されることになった。


 10月から旧名古屋城の取り壊しが始まった。諸藩には取り壊し作業、新名古屋城の資材の提供と搬入だけが命じられ、幕府から予算が交付された。諸藩の中の数藩は幕府の態度が丁寧すぎることに少し疑問を感じた。城普請などは慣例的に幕府からの命令であり、諸藩に予算を交付することなどなかった。しかし、幕閣は幕臣達に「只ほど、怖いものはない」として諸藩に貸しを作らず、反感を買わないためだと説明した。諸藩にも話は伝わり、疑問を持つ者は殆どいなくなった。こうして、旧名護屋城の取り壊しと新名古屋城の予備工事が併行して進められた。着々と工事は進められていく。


 この間、諸藩は幕府からの人員の動員が少ないので安堵していた(諸藩に城の構造を知られない様にするためだった)。工事が推進される一方で、幕閣の間で内戦に備えた作戦計画が極秘で検討され始めた。諸藩が廃藩置県を受け入れる筈もなく、内戦は不可避だというのが共通認識だった。このため、九鬼派の内部でも躊躇する者がいた。九鬼鷹信も直ぐに中央集権体制の構築を開始することは考えていなかった。


 まずは天皇を名古屋城に移し、征夷大将軍と天皇が同じところに住み、朝廷と幕府が同一の城にあることで諸藩に幕府の権威を見せつける。

 次に、幕府と朝廷を融合させた中央政府を創設する(実質上は幕府が朝廷を吸収する)。国家元首は天皇陛下であるが、実質的な国の最高責任者は征夷大将軍とする。次に、廃藩置県を実行する。以上が九鬼鷹信の計画の概要だった。その後、九鬼派の中から諸藩の藩主達を幕閣に加えることを条件に、名古屋在住を義務付けた方が良いとの意見がでた。地元に藩主がいては中央政府の権威が希薄になる。多少、織田家の権力が制限されても諸藩の藩主達は名古屋に居させた方が良いとの意見だった。閣議は多数決だし、征夷大将軍は織田家の世襲だ。官僚達(征夷大将軍、征夷大将軍が任命する大臣達が任命する)に取り巻かせてしまえば、諸藩の藩主達の多くは織田家に従う。藩主が不在の地元では諸大名の影響力が低下し、大多数が中央政府に従うようになる。


 以上の趣旨は小西吉信が賛成し、織田信春も納得した。また、征夷大将軍を総帥、大老を首相と変えることも決定された。朝廷時代の役職を全廃し、幕府が朝廷を吸収したことを明確にするのが狙いだった。蒲生信家も基本的には賛成したが、もう少し天皇陛下に配慮した方が良いと主張した。また、新名古屋城が完成したら直ちに天皇を移すのではなく、10年ほど、時間をおいてから天皇を移した方が良いと主張した。首都が移転しても都市開発が進むのは時間が掛る。また、天皇を移すことは慣例を変更する重大な行為だ。諸藩が猛反発し、絶滅状態にある反幕府派が大量に発生する。騒乱が発生し、内戦に発展する可能性も高い。内戦のために莫大な戦費も必要であり、準備期間も必要だ。以上の趣旨に小西が賛成し、信春も承認した。九鬼にとっては不満だったが、九鬼派の内部でさえ不安を感じる者が多いので妥協した。以上は10回の閣議の議論を要約した物で幕閣内でも相当の緊張があったことを示す。


 順調に工事は進み、1725年から幕府の省庁は内閣府から順に新名古屋城の完成部分に移転し始めた。

 1726年4月1日、完成半ばだったが織田信春は新名古屋城に移った。ただし、意味深にも天守閣を備えた本丸部分には入らなかった(表向きは装飾を仕上げるためとされた)。信春は二の丸に入った。一方、1725年、大老は蒲生信家が任命された。

