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信長の生存と織田幕府の発足

1582年6月1日、明智軍は京都の手前の桂川を渡河した。武将達が足軽大将達に「馬の草鞋を切り捨てろ」、「徒歩の者は新しい草鞋や足中に履き替えろ」などと指示し、鉄砲隊には「火縄を一尺五寸に切り、その切り口に点火した物を五本ずつ火を下にして下げろ」などと指示した。足軽達や足軽大将達は「おい、どういうことだ」、「閲兵のためではないのか」などと囁き合った。


惣右衛門は通りかかった通りかかった明智秀満に「秀満様、どういうことでしょうか。閲兵にしては物々しすぎますが」と問うと、秀満は「上様にとって用済みになった人物を討ちに行く。それ以上は聞くな」と述べて馬を進めた。これにより、惣右衛門らは自分達の標的が家康だと判断した。「やはり、暗殺か。閲兵にしては変だと思っていた。夜に出発する時は翌朝に急襲するのが基本だからな」、「しかし、信長様も悪党だな。家康様が用済みになると始末するとは」、「まあ、佐久間様や伊勢長島などの例もあるから以外でもないか。これは殿も気を付けなければ危いぞ」などと囁きながら戦闘準備を整えた。




 こうして、明智光秀の軍勢は織田信長を討つために京都へ侵入した。織田信長は京都の本能寺に宿泊しており、警護の手勢は僅かだった。ただし、明智軍の大半は、「上様(織田信長)の命により、家康を討つ」と思っていた。このため、信長が酒に酔って深い眠りについていなければ(信長は下戸であるにも関わらず、前日に深酒していた)、反乱は即座に終わっていただろう。戦国時代の軍隊は基本的に傭兵集団であり、勝ち目のない戦とみれば四散してしまう。多くの敵を討ってきた信長は、当時、無敵の存在と見做されていた。このため、信長が馬廻り衆とともに現れれば明智軍の多くは逃亡した可能性が高い。ところが、信長が深い眠りについていたために事態がややこしくなった。信長の警護の馬廻り衆は完全に油断していた。誰も信長を襲うという常識外れのことを試みるとは考えていなかった。




 この時、信長の周辺には軍勢がいなかったかの様に思われているが、丹羽長秀軍が四国攻めのために待機していた。明智軍だけが京都周辺にいたわけではない。丹羽軍が攻め上がってくれば、明智光秀は文字通りの「三日天下」に終った筈だ。こうした事情では、信長が油断したのも無理はない。


しかし、明智光秀は、そのことを承知した上で本能寺を襲撃した。完全に常識外れのことであり、誰もが虚を突かれた。なお、明智光秀は家来に信長の動向を確認させ、織田信長が本能寺に宿泊することを把握していた。しかし、これ自体は不自然なことではない。秀吉の中国攻めの援軍の後続には信長自身が軍勢を引き連れていく可能性もあった。さらに、信長は以前に、羽柴秀吉が宇喜多直家を調略して味方に引き込んだ際、独断で調略を行ったために信長から手酷く叱責されている(狼煙か伝令しか連絡手段がない当時は秀吉の行為は越権行為とまではいえない)。このこともあり、信長の重臣達にとって主君の動向を把握しておくのは必須だった。このため、誰も不審に思わなかった。こうして、明智光秀の軍勢の約1万3千は、静かに京都に侵入した。京都市街に侵入すると、明智光秀は「敵は本能寺に在り!」と怒号した。明智軍の武将達は軍勢を本能寺に殺到させた。この時点でも多くの兵士達は家康を暗殺すると思っていた。




 明智軍の先手(約3千)が本能寺に殺到した。明智軍の多くの兵士達は信長と知らずに本能寺に向かっていた。明智軍の惣右衛門は先陣の部隊の一員で真っ先に本能寺に到達した。すると、門の上から矢が放たれて「謀反人共め!織田家に刃向うとは荒木の様に狂ったか!」などと罵られたことで動揺した。四方で半鐘が鳴らされ、本能寺に織田木瓜の旗が掲げられた。惣右衛門らは「おい、どういうことだ」、「徳川ではないのか」などと話し始めた。


惣右衛門は「そちらには何方が御泊まりか」と叫んだ。「ここは本能寺だ。織田信長公が御泊まりだぞ。お前達、光秀に騙されているぞ。直ちに、謀反人を討ち取れ」との返事が返ってきた。足軽大将も含めて明智軍の軍勢は互いに囁き合い、完全に攻撃が停滞した。本能寺の方からは「明智光秀を討ち取れば大名は間違いないぞ」とか「お前達は騙されたのだろう。忠義を示して手柄を上げろ」などとの声が聞こえてくる。明智軍には織田軍の与力(臨時配属の家臣)も多く、大半の家臣達も戦国大名の家臣であり心中する気はなかった。他の部隊でも状況は似たようなもので謀反は最初から頓挫する寸前までいった。




 しかし、明智軍の明智称平次と斉藤内蔵助が部隊を立て直した。二人は「騙されるな!あれは徳川だ。同盟しているから織田の旗を持っているのは当然だ」などと怒鳴り、部隊に攻撃を開始させた。鉄砲隊が隊列を整え、援護射撃を開始した。同時に弓隊が本能寺に火矢を撃ち込み始めた。銃撃と火矢で織田兵が怯み、明智軍の兵士達が梯子で内部に突入した。惣右衛門は他が槍や刀で白兵戦をしている間に門を開けた。こうして、本能寺に部隊が雪崩れ込んだ。




 突入すると、明智軍は槍を構えて織田軍と突き合いをし、その間に弓隊と鉄砲隊が展開した。鉄砲隊は塀の上から弓隊は横一列で射撃した。織田軍が射撃で崩れると、明智軍が槍を構えて突入した。織田の馬廻り衆は甲冑を身に着け、槍を装備していた。しかし、約100名だった上に、鉄砲手や弓手が数名程度だったので明智軍の鉄砲隊と弓隊に打ち負かされた。明智軍は馬廻り衆の抵抗を排除しながら本能寺を制圧していった。明智軍は戸や障子を打ち壊しながら進撃した。火を使うことは途中から禁止された。


惣右衛門は中に突入して進み、白い着物を着た女を捕えた。女は「上様は白い着物を召されている」と言った。惣右衛門は「上様とは誰の事か」と聞いた。女は「織田信長様です」と答えた。惣右衛門などは是で謀反であることを確信した。このため、惣右衛門など十数名は女を蔵介へ引き渡して戦闘を続けた。




 しかし、建物の裏手に出ると自分の隊と共に、脱走し始めた。自分の隊の同僚に「おい、逃げるのか」と問われ、惣右衛門は答えた。「ああ、近くには丹羽長秀様の軍がいる。信長様を討ち取れたとしても三日天下だ」。同僚も「そうだな」と述べ、戦闘中の部隊に紛れて脱走した。他にも謀反であることに気づいて逃亡する者が出ていた。やがて本能寺から火の手が上がった。明智軍は明智軍が火を放ったのか、単に蝋燭などが倒れて出火したのかは不明だ。その間も、明智軍の後続部隊は本能寺に急行してきた織田信忠の部隊(約1500)などを排除しながら各所に進撃していた。明智軍の鉄砲隊が道を塞ぐ様に展開して銃撃を浴びせた。塀の上からは弓隊が矢を浴びせかける。矢と鉛玉が降り注ぎ、織田軍の部隊は崩れた。明智軍の槍隊が追い打ちをかける。明智軍は軍隊としての編成が完了していたが織田軍は掻き集められた寄せ集めに近い状態だった。このため、明智軍は戦闘を有利に展開していた。




 しかし、相手が織田軍であることが明らかになってきたために動揺が広がった。惣右衛門らのように、脱走する者達が発生していた。戦線のあちらこちらで、「おい、どうする」、「逃げるに決まっているだろう」、「信長様を討ち取ったとしても各地の武将から袋叩きにされる」、「浅井と朝倉から挟まれても生き残った信長様を討ち取れるわけもない」などとの会話がされ、建物などへ突入した時などに脱走していった。信忠の妙覚寺に向かう部隊などが入り乱れており、戦闘時の混乱に紛れて戦列を抜け出すのは可能だった。なお、明智軍は当初、信忠の動向を把握していなかったようだ。明智軍は約1万3千の大軍だから信忠の場所を把握していたのなら最初から信忠が宿泊していた妙覚寺にも部隊を差し向けていたはずだが、実際は部隊を逐次投入している。後続部隊は相手が織田軍だと知ると、やはり動揺した。中には攻撃を停止して立ち尽くす部隊もあった。




 明智軍の武将達は部下達の動揺を抑えるために叫び続けた。「信長は討ち取った!勝利は我らの物だ!」、「もはや、勝たねば生き残る道はない。荒木一族や長島の一向門徒のようになりたくなければ戦え!死んでも明智様が一族などの面倒は行うぞ!」などと叫びながら部下達を纏めた。多くの者が長島のことなどもあって(どうせ、殺される)と思い、そのまま戦い続けた。信忠の軍勢などの織田軍は明智軍に押されていった。内蔵助は戦局を変えるには織田方の本陣を陥落させるしかないと考え、二条御所に向かった。「急げ、急げ!」と足軽大将に叱咤され、鉄砲隊が近衛前久の屋敷の屋根に上った。織田信忠は妙覚寺から二条御所に移って明智軍の攻撃を指揮していた。「放て」、鉄砲隊が発砲を始め、二条御所の織田軍の兵士達は動揺した。弓隊が曲射で多数の火矢を撃ち込み、梯子で多数の兵士達が雪崩れ込んだ。門も破られ、鉄砲隊や弓隊に援護された明智軍の槍隊が織田軍を圧倒していった。




 二条御所は炎上した。織田軍の将兵は総崩れになり、逃亡し始めた。二条御所が陥落すると京都の織田軍は四散した。明智光秀は二条御所が炎上するのを見届け、「取り敢えずは勝ったか」と言い、溜息をついた。それから「行くぞ、安土に向かう。信長と信忠を討ち取ったと全軍に伝えよ!」と叫び、馬廻り衆などを率いて駆け始めた。明智軍の将兵は勝利したので光秀の言葉を信じ、後続した。こうして、明智光秀の謀反は成功したかに見えた。




