対外進出の始まり
幕府の対外政策は変更がないと思われていたが、世界情勢は変化していく。1593年から山丹総合会社に女真族のヌルハチが接触を始めていた。ヌルハチは明帝国からの独立を考えており、日本に武器の供与を依頼した。代わりに、日本帝国を対等な国として扱う。さらに中国を征服すれば貿易を行い、スペインを排除する際には中国の港での補給を認めるとの趣旨だった。征服が失敗した場合は日本帝国と同盟を結んで明を牽制するとした。
ヌルハチは明からの独立を目指しており、日本帝国には誇大な約束をしていた。信長は消極的だったが、信忠が支援を決めた。信忠は琉球を征服した日本帝国に明帝国が戦争を仕掛けることを防止する必要があると判断し、北方に明を釘付けにしようとした。信長や対外事務局は援助に反対だった。ヌルハチが明と講和すれば、日本帝国は明の攻撃に晒されるからだ。
しかし、信忠は明の中華思想から明がヌルハチと講和する可能性は低いと判断した。信忠が唯一、信長の対外政策を変更した決定だった。このため、日本製火縄銃と弾薬を無償供与し(刀狩や諸藩の軍縮で国内に火縄銃が余ってお り、反乱防止の意味合いもあった)、軍事顧問団も派遣している。女真族は従来、明軍に火力で劣り不利だった。しかし、幕府が火縄銃と弾薬を無償供与したこと、幕府の軍事顧問団が火器に関する戦術を女真族に指導したことから両者の力が均衡してきた。このため、ヌルハチは明の油断もあって勢力を拡大した。そして、1616年に後金の建国を宣言した。
後金は勢いに乗って、1618年、明に宣戦布告した。明は逆に後金領に侵攻するが、1619年、サルフ付近の一連の戦闘で大敗した。この後、ヌルハチは満州一帯を制圧して明に和平を求めた。条件の趣旨は後金の独立を認めて、対等な国として遇することだった。日本帝国にヌルハチは使節を送って通告している。
幕臣達は激怒したが、信忠は「ヌルハチは契約違反をしたわけではない。援助した相手が意のままに従うと思う方が馬鹿なのだ。それに、不都合はない。和平が成立したとしても、明は対等な関係を認めるぐらいなら国が亡ぶ方を選ぶ。いずれ、再戦は避けられないし、ヌルハチも安心はできまい」と述べて、後金との条約を継続した。そして、明は後金に従属を要求し続けた。
このため、ヌルハチは1626年1月に明を威圧するために山海関を占領しようとしたが、手前の寧遠城で明軍が砲兵隊を中心に堅守していた。既に、ヌルハチは大砲の威力を熟知していたので一週間、寧遠城の周辺で威力偵察をしてから撤収した。ヌルハチは1626年3月に外交使節を秘かに派遣して日本帝国に大砲の供与の増大と砲兵隊を増強するための軍事顧問団の増派を要請した。また、朝鮮に対する共同侵攻を提案し、朝鮮を南北で分割することも提案した。1623年に、朝鮮でクーデターが発生して新政権が反後金の姿勢を示し始めていたからだ。
信忠は大砲の供与の増大と軍事顧問団の増派には応じたが、朝鮮に対する共同侵攻は拒否した。朝鮮を征服しようとすれば明との全面戦争は避けられないし、占領には経費と兵力が要る。諸藩軍を動員することは避けられず、諸藩への恩賞の問題と相まって幕府の基盤を揺るがし、天下統一の状態を崩壊させると判断した。しかし、陽動作戦の実施と軍事援助の増大を約束した。
1626年4月1日に幕府は安土城内の参与院で諸藩に後金の要請について説明した。参与院では多くの藩が明との全面戦争に陥りかねない幕府の方針に反対だったが、結局は幕府に従った。外交権は幕府にあり、本来は参与院に相談する必要はなかった。しかし、信忠は全面戦争に繋がりかねない決定は参与院に相談することにした。諸藩を不意打ちしたとの印象を与えたくなかったからだ。また、諸藩の忠誠心を測るためのテストでもあり、後金に約束した陽動作戦の一環でもあった。
信忠は朝鮮などに情報が漏洩するのは間違いないと予測していた。朝鮮側は警戒するし、情報の漏洩原を特定することで忠誠心の薄い藩を炙り出せる。しかし、皮肉なことに諸藩は参与院での機密保持を厳守した。諸藩は秘かに軍備を再点検し、幕府軍の将官達と諸藩の指揮官達が秘かに作戦計画を作成し始めた。明や朝鮮が先制攻撃してくることも予想されたし、何らかの要因で陽動作戦から全面戦争に発展することも予想されたことによる。ただし、朝鮮半島の占領は考慮されず、全面戦争になった場合でも後金に領土を譲渡することになっていた。
幕府軍と諸藩軍は5月から北九州で陸海軍合同の軍事演習を繰り返した。演習の度ごとに、大砲、弾薬、兵糧、秣、医薬品は現地に残され、北九州の倉庫に備蓄された。北条攻めの時と同じで物資の事前集積だった。有事の際に兵力だけ移動して現地で物資を受け取って即応体制をとるということだ。これを行うと相手方に戦略的な奇襲をかけることができる。偽装は行われていた。幕府軍や諸藩軍が撤収する時はダミー大砲を轢いて帰った。また、物資の荷車や馬車の木箱、俵、麻袋などには同じ重さの分だけ砂が詰め込まれ、馬車や荷車の轍で偽物を持ち帰っていると露見しない様にした(ダミーの大砲にも類似の工夫がなされた)。
しかし、北九州で陸海軍合同の演習が繰り返されているとなれば朝鮮侵攻が疑われるのは当然で、日本国内も海外も朝鮮侵攻の噂で持ちきりとなった。諸藩や幕府内部でも「幕府は本気で朝鮮侵攻を計画している」などと憶測が流れた。幕府や諸藩の上層部以外は陽動作戦であることを知らなかった。このため、後金の方でも幕府が方針を変更したと思い、7月に外交使節が再訪問している。幕府は陽動作戦の一環であることを説明している。一方の朝鮮は内部対立で即応体制をとるのが遅れてしまい、8月に明から督促されて漸く南部の守備を固めだした。
1626年10月1日、幕府は全国の諸藩に、公式の総動員令を発令した。幕府軍と諸藩軍は続々と北九州に集結した(北海道藩は動員されていない)。幕府軍と諸藩軍を併せた陸軍兵力は約17万に達した。海上兵力は、幕府海軍が軍艦35隻と武装商船105隻(全てガレオン船)で、諸藩の海軍が約100隻(資料不足で詳細は不明。ただし、全て西洋船)だった。海軍の主力は広島に集結した。
大軍を集結させる一方で、幕府は朝鮮に対して不平等条約の締結を要求した(関税自主権の放棄、領事裁判権の締結など)。朝鮮側は拒否し、防衛を固めた。このため、朝鮮側の注意は日本に集中し、1627年5月の後金軍の侵攻は戦略的にも戦術的にも奇襲となった。
朝鮮軍の軍備は旧式かつ貧弱な上に数少ない兵力を日本側に釘づけにされていた。このため、ホンタイジとアミンが指揮する後金軍は約2か月の間に、平壌と漢城を攻略して朝鮮に講和を強いた。この際、後金は日本帝国と朝鮮の間を仲介して、条件が平等な日朝和親条約を締結させている。もちろん、後金と日本帝国は示し合わせていた。幕府は最初から不平等条約を強制する気はなく、朝鮮との交渉は芝居に過ぎなかった。
以後、朝鮮半島経由で日本帝国の後金向けの軍事援助が増大する。ヌルハチは朝鮮と講和条約を結ぶと、後金軍の強化を優先した。特に、砲兵隊を強化した(幕府を通じてイギリス人とオランダ人の傭兵砲兵部隊も雇っている)。その一方で、明軍の将軍達を陥れる謀略を進めた(幕府も対外事務局により謀略を進めた(腐敗した軍人や宦官などに対する賄賂、偽造文書や武器を明の官憲に捕獲させることなど)。こうして、ヌルハチは後金の立場を強固にして1630年9月に亡くなった。
後を継いだホンタイジは1631年5月7日、寧遠城を占領した。明の皇帝などが謀略に引っ掛かり、数名の明の将軍などを殺した。このため、明軍は既に弱体化していた。山海関も攻撃したが、明軍は辛うじて防いだ。同年7月、ホンタイジは反抗する姿勢を示し始めた朝鮮に再侵攻した。日本帝国にも前回と同様の陽動作戦を行ってもらった。朝鮮側は日本帝国にも備えていたので、戦力を集中させることができなかったこともあって敗北した。
1632年、朝鮮は後金に降伏した。後金は朝鮮を完全に従属させた。後金の斡旋により、日本帝国と朝鮮の関係は対等なままとされた。幕府は大陸進出の意図がなく、後金の斡旋に同意している。1634年7月、後金軍は山海関に総攻撃をかけ、遂に占領した。しかし、明軍も粘って天津で後金軍の侵攻を防いだ。結局、ホンタイジは戦線を維持して国内を固めた。
1634年10月27日、68歳で織田信忠は死去した。織田信久が喪主を務めて葬式は厳かに行われた。信久は鷹狩将軍などと揶揄されていたので幕臣達や幕府支藩の藩主達は危ぶんだ。このため、幕府軍や幕府領の士族軍は厳戒態勢を敷いた。実際、諸藩の中には戦国時代が再来するのではないかと国元の防衛を固める藩もあった(佐竹氏の加賀藩など)。
ところが、信久は、信忠の死後は模範的に政務をこなした。大臣達などの意見を参考にして、自分が任命した官僚達や補佐官とともに法案を作成し、閣議で決定していった。国内政策では信忠が敷いた路線を概ね継承して安定的な統治を行った。このため、幕臣や諸藩は安心した。
しかし、信久は、内心、諸藩や幕臣を見返してやろうという気持ちが強かった。天下布武が幕府の基本方針なので、西洋諸国を手本にして日本帝国の利益を最大化することが幕府の威光を高めると考えた。このため、対外政策を変更した。信長や信忠と違い、日本帝国の領土と影響力を拡大するために積極的な武力行使を行っていく。このため、幕府の対外政策は、この時期から帝国主義的な色彩が強くなっていった。信久は1640年から、国書などの外交文書の署名を天皇と征夷大将軍の連名から征夷大将軍単独の署名に変更した。諸外国に対して幕府が日本帝国の実権を握っていることを鮮明にした。信久は朝廷に対しても強引な政策を展開していく。
1636年、ホンタイジは国号を大清(以後、清)として皇帝に就任した。しかし、明軍も最後の粘りで抗戦を続けた。このため、ホンタイジは明が反乱により疲弊するのを待つことにした。明軍は清軍に戦力を集中し過ぎて、農民反乱を押さえられなくなった。軍備を増強するために重税を重ねて、さらに反乱を拡大させた。そして、軍の規模を拡大させすぎて質の低下も招いてしまった。ホンタイジは、こうした状況も考慮して侵攻を慎重に進めた。異民族である清帝国が多数の漢民族を支配するには、消耗しきらせて反抗できないようにした方が好都合だからだ。
こうした戦略を幕府にも説明している。幕府も了承した。もちろん、明軍が農民反乱を撃滅できない様に攻勢を繰り返したが、要塞を無理攻めすることは避けた。その間に、清の国内制度を整備して国力の充実を図った。日本との間で貿易ルートを確立し、大豆の栽培を進めて日本帝国にも輸出を始めている。また、馬も有力な輸出品だった。街道の整備も大々的に進めた。こうして、ホンタイジは着々と清の国力を向上させた。1643年、農民反乱軍の最有力である李自成軍が開封や西安などを陥落させると、いよいよ明に総攻撃をかけようとしたが1643年9月にホンタイジは急死した。
後を継いだ順治帝を補佐する宰相のドルゴンは李自成軍が北京を陥落させるまで待つことにした。ホンタイジと同じく、漢民族が消耗しきった方が得だと判断したからだ。李自成軍が北京を陥落させると、早速、清軍は北京を目指した。まず、天津を陥落させて北京を孤立させた。その上で、北京に進撃して一連の戦闘で李自成軍を大敗させて1644年、北京に入城する。その後、清は李自成軍を追撃するとともに、南明(明の残党勢力)の撃滅を目指す。火縄銃兵部隊や砲兵部隊の運用に慣れ、諸兵科連合能力が高い清軍が終始、優勢だった。
幕府は1645年に、ヌルハチと交わした協定の履行を要求して、日清和親条約を締結している。対等の条約であり、日本帝国を清帝国と対等の国家として認めることが規定されていた(沖縄が日本帝国領であることも確認)。しかし、中華思想が強烈な漢民族を支配する清王朝にとって、リスクの高い条約だった。このため、調印した時も日本帝国の外交団は格下として遇されたし、その後の外交使節や駐在の外交官達も各種の臣下の礼を強要され続けた。ただし、日本帝国の軍人は要求されていない。それどころか、日本人の貿易商人達なども清の総督などに同様の礼を強制された。このため、日本帝国内では清への反感が強くなり、大陸出兵論まで発生した。
しかし、基本的には大陸情勢に不干渉の方針を採る幕府は清に抗議していない。幕府は対外事務局の諜報活動で清王朝の事情を理解しており、形式は清国に譲歩した。貿易の条件は対等であり、他国と違って形式面を除けば外交上も対等に扱われていたからだ。日本帝国の外交使節は常に皇帝と直接交渉できた。実際は歴代皇帝の秘書達が非公式に日本帝国との外交を担当していた。中華思想の建前で清王朝はイギリスに敗北するまで対等な国との外交を担当する外交機関を設置しなかった。日本帝国の大使館、公使館、領事館は不可侵権が付与されており、外交官などは公式に外交特権を認められていた。これらは後に国際条約で規定されるが、当時は一般的ではなかった。
日本人が清国の官憲に拘束された場合、清国の官憲は日本の外交官か軍人の立会いの元でしか取り調べはできなかった。裁判でも日本の外交官か軍人が弁護につけた。このため、実際上、弊害はなかった。当然、日本帝国も清に同様の条件を認めている。両国の外交文書の文面も丁重であり、清の皇帝も非公式の場では日本人に対して丁重だった。また、清の外交官なども日本内では概ね礼儀正しく振る舞っている。この時代の両国の関係は良好だった。なお、幕府はオランダ、イギリス、ポルトガルとも同様の条約を締結する様に、清に勧めている。しかし、ドルゴンは漢民族の感情を考慮して、これは拒否した。なお、日本帝国からの軍事援助は規模を縮小されたが継続されている。
信久を始めとする幕閣は清が明を滅ぼすのを喜んだ。沖縄が日本帝国領であることが確定されたからだ。安土城の二の丸で開かれた閣議で幕閣は対外政策について話し合った。信久「さて、皆の者に対外政策について問いたい。主に、中国とスペインに対する政策だ。まず、中国について討議したい。中国では明王朝が滅んで、清が中国を制圧するのは確実だ。この政策を続けるのは妥当だろうか?北部を清が支配し、南部を南明が支配する構図が理想的だと思うが」。国防大臣の黒田長政が信久に反論した。
黒田「上様、それは最悪の結果を招きます。上様も御存知の通り、中国人は日本人を嫌っています。明に限らず、中華思想に凝り固まっています。その中国人が日本人の言うことを聞くと思われますか?それに、上様の構想は点に二つの太陽なしを信条とする中国人にとっては受け入れられないことです。上様の構想を実現するためには中国大陸への恒常的な干渉が不可欠になります。莫大な費用が掛かります。そして、清と南明の双方から敵視され、最悪の事態になります。それに、上様が中国人なら国内情勢に干渉してくる日本人を如何に思うでしょうか?」。
信久「確かに、その通りだ。しかし、清が中国を統一した後で脅威に成ったら如何する?」。黒田「上様、御懸念は尤もです。しかし、清は満州民族による外来の王朝です。国内の漢民族を警戒しないわけにはいきません。漢民族は中華意識の塊であり、清が衰えれば騒乱を起こすでしょう。清も漢民族の意識を熟知していますから、自ずと日本帝国との対立を抑制します。対して、明は漢民族の王朝でした。今は海禁政策を採っています。しかし、陸での脅威がなければ海にも乗り出したでしょう。更に、日本帝国の周辺で日本帝国を蔑視する国を放置することはできません。ヨーロッパ諸国は日本帝国が蔑視されているのを容認してれば、日本帝国を侮り野心を懐くのは確実です。また、国内的にも幕府の権威が低下し諸大名が幕府を侮ることになります。これは、幕府にとって致命的です」。
信久「成程な。確かに、確かに今までの方針を継続した方が得なようだ。それで信松、対外事務局として補足しておくことはないか?」。
信松は対外事務局の長官であり、信松は偽名だった。幕府の諜報機関の長は全て偽名であり、本名など本人を特定する情報を示す資料は全て廃棄されている。しかし、彼らの全てが信の文字を与えられていることから分る様に非常に重要視されていた。
