織田信忠の治世
1587月12月31日、織田信忠は京都の御所において征夷大将軍の任官を受けた(織田幕府の成立。以後、幕府)。二週間後、安土城において征夷大将軍に任じられた織田信忠が諸大名を謁見した。この中で、信忠は次のような方針を説明した。
第一に、これからは各大名を「藩」と呼ぶこと。この頃の大名は「氏」で呼ぶのが一般的だった。藩とは、朝廷の行政区分で、従来は殆ど使われていなかった。これは、幕府が朝廷の権威と慣習法を尊重することを示したものだった。諸大名達に一定の安心感を与えた。現行の領地が原則的に保障されるからだ(幕府が代替地を用意すれば国替えされることは通告された)。また、大名の傘下にある独立系の城主などで有力な氏は支藩として認定された。支藩は藩に対して一定の自治権を保障された。藩が支藩を取り潰すには幕府の許可が必要とされた。幕府の直轄領でも複数の支藩が設置された(蒲生氏、黒田氏、九鬼氏など)。これは、織田幕府が大規模な大名の単位で国を統治するが有力な豪族にも一定の権利を保障するというものだった。これは天下布武のためには大規模な領地の再編が必要だが、無用な抵抗は避けたいという幕府の思惑によるものだった。
第二に、楽市楽座の原則。幕府に従う大名は楽市楽座を行わなければならない。座は幕府の許可を得なければ大名も認可することが出来ない。これは、全面的な自由化のようだが、そうでもない。有力商人を御用商人化して大名が経済に影響力を及ぼすことは一般的になっていた。この過程に幕府が介入するということだった。この後、幕府は全国の商人達に働きかけを強め、商人達を幕府の側に取り込むことで経済を支配しようとしていく。併せて、日本国籍の船舶の寄港税は幕府によって定額が決められ、引き上げは幕府の許可がなければ禁止となった。
第三に、幕府にのみ外交権があることを明示。外国政府や外国人に対して新規の条約を結ぶこと、開港を行うのは幕府のみの権限となった。当然、外国との戦争も幕府のみの権限だった。また、外国政府および外国人との条約や約定などは文書にして幕府に提出し、幕府が追認して初めて有効となることを表明した。従来、慣習的に朝廷が外交権を握っている(形式上とはいえ)と認識されていたが、それが明確に否定された。
第四に、御公儀裁判所の設置。御公儀裁判所は、外国人に対する裁判、大名間の紛争の一次裁定(最終的な判決は幕府中央が行う)、大名に対する監査、藩内で別の藩の人間を裁く場合の裁判を主な権限とした。この御公儀裁判所の設置は、外国政府と外国人だけではなく、他の大名の領民に対しても幕府の権力を意識させることを意図していた。
第五に、関所の許可制と戸籍の作成。関所の設置は幕府の許可が必要とされるようになった。また、関所で通行税を徴収することも原則的に禁止された。同時に、天下布武が目前になってきたので、臣民を管理するために統一された規則の元で戸籍を作ることが各大名に命じられた。
第六に、基本法が制定された。これまで、述べたような幕府の基本方針、大名の裁判基準などを定めた法で憲法に相当した。大名は基本法に背かなければ、取り潰されないことが目記された。この時に制定された基本法は御成敗式目を基にされた法律だった。その中で、目新しいのは、各藩に裁判の基準を示して公示し、それに反する裁定を下してはならないと定めた第10条で罪刑法定主義の第一歩になる。これは、商人を保護して商業を盛んにすることを意図した法だった。儒教的な観念で商人が財産を没収されることを防止することが目的だった。以上の様な方針が示された後で、諸大名達を交えて一連の式典が行われた。
式典が終わった後で、信忠は黒田官兵衛と蒲生氏郷を呼び出した。信忠「さて、二人に聞きたいことがある。率直に答えてほしい。儂は父上よりも劣る。基本法の原案も父上を中心に作成された。諸大名が儂を父の二番煎じと見るのも当然だ。しかし、父上から任された以上は征夷大将軍として国を統治していかなければならない。九州攻めが完了したら基本的には戦をしないことにする。堅実に国内を固めることを優先し、外征は基本的に行わないことにする。二人とも如何に思う」。
蒲生「信忠様、大賛成です。信長様も満足なされると思います。信長様は美濃を攻め取るまで約8年も掛けました。信長様といえば、奇襲や電撃的な急襲が注目されがちです。実際は慎重で用意周到でした。しかし、同時に機会が到来した時は誰よりも早かったのです。国内を固めてこそ、対外政策も効果的に行えます。天下統一が完了すれば、織田幕府派強力な権力により日本帝国の国力を何倍にも高め、活用できます。国力の増強こそが対外政策と国内政策両方の鍵となります。私は大賛成です」。
黒田「信忠様、私も大賛成です。蒲生様の意見に付け加えさせていただきます。信忠様は国内の諸大名こそが織田幕府の敵になると確信されていると推察します。織田幕府が天下を統一しても戦国時代の気風は消えるのに時間が掛ります。また、これまでの鎌倉幕府や室町幕府は安定した政権ではありませんでした。室町幕府は大した力がなく、鎌倉幕府は源氏が北条氏に乗っ取られました。こうした前例がある以上、諸大名は幕府の力が衰えれば討幕に乗り出すでしょう。恐らく、朝廷の権威を利用するか幕府内で影響力を行使して内部から幕府崩壊を目論むかでしょう。織田幕府が安定するためには朝廷の権威を如何に利用するかと諸大名を如何に統制するかが鍵となります」。黒田官兵衛は言い終ってからハッとした。調子に乗り過ぎて喋り過ぎてしまったと思ったのだ。
この性格で秀吉には嫌われてしまった。黒田は「申し訳ありません」と言い、平伏した。
しかし、信忠は満面の笑みを浮かべて「黒田、何を平伏しているのだ?お前の意見こそ、我が意を得たりだ。御前と蒲生を付けてもらったことは儂にとって最大の恩恵だ。さて、知恵者の二人に構想を吟味してもらいたい。まず、朝廷の扱いについてだ。朝廷の権威は極めて重要だ。諸大名も朝廷があることで安心し、無用な戦を防げる。そもそも、幕府は朝廷に認められたことで成立している。これで中国の様な易姓革命を防げている。また、寺社を抑えるためにも極めて有用だ。寺社も朝廷に認められることで安心し、一つの宗派が突出することを防いできた。一向宗にしても一向宗による宗教国家を創ろうとしたのではない。
このように朝廷は日本帝国にとって極めて有効だが、討幕のために利用される恐れがある。そこで朝廷と幕府を一体化させて中央政府を一元化する。具体的には征夷大将軍を天皇の直属として、関白や太政大臣などの権限を奪うことだ。関白や太政大臣などの公家は儀式などを行うだけにして形式上も飾りとする。天皇陛下は幕府の本拠地に住んでいただく。まずは、京都を長城で囲う。朝廷との接触は幕府を通じてしか行えなくする。次に、幕府の本拠地となる城を建設し、天皇陛下を迎えて朝廷と幕府を文字通り一体化する。こうすれば、諸大名が討幕に調停を利用するのは不可能になる。幕府の正当性も増し、権威は絶大になる。続いて、諸大名の統制だが基本的には父上の基本法の通りで良かろう。他に何か付け加えることはないか?」。
蒲生「信忠様、その政策は極めて有効です。大名の統制について付け加えれば、外征には大名の軍を使用しないようにすべきです。外征は幕府と幕府支藩の直轄軍で行うべきです。そうすれば、諸大名に恩賞を出す必要はありません。鎌倉幕府の轍を踏むこともありませんし、費用も結局は少なくて済みます」。信忠「成程、納得だ」。
黒田「蒲生様の御意見に付け加えさせていただきたいことがあります。蒲生様の構想を進めて諸大名の軍事力を弱体化させていくべきです」。
信忠「どういうことだ」。
黒田「御存知の通り、実戦経験が軍としての練度を維持するのには最適です。逆に実戦がなければ、軍としての練度は自然と低下します。もちろん、教練で補うことはできます。しかし、実戦がなければ組織としての緊張が緩み、教練も実戦的でなくなります。練度は低下し、組織の硬直化も起ります。幕府軍が諸大名に自己の軍事力の整備の必要性を感じさせない程、役に立てば諸大名は自然と幕府に依存して軍事力を低下させます。国土防衛戦、藩を跨いだ治安維持も幕府軍が主体となって行うべきです。そうなれば、諸藩は幕府に依存して軍事力の強化を怠り謀反は不可能になります」。
信忠「二人とも、素晴らしいぞ!これで幕府の基本方針は定まった。富国強兵と天下布武に加えて、この方針で望めば間違いはない。二人によって、織田家の天下は確固たるものになったな!心から感謝する!」。
信忠は大いに満足して二人に頭を下げた。二人は大いに恐縮した。信忠、黒田官兵衛、蒲生氏郷の三人は九州攻めの作戦に話を移した。こうして、幕府の基本方針は信忠の任官式の日に定まっていた。九州攻めを前に織田幕府が成立し、織田幕府は絶大な権威をもって九州攻めに着手することになる。
この後の九州攻めも信長が主導したかのように思われていたが、そうではなかった。信長は全て信忠に任せている。ただ、信長の家臣達も慣れておらず、信長は「万事は、信忠と相談するように。余に問い合わせてはならない」との返書を何枚も出している。また、基本法に関しても信忠は信長の言いなりではなかった。一連の覚書によると、基本法において大名を藩とすることなどは信忠の主張だった。信忠は朝廷の権威を認めることを明確にし、諸大名にも配慮するようにすることにした。信長も反対しなかった。実際、多くの大名は安心感を懐いた。基本法に背かなければ、取り潰されることはないからだ。佐久間信盛などの例もあり、多くの大名が不安感を懐いていたからだ。この措置で幕府は大名達に信頼されるようになる。
信長は太政大臣に任じられてから、九州の大名達に停戦命令を下している。島津を除く大名は直ぐに従った。しかし、島津は信長に遜りつつも侵攻を続けた。ところが、予想よりも早く北条氏が織田氏に敗北したので侵攻を中止した。既に、島津氏は九州の大半を制圧するか影響力下に置いていたので無理をする必要もなかった。しかし、幕府は島津氏の領国を薩摩、大隅、日向、肥後に限定しようとした。領地の対価を支払い、様々な義務も免除するとの条件が提示されたが島津氏は拒否した。
島津氏は交渉を続けたが、幕府は諸大名に動員令を発した。幕府軍は続々と集結した。幕府の大軍に恐れをなして島津氏が条件に応じてくれれば良いので、幕府軍の集結はゆっくりとしたものだった。幕府軍は総兵力25万に達した。陸上部隊が長門、水軍が安芸の広島に集結した。幕府軍は諸大名の混成軍なので、信忠は演習を繰り返させた。また、指揮官同士も打ち合わせを重ねさせ、意思疎通を万全にさせた。小田原攻めの時も侵攻は成功しているので、心配し過ぎの様に思われる。しかし、信忠は織田幕府の権威を損ねないために万全の準備を整えさせた。海外進出のために、幕府軍としての予行演習を行っておく意味合いもあった。島津氏も承諾しようとしたが、家臣達の猛反発で断念した。このため、ずるずると交渉は長引いた。このため、時間切れとなり、1590年、幕府軍は九州征伐に踏み切った。
幕府軍の作戦の趣旨は次の通りだった。大友氏が残存している筑前に幕府軍を上陸させて橋頭堡を確保して、肥後に進撃して肥前の有馬氏などと島津氏の連絡を遮断して肥前の大名達を幕府に降伏させる。その後で、肥後から日向に侵攻する。最後に、薩摩に侵攻して島津氏を降伏させる。豊後方面は陽動に徹する。
まず、小倉に羽柴軍(約5万)が上陸した。続々と幕府軍は上陸し、島津軍は退却を余儀なくされた。島津氏に組みしていた城主達は幕府軍の大軍に恐れをなして日和見を決め込み、幕府軍が接近すると降伏した。幕府軍は豊後方面に長宗我部軍(約4万)、肥前方面に滝川一益軍(約3万)を向けつつ、主力は肥後に向けて南下していった。島津軍は決戦を避け続けたが、比較的、地元豪族達が信頼できる肥後で決戦することにした。幕府軍の進撃は順調だったが、大軍のために補給が困難になってきた。このため、補給が円滑になるまで進撃を先延ばした。幕府軍は高瀬で停止した。柴田勝家が率いる約7万6千の兵力だった。
しかし、山鹿方面を警戒するために各所の砦に部隊を分散させており、高瀬に布陣していたのは約3万6千だった。島津軍は、この機に乗じて柴田軍を撃破し、高瀬を奪還することにした。高瀬は熊本へ侵攻するに当たり、前方の山地の起伏が穏やかで道も多かった。砲兵隊を抱えた幕府軍にとって、他の行軍路は採りにくかった。逆に高瀬を島津軍が奪還すれば、幕府軍の進撃は停滞して島津に組みする豪族や城主の士気は上がり、既に幕府軍と交渉中だった有馬氏なども本格的に抵抗するかもしれなかった。しかし、島津義弘などは余りに幕府軍が島津軍の各個撃破に理想的な布陣をしているので怪しんだ。しかし、他に選択肢もなく、島津豊久は攻撃に踏み切った。
島津軍は約3万の兵力で高瀬に攻撃を開始した。まず、島津軍は島津義弘が4千の兵力を先鋒として菊池川を渡った。柴田勝家は「来たか」と呟いた。柴田「各所に分散している部隊を呼び戻せ。各指揮官に再度、伝達せよ。敢えて島津の釣り部背戦術に嵌るとな。絶対に慌てるなと厳命せよ!」。伝令たちが各部隊に散っていった。島津義弘隊は幕府軍の正面に銃撃を始めた。同時に、他の島津軍は各所に放火するなどして煙幕を張り、幕府軍の視界を遮った。柴田「慌てるな!敵よりも我が軍の方が優勢だ。戦列を維持して持ちこたえていれば、援軍が到着して島津軍は終わりだ!」。織田軍は柵、杭、竹束と盾による仕寄せで即席の防御線を造っていた。
煙に紛れて島津義弘隊は幕府軍の防衛線の左側面に回り込み、陣地の間隙から突入した。島津軍は各部隊が部隊を二つに分けて一方が銃撃を浴びせている間に、もう一方が突入した。銃撃で幕府軍の兵士達の何人かが倒れ、部隊が怯んだ。島津軍の部隊が一斉射撃の後に突入していく。幕府軍の部隊が突き崩され、島津軍は陣地内に突入した。島津軍の槍隊が幕府軍の槍部隊と交戦する。すると、幕府軍の左横に回った島津軍の槍隊が横槍を喰らわせた。「ぎゃー」と叫び声が上がり、何人もが串刺しにされた。後は逃げ始めた。島津軍の鉄砲隊はその間に展開し、膝撃ちで銃撃を始めた。目標は戦線を立て直そうとしている部隊だ。銃撃が命中して立て直されようとしていた部隊が崩れた。島津軍の士分(士官に相当)は敵の指揮官を狙撃して混乱を拡大させた。「行けるぞ!進め、進め!」と島津軍の士分達が叫び、島津軍部隊が前進していく。
しかし、幕府軍の反撃が始まった。「放てー」。幕府軍の鉄砲隊の銃撃が開始され、島津軍の兵士達が倒れ始めた。幕府軍の鉄砲隊は仕寄せと杭で作られた防御線から銃撃した。更に、島津軍の左側面から幕府軍の槍隊が横槍を喰らわせた。島津軍部隊が戦列の向きを変えて応戦し始める。すると、槍隊の背後の幕府軍弓隊が曲射を放った。「放てー」の号令で矢が島津軍の頭上から降り注ぐ。防御陣地からの銃撃も続く。「うげー」、「ぎゃー」などと今度は島津軍の側で呻き声が上がり、死体が転がった。幕府軍の槍隊が進み、島津軍を突き崩していく。各所で幕府軍の反撃が始まり、島津義弘隊は突き崩され始めた。島津義弘は「退却、退却」と命令した。義弘隊は総退却に移った。他の島津軍部隊は義弘隊に脇目も振らず、退却した。柴田勝家は「追撃せよ!しかし、戦列を維持しながらだ!島津の釣り伏せに引っかかるな。伝令を送り、全軍に注意を促せ!」と指令した。各部隊とも島津軍の釣り伏せ戦術は聞いていたので追撃は慎重だった。島津義弘隊は退却し、寺田山の陣地に逃げ込もうとした。周囲の島津軍も敗走していた(ように見せかけていた)。柴田軍は寺田山を急襲した。
実は、これが島津軍の罠だった。島田豊久は幕府軍が釣り伏せ戦術に乗せるため、時間をかけて構築した寺田山の陣城を先鋒とともに餌とした。高地を押さえることは戦争において極めて重要であり(現在も重要)、寺田山の陣城を攻略すれば幕府軍の進撃は楽になる。当時の常識として、この様な陣地を先鋒とともに囮にするとは考えられなかった。幕府軍の先鋒隊は寺田山を占領した。ここで、島津軍は各部隊を反転させた。太鼓と法螺貝が鳴らされ、寺田山の反斜面に伏せていた部隊も攻撃を開始した。島津軍は三方から攻撃した。これで、釣り伏せ戦術は成功して幕府軍は敗北するかに思われた。
しかし、柴田勝家は島津軍の狙いに気づいていた。柴田「冷静に戦列を保持せよ!下の高山隊と佐々隊も崩れることはない。我々が耐えていれば、島津軍は敗北だ!」。幕府軍は中央に柴田勝家直卒の約1万が寺田山を中心に防御し、北側に佐々成政の約1万、南側に高山右近の約1万6千が防御していた。島津軍は北から島津家久の約9千、島津義弘の約1万、島津豊久の約1万1千が攻撃した。
当初、幕府軍に動揺が走ったが、柴田勝家は佐々成政や高山右近などの指揮官達に釣り伏せ戦術に敢えて嵌ることを知らせてあった。幕府軍は竹束と盾で仕寄せを造り、鉄砲隊が仕寄せから銃撃を始めた。幕府軍の槍隊は銃撃に援護されて島津軍の針路を塞ぎ、槍の突き合いを始めた。槍隊の突き合いが始まると、幕府軍の弓兵隊は槍隊の背後から曲射を放った。「放てー」の号令で矢が飛び、島津軍の槍隊に降り注ぐ。後ろの兵士達が野に討たれて呻き声を上げて倒れると、織田軍の槍隊が前進していく。幕府軍の各指揮官達は部隊を立て直した。戦局は一進一退の様相を呈した。高山右近は島津豊久隊に応戦しつつ、6千の福富直正隊を島津豊久隊の左翼に回した。島津豊久隊も対応して部隊を展開させる。
だが、ここで幕府軍の騎兵部隊約1000の急襲が始まった。剣装備の騎兵部隊が島津軍の長槍部隊を左翼から急襲した。島津軍は隊形の転換中に急襲され、島津軍の兵士達は蹴散らされた。幕府軍の騎兵隊は戦列を突き崩して突破していった。続いて槍装備の騎兵部隊がさらに島津軍の布陣を引き裂いた。騎馬隊の槍に突き刺され、或いは馬に轢かれて島津軍の兵士達が蹴散らされていく。島津軍の兵士達は滅多にしない行動を始めた。
逃げ惑い始めたのだ。西洋式の体格の良い馬による騎兵隊の高速の急襲に島津軍の部隊に衝撃が奔った。急な展開のために、隊列が乱れていた島津軍は騎兵部隊に戦列を蹂躙された。続いて、幕府軍の歩兵部隊が雪崩れ込んできた。島津軍の兵士達が槍隊の槍衾に刺されてバタバタと倒れていく。「放てー」の号令で幕府軍の鉄砲隊と弓隊の一斉射撃も浴びせられる。幕府軍の槍隊は更に勢い付いて進撃していく。