 九鬼鷹信は再任されなかったので怒った。新名古屋城の完成までは大老の任に留まれると思っていたからだ。しかし、信春は10年ごとに大老も変えなければ大老に過大な権威が定着すると考えた。信春は小西を前面に立てて蒲生を大老に任命した。蒲生は新名古屋城の建設は予定通りにしたが、予算を台湾、太平洋諸島、オホーツク海周辺の北方地域(カムチャッカ半島や樺太など)に投入した。また、バブルを抑制するために所得税、法人税を増税している。また、郵便制度も始められた。郵政公社が設立され、農村部、台湾などの本土以外の領土、海外の郵便業務(宅配業務も含む)を全面的に取り扱うようになった。都市部は幕府が建物だけを建設し、業務は入札方式で民間に委託した(既存の飛脚などを保護するために飛脚などを雇うことを条件にした。飛脚屋などの雇用者は郵政公社に雇われた)。料金は発送者の前払いで郵便物に証書が張られた。これにより、幕府領内では一定の料金で手紙や個別の宅配が自宅まで届くようになった。


 これは郵便サービスを提供して利便性を増す意図もあったが、検閲と徴税業務の円滑化が幕府の真の狙いだった。郵政公社も都市部の郵便事業者も大蔵省の管轄下にあった。大蔵省は郵便事業を統括することで徴税業務を円滑に進められるようになった。同時期に導入された「臣民番号制度」との相乗効果で、さらに徴税を逃れることは極めて困難になった。もちろん、手紙や小包などは全て検閲されていた。士族軍から多数の検閲官が出向していたし、表面上は大蔵省の部局である特別財務局が検閲に加わっていたのは言うまでもない。このため、幕府に知られたくないことを伝える時は危険を承知で人に託すか自分で渡すしかなかった。一時は、違法な地下郵便屋が出現した。しかし、特別財務局が直ちに対応した。複数の偽地下郵便屋が創られ、地下郵便を展開した。例の如く、士族軍の町奉行所や士族所は知らずに、特別財務局が創った偽の地下郵便屋も追っていた。特別財務局の偽郵便屋は料金も適切で町奉行所や士族所の追跡も掻い潜って成功率も高かったので顧客の信頼を勝ち取った。


 1736年、偽の地下郵便屋の顧客達が一斉に逮捕された。同時に、偽の地下郵便屋も摘発された。偽の地下郵便屋は幹部以外が犯罪者だった。このこともあって、疑われなかった。幹部の特別財務局の工作員達も一緒に逮捕された。そして、普通に拘留されて裁判にかけられた(当然、刑期の途中で公安局によって釈放される。書類上は刑期終了で釈放されたことになる)。このため、顧客や部下の大半は騙されたことに気づきもしなかった。しかも全員が逮捕されたわけではなく、一部の工作員は逃亡を続けた。別の犯罪組織を立ち上げた工作員もいる。当然、町奉行所や士族所は知らずに追跡を続ける。このため、疑う者はいなかった。こうして、幕府は幕府領の支配を一段と強固にした。


 1734年11月25日、新名古屋城は完成した。天守閣などは安土城の天守閣などの拡大版だったが、城の大部分は、星型の稜堡式の城塞だった。オランダのクーバーデンを参考にしており、臼砲や榴弾砲の攻撃に対応した地下壕も完備していた。規模は日本最大だった。完成式典に蒲生信家は欠席し、九鬼鷹信が式典を主催した。蒲生信家は九鬼鷹信の功績を認めており、手柄を横取りする気はなかった。式典が終わった後で二人は安土城の応接室で話し込んだ。

 九鬼「蒲生殿、貴方が式典を主宰すべきだった。貴方が大老なのだから」。

 蒲生「九鬼殿、それは原則です。貴方の功績を横取りして威張るなど下賤の行いです。そうした行為を行えば、上様の期待を裏切ってしまいます。貴方が私の立場でも同様の事をしたでしょう」。