 しかし、織田信長も織田信忠も生きていた。明智軍の足軽大将の一人が明智軍の臨戦態勢に疑念を抱き、京都所司代の村井貞勝に密告した。京都の途中の老ノ坂(峠道)で「信長の閲兵を受けに行く」との説明を受けて多くの者は納得したが、この足軽大将は納得しなかった。(閲兵と言っても、我らは羽柴様への援軍を命じられている。信長様は何事にも性急な方だ。閲兵を行うだろうか?閲兵を行うにしても摂津あたりだろう。ひょっとすると、明智様は荒木の様に謀反を起こす気かもしれん。知らせれば、大手柄だ)と思い、亀山城の東に位置した沓掛の京都方面に向かった所で6人の部下達を個別に呼び出して各個に村井貞勝の元に向かわせた。6人は隙を見て、街道から外れて京都に向かった。




 最初、村井貞勝は相手にしなかった。近くには、丹羽長秀軍もいたからだ。「明智様が謀反を起こすわけはない。それに、明智様が謀反を起こせば、丹羽様の軍が北上してきて周辺の武将達も駆けつけるだろう。そんな事が解らん明智様ではあるまい」と述べ、「不届き者は牢屋に放り込んでおけ」と言った。知らせてきた足軽は牢屋に放り込まれた。しかし、足軽が「確かめなければ罪に問われますぞ」と叫んだ。足軽は足軽大将から言うように指示されていた。当時は流言蜚語が飛び交うのが当たり前なので容易には信じてもらえないことを承知していた。




 貞勝は一応、「確かめてこい」と述べて数騎ほどに様子を見に行かせた。暫くすると、もう一人の足軽も駆け込んできた。貞勝は「牢に放り込め」と言った。こちらも牢屋に放り込まれた。しかし、村井は不安を感じた。部下に、「堀秀正殿などに知らせておけ。事の次第を報告し、警戒を促すのだ」と述べた。部下「上様には知らせますか」。村井「いや、讒言かもしれん。事態が明白になるまで待て」。こうして、信長の馬廻り衆と同格の武将達に事態が知らされた。そして、自分の部下達を非常呼集した。




 村井「謀反の噂がある。一応、備えよ」。部下「誰が謀反を?」。村井「確かではない。近くには丹羽様の軍勢もいるしな。讒言だと思うが一応、備える」。部下達は慌てて、配下の足軽達を招集するために走り始めた。村井の部下達は騎馬で様子を見に行って桂川で軍勢を確認して仰天した。「おい、軍勢が渡河しているぞ」、「あの旗は明智様の桔梗紋だ。明智様が信じられん」と部下達は身を隠しながら驚いた。組頭「お前達2人は残って監視しろ。残りは各所に走れ」との指示で部下達は四方に走った。組頭は一人を連れて直ちに、村井の元に戻った。2人が残って監視を続けた。




 報告を受けた村井は驚愕した。村井「馬鹿な。なぜ、明智様が謀反を!?それに、近くには丹羽様の軍勢もいるぞ。何かの間違いだろう」。


部下「間違いありません。村井様、上様と信忠様に御知らせせねば。遅れれば、一大事ですぞ」。


村井「そうだな。よし、本能寺と妙覚寺に早馬を走らせろ。直ちに、本能寺へ向かう。各隊は逐次、本能寺に集まる様に伝えろ。ただし、半鐘は鳴らさず、謀反が明白でない限りは警告を先にしろ」。部下「村井様、謀反は既に明らかです。軍勢を早朝から何の報せもなしに侵入させてくるのは急襲以外ありません」。


村井「黙れ!何かの手違いかもしれん。明智様が謀反を起こしたとなると、丹羽様と共謀しなければ勝算はない。丹羽様と明智様が共謀することは考えにくい。とにかく、事態が明白になるまでは攻撃するな」。


部下「しかし、謀反なら手遅れとなります。その場合、待っていましたでは間抜けの誹りを免れませんぞ」。


村井「そうだな。よし、安土と美濃にも急使を送れ!摂津と近江の各城にもだ。摂津と近江の各将には直ちに、援兵を寄越すように要請しろ。羽柴様、柴田様などにもだ。ただし、丹羽様には報せるな!信孝様には、丹羽長秀様に注意する様に伝えろ。それから、徳川様にも忘れずにな。急げ!」。部下達は慌てて、散っていった。漸く、警報が本能寺や妙覚寺などに発せられた。それに加えて、安土や各地の武将などにも急報を発せられた。




警報が届いて、本能寺や妙覚寺などでは織田軍の兵士達や馬廻り衆が慌てて、甲冑や槍などを装備し始めた。本能寺などには明智軍を確認した村井の部下達が既に到着していた。しかし、本能寺でも妙覚寺でも警報は信じられなかった。このため、村井からの正式な警報が来るまで信忠は事態を知らなかった。信長も酔い潰れており、家臣達は報せようとしなかった。皆、村井と同じく、明智光秀の謀反を信じなかった。明智光秀と丹羽長秀が連合しない限り、謀反は成功しないからだ。信長を殺すだけなら明智光秀が刺し違えるだけで良い。政権を奪取するのが目的なら丹羽長秀との連合が不可欠だからだ。丹羽軍が北上してくれば、明智光秀は文字通りの三日天下に終わるからだ。このため、村井から正式な警報が届くと、皆が驚愕した。




 織田信忠は慌てて身支度を整えた。信忠「なぜ、起こさなかった?」。


家臣「申しあけありません。明智光秀が謀反を起こすとは信じられず」。


信忠「丹羽軍が近くにいるのに何故だ?まさか、丹羽長秀も謀反か?」。


家臣「はい、村井貞勝様も疑っています。信孝様には既に警告しています。羽柴様や柴田様などにも急使を送り、摂津や近江の諸将には援兵を求めました。お早く、お逃げ下さい」。


信忠「それよりも、父上はいかがされている」。


家臣「上様は泥酔しておられ、一先ず、二条御所に移しました。御一緒に、御早くお逃げ下さい」。信忠「いや、間違いかもしれんのだろう。儂は残って、指揮を執る」。


家臣「ええ!?とんでもありません。信忠様に万が一のことがあれば、一大事です。浅井朝倉の時も、信長様は逃げて反撃され、敵を最終的に滅ぼされました。不意を衝かれたら、逃げるのが第一です」。


信忠「いや、間違いだった場合、各地の諸将に詫びなければならない。更に、織田家の頭が二人とも噂だけで逃亡したと世間に思われる。それに、明智軍にも与力は多い。交戦すれば、謀反が瓦解する可能性かもしれん。お前達は父上を護衛して安土に向かい、その後、岐阜へ向かえ。急げ!」。


家臣「畏まりました。信忠様も速めに退却してください」。


ここまで話したところで、(ドン、ドン)と火縄銃の銃声が聞こえ、半鐘の音や怒号も聞こえ始めた。信忠は「どうやら、謀反は確かなようだな。お前達、父上を連れて指示通りに退却せよ」と述べ、本陣にしている二条御所に向かった。




 こうして、織田軍の兵士達は甲冑を装備し完全武装していたものの、部隊としての態勢を整えることができなかった。このため、明智軍の急襲を受けて織田軍は敗れた。さらに、織田信長が前日に深酒しており、すぐに起きられなかった。初期段階で信長が現れていれば、明智軍の多くの兵士は逃亡した可能性が高い。結局、信忠も退却するしかなかった。信長と信忠は別々の経路で逃走した。




 信忠は越前にいる柴田勝家に合流しようとした。これは、信長と同経路で逃げたのでは一緒に討ち取られる恐れがあったからだ。近江や若狭では京極高次や阿閉貞征らが決起したので、途中は極めて危険だった。信忠は6月7日に越前に入ったところで漸く、一息ついた。信忠は逃亡するのに精一杯で信長などと連絡を取る余裕もなかった。信忠は同行していた毛利新介に弱音を吐いた。信忠は馬から降りて座り込んだ。


 信忠「明智め、天下を取りおった」。


毛利「何を仰います。信長様も信忠様も生きておられるではありませんか。信長様は嘗て、これよりも厳しい状況を何度も乗り越えてこられました」。


信忠「確かにな。明智は天下をとることはできない。しかし、手際よく、近江を支配した。毛利や上杉も反攻に転じるだろう。このまま、奴が畿内を確保すれば織田家の天下統一は無に帰す。無念だ」。


毛利「何を弱気な。嘗て信長様は浅井、朝倉、一向宗などに包囲されて講和を余儀なくされたこともありました。その時に比べれば、領地も広がり戦力も大きいです。また、毛利や上杉のことを言われましたが心配無用です。明智と、連中は連携できません。嘗て、包囲された経験から明らかなように、同盟者同士の距離が遠い包囲は脆い物です。敵は連絡だけで苦労して包囲は瓦解します。嘗ての織田家が包囲を打ち破れたのに、打ち破れないことはありません。危いのは貴方様が弱気になられた時だけです」。


信忠「そうだな。腰を据えて反攻を行えば、謀反人共は分裂していくだろう。後は、相手が一向宗の様に決死で戦わないように寛大を心掛ければ良いだけだ」。信忠は気を取り直して馬に乗り、柴田軍との合流を目指して馬を進めた。




 信長は二条御所から駕籠に載せられて安土に向かっていた。信長が目を覚ましたのは安土城についてからだった。信長を護衛していたのは猪子兵介だった。信長は泥酔している時の事態を聞いて驚愕した。信長「明智光秀が謀反を起こしただと!馬鹿な!近くには丹羽長秀の軍勢もいるぞ。謀反を起こしても直ぐに失敗する。まさか、丹羽も謀反か」。


猪子「その点は信忠様や村井殿も疑っておいででした。軍勢を使って謀反を起こすのなら勝算がなければなりません。丹羽様の軍勢が急行してくれば、仮に上様や信忠様を討ち取ったとしても謀反は直ちに失敗です。信孝様にも警告するべきです」。


信長「そうだな。直ちに、信孝に書状を出して美濃に退却するとしよう。ところで信忠は退却したのだろうな?」。


猪子「其れが信忠様は今日に残って謀反人を足留めすると。上様を先に美濃に逃がせとの御指示でした」。


信長「何!愚か者!信忠が逃げないでどうする!」。


猪子「御心配なく、信忠様は足留めのために戦うだけです。明智軍には与力も多いです。謀反だと知れば、大いに動揺するでしょう。退却する経路も信忠様の指示通りです。上様は直ちに、信孝様に丹羽様への処置を支持した書状を書いて美濃に退却してください」。


信長「わかった。これから天下がどうなるにしろ、信忠が健在であれば織田家は安泰だな」。信長は即興で書状を書き、印を押した。信長は書状を持たせた数人の急使を送り出すと、直ちに美濃へ馬を走らせ始めた。


 信長は峠で安土城を振り返り、「明智め、畿内を手に入れたか。だが、必ず奪い返す。天下統一は振り出しに戻ったが、信忠の代で天下統一を達成するための道筋をつけておかねば」と呟いた。猪子兵介から「何をしておられます!早く!」と叫ばれて馬を進めた。このように、織田信長も信忠も明智光秀に追い回されて逃げるのに背一杯だった。