「首は手柄に数えんぞー!恩賞は保障されておるぞー。進め!進め!」と幕府軍の指揮官達が叫ぶ。幕府軍は首取りを余りせず(指揮官が目を離すと首取りをする者が多かったが)、突き進んだ。織田軍の騎兵部隊は島津軍の鉄砲隊、弓隊、落伍した兵を次々に刺殺するか蹂躙していった。続いて、織田軍の歩兵部隊が雪崩れ込んできた。島津豊久隊は圧倒された。それでも、歴戦の島津軍は何とか戦列を再形成して応戦した。島津豊久は、自身の部隊に構わずに退却せよと義弘と家久に指示した。突破した幕府軍の騎兵部隊は略奪や首取りを行わず、誘導騎兵部隊(騎兵部隊を再集させる役目の騎兵)の指示で再集して、数分、休憩した。その後、再度、豊久隊に突撃をかけた。歩兵部隊の攻撃を受け止めていた豊久隊は騎兵突撃に対処しきれず、織田軍の騎兵部隊が戦列に割り込んだ。これを見て、福富直正は自身の部隊に総攻撃を指示した。これにより、豊久隊の左翼が崩壊した。高山右近も自身の部隊に総攻撃を指示した。このため、豊久隊は敗走に追い込まれた。
島津軍は捨て奸(数名が座射を行い、鉄砲を放った後は槍で突撃する戦法。複数の小部隊が、これを行う)を行った。しかし、福富は予備の騎兵部隊の約500を約100騎ずつに分散させて攻撃させた。福富「島津軍の退却戦術は捨て奸だ。連中が主力を足止めできない様に片付けろ。隊形の維持は気にするな。強い抵抗を行う敵は迂回せよ。後から来る部隊が仕留める。分隊ごとの判断で進み、敵を討ち取れ!行け!行け!」。福富は浸透戦術に近い戦法を指示した。騎兵部隊は足留め部隊を側面や背後から急襲した。街道の脇で足留めを行っていた島津軍の部隊の背後(数名ずつが4グループ)から織田軍の剣装備の騎兵部隊100騎が襲い掛かる。島津軍の兵士達は槍を手にしようとしたが、騎兵部隊の攻撃が速かった。騎兵の剣が振り下ろされて島津軍の兵士が血しぶきを上げて倒れた。島津軍兵士は次々に斬られるか蹂躙された。騎兵部隊は停まらずに島津軍兵士を蹴散らして約100m離れた所で分隊長の元に再集した。
この間に、織田軍の先鋒の歩兵部隊が突撃した。残っていた数名の島津軍兵士達は槍隊に付き殺されていった。織田軍の足軽大将が「進めー進めー!首ではなく、早く進んで敵を討ち取るほど恩賞は増えるぞ!」と叫び、部隊を進めた。騎兵部隊は其れを見ながら街道を外れて馬を全速で走らせた。また、側面や背後から島津軍の足留め部隊を襲うためだ。各所で同様の光景が繰り広げられた。島津軍の足留め部隊は次々に仕留められ、幕府軍の追撃に拍車が掛かった。一方、先に突撃した幕府軍騎兵部隊は誘導騎兵部隊の誘導に従って集結して休憩していた。突撃に備えて馬の体力を回復させておくためだった。福富は騎兵部隊の隊形を整えさせると共に支援の歩兵部隊を編成させていた。既に、幕府軍の全部隊が追撃していた。このため、無理して追撃する必要もなく予備隊を形成して島津軍の逆襲に備えていた。柴田隊、佐々隊、高山隊も同様のことをしていた。島津軍の釣り伏せ戦術を警戒したためだが、幕府軍が着実に常備軍化の道を歩んでいた証拠だった。
追撃戦で統制を保って戦列を形成するのは従来の軍隊では困難だったからだ。兵士個人にとっては恩賞を逃すことになるからだ。柴田軍は柴田勝家の精鋭と織田幕府軍の直轄部隊で構成されていたことにより、高度に統制された行動が可能だった。幕府軍の調整された猛攻で島津豊久は危うく戦死するところだった。しかし、退却命令を無視した島津義弘の部隊が救援に駆け付けた。なお、島津家久も退却命令を無視した。これにより、豊久は辛うじて戦場から退却できた。島津義弘の部隊は煙で視界が遮られていた高山隊の先鋒を急襲して押し戻した。
しかし、福富直正が予備隊を繰り出した。再集を完了させた騎兵部隊の約800と支援の歩兵部隊に押し返されて全面的な退却に追い込まれた。福富隊の歩兵部隊が正面を拘束し、側面から約400騎ずつの騎兵部隊が攻撃した。幕府軍の鉄砲隊と弓隊が射撃を行い、槍隊が島津軍を突き崩していく。幕府軍の騎兵部隊は島津軍の戦列が手薄な場所を急襲し、鉄砲隊、弓隊、落伍した兵を仕留めていった。他の幕府軍部隊も戦列を整えて戦闘に加わった。首取りを止めさせるために、足軽大将達が鉄砲で足軽達を脅さなければならなかった。それでも統制のとれた戦術であり、従来の戦国時代の軍隊では考えられなかった。このため、島津軍は総退却に追い込まれた。島津軍は壊滅しても不思議ではなかったが、辛うじて統制を保って退却した。島津軍は、それぞれの部隊を二分して継続躍進(片方の部隊が移動し、片方の部隊が応戦する戦術)の要領で退却した。見事な退却だったが、幕府軍が強硬に攻撃すれば島津軍は間違いなく壊滅していた。
幕府軍が躊躇したのは次の理由による。第一に、捨て奸などの戦法を採り、潰走しない島津軍に恐怖したこと。国民国家以前の軍隊で、釣り伏せや捨て奸などの戦術を採れる島津軍は異常といって良かった。退却時でも潰走しない島津軍は戦国時代の軍隊の常識に反していた。
第二に、島津軍による煙幕などの煙で幕府軍の視界が遮られたこと。煙幕の煙や火縄銃の硝煙が立ち込めてきたために、柴田勝家や佐々成政は戦局の把握が遅れた。また、島津家久の部隊が攻撃を続けて、両部隊を足留めした。これらの要因があっても幕府軍は追撃した。しかし、幕府軍の指揮官達は皆、戦国時代では常識外の島津軍に幕府軍部隊(統制と柔軟さを兼ね備えている)が消耗させられるのを嫌ったことによる。このため、島津軍は壊滅を免れて隅本に退却した。
しかし、幕府軍の勝利だった。両軍の損害は次の通り。幕府軍は、戦死が約3千、負傷が約5千。島津軍は戦死が約9千、負傷が約1万3千。島津軍の損害は本国部隊が打撃を被ったために深刻だった。これ以後、島津軍は退却するしかなくなった。柴田勝家は1日だけ部隊を休息させた。その後、指揮下の全部隊を集結させると隅本(現在の熊本)に進撃した。隅本城は包囲されると、3日目に、あっさり降伏した。高瀬の戦いの勝利の報が伝えられると、幕府軍は一挙に攻勢を強めた。高瀬の戦いは決戦となり、後は幕府軍による掃討戦に過ぎなくなった。
高瀬の戦いは織田幕府による九州征伐の決戦となっただけではなく、日本において初めて「騎兵部隊が編成されて投入された会戦」となった。これまで、日本では常設の騎兵部隊が編成されたことはなかった(臨時編成された騎馬武者の部隊を騎馬隊と呼ぶ)。これは、次の理由による。
第一に、日本の馬の欠点。日本の馬は体格が小さかった上に、蹄鉄も打たれておらず、去勢もされていなかった。このため、日本の馬は力が弱い上に、暴れやすく、蹄も摩耗し易かった(蹄が摩耗すると、馬が足を痛めてへばり易くなる)。これでは、騎兵部隊の編成は敬遠されるのも当然だった。
第二に、日本の地形が騎兵部隊に適していなかったこと。山がちな地形の上に、田が多いので騎兵部隊の使用は難しかった。さらに、馬自体の生育がユーラシア大陸と比べれば難しかった。元々の生息数が少なかった上に、草原が少ない。このため、大量の馬を生育するのが難しかった。この事情により、大陸から馬を輸入しても繁殖させるのは難しかった。これらの事情で、日本では在来種の使用が続いていた。
第三に、戦場における首取りの慣習だ。首を取るのには下馬しなければならないので騎兵部隊の有効活用は無理だったし、敬遠された。日本でも騎乗している騎馬武者を集めて臨時編成の騎馬隊を編成したことはあるが、常設の騎兵部隊が編成されたことは確認されていない。以上の様な困難を克服して、騎兵部隊を編成するには莫大な資金と常備軍の軍制(統制と、首取りをしなくても評価される仕組みが必要。常に維持されている常備軍でのみ可能)が必要だった。織田幕府によって初めて騎兵部隊の編成が可能となった。
織田信長はポルトガルから軍事技術を導入する際に、西洋でも騎兵部隊が有効に活用されていることを知った。このため、日本でも騎兵部隊を活用すれば、戦果が拡大できると期待した。信長は騎兵部隊を編成するにあたり、明から軍馬を輸入している。また、指導する兵士も秘かに出国させて雇っている。このため、かなりの金額を倭寇などに支払っている。北条攻めの前から、砲兵部隊と騎兵部隊の編成は進められていた。ただし、この時点では砲兵部隊は全て傭兵部隊だったし、騎兵部隊は全部で2000騎しかいなかった。これ以降、日本でも騎兵部隊の編成が各大名によって始められた。なお、日本の騎兵部隊の戦術は、騎兵部隊単独の場合は、西洋の軽騎兵部隊の戦術に近い。また、歩兵部隊との混成部隊を編成する場面も多く、その場合はスウェーデンのグスタフ王の戦術に似ていた。誘導騎兵部隊は日本独自で、騎兵部隊を指揮官が再集させる際は誘導騎兵部隊が集合地点に騎兵を集合させた。元々は再集の訓練に時間が掛るので編成されたが、誘導騎兵部隊の編成により幕府軍の指揮官達は的確に騎兵部隊を集合させて投入できるようになった。これにより、幕府軍は砲兵部隊に加えて騎兵部隊を保有したことで、野戦でも決定的な有利を手に入れた。また、砲兵部隊、騎兵部隊を編成しなければならなったので、城主や土豪などが幕府や大名に刃向うのは困難になっていく。多額の経費を要するためで、中央集権化が進む重大な要因となった。また、軍隊自体も常備軍化が進み、高度の統制による連携のとれた西洋流の軍隊に発展していくことになる。この事が武士自体の意識も変えていき、個人の意識の上でも中央集権化が進んでいくことになる。
高瀬を突破して隅本を制圧した後に、幕府軍は作戦を変更して主力を二分して、薩摩と日向に軍を向けた。豊後で島津歳久軍(約1万)を釘づけにしていた長宗我部軍も一挙に攻勢に出て城を次々に奪還し、日向に攻め入った。滝川一益は約2万の軍で薩摩の出水に上陸し、二週間で出水城を降伏させた。これにより、肥後南部の島津軍の連絡線が分断された。日向に侵攻した幕府軍は、家康軍(約4万)が北上して島津豊久軍を挟撃しようとする一方で、柴田軍(約4万)が都之城(現在の都城にあった山城)を包囲した。島津歳久軍は大隅に退却するしかなくなり、遅滞戦闘を行いながら志布志城に退却した。最早、島津氏にとって戦況は絶望的だった。島津氏は朝廷の仲介を受けいれて降伏することにした。織田幕府は島津の降伏を受け入れた。薩摩川内の泰平寺において、島津義久が織田信忠に降伏して九州征伐は終わった。泰平寺で島津義久との会見を終えた信忠は黒田官兵衛と密談を始めた。
信忠「さて、黒田、島津が降伏した以上、天下布武は終わったも同然だ。まずは、例を言う。御苦労だった。目出度い限りだ。今後は幕府支藩の藩主として幕政に貢献してもらいたい」。
黒田「信忠様、身に余る光栄です。今後も、この黒田官兵衛は信忠様と織田幕府のために全力を尽くします。まずは、天下布武の完成を御祝い申し上げます。信忠様は日本史上、例のない権力を持った征夷大将軍となられます。真に目出度い限りです」。
信忠「黒田、御前に褒められて余も嬉しい限りだ。まずは、喜ぼう。父や御前達のような有能な家臣のおかげで、儂は栄光の頂点に立っている。誇らしい限りだ」。信忠は心から喜んでいた。暫くは、敷いてある日本地図を眺めて、信長の是までの激闘や自身が信長の指図で行ってきたことなどに思いを馳せていた。しかし、急に真顔になると、黒田に語りかけ始めた。
信忠「さて、黒田、天下統一は決まった。しかし、本当の戦いは是からだ。前にも話した通り、朝廷と諸大名の統制が重要になる。この機会に、今後の方針の概略を打ち合わせておこう」。
黒田「信忠様、御賢明です。天下統一は九州攻めで終わりました。次の奥州征伐などは幕府軍による大規模な進駐に過ぎません。よって、寛大さと公正さを基本方針として奥州征伐は行わなければなりません。戦の勝敗は幕府軍の指揮官達が油断しない限り確定しています。幕府の権威を奥州に確立することが主目的ですしな。ところで一つ、提案があります。怒らず、最後まで御聞きください」。
信忠「何だ?」。
黒田「丹羽長秀様の長男である丹羽長重殿を国主に任命して丹羽家を再興させるべきです」。信忠は唖然とした。
信忠「黒田、何を言っているのだ!?仕事による過労か!?本能寺の変に奴が関与した証拠はなかった。しかし、丹羽長秀が明智光秀の味方になると約束していなければ本能寺の変が起こったとは思えんが」。 黒田「落ち着いて御聞きください。確かに疑念は御尤もです。丹羽長秀様が明智の輩に味方していなければ、明智の輩が謀反を起こしたとは思えません。しかし、証拠は有りません。これでは諸大名が懸念を捨てきれません。織田家は危うくなると、疑わしきは殺すのかと。失礼ながら、上様(信長のこと。信忠は、信長の存命中は上様と呼ぶように指示)は長島などの件で騙し討ちを繰り返しておられます。佐久間様の件もあり、諸大名は疑心暗鬼です。まずは、隗より始めよとの言葉もあります。丹羽家が再興されたなら、諸大名は安心します」。
信忠「尤もな面もあるが、丹羽が謀反を起こしたら如何する?信孝が下位とはいえ、丹羽の家来を二十数人は殺しているぞ」。
黒田「討伐すれば、良いだけの事です。天下が統一されても織田幕府の方針の一つは天下布武です。戦を恐れることはありません。幕府軍の力を見せつける好機です。それよりも諸大名を安心させることの利が大きいです。それに、丹羽長重殿は父よりも更に穏やかな方です。謀反を起こす恐れは少ないです。苛烈さだけでは人心を安心させることはできません。富国強兵のためにも無用な戦や反感は避けるべきです。もちろん、寛容なだけでは謀反を招くので天下布武も不可欠ですが」。
信忠「よし、黒田の意見を採用しよう。丹羽家を再興させてやろう。謀反を起こされても良いように、奥州に領地を与えることにしよう。さて、朝廷対策は何から着手すれば良いと思うか?」。
黒田「それは安土で留守をしている蒲生氏郷様とも相談して決めるべきです。それよりも、考慮すべきことがあります。琉球と蝦夷地を攻めるべきです」。
信忠「黒田、先に決めた基本方針と矛盾するぞ。天下統一を終えたばかりで財政も安定させたいから戦は避けたいのだが。治安回復のために、藩を跨いだ盗賊や山賊の討伐が先ではないか?」。
黒田「信忠様、御尤もです。しかし、基本は基本です。琉球と蝦夷地を攻めるのは諸大名を統制するために不可欠です。蝦夷地や琉球は諸大名が幕府の統制を受けずに海外と貿易する拠点になります。我が国の船は外洋の航海に適していませんが、琉球(現在の沖縄)と蝦夷地(現在の北海道)なら採算の取れる貿易が可能です。この二つの地域を押さえなければ、幕府による大名の統制は実効性がなくなります。幸い、両方の勢力とも軍事力は低いです。油断しなければ、勝てます」。
信忠「已むを得んな。よし、蝦夷地と琉球を攻めるのには島津軍を使う。幕府軍で補強するし、軍資金も援助するが島津軍を前面に出す。慣れない土地での戦闘には困難が付きまとう。幕府軍が苦戦しては幕府の威光に傷がつくからな。恩賞を島津に出すから費用は嵩むが已むを得まい。
それと、御前の意見を参考にして蝦夷地に幕府の支藩として上杉氏を再興させる。蝦夷地の統治には困難が伴うからだ。蝦夷地は元がアイヌの土地で北方の情勢や地理も不明だ。アイヌの権利は守る必要がある。入植者を牽制する為だ。アイヌは入植者と対立しているから幕府を頼る。入植者に対する統制の手段として最適だ。入植者の怒りが直接的に幕府へ向かうのは拙いから上杉氏を前面に立てよう。蝦夷地は極度に寒いから開発は難しいが、失敗したとしても上杉氏の責任となる。これで、どうかな?」。
黒田「信忠様、最良の策です。貴方は天下人として相応しい。信長様とは得意とする事が違うだけです。絶対に信長様の二番煎じではありません。」。
信忠「黒田、父は上様だ。別に、父の二番煎じなどと言われても構わん。寧ろ、父の二番煎じなら光栄なことだ。何れにしろ、織田幕府は日本帝国を統治していくことになり、儂は初代の征夷大将軍として歴史に刻まれる」。その後も信忠と黒田官兵衛は諸問題を話し合った。これ以後も、織田幕府は信忠、黒田、蒲生の三人を軸として運営されていくことになる。
戦後処理の主なものは次の通り。島津氏は薩摩、大隅、日向を安堵された。滝川一益は肥後と豊後を与えられて国替えさせられた。大友氏は石見と周防に国替えさせられた。鍋島氏は安芸に国替えとなった。羽柴秀吉も国替えになり、肥前、筑後、筑前、豊前の大部分(小倉を含む一群は幕府の領地)に加えて対馬と壱岐を領有することになった。他にも、相応の褒賞や加増が行われた。これにより、織田幕府の天下布武は概ね達成された。
織田幕府は諸藩を暫く休息させて、1592年3月に奥州征伐を決行した。小田原攻めの際、積極的に協力した大名を除いて、有無を言わさず、攻め込まれた。織田幕府は諸藩の軍を動員して、23万の大軍を編成した。大軍が投入されたが、実態は幕府軍による進駐であり戦闘があっても恫喝の手段だった。奥州の大名達は圧倒的な大軍に威圧されて素直に従った。潰された大名はなく、国替えか徳川などの支藩として存続が許された。
1593年5月に奥州討伐は終わり、戦後処理として国替えが行われた。徳川家康は出羽に国替えさせられた。また、北条は陸奥の青森を中心とする北部を与えられ、丹羽長秀は陸奥の仙台を中心とした陸奥の中部を与えられて丹羽家が再興された。
1594年7月に、島津軍を中心とする幕府軍(約3万)が蝦夷地に侵攻して上杉氏を再興した。幕府軍の副将である大谷善継がアイヌとの一連の協定の締結を主導した。これ以後、蝦夷地は北海道とされて上杉氏が支配する北海道藩(幕府の支藩)となる。こうして、織田幕府の天下布武は終わり、天下統一が達成された。
なお、1594年から、ポルトガルや中国に出す文書で「日本帝国」の名称が使うように幕府内で指示が出されている。翌年に諸藩にも伝達された。1594年12月31日に朝廷は幕府からの進言を受けて、国旗を発表した。金色の菊の紋章(皇室の紋章)を赤地の綿に刺繍した旗(通称、錦旗)だった。歴史的に多用されてきた日の丸を用いるべきだとの意見も多かったが、幕府は錦旗を選択した。朝廷を尊重している姿勢を示すためと、日本国内の諸藩と臣民を団結させるには皇室の紋章を用いた旗が良いとの判断だった。