信松「上様。黒田国防大臣の仰る通りです。清は中国国内を統一しても必然的に日本帝国との友好を求めます。清は漢民族の反感に加えて、モンゴルなど周辺の騎馬民族にも対処しなければなりません。日本帝国との友好は不可欠です。更に、明の残党を掃討する上でも我が国の支援が不可欠です。逆に、日本帝国と対立して得る物はありません。当分の間は大丈夫です。
しかし、漢民族は中華意識に固まっています。漢民族を支配する後金は、形式上は我が国を下に置くでしょう。しかし、実質的に対等なら構いません。中国人が傲慢なのは未来永劫、変わりません。中国人の好意を得ようとしても無駄です。大事なのは中国人に日本帝国が中国と対等以上であることを実感させることです」。
信久「ふむ。二人の見解が一致しているなら間違いはあるまい。では、スペインの話に移ろう。スペインは過激派の大国であり、日本帝国にとっても脅威だ。衰え始めているとはいえ、このまま衰退していくのかは不明だ。そこでスペインとの不可侵条約を破棄してスペインへの敵対姿勢を鮮明にしようと思う。イギリスやオランダを援助してスペインを攻撃させるのが望ましい。日本帝国の臣民は平和を楽しんでいる以上、形式上は相手から戦争を仕掛けさせた方が良い。其れに運が良ければ、スペインは戦争を仕掛けてこないだろう。スペインは既に敵が多すぎるしな。如何に思う」。
黒田「信久様、素晴らしい方策です。信久様の方策なら日本帝国の利益は最大限になります。イギリスもオランダも極東で戦争を行う上で我が国の支援は不可欠です。恩を売るなら今です。イギリスもオランダも日本帝国に見返りを喜んで差し出すでしょう。イギリスとオランダを前面に立てれば、現地でも憎まれずに済みます。統治のコストを考えれば、イギリスやオランダが上でも構いません。統治を行えば、負担も増大します。友好国と組むのが結局は最も得なのです」。
信久「流石は黒田だ。信松の方は補足することがあるか?」。
信松「信久様の方策に一つ、補足すべき点があります。ポルトガルの扱いです。オランダやイギリスがポルトガルをアジアから駆逐しない様にポルトガル人達を支援すべきです」。
信久「ポルトガルはスペインから独立できたとしても衰退は免れないだろう。それにポルトガルを支援すれば、イギリスやオランダとも敵対する結果になるのではないか?」。
信松「確かに、御指摘の危険はあります。しかし、ポルトガル人達を支援しないことは却って危険です。イギリスとオランダがスペインを駆逐した後に日本帝国を追い出そうと考えた場合です。日本帝国と提携した方が両国にとって得なのは明白です。しかし、オランダやイギリスは遠くにあり両国の本国政府が情勢を把握しきれない可能性もあります。つまり、両国が手を組んで日本帝国を追い出す可能性があります。
更に、両国が組織している東インド会社は極めて強欲であり、短期的な利益しか考えない傾向があります。特に、オランダの東インド会社が要注意です。逆にポルトガル人達は弱く、必然的に日本帝国の好意と支援を必要とします。ポルトガルが植民地を保持すれば、オランダやイギリスが敵対しても日本帝国は軍港と貿易港を確保できます。日本帝国が拠点を確保するために各地を領有すれば、統治に無視できない費用が掛かります。幕府にとって、諸藩も脅威であるのも忘れてはなりません。財政と兵力は無駄遣いできません」。
信久「信松、素晴らしいぞ。正に、対外事務局は幕府の針路を示す羅針盤だ」。その後、信久と幕閣は中国とスペインに対する戦略の詳細を詰めていった。この後、幕府支藩の藩主達の同意も得て、中国大陸(従来の政策を継続)とスペイン(イギリス、オランダ、ポルトガルへの支援およびスペインへの敵対)が決定された。
この決定は、幕府内で大いに歓迎された。特に、陸軍と海軍では歓迎された。幕府陸軍と幕府海軍はオランダ人やイギリス人などの新教徒の軍事顧問達と改革を進め、訓練を受けていた。このため、スペインへの敵意が自然に強まった。更に、そして、来日した宣教師達が寺社の破壊を大名に求めたこともあったのも記憶されており、敵意が深まっていた。そして、オランダやイギリスからの兵器輸入や軍事顧問達の努力に拠る幕府陸海軍の能力向上、幕府の安定による国力の増大で外征の機運も高まっていた。
日本帝国がスペインとの対決に傾くのは必然だった。幕府内にもカトリック教徒は多かったが、非妥協的なカトリック教会の態度(幕府と日本帝国よりもカトリック教会への忠誠を優先させろとの態度)によりスペインへの敵意が強まった。ポルトガルを擁護した以外は幕府内のカトリック教徒がカトリック教会に好意を示したことはなかった。
そして、幕府の決定は当時の情勢に適っていた。また、スペインの財政状態が悪いことは相次いだ破産宣告から明らかだった。幕府は対外事務局の活動に拠り、ヨーロッパの情勢について良く理解していた。三十年戦争により、スペインが更に消耗しているのも把握していだ。更に、ポルトガル人達と接触を確立していた。対外事務局はポルトガルの独立勢力とイギリスやオランダとの仲介も行っている。そして、1640年からポルトガルがスペインからの独立を目指してポルトガル王政復古戦争を開始した。
1641年10月1日、幕府はスペインとの不可侵条約を破棄して、反スペインの姿勢を鮮明にした。幕府はスペインの不可侵条約を破棄すると同時に、ポルトガル、オランダ、イギリスとの間で協商条約を締結した(幕府がポルトガル人と結んでいた一連の密約を公にした条約。オランダやイギリスとの条約も、ほぼ同じ内容)。幕府海軍はポルトガル商船の船団を護衛し、船舶も貸与した。ポルトガル商人を乗せて、ポルトガルの貿易を補助したりもしている。マカオやゴアには傭兵として日本人部隊(実態は幕府軍や補助軍)、ヨーロッパ人部隊(幕府の資金で編成されていた。イギリス人、ドイツ人が中心)、インド人部隊(幕府の資金で編成。新教徒のヨーロッパ人や日本人の将校団が指揮)が配置された。また、ポルトガルに多額の資金を低利で融資した。
幕府は、オランダやイギリスにも同様の支援を行っている。当然、兵站支援も幕府海軍は行っている。このため、スペイン海軍と幕府海軍の間で数回の武力衝突が発生している。幕府海軍が直接、スペインに対して海賊行為を行うことはなかった。
日本帝国とスペインとの冷戦が全面戦争に発展しなかったのは、幕府は諸藩軍を動員したくなかったことや清に対する支援も行っていたこと、スペインは三十年戦争などの戦争の泥沼で国力を消耗していたからだった。こうした幕府の戦略はオランダやイギリスのアジア進出を助けることにもなった。日本帝国も両国に追随して進出した。幕府や諸藩は両方の東インド会社に多額の投資も行っている。
1642年3月21日にはグアム島がオランダ東インド会社軍により攻略された。幕府が遠征費用を全額、提供した。占領後の行政費用も補助している。東ルートだけでなく、西ルートの航路も遮断されてスペインのフィリピン植民地は窮地に陥った。スペイン船は、オランダ、イギリス、ポルトガルの海軍に攻撃されてアジアや太平洋での活動が極めて困難になった。スペインはフィリピンを辛うじて守備することはできたが、アジアからスペインの勢力は大幅に後退した。スペインのフィリピン総督府はオランダ東インド会社のフィリピン進出を認めた。ただし、幕府の戦略が全てうまくいったわけではない。この三国は対立することも多かったからだ。特に、幕府はオランダ東インド会社の無鉄砲な姿勢に手を焼いた。オランダ東インド会社はオランダ政府にも反逆することが多かった。
1641年、オランダ東インド会社はポルトガル領だったマラッカに一連の攻撃をしかけた(マラッカ事変)。現地のポルトガル当局は既に、スペインから離反してポルトガル政府に対する支持を鮮明にしていたにも関わらずだった。しかし、事前に対外事務局からの警報で幕府海軍がインド人部隊、日本人部隊、幕府に雇われていたポルトガル人部隊(砲兵部隊)でマラッカのポルトガル軍守備隊を増強していた。ポルトガル軍を補強していた幕府派遣の部隊の火縄銃兵部隊は国友1612型を装備しており、銃撃戦で優勢だった。ポルトガル人の傭兵砲兵部隊も経験豊富であり、大砲も新型だった。このため、オランダ東インド会社軍の攻撃は何れも撃退された。
マラッカ事変はオランダ政府だけではなく、オランダ東インド会社の本社(本部はアムステルダム)や同社の日本支社(台湾の植民地化と北東アジアにおける貿易が主な業務。山丹総合会社とも提携している。本部は沖縄)も驚愕させた。日本とオランダは良好な関係(実質上は同盟関係)にあり、貿易も活発だった。しかも、スペインと冷戦中でオランダに支援を行っている。日本帝国との対立は戦略上、オランダ政府にとってもオランダ東インド会社にとっても愚策でしかなかった。
このため、当時のオランダ東インド会社の東南アジア方面の幹部数名が逮捕された。後に、ジャカルタのオランダ総督も解任されている。この時期に、対外事務局はオランダ東インド会社の役員達に対する買収工作に多額の予算を使っている(多数の機密文書が幕閣の承認により破棄されており、詳細は不明)。
このため謝罪の意味合いもかねて、翌年、前述したグアム島攻略をオランダ東インド会社軍が実行した。これ以後は、目だった武力衝突はなくなった。幕府はオランダ、イギリス、ポルトガルを支援するために多額の費用を費やしたが、見返りは充分だった。日本の各種会社の東南アジア進出は進んだし、あまり日本帝国の手を汚さずに済んだので現地からの反感は少なかった。オランダやイギリスの東インド会社に多額の投資をしたおかげで配当による利益も大きかったし、リスクを分散できた。
オランダ東インド会社とは戦争寸前になったこともあるが、最終的には最も友好的な同盟関係が構築された。オランダ、イギリス、ポルトガルは日本帝国から武器弾薬、船舶を大量に購入し、兵站や海運で日本の海運会社や幕府海軍(水軍時代の慣習が残っており、海運業も行っていた)に多くの業務を外部委託したので税収により幕府も大いに儲けた。日本帝国はオランダやイギリスの東インド会社やポルトガルとの関係を利用して、インド方面にも進出していく。
1645年、信久は65歳で亡くなった。信久は60歳を過ぎても征夷大将軍職を長男の織田信就に譲らなかった。理由は単純で、信長や信忠を上回る実績を挙げてから征夷大将軍職を息子に譲りたかったからだ。このため、歳の割に激務を重ねてしまい、健康に気を遣っていたにも関わらず、父よりも早死にした。
信久は対外政策を主導して日本帝国が海洋国家となる第一歩を歩みださせた。国内政策でも祖父や父を参考にして無難に運営した。また、顧問達の意見を参考にしながら、多くの人材を抜擢している。彼らが後の対外戦争や内政で活躍することになる。信久は天皇に強要して各地で行幸を行わせている。
これは、いずれ天皇を京都の御所から新首都に建設する御所に移そうという計画の前振りだった。信久は首都を名古屋にしようと計画していた。織田氏の地元である尾張の名古屋に首都と天皇を移してしまえば、天皇と幕府の分離は、事実上、不可能になる。そうなれば、国内的に織田幕府の権威は絶対になるし、諸藩の謀反も不可能になる。自分の名も後世に輝くことになる。信久は計画を推進しようと意欲に溢れていたが、対外政策のために多額の出費が必要になり、断念した。信久は祖父や父には劣っていたが、その後の幕府の方向性を決定づけた。後を継いだ信就は信久に比べて協調的な性格を演じていた。しかし、実際に行った対外政策と国内政策は信長級とまではいかないが、父や祖父よりも遙かに強硬だった。このため、協調的と見られるのが好きなだけだと陰口を言われるようになる。信就は信久の路線を引き継いで目標達成に全力を傾けていく。
一方、清軍は戦局を優位に進めていた。1645年には南京などを攻略して南明政権に大打撃を与えた。清軍は1650年までに華中全域を制圧し、華南にも食い込んでいた。
1652年3月、鄭成功を主将とする南明軍は約300隻の艦隊を編成して南京の奪還を目指した。清軍は遅滞戦闘を行いつつ、後退した。
1652年5月11日、南明軍は南京を奪還することに成功した。しかし、清軍は戦略的に後退しただけだった。清軍は南京を逆に包囲して、南明軍を消耗戦に引きずり込んだ。鄭成功は撤退も考えたが南京を再放棄することには反対意見が多く、自身も嫌だった。消耗戦を続けている内に、7月21日、部下の艦隊が清軍の艦隊に誘引されて深追いし、偽装された砲台からの猛射と清艦隊の反撃で30隻を喪失した(別に43隻が損傷)。この敗北を受けて鄭成功は撤退を開始したが、暴風雨で約100隻を失った。鄭成功は戦力を回復させるため、台湾をオランダから奪取することを決断した。しかし、これが命取りになる。
鄭成功はオランダと戦争状態になっても日本帝国が戦争を仕掛けてこないと判断したが間違っていた。日本帝国は一貫して清国を支援していたし、オランダは事実上の同盟国だった。鄭成功の側近達の日記などによれば、幕府が対外戦争を自重していたこと、領土拡大に慎重だったこと、常に他国との連携を重視していたことなどの外見から日本帝国と手を組むことは可能だと判断していた。
このため、1655年7月2日、鄭成功が指揮する南明艦隊(約300隻)がオランダ東インド会社のゼーランディア城を攻撃した。鄭成功は将兵の大半も騙しており、将兵の大半は再度の北伐だと思っていた。上陸した南明軍は城を一週間で攻略した。鄭成功は日本帝国に対して、南明への軍事援助、清国との関係断絶を要請した。見返りとして、日本帝国を対等な国として遇すること、明本土における自由貿易、台湾で日本の会社に各種の特権を与えることなどを提案した。
しかし、幕府は大陸に良くも悪くも興味はなかった。つまり、貿易の形式は中国式でも良かった。対等な外交関係を認める王朝が政権を握れば良かった。明王朝は漢民族の王朝なので対等な関係は方便に過ぎないと幕府は判断した。それに、清帝国も条約を守っていた。安土城の天守閣で開かれた閣議において南明に対する開戦の是非が協議された。
信就「さて、南明を如何にするか皆の意見を聞きたい。儂は、オランダを助けて南明に戦争を仕掛けるべきだと思う。理由は次の通りだ。第一に、オランダとの同盟関係を確立できること。オランダとは以前から事実上の同盟関係だが、今回の戦争を機に正式な同盟を締結した方が良い。オランダはヨーロッパにおける強国であり、造船技術でも世界の最高クラスだ。オランダと同盟すれば、東南アジアでは日本帝国の優位は確定する。また、ヨーロッパの軍事技術を入手するにはオランダ政府の好意的な態度は不可欠だ。
第二に、台湾をオランダと折半できること。オランダと共同して台湾を領有する良い好機だ。是まではオランダとの衝突が懸念されたので台湾にも進出できなかった。しかし、南明が台湾のオランダ領を奪ってくれたことは幸運だった。オランダが台湾の植民地を奪還するためには我が国との同盟が不可欠だ。オランダは喜んで、我が国が台湾の残りの部分を領有することを認めるだろう。
第三に、幕府陸海軍が本格的な戦争に参戦できることだ。これまで幕府陸海軍は本格的な戦争に関わったことがない。組織としての実戦経験がないのだ。今回の事態は絶好の好機だ。南明軍は弱くはないが、ヨーロッパや我が日本帝国と比べれば軍事技術で見劣りする。油断は禁物だが、初戦の相手としては理想的だ。
第四に、清に大きく肩入れしてきた以上、清が勝たねば南明による報復が予想されることだ。何れにしろ、中華意識の強い明が滅ぶのは良いことだからな。皆の見解は如何に?」。
国防大臣の福富信家(福富直正の孫)が発言した。福富「上様の御意見に賛成です。幕府陸海軍が初となる本格的な戦争を行うことは大きな意義があります。諸藩に対しても幕府陸海軍の軍事力を示すことは国内の安定を更に確かにします。幕府陸海軍の体制は整っています。将兵も油断なく訓練を重ね、作戦を策定しています。陸海軍とも確かな自信に溢れています。何時でもご命令を」。