一方、織田信孝は事態の進行に戸惑っていた。村井貞勝からの書状で、明智光秀の謀反について報告を受けて驚愕した。信忠と比べれば、劣る信孝は明智光秀と丹羽長秀が共謀しているかもしれないとの事態に戸惑った。そのため、取り敢えずは自己の身辺を固めさせた。その上で、全軍を招集した。当然、丹羽長秀も織田信孝の元に来る。


丹羽長秀「信孝様、何事ですか?」。


信孝「丹羽か。明智光秀が謀反を起こしたそうだ。軍勢が京都に侵入しつつあるとのことだ」。


丹羽「其れは一大事!上様や信忠様は御無事ですか!?」。


信孝「まだ、不明だ。とにかく、至急、京都に急行せねばならん。ところで、何故、明智光秀は謀反したと思う」。


丹羽「見当もつきません。しかし、明智も戦国の人です。天下取りの好機だと判断したのではないでしょうか?」。


信孝「だろうな。とにかく、奴の目論みを潰し、父上と兄上を御救いせねばならない。何か、提案は有るか」。


丹羽「この軍には明智光秀の娘婿である津田信澄がいます。奴は明智光秀に呼応する恐れがあります。早々に討ち取るべきかと」。


信孝「よし、直ちに津田信澄を捕えよ。抵抗すれば、殺害して構わん。急げ!」。


丹羽「畏まりました。直ちに」。丹羽長秀は駆けていった


。丹羽長秀が走り去ると、信孝は傍にいた野々懸彦之進に耳打ちした。信孝「野々懸、丹羽長秀に備えるように伝達せよ」。


野々懸「何故に?」。


信孝「愚か者。明智光秀が何故、我らが近くにいるにも関わらず、謀反を起こしたと思う?丹羽長秀が明智と共謀しているしかなかろう。つまり、奴は津田信澄に罪を被せているが隙を見て儂などを討ち取る気だ。奴が戻ったら、直ちに捕縛せよ。抵抗すれば躊躇なく殺害しろ。丹羽の重臣達も同様だ。鉄砲だと火薬の匂いで察知される。直ちに弓隊を用意しろ」。


野々懸「畏まりました」。


 暫くして、織田信忠からの書状が届いた。書状には明智光秀が謀反を起こして本能寺などを急襲したことや信長が逃れたことなどが記されていた。信忠の書状も丹羽長秀を警戒するように促していた。信孝は紙に丹羽長秀捕縛時の合図を走り書きして戻ってきた野々懸に手渡した。




 やがて、丹羽長秀が戻ってきた。信孝は地図を見たまま、丹羽長秀に問いかけた。


信孝「津田信澄を捕縛したか」。


丹羽「いえ、抵抗したので殺害し首を取りました。これで後顧の憂いは有りません。直ちに京へ」。


信孝「良くやった!ところで兄の信忠から書状が届いている。明智軍が急襲を始めているそうだ。貴様も目を通せ。そこの書状だ」。


丹羽「然らば」。丹羽は机の上の書状を取り上げ、読み始めた。丹羽が読み始めると、信孝は「直ちに出陣だ」と叫び槍を手に取った。丹羽は驚いて顔を上げたが、二本の矢が右足と尻に命中した。信孝も槍で左足を突き刺した。丹羽は「ぎえー」と叫び声を上げて崩れ落ちた。同時に槍を装備した馬廻り衆が丹羽の重臣二人を取り囲んだ。集まっていた諸将は驚愕した。「信孝様、御乱心ですか!?」、「何を」などと叫んだ。信孝は槍を抜き「丹羽長秀を捕縛せよ」と命じた。馬廻り衆が矢の刺さったままの丹羽長秀を縛り上げて引き立てていった。


 丹羽長秀は「何故ですか」と呻いていたが二人の重臣と共に連れて行かれた。各所で法螺貝が鳴らされた。他の諸将は驚愕して「何故、丹羽様を」と尋ねた。


 信孝「明智が謀反を起こしたのは丹羽長秀と共謀したからに違いない。明智が謀反を成功させても我らが軍勢を率いて向かえば、謀反は直ちに終わる。村井貞勝や兄からの書状でも丹羽長秀について警告されていた。津田信澄を殺害したのも口封じか罪を着せるために違いない。いずれにしろ、これで後顧の憂いはなくなった。全軍の準備が整い次第、直ちに京へ向かう」。その頃、丹羽長秀の重臣達は次々に捕縛されていた。信孝は軍勢を整えると、6月3日には進軍を開始していた。




 しかし、信長も信忠も逃げるのに精一杯だった。このため、足軽達の間に動揺が広がった。更に、信孝の軍勢の主力は丹羽長秀の軍勢なのであり士気の低下は免れなかった。そこに、明智軍が近江を制圧したとの情報が伝わり、若狭などでも明智方に呼応する動きがあるのが伝わった。更に、信長も信忠も討死したとの噂が流れた。このため、脱走者が続出した。信長と信長が死んで京都を含めた織田政権の本拠である近江を抑えれば明智光秀の基盤は確立する。近江や摂津の諸将も明智方に着く可能性が高い。そうなると孤立無援の信孝軍は危うくなる。このため、足軽達は脱走した。信孝は軍を停止するしかなかった。



 この時点で、信長は丹羽長秀と明智光秀が共謀していると判断していた。このため、摂津の信孝などに「明智日向の守が謀反したのは丹羽長秀と謀議が成立していたからに違いない。明智が単独で謀反したなら丹羽が北上してきた場合、直ぐに謀反は失敗する。明智が其のことを考慮していない筈がない。よって、直ちに、丹羽長秀と其の重臣を捕縛せよ。手向かえば、容赦なく成敗せよ」との書状を送っていた。


 他の武将達にも「明智と共謀して丹羽長秀が謀反を起こした。よって、丹羽も明智と同じく謀反人である。丹羽の領地を自由に攻略して良い。ただし、極力、調略により丹羽の家臣を降伏させること」との書状が送られた。このため、丹羽長秀の領地は織田軍によって攻撃された。このように、織田側は大混乱に陥っていた上に、信長と信忠は逃亡を優先していた。これは、既述の様に明智光秀と丹羽長秀が共謀していると判断していたためだ。信長と信忠は互いに連絡も取れず、互いの安否も知らない有様だった。このため、近江の諸将達の中には信長と信忠が生存していることを知らない者が多かった。




 明智光秀は6月2日の夕刻までに京都と周辺を制圧した。信忠の軍勢や来援した軍勢を退けるのに時間が掛った。掃討が完了すると、明智光秀は近江方面へ兵を向けた。これは当然の判断だった。近江方面には安土城があることからわかるように織田政権の中枢であり、ここを制圧するのは基本だった。3日の午前には、光秀は安土城に入城した。既に織田家の家臣の大半は逃亡しており、無血で占領した。入城すると、明智光秀は瀬田城の山岡兄弟を勧誘させた。しかし、山岡兄弟は瀬田橋と瀬田城を焼いて退却した。幸先が良いとは言えなかった。そして、この時点で漸く明智光秀は信長と信忠が両方とも生存していることを確認した。




 明智光秀は安土城の二の丸で報告を聞いて溜息をついた。明智「さて、一先ず安土は制圧して近江は制圧できそうだ。しかし、信長と信忠を取り逃がしたのは痛いな。信孝の軍を迎え撃たねばならないか。士気が持つかな」。明智佐間助が光秀を励ました。佐間助「明智様、心配無用です。捕えた者達や裏切った者達の話では信長や信忠が生きていることを知らない者も多いです。近江の武将の多くも信長や信忠が生きていることを知りません。戦局は我らが信長たちを追い回している状況です。信孝軍が来ても御恐れるに足りません」。明智「そうだな。信孝の視座に立てば、信長たちの生死も不明で近江や摂津の武将達の動向も不明だ。不安な事だろう。ましてや、足軽達などは逃亡したいに違いない。着実に攻めれば、勝利は確実だ」。明智光秀は自身の居城である坂本城に向かった。




 それから数日は、光秀の前途は明るかった。信長と信忠が討ち取られたと思っている武将も多く、近江の制圧は順調に進展した。明智軍は安土城を接収し、長浜城は明智に味方した阿閉貞征が奪取した。こうして、近江の大半は明智軍に制圧された。ここまでの明智光秀の作戦行動は見事であり、織田方の対応は完全に後手に回っていた。近江の隣国の美濃でも安藤守就が不振な動きを見せた。しかし、信長が戻ってきた。安藤は何も行動を起こさなかった。また、竹中半兵衛の弟である久作重炬の領地でも一揆が発生し、久作は殺されている。また、若狭でも丹羽長秀が明智光秀と共謀して謀反を起こしたと思われたので武田元明などが挙兵した。雑賀でも土橋若大夫などが挙兵した。このように、信長と信忠を逃したとはいえ、明智光秀は近江を制圧し、若狭や伊勢などでも呼応する動きを起こすことが出来た。信長や信忠は美濃や越前に逃げて態勢を立て直すのが精一杯だった。このため、もう少し反乱が長引けば違った展開も有り得た。




 信長は6月7日に清州城に落ち着くと、大広間に家臣達を集めた。そして、軍議を始めた。信長「皆に問いたい。光秀は何故、謀反を起こしたのだ?」。皆、沈黙していた。信長「誰か、答えないか!」。「訳が分かりません」や「上様に忠実だったはずですが」などと家臣達は述べてザワツキ始めた。信長は苛ついていたが、堀秀政が立ち上がったので「皆、黙れ」と言って黙らせた。堀秀政は座り直して平伏してから静かに話し始めた。


 堀「失礼ながら、明智が謀反を起こした訳は上様が最も御存知なのでは?」。信長「何だと!」。堀「上様は、佐久間信盛様や安藤守就殿を追放しました。両者とも追放される程の失態はありません。察するところ、領地を再分配することが主目的と思われますが、不適切でした。これでは、誰しも老いてからが心配です。明智に限らず、同格の方々なら謀反の動機になります。次に、明智の野心です。上様の重臣だった明智は上様の天下布武を羨ましく思っていた筈です。世は戦国ですから明智に野心があっても当然です。我らも油断していました。天下統一が完成していないにも関わらずです。上様の御推測どおりなら、丹羽様も謀反の動機は同じかと」。