織田幕府は、天下統一を達成すると国内統治に専念した。織田信忠は信長の慎重さに倣って海外出兵を自分の代は行わないことにした。国内の諸藩は信用できなかったからだ。信忠曰く、「全ての藩が幕府に従うのは得だからに過ぎない。幕政に係わる者は、天下の政は幕府と諸大名の冷戦に過ぎないことを忘れてはならない」。
唯一の例外は琉球で、幕府軍と島津軍(約2万)が侵攻して占領した。琉球は沖縄と改名され、幕府の領地となった。形式上は琉球王朝が沖縄藩(幕府の支藩)の藩主とされた。信忠は幕府の圧倒的な権威をもって、国内整備を進めていく。織田幕府が圧倒的な権威を保持できた要因は次の通り。
第一に、領地の多さと位地の有利。織田幕府の領地は尾張、三河、美濃、越前、若狭、近江、丹波、摂津、播磨、淡路、和泉、河内、長門、伊勢、志摩、山城、小倉を中心とする一群、佐渡、伊豆の南方にある島々、沖縄。近畿を中心として、当時の政治、経済、交通の要所を押さえている。そして、税収も莫大だった。全体として幕府の直轄領は密集しており、通信手段が発達していない当時において複数の藩が反乱を起こしても連携は難しかった。
これは、内線作戦が行える織田幕府が有利であることを示している。実際、織田信長は数度に亘り、包囲されたが結局は勝利した。これは、様々な要因があるが、当時の通信手段では互いの連携が困難であったことが一番の要因だ。そして、天皇がいる京都は織田幕府の直轄領の中心にあるので、幕府の敵対勢力が天皇の身柄を確保して大義名分とするのは困難だ。このため、織田幕府は諸藩の意向を気にする必要性は低かった。このため、鎖国する必要も感じなかった(鎖国は適切な表現ではないかもしれないが、既に一般的な用語になっているので鎖国とした)。
第二に、朝廷に対する立場の強さ。第一の要因とも関連するが、織田幕府は朝廷から有利な地位を確保している。まず、織田幕府というのは正式な名称だ。これまでの鎌倉幕府と室町幕府は俗称であり、正式には「幕府」だった。しかし、織田信長は朝廷に強く要請して(脅迫して)、織田幕府を正式名称とさせた。これまで、織田幕府が正式名称と認識されてこなかったのは、織田信忠以降の征夷大将軍が朝廷に配慮して、一般向けには幕府としてきたことによる。織田信忠が規制命令を各藩に発令している。このため、藩主や藩の重臣など以外は織田幕府が俗称だと思っていた程だ。一般的には、織田幕府は御公儀と呼ばれていた。
しかし、朝廷から幕府に出された綸旨などの書状、幕府を通して朝廷から諸藩に出された書状、各藩や幕府と朝廷の文書などは全て織田幕府の名称が使用されている。次に、外交権が織田幕府にあることを正式に認めさせている。これは、諸外国にも伝達された。このため、諸外国は、長い間、「天皇は、日本神道と仏教の教皇だ」と認識していた。次に、征夷大将軍は自動的に織田家が継承していくことを認めさせている。つまり、朝廷が幕府への対抗手段として征夷大将軍の任命を拒否するという手段がとれなくしていた。以上の事は、順次、織田幕府によって基本法に明記された。
これらのことで、日本帝国内の人間は織田幕府が日本帝国の最高機関であり、事実上の国の長は征夷大将軍である織田家の当主だと認識するようになる。
第三に、軍事費の負担の増大。幕府が軍隊の常備軍化、砲兵部隊と騎兵部隊の編成を進めていくと、諸藩が対抗していくのは困難になっていく。諸藩も対応していったが、規模は幕府の方が優勢だった。これに、西洋型帆船の導入が始まり、海軍の編成が本格化すると諸藩が幕府の軍事力に追随していくことは、さらに困難になっていく。
第四に、外交権が幕府にあることを明白にしたことで海外貿易の主導権を幕府が握ったこと。条約が幕府としか締結できず、幕府の承認しない契約は無効とされるので、外国政府や外国商人は幕府の意向を無視できなかった。幕府は外交権を最大限に利用して(同時に軍事力の行使を示唆しながら)、外国政府や外国人商人に幕府の意向を尊重させていくことになる。更に日本人商人達や諸藩も、外交権を握る幕府の意向を尊重するしかなかった。無論、ナショナリズムの概念がない時代に幕府が完璧に貿易を管制できたわけではない。しかし、幕府は自己の軍事力に自信を持っていたので、海外貿易を積極的に推進していった。諸藩を軍事力で圧倒するためにも、経済を拡大させるためにも海外貿易は不可欠だと幕府は判断していた.
第五に、織田幕府自体の軍事力の強さ。織田幕府は歴戦の将兵を大量に抱えており、軍隊としての組織も整っていた。ポルトガルとの友好関係(ポルトガルの弱みに付け込んでいるが)を利用して、前述の様に軍事技術の導入を進めていた。そして、それらの軍事技術を着実に習得していった。砲兵部隊も初期は全て傭兵部隊だったが、幕府軍は日本人部隊を順次、拡張していった。ナショナリズムの概念が希薄な時代であることが幸いした。ある程度以上の金を提供すれば、技術を入手するのは難しくなかった。初期のフランス王国のように、砲兵部隊を傭兵部隊のままにしておく選択肢も存在した。その方が短期的には得だったが、幕府は自己の軍事力を強化する方を選択した。
諸藩の謀反を心配していたのと、武家政権が畏怖されている第一の理由は軍事力によって臣民を保護していることにあると確信していた。中国でもヨーロッパでも、武力と金を持つ政権(それらを賢く使う政権)が支配権を握ることを良く認識していたからだ。それに、織田信忠も諸大名の本質は変わっておらず、幕府の力が衰えれば謀反を起こすだろうと確信していた。このため、幕府は軍事力の強化と発展を怠らなかった。
以上の様な、有利な要因を活用して、幕府は主に、次の政策を実行していった。
第一に、全国規模での交通網の整備。諸藩にも命じて、全国の街道の再整備と拡張を行っていった。既存の街道は石畳で舗装されていき、馬車の活用も推奨されていく。さらに、街道に屯所(数名の兵士が常駐していた。現在の交番に近い役目を果たしていたが、茶店などの出店させており、馬小屋もあった。現在のパーキングエリアの役割も果たしていった。馬の秣を低価格で販売し、馬の蹄鉄を直す職人が常駐していた屯所も多い)を整備させた。同時に、街道の幅も広げられ、周囲の木も伐採された。同時に、橋の整備も進められた。原則的に、橋は石橋の固定橋と定められた。
実際は、柔軟に命令は解釈されて木を使った橋も多かったが、橋桁は厳密に石造とされた。一連の交通網の整備は経済を活性化するとともに、諸藩が反乱を起こした際に幕府軍が迅速に行軍できるようにするためだった。また、幕府は自領の橋は極力、跳ね橋にしている。幕府の城の橋は全て跳ね橋だった。諸藩には不満もあったが、逆らえなかった。さらに、諸藩の財政を悪化させる狙いもあった。一連の交通網の整備では、殆どの工事で幕府が補助を行っているが、維持管理費用は全て諸藩の負担だった。
諸藩にとっては結構な負担で財政を圧迫させる一因になった。港湾に関しても同様だった。幕府が外国船に対して開港した港を整備するために、多額の補助金を支出しても維持費用は其の藩の負担だった。かといって、交通網を整備しなければ、貨幣経済の発展から取り残されて藩が没落する。このため、多くの藩は維持費用に悩まされながらも交通網の整備も幕府と共に進めていくことが義務とされた。なお、幕府は街道の清掃組織の整備も各藩に命じている。幕府は経済を盛んにするために馬車の普及を促しており、馬の糞による衛生状態の悪化が危ぶまれてきたからだ。
第二に、新貨幣の発行と税金の金納化。幕府は、金貨、銀貨、銅貨の発行に踏み切った。それまでの日本では、銅銭の他は貨幣が使われておらず(銅銭も複数の種類があり混乱していた)、銀や金は其のまま使用されていた。これでは、海外貿易でも大量の金銀が流出することになるし、経済が混乱する一因となっていた。幕府は1595年に金貨(単位は両)、銀貨(単位は丁)、銅貨(単位は文)を流通させ始めた。なお、中国から輸入された銅銭(永楽銭など)は引き続き使用が認められた。当然、領国貨幣などの発行は厳禁された。正式な通貨が発行されて流通し始めたことで撰銭の習慣も徐々に減少していく。旧来の貨幣を回収した時に、新通貨との交換に幕府は応じたのだが、幕府が設定した交換レートには不満が多く、反乱も発生した。このため、通貨価値が安定するのには数年を要した。
しかし、一度、安定すると経済の安定度は格段に向上した。幕府は並行して、税の全面的な金納化にも着手した。税が米で納められていては米の収穫量によって、毎年、税収が変動する。このため、安定した税収を確保したい幕府としては、納税は全て金納にしたかった。正式な通貨が発行され、通貨が信用され始めたのを機に幕府は全面的な税の金納化に取り組み始めた。まず、直轄領内で検地を実施して税収を確定するとともに、農民の財産権を保障した(詳しくは後述)。税額は村の収穫量に応じて算定され、豊作・不作に係わらず、毎年、一定額を村単位で納税した。
なお、農民側にも配慮がなされていた。新しく設定された税額が従来の年貢の平均(過去10年)を上回れば、減額された。この時、村の代表者達を呼んで事実関係を確認した上で税額を決めていた。さらに、税率の改正を10年間ごとにすることも公布した(都市や町などの非農村部は5年)。このことにより、農民側も渋々だが納得した。幕府は検地で税収を安定化させることを目的としており、税収の増額を目的とはしていなかった。農民の納税の金納化と並行して、商人や職人などからの税の徴収が強化された。従来は、これらの階層は放任されていた代わりに税金も低かった。
しかし、幕府は税が金納化されたことと、経済が発達してきたことを考慮して幕府は課税強化に踏み切った。営業税や人頭税が課され、この後も追加されていく。代わりに、税金の額は一定とされ(改正は10年ごと)、財産権も保障された。また、税金以外の強制徴集は禁止された。幕府は海外貿易の推進や交通網の整備などの様に重商主義的な商業重視の政策を採ったので、商人などからの課税強化は当然だった。商人などの階層にとっても、織田幕府が商業重視の政策を実行したのは歓迎できることであり、幕府に協力していく。後述の身分統制令の後も商人などから武士に昇格した事例は多い。商人などの階層からの課税強化と財産権の保障と併せて、寺内町などの特権も全廃された。
第三に、財産権の保障。織田幕府は1596年に、租税法を制定して自領に公布した。全ての租税は法律上の根拠に基づかなければならないと明確に定めた。また、前述の様に税率の改定は、農村部が10年、非農村部が2年ごとにされ、税以外で金を強制徴集されることもなくなった。同時に、幕府に仕えている武士も借金返済の義務を負うことが明確に定められた。また、幕府も同様の義務を負うことを朝廷に誓い、日本帝国内に広く交付した。このことは、結局は幕府の得になった。商人などが幕府を信用したことで、幕府の領内の経済活動が盛んになり、税収も増えたからだ。
幕府の政策を歓迎して、他藩から移り住む商人も多かったので諸藩は慌てて禁令を出している。幕府領の商人達は諸藩に対しても融資を行い、多額の収益を上げた(幕府も税収で儲けたことは言うまでもない)。このことも幕府の力を諸藩に対して上回る一因となった。諸藩も追随しようとしたが、封建制の維持、農村からの食糧の確保の問題、都市や町の担税能力の低さ、平和になったことによる儒学的な観念の流行(儒学では商業は卑しいとされていた)などが実施を妨げた(同じ要因で税金の金納化も遅れた)。発達していた商業圏を領地に取り込み、農村の担税能力も平均以上である幕府だからこそ実行可能な政策だった。
第四に、身分統制令の制定。幕府は1596年に身分統制令を制定し、基本法に加えたうえで公布した。身分は、武士、士族、町人、農民、下民と規定された。まず、武士は幕府においては武が第一の役割とされていたので軍事と治安の役職を主に担当した。行政職に配置された武士もいるが少数派だった。武士は原則的に城下町の居住とされていた。次に、士族は主に幕府の行政面を担当した。構成は、常備軍に所属していない足軽(普段は農業や商業を行っている。農村部では富農や其の親族が多い)、幕府や藩に協力の義務を課される代わりに身分上の特権を受ける漁民や船員、鉄砲職人などの特殊技能を持った職人や技術者、幕府や諸藩から認定された御用商人、村長などの村役人、僧侶や神官などの聖職者など(幕府が、当初、規定したのは上記の通りだが時代によって異なる)や親族で武士に次ぐ身分とされ、武士に次ぐ特権を与えられていた。
ただし、税率は士族の方が断然、高かった。その代り、士族には幕府領以外への出兵義務はなかった(外国軍が侵略してきた場合などを除く)。僧侶、御用商人、職人や技術者なども幕府の戦争遂行に協力義務(兵站、プロパガンダ、技術支援など)を負っていた。士族から武士に昇格できる機会も与えられていた。幕府軍や藩軍に志願して採用され、褒賞された者も多い。
次に、町人は納税以外の義務がない非農村居住者だ。ただし、畜産、養蚕、漁業、鉱山労働などをしていた町人もいる。商人も含まれているが、士族の商人よりも高い割合で税金を徴収されていた。町人は幕府軍や藩軍に志願して従軍すれば士族に昇格できる機会が与えられた(幕閣や藩上層部から貢献が認められた場合なども)。なお、カトリックの日本人聖職者は町人に分類されている。
次に、農民。こちらも納税以外の義務はなかった。他に、自分達の村や周辺での労役(灌漑施設や堤防などの建設や補修)を課されることもあった。しかし、基本的に納税以外のことは期待されていなかった。その代り、権利も最小限だった。士族への昇格の機会もなく居住や移動の自由もなかった。自分の村を出るには、村の士族に気に入られて義務を完全に遂行していることを認めてもらわなければならなかった。村に、自分の米を収めることは当然とされていた。しかも、町に出ても決められた家に住まなければならず、村への税金も納めなければならなかった。旅行も基本的には禁止されていた。つまり、農民は村から出るなということだった。例外は、村の士族が出稼ぎ労働として都市部に集団で送り出した場合だった。この場合でも、住む家は決められ、村への税金を納めなければならなかった。
農民は町人と同等とされていたが、長い間、農村部に縛られることになる。幕府も農民の不満が爆発しない様に、対策を行っていた。雑貨屋を村に出張させて各種商品を割安な価格で販売させていた。さらに、士族所(農村部の警察任務を担当)の上級役人には最低でも一か月に一回は担当の村を巡察する義務があった。他にも地域の代官が自己の裁量で様々な対策を行っている。幕府は、商業重視の政策を進める一方で農民への配慮も行っていた。
次に、下人。受刑者、元受刑者、多重債務者、税金の未納者、農村からの脱走者などだった。待遇はヨーロッパの農奴と同じで、家族ごとに売買されることもあった。町人や農民が重罪で有罪になると、下民に格下げされた(武士が重罪で有罪になると、士族に。士族が重罪で有罪になると町人に)。格下げされた者は、恩赦か余程の貢献をしなければ元の身分に戻ることはできなかった。下民階級の存在によって、一揆や打ちこわしなどが抑制された面もあった。身分制度は規定されたが、農民と下民を除けば、上級身分に昇格できる機会はあった。このため、幕府は多様な人材を実力主義によって雇用することが可能であり、人材登用も柔軟に行えた。これにより、世襲の重臣層に権力が偏るのを防ぐことができ、歴代の征夷大将軍が指導力を発揮できた(ただし、ヨーロッパの君主や中国の皇帝などと比べれば抑制されていた)。
第六に、裁判所の創設。幕府は、これまでの慣例に加えて法治主義を組み合わせた統治を展開しだした。最初は税金のことだけだったが、他の問題にも広げ始めた。織田幕府の政治手法は慣例から大きく逸脱していたので何かの基準が必要だったからだ。諸藩にむけては基本法だった。幕府支配下の領民にも租税法を皮切りに、次々に法律が公布された。しかし、こうなると、法律が如何なる風に解釈されるのかという不安が広がった。このため、裁判所が創設され、幕府の機構の中とはいえ、行政権と司法権が分離された。これにより、法律を一方的に解釈されるとの懸念が軽減された。また、行政職を士族が担っていたので士族の権力を抑制する狙いもあった。
なお、織田幕府が法治主義を統治の基本としていたかの様に誤解されるが(当時も誤解されることが多かった)、織田幕府も基本的には慣習法を優先していた。前述のように、税金も過去の数字を参考にして納税単位も農村に関しては村単位にしている。法律が制定される時も必ず過去の慣習を参考にしている。そもそも、裁判所自体が鎌倉幕府の問注所を参考にした組織だった。後に、基本法に「慣習にない規定を含んだ法律は慣習が規定していないか、明らかに不合理かつ秩序に害を及ぼしている時にしか制定してはならない」と「法律の解釈は全て慣習を参考にして行わなければならない」の規定が追加された。
織田幕府も基本的には、歴代の幕府と同じく慣習法を優先していた。
第七に、朝廷対策。幕府は朝廷の権威を表向きには尊重し、費用も補助した。諸藩からも朝廷への費用を支出させている。信長も信忠も朝廷を基本的には尊重していた。信長が朝廷と対立していた証拠はない。正親天皇の退位についても、信長は天皇側の退位の希望を押し留めている。正親天皇が退位できたのは織田信忠が征夷大将軍に任命された翌年だった。信長は朝廷の権威の効用を認めていたし、信忠は朝廷を尊敬していた。ただし、信長も信忠も天皇陛下を反乱に利用させるつもりはなかった。
まず、京都の全周を囲う長城を築いて朝廷への接触を完全に掌握した。
次に、朝廷の官職の役割を厳密に規定させた。関白、太政大臣などの大臣の役割を宗教に関する事や国家行事に関する事などに限定した(何れも幕府と共同)。宗教政策を幕府と朝廷の協同事項にしたのは信忠の意向で信長も特に反対していない。こうした幕府の姿勢により、寺社勢力は安心して完全に幕府の支持勢力となっていく。