信就「頼もしいな。しかし、戦争に危険は付き物だ。敢えて聞くが、不安な要素はないか?」。
福富「敢えて申し上げれば、南明海軍が通商破壊作戦や本土の沿岸を襲撃してきた場合です。しかし、軍艦は軍港なしで持続的な作戦はできません。通商破壊作戦や沿岸襲撃は効果的です。しかし、効果が出るまで時間が掛ります。軍港を押さえてしまえば、南明海軍が持続的な攻撃を行うことは無理です。そこで第一段階として台湾を攻略して南明海軍の拠点を奪います。台湾は疫病も多い土地です。しかし、台湾を攻略しなければ戦争は長期化して負ける要素も強まります。結局、戦争において決め手となるのは陸軍です。陸を押さえなければ、海を制することもできないのです」。
信就「大変、結構だ。海軍は戦争を優位にするために不可欠の要素であっても、戦争を決定するのは陸軍だと国防大臣が忘れていないのは極めて重要だ。現在の技術では海上封鎖を完璧に行うことも軍港の中の敵艦を攻撃することもできないからな。清国も我が国やオランダと連携して攻勢に出るから台湾さえ奪えば、南明海軍に安全な場所はなくなる。問題は、南明海軍が東南アジアに拠点を移した場合だ。対外事務局、その懸念はないか?長引くと、被害も増え、戦費も嵩むことになる」。
信武(対外事務局の長官)「上様、御懸念は無用かと。各国で中国人の傲慢な態度は嫌われており、我が国やオランダを敵にして味方する国も勢力もいません。幕府海軍とオランダ海軍が共同して掃討を行えば、問題なく駆逐できます。油断なく、断固とした決意で作戦を行えば、勝利は間違いないです。問題は日本帝国、オランダ、清の間で足並みの乱れが起きないかです。我が国とオランダは連携に慣れています。しかし、清は両国との連携に慣れておらず、気質も全く違います。相当な協議を行い、協定を細部まで詰めておかないと思わぬ誤算を招くでしょう」。
信就「流石だな。南明に対する勝利のためには清国との連携が不可欠だ。このことを陸海軍に忘れないようにさせなければな。南明を打倒する事、台湾を攻略することが日本帝国と幕府のためにもなることを幕府内で周知させることも大事だ。意地の張り合いが戦争の勝敗よりも優先されることがあってはならない。諸君は優秀だが、この事を部下にも忘れないようにしろ」。幕閣達は頭を下げて深く同意した。その後、南明に対する戦争計画の詳細が詰められていった。
この閣議の方針に基づいて、幕府はオランダと日蘭極東同盟を1655年12月1日に締結した。内容は、台湾から東南アジアまでの領土を両国軍が共同で防衛する。先制攻撃の場合、参戦義務はないが、その場合も兵站面で支援を行うことが主だった。そして、1656年3月1日にオランダと共同して南明に宣戦布告した。清国とは宣戦布告前から協議が行われていた。清国は、オランダとの間で日本帝国と同様の条約を結ぶこと、台湾を日本帝国とオランダで分割することを承認すること、三国は南明滅亡まで戦争を継続することを趣旨とする沖縄協定を1655年12月10日に沖縄の首里要塞で締結していた(協定の公表と発効は日蘭の参戦後)。幕府は参与院で承認を得ており(1655年12月15日)、宣戦布告と同時に、諸藩に総動員令を発令した。
しかし、信久を始めとする幕閣は諸藩の陸軍を海外派兵させる気はなかった。恩賞の問題などを考慮した結果であり、総動員令を発したのは本土や沖縄の防衛態勢を強化するためだった。諸藩の海軍が幕府海軍の指揮下で船団護衛を行ったのが諸藩軍の貢献だった。幕府海軍も諸藩の海軍を船団護衛と近海防衛の他には使用しなかった。こうして、正統戦争(中国本土の王朝が清であることを確定させるのが沖縄協定により主目的となったために、この名称となった)が始まった。
幕府海軍の主力は佐世保に集結済みで3月20日にオランダ艦隊と合流した。国防大臣の福富はオランダ艦隊と共に出港していく幕府艦隊を見送った。福富は「日本帝国が列強となる第一歩が始まる」と呟いた。それから、傍らの将官達に語りかけた。福富「さて、素人は艦隊ばかりに目が行くが、私は玄人だ。あの艦隊が機能できているのは諸君らの御蔭だ。艦隊が機能するには、しっかりした兵站組織が不可欠だ。兵站が機能しないことは戦争の敗北を意味する。諸君らは賞賛されることも稀で忘れられることも多い。しかし、私を始めとする幕閣は諸君らを前線の将兵と同様に重要であることを理解している。諸君らも柔軟性をもって全力で取り組んでほしい。重要なのは意地ではなく、戦争の勝敗であることを部下達にも忘れさせない様にしろ。幕府は諸君らが重要であることを決して忘れないぞ!」。
将官達が感激したのは言うまでもない。福富の姿勢は幕府の伝統になり、日本帝国の国防省と各軍にも受け継がれていく。幕府国防省と幕府陸海軍の兵站部隊は協力して円滑な兵站に努め、成功した。時に困難にも直面したが、軍需産業の協力も得て柔軟に解決した。兵站組織が世界一の能力を誇ることは幕府陸海軍の伝統になり、幕府陸海軍の連勝の原動力となった。この優れた特質は日本帝国の各軍にも受け継がれ、情報部の優秀さとも相まって日本帝国の各軍の強さの源となった。
日蘭連合艦隊は3月24日、沖縄で上陸部隊を乗船させた。幕府海軍総司令官である阪井昌福大将が艦隊を直率していた。阪井は出港前に、各戦隊の司令官や艦長達、陸軍の将官達を集めて訓示を行った。「諸君、日本帝国が飛躍する戦争が始まる。今回の戦争で台湾の半分を手に入れ、ネーデルランド共和国との同盟も確かなものになる。日本帝国の対外的な威信は高まり、北東アジアの制海権は日本帝国が握る。東南アジアの制海権は日本帝国、ネーデルランド共和国、イングランド王国が握る。経済的な利益は大きく、何よりも北東アジアから東南アジアにかけて日本帝国の影響力が決定的な要素となる。
しかし、今回の戦争には他にも重要な意味がある。諸藩に幕府陸海軍の実力を明確に示すことができる。諸藩は幕府陸海軍の優秀さに驚愕するだろう。諸藩は幕府に従うのを月日が過ぎ、年を重ねることと同様に感じるようになる。鎖国をせず、安定を維持できるのだ。国力は増大し、帝国内は繁栄し、安定は確かとなる。次に、清国との関係が安定する。清王朝は満州民族の王朝だ。漢民族は清が強いから従っているだけだ。よって、清は自ずと手段が抑制する。何故なら、漢民族は隙を見せれば騒乱を起こすことは確実だからだ。幕府陸海軍が今回の戦争で強さを見せつければ清は日本帝国と協調するしかない。日本帝国と戦争になり敗北すれば、漢民族による騒乱の好機となるからだ。諸君、今回の戦争は日本帝国の飛躍と国内の安定を同時に達成できる絶好の好機だ。油断なく、全力を尽くせ!重要なのは縄張り意識ではなく、戦争に勝利することだ!日本帝国と織田幕府に勝利と栄光あれ!」。
幕府陸海軍の将官達は「我ら、日本帝国と織田幕府に勝利と栄光を齎す一助となり、全力を尽くす!」と応え、敬礼した。各艦上で他の兵士達にも同様の趣旨の訓示が行われ、パンフレットも配られた。幕府陸海軍の将兵達は士気を高揚させた。
主力艦隊が台湾に向かう一方で、陽動のために三個艦隊(一個艦隊は15隻。主力は5等艦)を先行して澎湖諸島、海南島、広東を襲撃した。主力はゼーランディア城奪還を目指して台南に向かった。同時期に、清の陸海軍も陽動のために一連の攻勢を行った。
4月17日、日蘭連合艦隊は台南沖に到着した。幕府艦隊は3等軍艦75隻、上陸部隊を搭載している武装商船102隻、火船用の西洋式ガレー船6隻、火船用の帆船6隻、ジーベック15隻。オランダ艦隊は3等軍艦18隻、火船用の帆船8隻。
鄭成功は清陸海軍や陽動艦隊の攻撃に対処するために不在だった。それでも、南明側の艦隊は約150隻だった。
午前11時に日蘭連合艦隊は南明側の艦隊を発見した。阪井大将は望遠鏡で南明艦隊を確認し、安心した。南明艦隊の主力がジャンク船で構成されているのが確認できたからだ。
阪井「南明艦隊と一緒に中華意識も沈める。日本帝国を侮り、攻撃の機運さえ起こす中華主義は今日で終わりだ!全艦、攻撃開始!」。煙の信号が焚かれ、幕府艦隊は南明艦隊に向かった。幕府艦隊の3等軍艦が南明艦隊を攻撃し、オランダ艦隊と他は待機した。
幕府艦隊は台南の港の北側から迫った。幕府艦隊は単縦陣で接近し、約400mから砲撃を開始した。南明艦隊の主力である外洋型ジャンク船は砲撃に脆かった。日本の3等軍艦のカノン砲(24ポンド砲と36ポンド砲)から鉄の球弾が飛ぶ。幕府艦隊からの鉄弾は命中すると、舷側を貫通した。鉄弾が貫通すると、舟の主材料である木片が飛び散り南明海軍の兵士達を殺傷した。木片でも高速で飛び散るのでショットガンの散弾を浴びせられたのと同じだった。幕府艦隊の砲撃で南明艦隊のジャンク船はマストなどの構造物が次々に破壊され、舷側に大穴が空いていった。数発で沈没する船まであった。幕府艦隊では阪井大将などが驚いていた。ヨーロッパ型の戦列艦は木材でも強度があり、カノン砲からの砲撃では相当の集中砲火を浴びせないと、マストなどの構造物が破壊されたり、舷側に大穴が空くことは有り得なかったからだ。ましてや、鉄弾による砲撃で沈没するのは見たことがなかった。ヨーロッパ型の戦列艦を沈めるには接舷戦闘による切込みか焼打ちしかなかった。
幕府艦隊の将官の多く(阪井大将も含む)は是までの戦闘で中国の海賊が使用する外洋ジャンク船と戦闘した経験はあったが、明の軍艦はジャンク船でも大型だったのでカノン砲の砲撃だけで撃沈できるとは考えていなかった。だからこそ、大量の火船を随伴してきたのだった。南明艦隊の惨状を見て、旗艦の幕僚からは嘲笑の声が漏れだした。
「何だ、船や艦隊の規模が大きいから警戒したが見かけ倒しか」、「陽動作戦をした我々が馬鹿みたいだ」などとの軽口が交わされた。幕僚の一人が阪井大将に「閣下、火船部隊の突入は中止しては如何でしょうか?南明艦隊の体たらくでは砲撃だけで充分です」と進言した。阪井大将は激怒し、怒号が飛んだ。阪井「この愚か者共が!!敵を侮れば敗北だ。軍隊において高級士官には油断もせず絶望もせず断固たる決意と冷静沈着さを失わない義務がある!上官の油断は部下の怠慢を招き、勝てる筈の戦闘を敗北させる。場合によっては戦争もだ!適宜、大型ボートで伝令を出して全艦に油断しない様に伝えろ。今の様な戯言を再び言ったら将校の資格なしと見做すぞ!」。
幕僚達は慌てて伝令に渡す伝文を書いたり、望遠鏡で南明艦隊、幕府艦隊、オランダ艦隊の位置を確認するなどの作業に戻った。阪井大将は南明艦隊を見ながら言った。阪井「鎖国をしていれば我が国の船も南明艦隊と同水準だった。富国強兵を行わず、専守防衛に徹することが最も危険であることを忘れないようにしなければな」。阪井大将は心配して大型ボートで伝令を出したが(当時の海戦では戦闘は各艦の速度が風任せのこともあってボートで伝令を送ることは珍しくない)、心配なかった。
各戦隊の指揮官達や各艦の艦長達は大半が実戦経験者であり、他も良く訓練されていた。幕府海軍の指揮官達は部下達が油断するのを許さなかった。幕府艦隊は単縦陣を維持しつつ、砲戦を続けた。幕府艦隊は台南の港と南明艦隊の間に割って入り、南側に回り込んだ。南明艦隊は接近戦を挑もうとして横列で突撃した。しかし、幕府艦隊は距離を置いて砲戦を続けた。戦列の間に入り込んだ船もあった。しかし、幕府艦隊は戦隊(5隻)ごとに行動できるようにも訓練されていた。
また、日本の3等軍艦は多数のバリスタを装備しており、焼夷弾付きの太矢を放って接近してきた南明艦隊の艦船の帆を焼き払った。戦列に割り込もうとした南明艦隊の艦船に対して幕府海軍の戦隊は戦隊の指揮官(准将か上級大佐)が優位と判断すれば戦列から外れて即座に攻撃を加えた。割り込もうとしたジャンク船にカノン砲の砲撃で多数の鉄弾が命中する。ジャンク船は大破した。焼夷弾付きの太矢が数多く命中し、帆も焼き払われた。砲撃で帆が倒され、水夫も多数が殺傷された。火災を消すことが出来る筈もなく、ジャンク船は炎上していった。幕府海軍の戦隊は割り込んだ船を片付けると戦列を追尾した。こうした光景が各所で繰り広げられた。
これが幕府艦隊の戦術だった。戦闘の初期は火力を最大にするため、縦陣を維持する。敵艦隊は幕府艦隊の火力で消耗する。敵側が幕府艦隊の戦列を突破しようと突出してくれば、戦隊の判断で突出してきた敵艦を攻撃する。突出してきた敵艦は多くの場合、連携がとれておらず単艦なので幕府海軍の戦隊に袋叩きにされる。敵艦が突出する程、敵艦隊の隊形が乱れるので幕府艦隊の勝率が高まる。幕府艦隊は徹底した訓練、海賊討伐などによる実戦経験、実戦経験を積んだ将校団による指揮といった要素のある幕府海軍だからこそ可能な戦術だった。組織力と柔軟性を兼ね備えたことにより、幕府海軍は世界でもトップクラスの戦術能力を持っていた。南明艦隊は隊形が乱れた上に、幕府艦隊の火力に圧倒された。南明艦隊は陸上砲台の射程内まで後退した。これを見た日本艦隊は狼煙を数艦から上げた。
これを受けて、オランダ艦隊とオランダ海軍の帆船火船部隊が北側から突入を開始した。南明艦隊は犠牲を最小限にしようと、戦力を北側に集中した。そのため、南側が手薄になり、日本側の帆船火船部隊が艦隊の援護で突入した。こちらの火船攻撃は真面に成功した。このため、南明艦隊は混乱し始め、各個に逃走を図る船も出始めた。2時間ほどして、風向きが変化し、陸側に風が変わった。このため、日蘭艦隊の3等艦の部隊は攻撃を中断して距離をとるしかなかった。
南明艦隊は態勢を立て直そうとしたが、立ち込める煙に紛れて日本艦隊のシーベック10隻がガレー船の火船部隊を先導して南の陸側から突入した。陸上砲台からは日本艦隊の部隊が見えていたが、立ち込める煙で照準が妨げられた。このため、ガレー船火船部隊は突入に成功した。統制が乱れて団子状態になっていた南明艦隊は次々に炎上した。シーベックの戦隊は火船部隊の乗員を救助しつつ、バラバラになったジャンク船を各個撃破していった。一方、日蘭の3等艦の部隊は帆船火船部隊の乗員を救助するシーベック5隻を援護して砲撃戦をしていた。
その中で、状況を把握しようと煙の中から出てきた南明艦隊の旗艦と僚艦(どちらも南明艦隊では貴重なガレオン船)がオランダ艦隊に捕捉され、集中砲火を浴びて爆発し、両艦とも爆沈した(当時の艦砲の砲弾は鉄弾であり、弾薬庫に引火しない限りガレオン船の撃沈は困難なので事故の可能性もある)。両艦が撃沈されたので南明艦隊は完全に混乱した。暫くして、風がやや海側に変わったので日蘭連合艦隊は総攻撃に移った。日本艦隊の3等艦の部隊から事前に決められていた狼煙が上がり、オランダ艦隊は分散して各艦で追撃を開始した。
一方、日本艦隊は戦隊ごとになり追撃したが、こちらは包囲網の維持を優先した。オランダ艦隊は日本艦隊に倣って多数のバリスタを装備しており、日本艦隊のシーベックと共に多数の南明艦隊の艦船を焼き払った。午後6時まで追跡されて南明艦隊は壊乱した。こうして、台南沖海戦は日蘭連合艦隊の大勝利に終わった。
両艦隊の損害は次の通り。南明艦隊の損害はガレオン船3隻、折衷船(ジャンク船とガレオン船の技術を融合させた船)13隻、外洋ジャンク船72隻が撃沈され(撃沈艦は大半が焼失)、他に損傷艦が多数。日蘭艦隊の損害は、撃沈された艦は0、損傷艦は大破2隻、中破6隻(2艦はジーベックで、残りは日蘭の3等艦が2隻ずつ)だった。大勝利を阪井大将も幕僚達も喜んだ。しかし、暫くすると阪井大将は平静を取り戻して幕僚達を静かにさせた。阪井大将は炎上する南明艦隊を見ながら言った。
阪井「戦闘は大勝利だ。しかし、戦争は続いている。陸軍が台湾を制圧した時が戦争に勝利した時だ。陸軍の勝利は海軍の勝利でもある」。そう言って、上陸作戦と補給船団の護衛が幕府海軍の主任務であることを思い出させ、幕僚達の気を引き締めた。伝令にも同様のメッセージを海戦の大勝利における将兵の奮闘を讃えるメッセージと共に届けさせた。幕府陸海軍は、このように戦争の勝利が最大の目的であることを互いに忘れなかった。