 信長「待て!二人を佐久間などのように追放する積りは儂には全くなかったぞ」。


 堀「それこそが、二人が今、謀反を起こした最大の動機です。今、上様は二人が謀反を起こすとは考えていませんでした。ましてや、二人が共謀するとは誰も思いませんでした。しかし、今から思えば二人には共通した動機があり、上様が自分達を必要としていると確信できた筈です。同時に、上様の御心が将来、如何に変わるか分からないこともです。二人は絶好の機会に謀反を起こしたわけです」。信長は堀の話を憮然としながら聞いていたが、徐に口を開けた。


 信長「堀、先程から聞いていると明智が謀反を起こしたのは全て儂の統率が原因だと言っているように聞こえるのだが」。


 堀「残念ながら、その通りです」。


 信長「貴様、余程、死にたいようだな」。


 堀「上様、御言葉ですが、今は危急存亡の時です。率直に諫言するしかありません。上様が御望みなら幾らでも御世辞を申しますが」。


 信長は溜息をつき、家臣達を見渡した。信長「まあ、良かろう。貴様が謀反を起こす気なら今のような言葉は決して言わないからな。密告がなければ、余は討死していた。頑固者の信忠も同様だっただろう。是からは統率の方法を変えるしかあるまい。それで、妙策はあるのか」。


 堀「妙策は思いつきません。しかし、上様は1万程度の軍勢を整え次第、出陣されるべきです。明智は謀反を起こしましたが、失敗しました。上様も信忠様も生きておられます。しかし、明智が京都などを占領しています。逡巡していれば、謀反人は増え、毛利や上杉なども攻めてきます。更に、明智の部下達の多くは謀反を知らされていませんでした。連中は動揺しています。上様と信忠様が迅速に向かい、寛大な措置を行えば明智軍は忽ち崩れます。しかし、上様と信忠様は別行動した方が得です。そうすれば、明智は御二人を同時に討てず、万が一にも明智が勝つことはできません」。


 信長「堀、上出来だ。逡巡していれば、天下布武は振り出しに戻る。全て、お前の進言通りにする。ただし、恩赦は信忠の名で布告しろ。儂は長島以来、信用されていないからな。皆、直ちに軍勢を整えよ。1万の兵が集まったら直ちに出陣する」。


 その時、使番(急使)が駆け込んできた。


 使番「申し上げます。織田信孝様、謀反人の丹羽長秀と其の重臣を捕縛しました。しかし、上様や信忠様が死亡したなどの流言で兵が逃亡し、兵力不足です。直ちに、援軍を御願い致します」。


 信長「承知した。直ちに、儂と信忠が出陣し明智を討つ。それまで信孝は堺を守れと伝えろ。詳細は後で書状に書いて渡す。下がって休め」。使番「承知しました」。使番が下がると、信長は満面の笑みを浮かべた。信長「賊の片割れは捕まった。皆の者、我らの勝ちは決まった。兵糧は逐次、送れ。準備ができた隊から直ちに出陣する。集合場所は後ほど、指示する」。堀などの家臣は直ちに各部隊へ戻った。信長は嘗てと同じように、馬廻り衆が揃うと直ちに出陣した。逐次、部隊が合流し、明智の本拠地である坂本城へ向かった。一方で、書状が各武将に送られ続けた。




 一方、信忠は漸く柴田勝家らと合流したところだった。直ちに若狭へ進撃したかったが、柴田軍は上杉氏の反撃や地侍の一揆で足止めされていた。このため、無為に時間が流れていた。信長の方は順調だった。信長は自ら軍を率いて丹羽長秀の居城であった長浜城を降伏させた。長浜城の丹羽長秀の家臣達は混乱しており、周辺の武将達から急襲されて甚だ動揺していた。このため、信長が軍を引いてくると簡単に降伏した。信長が到着すると、丹羽旗下の武将達は大半が信長に従った。このため、若狭から侵入した京極高津具や阿辻貞行などは引き返すしかなかった。更に、美濃で起きた一揆も信長の生存が明白になった時点で終息に向かっていた。堀秀政が軍を率いて一揆勢を急襲し、一揆勢の恩赦を布告して交渉も同時並行で進めたので一揆は三日で瓦解することになる。こうした戦況もあって、信長は丹羽長秀が捕縛されたことにより勝利を確信していた。しかし、近江を手際よく制圧した手腕には驚いていた。このため、如何に手際よく明智光秀を討ち取るかに腐心していた。ところが、ここで羽柴秀吉が戻ってきたことから事態は一変する。




 6月11日に羽柴秀吉が中国地方から驚異的な速度で尼崎に戻ってきた。本能寺の変から10日後のことだった。秀吉は兵士達に陣笠や兜の他は鎧を外させ、弾薬や野などは海路で送り出した。他の物資も同様で海路から送っていた。街道沿いには信長が率いる援軍のために物資が蓄積されており、補給は容易だった。このことが素早い退却を可能にした。尼崎で秀吉を迎えた信孝は秀吉に指揮を任せた。


 信孝は秀吉を気に入っていなかったが、秀吉でなければ明智光秀を討てないのは自明の理だった。自陣で秀吉を信孝は迎えた。


 信孝「良く、戻ってくれた。これで明智の輩も終わりだ。万事、任せる」。


 秀吉「畏まりました。畏れながら、御任せ下さい。しかし、信長様も信忠様も御無事なようで何よりです。明智の輩を討ち取れば、雨ふって地固まるとなります。織田家の天下は安泰です」。


 信孝「父上は早くも丹羽の本拠であった長浜城を攻め落としたそうだ。また、兄上は柴田と合流できたようだ。これで御主が明智の輩を討ち取れば、混乱は終わる。油断がなければ、御主が一番手柄となり大大名になるのは確実だな」。


 秀吉「恐れ多いことです。某は織田家あってこその者です。この秀吉、全力で明智の輩を討ちます。天下統一は一段と確かなものになります」。




 秀吉の常識外れの中国大返しは摂津の諸将に衝撃を与えた。高山右近、細川忠興(細川藤孝の息子)、中川清秀、筒井順慶は直ちに秀吉の元に馳せ参じた。既に信長も信忠も生存していることが知られており、そこに秀吉が戻ってきた。寧ろ、彼らの参陣が遅れたのは明智光秀の成功が判断を迷わせた証だった。秀吉が戻ってくる前に信長や信忠が生存しているのは知られており、信孝から彼らには支援の要請が届いていた。


 しかし、彼らは光秀の成功で日和見を決め込んだ。信忠の支援要請に応えて援軍を派遣した中川清秀や高山右近ですら、光秀が京を制圧すると籠城を決め込んだ。細川藤孝や筒井順慶に至っては援軍を派遣したが、光秀が優勢と見て交戦せずに軍を引き返している。このため、彼らは秀吉が戻ってくると慌てて馳せ参じた。信孝の救援要請を無視した上、秀吉が到着したのに参陣しなければ光秀の共犯と判断されるからだった。信長も信忠も生きている上に、丹羽長秀が謀反の疑いで捕縛されていたので彼らは恐れていた。特に、細川忠興や筒井順慶は恐怖していた。参陣しても丹羽長秀の様に捕縛されるかもしれず、参陣しなければ討伐されるからだ。




 ところが、秀吉と信孝の態度は穏やかだった。


 秀吉「皆様方、参陣していただき感謝に堪えません。皆様と信孝様の御助力により、勝利は不動となりました」。細川や筒井は信孝に詫びようとしたが、信孝が制止した。


 信孝「混乱した状況で貴様らが躊躇したのは無理もない。寧ろ、明智の輩が優勢な時に裏切らなかったのだから忠義は証明されたことになる。明智の輩を討ち取れば、御主らも大いに加増されるだろう」。


 四人は人質を出そうとしたが、秀吉も信孝も断った。しかし、細川や筒井は「初陣」との名目で信孝に我が子を預けた。


 秀吉や信孝が穏やかな態度をとったのは信長と信忠からの指示に拠る。両者とも明らかな謀反人以外には寛大な態度をとるように指示していた。こうした織田陣営の姿勢も明智光秀の謀反が早期に終息した一因だった。なお、秀吉は信長や信忠の使者の前に、長谷川宗仁からの知らせを受け取っており、素早く引き返すことが出来た。なお、信長は各武将の裁量権を大幅に縮小していたので信長の動向を確認しておくのは不自然なことではなかった。信長も秀吉の事を疑ってはいない。秀吉と毛利の和睦も追認している。こうして、秀吉軍は6月12日に山崎で明智軍と対峙した。




 両軍が対陣した時は既に勝敗は確定していた。織田信長と織田信忠が生存していることも伝わり、秀吉が常識外れの速さで明智軍の士気は低下していた。さらに、織田信忠の名前で「此度の反乱は明智光秀と丹羽長秀による策謀であり、他の者が仕方なく従っていることは承知している。父と我が討死したとの風聞が飛んだこともあり、皆が動揺したのも無理はない。よって、明智と丹羽の家来も含めて恩赦を与える。戦っている者も含めて、明智光秀の元から離れよ。


 早く、謀反人から離反するほど待遇は良くなる。このことは父も了承しており、神と天皇に誓う。天下は未だ治まっておらず、成すべきことが多い。皆が織田家に戻り、天下不武のために尽くしてくれることを望む」との書状が各地に送られ、高札も各地に立てられた。これは信忠も追認したが、実際は信長の指示だった。信長は、この時点では丹羽長秀が明智光秀と共謀したと判断していた。このため、徹底的に追及すると決死の抵抗が続き、敵対していた他の大名が得をするだけだと判断したため、恩赦を信忠の名前で出した。長島の一向一揆を騙し討ちにして以来、自己に信用がないことは自覚していたためだ。




 このため、明智軍からは脱走者が相次いでいた。こうして、士気の低下した明智軍を秀吉軍は攻撃した。秀吉軍は天王山方面から陽動攻撃をかけて明智軍を拘束し、池田隊を先陣とした主力が円命寺川を渡河して明智軍の右翼を突いた。このため、明智軍は総崩れになり、敗北した。明智光秀は逃亡したが、勝竜城の手前で味方についていた近江衆の阿閉貞征の部隊などが寝返り、明智光秀は鉄砲隊と弓隊から射撃されて死亡した。明智光秀の首は織田信孝に差し出された。これにより、明智軍は完全に崩壊した。明智軍の御詰めとして山崎に向かっていた明智秀満の部隊も逃亡者が相次ぎ、崩壊した。その後、各地の明智方の城は織田軍が近づいただけで降伏した。明智秀満と斉藤利三なども捕えられて処刑され、6月17日に明智光秀の反乱は終わった。