次に、信忠が征夷大将軍に就任した時の様な天皇の行幸などの天皇の幕府主催の式典出席の慣例化。これは、朝廷と幕府が一体であることを内外に誇示する狙いがあった。天皇陛下を利用した反幕府の動きを心理的に封じることにもなった。
第八に、検地と刀狩。この二つは並行して実施された。初期は反乱も多かったが、3年程すると反乱は急速に減少していく。これは、幕府軍と諸藩軍による断固たる武力行使が効を奏した面も大きかったが、幕府が慣習を尊重したことが大きい。幕府は諸藩に対しても、税率を決めるに当たって幕府と同じ基準を採用させた。また、税率の改定も10年ごとにさせている。これにより、税率は従来と同じか低下した。税法も各藩に制定させた(基本的に幕府の税法の趣旨に沿っていたが解釈は各藩によって異なる)。実際、筑前藩(羽柴氏)が税収増加を目的にして検地を実行し、一揆が発生すると対応は従来と違った。幕府軍も共同して鎮圧すると、幕府は一揆の指導者達を処刑せず、幕府領で引き取っている。その後、筑前藩に、幕府と共同で検地の遣り直しをさせている。
羽柴秀吉は不満を強め、一揆を起こした村々に秘かな報復を行おうとした。また、多くの村を脅迫して、徐々に税率を上げようとした。ところが、幕府に察知され、幕府軍が幕府支藩の長門に集結してきたので慌てて幕府に釈明している。秀吉は信長から「これからは、戦国乱世とは違う。予も約束破りをしたことはある。しかし、今回の検地は約束ではなく、幕府の法令に基づいている。もし、織田幕府が室町幕府と同じだと思っているなら武で試せば良かろう。こちらは喜んで受けて立つ。それが嫌なら従え。どちらでも好きな方を選べ。それが戦国乱世の掟だ。織田幕府は、慣習と、それを補う法律によって統治を行う。幕府は日本帝国の統一と繁栄が目的だ。幕府は、戦国乱世も天下泰平も目的ではない。忘れるな、織田幕府の基本方針は天下布武だ」と一喝した。秀吉は平伏して藩に戻った。
このように、幕府は検地の断行に当たって農民に対しても配慮を欠かさなかった。筑前藩の例でも明らかなように、幕府は藩が法律に基づかず農民側に圧迫を加えると、断固として介入した。このような幕府の姿勢により、農民側も徐々に幕府を信頼するようになった。同時に、幕府と諸藩は農民側の分断を進めた。
前述の様に、村長や富農などの上層農民を士族として農民から分離した。農村部の士族は農村部における警察任務や徴税任務などを行った。上の身分になって厚遇されたことで、農村部の士族達は村への仲間意識よりも幕府や藩への忠誠心を優先するようになる。農村部の士族達の協力により、幕府と諸藩は刀狩を進めていく。また、治安対策として農村部の士族を統括する士族所が設置され、農村部の士族を統括して治安任務、徴税任務、公共事業、民生支援任務(農村部の農業施設の補修、診療所の運営など)を行った。都市や町などでは町奉行所が同様の任務を行った。農村が自治を行ってきたのは行政が当てにできなかったからだが、幕府や諸藩が行政権を行使するようになると意義が薄れてきた。士族所が指揮する士族軍が治安を担い、士族所に統括された行政任務を行うようになると自治は煩わしくなった。村民は危機意識から団結していたのであって危機が去ると、利害や心情の違いが表面化するのは当然だった。さらに、従来の指導層が士族となって幕府や藩の側になると、誰を長にすれば良いのかという問題も発生する。
このため、幕府や諸藩は刀狩を強力に実行できた。これにより、農村部の武器は大幅に減少した。特に、鉄砲、弓、槍、薙刀は、ほぼ消滅した。幕府が検地に置いて農民側に配慮を欠かさなかったこともあり、刀狩を円滑に推進する一助になった。それでも反乱が発生したが、侍所に指揮された士族軍が鎮圧した。幕府軍や藩軍が出動しても武力行使を行うことは殆どなかった。これにより、幕府や藩の権力は大幅に強化された。ただし、農民側による抗議行動が消滅したわけではない。強訴、逃散が村単位で行われることもあった。
この場合、士族軍も基本的に武力行使は禁じられていた。多くの場合は発生前に検挙されるのだが、成功すると幕府や藩は士族側の責任も追及した。また、一揆側の指導者達が処刑された例も殆どない。幕府は、放火や殺人などの重大な犯罪を伴わない農民側の抗議活動を一揆として反乱や暴動と区別している。なお、士族軍(町奉行所と士族所を担当。準軍事任務、警察任務、消防任務など幅広い任務を担当した)は歩兵部隊と騎兵部隊で編成されており、砲兵部隊は含まれていない。士族軍が対処できない場合にだけ、幕府軍が出動した。海上の警察任務は海軍が兼務していた。
第九に、都市の拡張と再開発。交通網は都市(主に城下町)を結ぶ形で整備されていった。それに合わせて幕府は都市の拡張と再開発も諸藩に指示している。道路の拡張、水路の整備、下水の整備、火除け地、駅(馬や馬車用)の整備が区画整理と併せて行われた。藩によっては水道の整備も行われている。また、消防組織(町人の自衛消防組織。名称は町火消し組)、公立病院の整備も指示されている。ヨーロッパの例に倣ったものであり、都市化による弊害(大規模火災、伝染病の発生など)に対処するためだった。幕府は商業を重視しており、ヨーロッパ諸国が都市を中心に発展してきた先例に倣うことにした。優れた航海技術で世界各地を征服していたヨーロッパの強さと富に惹かれていたためだった。
幕府は前記のような主要政策の他に、一国一城令などを進めている。幕府は慣習を基本にして法治主義で補う政策を採用したが反発は避けられなかった。実際、多くの反乱が発生したが幕府は断固として鎮圧した。幕府の基本方針は「天下布武」であり、信長も信忠も基本方針に差異はなかった。しかし、諸藩は不安で、外征を主張したり(特に羽柴秀吉が主張した)、逆に鎖国を主張する意見も強かった(ただし、大名では鎖国を唱える者はいなかった)。諸藩の不安は織田幕府の政策が鎌倉幕府や室町幕府と違い、中央集権的であり重商主義的だったことにあった。このため、諸藩は幕府の力が強大過ぎて自藩が潰されるのではないかと不安視した。
もう一つ、諸藩が不安視したのは戦国時代の流れで全国に武器と浪人などが溢れていたことだ。外征をして不満を海外に向けるか社会を強硬に引き締めるべきだとの意見が強かったのも無理はなかった。幕府は諸藩などの不安に対応した。
1596年3月10日に参与院を設置した。基本法の採択および改正、関税の決定、御公儀裁判所の裁判官の任命、対外戦争の可否、藩に対する監査を行う機関として設置された。また、幕府が藩を取り潰す場合は参与院の承認が必要とされた。幕府が藩に対して行った処分を覆すこともできた。幕府と幕府支藩(九鬼氏、黒田氏、堀氏、蒲生氏)の他に、参与院の常任の大名は羽柴、滝川、柴田、徳川、毛利、長宗我部、島津、近衛家(丹後を領有する丹後藩)が任命されていた。他は、5年交代で前記以外の各藩(一期に11藩)が順繰りで務めることになった。ただし、上杉氏と北条氏は任命されないことになった(丹羽氏は丹羽長秀の孫の代で任命されることになった)。
これにより、諸藩は一方的に潰されることがなくなったので安心した。既に、藩として朝廷と幕府からの承認もあったからだ。また、対外戦争を一方的に幕府が始める危険性がなくなったことも交換された。こうして、幕府が諸藩を尊重する姿勢を明確にしたことで日本帝国は安定し、経済も成長していった。幕府の「慣習を基本にして、法律で不足を補う」との統治手法もあって日本帝国は安定的かつ効率的に統治されていく。
幕府は、町人や農民も巧妙に統治した。前記の様に、行政は士族が担っていた。当然、町人や農民を直接的に監督するのは士族で武士が係わることは少なかった。このため、町人や農民が直接的に反感を抱くのは士族だった。もちろん、治安部門の中級職から上級職は士族が多数を占めていたが、武士が町人や農民に対して取り調べ、家宅捜索、差し押さえなどを行うことは稀だった。
武士が出てくるのは、盗賊やヤクザなどの犯罪組織の摘発などの重大犯罪の取り締まり、暴動や反乱の鎮圧、反幕府などの活動を行う活動家の摘発、重要施設の警備、要人の警護、開港した港の警備と入国管理などの場面で、町人や農民と行政面で関わることは少なかった。つまり、汚れ仕事や憎まれ役を士族に行わせていた。また、士族を町人や農民の情報でチェックできるので士族を押さえることにもなった。
もちろん、士族側も損ではなかった。功績が認められれば武士へ昇格することもできたし、町人や農民を監督することで自分達の立場を町人や農民よりも有利にできた。このことは、経済活動において決定的な有利を士族に与えることになる。特に、御用商人や富農は都市や農村で決定的に有利な立場を得た。幕府や諸藩の資料によると、士族である御用商人や富農よりも町人や農民が所得的に上になった例は幕藩体制が終了するまでない。また、士族は裁判上の扱いは武士と同じだったので立場が強固になった。実際、所得だけなら士族が武士を平均額でも高額所得者の数でも上だった。このように、農民や町人から直接的に反感を買わない様にした幕府は農民や町人にも身分制度での利点を与えた(結局は幕府と藩が得をする)。
農民や町人に、下民を使役する権利を与えた。士族の監督下で、農民や町人が下人を様々な労働に使役させている。このため、農民や町人は重罪なら下民階級に格下げされる恐怖も相まって身分制度に文句を言うことは殆ど、なかった。幕藩体制の終了後に、町人、農民、下人が統合されて平民の身分とされると、身分統合反対の大一揆が発生して中央政府を狼狽させている程だ。下民の売買を行うことができたのは農民や町人で、武士と士族は下民売買に係わることを禁じられていた。こうして、農民や町人を「身分制度の受益者」にしていた。
同時に、農民と町人を分断していた。農民と町人は同じ地位というのが建前だったが、前記の様に町人の権利が格段に認められていた。このため、農民は町人に反感を抱くし、反作用で町人は農民を差別する。実際、農村部に商品を売りに来る町人階級の商人と農民は度々、紛争を引き起こしている(幕府は狡猾にも農村部での商売や金融を、有料の許可証を得た町人階級商人の独占としており、諸藩にも倣わせている)。
また、農民と町人では教育のされ方が違った。町人は、幕府や藩が委託した民間の学問所で教育を受けることが義務とされ、(授業料は安かった)、読み書きや計算の他にも金や士族の募集次第で様々な教育を受けることが出来た。士族階級の大商人は職人に対する報酬を引き下げるために、職人の講習所を作った。このため、職人も町人階級が圧倒的に多数派だった。農民が職人になるには職人に弟子入りするしかなかったからだ(村の士族の許可が必要だった。しかも、職人も商品を直接、売ることが出来る町人を優遇する傾向があった。職人や絵師などは農村部で商品を直接、販売できなかった。また、農民が職人になっても営業の自由はなく、士族階級や町人階級の商人に仕えるしかなかった)。幕府軍や藩軍に志願することも期待されていたので、禅宗を基本にした道徳の教育も行われていた。時代を経るにしたがって、学問所での教育の内容は追加されていく。
対して、農民は教育を受ける機会が殆どなかった。一応、僧などが高札などの内容を読めるように文字や数字を教育したが、それだけだった。幕府や藩が農民に期待しているのは、農産物(特に、米)を生産することだけだったからだ。農民は農村に縛り付けられているために、商品の価値がわからない場合も多かったので、許可証を持った商人から騙されることも多かった。このため、農民は士族に頼らざるを得ず、町人との間に深い溝が形成された。町人も農民に対して有利な立場なので必然的に優越感を懐き、農民の反感もあって農民を差別した。こうして、幕府や藩は都市と農村を分離して武士と士族の優位を確立した。実際、農村部での一揆に町や都市の町人が同調したこともなかったし、逆もなかった。こうした状況は産業革命まで変化がなかった。こうして、幕府は身分秩序の安定と商業重視を両立させる社会的仕組みを確立させた。
幕府は前記の様に、身分制度を安定させつつ、対外政策を展開していく。主要な政策は次の通り。
第一に、水軍の取り込みと倭寇の帰化。1597年4月1日に幕府は水軍衆に幕府への服属を命令した。水軍衆は九鬼氏の指揮下に幕府海軍として統合された。警護料の徴集は幕府の許可でのみ可能とされ、幕府の貿易統制に協力をさせられた。その代り、幕府は幕府海軍に属した水軍衆に船舶および武器弾薬の提供と資金の融資を行い、海外貿易に参入させた。
この時、多数の倭寇を雇い、日本に帰化させている。彼らから航海技術、沿岸に関する情報(岩礁、暗礁、島、港、航路、風、潮流など)を得ることが出来た。倭寇と言っても主体は中国人で日本人の比率は最大に見積もっても約二割だった。この頃の明は海禁政策を緩和していたが、倭寇達は明に戻ることもできないので日本に帰化した。このために、明帝国と日本帝国の外交関係は悪化したが幕府は特に気にしていなかった。明帝国の側に、大規模な貿易を行う意思がなかったからだ。さらに、明帝国の朝貢貿易を求める中華思想も、天下布武を基本方針とする幕府にとって癪に障ることだった。明国から軍馬を輸入する時も倭寇が全面的に協力した。このことは偏見で倭寇を日本が支援していると見做していた明帝国の疑念を決定的にした。
これにより、海禁政策が緩和されても日本帝国との貿易は厳禁された。幕府が明帝国との外交関係を悪化させても倭寇を帰化させたのは、ポルトガルに対抗するためだった。和船は外洋航海に適しておらず、日本人の船乗り達の大半も外洋航海のノウハウが欠けていた。豊富な経験を持つ倭寇は幕府にとって極めて有用だった。日本帝国は倭寇を取り込むことで、海洋進出の第一歩を踏み出すことになる。
第二に、キリスト教に対する規制の強化。ポルトガルとの秘密協定で様々な利益を保障したが、国内のキリスト教信者に対しては規制が強化された。
1597年4月20日に長崎の教会領の手前で幕府軍と九州の諸藩軍の10万が集結して大規模な軍事演習が行われた。同時に、イエズス会と交渉が行われ、教会領は幕府に買収された。同年5月1日には、日本人宣教師全員の拘束命令が発令された。これにより、各地で活動していた日本人宣教師は次々に拘束されて投獄された。日本人宣教師達の容疑は、寺や神社の破壊を扇動したというものだった。日本人宣教師を育成することを厳禁する命令がイエズス会に下されている。同時に、幕府から大友や有馬などのキリシタン大名に過去の寺や神社の破壊に関して賠償が命じられた。応じなければ、幕府が討伐するとの警告付きだった。
同年6月1日に、信仰自由令が発令された。これにより、大名は家臣および領民に対して信仰を強制することが厳禁された(武士や士族が下の身分に強制するのも禁止)。キリスト教だけを対象にした法令ではなかったが、幕府の役人がキリシタン大名の家臣や領民の家を巡回して改宗の意思を確認し、幕府発行の保障書を発給していることから狙いは明白だった。幕府軍は同時期に各地で諸藩軍と共同して軍事演習を行っている。
ただし、幕府によるキリスト教に対する圧力強化の中でもキリスト教の布教は許可されていた。外国人宣教師の活動は監視が付いたことを除けば、何の制限もなかった。神社や寺の破壊を示唆した場合には投獄されて国外追放されたが、それだけだった。幕府は天下布武の基本方針としてキリスト教に圧力を加えたが、危険度は寺社勢力と大差ないと判断していた。さらに、ポルトガルはスペインに併合されており、日本帝国に遠征する能力に欠けていると判断した。寧ろ、ポルトガル人は厚遇して味方に引き入れた方が良いと判断していたことによる。
第三に、ポルトガル人商人達とイエズス会との離間策。幕府はイエズス会とポルトガル人商人達を離間させるべく、ポルトガル人商人達に朱印状を発行した。この時、幕府との協定に従うことを主な条件とし、イエズス会の意向に左右されないことも条件とした。ポルトガル人商人達がイエズス会の意向を無視することは宗教心と報復の懸念からして難しかったが、ポルトガル人商人がイエズス会の意向を無視する根拠の一つになった。
1597年5月にはイエズス会に貿易への介入を禁止する命令が出され、イエズス会は誓約書を提出させられている。幕府の対外諜報機関である対外事務局はポルトガル人商人達に働きかけて、イエズス会の意向を無視させた。多額の賄賂がポルトガル人商人やマカオなどのポルトガル政府の役人に渡されている。ポルトガル人商人達も自由に商売がしたかったし、イエズス会の斡旋が幕府に疎まれているとの認識が広がるとイエズス会は次第に無視されていった。
前述のように、織田氏は幕府成立の前からポルトガルを厚遇していたのでポルトガル人達も幕府を信用していた。ポルトガルからの軍事技術の導入は幕府の軍事力強化に役立っていたのでポルトガルは厚遇されていた。ポルトガル船は幕府海軍に警護料を支払う義務を免除されていた。当時は、日本船(諸藩の軍艦や公用船を除く)も海軍に警護料を支払う義務を負っていたので異例の厚遇だった(ただし、日本人を対象としているかどうかに限らず奴隷貿易は厳禁していた。ポルトガル船が奴隷を積んでいた場合、解放させている。解放を拒むポルトガル船には朱印状を取り消し、命令に従わなければ拿捕した。日本船が奴隷貿易を行っていた場合、船長は死刑、船員も最高10年の強制労働などの厳罰を課している)。また、幕府海軍にはポルトガル船に対する援護が命令されていた(ポルトガル側も援護の義務を負っている)。
実際、東南アジアの各港ではポルトガル人商人と幕府海軍の将兵が協力していた。幕府海軍はポルトガル船を護衛することも多かったし、ポルトガル人商人は幕府海軍の水軍衆の貿易を手助けしている。スペイン政府との関係で表面上は只の傭兵契約だったが、実質的に日本帝国とポルトガル人は同盟していた。幕府がポルトガルを厚遇していたのは、ポルトガルが相対的に弱い立場にあったからだ。幕府は対外事務局からの情報により、ポルトガルがスペインに併合されて弱い立場にあることやポルトガルはヨーロッパの中で小国であることを把握していた。このため、戦国時代の日本国内の外交と同じ手法でポルトガルを味方につけることにした。