日蘭連合艦隊は夜間も陽動作戦を実施して南明軍の地上部隊を攪乱した。港を急襲する多数の素振りを見せてボートを出したり(ダミーの人形も乗せ水兵
が号令を怒鳴った)、沿岸の複数の地点を砲撃した。煙幕も焚かれた。さらに、ゼーランディア城付近の町が風上になると、砲撃とロケット弾で町を炎上させた。ただし、南明軍も日本軍の戦術は知っており、城周辺の家屋は全て撤去していた。このため、城に延焼させることはできなかったが、一連の陽動作戦で南明軍部隊は海岸を警戒し続けて疲弊した。日蘭連合艦隊は、翌日の日の夜明けからゼーランディア城の南に約10キロの地点に陸軍部隊を上陸させた。上陸部隊は幕府陸軍の約2万。指揮官は蒲生圭介中将。
蒲生圭介中将は上陸する前に、幕府海軍の阪井大将が座乗する旗艦を訪れた。そして、改めて感謝を述べた。
蒲生「阪井大将、幕府陸軍を代表して感謝申し上げます。昨日の海戦は見事な勝利でした。おかげで制海権が得られ、今回の上陸作戦が可能になりました。もう一つ、幕府海軍の重要な成功があります。見事な揚陸作業です。弾薬と防御用の資材が第一に揚陸され、上陸後の戦闘準備と防御陣地構築が順調です。揚陸物資が良く考えられて搭載されおり、混乱は最小限です。これは昨日の海戦にも劣らぬ成功です。幕府陸軍を代表して敬意を表します。
幕府陸軍も幕府海軍の成功を無駄にしないよう全力を挙げます。必ず、南明軍を破り、台南を占領します。幕府海軍と幕府陸軍とも目的は日本帝国の勝利です。幕府陸軍の閣下の言葉を真似すれば、海軍の勝利は陸軍の勝利でもあるのです。幕府海軍は幕府陸軍と緊密に連携したことを決して後悔しません。期待していてください」。
阪井「蒲生中将、幕府陸軍から感謝して戴くのは嬉しいことです。幕府海軍も引き続き、全力を尽くします。幕府海軍にも重要な任務が残っています。幕府陸軍への兵站を担うという重要な任務です。幕府海軍は海戦以上に重要と考えています。幕府陸軍が台湾を占領することが戦争の目的を達成するために不可欠だからです。どうか、兵站は心配せずに全力で戦い下さい」。
蒲生「阪井閣下、有難い激励の言葉に深く感謝します。今回の戦争で示された幕府海軍と幕府陸軍の連携は伝統として受け継がれていくべきです。人間は勝利よりも縄張り意識を重視したい誘惑に駆られます。阪井閣下を始めとする幕府海軍の献身ぶりは讃えられて然るべきです。阪井閣下を始めとする幕府海軍は後世の人間からも高い評価を受けます。戦場での勇敢さにも匹敵することです。幕府陸軍も幕府海軍に応えて勝利を示します」。
阪井「蒲生中将、有難うございます。引き続き、幕府海軍も期待に応えます。安心して焦らずに戦い下さい。中将殿の仰る通りです。今回の戦争で幕府陸海軍の連携が伝統となれば、後世の日本帝国にとって最良の伝統となります」。阪井大将は蒲生中将と固い握手を交わして敬礼した。蒲生中将は恐縮して敬礼を返した(幕府陸海軍では上の階級の人間が下の人間に、敬意を表する時、先に敬礼をする習慣があった)。
蒲生「阪井閣下、その通りです。では、そろそろ行きます。期待していてください。それでは」。蒲生中将は再敬礼してボートに向かった。阪井大将は上陸地点を望遠鏡で眺めながら「諸君、今日の事を忘れない様にしろ。蒲生中将の言った通り、今回の戦争で幕府陸海軍の緊密な連携が伝統となれば、日本帝国にとって最良の伝統となる。もちろん、我が海軍にもだ」と幕僚達に言った。「閣下、了解しました」と言い、敬礼した。阪井大将は満足して敬礼を返した。こうした幕府陸海軍の上層部の意向は下級兵士にまで及んでいた。
幕府陸海軍の揚陸作業は順調に進んだ。幕府陸軍部隊は上陸すると、早速、総出で陣地構築に着手した。多数の杭が打たれ、柵も設置された。砲兵用と火縄銃兵用には土嚢が積み上げられた。一方で、続々と物資が揚陸された。南明軍は海軍が敗北したので日本軍の増援部隊が続々と到着して不利になるばかりだと判断して、橋頭堡の陣地が強化される前に急襲することにした。
蒲生中将は出撃してきた南明軍を望遠鏡で確認すると、防御態勢を整えさせた。蒲生「幕府海軍は見事な勝利を収めた。今度は我が幕府陸軍の出番だ。南明軍を破って幕府陸軍の強さを見せつけてやれ!諸君が勝利すれば、幕府陸海軍の強さが証明されて日本帝国内外の敵は怯える。将来の敵は次の様に言うぞ。(逃げろ!幕府陸軍が現れやがった!)とな!」。蒲生中将の言葉は上陸部隊に伝達された。幕府陸軍部隊の将兵は司令官の激励に「任せてください!」などと応えて士気を高揚させた。
南明軍は城を出撃して、約3万の兵力で幕府軍を攻撃した。南明軍は海岸を避けて東から幕府軍の橋頭堡を攻撃した。幕府軍は橋頭堡の中央を第1旅団(約4千)、北側を第2旅団(約4千)、南側を第3旅団(約4千)が固めていた。これを第1騎兵旅団(約4千)、教導砲兵連隊(約1500)、教導歩兵連隊(約1500)、海兵隊2個歩兵大隊(約1千)が支援していた。南明軍は南と北で牽制攻撃を仕掛けて兵力を分散させて、中央突破する作戦を採ることにした。まず、北と南で南明軍約7千ずつが攻勢に出た。
しかし、日本軍の12ポンド砲が砲火を浴びせた。幕府軍の砲兵部隊は跳弾射撃(砲弾を地面でバウンドさせて敵を薙ぎ倒す砲撃術)を行った。南明軍の騎兵部隊が目標だった。鉄弾がバウンドして南明軍の騎兵部隊に向かっていく。南明軍の騎兵が次々に薙ぎ倒されていった。幕府軍の砲兵部隊は弾薬筒を導入して装填が早かった上に、訓練も充分だった(砲兵士官の多くも実戦経験豊富)。一方、南明軍の砲兵隊も砲撃を始めた。しかし、南明軍の砲兵部隊は幕府軍に対して大砲の質と数で劣っていた上に、技量不足だった。城壁などの大きい目標にしか命中させることができず、攻城戦でしか使い物にならなかった。南明軍の砲兵部隊が直射で放った鉄弾の多くは目標を外れた。さらに、幕府軍の歩兵部隊は土嚢などの遮蔽物を利用して低姿勢で隠れていた。
これが幕府軍の強みだった。この頃のヨーロッパ軍の兵士は基本的に傭兵なので立ったまま密集隊形をさせて逃げられない様にしておかなければならなかった(このため、銃兵も立射であり、歩兵に膝を付かせることも躊躇われていた)。幕府軍の兵士は武士であり、身分意識があったし生活も保障されていたので士官は兵士が立ち上がって命令に従うと信頼できた(逃亡の心配も少ない)。このため、南明軍の砲撃は殆ど効果がなかった。
南明軍は騎兵部隊を大砲の射程外に退避させ、歩兵部隊を前進させた。南明軍の歩兵が接近してくると、哨兵達が警報として集合ラッパを鳴らした。士官達が兵士達を集合させて隊形を整えた。火縄銃兵部隊は土嚢、杭、柵で作られた防御陣地で配置に就き、火縄を小銃に取り付ける。南明軍の弓隊と火縄銃兵部隊が銃撃を始め、銃撃戦が始まった。幕府陸軍の火縄銃兵部隊も将校の「放てー」の号令で射撃が始まった。幕府軍の火縄銃兵部隊は防御陣地から約100m先の目標に的確な射撃を浴びせた。幕府軍の火縄銃兵部隊は金属製の槊杖で装填が楽であった上に、弾薬嚢から弾薬包を取り出していたので射撃速度が安定していた(1分間に1発を維持)。幕府軍の火縄銃兵部隊は陣地から射撃を浴びせていたこともあり、有利だった。
南明軍の火縄銃部隊はヨーロッパの火縄銃兵部隊と同様で一斉射撃が基本だった。脅された兵士達が隣で鉛玉を喰らって死ぬ兵士を見ながら配置に就いた。やがて、「撃てー」の命令があり引き金を引く。一斉射撃による白煙が立ち込める。しかし、幕府陸軍の火縄銃兵部隊は一斉射撃にも大して怯まなかった。平然と、射撃が返された。南明軍の弓隊も密集隊形で射撃を浴びせられ、進めなかった。更に、接近して曲射で射撃しても幕府海軍の海兵隊が盾を掲げて幕府陸軍の火縄銃兵部隊を防護した。その上、幕府陸軍砲兵部隊が跳弾射撃で鉄弾を浴びせ続けた。鉄弾が飛び、隣の兵士達が薙ぎ倒されていく。鉛玉を喰らって隣の兵士が死んでいく。南明軍の火縄銃兵部隊と弓兵部隊の兵達は逃げ腰になり、南明軍の隊長達が逃げないように槍で脅しつけねばならなかった。
苛立った南明軍の指揮官は槍兵部隊に突撃を命じた。しかし、幕府陸軍砲兵部隊からの鉄弾がバウンドしながら槍兵達を薙ぎ倒していく。更に、火縄銃兵部隊から鉛玉が浴びせられていく。援護を受けた幕府軍の槍兵部隊は戦線を突破させなかった。更に、砲兵部隊からキャニスター弾が浴びせられた。散弾が飛び散り、槍兵達が薙ぎ倒される。柵や杭にも阻まれ、突破できた兵も幕府陸軍の槍兵部隊に突き殺された。何度となく、同じことが繰り返された。蒲生中将は望遠鏡で前線を見ながら「幕府陸軍の兵士達の頼もしいことよ」と言った。
南明軍の指揮官達は歩兵が陣地を切り崩せないので苛立ち、騎兵部隊を突撃させた。南明軍の槍兵部隊が攻撃を中止し退く。南明軍の騎兵部隊が整列し突撃を始めた。しかし、幕府軍の砲兵部隊の砲撃が始まった。バウンドしてくる鉄弾で騎兵が薙ぎ倒されていく。それでも南明軍の騎兵部隊は突撃していく。幕府陸軍の火縄銃兵部隊は対騎兵射撃の用意を始めた。「対騎兵射撃用意!分担射撃だ!」の号令で火縄銃兵部隊は3人一組になった。3人で装填作業を分担する射撃方法だ(幕府陸軍は陣地戦でしか使わない)。約100mから「一斉射撃!放てー」の号令で一斉射撃が始まった。中隊単位の横列での一斉射撃で南明軍の騎兵部隊が薙ぎ倒されていく。多数の馬が転がり、後続が足をとられた。そこに又、一斉射撃が浴びせられた。
それでも、火縄銃やカノン砲による煙(無煙火薬が実用化されるまでは火器を使うと黒色火薬による煙が発生する)に紛れて一部が突入してきた。杭を交わしながら柵と柵の間隙に入ろうとした。しかし、槍兵の小隊に行く手を阻まれた。スピードを失い、難なく衝き殺されていく。こうして、難なく排除された。突撃してきた南明軍の騎兵部隊は潰走した。南明軍の騎兵部隊が排除されると、蒲生中将は「今こそ、反撃だ!絶好のタイミングで前に進まない者は死ぬだけだぞ!(伝令が命令と一緒に各部隊の指揮官に届けた)」と言い放ち、前進を指示した。合図のロケット信号弾3発が打ち上げられた。「前進用意の合図だぞ!全部隊、準備しろ!」と各旅団で旅団長などの命令が飛んだ。
幕府陸軍の各部隊でラッパが鳴らされ、戦列が整えられた。蒲生中将から複数の伝令が第2旅団と第3旅団に向かった。再び、合図のロケット信号弾が打ち上げられた。今度は5発。第2旅団と第3旅団は陣地から前進を開始した。教導歩兵連隊と第1騎兵旅団も後続した(どちらも半数ずつに分割されて、第2旅団と第3旅団に配属された)。
どちらの戦術も基本的には同じだった。幕府軍の旅団が正面を拘束している間に、幕府軍の騎兵部隊は海岸沿いから急襲した。まず、剣装備の騎兵部隊が小単位で(分隊から小隊)急襲をかけ隊列を乱した。南明軍の火縄銃兵部隊や弓隊が主に狙われた。騎兵のサーベルが振り下ろされ、南明軍の火縄銃兵や弓兵が斬られていく。剣装備の騎兵部隊は戦列の手薄な部分を攻撃し、強い部分は避けて南明軍の戦列から離れた。
続いて、第二波で槍を装備した騎兵部隊が密集隊形で突撃した。南明軍の戦列の左側を狙った。剣装備の騎兵部隊の動きに惑わされて隊形が乱れていた。第二波の幕府軍の騎兵部隊が槍で幾つかの部隊を引き裂いた。南明軍の歩兵達が蹴散らされ、逃げ惑う。南明軍は慌てて部隊を密集させ始めた。第二波の騎兵部隊も深追いしなかった。
集合ラッパが鳴らされ、第二波の騎兵部隊も離れた。誘導騎兵が旗を持って各部隊を誘導する。再集した幕府陸軍の騎兵部隊は隊形を整え、支援の歩兵部隊の方に戻った。そして、支援の歩兵部隊(今回は教導歩兵連隊)の戦列で馬を休憩させた。
その間に、幕府軍の旅団は前進した。そして、両軍の歩兵同士の交戦が始まると幕府軍の騎兵部隊が介入した。戦列から騎兵部隊が飛び出し、南明軍の戦列に向かう。同じように第一波の騎兵部隊がサーベルを装備して突進する。南明軍の火縄銃兵や弓兵が蹴散らされていく。南明軍の歩兵部隊は第一派の騎兵部隊に混乱する。続いて、第二波の騎兵部隊が槍で南明軍の戦列を突き崩す。戦列が突き崩されると、幕府陸軍の騎兵部隊は離れた。誘導騎兵が各騎兵部隊を集結させて支援の歩兵部隊の戦列に戻した。騎兵部隊の攻撃が終わると、幕府陸軍の旅団が前進した。
「放てー」の号令で幕府陸軍の火縄銃兵部隊が射撃を開始した。南明軍の隊形は騎兵部隊に対処するため、団子状態になっていた。幕府陸軍の火縄銃兵部隊の的確な射撃で南明軍の歩兵が次々に倒れていった。更に、幕府陸軍砲兵隊の12ポンド砲が鉄弾を放った。南明軍の歩兵がバウンドしてきた砲弾で次々に薙ぎ倒される。混乱に乗じて槍兵部隊も前進していく。歩兵部隊が前進して有利な位置を占めると再び、騎兵部隊の攻撃が行われた。幕府陸軍の指揮官達は誘導騎兵部隊で騎兵部隊を誘導して有効に活用することが出来た。南明軍の騎兵部隊も幕府軍の騎兵部隊を阻止しようとした。残存の騎兵部隊が掻き集められた。
幕府軍の騎兵部隊が突撃していくと、南明軍の騎兵部隊が阻止するために突撃した。両軍の騎兵部隊は正面から衝突し、斬り合いを始めた。両軍騎兵のサーベルと剣が煌めき、両軍の騎兵の兵士や馬が倒れていく。幕府陸軍の騎兵部隊は主に馬を狙った。馬の方が人よりも面積が大きく、馬が倒れれば敵の後続が躓くからだ。第二波の幕府軍の騎兵部隊は誘導騎兵の指示に従って南明軍の騎兵部隊の側面に回り込んだ。そして、槍を翳して突撃した。南明軍の騎兵部隊は側面を衝かれて隊列を引き裂かれた。幕府陸軍の騎兵部隊の士官達は南明軍の騎兵部隊が退却しだすと、ラッパを鳴らさせて部隊を離れさせた。騎兵はスピードを失うと衝撃力がなくなり、脆いのを熟知していたからだ。
南明軍の騎兵部隊も態勢を立て直して歩兵部隊の側面に展開して幕府陸軍騎兵部隊の襲撃から歩兵部隊を護った。両軍の騎兵部隊は一進一退の攻防を続けた。幕府軍の騎兵部隊は劣勢になると支援の歩兵部隊を盾にして態勢を立て直した。幕府陸軍の騎兵部隊が退却する。「対騎兵射撃!放てー」の号令で支援の歩兵部隊からの射撃が南明軍の騎兵部隊に浴びせられる。幕府陸軍騎兵部隊が通り過ぎると槍兵部隊が戦列の間を塞ぐ。一斉射撃と槍衾により南明軍の騎兵部隊の勢いは削がれる。幕府軍騎兵部隊は逆襲する。予備の騎兵部隊が勢いの削がれた南明軍の騎兵部隊に襲い掛かる。サーベルが振り下ろされ、南明軍の騎兵が倒れていく。槍兵部隊も前進し、南明軍の騎兵を攻撃する。深追いした南明軍の騎兵部隊は潰走した。
南明軍の騎兵部隊も弱体ではなかったが、部隊としての練度は明らかに劣っていた。歩兵部隊とも殆ど連携していなかったし、一旦、突撃すると統制が失われがちだった。再集も下手で、指揮官達も重要性を理解していなかった。このため、突撃を繰り返した南明軍の騎兵部隊は疲弊して分散した。幕府軍の第2旅団と第3旅団の旅団長は南明軍の騎兵部隊が消耗しているのを見ると騎兵部隊に攻撃を命令した。幕府陸軍の騎兵部隊は突撃を開始した。槍装備の騎兵部隊が突撃し、南明軍の騎兵部隊を追い散らす。南明軍の騎兵部隊は幕府陸軍騎兵部隊の突撃に突き崩され、慌てて逃げ出した。続いて、サーベルを装備した幕府陸軍の騎兵部隊が突撃してきた。南明軍の騎兵部隊は隊形が乱れており、散々に斬り捨てられた。南明軍の騎兵部隊は潰走した。
騎兵の支援を失った南明軍の歩兵部隊は側面からの襲撃に晒された。隊形を整えた幕府陸軍騎兵部隊の攻撃が始まった。幕府陸軍の騎兵部隊がサーベル装備の部隊から突撃し、南明軍の火縄銃兵や弓兵を蹴散らして隊形を乱す。続いて、槍装備の騎兵部隊が南明軍の戦列を突き崩す。騎兵部隊は深入りせず、誘導騎兵の誘導に従って再集した。騎兵の攻撃が終わると、幕府陸軍の歩兵部隊が前進して攻撃する。幕府陸軍は騎兵と歩兵部隊(支援の砲兵隊を含む)の絶妙な連携攻撃を披露した。