 九鬼「蒲生殿、恐縮です。しかし、振り返ると全ては上様の思惑通りになったような気がします。貴方様は日本帝国と幕府の利益を第一として行動なさいました。私も貴方様には劣りますが、そのように努力しました。貴方様も私も派閥の利益を第一にしていれば、忽ち上様によって解任されたのは間違いありません。私は浅はかにも上様を見縊っていました」。

 蒲生「九鬼殿、その推察は正解ですぞ。全く、上様も人が悪い。しかし、考えてみれば我ら二人も幕閣として、嫌がる上様を征夷大将軍職に就けた共犯者です。上様が仕返しをしたくなるのも分る。小西殿も我らと同じ目に遭わされていますからな。まあ、上様の意向もありますから是を機会に和解しておきましょう」。

 九鬼「蒲生殿、有り難い御言葉です。是までの派閥対立は全く、私の不徳の致すところです」。蒲生「いえ、それはご自分を卑下し過ぎでしょう。互いに問題があったのです」。九鬼は手を差し出し、両者は固く握手を交わした。

 蒲生「我らは考え方に隔たりがあるのは間違いない。しかし、目的は共通している。日本帝国と幕府の繁栄です。共に上様を支えていきましょう。其れが派閥対立にも拘らず、我らを信任してくれた上様への恩返しでもあります」。九鬼「蒲生殿、御同感です。御言葉の通りにします。共に日本帝国と幕府のために尽くし、上様への御恩に報いましょう」。両者は暫く話をしてから別れた。


 これを切っ掛けに激しく衝突していた両者は個人的には和解し、九鬼派と蒲生派の争いも沈静化した(元々、両者の取り巻き同士が対立を激しくしていたので和解は難しくなかった)。もちろん、両派の考え方には違いがあり、意見の対立はなくならなかった。しかし、感情的な争いは収まった。両者の会見と其の後の和解について報告を受けた信春は喜んだ。12月1日に、小西に九鬼を大老に再任することを伝えた。

 信春「どうだ、小西。全ては巧くいっただろう。是も全ては御前の調整力と神の御恩寵の御蔭だ。九鬼を大老に再任するぞ。勿論、蒲生派も粗略にはしない。蒲生も九鬼も幕府にとっては欠かせない人材だ。そして、御前もだ」。

 小西「上様、今回の和解は上様の政治力の成果です。上様が九鬼派と蒲生派の提言を取捨選択しながら適宜、情勢に応じた決定を成されたからです。相も変わらず、私を前面に立たせましたが。肝心な決定は上様が下されました。両者は和解したことですし、上様が全面に立たれても何の問題もありません」。

 信春「小西、そう言うな。今回の事態は幸運の産物だ。この時期だからこそ、最良の結果となった。私の真似をする者がいれば、そいつは確実に破滅する。確かに私も職務に全力を尽くしたが、神の御恩寵と御前の適切な補佐の御蔭だ。それに征夷大将軍の役得として御前を前面に立てた方が私は楽ができる。御前には報酬を随分と与え、名誉も随分と与えた。地位も其れなりの地位だ。遣り甲斐もあるだろう。他に何が欲しい?余の権限で叶えられる望みは叶えよう」。

 小西「上様、時の情勢に応じて最適な決断と人事を行うのが征夷大将軍の役目です。上様は最良の選択を自身の決断で為されました。貴方様は偉大なる征夷大将軍です。私にとっても上様に仕えることが出来ることは光栄なことです。上様から充分な報酬、地位、名誉は既に戴いております。上様の政治手法に私は従います。では、九鬼殿が大老に再任されることの手続きについて確認していきます」。

 信春「何だ、小西。随分と、大げさな褒め言葉だな。照れくさいぞ。私にとって御前はルイ13世にとってのリシュリュー宰相だ。これからも宜しく頼むぞ。では再任の手続きの確認をしていこう」。小西は喜びながら再任の手続きを説明していった。こうして、幕府は信春と小西によって幕閣内の結束を固めて中央集権化への道を直走っていった。



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