従来は、織田信長が外来文化に好意的だったのに対して、秩序の確立を重視する織田信忠はキリスト教に圧力をかける立場に転じたとされていた。しかし、実は幕府の対外政策は全て信長の指示だった。信忠は国内政策が忙しく、対外政策に関しては前述の様に信長に委任していた。ただ、表面上は「信長が良い警官、信忠が悪い警官」として振る舞っていただけだった(国内政策では逆に振る舞っていた)。信長はポルトガル人を信用していたし、イエズス会の宣教師達にも好感を持っていた。
だが、信長は不用心ではなく、ポルトガル人を戦国大名と同じだと判断していた。対外事務局の情報収集で信長は世界全般が戦国乱世だと正確に認識していた。このため、ポルトガルを「外国人の徳川氏」として位置付けた。つまり、アジアにおける日本帝国とポルトガルの外交関係を嘗ての織田氏と徳川氏の関係とすることにした。このため、信用はしても盲信はしなかった。日本人宣教師を全て投獄したのもポルトガルに野心を起こさせないための予防措置だった。外国人宣教師なら容易に監視できるからだ。
一方で、信長も信忠もポルトガルが侵略を繰り返してきたことは全く気にしていなかった。信長は1596年に、キリスト教に大弾圧を加える様に進言する秀吉との会談で次の様に語っている。秀吉「弾正忠様、キリシタンを厳禁すべきです。日本の信徒は南蛮人の侵略を手引きする恐れがあります」。信長「ポルトガルが侵略を繰り返してきたのは完全に承知している。キリシタンが侵略の一助になることが多かったのもな。しかし、それが、どうかしたのか?」。秀吉「は?」。
信長「世界の国は互いに争い、侵略を繰り返すのが普通だ。だいたい、隣の中国がそうだろう。明王朝に限らず、中国の歴代王朝が多くの国を侵略し領土を拡大させてきたことを知らんのか?世界は今も戦国乱世だ。ポルトガルも普通の国に過ぎんのだ。さらに、キリスト教国同士でも戦は普通だ。過剰に恐れる必要はない。
さらに、キリシタンの教祖であるローマ教皇とヨーロッパの国王達は対立することも多いそうだ。フランス国の王は教皇を幽閉したこともあるし、教皇に戦を仕掛けたこともある。他の王も対決したことがあるようだ。必ずしも教団の利益と国王の利益が一致するわけではない。それでもヨーロッパの国王の多くはキリシタンを信仰している。根拠もなく、日本人のキリシタン門徒が謀反を起こすと決めつけるな。どんな神を信じていようと、謀反を起こす者は謀反を起こすのだ。日本人のキリシタンが全体で謀反を起こすようなら、その時に征伐するまでだ」。
秀吉「しかし、天下の秩序が乱れる芽は事前に摘み取っていた方が」。
信長「くどい!織田幕府の基本方針は天下布武だ。戦を怖れては幕府など無用の長物だ。心配だけで人を処罰する方が人心を不安に陥れ、秩序を乱す。それに、日本帝国内にキリシタン信者がいた方が好都合なこともある。幕府軍がキリシタンの国の領地を攻め取る時に、同じキリシタンの方が相手を調略しやすい。前も言ったが、天下泰平も戦国乱世も幕府の目的ではない。
幕府の目的は、日本帝国の繁栄と発展だ。そのために、戦が有益なら戦をし、平和が有益なら平和を選ぶ。それが外交だ。まあ、平和が得な場合が多いがな。国を閉じる方法もあるが、帝国の発展にとって有益ではない。まあ、お前達にとっては好都合なことだろう。国を閉じれば、貿易を統制する中央政府である幕府の力は相対的に弱まるからな。幕府は諸藩の総意を無視できなくなる。しかし、それは期待するな」。
秀吉「そ、その様なこと、考えたこともありません!この羽柴秀吉、織田家に限りない忠節を尽くしてきました!その御言葉は心外にございます!」。
信長「喧しい!声が上ずっているぞ。大体、貴様は、朝鮮を攻めろだの、朝貢を各国に要求しろだの、中国の真似事が過ぎるぞ。外交の方法は国によって異なる。貴様の言うとおりにしていたら、それこそ全ての国と戦だ。外交は天下統一の時と、基本は同じだ。貴様が心配する必要はない。貴様は自藩のことを心配しろ!」。
秀吉「はて、何のことでしょうか!」。
信長「秀次のことだ。知らないとでも思っていたのか!念のため、言っておくが、幕府が無法を見逃すことはない。藩の内々のことには干渉しないのが基本だが、心配だけで粛清することは秩序を乱す。それに、貴様は心配で秀次の回りも一挙に殺すつもりだろう。弱い犬ほど、よく吠えるとは貴様のためにある言葉だ!さっさと戻って、問題を穏便に解決しろ!秀次などは幕府の方で身柄を引き取る」。
秀吉「そのような騒動、起こっているとは思えませんが念のために戻ります。本日は、我が疑念を晴らしていただき、ありがとうございました。それでは、これにて」。
以上の会話から明らかなように、信長はキリスト教を信用もしていなければ過剰に恐れてもいなかった。信忠も同様であり、信長の措置を全て追認している。各藩に宛てた内密の命令書でも「キリシタンの日本人門徒の忠誠心は、他の宗教の者と同じだ。過剰に恐れず、普通に警戒すれば良い。いずれ、キリシタンの国を攻める時に、キリシタンの日本人門徒は役に立つ。織田幕府の基本は天下布武である。外国が攻めてくれば、責任を持って幕府が撃退する。噂や心配などではなく、事実で判断せよ。約束しておくが、いずれ、スペインを攻める。その時のキリシタン門徒達の振る舞いを見れば、結果は明らかになる。全ての藩は事実で判断せよ。取り越し苦労で狼狽する者には大名の資格はない」と指示している。
こうした信長や信忠の自信は海外情勢を把握していたことによる。幕府の対外諜報機関である対外事務局はポルトガル人や中国人から情報を収集し、分析して信長などに渡していた。この対外事務局は信長がポルトガルから軍事技術を導入するにあたって創設した。ポルトガル人に全面的に依存していては危険だと信長が判断したことによる。
初期は兵器に関する情報収集、明国からの軍馬密輸を主任務としていたが、それに加えて政治情報や軍事情報の収集(当然、スパイによる情報が主。他に、海外から帰国した日本人から各国の情報を聴取していた)、外国人の手紙や外国人と日本人との手紙などの暗号解読、海外での秘密工作(暗殺も含む)、日本人のキリスト教徒の監視(後に、他の宗教の監視も追加される)、国内および国外で日本に出入りする外国人の監視、出入国する日本人の国内および国外での一貫した監視を行う諜報機関となった。
表向きの任務は、通訳の養成、外国書籍の翻訳、外交文書の作成と検査、日本人商人と外国人商人の間の契約文書の作成、商人などに対する外国情報の提供だった。こちらも諜報機関による公開情報の収集という側面が強い。
対外事務局が急速に増強され、成果を挙げたのは倭寇の力によるところが大きかった。倭寇のネットワークと情報が対外事務局によって活用された。初期の対外事務局は、マカオ、台湾、フィリピン、中国本土に情報網を確立しており、この後もネットワークを広げていく。対外事務局の工作員は倭寇の指導により中国語ができた上に、習慣も熟知していたので日本人だと思われなかった。これは、ポルトガル人に接近する際に大きな利点となった。対外事務局により、外国の情勢が自国の観点からも把握できたので外国人の話の真偽も判断し易くなった。また、ポルトガルの書籍の翻訳が進んだことで国際情勢が幕府全般に認識されるようになった。さらに、対外事務局の工作で多くのポルトガル人が幕府に取り込まれたし、前述の様にポルトガルとの事実上の同盟関係が形成された。対外事務局の働きにより、幕府は冷静に対外政策を行うことが出来た。
ポルトガルとの外交関係は良好であり、日本の貿易船も東南アジア各地に進出していった。このため、スペインも日本帝国に接近した。しかし、幕府の返事は拒絶だった。
1593年に、スペインのフィリピン総督の使節が来日したが拒絶された。
1595年にも別のスペイン使節が来日したが、上陸を拒否された。国書は受理されたが、その日の内に拒絶の返事が通知された。同時に、潜入していたフランシスコ会の神父達が一斉に逮捕された(既に、フランシスコ会は活動が禁止されていた)。フランシスコ会の神父達は額に焼き鏝をされた上に、両腕と両足に刺青をされた。その上で、各地で晒し者にされた後に、マカオに追放された。そして、1596年のサンフェリペ号事件で決定的に日本帝国とスペイン王国は決裂した。
サンフェリペ号は幕府海軍に拿捕されて乗員達は逮捕された。船と積荷は没収された。ドミニコ会とアウグスティノ会の神父達もフランシスコ会の神父達と同様の虐待をされた後で、乗員達と共に各地で晒し者にされた後(乗員達は晒し者にされただけ)、同じくマカオに追放された。ドミニコ会の会員が異端審問官に多く在籍していたのが対外事務局に探知され、アウグスティノ会も同類と見做されたためだ。両方とも日本の習慣に配慮せず、仏教や神道にも攻撃的だった。さらに、幕府の信仰自由令を無視する様に信者達に呼びかけていたことも幕府の逆鱗に触れた。
同時期に、イエズス会のスペイン人神父達も国外追放されたが、こちらは他と違った。イエズス会のスペイン人神父達は穏便に国外追放された。スペイン人達はポルトガル人だけが日本で貿易でき、イエズス会のポルトガル人宣教師は活動できるのでポルトガル人に疑念を深めた。イエズス会のスペイン人宣教師は国外追放されただけで扱いも丁重だったのだから尚更だった。このため、イエズス会が異端ではないかとの告発が相次いでイエズス会が苦境に陥っている。また、異端審問官がゴアやマカオに派遣されたので、ポルトガル人とスペイン人の間で武力衝突が発生しかけた。
しかし、スペインのフィリピン総督府が一連の事件は日本帝国政府による「見え透いた謀略」だとして事態を穏便に収拾した。その通りで、対外事務局は文書を捏造し、各所にばら撒いていた。さらに、対外事務局は日本人のキリスト教信者をスパイとして抱え込んでおり、潜入していた工作員(こちらも本物のキリスト教信者)とともにイエズス会と他の修道会を対立させた。中国人、スペイン人、ポルトガル人もスパイとして雇われていた。対外事務局の工作員は中国語で雇われスパイ達と話していたので、日本帝国の工作員だと気付く者は殆どいなかった。武力衝突こそ発生しなかったものの、ポルトガル人とスペイン人の間に深い亀裂が走ったことを信長は喜んだ。
信長曰く、「南蛮人達が争うのは結構なことだ。奴らが仲よくすることは我が国に危険が及ぶことを意味する。国家を指導する者は他国同士が対立しあうのを喜ばなければならない。国家にとって最高の状態とは、自国が平和で、脅威となる国や勢力が殺し合っていることだ」。こうして、日本帝国とスペイン王国は戦争寸前になったが、結局、冷戦状態で落ち着いた。スペイン王国は、日本帝国に対して距離がありすぎたこと、フィリピンなどの兵力が不足していたこと、ヨーロッパでスペインは複数の戦争を遂行していたことが要因となって全面戦争を断念した。日本帝国は、スペインのガレオン船に対抗できる軍艦を建造する技術がなかったので全面戦争を断念した。しかし、両国の商船の武力衝突は時折、発生した。この状態は1600年まで変化がなかった。
幕府が敢えてスペインと対立したのは、当時のスペインが強国であったためだ。このため、幕府はスペインと友好関係が生じれば、国内の大名とスペインが結託すると懸念して強硬策を採った。さらに、スペインが前記の戦略的困難を抱えていることも把握していた。そして、対外的な緊張を意図的に作り出して幕府の体制を引き締める狙いもあった。織田幕府は天下布武を基本方針としており、天下泰平の空気が定着すると幕府の体制が弱体化することを懸念していた。幕府は諸藩を信用しておらず、本質的には戦国大名だと認識していた。このため、幕府に仕える幕臣と士族に、尚武の気迫を維持させるためにも鎖国を選択せず、積極的な対外政策を採った。こうして、「日本を制圧できる能力を持つ大国とは同盟せず、日本を制圧できる能力を持たない中小国と同盟する」との幕府の対外政策の基本方針が確立した。通常は、大国と同盟を結ぶのが得策だ。
しかし、当時は帆船の時代であり、日本帝国はヨーロッパから充分に離れていた。その上、ヨーロッパは戦争が頻発しており、どの国も北東アジアに主力を向ける余裕はなかった。そうなると、ヨーロッパの大国に対抗するには、アジアに進出してきているヨーロッパの中小国と同盟してヨーロッパの大国の進出を防いだ方が得策ということになる。幕府は東南アジアやインドの諸王国との同盟関係も模索したが、結局は断念した。どの国も、ヨーロッパ諸国に比べて海軍力や科学力が劣っていたからだ。幕府は国内の諸藩を警戒しなければならなかったので、ヨーロッパ諸国との同盟を選択するしかなかった。中国との同盟関係は問題外だった。海軍力や科学力がヨーロッパ諸国に比べて劣っていたし、周辺に侵略を繰り返していたからだ。さらに、中華思想を懐いていて対外政策にも反映させていたので、天下布武を基本方針とする幕府にとって同盟どころか友好も問題外だった。
しかし、幕府にとって悩ましいことに、日本帝国と接触が確立している西洋諸国はポルトガルとスペインだけで(この頃、ポルトガルはスペインに併合されていたが、幕府はポルトガルとスペインを分けて取り扱っていたので以後もポルトガルとスペインは別ける)、共に熱心なカトリック教国だった。両国とも布教と貿易はセットであり、幕府にとって好ましいことではなかった。幕府は当時のキリスト教の過激な傾向を嫌っていたし、スペインを過激な信仰心によって侵略を損得の考慮なしに行う「過激派の大国」だと認識していた。一方、ポルトガルは、利益を求めて戦争と外交を選択する「普通の国」と認識されており、幕府は比較的、信用していた。しかし、両国ともカトリック教国であり、ポルトガルもローマ教皇の意向を無視できない。しかも、この頃のポルトガルはスペイン王国に併合されていたし、幕府から厚遇されていたポルトガル人達もガレオン船の技術の提供は拒絶した。このため、幕府の海外進出政策は暫く停滞する。
こうした状況が変化するのは、1600年3月に、リーフデ号が豊後の佐志生に漂着してからだ。幕府は乗員達を安土城に連れてきて、一週間ほど休息させた後で詳しく事情聴取を行った。既に、幕府はオランダとイギリスがスペインと戦争状態にあることを把握していた。このため、乗員達は大いに歓迎された。温かい料理が出され、上等な宿に泊められた。警護は厳重でポルトガル人などの襲撃に備えていた。ウィリアム・アダムスやヤン・ヨースケンなどは戸惑いつつも輿に乗せられて安心していた。乗員達は幕府の薦めで安土城に宿泊した。そして、織田信忠と公式に謁見した。
信忠「さて、ウィリアム・アダムスとヤン・ヨースケンだったかな。無事で何よりだった。歓迎する。我が日本帝国はネーデルランド(当時のオランダの呼び名)とイングランド(当時のイギリスの呼び名)の冒険者が到達できたことは幸運だ。幕府は貴殿達に、快適に静養してもらいたい。貴殿達の要望を極力、叶えよう。そして、疲れがとれたら帰国されるが良かろう。条件としてはイングランドとネーデルランドへの国書を届けてもらうことだ。日本帝国は両国との国交と通商を望んでいる。ポルトガルのことは気にしないでくれ。カトリック教会による強引な布教と政治への干渉は日本帝国でも嫌悪されている。両国がスペインの真似事をしなければ大歓迎だ」。
信忠の言葉にアダムス達が返事をするまで時間が掛った。信忠の言葉をポルトガル語に通訳が翻訳し、筆談も使ってアダムス達が理解して返事するまで時間が掛ったからだ。信忠は気にすることもなく友好的に接した。
アダムス「信忠様、私達を保護していただいたことを感謝します。政府による厚遇には感激しています。また、ポルトガル人達の讒言を無視して私達と謁見していただけるとは思いませんでした。静養が済んだら帰国して必ず国書を我が国の政府に手渡します。イングランド及びネーデルランドと友好関係を結ぶことは日本帝国に計り知れない利益を齎すでしょう」。
ヨーステン「信忠様、私からも保護と厚遇に感謝を申し上げます。ネーデルランド及びイングランドと日本帝国の友好関係が結ばれた暁には、今日が記念される日として記録されることは確実です。決して、後悔はさせません」。
信忠「御両人とも、丁寧な挨拶をしていただいて恐縮だ。両国の良き返事を期待している。さて、私は部下達の報告で貴殿らを信用している。だから、率直に話そう。貴殿らの気にしている点を明確にしておく。まず、日本帝国は新教国であるイングランドやネーデルランドの側を好んでいる。強制的な布教を行うカトリック教国は好んでいない。特に、スペインは嫌いだ。今まではポルトガルしか来航しなかったからカトリック教会に遠慮してきた。
しかし、既に規制が始まっている。ネーデルランドとイングランドの船が日本帝国の港に寄港して貿易を行う日が楽しみだ。なお、諸君が帰る時にスペインやポルトガルに捕まる場合もある。よって、書簡に記さなかったが日本帝国の海軍が整えば、両国を援助してアジアにおけるスペインの進出を阻止することに全力を注ぐ。云わば、スペインは三国共通の敵だ。協定は正式に国交が樹立され、外交官が常駐する様になってから結ばれるが期待してくれ。しかし、一言、警告しておく。ポルトガル人達と日本国内で争ってはならない。ポルトガル人達とは長年の交友関係がある。また、ポルトガルはスペインに併合されており、利害が異なる。ネーデルランドとイングランドを優先するが、ポルトガルを敵とすることはしない」。
アダムスとヨーステンは顔を見合わせ、返事に困った。スペインを敵視し、カトリック教会に反感を懐いている信忠の姿勢は両者にとって喜ばしいことだった。しかし、同時に信忠がポルトガルとの争いを明確に禁じたことは意外だった。
両者は相談し、暫く返事について話し合った。アダムスが返答した。アダムス「信忠様、我々は国の代表ではありません。従って、政府を代表した返事はできません。よって、両国の目的を説明します。イングランドもネーデルランドも目的は通商です。両国は布教を外国で行うことは有りません。よって、宗教上の争いは起きません。御存知かもしれませんが、ポルトガルは貿易船に宣教師を乗せている場合が多く、各地で布教を行います。そして、通商の利益と引き換えに地元の権力者達を取り込んで他の宗教を排斥して地元民の強制改宗も行います。