南明軍の歩兵部隊は損害が続出し、甚だ動揺し始めた。幕府軍の全部隊が着実に前進した。南明軍の指揮官は左翼と右翼が共に敗北しそうになったので、次々に予備隊を投入した。幕府軍の優勢は4時間後には明らかだった。しかし、南明軍の将軍は処罰を怖れて戦線を維持させた。蒲生中将は伝令の格好をして前線の砲兵隊の線まで進んで戦況を確認し、戦機を確信した。蒲生「今こそ、好機だ!各旅団の偵察騎兵部隊を集結させよ!全騎、槍装備だ。第3旅団の方向から南明軍の後方に単独で回らせよ!突撃のタイミングは部隊指揮官に任せる!総攻撃だ!西洋の騎士の様に徹底的に攻撃せよ!」。
それから、他の幕府軍部隊へ騎兵突撃に呼応しての総攻撃が指令された。幕府軍は、疲労が少ない第1~3旅団所属の偵察騎兵部隊(約1千)を集結させた。この騎兵部隊は第3旅団の右翼から南明軍の後方に回った。騎兵部隊の指揮官は部隊を二群に分けて突撃を敢行した。突撃開始と同時に、信号ロケット弾7発を打ち上げた。槍装備の騎兵部隊が突撃する。南明軍の騎兵部隊が立ち塞がろうとする。しかし、彼らは余りにも疲弊していた上に分散していた。幕府陸軍の騎兵部隊は構わず、蹴散らした。
騎兵部隊は南明軍の歩兵部隊の戦列に突入して南明軍の歩兵達を蹴散らしていった。他の幕府陸軍部隊でも総攻撃が指令された。幕府軍の第1騎兵旅団の騎兵部隊(両翼とも)は支援の歩兵部隊を切り離した。「全騎、突撃!」の号令で騎兵部隊が突撃を開始する。南明軍の歩兵部隊は後方からの騎兵突撃で動揺していたところに正面から騎兵突撃を受けた。槍装備の騎兵部隊が戦列を蹴散らした。続いて、サーベル装備の騎兵部隊が逃げ惑う南明軍の歩兵を次々に斬り殺していった。
当然、第1~第3旅団の歩兵部隊も追撃する。槍兵部隊が突撃し、火縄銃兵部隊が後続する。騎兵突撃を潜り抜けていた南明軍の歩兵は次々に槍で串刺しにされていった。
南明軍の統制は完全に失われ、騎兵も歩兵も潰走した。騎兵部隊は勢いに乗って次々に南明軍の歩兵を仕留め、歩兵部隊も次々に槍で突き殺していった。余りに勢いに乗っていたので、蒲生中将が集合を命じても暫くは多くの部隊が追撃を止めなかった。蒲生中将は一度、部隊の隊形を整えてから再度、追撃を再開させた。散々に追撃された南明軍の部隊は完全に崩壊した。蒲生中将は南明軍の兵士達に降伏を呼びかけて降伏させる様に指示した。
日本の戦の慣習と違う指示に幕僚達は驚いた。当時、捕虜の取り決めに関する条約があるわけでもなく、ヨーロッパと違い降伏を勧告する慣習(元々は身代金や、宣誓の上で自軍に取り込むため)もなかった。籠城戦では余計な犠牲を出さないために降伏させるのが普通だったが、野戦では首取りのために捕虜をとる習慣がなかった。「中将閣下、何故ですか?相手はヨーロッパ人や他のアジア人ではありません。中国人は捕虜にして丁重に取り扱っても感謝しません。籠城戦なら兎も角、野戦では皆殺しにした方が得です」との進言に対して蒲生中将は次のように答えた。
蒲生「諸君の言うとおりだ。中国人は丁重に扱っても感謝しない。しかし、戦争において相手を必死にさせてはならない。野戦でも我が軍が捕虜をとれば、籠城する南明軍も降伏しやすいだろう。更に、軍の将兵には一定の自制心が必要だ。無用な殺戮が是認されれば、軍隊も猛獣の群れと変わらない。そうした存在は日本帝国と幕府にとっても有害だ」。
「諒解しました。直ちに全部隊に伝達します。しかし、中国兵が民間人に化けたり、民間人を扇動して襲い掛かってきた場合の対策も考えておくべきです」と続いて進言されると、次の様に答えた。蒲生「その時は民間人もろとも皆殺しにすれば良いだけの事だ。我が軍の将兵に危害を加えるなら女、子供、老人も皆殺しにするだけの事だ」。続いて、「戦争でも手段を選ばないことは厳禁だ!しかし、選べる手段は全て使わなければ敗北しかない」と言った。そして、「以上、誤解のないように、我が陸海軍の将兵と中国人に伝えろ」と付け加えた。「諒解しました」と幕僚達は答え、青ざめて命令を伝達した。追撃していた幕府陸軍部隊は命令が伝えられると不満を漏らしたが命令に従った。追いつかれた南明軍の兵士達は即座に降伏した。他の南明軍の敗残兵はゼーランディア城周辺に構築した陣地群に逃げ込んだ。幕府軍は迫ったが、自軍も疲弊していた上に隊形も乱れていたので急襲はしなかった。幕府軍は兵士達を休息させて翌日からゼーランディア城と陣地群を包囲した。
夜の間に南明軍は周辺から部隊を掻き集めてゼーランディア城と周辺の陣地群に入れた。そして、約1万の部隊を確保した。しかし、沿岸砲台の兵士や艦隊の生存者も編入した寄せ集めであり、攻勢は無謀だった。以後、幕府軍部隊は増強されてゼーランディア城は包囲下に置かれた。こうして、台南の会戦は幕府軍の大勝利に終わった。両軍の損害は次の通り。幕府軍の損害は、戦死が約2千、負傷が約3500。南明軍の損害は、戦死が約1万、捕虜が約6千、負傷が約7千(他にも多くの兵が逃亡)。敗走した南明軍の兵士達が、どのくらいの割合で南明軍に戻ったのかは不明だ。蒲生中将は馬で戦場を進みながら幕府陸軍部隊が南明軍を追撃したり、捕虜を揚陸地点まで連行していくのを見た。そして、満足げに言った。蒲生「幕府陸軍も大勝利だ。これで幕府海軍の大勝利に報いることが出来た。幕府陸海軍の歴史を飾るのに、相応しい陸海の大勝利だった。幕府陸海軍の緊密な連携という伝統が始まり、日本帝国の飛躍も始まる」。ゼーランディア城が包囲されたことで台湾の南明軍は窮地に追い込まれた。南明軍全体も後方が脅威に晒されて窮地に追い込まれていく。
幕府陸軍はゼーランディア城を包囲すると、包囲線の構築に着手した。工兵隊を中心として、砲兵隊以外の部隊は交代で構築に当たった。将校達も兵士達に見本を示すために率先して作業に当たった。蒲生中将は作戦の立案、兵站や情報の参謀から報告を受けるなど職務の合間を縫って包囲線構築中の部隊や野戦病院を訪れて将校達や兵士達を激励した。この時、各部隊には出迎えをすることを厳禁する命令が出されていた。
蒲生中将は各部隊に余計な負担を強いることはなかった。休息のための施設が造られ、風呂も焚かれた。当時、高価だった砂糖を用いた菓子やコーヒーも出されて兵士達の疲労にも配慮された。各施設も衛生面に配慮して運用され、軍服なども定期的に交換された。将校達や兵士達は真摯な姿勢を感じて、大いに喜んだ。
幕府陸軍部隊は最初に城を取り囲む攻囲線を構築した。柵、土嚢、杭、空堀、土盛り、塹壕で構築されていた。攻囲線は強固だった。土盛りが築かれ、その上に丸太と土嚢で壁が造られた。火縄銃兵部隊や砲兵部隊は立ったまま、護られた状態で銃撃や砲撃を行うことが出来た。柵や杭で敵が乗り越えてくることも難しく、空堀は深い上に竹槍が埋められていた。南明軍の逆襲に備えて、外側にも防御網が構築された。増援部隊も続々と到着し、更に包囲網を強化された。併行して、城に向かって攻城用の塹壕が掘り進められた。
蒲生中将は更に念を入れた。ゼーラント城の川にも包囲用の舟橋が二つ建設され、舟橋の両岸には砲台と陣地が構築された。舟橋が爆薬を積んだ筏などで爆破されない様に、手前に筏を並べた障害をそれぞれ二つ設置した。これで、ゼーランディア城と港は完壁に包囲されて、補給も連絡も事実上、不可能になった。当然、洋上は日蘭の艦隊が封鎖している。鄭成功は台湾を救援しようと艦隊を派遣して部隊を上陸させた。しかし、補給船団が度々日蘭の艦隊から襲撃されて大損害を被った。鄭成功は戦力を集中して反撃を行いたかったが、清軍も勢いづいて攻勢に拍車が掛かっていた。さらに、日蘭の艦隊に比べて軍艦の性能が低かった。このため、通商破壊作戦と沿岸襲撃に切り替えた。
鄭成功の作戦は効果を挙げ、幕府海軍と諸藩の海軍は大変な負担を強いられた。南明海軍の舟は九州の沿岸も度々、襲撃した。商船は船団を組まなければならず、貿易のコストは増大して経済にも悪影響を与えた。漁村や漁船も襲撃されたので、国内にも動揺が起こった。このため、既に平和慣れしていた国内の数藩は幕府に南明と講和してはと提案した。しかし、幕府は断固として戦争を継続した。戦略的に苦しいのは南明の方であり、勝敗は目に見えていたからだ。ゼーランディア城を包囲していた幕府陸軍は鄭成功が派遣した救援部隊を退けながら包囲を続行していた。入念な準備と周辺の掃討を終えてからだったので、本格的な攻囲戦の開始は7月にずれ込んだ。
攻囲軍の総兵力は日蘭軍合計で約4万に達した。オランダ軍の攻城砲部隊(24ポンド砲9門、20ドイム臼砲9門)、幕府陸軍の第1攻城旅団(24ポンド砲16門、20ドイム臼砲16門を装備する砲兵部隊と工兵隊で編成。約4千の兵力)が7月6日から猛砲撃を開始した。
この猛砲撃に援護されて、方形堡から幕府軍の工兵部隊が槍兵部隊や火縄銃兵部隊と共に塹壕を城に近づけていった。塹壕掘りは通常、夜間に行われ、塹壕の全面には土嚢が積み上げられた。塹壕は臼砲や12ポンド砲が通過できる広さが確保された。先端部に方形堡が構築され、12ドイム臼砲や12ポンド砲が設置されて敵陣を砲撃した。その援護下で、さらに塹壕を延長していく。方形堡も近い地点に建設されていく。
守備側は攻城砲部隊の猛砲撃に加えて、方形堡からの12ポンド砲や12ドイム砲の近距離からの砲撃で制圧されていく。こうして、攻囲壕の距離を伸ばしていき、最終的には相手の城壁や陣地から約200mの距離まで詰めて砲台を建設して総攻撃をかけるのが標準だった。また、左右にも攻囲壕を伸ばして敵の逆襲を防ぐ。蒲生中将は中途半端な攻撃を繰り返す積りはなく、砲撃と攻囲用の塹壕構築を念入りに行う予定だった。
だが、7月9日の夜、南明軍の数人の脱走兵が攻囲線の幕府陸軍部隊に投降してきた。7月10日の早朝(日の出前)、蒲生中将は本営で寝ていたが、情報参謀に叩き起こされた。「閣下、吉報です!起きてください!」との声で蒲生中将は飛び起きた。
蒲生「何事だ?吉報とは何だ?」。
「4時間前に、南明軍の歩兵が5名、脱走してきました。脱走兵達によると、城内と陣地は猛砲撃で既に士気喪失状態だそうです。しかも守備隊は寄せ集めです。水兵や俄か仕立ての強制徴集兵が全体の2割以上を占めているそうです」との報告だったが、蒲生中将は用心して平静を保った。
蒲生「それは孫子の兵法でいうところの死間(死を覚悟で敵に偽情報を渡す工作員)じゃないのか?まあ、実際は中国人で死間を担う人間がいたとは想像しにくい。しかし、可能性を排除するのは危険だ。大体、脱走兵が城の全体像を把握できているとは思えないが?」。
「閣下、御懸念は当然です。脱走兵達の証言だけなら閣下を態々、起こしたりはしません。これを御覧ください」と言って、情報参謀は台帳、日誌、数枚の立札、壊れた三つの壊れた中国刀と破片を見せた。日蘭の攻囲軍は南明軍の偽装により、実際よりも守備隊を強力だと見積もっていた。
情報参謀「これらを御覧ください。南明軍は脱走しようとする兵達を複数、処刑しています。台帳、日誌、立札には処刑された兵達の罪状や他の兵士達への警告などが細かく記されています。筆跡、印鑑を押す位置、記された内容に偽造された形跡は認められません。勿論、我が軍を嵌めるために南明軍が念入りに作成した可能性がないとは言えません。
しかし、この中国刀を御覧ください。処刑で多くの兵士達を斬ったために、刃毀れが激しくて捨てられています。他の破片を見ても相当数の兵士を斬っています。軍用犬にも匂いを嗅がせましたが人間の血の血痕です。偽装の疑いは低いです。現在も捕虜達を尋問中であり、前線部隊の報告や対外事務局の報告とも照合しています。城の状況は更に詳しく判明するでしょう。閣下、状況が変わったと判断して良いとも思います。命令を御願いします」。
蒲生「流石だな。良い仕事ぶりだ。情報活動では収集と分析が同じ価値を持つが、君は其れを忘れていないな。更に、必要なら上官を叩き起こすのも士官の責務だ。素晴らしいぞ」。蒲生中将は情報参謀を賞賛して敬礼した。情報参謀は恐縮して敬礼を返した。
蒲生中将は作戦室に向かい、地図を広げて作戦の検討を始めた。蒲生中将と幕僚達は総攻撃の日程を繰り上げることを検討し始めた。作戦の検討中に、捕虜の二人が城内の弾薬庫の位置を幕府陸軍の大尉に供述したことが報告された。幕府軍は事前に対外事務局が南明軍に抱えていたスパイからの情報で、位置は把握していた。しかし、そうしたスパイの情報は不確実であることが多いので(スパイが勘違いしている場合やスパイが二重スパイの場合など)、攻囲戦が進展するまで攻撃はしないでいた。しかし、捕虜の供述と情報が一致していたので攻撃することにし、併せて総攻撃を決行することにした。幕府陸軍とオランダ軍の将官達は入念に作戦の調整を行った。
7月11日の夜明けと同時に、日蘭の攻城砲部隊がゼーランディア城本体を猛砲撃した。攻城砲部隊の24ポンド砲、20ドイム臼砲が轟音を上げて鳴り響き、鉄弾や榴弾がゼーランディア城に飛んだ。鉄弾が命中し、城壁や城門が崩れていく。榴弾が城内に着弾して暫くしてから爆発し、大爆発を起こした。既に、南明軍の砲兵隊は制圧されていたのでロケット弾部隊も多数の焼夷ロケット弾を放って南明軍の対応を混乱させた。
南明軍は急に日蘭陸軍が城本体を猛砲撃してきたので驚いた。オランダはゼーランディア城を堅固にしていなかったので、これまでは陣地への攻撃が優先されていた。ゼーランディア城を急に猛砲撃すると、弾薬庫の位置を日蘭軍が察知したことが明白になってしまう恐れがあった。このため、ゼーランディア城の正門なども砲撃された。
城の北西側にある弾薬庫を砲撃するのは、位置的に有利なオランダ軍の攻城砲部隊だった(城の北の城壁付近に布陣)。砲撃開始から約1時間後、オランダ軍の20ドイム臼砲部隊の臼砲弾が弾薬庫を直撃して大爆発が発生した。複数の建物が吹き飛び、木片と死体が吹き飛んだ。城壁も崩れ、城壁の破片が下の陣地にも崩れ落ちた。既に、24ポンド砲で城壁が崩れ始めており、爆発で北側の城壁が大きく崩れた。
夜間の内に、布陣していたオランダ軍の選抜部隊の約450名が崩れた城壁に突撃した。突撃ラッパが鳴り、「オランダ陸軍に遅れるな!突撃!」の号令で幕府軍の教導歩兵連隊が後続した。日蘭軍は全火砲で城と陣地群を砲撃した。オランダ軍の選抜部隊は砲兵部隊の援護を受けながら突撃した。カノン砲部隊が焼き玉を撃ち込み、南明軍の兵士達を怯ませた。砲弾は唸りを上げて陣地に向かい、柵を撃ち倒して木などを燃やした。更に、臼砲から榴弾が撃ち込まれた。臼砲弾は落ちると、暫く地面を転がった。冷静に対処すれば、導火線を消すこともできた。しかし、南明軍の兵士達は戦意をなくしていた上にカノン砲の攻撃で怯んでいた。やがて、榴弾が次々に爆発した。陣地の柵や兵士などが吹き飛んで木片や人の肉片などが散った。
「突撃!」、オランダ軍の選抜隊は歓声を上げて突撃した。オランダ軍兵士達は槍で南明軍の兵士達を衝き殺し、追い散らした。オランダ軍は城壁前の陣地を簡単に突破して城に雪崩れ込んだ。幕府軍の教導歩兵連隊は後続して陣地を確保し、後続部隊の突破口を確保した。火縄銃兵部隊が配置に就き、槍兵部隊が竹束と盾で仕寄せを形成した。南明軍の部隊が反撃に来た。「放てー」の号令で、火縄銃兵部隊が射撃を始めた。南明軍の兵士達が次々に倒れた。掻い潜ってきた者も槍隊に衝き殺された。幕府教導連隊の横をオランダ軍部隊が通り過ぎ、城に向かっていく。オランダ軍の士官達は通り際に幕府陸軍の士官達に感謝を述べて城に向かった。幕府陸軍の士官達もオランダ軍を激励した。オランダ軍約2000名は突破口から城内に突入した。
オランダ軍部隊は城内に突入すると、火縄銃兵部隊を展開させて銃撃を始めた。幕府陸軍に倣って仕寄せを造り、着実に進撃した。大隊砲や臼砲も据えられて砲撃を始めた。南明軍の部隊が反撃してくると、「キャニスター弾、撃てー」の号令で大隊砲からキャニスター弾が飛んだ。鉛玉が撒き散らされ、多くの南明軍の兵士が倒れた。「撃てー」の号令で火縄銃兵部隊も一斉射撃を行い、南明軍の部隊は追い散らされた。その間に、工兵隊を中心とした部隊が進撃した。
ゼーランディア城は火薬庫の大爆発で大混乱になり、建物の多くも損傷を受けていたのでオランダ軍は城内を順調に掃討した。オランダ軍は次々に建物に放火した。煙が立ち込める中で、オランダ軍の工兵隊は地雷(現代の地雷ではなく、地下に設置する建造物破壊用の爆弾)を仕掛けた。導火線に火が点けられ、部隊が退避する。建物は崩れ落ちた。城内の建物は次々に破壊された。門も爆破されて突破口が広がった。