 戦後、信長の発令した恩赦に従って殆どの者は許された。処刑されたのは本能寺の変の直後から積極的に呼応した武田元明と土田若大夫だけだった。一方、丹羽長秀と其の重臣達は半年に亘って牢に入れられた。信長が、丹羽長秀と明智光秀は共謀していたと判断していたためだ。このため、徹底した調査が始まった。そうした中で信長は反乱が終わった後、京都の二条御所で秀吉などを出迎えた。信長は柄にもなく、二条御所の門で自ら秀吉を出迎えた。




 信長に気づくと秀吉などは馬を下りて平伏した。信長は秀吉などに立つように促して秀吉と共に歩き始めた。


 信長「秀吉、此度の戦は御主が最大の功労者だ。御主は儂や信忠だけでなく、織田家全体の恩人だ。与えられる最大限の恩賞を与える」。


 秀吉「上様、光栄にございます。秀吉にとって上様に御仕え出来たことが最大の喜びです。また、信孝様を始めとして諸将にも御尽力いただきました。秀吉は幸運です。是も上様の御威光と御人徳によるものです」。


 信長「御世辞は、そのくらいにしておけ。遠慮することはない。御主が第一の功労者であることは明白だ。ところで、儂は明智の謀反で反省することが多い。明智と丹羽が謀反を起こしたのは、儂の統率に問題があった。これからは、家臣達の忠誠に信頼で応えることにする。貴様も安心するが良い。最早、謀反を起こす必要はないぞ」。秀吉は其の言葉に驚愕し、平伏した。


 秀吉「上様、何故、そのような事を言われるのですか」。信長は秀吉に立つよう促してから話を続けた。    信長「すまん、すまん。言い方が悪かった。これからは、統率を変えるということだ。佐久間信盛の時のように、功臣を追放することは絶対にしない。だから、安心しろということだ。是からも、よろしく頼むぞ」。


 秀吉「恐縮です。この羽柴秀吉、是からも上様、信忠様、織田家のために粉骨砕身、忠義を尽くします」。その後も信長は秀吉を褒めちぎり、宴でも秀吉に自ら酌をした。しかし、秀吉は青ざめていた。他の家臣達も緊張していた。信長が猜疑心を懐いた時は、何らかの粛清が行われることが多かったからだ。しかし、今回は是までと違い、粛清はなかった。




 重臣達は国替えされても充分な領地を与えられることになる。信忠は織田領の各地を巡察し、25日に二条御所に入った。安土城は信長の三男である信雄の軍勢が誤って焼失させてしまったため、二条御所が織田家の仮の居城とされた。信長と信忠は本能寺の変を反省して決して近い場所に宿泊しなくなった。この時、信長は淀古城に宿泊している。その後、安土城は再建されたが二条御所と淀古城は京都における織田家の拠点とされた(京都所司代は淀古城に移転)。信長が天下布武の完成に万全を期すため、朝廷を完全に管理する必要性を認識したためだ。以後、信長は以前にも増して朝廷への影響力を強めていく。



 戦後処理が進む一方で、丹羽長秀の居城や屋敷などは徹底的に捜索された。全ての屋根板が外され、床下や庭などは殆ど掘り返されるなどしたが何も証拠が出てこなかったので、秀吉や信忠の取り成しもあって丹羽長秀などは釈放された。その後、丹羽長秀は徳川家康に預けられた。ただし、信長は全く丹羽長秀を信用しておらず、徳川家康や周辺の織田軍の武将達に対して「丹羽長秀に謀反の疑いが生じた場合は自己の判断で攻撃して良い。丹羽長秀を討ち取った場合、その領地は自己の領地に組み入れることを承認する」との書状を出している。




 戦後の褒賞で、羽柴秀吉は、毛利から獲得した三カ国を与えられた。宇喜多直家などの中国地方の織田方の大名も加増か相応の量の黄金を与えられた。明智光秀の領地は池田恒興、高山右近、中川清秀によって分割された。滝川一益は北条氏に敗れたものの、忠義を認められて丹羽長秀の領地と若狭の残りを与えられた。他にも、相応の褒賞があり、降伏した明智の旧臣達などは監視付きだったが織田軍の武将達に配属された。なお、明智光秀を密告した足軽大将が誰なのかはわかっていない。織田幕府の記録にも残っていない(後の火災で文書が焼失した可能性がある)。ただし、足軽大将と部下達に褒賞が下され、彼らが経歴を変更した記録はある(この後、急に登用された福富直正の可能性があるが証拠はない)。こうして、本能寺の変の余波は収まり、織田家の天下布武は続くことになる。




 なお、明智光秀が本能寺の変を起こした理由は現在も不明だ。当時、織田信長は徹底した調査を命じた。しかし、真の理由は判然としなかった。織田家の報告書が指摘しているのは次の点だ。まず、四国問題。明智光秀は長宗我部氏との交渉に当たっていた。しかし、織田信長は長宗我部氏との約束を無視して四国討伐を決めた。通常、交渉役は交渉相手が敵となった場合に先鋒となるのが通例だ。しかし、信長は織田信孝を大将として丹羽長秀を中心とする軍を派遣した。これにより、明智光秀は自分が用済みだと判断した可能性がある。佐久間信盛の例もあり、光秀は圧力を感じていた筈だ。そして、明智光秀も野心を抱いており、そこに絶好の好機が到来したので素早く行動した。それが成功しかけた。誰にも相談せず、謀反の直前か数日前に自身の重臣達と相談して即座に実行した。




 このことからわかるように、本能寺の変に黒幕がいた可能性は殆どない。それは、本能寺の変と同時か直後に効果的な支援を行った者が皆無だからだ。最たる例が足利義昭だ。事前に、明智光秀と共謀した場合は毛利と羽柴秀吉の講和を阻止するか追撃を促した筈だ。ところが、そうしたことはなかった。他の人物も同様だった。また、他の事からも黒幕がいる可能性は低い。当初の予定では信忠は家康とともに堺に発っている筈だった。それが、信長が上洛してきたので信忠も妙覚寺に宿泊することになったのだ。信忠が京都にいたのは明智光秀にとって幸運なことだったが(主君と後継者を同時に討ち取ることができるのは戦国時代でも稀なことだった)、信忠の場所を把握していたなら妙覚寺を最初から囲んだ筈だ。この事からもわかるように明智光秀の謀反は準備期間が短かったことがわかる(こうしたことからも黒幕がいる可能性は低い)。このように、本能寺の変に黒幕がいる可能性は低く、それは当時から認識されていた。



 しかし、信長は共犯者の可能性を疑っていた。そう、丹羽長秀である。信長曰く、「明智めが謀反を引き起したのは丹羽が共謀していたからに相違ない。なぜなら、丹羽が北上してくれば、明智軍の足軽などは逃亡を始めただろう。明智めは文字通りの三日天下に終った筈だ。明智は馬鹿ではない。丹羽が味方でなければ謀反を起こす筈がない。丹羽は余と信忠が討たれなかったから行動を起こさなかったに過ぎない。よって、丹羽家を徹底的に調査し、些かの疑いも生じた場合は直ちに丹羽長秀などを処刑せよ」。このため、前述の様に丹羽長秀などは本能寺の変から半年も投獄されていた。徹底的に捜索が行われ、書状などは全て調べられた。証拠は出なかったが、津田信澄の家臣達が「丹羽長秀が怪しい」と進言した。津田信澄は本能寺の変の後に明智光秀との共謀を疑われて暗殺された(津田信澄は明智光秀の娘婿だった)。


  しかし、信澄が本能寺の変に関与した証拠はなかった。このため、信長や信忠が討たれたことが不確実だったために、丹羽長秀が津田信澄の暗殺を信孝に進言して実行することで自分への疑いを逸らそうとしたのではないかとの疑惑が生じた。このため、信長は無実の津田信澄を殺した罪で丹羽長秀を処刑しようとした。しかし、周囲の諫めで辛うじて思い止まった。こうして、丹羽長秀なども辛うじて釈放された。その後、丹羽長秀などは即座に徳川家に預けられて滝川一益の領土奪還を目指すことになった。調査終了後も信長は丹羽長秀などを全く信用しておらず、丹羽長秀などの安土などへの立ち入りを厳禁されていた。また、前述の様に丹羽長秀に疑いが生じた場合は即座に討伐して良いとの内容の命令が発令されていた。ただし、丹羽長秀が本能寺の変に関与した証拠は発見されていない。




 本能寺の変から約八か月後に、織田家の軍事行動は本格化した。その前に、一連の外交上の措置が執られた。


 第一に、織田信長は毛利に対して朝廷の仲介で同盟(実質的には毛利が服属)を結んだ。徳川家康とも改めて朝廷の立会いの元で同盟を結んだ。


 第二に、四国の長宗我部氏との和解が朝廷との仲介で進められた。四国の長宗我部氏の現行領土を認めて講和が成立した。以前の信長と長宗我部元親の間の約定を考慮して長宗我部氏は織田氏からの動員について大幅な留保条件をつけることが認められた。具体的には、出兵は朝廷ないし幕府(当然、織田幕府を想定している)の正式な命令なしではしなくても良いこと、築城などの使役は免除されることなどが決められた。


 第三に、根来寺と雑賀の鈴木孫一が雑賀と根来の大名として朝廷と織田家から認められた。従来の中世的な自治が認められた。しかし、織田家による幕府の開始を見越して幕府からの命令に対応できるように長は大名とされた。そして、毛利や徳川家康と同様の同盟が朝廷の立会いの元で結ばれた。信長はこのように、信長が穏当な方針に転じたのは本能寺の変の影響からだった。


 信長は明智光秀が謀反を起こしたことに衝撃を受けた。そして、謀反が成功しかけたことにも衝撃を受けていた。丹羽長秀の関与を疑っていたこともあり、自身への反感の強さを認識した。信長曰く、「余への反感がここまでとは思わなかった。反感があることは承知していたが、謀反を起こすまでとは思っていなかった。余と刺し違えてもという者が矢継ぎ早に現れるようでは天下布武などできない。丹羽と明智が手を組んでいたことからもわかるように、何がおこるかは察することができない。織田家のためにも方法を変えなければならない」。




 同盟が改定された後、信長は同盟相手を厚遇した。松平家康、長宗我部元親などを招いた妙覚寺での茶会で信長は述べた(8月17日)。家康や長宗我部は緊張していた。信長が急に他の大名との協調姿勢に転じたからだ。信長は家康や長宗我部などと和やかに歓談した。


 信長「家康殿も長宗我部殿も、楽にしてくれ。儂は本能寺の変で反省した。皆が謀反を起こす気も理解できるようになった。恥じるばかりだ。御両人とも言いたいことがあれば、遠慮せずに話してくれ」。