多分、日本帝国でも行っているのでしょう。だから、信忠様を始めとする日本帝国政府はカトリックを敵視していると推測します。以上の事から、イングランドとネーデルランドの両国との国交と通商が確立されたらポルトガルと断行してポルトガル人は日本帝国から追放すべきです。そうすれば、日本帝国内における宗教問題も解消されます。ポルトガルやスペインの報復を心配する必要はありません。イングランドとネーデルランドが日本帝国との通商を維持し、大砲などの兵器も入手できます。ポルトガルが日本帝国内に拠点を確保していないということは日本帝国の軍事力は強い筈です。スペインやポルトガルを恐れることはありません」。
信忠「日本帝国はスペインやポルトガルを恐れることはない。だから、イングランドやネーデルランドとの関係を重視している。しかし、一応の用心だ。イングランドやネーデルランドの政府が日本帝国に野心を懐いた場合のな」。
アダムスとヒュースケンは驚愕して顔を見合わせた。両者は信忠への返事を相談した。今度はヒュースケンが返事をした。ヒュースケン「信忠様、イングランドやネーデルランドが日本帝国に対して野心を懐くことはありません。両国の目的は通商と、中国などへの中継地としての寄港地です。御存知でしょうが、両国は日本帝国から余りにも遠いのです。心配する必要はありません」。
信忠「それは違うな。技術の進歩は困難を克服する。現に、そちらの西暦でいうと15世紀にはポルトガル人が東洋まで来るなど誰も想像できなかった。そして、ポルトガル人に続いて貴殿らが来た。両国の政府が野心を懐かないと誰が思う。
しかし、日本帝国が両国を敵視することはないので安心してくれ。どの国も力が有れば、野心を懐くのは当然だ。しかし、両国と日本帝国が争うのは明らかに損だ。また、重要なのは契約を厳守することだ。日本帝国は、この点において極めて信用できることを両国の政府に伝えてほしい。さて、政治の話は是までとしよう。貴殿らの冒険談や航海術などについて、是非とも拝聴したい」。これで国書に関する話は終わった。
話題は、アダムス達の体験談、航海術や貿易、天文学などの科学、ヨーロッパの情勢や文化、各地域(アメリカ大陸、アフリカ、東南アジア)の文化や情勢に移った。アダムスやヒュースケンは信忠が予想以上に海外の情勢を知り、質問が的確であることに驚いた。同時に、信忠が率直であり自分達に好意的であることにも気付いた。「最初の警戒心は当然の用心に過ぎなかった。信忠公は率直かつ誠実であり、信用できる。対立することが損であることが明白な人物だ」とアダムスは後に、赴任してきたイギリス領事に対して語っている。こうして、日本帝国、イギリス、オランダの関係が始まった。日本帝国が海外に進出していく上で極めて重要な出来事だった。
ポルトガル人達と親しい信長は会見しなかったとされていたが、実は偽の身分と偽名で(蒲生隆信という偽名で蒲生氏の家老ということにしていた)、船員達を聴取していたのは信長だった。信長は乗員達を大いに気にいった。信長は信忠に、オランダおよびイギリスとの友好関係を深めて最終的には同盟締結を目指すべきだとの提言を行っている。信忠は信長の提言を採用した。このため、ウィリアム・アダムスを海軍顧問として採用した。アダムスやヤン・ヨーステンなどは幕府海軍の乗員の訓練を行った。既に、幕府海軍は拿捕したサンフェリペ号を参考にしてコピー船を建造していた他、買収したポルトガル人の船員から航海術の指導を受けていた。しかし、ポルトガル人の警戒心は強まっており、優秀なポルトガル人船員を雇うことが出来ず、西洋船の運用は難航していた。
そこに、リーフデ号の乗員達が現れたので幕府の喜びは大きかった。アダムスらは高給で幕府に雇われて、幕府海軍の水兵の訓練を始めた。3年に亘って幕府海軍の水兵を訓練した後、1603年4月2日にサンフェリペ号(漂着時にリーフデ号の艦長だったヤコブ・クワッケルナックが艦長)とリーフデ号(ヤン・ヨーステンが艦長)に分乗して船員16名が帰国の途に就いた。ポルトガル船による襲撃を警戒して、夜間、秘かに出港していった。アダムスを始めとする5名は幕府から慰留されて日本に残り、幕府海軍の訓練を継続した。サンフェリペ号とリーフデ号には幕府海軍の水兵が船員達の部下として乗っていた(両船に100名ずつ)。クワッケルナックとヨーステンにはオランダとイギリスへの国書が渡されていた。両船とも無事にオランダ商人達が進出していたパタニに到着した。なお、リーフデ号は幕府が買い取っており、船員一行の帰国費用と共にリーフデ号の代金が両名に支払われている。クワッケルナックとヨーステンは2隻のオランダの商船に乗り換えて帰国した。
途中、マラッカ海峡を通り抜けるまで幕府海軍の軍艦5隻(サンフェリペ号、リーフデ号の他にジャンク船3隻)が護衛した。幕府海軍の将兵は両船と別れる時、盛んにイングランドとネーデルランドの国旗を振って(襲撃を警戒して礼砲が撃てなかった)敬意を表した。オランダの両船も旗を振りかえした。クワッケルナックの船もヨーステンの船も1605年、無事に帰国できた。両名ともオランダに帰国する前に、イギリスに寄って幕府からの国書をイギリス政府に提出している。当時は船が難破することは珍しくなかったので幕府は二重に国書を送った。オランダ政府も国書を両名から受け取った。オランダ政府とイギリス政府には、国書と併せて対外事務局が中心に作成した「極東戦略記」も提出されている。
極東戦略記は、中国や東南アジアなどの戦略的情報(海岸、岩礁、暗礁、航路、風、潮流、海賊、現地政府や現地勢力の動向など)、ポルトガルとスペインに関する情報(日本国内でのイエズス会に関する情報も含む)、日本の政治体制と一般的情勢、日本語のポルトガル語訳を主に記載していた。もちろん、日本帝国の安全を脅かさない様に日本帝国の情報は大部分が曖昧にされていた。もう一つ、注目すべきなのはポルトガルにも配慮されていたことだ。当時、対外事務局はマカオに諜報網を確立しており、防衛態勢などを正確に把握していた。
ところが、極東戦略記にはマカオのことが曖昧にしか記述されていない。また、ポルトガル船の寄港地や中国沿岸での活動なども曖昧にしか記述されてない。対外事務局の報告書では、これらの情報が正確に把握されている。オランダとイギリスは日本帝国がスペインに敵対的であることを認識した。このため、アジア進出のために日本帝国との接触を深めていくことになる。1607年5月17日、ヨーステンがオランダ政府の使節を案内して日本に再来日した。交渉は安土城内で行われた。オランダ政府の代表はヨーロッパの最新情勢を説明してポルトガル人の日本追放を提案したが幕府は拒否した。幕府の代表である小西行長は信忠などの意向通りにオランダとの通商、軍事上の協力を取り纏めたがポルトガル人との関係を維持する姿勢を鮮明にした。
1607年6月1日、オランダ政府の使節と幕府との交渉で、日蘭和親条約が締結された。内容は、オランダにポルトガルと同じ特権を認めるのが趣旨だった。また、相互に大使館、公使館、領事館の設置を認めることも決められた。条約調印後に、アダムスは帰国を希望した。しかし、幕府はアダムスを強く慰留し、武士の身分と領地まで与えた。ヨーステンは駐日公使として滞在を続け、1609年に設置された堺のオランダ公使館に着任した。結局、アダムスが帰国できたのは1613年にイギリス公使館が堺に設置された時だった。アダムスが帰国する時は、幕府海軍の儀仗兵部隊が堺の港まで同行した。幕府海軍の将官達が並び、船に乗り込む前にアダムスとリーフデ号の元乗員達4人と握手を交わした。幕府海軍の総司令官であった九鬼守隆はアダムスと固い握手を交わした。九鬼守隆とアダムスは出港の時刻まで税関で話をした。
九鬼「アダムス殿、これまでの御指導、深く感謝します。貴方を始めとするリーフデ号乗員達が日本帝国に到達したことは、神の恩寵です。カトリックに遠慮することなく、海外政策を展開することが出来るようになりました。これで日本帝国はカトリックによる脅威から免れて貿易を行うことが出来ます。貴方方は日本帝国と幕府にとって恩人です。そして、イングランド王国とネーデルランド共和国において貴方方は功労者として記憶され、感謝されることは確実です。何故なら、日本帝国は両国と経済と軍事の両面で連携を深めていくことになるからです。両国にも多大な利益が齎されることは確実です。両国でもリーフデ号が日本帝国に到達したことは神の恩寵として記憶されることでしょう」。
アダムス「九鬼閣下、私達も深く日本帝国と織田幕府に感謝します。日本帝国とイングランドおよびネーデルランドが条約を結び、友好関係を樹立したことは閣下の言われるとおり、神の恩寵です。両国と日本帝国の友好によってアジア地域におけるカトリックの脅威は取り除かれ、三国は通商によって大いに栄える事でしょう」。
九鬼「アダムス殿、これからイングランドやネーデルランドの貿易船が来航し、東南アジアやインドに進出が進むでしょう。そして、両国とも徐々に征服を進めていくことでしょう。しかし、日本帝国と争うことは不利であることを忘れないようにしておくべきです。貴方は大丈夫ですが、他の人々は忘れるかもしれません。政府レベルでの理解を進めるのは勿論ですが、民間での理解も重要です。貴国やネーデルランドは遠くにあり、政府以外は感心も薄くて極東に関する知識もない。こうした場合、利害が対立すると本国の政府以外の人間達は強硬策を主張しがちです。距離が遠ければ、双方に悪意がなくても誤解に拠る対立が生じます。用心しなければなりません。
貴方は帰国したら、是非とも日本帝国での体験を人々に詳しく話すべきです。また、時間があれば本も書くべきです。資料が必要なら何時でもロンドンに設置される公使館を御尋ね下さい。無償で協力する様に指示してあります。貴方は貴重な証言者であり、人々は興味を持って話を聞く筈です。我が国を美化する必要はありません。貴方自身の体験を率直に広めてくだされば良いのです。そうすることが結局は日本帝国、イングランド王国、ネーデルランド共和国の三国の利益になるのです。日本帝国との友好の度合いが深まる程、イングランド王国やネーデルランド共和国がアジアで通商や征服を行う上で有利になります。逆に、日本帝国と敵対すればアジアから追い出され、ヨーロッパでの地位も脅かされます。貴方が相互理解を深めるために活動することはイングランド王国と国王の利益になるのです。御忘れなく」。
アダムス「九鬼閣下、了解しました。私もイングランド、日本帝国、ネーデルランドとの友好が両国の利益になると確信しています。帰国したら、御提案のように三国の理解に努めます。ところで日本帝国がアジアに進出するイングランドやネーデルランドに要求することはなんでしょうか?」。
九鬼「両国がアジアを支配することに異存はありません。しかし、日本帝国も協力の度合いに応じて利権を認めることです。また、自由貿易を三国の間では当然の原則とすべきです。つまり、三国でアジアを共通の利益ブロックとして確保することです。傭兵部隊、武器弾薬などの兵站支援を考えれば、両国のアジア進出にも日本帝国との友好は不可欠です。この点を政府以外の人々にも強調してください。繰り返しますが、貴国のためにもなることです」。
アダムス「九鬼閣下、全く御同感です。日本帝国と友好関係が確立されるように力を尽くします。イングランド王国の国王と臣民は日本帝国との友好を重視するでしょう。ネーデルランド共和国も同様でしょう。織田幕府でもイングランド王国とネーデルランド共和国との友好利益になることを説いてください。相互のために」。
九鬼「アダムス殿、もちろんです。三国の友好こそが三国の利益となります。日本帝国に置いても忘れることはありません。国同士の関係ですから、友好の時もあれば対立の時もあるでしょう。しかし、三国の友好こそが三国の利益であることを忘れない努力を怠らなければ大丈夫です。それと、国同士の関係が変化したとしても織田幕府が貴方方に寄せる感謝は変わりません。貴方方が祖国に置いても幸せな人生を歩まれることを期待します。困ったことがあれば、我が国の公使館に御相談ください。できるかぎりのことをしましょう」。
アダムス「九鬼閣下、有難うございます。光栄です。私も母国で、出来る限りのことをします。どうか、信忠様を始めとする幕閣の皆様にも感謝を御伝え下さい。そして、イングランド王国、日本帝国、ネーデルランド共和国は友好を深めていき、共に繁栄していくとも。日本帝国と織田幕府に神の祝福が有らんことを」。
九鬼「イングランド王国と貴方々にも神の祝福があるでしょう。三国が友好を後悔することは決してないでしょう」。
ここまで話していたところで、ヨーステンとクワッケルナックが入ってきた。クワッケルナックは政府の代表として日本帝国との東南アジアでの協定の詳細を詰めるために来日した。予定よりも遅れていたので領事のヨーステンは捜索の船を出していた。両者ともアダムスを見送るのは無理かと思われていたが、間に合った。三人は他の4人と共に再会を喜んだ。九鬼守隆がワインを持ってこさせ、乾杯の音頭をとった。
九鬼「イングランド王国、ネーデルランド共和国、日本帝国の三国の友好と繁栄を神に祈って!そして、リーフデ号が日本帝国に到達したことを神に感謝して乾杯!」。一同は乾杯して今までの体験を語り合った。時間が大幅に過ぎても幕府海軍の将官達は誰も帰らなかった。それだけ、リーフデ号が到達してイギリスやオランダと関係が構築されたのが嬉しかったのだった。夕方になったので流石に出港することになった。幕府海軍の儀仗兵部隊が音楽を奏でる中、アダムスは船に向かっていった。アダムスと別れる前に、九鬼守隆を始めとする幕府海軍の将官達は固い握手を交わした。アダムスは出港時に砲台から礼砲が撃たれた。
アダムスは「幕府海軍の父」と称えられ、兵庫湊(現在の神戸港。幕府海軍の母港)に銅像が建てられた。別に、リーフデ号の乗員達21名とリーフデ号を表すプレートが名古屋城内に作られている。同様のプレートが今でも両国の大使館にある。リーフデ号の乗員達には幕府から生涯、年金が支給された。また、葬式の費用も幕府が払っている。アダムスは帰国すると、家族の元に戻った。その後は、日本帝国の外交官達と共同で日本帝国などの宣伝を行い、イギリス東インド会社の幹部も務めた。ヨーステンは日本に長く駐在し、後に大使に昇進した。ヨーステンの活動に拠りオランダは日本帝国との強固な関係を確立した。アダムスとヨーステンは日本帝国、イギリス、オランダの関係の橋渡しをし、永く続く関係の基礎を作った。その後も、幕府海軍はオランダ人顧問とイギリス人顧問の指導の下で強化されていった。
他に、ポルトガル人も幕府海軍の強化に貢献している。ポルトガル人達は幕府がオランダやイギリスとの関係を熱心に強化し、イギリス人のアダムスらが幕府海軍の訓練に協力しているのを見て積極的な協力姿勢に転じた。幕府が両国の協力に応じて関係を強化し、厚遇しているのが明白になったからだ。自分達が何もしなければ、イギリスやオランダの側に日本帝国が完全に付くのは明白だった。ポルトガル人達の貢献も大きかった。幕府海軍の国産ガレオン船の初期型はポルトガル船の改良型だったし、国産の艦載砲も同様だった。このため、幕府はポルトガルとの極東における事実上の同盟関係を継続していく。
しかし、当時、ポルトガルはスペインに併合されていたので、この事は秘匿された。このため、一般にはポルトガル人の貢献は知られていなかった。現在も、殆ど解明されていない。幕府はスペイン政府に察知されない様に、10年毎に必要のない機密書類を整理して破棄している。マカオのポルトガル当局も同様の措置を行っており、ポルトガル人達の幕府海軍に対する貢献の詳細は不明のままだ。
織田信長はオランダやイギリスとの関係強化を推進したが、ポルトガルとの関係を断つつもりは毛頭なかった。このため、イエズス会の活動は承認され続け、ポルトガル人宣教師も幕府や藩が許可した地域なら活動できた。ただし、教会を新設することや日本人宣教師の育成などは禁止され、寺社に比べれば規制は強化された。
しかし、キリスト教は保護されており、幕府は1607年6月2日に「キリシタン規定令」を発令して、規制強化と併せて諸藩にキリスト教の弾圧を厳禁している。キリスト教徒の幕臣達も出世に何の影響もなかった。備前藩主の高山右近は信忠の側近であり、不釣り合いな程、影響力があった(宇喜多氏は国替えされて備後と備中を領有する備後藩の当主)。幕府がポルトガルとの友好関係を維持したのは、信長が新教国であるオランダやイギリスのみに対外関係を依存する事は危険だと判断していたことによる。信長はオランダやイギリスを好んだが、オランダやイギリスについても「普通の国(利益を求めて外交と戦争を選択する国)」だと認識していた。イギリスとオランダは同じ新教国であり、共にスペインと敵対していた。両国が同盟する可能性が高いと当時は判断されていたので、ポルトガルとの関係を断つことは日本帝国が両国の同盟によって東南アジアから排除される可能性を高めると判断された。このため、日本帝国とポルトガルの友好関係に変化はなく、イギリスやオランダが働きかけても無駄だった。幕府は以後も、新教国とも旧公国とも「普通の国」なら友好関係を築いていった。
オランダやイギリスとの接触が確立したことにより、ポルトガルからの技術導入も進んだので日本帝国が一方に依存する構図は解消された。幕府内には植民地獲得に向けて動き出すべきだとの意見もあったが、信長も信忠も却下した。未だに幕府海軍はヨーロッパの海軍と比べれば弱体だったし、オランダもイギリスもアジアに進出し始めたばかりだった。さらに、イギリスもオランダも「普通の国」であり、利害が異なれば戦争を選んでくる可能性もあった。だが、信忠が植民地獲得に乗り出さなかったのは諸藩を「平和を楽しんでいる戦国大名」と認識していたことによる。幕府の統治も安定し、海外貿易の進展、都市と交通網の整備などによって経済も活性化していた。