幕府軍の教導歩兵連隊は第3旅団から増援が来ると陣地を次々に攻略した。火縄銃兵部隊が散開し、銃撃を始めた。南明軍の将校や将校の周りの兵士達が鉛玉で倒れる。銃撃が一巡すると、「突撃―」の号令が下り、幕府陸軍の槍隊が突入して南明軍の兵士達を追い散らす。同様の戦術で幕府陸軍は着実に南明軍の陣地を占領していった。城の西部でも幕府軍第1旅団を中心とする部隊が教導歩兵連隊を中心とする部隊と呼応して陣地を突破した。最早、南明軍は総崩れだった。寄せ集めの兵士達から潰走を始めた。日蘭軍の銃撃や砲撃で鉄弾、鉛玉、榴弾が着弾すると、持ち場を離れて一目散に逃げた。南明軍の将校や他の兵士達も制止できず、自分達も退却するしかなかった。南明軍は港の最終防衛戦に潰走した。
ここで、日蘭軍は攻勢を取りやめて南明軍に降伏を勧告した。蒲生中将は数名の捕虜に降伏勧告を持たせて南明軍の陣地に向かわせた。降伏勧告は中国で書かれ、丁重な内容だった。しかし、末尾にはゾッとする文言が書かれていた。「閣下、織田幕府は相手の作法に応わせることを常としています。閣下が降伏されるなら、こちらも閣下と部下達を丁重に扱うことを神に誓います。しかし、閣下が降伏を拒めば閣下は確実に死に、部下達の多くも同様となります。ましてや、兵士達に軍服を脱がせて便意兵に化けさせた場合、閣下は部下達と共に肥料となります。既に、我が陸軍を攻撃した暴徒共は肥料となりました。閣下の賢明な御判断を期待します」。
南明軍の将軍は賢明にも降伏し、部隊も従った。こうして、ゼーランディア城は陥落した。南明軍の将兵は丁重に扱われた。将軍などの上層部、上級の隊長、重度の負傷兵は日本本土の捕虜収容所に送られた。他は沖縄の捕虜収容所に送られた。幕府陸軍は入念に周辺を掃討し、安定化させた。町や村を整理し、それぞれを壁で囲った。全員を登録して移動を制限し(物資は幕府陸軍が供給)、夜間の外出を禁止した。こうして、便意兵(軍服を脱いで民間人に化けて攻撃してくる輩)や反乱を防止した。幕府陸軍の態度は丁寧だったが、反逆すると焦土作戦、無差別攻撃、強制移住で対応した。蒲生中将は焦土作戦を監督している途中で「反逆は大いに結構。丁重に扱う手間が省ける。来年は反逆者が肥料となって収穫も増えるしな」と述べた。
一方で、幕府陸軍は無償で住宅や灌漑施設の建設などの復興事業を進めた。更に税金を3年間、免除した。オランダも幕府の要請で同様の施策を占領地で行った。併行して、密告者が大量に雇われ、広範なスパイ網が構築された。台湾総督府の設立が決まっており、要員が幕府陸軍と協力して作業を始めていた。こうして、丁寧さと冷酷非情さを組み合わせた政策で幕府陸軍は現地を掌握した。ゼーランディア城の陥落で戦争の勝敗が決したわけではないが、南明軍の戦略的選択肢は大幅に狭まった。8月12日には、鄭成功が派遣した増援部隊も幕府陸軍に攻撃されて降伏を余儀なくされた。こうして、南明軍は後方を遮断され、中国南部に追い詰められた。
清軍も攻勢を加速していた。清国陸軍は、8月に福建を完全に制圧した。同月、日蘭艦隊が護衛する上陸船団に搭載された清国陸軍が金門島、馬祖島および周辺の島を占領した。
10月7日、澎湖諸島を幕府軍が攻略に着手し、10月25日に占領した。南明軍も抗戦していたが、劣勢は明らかだった。幕府艦隊はシーベックに先導されて、狭い湾内も普通に攻撃できた。
幕府海軍は倭寇を吸収して編成された経緯があるので、中国沿岸の地形や気象条件を把握していた。さらに、鄭成功の父親の鄭芝龍などを対外事務局が開戦前に日本帝国に亡命させており(清で偽者の首を晒したり、死体を乗せた船を難破させたりして死亡したと偽装していた)、幕府は鄭一族や南明軍の内情も把握していた。幕府軍が戦争を有利に進めることが出来たのは、こうした事前の諜報活動に拠るところも大きい。鄭成功は態勢を立て直そうと海軍の強化(ガレオン船や折衷船の増強など。主にスペインから購入)をしていた。
しかし、11月4日、海南島の視察から帰る途中、海南島と雷州半島の間で夜間に突入してきた幕府海軍の第4艦隊(3等艦10隻、5等艦5隻、シーベック10隻。指揮官は赤松正治少将)と遭遇戦になった。第4艦隊は南明軍の陸上砲台の砲撃を潜り抜けて突入してきた。第4艦隊の先頭の3等艦が最初に気づいた。
「艦長、2時の方向を見てください。敵艦隊です。ジャンク船も見張り員が見ました」と見張り員の報告を伝達してきた中尉が艦長の竹崎大佐に報告した(夜間行動の際は不意を突かれた時などを除いて音を出さないように、リレーで報告が伝達されていた)。竹崎大佐は望遠鏡を向けた。直ぐに数隻の西洋船らしき船が見えた。
「右砲戦用意。静かに用意せよ。2番艦に発火信号で発見を伝達せよ。ロケット信号弾は交戦開始まで待て」と命じた。部下達は不安になり、ロケット信号弾による本隊への警報を促した。
しかし、「本艦の前に味方艦はいない筈だ。しかし、戦場に置いて誤射は珍しくない。それに、艦砲は接近しないと当たらない。砲手達に伝達。夜間は狙いが高めになる。敵艦の喫水線を狙うのを忘れるなと命令せよ」と艦長は命じた。
接近する内に南明軍の方が気付き、南明軍の艦隊で銅鑼が盛んに鳴らされた。「ロケット信号弾発射、3発だ!2分後に2発だ!慌てるな!正確に伝達せよ!砲手達にも慌てて発砲するなと念を押せ!」との命令で将校達は各部署に走り、命令を伝達した。ロケット信号弾は3発で敵艦隊の発見、後は方向によって2次方向なら2発といった具合に決められていた。南明艦隊に向かう内に、南明艦隊が発砲を始めた。
竹崎「いいぞ!いいぞ!どんどん撃て!そんな遠くから撃っても丸見えになるだけだ」。この頃の艦砲は照準装置が未発達で有効射程は約400mだった。南明艦隊は1㎞以上、離れた所から砲撃していた。南明艦隊の数艦は距離を夜間で見誤り、鄭成功の艦が艦隊に含まれていたこともあって狼狽えた。このため、牽制のために発砲した。当然、周囲に水柱が立つだけで幕府海軍の艦に命中する筈もなかった。
構わずに、第4艦隊が進んでいると見張り員が「艦長ー。10時方向にも敵艦隊です」と報告した。竹崎は確認させ、確認の報告を受けると「取舵15度、左の敵艦隊に向かう」と命令した。部下達は「挟撃される恐れがあります」と反対したが、「左の艦隊は銅鑼も鳴らさず、発砲もしてこない。練度が高い証拠だ。発見のロケット信号弾を撃て」と竹崎は命じた。こちらが鄭成功の座乗していた主力艦隊だった。最初に3発、2分後に10発の信号弾が撃たれた。
幕府艦隊の旗艦では赤松中将が「各個戦闘の信号を点灯しろ!戦隊ごとの各個戦闘だ!」と命令した。幕僚達は「危険です!それに、戦闘の初期は縦陣による戦闘が基本です」などと反対した。
赤松「既に、奇襲は無理だ。夜間で指揮も困難だし、敵情も不明だ。こういう状況では戦隊ごとに判断するしかない。状況が不明な時に、原則に拘るのは自殺行為だ!直ちに、各個戦闘を指令しろ!」。命令が伝達され、旗艦のマストで信号灯(当時の灯台と同じ構造で火を焚いて光を鏡で反射させる)により、戦隊ごとの各個戦闘が伝達された。幕府艦隊の先頭艦は約350mで発砲した。多くの砲弾が命中した様だった。南明軍の艦は発砲を続けていたが、夜間戦闘の砲撃訓練を受けておらず砲の照準を昼間と同じにしてしまった。このため、多くの砲弾が高めに飛んで外れた。他の第4艦隊の艦艇も約350mで順次、発砲した。そして、各戦隊は敵と接触すると順次、戦列から外れて南明軍の艦と交戦した。南明軍の前衛艦隊も戻ってきたので乱戦状態になった。
各所で両軍の艦艇が撃ちあい、鉄弾が飛ぶ。乱戦で接舷戦闘も各所で発生した。鄭成功が乗船していた折衷艦は幕府艦隊の3等艦3隻の集中砲火を浴びた。
これは逃れたが、第4艦隊のジーベックが接舷攻撃をかけた。ジーベックはバリスタ、12ポンド砲、ファルコネット砲で南明軍の機関の甲板を掃射した。バリスタで焼夷弾付きの太矢が撃ち込まれ、12ポンド砲からキャニスター弾が撃ち込まれた。焼夷弾で甲板が焼かれ、火で南明軍の水兵が浮かび上がると「放てー」の号令で12ポンド砲が次々に発砲した。キャニスター弾の散弾が飛び散り、南明軍の水兵達が死傷した。引っ掻き綱が投げられ、ジーベックが接舷した。ファルコネット砲が火を噴き、破片を撒き散らした。更に、火縄銃兵がマストなどから次々に発砲した。南明軍の水兵達は次々に倒れた。
その後、幕府海軍海兵隊が突入した。海兵隊は槍で南明軍の水兵達を追い散らした。そして、竹束を並べて遮蔽物を造り、火縄銃兵部隊が展開した。幕府海軍の海兵隊は艦の一角を制圧すると、焼夷弾と同じ成分を詰めた多数の樽を艦内に投げ入れて火をつけた。幕府海兵隊は火を点けると、自艦に戻った。ジーベックは索を切り離して離脱した。火災で鄭成功が座乗した艦は恰好の標的になった。幕府海軍の3等艦の数隻から攻撃された。幕府海軍の3等軍艦が次々に砲火を浴びせ、多数の鉄弾が命中して殆どの砲が沈黙し、マストも1本を除いて折れた。
竹崎大佐の艦はこれに乗じて艦尾に回った。そして、艦尾に対して約100mの距離から次々にカノン砲が火を噴いた。艦尾からの砲撃で鉄弾が次々に船体を貫いていった。木片が幕府艦にも飛んできた程だった。幕府艦が砲撃していると、突如として南明軍の旗艦が爆発を起こした。
竹崎「いかんぞ!総員、艦内に退避!退避だ!砲撃も中止!砲門を閉めろ!」。将校達が鐘を鳴らし命令を怒鳴る。メガホンでマストの水兵や海兵隊員に「退避!艦内に退避!艦内に退避だ!」と怒鳴った。水兵達や海兵隊員達は大慌てで艦内に逃げ込んだ。
甲板の砲手達と将校達は可燃物の焼夷弾付きの太矢などを海に投げ捨てた。竹崎大佐も副長と航海長を退避させ、部下達の制止を振り切って投棄を手伝った。竹崎大佐が低姿勢で甲板を見渡して全員が艦内に入ったのを確認した時に、大爆発が起こった。
竹崎は爆風で吹き飛ばされた。破片で負傷もしていたが、将校と下士官が飛び出した。2人は竹崎を引きずっていき、艦内に落とした。2人も艦内に飛び込んだ。その後、鄭成功の艦は爆発を繰り返して5分後に爆沈した。赤松少将は、この時点で戦闘を打ち切った。旗艦から14発のロケット信号弾が上げられ、撤退の合図が出された。幕府艦隊は南に撤退し、南シナ海に抜けた。
第4艦隊は、元々、トンキン湾に展開する南明艦隊を攻撃するための前衛だった。第4艦隊が哨戒艦を排除し、後続の第1艦隊が火船部隊を伴って湾内に入り、南明艦隊のガレオン船と港湾施設を焼き払う作戦計画だった。南明艦隊はトンキン湾の北部でガレオン船の訓練に努めていた。このため、幕府海軍やオランダ海軍は度々攻撃を試みていた。
しかし、トンキン湾の南からの攻撃は南明海軍の警戒が厳重で、幕府艦隊やオランダ艦隊が襲来する度に南明海軍は港の近くに退避して陸上砲台の援護下で防戦した。このため、戦果は不充分だった。このままだと、南明海軍が強化されて、幕府海軍やオランダ海軍が苦戦することにもなりかねない。
このため、幕府海軍の阪井昌福大将は早急に南明海軍に打撃を加えるべく、大胆な作戦を立案した。夜襲によって南明海軍を攻撃し、火船によって南明海軍のガレオン船や港湾施設を焼き払う作戦計画だった。これまで、幕府海軍やオランダ海軍は殆ど夜戦をしてこなかった。夜戦では小型船が多い南明海軍が有利だったし、夜間は指揮が難しいので夜戦はしないのが当時の海戦の原則だった。阪井大将は故に南明海軍も油断していると判断した。さらに、敢えて海南島と金州半島の間の海峡を通過することにした。両岸に砲台が設置されており、哨戒艦も数隻が常時、いた。
しかし、阪井大将は南明軍の砲手の練度は一般に低く、夜間の砲撃なら尚更だと判断した(当時の大砲の有効射程では海峡をカバーできないことも大きかった)。さらに、日蘭の艦隊は一度も、このルートで攻撃していないので自然に油断が生じ、夜間なら奇襲も可能だと判断した。このため、前衛の第4艦隊に通常の2倍の海兵隊員を臨時に乗せ、バリスタやファルコネット砲も増設した上で突入させることにした。第4艦隊が海南島沖に到着する前日は嵐であり、当日も波が荒れていた。このため、第4艦隊の幕僚は突入を躊躇った。
しかし、赤松少将は艦隊の練度に確信があり、シーベックの戦隊に先導させて艦隊を突入させた。それに、波が荒れていれば南明海軍の小型船は行動しにくく、妨害用の筏を曳航して進路を妨害するのも不可能になる。そこで突入すると、目論見は当たった。月も雲に隠れて視界も悪く、南明軍の砲台の砲弾は一発も命中しなかった。艦隊の灯火を頼りに哨戒の外洋ジャンク船の数隻が接近してきたが、シーベックと5等艦の戦隊が砲火を浴びせて撃退した。3等艦の2個戦隊とシーベックの1個戦隊は湾内に進み、そこで鄭成功が座乗している南明艦隊と遭遇した。そこで交戦して、南明艦隊に打撃を与えたが少将は、この時点で奇襲性が失われたと判断して作戦を中止した。
幕府海軍の第1艦隊は第4艦隊からの合図がないので(作戦続行の合図は第4艦隊の全艦がロケット花火を3発ずつ上げることに決められていた)、作戦を中止して台湾に引き返した。第4艦隊も台湾に引き返した。この海戦での損害は、南明海軍が外洋型ジャンク船3隻と折衷船4隻を撃沈され、2隻のガレオン船が大破して座礁した(翌日、2隻とも沈没)。第4艦隊の損害は数隻が小破しただけだった。
以上の経緯により、幕府艦隊は奇襲が失敗したので、落胆していた。
赤松少将に至っては阪井大将に「この階級章は私に相応しくありません。降格を願います」と言って、階級章を差し出した程だった。しかし、阪井大将は「赤松少将、君は最良の選択を行った。夜間で状況も不明な中では撤退も当然だ。事後の報告で第4艦隊が優勢だったのは気にするな。あの状態で深入りして、周囲から南明軍の増援艦隊が到着していれば第4艦隊は分散した状態で袋叩きにされていただろう。魔法の様に、各艦を指揮できる通信技術が開発された未来の人間は君を非難するかもしれない。
しかし、海軍大将として私は状況と技術的な限界を考慮して判断を行う。私と同じ考慮をした君は最良の海軍軍人だ」と述べて慰労した。逆に、阪井大将は赤松を中将に昇進させた。
竹崎大佐(戦後に、少将に昇進)も含めて各戦隊の指揮官達も赤松を賞賛した。この時代に、幕府海軍も含めて赤松の判断を批判する人間はいなかった。阪井大将は「今回の失敗は私の責任だ。奇襲を目的とした作戦は成功しても決定的な打撃を相手に与えることができない。相手が間抜けでない限りは。そして、南明軍が間抜けでないのは明らかだった。信長公の桶狭間も奇襲ではなく、今川義元を討ち取れたのは偶然に過ぎない。間抜けでない相手には基本通りの手段を柔軟に組み合わせていくしかない」と総括した。当初、日本帝国もオランダも清国も鄭成功が死亡したことは知らなかった。
南明軍は鄭成功の死を隠そうとした。しかし、無駄だった。鄭成功の死後、南明軍の士気は低下し(特に南明海軍が低下)、敗北の一途を辿る。将軍達の権力闘争も激化した。このため、南明軍の連携は乱れ、決戦を求めて優勢な清軍、オランダ軍、幕府陸海軍に攻勢をかけて敗れていくことになる。戦術的にも極端に攻勢的になり、陣地に真正面から攻撃をかけるようになった。南明軍の将軍は消極的だと見做されると、処刑される恐れがあった。
清軍は厦門を目指して進撃し、一連の野戦陣地を広東北部に建設して兵站を整えた。南明軍は清軍を遠ざけようと、攻勢に出た。12月に清軍は南明軍の一連の攻勢を撃退して、1月から反転攻勢に出る。1月17日、厦門を包囲して攻囲線を構築し、広東の周囲にも陣地群を構築して攻城砲部隊による砲撃を開始する(包囲は不充分であり、南明軍を攻勢に駆り立てるのが目的だった)。南明軍は広東を包囲させまいと清軍を攻撃して消耗戦に引きずり込まれた。南明軍が清軍の数陣地を奪取したりもしたが、戦略的には清軍の思う壺だった。