 長宗我部「では、遠慮なく。信長様は私を滅ぼすか追放する気だった筈です。しかし、同盟を結んでいただきました。事情が変わったわけを教えていただけますか」。


 信長「では、率直に話そう。多分、貴殿らも御察しだろうが本能寺の変で反省したからだ。従来の方法では、儂を殺す輩が絶えることはない。戦は実に楽しいが、永遠に天下統一は完成しない。功臣でも儂に追放される前に儂を殺そうとする。不覚だが、今回の乱で初めて気づいた。明智と丹羽が手を組んだのも、今にして思えば当然だろう。儂は二人を信頼していた。あの時点で二人を警戒していなかったし、共謀するとは想像もしていなかった。


 実に、見事だった。絶妙な時期に謀反を起こしたものだ。今後、戦においては二人の知恵を大いに参考とする。しかし、政治は別だ。今後は皆、特に貴殿らのような同盟者や功臣に安心できる政治を行っていく。具体的には、幕府を創設して日本の中央政府とする。そして、朝廷によって貴殿らや功臣達の地位を保障し、藩とする。朝廷によって保障されるから貴殿らも安心だろう。儂は幕府を安定させたい。貴殿らは保障が欲しい。双方にとって得だ。朝廷の保障は当てにして良い。如何なる政権も正当性と規範が必要だ。そうしなければ、安定しない。隣の支那で王朝が変わり続けるのが良い例だ。どうだ、充分に納得できる理由だろう」。


 長宗我部「はい、安心できました。長宗我部氏は上様、信忠様、織田家のために全力を尽くします。上様も信忠様も御安心下さい。これからは、織田家を信頼できます。長宗我部氏を敵に回すことは損だと御理解していただけるでしょう」。


 信長「長宗我部殿、宜しく頼む。家康殿も引き続き宜しく頼むぞ。思えば、貴殿にも多大な負担を負わせてしまった。さらに、儂に粛清される心配もしていただろう。安心してくれ。共に天下統一を完成させようではないか」。家康は驚愕した。


 家康「何を仰います。この家康、その様なことは夢にも思ったことはありません。言いがかりは止めてください」。信長「そんなに慌てるな。貴殿なら適切な心配だ。佐久間などの例を見て緊張していた筈だ。いつ、儂の気が変わって追放されないかと。しかし、先の話のとおり、もう安心だ。天下統一には貴殿らとの協調が不可欠だと確信している」。この後、信長、家康、長宗我部は親しく歓談した。




 これ以降の信長は朝廷の権威も活用しながら、「大名の領地は削っても、大名を滅ぼすのは最小限にして天下布武を行う」に政策転換した。一連の外交は、近衛前久が主導して行った。本能寺の変の際に、明智勢が近衛前久邸から二条御所を射撃したので近衛前久は関与が疑われた。さらに、信長が余りに丹羽長秀を疑ったので「丹羽長秀と明智光秀を結びつけたのは近衛前久に違いない」との噂まで流れた。このため、近衛前久は必至で疑いを晴らそうとした。もっとも、信長は近衛前久を当初から疑っておらず、本能寺の変が終わった後の宴の茶会にも信長から招かれている。また、近衛前久に関する讒言を禁ずるとの布告も発令している。家康や長我部氏などが帰った後で、近衛前久と親しく話し始めた。信長は近衛前久から茶を受けながら話した。


 信長「近衛殿、此度の家康殿や長我部などとの会談は貴殿の御尽力による。厚く御礼、申し上げる」。 近衛「とんでもない。私は織田殿の御恩に報いただけのこと。謀反の噂を織田殿が逸早く否定していただき感謝に堪えませぬ。また、借りを作ってしまった。今後も、何なりと御要望を。全力を尽くして、出来る限りのことを行いたい。ところで、織田殿に御尋ねしたいことがある。織田殿は天下を統一した後、帝と朝廷を如何に位置づける御考えか?」。


 信長「天下統一が完成したら、当然、国の長は天皇となります。御安心を。帝でなければ、大名達は従いますまい」。


 近衛「織田殿、御無礼を承知で御聞きする。貴殿は南蛮国(当時の日本国におけるヨーロッパの呼び名)の王の様になる気は全くないと?」。


 信長「近衛殿、疑いが過ぎますぞ。確かに、私は天下布武を公言し、絶対的な権力を欲している。しかし、しかし、同時に天皇制度の効用も理解している。天皇陛下により、この国は安定してきた。隣の支那と違い、どの政権も他を根絶やしにはできなかった。南蛮諸国などの様に宗教を巡って国の内で殺し合いが激しくならずに済んだのは特に良い。一向宗にしても儂との権力争いで戦を繰り広げたのであり、宗教国家を創ろうとしたのではない。以上の様に、儂は充分に天皇陛下の効用を理解している。天下統一により、儂の立場が絶対的になることに不安があるのは理解できるが、無用の心配だ」。


 近衛「織田殿、安心しました。御無礼を御許し願いたい。そこで御提案したい。一部の愚か者の懸念を払拭するために、朝廷から征夷大将軍の官職を受けてもらいたい」。


 信長「近衛殿、有り難い申し出だが今は時期が悪い。本能寺の変が起こった上に、北条に織田の軍勢が敗れてしまった。幕府を開くのは、これらの始末がついてからだ。征夷大将軍は信忠にしていただきたい」。


 近衛「信長殿、御英断です。しかし、信忠殿が征夷大将軍になるのに、信長殿の官位は低い。そこで太政大臣に就任していただきたい」。


 信長「前久殿、貴殿は何時も断れない頼み方をする。しかし、そこが貴殿の強みだ。これからも織田家と朝廷のために御尽力していただきたい」。


 こうして、信長は近衛前久から推挙されて太政大臣の職を受けた。朝廷との協調姿勢を鮮明にするためだった。もっとも、信長が朝廷と対立していたという明確な証拠はない。こうして、信長は朝廷との関係の再構築を始めた。また、本能寺の変で混乱した領地内の引き締めも始めた。大々的な検地を実行し、刀狩にも着手した。ただし、本格化するのは織田幕府の成立後である。 こうした一連の措置を行っていたので軍事行動は遅れて本能寺の変から約八か月後になった。




 信長は上杉氏に標的を定めた。北条氏との交戦は家康に任せて自身が軍を率いて上杉討伐に向かった(信忠は安土で留守を任された)。軍勢は約12万に達した。これに加えて、新発田重家、蘆名盛氏、伊達輝宗とも同盟を結んで上杉氏を攻め立てた。このため、上杉氏は完全に追い込まれ、次々に城は陥落した。1583年9月2日に上杉景勝は春日山城で降伏した。越後は柴田勝家に与えられた(越前は織田家の直轄領に編入された)。上杉景勝と残存した家臣達は徳川家に預けられた(彼らに関する費用は織田家の負担)。


 上杉家には天下布武の折に改めて領地が交付されるとの約定が成された(朝廷の立会いの元で)。周囲の者は織田信長の余りの豹変に驚いた。上杉景勝は上杉謙信の喪の最中に春日山城を占拠して御領の乱を始めたので当時の評判は悪かった(当時、織田の侵攻が予想されたので上杉家にとって不利益になることだった。なお、柴田勝家は御領の乱を静観して上杉家が疲弊してから侵攻している)。利用価値がない上杉景勝を何故、助命したのかと誰しもが訝った。信長曰く、「まずは隗より始めよとの言葉がある。上杉でさえ、助命されたとなれば他の大名達は無駄な抵抗をしないだろう。まだ、北条氏なども残っている。それに、騒乱が長引けば、第二の明智光秀が現れるだろう。それに呼応する者も現れる。天下布武の早期達成が目的であり、戦は手段に過ぎない」。




 次に、信長は北条氏に狙いを定めた。北条氏は信長と和解しようとしたが無視された。信長は北条氏に従っている諸大名達に調略を仕掛けた。しかし、関東北部の諸大名を除けば、芳しい成果はなかった。このため、信長は充分に準備を重ねた。それまで、織田軍および徳川軍と、北条軍の小競り合いが続いた。信長は織田領の統治を進めた。通貨の統一、街道の大規模な整備、港の拡張、検地、盗賊の大規模な取り締まりなどを行っている。また、軍事面の準備としては街道や前線に近い城に予め物資を事前蓄積させている。これは、羽柴秀吉の提言によるもので中国大返しの教訓が活かされていた。中国大返しの時は織田軍が毛利を攻める予定だったので各城に物資が事前に集積されていた。おかげで、秀吉は素早く近畿に戻れた。今度は、それを意図的に行おうという作戦だった。他にも、周到な準備が進められた。信長は美濃の頃の慎重さに戻っていた(信長は美濃の攻略に約8年の時間をかけている)。




 1582年12月1日、信長は柴田勝家や羽柴秀吉などと安土城で軍議をしていた。北条攻めの最終的な打ち合わせのためだった。


 信長「さて、皆の者に集まってもらったのは他でもない。北条攻めの最終的な段取りを決める。既に、物資の輸送は大分、進行している。更に、外国人傭兵部隊の用意も整っている。正攻法で油断なく攻めれば、北条氏を滅ぼせる。しかし、問題は長期化させないことだ。天下統一には、北条氏の他に島津氏なども障害となる。北条戦が長期化すれば、島津氏が基盤を固めてしまう。そうなれば、幕府にとって将来的な脅威となって残ってしまう。外国人傭兵部隊で城を攻略する期間は短くなるが、小田原城は他の城と違って攻略は困難だ。何か、策があれば申せ」。


 秀吉「上様、妙策がございます。北条家が籠城戦を得意としていることを逆手に取るのです。当然ですが、籠城しているだけでは戦に勝てません。救援軍が勝利には不可欠です。過去に北条氏が攻められたときには、武田氏や上杉氏の援軍が期待できました。しかし、今回は期待できません。よって、包囲されてしばらくしたら城内と城外の自軍が呼応しての解囲を試みるでしょう。敵の打ち手が解っていれば、勝ったも同然です。つまり、北条方に隙を見せて城から出撃させて軍を弱らせたところを攻めれば、小田原城も落城します。中国大返しを今回は意図的に行うのです」。


 信長「なるほど、流石は羽柴秀吉だ。余や信忠が死んでいれば、天下人になった男だけはあるな」。


 秀吉「とんでもございません!この秀吉、とても天下人の器ではありません。信長様や信忠様あってこその秀吉です」。信長「そんなに恐縮するな。戦国乱世の世だ。誰もが野心を持つのが当然だ。重要なのは何を成したかだ」。その後、侵攻計画の細部が詰められた。