農村部でも士族達が新田開発を活発化させていた。こちらは士族の資金と出資を募る方式で進められていた。出資を募る方式はオランダやイギリスの海外貿易の方式を日本の士族達が参考にして始めた。対外事務局の業務が思わぬ形で役に立った。まず、幕府領の士族達が出資を募って新田開発を始めた。農村部の税率の改定は10年毎にしか行われないし、財産権は基本的に保障されていた。このことが民間の投資による新田開発を活発化させることになった。町人階級の商人達も士族による新田開発に投資して大いに儲けることになる。平和による社会の安定、都市の発展、貨幣経済の進展、人口増加が食糧需要を生み出し、農業は成長産業になった。
そして、農村部の供給を需要で満たすには都市の発展が必要であり、幕府の商業重視の政策と相乗効果を発揮した。民間の資金が新田開発に流れ込んだのは、幕府や諸藩が都市部や港湾などの商業部門に資金を注ぎ込んでおり、商業部門の資金需要が小さかったことによる。幕府や諸藩の公共事業は経済効果と採算性を重視しており、現在の公共事業のイメージと違い、経済発展に寄与していた(現在の公共事業はケインズ政策の考え方に基づいており、所得再分配と失業者救済による景気の下支えが主たる目的になっているので応急処置にしかならない)。
幕府や諸藩の公共事業は、税金を支払ってくれる商人達に対する融資だった。そして、士族の商人達や町人階級の商人達が儲かると、藩や幕府は税率を上げて税収を増やした。この政策により、バブルが抑制されることにもなった。つまり、過剰な需要が税によって抑制された。この当時は幕府や諸藩も効果を意識していたわけではない。都市部と農村部に置いて適切に資金が投資され、それが意図された結果でないことは後の研究者にとって驚くべきことで「神の見えざる手」の好例と高く評価されることになる。
この経済発展は大いに幕府への信用を高めたが、信長や信忠を始めとする幕閣の多くは秘かに複雑な気持ちを懐いていた。経済発展は大いに結構だが、経済発展によって諸藩の力も強まるからだ。このため、商業や海外貿易を統制して幕府と有力商人達によって利益を寡占してしまい、幕府の力を諸藩よりも相対的に上回った状態にしておくとの計画が狂ってしまったからだ。この幕府の懸念は後世から見ると異様だが、戦国時代が終わったばかりであることを考慮する必要がある。幕府にとって第一の脅威は諸藩だった。戦国時代の記憶が生々しい幕府は諸藩の下剋上を最も警戒していた。それに、日本国内から戦国時代の空気が払拭されていなかった。浪人は多かったし、刀狩も終わっていなかった。このため、羽柴秀吉は盛んに対外戦争を主張した。不満を外に向けようというわけだ。逆に、国内の安定だけを重視して鎖国と封建制度の徹底強化を主張する意見もあった。しかし、幕府は天下布武を基本方針としていたので、どちらの意見も採用しなかった。
幕府は戦乱を怖れておらず、諸藩との戦争も覚悟していた。織田幕府は鎌倉幕府や室町幕府が敗れたのは平和を楽しみすぎて体制が弛緩し、守護大名などの意思に逆らえなくなった結果だと確信していた。幕府の力が衰えれば守護大名などは裏切るのが常であり、同じ過ちを繰り返す気はなかった。それに、ヨーロッパの王国が戦争と平和を選択しながら発展してきた歴史を知り、それが政権の活力と効率性を維持する秘訣だと確信していた。このため、天下布武の基本方針に変化があるはずもなかった。
そのため、諸藩による統治が最良だと判断しつつも(信忠曰く、「中国は秦によって統一される前までは世界の頂点だった。易姓革命が続くことからも分るように統治するには大きすぎるのだ。統一されなければヨーロッパの様に発展していただろう」)、諸藩の力に依存することは絶対に避けなければならなかった。
逆に、諸藩で反乱や一揆が起こると積極的に幕府軍を出動させている。諸藩に幕府の武威を誇示する意味合いもあったが、諸藩の秩序を維持することが国全体の発展と安定に繋がり、幕府のためにもなると確信しての行動だった。このため、諸藩は幕府軍に依存するする傾向が時代を下るにつれて強まってくる。しかし、そうなると予見できる人間はいなかったし、いたとしても信じる人間は稀だった。このため、幕府は経済発展を喜びつつも一層の軍備充実、組織の効率性の追求に努めていく。信忠は自分が征夷大将軍に在位している間は海外征服を許さなかった。しかし、計画はしており、対外事務局や陸軍局、海軍局を中心に作戦計画を作成させている。
幕府が統治を安定させ、経済が発展してくると各藩は平和を楽しむようになった。もっとも、海外貿易を幕府が統制していたことは癪に障っていたが。こうした藩が多かったが、唯一、苦労していたのが北海道藩だった。北海道藩の上杉氏は幕府から信用されておらず、苦労していた。
1596年、幕府はアイヌの権利を認める「アイヌ規定令」を発令した。この中で、アイヌの族長などを武士とし、他を士族、町人、農民と規定した。注目すべきなのは、下民階級がアイヌにいないとしていることだ。アイヌが本土で貿易する権利も保障された。幕府はアイヌの権利を守ることで上杉氏を牽制した。上杉氏はアイヌを搾取することもできず、本土からの入植者からの不満にも晒されて統治に四苦八苦していた。このため、1600年には幕府の直轄領にしてくれと幕府に嘆願している。幕府は要請を受け入れたが、他の藩が心配することを怖れて最悪でも20年後には支藩を復活させることを確約して公示した。これ以後、幕府は北方経営を本格化させた。幕府は北海道以北に関して興味はなく、仕方なく統治を始めた。しかし、調査を重ねると、水産資源、毛皮、木材などの資源が豊富であることが判明した。
このため、本格的な北方経営のために、1605年、山丹総合会社が創設された。山丹総合会社はオランダやイギリスの東インド会社をモデルにして創設され、北海道以北の開発権と貿易の全権を幕府から委任されていた。ヨーロッパなどに毛皮製品を売り込むのも山丹総合会社に独占されていた。この状態は上杉氏の元で北海道藩が誕生すると、変化したが大部分の権益は山丹総合会社が保持している。山丹総合会社は幕府が最大の株主だった(51%の株式を所有)が、幕府は議決権だけを保持した。配当の利益は幕府発行の国債の担保とされ、一定額を上回れば国債保有者に還元された。
山丹総合会社は傭兵部隊(アイヌ兵も多い)も保有しており、事実上、支藩の扱いを受けていた。山丹総合会社はアイヌを有効に利用した。山丹貿易を拡大する形で事業を始めた。テンなどの毛皮、鷲の羽、昆布、鮭、木材が初期の主力商品だった。特に、木材と毛皮の利益は大きかった。木材は海外貿易の拡大に伴う造船に不可欠だったし、毛皮はヨーロッパにも輸出されるようになった。このため、山丹総合会社は北方に進出していく。その際、アイヌの水先案内人やアイヌ兵が役に立った。アイヌは貴重な情報(風、潮流、霧、島、航路、暴風の時期など)を熟知しており、現地の部族との人脈もあった。アイヌに助けられて、山丹総合会社は樺太や千島列島に一連の砦を築いた。
この段階では、侵略的傾向は少なかった。武力衝突もあったが、現地部族には地代が支払われており、山丹総合会社は基本的に現地部族との協定を尊重している。また、入植を原則として禁止していた。入植を行えば、現地部族との武力衝突は不可避だと認識していたことによる。戦争になれば、軍事経費が増大して結局は会社の損になると、初代社長の福富秀家(福富直正の従弟。詳しい経歴は不明)が判断していたことによる。
それに、日本人は基本的に寒冷地への適応力が低く(米嗜好が強すぎたことが最大の要因)、原住民を人数で圧倒することが難しかった。こうしたことも山丹総合会社がアイヌを大事にし、進出した部族との協定を基本的には尊重したことの要因だった。こうした傾向は北海道藩が誕生してからも変化はなかった。山丹総合会社は上杉氏の重臣数名を役員に迎え入れたが、彼らも会社の方針を納得した。また、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社の軍事経費がかさんでおり、必ずしも経営が効率的ではないとの情報が対外事務局から寄せられていたことも影響していた。山丹総合会社は原住民との協定を保ち続け、武力で圧倒できるようになってからも姿勢は大きく変化しなかった。時とともに、日本側に有利なように協定が変更されても原受民には対価が支払われている。
強引な征服を強要したのは北海道藩だった。ただ、北海道藩も山丹総合会社の協力が不可欠だったし、入植者の適応力の低さで山丹総合会社の方針に合わせている。北海道は、当時の米の生産に適しておらず、米を本土から輸入していた。小麦とジャガイモを栽培させ、米の生産を禁止する法令を北海道藩は後に発令した。本土から輸入する米も配給制にする法令と併せて、主食をジャガイモとパンにして植民地化を円滑にしようとした。しかし、闇市が横行しただけだったので断念した。こうして、山丹総合会社の北方開発は結果として効率性の高い開発となった。
軍事経費がオランダやイギリスの植民地会社と比べて低く、その分、開発に予算を投入できたからだ。ただし、労働力の確保には苦労し(初期の山丹総合会社は原住民を原則として雇用しなかった)、ヨーロッパ人も多数が雇われている(初期はロシア人も多数が雇用)。山丹総合会社は日本帝国が北方に進出する上で一番の功労者になった。山丹総合会社は原住民と無用の対立を避けて効率的に日本帝国の領土を広げた。アイヌは会社内で大事に扱われたし、原住民についても扱いは丁重だった。アイヌや原受民を差別しない様に、会社の社員は徹底的に教育および監督されていた。また、不法行為をした入植者や社員は裁判を経て処罰されている。会社の傭兵部隊内で、アイヌ兵の指揮下に日本兵が置かれるのは珍しくなかった。もっとも差別がなかったわけではない。
アイヌは一定以上の階級に昇進することはできなかった。それに、原住民を尊重しても結局は日本帝国の利益が優先された。毛皮取引や漁業では原住民側から購入する方法が採られていたが(原住民側は山丹総合会社にしか売れなかったが)、天然資源開発は山丹総合会社が全面的に掌握した。鉱山開発や森林伐採が本格化して原受民側が地代の値上げを請求しても山丹総合会社は応じようとしなかった。応じても充分ではなかった。
日本帝国の武力が原住民側を圧倒できるようになると、原住民は征服された。しかし、山丹総合会社の原住民を尊重する姿勢は維持され、地代は支払われ続けた。また、不法行為をした入植者や社員、兵士などは裁判を経て処罰されることは変わりなかった。こうした山丹総合会社の姿勢は入植者達には不満で暴動が発生した程だった。
しかし、山丹総合会社と幕府は無用の衝突を避けることが結局は得になるとの判断により、原住民尊重の方針を維持した。これは正しく、山丹総合会社は他国の植民地会社と比べて業績が良かった。幕府の支出した補助金も他国の出費に比べれば小さかった(会社は後に全額を返済した)。征服に要した期間も他国に比べて短くかった上に日本人の犠牲者も少なく、幕府にとって山丹総合会社の方針を採用したのは大正解だった。幕府は東南アジア情勢にも対応しなければならなかったし、諸藩の軍を動員したくなかった。諸藩の軍を動員すれば、諸藩に恩賞を与えなければなかったからだ。ヨーロッパ諸国の例を見ても植民地には維持費用がかかるし、諸藩に海外の領土を与えれば幕府が貿易を統制できなくなる。
このため、幕府は幕府軍と諸藩からの志願兵で編成された補助軍(諸藩の藩軍や士族軍に所属している武士や士族が藩の許可を得て従軍)で海外派兵を行っていた。幕府は山丹総合会社が賢明に征服を行ったおかげで幕府軍を他方面に使用することが出来た。また、山丹総合会社は幕府軍にも多大な影響を与えた。幕府軍は山丹総合会社の戦訓を自軍に活かした。例えば、山丹総合会社は、社員の主食を乾パンとジャガイモにしている。寒冷地に適した食事ということで採用した。米は残すと残飯になってしまうし、炊くのに大量の水を使う。それに、保存が難しい。その点、乾パンなら焼けば携行でき、保存も効く。前線で使う水も節約できる。しかし、主食を変更するというのは将兵に抵抗感が大きかった。このため、幕府軍も切り替えができていなかった。山丹総合会社は北方開発に当たって、日本人が北海道にすら進出が進んでいなかったことを考慮して変更を断行した。
同時に、ソーセージ、ハム、チーズなども導入している。これは同社の北方進出が円滑に進んだ要因の一つだった(寒冷地では水の確保が意外に難しい。雪を溶かす手もあるが、火を起こすのに燃料が必要で大人数になると大変な損失だった)。幕府軍は山丹総合会社の成功を見て主食を同社と同じにした。同社の実例を見て幕府軍の将官達は漸く納得した。一旦、定着すると利点は大きかった。軍隊にとって水や燃料の確保と食糧の保存は頭の痛い問題であり、主食を切り替えたことは幕府軍の兵站をかなり楽にした。もっとも、兵士には大不評であり、慣れるまでは米の持ち込みが後を絶たなかった。徹底的に常備軍化を進め、軍事行動が普通である幕府軍だからこそ実現できたことで諸藩の藩軍は実現できなかった。
山丹総合会社は主食の切り替えに当たって面白い方法を行っている。乾パンとジャガイモを主食とした西洋式のメニューを山丹総合会社、幕府軍、藩軍、他の勅許会社以外の要員が食べることを禁止する法令を幕府に発令してもらった(特別手当も支給)。特別手当(少額)が支給される「特別食」だということで、他者に対して優越感を味あわせて抵抗感を薄めようとした。この作戦は成功した。食事に抵抗感を感じていた士族や町人は山丹総合会社に詰めかけるようになった。幕府軍の兵士達も不満を言わなくなった。次に、寒冷地でのサバイバル方法。靴は、直接、足に寒さが伝わらない様にサイズを大きくして隙間には藁などを詰めるようにした。他に、濡れた衣服や靴下などは交換して凍傷を防ぐことなどを幕府軍の教練本に反映させている。冬期戦用の軍服なども山丹総合会社の物が幕府軍に採用されている。こうして、山丹総合会社は幕府の事実上の支藩として幕府の対外政策に多大な貢献を果たすことになる。
織田信長は終始、対外政策を主導した。途中からは信忠に権限を譲ろうとしたが、信忠の要請で対外政策と朝廷対策を主導し続けた。信忠は国内政策に忙しく(この頃の幕府にとって第一の脅威は諸藩だった)、負担軽減のために信長に権限を委ねていた。流石に信長も1603年には政務が辛くなっており、信忠に全面的に権限を委譲した(信長は70歳だったが、信忠は信長に対外政策を主導し続けてもらいたがっていた)。信長は1603年から完全に隠居した。
信長はルイス・フロイスやヨーステンなどの外国人と会い、西洋の歴史、地理、天文学などを学んだり、和訳書や辞書を作らせながら晩年を過ごした。信長は1609年6月17日に76歳で亡くなった。信長は臨終の床に信忠を呼んだ。
信長「お前は予想以上に良き征夷大将軍となった。これで儂も安心して死ねる。後は油断さえ、しなければ大丈夫だ」。
信忠「父上、何を仰いますか!私の業績は父上の業績があってこそです。幸運なことに私は家臣に恵まれました」。
信長「謙遜しおって。ところで、日本帝国の領土の範囲を何処までとする?」。
信忠「台湾の半分と北方地域までは広げる積りです。しかし、領土の広さではなく利益を目的とします。イギリス、オランダとは協調し、無用な対立は避けます。また、諸大名には国土防衛以外は頼りません。諸大名を当てにすることは幕府の破滅を意味します。いずれにしろ、日本帝国と幕府の利益と安全を保持できるラインまでを確保するのが目標になります」。
信長「素晴らしい。安心した。少し、眠らせてくれ」。信長は其れから程なくして息を引き取った。信忠は諸藩を警戒して厳戒態勢をとらせた。
しかし、幕府の統治は安定しており、諸藩も平和を楽しんでいた。7月1日の葬式も無事に終わった。信長が死去しても幕府の政策に大きな変化はなかった。既に、信長は国内政策、対外政策の両方で信忠に権限を譲っており、幕臣達も慣れていたからだ。信忠は対外政策の変更をすることも検討したが、結局は変更しなかった。当時、スペインの力が衰えており、フィリピン征服が検討された。
しかし、維持費用が多額になるのと、兵力不足により断念された。幕府は幕府軍と補助軍しか対外戦争に使用しない方針だったからだ。幕府は諸藩軍を出兵させれば、恩賞を出さなければならない。しかし、植民地が黒字になるまでは時間が掛るし、領土を諸藩に恩賞として与えれば幕府の海外貿易の統制体制が崩壊する。諸藩が外国と組む恐れもあると、当時の幕閣は懸念していた。物価が上昇して悪性インフレが発生することも予想され(出兵のための食糧などの買い占めによる)、勝算が五分五分で必要もない戦争を開始することは無用だったし、危険すぎた。
しかし、幕府は仮想敵国の筆頭であるスペインをアジアから排除することが不可欠だと判断していた。スペインが衰退し続けるかは誰にもわからなかったし、幕府は東南アジアの市場からライバルであるスペインを排除したかった。更に、幕府はスペインの非妥協的な態度からスペインを「普通の国(利益によって戦争と平和を選択する国と定義されていた。妥協可能であり、状況が良ければ同盟を目指すことを幕府の基本方針としていた。ポルトガル、オランダ、イギリスが、このカテゴリーに分類されている)」ではなく、「過激派の大国(戦争と平和を選択するにあたって利益を度外視する大国と定義されていた。当時のヨーロッパにおける非妥協的な態度や植民地での徹底した強制改宗からスペインは、このカテゴリーに分類された)」と断定されていた。このため、スペインの排除は「いつ、行うか」の問題だった。
しかし、幕府海軍は創設されて年月が短くスペイン海軍(フィリピン方面は手薄)に勝利できる公算は低かった。スペイン海軍はアマルダの海戦の後、概ねイギリス海軍に勝利している。幕府は敵意を隠しつつ、軍事力の向上に努めていく。一方、スペインは日本帝国の敵意を察知しつつもヨーロッパ方面での対応が忙しかったので対応は後回しになっていた。それに、日本帝国の表面的な態度はイギリスなどと比べれば、妥協的だった。日本国内のカトリックの日本人信者は迫害を基本的には受けなかったし(前述の様に規制を受けたが幕府から保護されていた。フランシスコ会やドミニコ会の日本人信者も迫害されていない)、イエズス会のポルトガル人宣教師は日本国内で活動していた。