清軍は2月上旬から反転攻勢に出て広東を完全に包囲する。2月20日の夜明けに、清軍は厦門の城壁を坑道作戦により数個の地雷で爆破して厦門に突入し、突破口を確保した。南明軍は城壁の内側に第二の壁を設けていた。しかし、清軍は無理攻めをせずに臼砲や攻城砲の数陣地を約600mの位置に構築した。
砲撃が始まり、正午過ぎには第二の壁も崩れ始めた。清軍は市街地にもロケット弾や臼砲の焼玉を多数、撃ち込んで大火災を発生させた。同時に、南明軍の指揮官達に降伏を勧告した。南明軍の兵士は追い詰められて次々に降伏し、指揮官達も相次いで降伏した。南明軍の防衛司令官の将軍は最後まで抵抗したが、清軍の工兵隊が臼砲部隊や火縄銃兵部隊などの援護を受けながらペタードと地雷を仕掛けて建物ごと爆殺した。これで抵抗は終息し、日暮れまでに厦門は陥落した。
厦門が陥落した日、南明海軍(約190隻)と幕府海軍の第4艦隊(増強されていた。3等艦75隻、5等艦25隻、シーベック20隻、武装商船88隻、火船用の帆船18隻。赤松中将)が海南島の西方海上で激突した。第4艦隊の後方にオランダ艦隊17隻が追随していた。これまで、南明海軍は決戦を避けていたが、幕府海軍が海南島に上陸作戦を決行するという情報を掴んだので艦隊決戦を挑むことにした。この情報は対外事務局の二重スパイが流した情報で、第4艦隊を発見した哨戒艦の艦長達も対外事務局のスパイとなっていた。阪井大将の狙い通り、広い洋上での艦隊決戦だった。阪井大将は赤松中将の能力を高く評価しており、決戦の指揮を任せることにした。
阪井大将は台南の海軍本部で赤松中将を激励した。阪井「赤松中将、君に全て任せる。油断なく、君が着実に指揮すれば勝利は日蘭海軍の頭上に輝く」。
赤松「閣下、感謝します。必ず、期待に応えます。しかし、閣下は御見事です。輸送船団を付けて上陸作戦を行うと見せかけて艦隊決戦を強要する作戦は最高の作戦です。敵軍は艦隊決戦に応じるしかありません。後世の海軍軍人達の手本になることも確実です。後は、我々が閣下の作戦を油断なく実行すれば勝利は確実です。勿論、状況に応じて修正することは忘れていません。しかし、第一の功労者は、作戦の概要を立案した閣下です」。
阪井「赤松中将、賞賛は嬉しい。しかし、君は誉め過ぎだ。作戦が良くても、実行と戦場における修正がなくては無意味だ。第一の功労者は、実行部隊の指揮官である君達と兵士達だ」。
赤松「閣下、それは違います。閣下の理屈では、城や船などの製造や法律の制定を命じたり予算の支出を命じた責任者の功績が無視されてしまいます。勿論、実行する人間の功績を軽視してはなりません。しかし、第一の功績は、概要を考えて実行を命じた最高責任者にあると評価されるのが当然です。
最高責任者が責任をもって統括しなければ、個々の実行者が素晴らしい働きをしても無意味です。それは、指揮者のいない演奏会と同じです。特に、軍人や官僚などは、こうした事を忘れがちです。謙虚さも結構ですが、過度の慎み深さは有害です。後世の人間のためでもあります。では、そろそろ行きます。吉報を御待ち下さい」。
赤松中将は敬礼をし、阪井大将も「赤松中将、神も君の味方だろう」と言って敬礼を返した。赤松中将は第4艦隊の旗艦に乗り込んでいった。第4艦隊は、護衛していた輸送船団が上陸作戦用だと見せかけるために一連の偽装工作を行った。木箱や樽などに砂を詰めて搭載し、大砲などもダミーだった(陸地が見えなくなってから砂とダミーは海に投棄した)。馬や秣は本物を搭載したが、途中の澎湖諸島で下した。輸送船団に残ったのは、近接戦用の海兵隊だった。
第4艦隊は正午過ぎに、南明軍の艦隊を発見した。
赤松「輸送船団は退避。風上に回れ!作戦通り、単縦陣を維持しながら砲戦だ!」。そして、南明艦隊の後衛を狙って第4艦隊は機動した。幕府艦隊の戦列艦のカノン砲が約400mで次々に火を噴き、鉄弾が飛ぶ。南明軍の軍艦に多くの鉄弾が吸い込まれ、木片が派手に飛び舷側に大穴が空く。南明海軍の外洋ジャンク船を次々に撃破されて脱落した。中には沈没するジャンク船もあった。折衷船も外洋ジャンクよりは頑丈だったが、砲戦に弱いことに変わりはなかった。折衷船は船体への砲撃で多数の乗員を殺傷された。砲撃が弱くなり、舷側に大穴が空いた艦が多くなっていく。
それを見た幕府海軍の各戦隊はチャンスと見れば戦列を離脱して攻撃に向かった。砲撃を続けて、抵抗を更に弱めつつ接近していく。バリスタから焼夷弾付きの太矢が次々に発射された。太矢が命中し、マストが焼き払われていった。他にも火災が発生して明らかに南明軍の艦が抵抗力を失うと、幕府海軍の戦隊は攻撃を中止して戦列を追った。
帆やマストを失った折衷船にジーベックが接近する。ジーベックは更に多数の太矢を放って延焼させた。更に、ジーベックは艦尾を砲撃した。南明軍の折衷船は火達磨になった。折衷船や外洋ジャンク船が次々に脱落、炎上、撃沈される中で南明海軍のガレオン船は他と比べて奮戦した。個々では互角の戦いを繰り広げた。赤松中将の旗艦にも十数発の鉄弾が命中した。「衛生兵、早く運べ!」などの怒号が響き、衛生兵達が担架を持って走り回る。そうした中で鉄弾が飛んできて、赤松中将の傍にいた幕僚の1人に直撃した。木片や返り血が飛び、部下達は慌てた。赤松中将は「返り血だ!他を手当てしろ!」と指示して望遠鏡で南明軍の艦隊を見た。
赤松「南明軍の艦も個々の働きは御見事だ!しかし、あれだけでは戦争には勝てない」。その言葉通り、時間が経つにつれて幕府海軍の優位が明らかになっていった。
南明軍のガレオン船は孤立し、幕府海軍戦列艦の戦隊ごとの攻撃で袋叩きにされた。炎上する南明軍のガレオン船が増えていく。幕府海軍は戦隊ごとの戦術にも優れており、戦列が分断されても対応できた。南明軍のガレオン船は戦隊の旗艦であることが多く、分散していた。このため、全艦が同じ艦種で構成されている幕府海軍の戦隊に比べて孤立しがちだった。ジーベックの戦隊は幕府海軍の戦列艦と交戦している南明海軍のガレオン船の背後に回った。ジーベックのバリスタから多数の太矢を艦長室に放たれた。焼夷弾により火が点いた。更に、ジーベックは艦尾を砲撃する。艦尾はガレオン船の弱点であり、火と相まって打撃となった。鉄弾が多くの人員を殺傷し、火災を消すのが不可能になった。孤立した南明軍のガレオン船は次々に炎上した。
幕府海軍の練度の高さが明白になった。幕府海軍の戦隊指揮官達は戦列の維持が困難だったり、チャンスがあれば(南明軍のガレオン船が孤立している時など)、戦隊を戦列から離脱させて果敢に攻撃した。4時間もすると、南明海軍はズタズタに分断された。赤松「よし、火船部隊に命令!全艦突入!ジーベックの戦隊に火船部隊の乗員を救助せよとの連絡も怠るな!」。第4艦隊の旗艦から狼煙が上がり、旗艦の戦隊の全艦が狼煙を上げた。
これを合図に、火船部隊の全艦が突入した。南明海軍の軍艦の大半は火船を避けたが、さらに艦隊が分断されて統制が失われた。第4艦隊は総攻撃に移った。赤松「総攻撃だ!全戦隊、突撃!各個戦闘!」。旗艦から複数の信号ロケット弾が上げられた。第4艦隊は各戦隊ごとに分かれ、南明軍の艦船に向かった。各戦隊は次々に砲撃して抵抗力を奪い、バリスタから焼夷弾付きの太矢を発射して南明海軍の軍艦を焼き払っていった。
一方、退避していた輸送船団の方に接近してきた一部の南明海軍の軍艦もあった。輸送船団の武装商船も多数のバリスタを装備していた。輸送船から多数の太矢が飛ぶ。太矢が命中し、南明軍の船が燃える。更に輸送船が引っ掛け索を投げ、接舷した。「放てー」の号令で火縄銃兵が次々に発砲する。南明軍の兵士達が倒れ、幕府海兵隊が突入した。幕府海兵隊の槍隊の槍隊が槍で南明軍の兵士達を追い散らし、竹束を持ち込んで遮蔽物を造る。火縄銃兵部隊は輸送船上から竹束や土嚢を遮蔽物にして3人1組で分担射撃を行い、南明軍の兵士を撃ち倒していった。南明軍の船に突入した幕府海兵隊は斧で甲板を壊し、焼夷弾と同じ成分を詰めた火炎瓶を多数、放り込んだ。ある程度、火が付くと自艦に撤収した。他の輸送船も火縄銃、バリスタ、甲板の12ポンド砲で援護した。この間に、輸送船は南明軍の艦船から離れた。このように南明海軍の軍艦は多数の太矢の焼夷弾で焼かれ、接舷されて海兵隊に甲板を制圧されて焼き払われた。
さらにオランダ艦隊が来援した。向かってきた南明軍の艦船は全て焼かれた。幕府艦隊の優勢は明らかだったので、オランダ艦隊と輸送船団は作戦計画に従って台湾に帰投した。一方、第4艦隊は日没まで掃討を続行した。こうして、この海南島沖海戦で制海権は完全に日蘭海軍が握った。
両軍の損害は次の通り。幕府海軍は次の通り。撃沈が3等艦2隻(翌日、沈没)、5等艦3隻、シーベック2隻。損傷が3等艦3隻(中破)、5等艦2隻(中破)、シーベック3隻(中破)。他にも全艦が何らかの損傷を負う。
南明海軍の損害は次の通り。撃沈がガレオン船33隻、折衷船が7隻、外洋ジャンク船が22隻。他にも損傷艦が多数。この海戦で、南明海軍は訓練済みの水兵と優秀なガレオン船(艦種は雑多)を失って制海権を完全に喪失する。幕府海軍が圧勝したのは、将兵の練度が優れており特に戦隊ごとの戦術に優れていたこと、南明海軍に比べて砲術が優秀だったことなどもあった。
しかし、最大の要因は南明海軍の艦船が劣勢になっても退却しなかったことだ。南明海軍は戦隊ごとの戦術や戦列ごとの戦術が日蘭海軍よりも劣っているにも関わらず、艦長の裁量権が極端に制限されていた。このため、硬直的な戦術しかできず(旗艦からの信号旗が確認できないと進路を変えないなど)、戦隊ごとに行動することを原則とする幕府海軍に各個撃破された。劣勢が明らかになっても退却せず、戦域に留まり続けて炎上させられた。第4艦隊は南明海軍の中で選抜された水兵が乗船しているガレオン船に攻撃を集中した。南明海軍は保有していたガレオン船の大半を失い、多くの優秀な水兵も失ったので戦力は激減した。これ以後は、日蘭海軍だけでなく、清海軍にも劣勢となる。
海南島沖海戦後、制海権を掌中にした日蘭海軍は南明支配下の沿岸を頻繁に襲撃して南明軍の兵力を沿岸に引き付けた。また、南明のシーレーンは遮断され、港が海上封鎖された。
3月23日、日蘭海軍が護衛する輸送船団に搭載された清軍2万が海南島に上陸した。その後も、清海軍が続々と増援部隊を送り込んだ。陸上でも清軍は攻勢を強め、4月には揚州、南寧などを制圧して広東救援の可能性を排除した。
月23日、遂に広東は陥落した。27日には海南島も陥落する。
後は、掃討戦に過ぎなくなり、6月3日には早くも幕府、オランダ、清帝国の協議が北京で行われ始めた。沖縄協定の履行のための協議で、6月10日には沖縄協定が発表された。清帝国はオランダに日本帝国と同様の権利を認めた。そして、台湾と澎湖諸島の領有権を日蘭両国に承認した。清帝国も条件を追加し、越南(現在のベトナム)や朝鮮半島を始めとする陸上の国境が清と接している国を清の朝貢国として認めさせた。
朝貢国に対して日蘭両国は武器や船舶などを売却せず、清の優先権を認める清国の条件とは次の様なことだった。
これらの国と条約や協定を結ぶ場合は清の承認を得ること、これらの国と清が交戦した場合は日蘭両国が清に好意的中立を示し貿易を停止するなどだ。
また、清帝国内で反乱が発生した場合、日蘭両国は反乱勢力の支配する港を海上封鎖し、シーレーンを遮断する。さらに、海賊討伐を3国共同で行い、海賊に兵器や船が渡らない様にする(中国人に、原則的に船を売却しないなど)。以上の様な趣旨の1657北京条約が締結された。清の順治帝は上座に座り、謁見の場では中華式の礼をさせた。しかし、条約の文面は対等であり、順治帝も諸外国と同様の形式で会談した。
清の大臣達は順治帝が日蘭の代表団と会談するのに反対した。しかし、順治帝は清王朝が安定するには日蘭両国との協調が不可欠だと判断して会談に応じた。形式的に中華の礼をとらせれば、漢民族への体面は保てるからだ。そして、清王朝にとって最大の脅威は漢民族でもあったからだ。日蘭両国も形式面だけなら清王朝を上位に据えるのに躊躇しなかった。大切なのは、条約の実質的な内容と対等の立場だったからだ。幕府代表団の小西外務副大臣(対外事務局の幹部であり、外務副大臣は表向きの職務。実際に小西家の人間であるかも不明)は順治帝に警告した。
小西「偉大なる皇帝陛下、日本帝国は形式面なら清帝国を最大限に尊重します。国内でも清国が上位だとされても全く構いません。しかし、両国の実質的な立場は対等です。御忘れなきように。また、清国や朝貢国の外では清国内と同じ振る舞いをすることを厳禁してください。オランダも同様に扱われるのが賢明です」。
順治帝「ふむ、諒解した。しかし、用心し過ぎではないのか。両国には対等な条約が結ばれた。貿易は双方にとって得となる。多少の事は気にするな。幕府が清王朝を後金の頃から一貫して支持していることに、清王朝は感謝している」。
小西「偉大なる皇帝陛下、有り難い御言葉には感謝感激です。しかし、外交では細部も疎かにできません。また、先送りも曖昧も好ましくありません。偉大なる皇帝陛下を疑う余地はありません。しかし、偉大なる皇帝陛下の臣下である大臣達や役人達は別です。また、偉大なる皇帝陛下が支配する人民が日本帝国を嫌っているのは明白な事実です。細部を疎かにしては争いが起こるのは必定です。恐縮な事ですが、偉大なる皇帝陛下の御配慮を賜りたく思います」。
順治帝「まあ、良かろう。では、清帝国の立場も表明しておこう。日本帝国を中華の外で対等に扱うことは確実に保障する。条約を締結した以上、オランダにも同様の扱いをする。また、政府の人間にも礼儀正しい態度をさせよう。しかし、日本帝国も中華の中では中華の礼に倣って清国を最上とすることだ。幕府も日本帝国の臣民を厳重に監督することを怠るな。そして、清国内で発生する反逆者に同調する者は容赦なく取り締ることだ。死刑にするのも躊躇うべきではないぞ。清国の人間は日本帝国を特に嫌っている。反逆者は日本帝国に害を与えることはあっても日本帝国に恩で報いることはない。日本帝国は、我が清王朝と協調することが平穏を保つ最良の策だ。幕府は、このことを忘れるべきではないぞ」。
小西「偉大なる皇帝陛下、有り難い御言葉に感謝感激です。必ず、征夷大将軍に伝えます。偉大なる皇帝陛下の適切な御助言により、両国の関係は平穏となるでしょう。感謝、感謝です」。
順治帝「全く、疲れないのか?日本帝国ほど御世辞を並べ、遜り、貢物を持参してきた国は嘗て無い。しかし、日本帝国ほど対等に拘り譲歩しなかった国も嘗て無い」。
小西「偉大なる皇帝陛下から御批評を賜り光栄に存じます。我が日本帝国と清帝国が友好的な関係を保つことができると、先程からの皇帝陛下の有り難き御言葉の数々で確信できました。偉大なる皇帝陛下が君臨されている清王朝が中国を支配しているのは幸運なことです」。順治帝は苦笑いするしかなかった。順治帝と小西外務副大臣との会談は終始、このような調子で行われた。
他の協議でも同様だった。日本帝国の代表団は御世辞を並べ、遜り、多くの貢物を贈ったが実質的には何も譲歩しなかった。また、朝貢と見られかねない余地を全く残さなかった。しかし、日本帝国に害がない朝貢国への清国の優先権などの条項なら喜んで認めた。清国が越南などを支配しても日本帝国には何の害もなかったからだ。
幕府代表団は同盟国であるオランダにも清国が日本帝国と同様の立場を認める様に求めて譲らず、清国に認めさせた。オランダとの同盟を重視していたのと、清国に中華秩序を広げたと誤解させないためだった。中国人は交渉で特定の国や勢力を特別扱いして(或は特別扱いさせたように思い込ませて)、同盟を分裂させるのが十八番だからだ。しかも、特別扱いした国や勢力に「恩寵を与えた」として後で見返りを要求するのが常だ。このため、幕府はオランダにも配慮した。オランダも喜び、日本帝国と完全に同調した。清国は付け入る余地がなかった。