 そして、1586年3月14日、北条氏に対する侵攻作戦が発動された。徳川軍などの同盟軍を合わせた織田軍の総兵力は約20万(内、水軍は約2万。他にポルトガル人を中心とする外国人傭兵の砲兵部隊がいる)に達した。北条家は籠城作戦をとった。この時から、織田軍は大々的に大砲などを活用した西洋流の攻城戦術を始める。日本でも、陣地を作り、城を封鎖するのは基本的な戦術だったが、西洋ほど体系化はされていなかった。それに、大砲を中心とした戦術ではなかった。信長は北条氏が小田原城を中心に籠城作戦を採ることを予想して充分な準備を重ねていた。


 信長は北条氏の城を早期に攻略するために、西洋流の攻城戦術を試すことにした。従来の様に、普通に攻めていたのでは上杉謙信の様になり、結局は損だと判断したことによる。そして、信長は北条攻めが苦戦となれば、第二の本能寺の変が起こるかもしれないと懸念していた。信長はポルトガル人などから大砲の出現で城の陥落が早くなったことを知っており、これに賭けることにした。この頃のヨーロッパでは、イタリア式の新型要塞や城壁などで均衡は回復していた。しかし、攻城戦術が根本的に変化していたことに変わりはない)。




 信長にとって幸いなことに、1580年、ポルトガルがスペインに併合されていた。当時、ナショナリズムなどはなかったが、新たな支配者によって支配されることが不安視されるのは当然だった。信長は巧みに付け込んで大砲などを入手した。ただし、西洋船の技術に関してはポルトガル人達の拒否に遭い、この時点では断念している。


 多額の資金を提供するとともに、マカオのポルトガル総督などと一連の条約を締結している。具体的には、ポルトガル人をスペイン人より貿易面で優遇する事(ポルトガル商人の監督下でなければスペイン人商人は日本において貿易を行うことができないなど)、キリスト教の布教はポルトガル人宣教師に限定して許可する事(その代りに、キリスト教会は一連の規制を受け入れること)、日本においてポルトガル人をスペイン政府から保護する事(これは秘密協定)などが取り決められた。並行して、軍事技術の導入が進められた。ただ、すぐに日本人の砲兵隊の訓練が済むわけもなく、ポルトガル人を中心とする外国人傭兵の砲兵部隊が編成されて織田軍に加わっている(通訳が少なかったこともあり、攻城戦限定での参戦だった)。他にも、投石機などが大々的に使用された。




 以前から、大砲や投石機は用いられていたが、小規模だった。これは日本の軍馬の力が弱く、大砲を牽引するのが困難だったことによる。当時の日本の軍馬は蹄鉄が足に打たれておらず、去勢もされていなかった。その上に、体形が小柄だった。このため、力は弱く、気性は荒かった。よって、重量のある大砲や投石機の使用が敬遠されたのは当然だった(他に、山がちな地形や道路事情といった要因がある)。馬や船舶を多く揃え、多額の資金を使えなければ日本において砲兵部隊を活用することは困難だった。領国を多く制圧した織田家によって初めて可能となった作戦だった。




 なお、ポルトガル人を中心とする傭兵部隊には中国人や東南アジアの各国の人間も加わっていた。明王朝も砲兵を活用しており、ポルトガル人を通じて雇われた。この雇われ砲兵部隊の大砲には明国製も少なからず混じっていた。また、投石機に関しては中国人に専門家が多かった。この砲兵部隊の使用により城の陥落のペースが早まった。さらに、西洋流の攻城戦術の使用が始まったことにより攻城戦の時間が短くなった(中国の攻城戦術も活用されていたので、この時点では西洋流とはいえない)。


更に、西洋流の攻城戦術の導入は予期しない戦略的な効果を齎すことになる。砲兵部隊の大々的な使用が好例だが、西洋流の戦術には莫大な資金が必要であり、織田家でなければ実行は困難だった。このことが織田幕府に権威を与え、他の大名に対する威圧効果を生んだ。城は資金があれば、陥落することは確実になってきたので織田幕府は自信を持つことが出来た。野戦になっても、常備軍である織田幕府軍の方が火力も上で勝てる公算が大きい。野戦でも砲兵部隊の活用が進むので、この傾向は顕著になっていく。このため、外交政策や貿易政策についても織田幕府の意思を押し通すことが容易になった。織田幕府は外国の介入を過剰に恐れる必要がなくなり、織田幕府が鎖国政策を採る可能性はなくなった。




 織田幕府内部にも、鎖国政策を採るべきだと意見がなかったわけではない。ナショナリズムの概念がない当時は、国民の概念もなかった。このため、外国軍が自国に侵入して現地人部隊を組織することは容易だった。ヨーロッパ諸国は、この手法で植民地を獲得している。このため、外国人の出入りを制限し、貿易も大幅に規制しようとする発想が出てくるのは自然なことだった。大名や豪族などが外国と同盟を結んだり、勢力を拡張するために外国の支援を受けて内戦を繰り広げることも予想された。そうなると、外国軍が征服するチャンスは増大する。後に、イギリスは、この手法でインドを征服している。しかし、幕府の軍事力が明確に有利になり、他の大名が追随することが困難になったので懸念は小さくなった。そうなると、財政を豊かにして大名を威圧するためにも海外貿易は不可欠になる。さらに、貿易と外交に関して幕府が主導権を握れるならば、日本帝国の発展を主導することになる。織田幕府は全国統一後に、積極的に海外進出策を採ると共に海外貿易を幕府中心に進めて、他の大名に対して圧倒的な優位に立つことになる。




 北条攻めを開始した信長軍は、織田軍の作戦は基本通りだった。北方で陽動をかけつつ、主力部隊が韮山城や山中城などを攻略するのと並行して、水軍と共同した部隊が小田原城に進撃して包囲する。小田原城の包囲を継続しつつ、他の北条方の城を攻略して最後に小田原城を陥落させるという趣旨の作戦だった。織田軍は前述の様に物資を事前に集積していた。このため、織田軍は迅速に集結を完了して攻撃位置についた。


 北条軍は対応が遅れて小田原城からの救援部隊の出撃の機会を逸してしまった。織田軍の山中城攻撃部隊(羽柴秀吉が指揮)は約4万7千(臼砲18門、ロケット発射機28台、投石機18台を運用する砲兵部隊を含む)。夜明けと同時に、織田軍の攻撃が始まった。秀吉は「始めよ」と自信を込めて号令を下した。法螺貝、太鼓、ラッパが鳴らされた。ポルトガル人の指揮する傭兵砲兵部隊が攻撃を開始した。山中城は投石機部隊からの焼夷弾(石油、樹脂、硫黄、専用のアルコールを混ぜ合わせた混合物を入れている石の球)、臼砲部隊からの焼玉、ロケット部隊からの焼夷ロケット弾を撃ち込まれて、櫓や柵などの防御施設が炎上し始めた。さらに、周囲の森にも焼夷ロケット弾が撃ち込まれた。一時間ほどの砲撃で城の施設が燃え始め、消化が間に合わなくなってきた。このため、城が延焼し始め、守備隊が動揺し始めた。




 秀吉は早くも「ふん、今日か明日には落ちたな」と呟いた。秀吉「よし、城に攻め寄せよ」。織田軍の部隊は、まず出丸に攻撃を集中した。攻城部隊は土嚢を積み上げて仕寄せを構築しながら接近した。同時に、方形堡が構築され、そこから大鉄砲を装備した鉄砲隊が出丸に射撃を浴びせ始めた。。大鉄砲からは焼夷弾付きの矢(以下、焼夷弾)が撃ち込まれた。太矢が命中すると、直ぐに火が広がった。更に、臼砲から榴弾が撃ち込まれた。榴弾が炸裂した。柵や壁が吹き飛び、木片などが飛び散って主米兵を傷つけた。櫓の中にいた人間が黒焦げになって落ちてきた。「ひー。もう駄目じゃ」などと叫び守備兵達が逃亡し始めた。この頃の臼砲の榴弾は初速が遅い上に導火線式だった。このため、爆発前に導火線の火が消されたり、敵兵が逃げたりすることが多かった(攻城戦でしか使えない)。しかし、事前に砲撃で火災が発生していたの。このため、城の守備兵は炎や煙に阻まれて対応ができなかった。ヨーロッパの戦術をポルトガル人から指導されて導入していた。これは、織田軍も直ぐに習得し、織田軍の常用戦術となった。榴弾の炸裂と各種兵器による炎で守備兵は大混乱に落ちった。




 「待て、落ち着け。火を消せ。敵に応戦しろ」との武将からの命令もむなしく、足軽達は完全に浮足立った。右往左往する足軽も多く、鉄砲や弓で応戦する足軽も動揺し、煙にまかれた。織田軍の榴弾、矢、鉛玉、各種の焼夷弾も撃ち込まれ、悲鳴や呻き声が各所で聞こえる。容赦のない攻撃で大半の者が動揺していた。対照的に織田軍は勢いづいていた。「攻めろ、攻めろ」の掛け声で竹束や梯子などを持った部隊が進んでいく。仕寄せが築かれ、そこを足掛かりにして、城に近い地点に仕寄せが築かれていく。仕寄せから鉄砲隊が援護射撃を行い、仕寄せを城に近づけていった。柵に寄っていた守備兵の中には焼夷弾に焼かれる兵もあり、混乱が広がった。榴弾も次々に着弾した。秀吉は複数の場所に自軍の兵士達が複数の個所に取りつきつつあるのを確認すると、「攻撃部隊に城壁を乗り越えさせよ」との号令を下した。旗が振られ、太鼓が鳴り響いた。


 傭兵砲兵隊ではラッパが鳴り響き、全力で砲撃が開始された。投石機から焙烙と焼夷弾が撃ち込まれ、織田軍は梯子を架けて壁を超えた。臼砲からの榴弾が着弾して数秒後に次々と炸裂する。織田軍の兵士達は梯子で城壁を乗り越えると、槍で守備兵達と交戦していた。押しつ押されつしていたが、弓隊が展開した。「放て」の号令で弓隊が矢を射かけ始めた。その援護で、槍隊は少しずつ前進していく。鉄砲隊も展開して射撃を始めた。矢が飛び、銃声が響いて北条軍の足軽達が倒れていく。やがて、複数の個所から織田軍の部隊が雪崩れ込んできた。守備兵は雪崩れ込んできた織田軍に圧倒されて退却した。もっとも、織田軍の方も余りに火の回りが早くて出丸からの進撃が阻まれた。攻め込んだ部隊の指揮官の大谷義次は各種攻城兵器の威力に驚いていた。大谷「羽柴様に伝えろ。火災の勢いが強すぎるので攻撃を一時的に中断すると」。伝令に伝達を終えると、大谷は呟いた。大谷「鉄砲は戦国を終わらせることはできなかったが、大砲は戦国時代を終わらせたな」と。炎を眺めながら大谷義次は時代が変わるのを実感していた。大谷隊は柵を作り、土嚢を積んだ。そして、防備を固めて仕寄せの材料を運び込んだ。そして、本隊の指示を待った。こうして、午前中に出丸は陥落した。