幕閣にはカトリックの信者も多く、備前藩主の高山右近の様にカトリックの大名もいた。このため、スペインは日本帝国を攻撃しなかった。幕府はスペインとの冷戦状態が悪化しない様に配慮しつつ(1609年、幕府とスペインのフィリピン総督府は不可侵条約を締結)、オランダ及びイギリスとの関係を深めていく。
特に、スペインと全面戦争を繰り広げつつ屈服しないオランダに対する幕府の評価は高かった。1610年から幕府陸軍はオランダ陸軍の教練本を採用した。高給でオランダの軍事顧問団が幕府の陸海軍に雇われている(海軍にはイギリス人とポルトガル人も多く雇われていた)。幕府陸軍はオランダ陸軍の教練の採用と軍事顧問の指導で、諸藩軍に明白な差をつけた。隊形の変更が迅速になり、歩兵、砲兵、騎兵の連携も格段に向上した。特に大きかったのが首取りの原則的禁止と、野戦における砲兵隊の活用法だ。繰り返される訓練が軍隊に連帯意識を与え、統一的な行動が可能になった。これにより、首取りによる隊形の乱れなどが少なくなった。さらに、当時の幕府陸軍は野戦砲を攻城戦でしか運用できなかったが、オランダ陸軍の教練本とオランダ人の軍事顧問(及びオランダ陸軍での経験があるイギリス人、ユグノーのフランス人、ドイツ人)の指導で野戦でも砲兵隊が活用できるようになった。幕府陸軍はオランダ陸軍を手本にしたが(階級制度もオランダ陸軍の制度を採用)、完全コピーはしなかった。
まず、ヨーロッパの様に密集した隊形だけでなく、小単位でも動けるように訓練されていた。槍兵部隊、騎兵部隊、火縄銃兵部隊は平原だけでなく、田畑や森林でも対応できた。火縄銃兵も反転行進射撃法は採用せず、火縄銃兵の射撃も分隊長の指示による各個射撃が基本だった(一斉射撃は原則的に対騎兵用)。これはヨーロッパと違って平原が少ない日本や東南アジアでは、小単位での戦闘が多いのと騎兵の脅威度が低いためだ。日本の火縄銃は点火方式が瞬発式で命中率が良く(ヨーロッパの火縄銃は緩発式)、各個射撃に向いていた。部隊の運用方法も確立されており(ただし、依然と比べて火縄銃兵の密集度は高くなった。また、下士官の号令があってから4秒で発砲すると規定された)、小単位での戦闘で騎兵の脅威度が低ければ命中率を重視した方が良いと幕府陸軍の将官達は判断した。
ただし、火縄銃は新型に更新されていく。国友1612型(口径は18・5ミリ。銃床は肩付け式で、点火方式は瞬発方式。暴発防止用の安全装置も装備。槊杖は鉄製)で、頬付け式の従来型の日本製火縄銃よりも反動を肩に吸収できるので命中率が良くなり、有効射程も伸びた(反動が強烈だと、全身の筋肉が過度に緊張して銃口がブレるフリンチングが発生する)。
同口径の日本製火縄銃だと、フリンチングの発生が避けられず兵士の訓練が難しかった(このため、専ら足軽組頭以上の兵士が使用した)。幕府軍の火縄銃兵部隊は国友1612型の採用により、諸藩軍の火縄銃兵部隊よりも有利になった。火縄銃兵部隊の全員が同じ有効射程で射撃できるようになったからだ。ヨーロッパの火縄銃の利点(肩付け式の銃床で反動が吸収し易い、暴発の危険性が少ない)と日本製火縄銃の利点(命中率が良い)を併せた国友1612型は幕府軍兵士の評判も良かった。
次に、騎兵について。オランダ陸軍の騎兵部隊はカービン銃やピストルによる騎射が基本だった。しかし、幕府軍は騎兵に火器を装備させず、従来の運用方法を堅持した。日本や東南アジアでは騎兵が単独で戦闘しても有効な地形は少ない。それなら、火力支援は火縄銃兵と砲兵に任せて騎兵は白兵戦に徹した方が良いと幕府軍の将官達は判断した。このように、幕府陸軍の将官達は戦国時代の実戦経験で得た戦訓とオランダ陸軍の組織力を融合させて高い戦闘能力を実現した。
幕府陸軍の兵科で最も優遇されていた兵科は砲兵隊、工兵隊、歩兵部隊、騎兵部隊の順だった。特に、砲兵隊は攻城戦の時も対壕や陣地の建設作業などを免除されていた。是は当時の戦争では攻囲戦が主流だったからだ。例えば、幕府陸軍が手本としたマウリッツは大規模な野戦を行ったのは2回(どちらも勝利)に対し、攻囲戦は29回だった。日本の戦国時代でも攻城戦が主体だった。このため、幕府陸軍に置いて攻城戦の決め手となる砲兵隊は優遇された。また、当時の砲兵隊は重たい大砲、砲弾、装薬などを馬と人で運び、未発達の道具で複雑な弾道計算をして砲撃しなければならなかった。このため、余計な疲労を蓄積させるわけにはいかなかった。幕府陸軍砲兵隊は期待に応えて攻囲線だけでなく野戦でも幕府陸軍の勝利に大きく貢献した。
なお、当時の大砲の主力はカノン砲だ。他に、臼砲が攻囲線専用で使われていた。カノン砲は直線的な弾道で砲弾を打ち出す大砲だ。使用されていた砲弾は鉄弾とキャニスター弾(鉛玉を詰めた散弾。有効射程は約100m。幕府陸軍砲兵隊は約50mで使用)だった。カノン砲では榴弾を撃つことはできない。鉄弾は爆発しないが密集隊形の敵部隊に撃ち込めば10人~15人を薙ぎ倒すこともあった。当時のヨーロッパの戦列は8~12列なので充分に脅威だった。日本を含めた他の地域でも戦列は密集隊形だったので充分な脅威だった。幕府陸軍砲兵隊は演習とオランダ人などの軍事顧問達の助言で跳弾射撃を行うようになった。跳弾射撃とは砲弾を地面でバウンドさせて敵部隊に撃ち込む砲撃方法だ。この砲撃方法は多くの敵兵を薙ぎ倒せるので有効だった。他国に先駆けており、幕府陸軍砲兵隊は野戦でも極めて有効だった。
次に臼砲も有効に活用された。臼砲はヨーロッパ諸国と同じ使われ方だった。臼砲は山なりの弾道で砲弾を撃ち込むことができた。このため、敵の城壁の中の建物を攻撃することが出来た。更に、榴弾も撃つことが出来た。しかし、臼砲は命中率が低い上に、初速が遅くて着弾に時間が掛り敵に避けられた。このため、攻囲線専用だった。そして、榴弾も導火線式なので敵に消されることも多かった。このため、幕府陸軍砲兵隊は焼玉(熱した鉄弾。装薬が引火しない様に鉄弾の下に粘土を詰める。ヨーロッパでも一般的。攻城戦ではカノン砲も使用)を撃ち込んで建物に火災を発生させ、敵の対処を困難にしてから榴弾を撃ちこんだ。他に補助的な手段としてロケット発射機も使用していた。しかし、基本的にロケット花火と同じ構造で命中率が極端に低かった。このため、放火専用だった。しかし、広範囲に大量のロケットが着弾して火を点けるので敵は対処が難しかった。このため、幕府陸軍は森や敵城内の木造建造物などを焼くのに重宝していた。なお、ロケット発射機は幕府の技術者と明国の技術者の合作だった。こうした各種火砲を使いこなすのは当時、各国の軍隊にとって難問だった。
幕府陸軍砲兵隊は野戦で大砲を使いこなすためと攻囲線を効率的に進めるために多くの砲撃演習を行って弾道データーを集積した。このための費用は大変な負担であり、幕府がイギリスやオランダの東インド会社に部隊や将兵達を派遣する一因にもなった程だった。外国に加えて諸藩も脅威だった幕府だからこそ負担をする気になった。しかし、投資の甲斐は有り幕府陸軍砲兵隊は世界最高クラスの戦闘能力を発揮した。他の兵科も同様で幕府陸軍は幕府の方針である天下布武を体現する存在となった。
一方、幕府海軍は外洋での戦闘経験が少ないのでオランダ海軍の方式を全面的に模倣した。ただし、火攻めをオランダ海軍よりも重視しており、バリスタを後に導入して焼夷弾付きの太矢を発射するようになる。こうして、幕府陸海軍の能力は大きく向上した。対して、日本帝国内の諸藩は幕府のように軍事力の向上を続けようとはしなかった。諸藩に幕府から動員令が出されることは稀で、自然に軍事組織が弛緩していた。また、軍事改革には当然ながら多額の費用と習慣の変更(首取りの原則的な禁止や主食の変更は将兵の拒否感が強かった)が必要で平時に断行するのを多くの藩は躊躇った。このため、諸藩は軍事改革を部分的に行っただけだった。この頃から、幕府と諸藩の軍事力に明白な差が出始めた。このことは、諸藩を第一の脅威と考える幕府にとって好都合だった。幕府は諸藩を特に指導もせず、諸藩の軍事力が外国に離されていく状態を放置している。
信忠は1626年3月1日に、60歳で家督を織田信久(幼名は三法師)に譲った。信長が自身に家督を譲ったのと比べて遅かったが、信忠が信久の力量を危惧したからだ。2月15日に、安土城の天守閣の執務室に信忠は黒田官兵衛と蒲生氏郷を呼び出した。
信忠「信久は愚か者ではない。しかし、自身の力量不足に気づいていないし、力量不足を認める謙虚さがない。儂も父より力量は劣っていたが、力量不足を自覚できていた。それゆえに、父とは違う方法で政治を行えた。皆の意見を全て聞き、最後は自分だけで決断した。信久の場合、それができない。自身の力量がわからなければ、どの意見を採用すべきかがわからない。そもそも、信久は謙虚さがないから自身の力量を勘違いしている。信久を征夷大将軍にしたら、自信過剰で隋の煬帝の様に国を滅ぼすか、現実の前に自信を喪失して操り人形になるだろう。どちらも幕府にとって命取りだ。我が子を悪く言いたくはないが、幕府は日本帝国に属する者を守護する責務がある。信久にとっても征夷大将軍になることは不幸でしかない」。蒲生氏郷や黒田官兵衛は困惑した。
蒲生「上様、確かに信久様は頼りになりません。しかし、信久様を後継者としないことの弊害は大きすぎます。織田幕府の征夷大将軍は事実上の国家元首です。長子相続の慣習に従って継承していった方が長期的な政権の安定に繋がります。官僚は実力主義であるべきです。しかし、元首は安定的に継承することで後継者争いを回避することの利益が大きいのです」。
信忠「黒田の意見は?」。
黒田「上様、蒲生様の言われるとおりです。長男が愚か者、無法者、謀反人などの致命的な欠陥がない限りは長子相続とすべきです。もちろん、後継者の任命権は征夷大将軍が保持するのは当然です。そこで提案があります。長男以外に家督と征夷大将軍職を相続させる時は幕府支藩の藩主と幕閣の七割の同意を得るのを条件とすべきです。こうすれば、長子相続の原則も揺るがず、征夷大将軍の後継者任命権も確保されます。支藩の藩主と幕閣の七割に反対されるような人物なら任命されなくても文句をいう者は少数派でしょう」。信忠「すると、二人は信久で良いというわけか?」。
蒲生と黒田「「はい」」。
信忠「では、後継者が征夷大将軍としての能力が中の下であっても大丈夫な仕組みが必要だ。二人とも案を出せ」。
蒲生「上様、そこまで心配しなくても良いのでは。しかし、意思決定の効率化は不可欠です。信久様の後が心配です。4代目になれば、名家としての驕りが生じることは避けられません。自然と体制の気が緩み、腐敗と官僚主義も生じます。そこで提案があります。幕府の最高意思決定機関として征夷大将軍を長とする内閣制度を創設すべきです。内閣は征夷大将軍、幕府支藩の藩主、幕閣で構成されるべきです。こうすれば、幕府内の意見を集約し、精査することができます。征夷大将軍が誤った決断をしても自ずと修正されます。また、幕府内の意見や情報が閣議で討論されれば最終的に良き決断ができる可能性が高まります。更に、征夷大将軍は幕閣の人事権を保持しているので征夷大将軍の権限は充分です。如何でしょうか?」。
信忠「流石は蒲生だ。それで、黒田、付け加えることはないか?」。
黒田「蒲生様の方策に加えて、省庁制度と罪刑法定主義を導入すべきです。現在の幕府の体制は天下統一前の体制を引き継いだうえに、必要に応じて様々な機構を付け加えて極めて複雑になっています。このままでは内閣制度を導入しても機能不全になります。このため、根本的に再編成を行い、省庁を基本とした体制に改めるべきです。また、各省庁の仕事の統括は征夷大将軍、支藩の藩主、幕閣だけでは無理です。内閣府を設置し、内閣の補佐に当たらせるべきです。
それに加えて、罪刑法定主義を導入して裁判官の裁量権を狭めておくべきです。勿論、慣習法を基本とすべきです。しかし、明らかに不合理な悪習があるのも事実です。補完的に成文法も導入していくべきです。織田幕府は絶対的な権力を手にしました。こうした体制では有る程度、手段を規制しておかなければなりません。このための補完手段として成文法も必要です」。
信忠「頷ける部分もある。しかし、是までも勝手気ままに裁判が行われていたわけではないぞ。何でも法律で変えられるとなると、合法的なら何でもありとなってします可能性もあるぞ。司法権を行政権から分離しただけで充分ではないか」。
黒田「上様、道具も法も使い方次第です。あくまでも慣習法を補う手段としての成文法です。例えば、家臣が主君に諫言します。家臣の意見が正しい場合でも主君は処罰できます。特に、周りを守旧派で固められていれば尚更です。逆に、家臣の意見が明らかに誤っていても周りの家臣達の多数派が賛成なら主君は誤った決定を下します。このような悪習が確立している以上は成文法も必要です。しかし、補完としてです。
信忠様の御懸念は尤もです。あくまで慣習法を基本とすることを明確にしておくべきです。現在の我々も未来の人間から見れば愚か者に見えるでしょう。イングランド王国やネーデルランド共和国でも慣習法は重視されています。特に、イングランド王国の慣習法は参考になるでしょう。私の法律に関する提案も両国から来た雇われ外国人や両国の本を参考にし、部下達とも検討した上での案です。本格的な検討が必要ですが、織田幕府は是までの政府と違うのですから違う方法も必要になります」。
信忠「黒田も流石だな。幕府に蒲生氏郷と黒田官兵衛が属していることは幕府が最強であることの重要な要因だ」。その後、三人は細部について話し合った。
二人の提案を受けて、信忠は家督を譲る前に幕府の制度を根本的に改革した。後に、1626年の改革と呼ばれた。主要なことは次の通り。第一に、内閣法の制定。征夷大将軍が法律を制定する際に閣議で閣僚と支藩の藩主の過半数の賛成を得なければ、法律として有効にならないと規定した。また、征夷大将軍の命令の多くも同様とされた。
第二に、省庁制度。幕府の機構を省と庁に再編した。概ね、現在の省庁制度に近いが、対外事務局(現在の対外特務省。対外諜報機関)などの様に実際の機能を偽装するために外見上は格下の扱いを受けている政府部署もあった。
第三に、罪刑法定主義の成文化。基本法に「慣習を補完する法律としての罪刑法定主義」を明記した。これまでも勝手気ままに処罰が行われていたわけではない。しかし、慣習が中心なので裁定者の裁量の余地が大きすぎた。このため、補完として罪刑法定主義が導入された。ただし、あくまで「慣習を補完する法律」としてだ。例えば、征夷大将軍などが下級の者を死刑にする場合、裁判が必須とされた。あくまで、幕府の統治方針は「慣習を基本に、不足を法律で補う」だった。
他にも、様々な機構の改編や法律の細かい改正を行っている。信忠の「1626年の改革」は近代的だが、改革の主因は信久が頼りなかったことによる。長子相続を基本とする以上、長男に致命的な欠点がない限りは征夷大将軍の地位が継承される。必ずしも、長男が優秀とは限らない。そうなると、征夷大将軍の力量に頼ることのない統治の仕組みが必要となる。信忠は今回の改革を行うにあたり、黒田官兵衛や蒲生氏郷などだけでなく、オランダ人やイギリス人の意見を参考にした。しかし、何れは信久が記録を知ることになるので検討過程の覚書などは破棄させている。このため、信忠が改革の骨子を決めた具体的な過程はわかっていない。信忠は幅広く意見を聞いたが、最終な決断は全て一人で行っている。その上、用心深く、自身の覚書などは必要が無くなれば秘書長の太田牛一に確認させた上で破棄している。信忠は信長ほどではなかったが、基本的には独裁者だった。
しかし、1626年以後は征夷大将軍が独裁を行うことはなかった。幕府は寡頭政治に移行した。ただし、征夷大将軍は飾り物ではなかった。例えば、高級官僚の人事権は征夷大将軍が握っていたし、法案を提出できるのは征夷大将軍だけだった。他にも絶大な権限があった。とはいえ、織田信長のようなリーダーは登場しなくなった。信忠より後の征夷大将軍は特定分野だけに指導力を発揮し(幕府は天下布武を基本としていたので安全保障分野に指導力を発揮する将軍が多かった)、他の分野は大臣達に委任する場合が多かった。これは合理的な意思決定の仕組みだが(これまでの大名家の意思決定は仕組みが曖昧だった。建前上は主君の独裁だったが、実際は家臣の幅広い賛成を要した。これでは意思決定が遅くなる)、信長以来の独裁に慣れていた幕臣達は、当初、戸惑っている。
なお、信久は信忠の決定を聞いて激怒した。自分が頼りにならないと信忠に宣告されたも同然だからだ。しかも、信忠は信長に倣って外交と朝廷対策の権限は保持した(信忠は大御所に就任)。そうした中で、4月1日、征夷大将軍を正式に継承し、京都の御所で朝廷から征夷大将軍の継承を確認された。
信久は征夷大将軍に就任したが、信忠に自身が頼りにされていないと感じていた。このため、閣議を抜け出すことも多く、法案の多くも実際は大臣達が作成した。信久は、趣味の鷹狩や天文学などに興じることが多かった。信久は「どうせ、儂は飾り物だ。それに、幕府は儂なしでも機能するようになっている。父上が儂を愚物だと思っているのはわかっている。困ったことがあれば、大御所様にでも相談しろ」などと言った。このため、信久は信忠の存命中、鷹狩将軍などと揶揄された。信忠などが諫めても反発するばかりだった。
しかし、信久は愚か者ではなく、信忠の死後は信忠や信長ほどではないが指導力を発揮することになる。征夷大将軍が国内や国外の全ての問題に精通していることは不可能であり、大臣達に権限を与えて、征夷大将軍が大臣達を統率した方が合理的だった。このことを理解できた信久は順応して、信忠の死後に指導力を発揮した。幕府は合理的な政策決定の仕組みを確立し(この後も細かい変更はある)、長く、日本帝国を主導していくことになる。