1657北京条約は中華秩序を日本帝国とオランダには適用せず、両国を対等の国として認める条約だった。中国人にとっては重大な条約だった。しかし、清王朝は強力な軍事力を示した日本帝国に譲歩するしかなかった。それに、日本帝国とオランダは形式上、中華内(清国と周辺の朝貢国)では清国を最上の存在とした。そして、清国の優先権を両国が認めて他のヨーロッパ列強の進出を妨害したことは清国にとっても大変なメリットだった。また、清国の朝貢国に対する強制力は両国の保障によって格段に強化された。これにより、清国は朝貢国へ圧力を強化し、影響力を強めていく。
日蘭両国にとってもメリットがあった。日本帝国にとっては清王朝が漢民族を支配してくれる方が望ましかった。漢民族の反乱を心配する清王朝は自ずと手段を自制すると予測したからだ。そして、乾隆帝までは清王朝の皇帝達は実際に自制して日本帝国との対立を避けた。更に、幕府は中国が漢民族に支配されれば脅威になると判断していた。漢民族は日本帝国と気質が全く違うし、日本帝国を対等の立場の国として認める気が全く無いからだ。そして、漢民族は周辺を見下して征服を繰り返して領土を広げてきた。日本帝国にとって安全保障の問題だった。かといって、漢民族に対等の立場を認めさせるために戦争をするのは費用と時間が掛り過ぎる。よって、異民族である清王朝が中国を支配するのが最良だった(無理な戦争を自制するので漢民族にとっても)。幕府にとって形式的な譲歩は安い対価だった。
一方、オランダにとってもメリットが多かった。日本帝国との同盟は東南アジアの植民地を維持するのに不可欠だった。また、清国に対等の立場を認めさせたのは大きなメリットだった。また、清国や日本帝国と協調できれば他のヨーロッパ列強(イギリス、フランス、スペインなど)の進出を妨害できる。
結果として、1657北京条約は日本帝国、清国、オランダにとって互いに得となる条約だった。三国の協調体制は乾隆帝が亡くなるまで続くことになる。北京で交渉が行われている間も幕府海軍、清軍、オランダ軍による南明軍の残党への掃討作戦は継続されていた。清は徹底的に南明勢力を掃討したので、正式な平定宣言は1660年だが実質的には1657年に戦争は終結していた。南明海軍の残存勢力は海賊化したが、順次、3国海軍によって掃討されていく。
こうして、1660年、正式に、正統戦争は終わった。オランダと幕府は台湾を分割し、オランダが実効支配していた領土を除く地域は幕府の支配下に置かれた。グアム島、澎湖諸島も幕府の支配下に置かれた。オランダは引き換えに植民地で反乱が発生した場合の援兵、日本帝国が所有する植民地の他国への不割譲、台湾の日本領でオランダ人に日本人と同様の経済的特権を付与すること、海賊討伐も日蘭極東同盟の義務に加えた。また、通商条約も改正され、オランダ企業の日本進出も進む。幕府陸海軍の凱旋式の前日に信就と信武は安全保障政策について話し合った。
清国やオランダとの条約について内容の確認を終えると、信就は「さて、今日は安全保障政策の大枠について話そう。こういう機会でもないと、話す暇もないからな。凱旋式が終わったら財政再建に全力を挙げる。財政に余裕を持たせておかないと、兵器の更新や軍事組織の改革ができない。これは、幕府の危機だ。外国と諸藩の両方に対応しなければならない幕府にとって危険な状況だ。全く、孫子は正しい。財政再建には平和が最も有効だからな。直ちに、財政再建に着手する。全く、皮肉な話だ。軍事政権である幕府の長である征夷大将軍の仕事は戦争が終わった後からが本番だからな」。
信武「上様、諜報活動を本務とする私が意見するのは筋違いなのを承知で申し上げます。戦時景気の落ち込みが予想されます。5年間は財政再建を猶予されては如何でしょうか。景気後退が緩和されてから財政再建に着手しても充分だと推測します。財政再建を強行すれば、国内で騒乱が起こる恐れもあります」。
信就「信武、御前は、謙虚かつ実行は着実だ。諜報機関の長としては最適だ。諜報機関の長は謙虚でなければ権限を乱用して思わぬ弊害を招くからな。御前の意見は正しい面もある。確かに、配慮は必要だ。しかし、日本では着手するのが遅ければ実行も遅れるのが常だ。早期に実行すれば、負担も少なくて済む。勿論、こうした理屈が理解されるとは限らない。
御前の懸念通り、騒乱が起きるだろう。内戦になるかもしれん。しかし、雨降って地固まるとの言葉もある。血の雨が降れば、それだけ幕府の天下は確かになる。国内で平和が続いたせいか、幕臣達は少し優しくなり過ぎた。幕府の方針の一つが天下布武であることを思い出させる良い機会にもなる」。
信武「上様、そういう姿勢だから魔王などと呼ばれるのですぞ。しかし、確かに、平和を保っても苦境になれば見捨てられるのは世の常です。鎌倉幕府や平氏の政権が良い例です。上様が御決心なされたとあれば、私も全力を挙げて職務を遂行します。他の幕臣達も同様です。
しかし、油断は禁物です。反幕勢力が考えるのは上様の暗殺です。信長公も本能寺の変では不意を突かれました。羽柴殿が戻ってこなければ、天下統一は大幅に遅れたでしょう。目標を達成したければ、上様は御自身の安全に配慮を欠かさないことです。是は征夷大将軍としての義務です」。
信就「確かに、諒解した。充分に用心する。信武、御前の真摯な姿勢には感服した。さて、話を安全保障政策に戻そう。オランダが是ほど譲歩するのは予想外だった。理由を解説してくれ」。
信武「上様、理由は単純です。オランダが幕府に譲歩したのは、イギリスとオランダが第1次英蘭戦争を行ったばかりであり再戦の可能性が高かったこと、オランダにとってフランスも脅威になってきたことが主とした理由です。オランダ本国政府はイギリスやフランスに敵対しながら、日本帝国に対抗するのは困難だと判断したのでしょう。このため、日本帝国に思い切って譲歩し、引き換えに東南アジアのオランダ植民地やシーレーンの防衛を共同で行った方が得だと判断したと推測されます。
更にオランダ東インド会社の日本支社が山丹総合会社と提携しているように経済関係も良好なので敵対する理由もありません。両国の利害は一致しています。また、オランダはフランスやイギリスなどの大国に囲まれ、友好国を必要とせざるを得ません。日本帝国の同盟国としては最適です。両国の同盟は長く続くでしょう」。
実際に日本帝国とオランダは長期間、同盟関係を継続していく。現在にも続く友好関係の基盤にもなった。
信就「しかし、両国に対立要因がなかったわけではないぞ。オランダ人が懐いている激しい人種差別意識だ。しかし、幕府は個人レベルの感情を安全保障政策に全く反映させるのは究極の愚策だ。寧ろ、望ましいことだ。人種差別の激しいオランダ人が国内の諸藩や反幕勢力などと結びつくのは難しいからな。
そして、オランダにも其の気は皆無だろう。更に漢民族が中華意識で周辺の民族を征服してきたことを考えれば、オランダやイギリスなどの西洋列強の方が付き合い易い。普通の国(幕府の基準)であれば良いのだ。外国人と仲良くすることを目的にする事程、不毛なことはない」。
信武「上様、その通りです。他人の心は他人に任せましょう。外国政府と外国人は原則を守ってくれれば良いのです。オランダ人も日本帝国内では礼儀正しくしています。それに、幕府陸海軍に雇われているオランダ人や軍事顧問達とは友情も培われています。オランダの態度は合格です。
イギリス人はオランダ人よりも更に良いです。人種差別がないわけではありませんが、オランダ人ほど激しくはありません。イギリス人も合格です。日本帝国の同盟国が両国であるのは良いことです。外交は国益が第一です。しかし、一般人が是に納得するわけではないことに注意すべきです」。
幕府が外国政府と外国人に求めていた原則は次の通り。契約を守ること、損得を考えて行動すること(狂信的でないこと)、日本帝国内では日本帝国の法律に従うこと、幕府を日本帝国の中央政府として認め日本帝国の政治に政府レベルでも個人レベルでも介入しないこと、日本帝国を外交的に下位とせず対等の国として遇すること(形式的な面は譲歩の余地あり。また、日本帝国の国民が危害を加えられるか法律面で法律の適用が差別されない限り、人種差別などには幕府が対応することはなかった)。
信就「信武、その通りだ。一般人の中には納得しない者も多いだろう。それに同調しない様に幕臣達に指示を徹底しなければならない。一般人にも教育と宣伝を行って軋轢を最小限にしなければな。それから西洋列強の帝国主義に反対しない様に釘をさすことも忘れてはならない。
感情論で反発する世論が暴走すると、戦争へ一直線だ。日本帝国も領域を広げるために帝国主義を推進している以上、西洋列強の帝国主義に異存はない。西洋列強の帝国主義を止めさせたら自国の植民地も解放しないわけにはいかない。
植民地の人間はノウハウや組織力などがないだけで馬鹿ではない。必ず、独立を求めてくる。下手をすると、北海道まで独立させることになる。また、西洋列強と戦争すれば喜ぶのは中国と朝鮮だ。特に、中国は日本帝国への侵攻さえ企てるのは確実だ。流石に周辺へ侵略を繰り返してきた中国に対して同情する阿呆は無視できる数しかいない筈だ。しかし、中国は外交の名人だから惑わされないようにしておかなければな。日本帝国は西洋列強と協調するのが一番だ」。
信武「上様、その通りです。幕府も北方や南方に進出する帝国主義を推進するのでオランダやイギリスなどの西洋列強と組むのは自然です。安全保障政策の基本は遠交近攻(近くの国や地域を攻めて、遠くの国と同盟ないし連携する)です。西洋列強と積極的に提携した方が得です。スペインなど宗教的な過激傾向があると判断された国を除いてですが。
遠くにあるヨーロッパ諸国なら植民地の安全を気にするから日本帝国との同盟を必要とします。ヨーロッパ諸国は本国が遠いので、幕府陸海軍の軍事力が強ければ日本帝国と協調した方が得なのは明らかです。逆に、近くのアジア諸国と組んでもメリットは少ないです。近くのアジア諸国には日本帝国と組む必然的な利益がありません。また、近くのアジア諸国と組めば国内の諸藩や反幕勢力が外国と提携する危険性が高まります。
また、提携がなくても近くのアジア諸国との関係が強まれば国内の諸藩が幕府の統制を掻い潜った貿易を行い易くなります。国内の諸藩が貿易で力を増せば、幕府の支配体制は危うくなります。西洋列強の方が安全なのは明らかです。上様の仰る通り、中国や朝鮮は問題外です。
上様の卓見に少し補足させていただきます。中国の歴代王朝は中華主義で領土の拡大を行ってきた歴史があります。異民族の清王朝は自制心が働くと判断して友好を保っていますが、全く信頼できません。朝鮮も日本帝国を見下しており、問題外です。幕府が求めていた原則を守る見込みは皆無です。更に朝鮮の態度を見逃すことは幕府の権威を低下させ、日本帝国の安定を損ねます。何よりも両国との友好が不可能なのは日本国内の反幕勢力が提携を考えるとすれば中国と朝鮮との提携を最初に考えます。また、日本帝国の力が弱まった場合、両国は日本帝国の国内情勢に干渉してくる恐れが極めて強いです」。
信就「流石は対外事務局だ。的確な分析だ。幕府の安全保障政策を簡潔に表すと次のようになる。安全保障政策に個人の感情は関係ない。冷静かつ冷徹に判断し、外交と軍事を使い分けるのは軍国主義政権である幕府の責務だ。是と今までの話を文章にまとめて幕府内部で配布しろ。外交上、必要な編集を加えるのは当然だが趣旨は変えるな」。
信武「上様、諒解しました。式典が終わった後、直ちに作業を開始させます。上様の方針を幕府内に周知徹底させておけば、日本帝国が進路を誤ることはありません」。
その後も二人は各国の情勢について語り合った。信就の方針の趣旨は幕府内に周知徹底された。幕府は同じ趣旨を諸藩などにも公言していた。幕府の安全保障政策は国際情勢に良く適応し、日本帝国は影響力を増していくことになる。また、日本帝国の保守派の安全保障政策の源流となった。
幕府は初の対外戦争に勝利することができた。南明海軍が通商破壊作戦や沿岸襲撃を行ってきたり、台湾で幕府軍が疫病に悩まされたりと(幕府陸軍はオランダ人の顧問から指導を受け、事前に大量のキニーネを輸入していた。しかし、兵站面で応急用の水の確保が大変な負担になった)楽な戦争ではなかったが、幕府軍にとって有益な実戦経験だった。ヨーロッパ式の攻城戦術、上陸作戦、船団護衛などを経験することができ、幕府軍の能力は大いに向上した。
幕府軍の編成の有効性も証明された。幕府の旅団は現在の旅団戦闘団に近い編成であり(歩兵、砲兵、輜重兵、工兵に加えて偵察用の騎兵部隊も含む)小型師団といって良かった。幕府軍の将官達は戦国時代の経験から合理的な編成を考案した。また、幕府陸海軍が組織として実戦を経験したことは諸藩軍に対する大きな優位となった。諸藩の陸軍を国外に出兵させなかったので恩賞を最小限に留めることが出来たのも幕府にとって良いことだった。
海軍についても沿岸防衛と船団護衛に動員しただけだった。それも幕府海軍の指揮下であったし、大規模な海戦には参加していない。船団護衛も重要な任務であったが、諸藩の海軍は水軍衆の多くが幕府海軍に編入されたことにより数が少なかった。幕府は海軍の方でも恩賞を比較的、出費せずに済んだ。尤も、それなりの金額は支出しなければならず、獲得した領土の行政費用もあって幕府財政は赤字に陥る。
幕府海軍は幕府陸軍と同じく、幕府海軍と補助軍で構成されるのが基本だ。しかし、海軍の規模拡大によって、水軍衆や倭寇の帰化組だけでは足りなかった(海兵隊にも割り当てなければならない)。このため、イギリス人やポルトガル人などの西洋人の船乗りを大量に雇っていた。この状態は幕藩体制の終了まで続く。対外事務局と軍情報局も正当戦争で活躍し、諜報活動の有効性を証明した。幕府軍は事前に詳細な海図と台湾などの地図を入手し、的確に作戦を行うことができた。また、対外事務局は鄭成功の父親である鄭芝龍らを降伏させて日本帝国に亡命させ、南明軍の内情を知ることができた。当然、南明軍の将兵についても広範な情報が得られたので諜報活動にプラスとなった。こうして、対外事務局は南明軍に浸透して多くの秘密工作を成功させることになる。
次に、戦時国債の運営法も確立され、戦争中も幕府発行の戦時国債は順調に売れた。同時に、インフレを抑制することを主目的として士族や町人に累進課税の税制を導入した。同時に、増税を逃れるための手段として、戦時国債や国債を担保にして銀行から金を借り、さらに国債を買うことを推奨した(当然、戦時国債や国債の利子は非課税)。このことも戦時国債や国債の売れ行きを好調にした。
以上の様に、幕府は、その後の対外戦争の手段を確立した。幕府は対外戦争に勝利したことで威信を確立した。諸藩は幕府の力を怖れるようになり、朝廷を幕府に吸収する環境が整った。オランダや清国との提携により、国際情勢も優位になった。幕府は帝国主義政策を積極的に推進していく。
信就は幕府陸海軍の凱旋式で「日本帝国の躍進は今回の戦争で始まったと記録される。今回の戦争は栄光への第一歩だ。日本帝国は外国に信頼され、同時に恐怖される国家となる。日本帝国が安全となり、繁栄する確実な道は其れだけだ。諸君は日本帝国が世界の列強となる道を切り開いた。諸君は、日本帝国の子孫達に偉大なる遺産を遺したのだ!」と述べた。幕府陸海軍の将官、将校、兵士達は歓呼の声で応えた。信就の言葉通りに幕府は安全保障政策を推進していった。
ただし、前述の様に、財政赤字に陥ったので暫くは対外戦争を控えることになる。なお、信就は凱旋式の後に外国人傭兵を含む傷病兵を見舞い、療養施設を整備するなど将兵に配慮を怠らなかった。信就は大臣達などにも指示を徹底し、視察などの監督を怠らなかった。視察は予告なしで出迎えも禁止されていた。幕府陸海軍の将兵が信就に絶対の忠誠を誓ったのも当然だった。信就は一般には「魔王」などと呼ばれて恐れられていた。しかし、幕府陸海軍、国防省、治安機関、諜報機関は絶対の忠誠を誓っていた。このため、信就は「信長の再来」と呼ばれた。