 出丸が陥落すると、織田軍は大手門に攻撃を集中した。大手門の櫓は臼砲からの焼玉と榴弾で炎上し、柵などの炎上を狙って投石機部隊とロケット部隊が焼夷弾を撃ち込んだ。並行して、大手門の側面に攻撃が集中された。逆茂木も焼夷弾と同様の燃焼物を詰めた樽によって放火された。逆茂木は燃え上がり、砲撃によって生じた炎と併せて延焼が拡大した。煙に紛れて織田軍は城攻めを進めた。砲撃と並行して方形堡が構築され、大鉄砲を装備した鉄砲隊が焼夷弾を撃ち込み、その援護で仕寄せが城に接近した。仕寄せからも鉄砲隊と弓隊が援護射撃を加える。其れに合わせて、竹束や土嚢などを持った部隊が前進して仕寄せを築いていった。着実に織田軍の部隊は城に接近していった。


 約3時間後には複数の個所から攻め上げる態勢が整った。秀吉は総攻撃を指令した。投石機部隊が焙烙の一斉射撃を浴びせ、臼砲とロケット弾発射部隊も榴弾と焼夷弾を一斉に発射した。それを合図に織田軍は大手門右側面に梯子を架けて雪崩れ込んだ。織田軍の部隊は雪崩れ込むと、槍で守備兵達と交戦しながら弓隊と鉄砲隊を展開させた。「放て」の号令で弓隊と鉄砲隊の射撃が始まり、北条軍の足軽達が倒れていく。後方の施設も砲撃を受けて燃えており、煙が守備隊の連携を阻んだ。守備隊は押され、退却を余儀なくされた。ここで織田軍は進撃を中止した。遮蔽物の陰から射撃戦に留めた。その間に、臼砲部隊、投石機部隊、ロケット部隊が前進した。織田軍は休憩して約30分後に攻撃を再開した。大手門から主力は攻め上がり、同時に北の丸にも陽動攻撃が加えられた。基本的には同じ要領で織田軍は攻め上がり、城を日没前に陥落させた。北条軍は夜の闇に紛れて城から退却した。城の施設は大半が焼失した。陥落させると、織田軍は直ちに城に陣城を構築し始めた。土嚢を積み上げ、多数の杭を打ち込んだ。杭には燃やされるのを防ぐために粘土が塗りつけられた。ただし、北条軍からの逆襲はなかった。




 陥落した山中城に設置された陣内で秀吉は満足げに座っていた。秀長は明日からの進撃を打ち合わせるためとの名目で人払いをして二人で話し始めた。


 秀長「兄者、満足そうだな」。


 秀吉「当然だ。我ら織田軍が山中城を約一日で落城させたことは画期的な成果だ。臼砲などの攻城兵器を駆使して旧来の城を短期間で落城させたことで戦の期間は劇的に短縮される。これで本能寺の変による遅れも帳消しだ。織田家の天下統一は確実だ。最悪でも10年以上は掛からない。恐らく5年以内だろう。しかし、そうした軍事上の意味合い以上に画期的な影響を北条攻めは我が国に与える。分かるか?」。


 秀長「いいや、済まんが教えてくれ」。


 秀吉「カノン砲や臼砲などの大砲が主要な兵器に加わると、戦争の費用は格段に上がる。最早、中小の大名は対応できないし、豪族達は全く対抗不可能になる。更に、先程も述べたが城に籠っても時間と金さえあれば、落城は確実だ。分かるか、日本史上、初めて絶対的な権力が確立されるのだ。織田家の天下は確固たるものになる。この様な事業に関われた自分は何と幸運な事か。これまでの鎌倉幕府や室町幕府と違い、織田幕府は極めて強力となる。武士の世が続く限り、織田幕府が倒れることはあるまい。強力な政権により、国家が強力に発展する。自分は偉大な幸運に恵まれて何と幸せな事か」。


 秀長は秀吉の解説に感心して「なるほど」と大きく頷いた。しかし、いつもと違う兄の態度に気づいて溜息をついた。秀長「兄者の卓見に若干の捕捉を加えても構わないか?」。


 秀吉「無論だ。どうした、目出度い時に溜息をつきおって」。


 秀長「では率直に言おう。兄者の卓見のとおり、大砲が強力な中央政府を創るのは納得だ。しかし、それも大砲の扱いに熟達している人間がいてこそ可能だ。信長様がポルトガル人や支那人からなる傭兵砲兵部隊が編成されたのは卓見だった。彼らがいてこそ、大砲の性能が最大限に発揮された。同じことが織田家と我らについても言える。そんなに怯えるな。信長様が我らを粛清することはない。信長様も本能寺の変で懲りている」。


 秀吉は秀長の言葉に狼狽した。秀吉「秀長、何を、世迷言を言っているのだ」。


 秀長「兄者、落ち着いて聞け。要は、傭兵砲兵部隊の外国人達と同じことで道具があっても使いこなす人間がいなければ道具も役に立たんと言うことだ。兄者を始めとする諸将がいてこそ、織田家による天下統一が可能となるのだ。道具や仕組みも欠かせんが、人材も欠かせん。よって、兄者が心配する必要は全くない」。


 秀吉は落ち着きを取り戻し、安堵の表情を浮かべた。しかし、直ぐに真顔に戻った。秀吉「秀長、流石だ。しかし、無用の心配だ。元から儂は信長様を完全に信頼しておる」。


 秀長「それは幸いだ。ところで、指示通りに蜂須賀正勝殿の部隊を退却した北条軍を追撃するために出撃させた。北条兵が小田原城に逃げ込むのは妨げないことで良いのだな?」。


 秀吉「その通りだ。小田原城に逃げ込んでも降伏する人数が増えるだけの事だ。他の支城が全て陥落すれば、小田原城は降伏するしかない。幸いにして、北条方は、この事実を認識できていないようだからな。いずれにしろ、勝ちは決まりだ。儂は幸運だ。上は信長様、下は御前や蜂須賀などの優れた部下に恵まれている」。


 秀長「さて、今日は城攻めの疲れもある。夜の警戒は弟に任せて休めば良かろう」。


 「そうだな」と言って秀吉は出ていきかけたが振り返り、「秀長。儂は御主のような弟がいてこそ出世できる。今後も頼りにしているぞ」と言った。秀長が「今更、言うことでもあるまい」と答えると秀吉は心からの笑顔をして出ていった。




 秀長は椅子に座り、地図を見た後で溜息をついた。秀長は物思いに耽った。(さて、兄者ほどでないにしても不安に思う大名も多かろう。いずれは、皆が気付くことになる。織田家の造る幕府が前例のない強力な権力を持つことに。当座は朝廷の正当性さえ、無視することもできる。しかし、そうなると政権は信忠様の後が不安定になるだろう。まあ、それは明らかに損だからない。信長様と朝廷の間で確執もないからな。気を付けなければならないのは、織田家が他の大名を如何に統治するかだ。いずれにしろ、天下統一後も気は抜けん。これからが羽柴家の行く末を決める)。以上の様なことを考えていると、机の下に朝鮮半島や明国などを中心にした地図が落ちているのに気付いた。


 秀長は再び溜息をつき、大きく首を振った。秀吉の疑心暗鬼が深くなっていることに気づいたからだ。信長が海外に遠征を考えていることは秀吉から聞いていたが、北条攻めの最中に秀吉が是も考えていたことに当惑した。同時に、海外遠征を信長が真剣に考えているからこそ、兄が信長に追従しようとしていることも懸念した。天下統一が完成した後は国内を整備することに専念すべきだというのが秀長の考えだったからだ。しかし、同時に妙な高揚感も感じた。(国内の体制が整わないで行われる外征は政権の基盤を揺るがすことになる。そうなれば、兄である秀吉が天下人になれる機会もある)。秀長はハッとして更に首を振った。(いかん、いかん。何を考えているのだ。今は北条攻めに専念しなければならんのに。なるほど、明智光秀が謀反を起こした時も今の様な心境だったのか)。秀長は立ち上がり、「人払いは終わりだ。誰か、石田三成を呼べ」と叫んだ。それから、落ちていた地図を他の地図の下に隠して部屋を離れた。




 北条の多くの城も基本的には山中城と同じ戦術で攻略された。平野部の城攻めには、カノン砲を主体として攻城が進められた。北条軍は織田軍の攻城戦術に対応できず、各支城は短期間で落城した。一番、長く持ちこたえたのは韮山城で18日間に亘って持ちこたえてから降伏した。平野の城で延焼する樹木が少なかったことが比較的、長く持ちこたえられた要因だった。この頃の多くの日本の城は後世の城とは異なり、木による柵や櫓を主要な防御施設としていた。後世の感覚では砦に近い)。このため、火攻めには脆弱で織田軍の重兵器による攻撃には対応できなかった。小田原城に主力部隊を集めていたために各支城が手薄になっていたことも要因だった。結果として、小田原城に主力部隊(約3万7千)が閉じ込められた。以後、織田軍は房総や武蔵方面の支城を順調に攻略していった。




 一方、北条軍は小田原城の主力とは別に、北方に約2万の部隊を待機させていた。この方面の織田軍の侵攻を防いでいたが、織田軍が北条軍との決戦を避けたために結果として遊兵化した。しかし、小田原城が包囲され、諸城が陥落したので、北条部隊は南下して小田原城の織田軍包囲部隊を城の主力と共同して挟撃することにした。城を包囲する織田軍は約7万だった。強固な攻囲線を築いていたが防御線に多くの兵を張り付けられており、城の主力と共同すれば撃滅は可能と見られた。織田軍の他の部隊は支城攻略のために分散していた。5千の部隊が陽動を行い、織田軍の柴田隊を足留めした。北条部隊1万5千は織田軍を振り切り、5月10日、小田原城に達した。直ちに、小田原城の主力と呼応して包囲陣に対する攻撃が開始された。




 攻撃が開始されると、織田軍の各陣地では太鼓が鳴らされ、兵士達が慌ただしく配置に就いた。石垣山の本陣で信長は悠然と、事態の推移を見守っていた。


 信長は「良い作戦でも相手に読まれていては意味がない」と言い、傍らの佐々成政に状況を確認した。信長「佐々、各隊に何騎ずつ、伝令を出したのか?」。


 佐々「ハッ、各隊に6騎ずつ、出しました。護衛には4騎ずつを付けています。状況によっては更に出せます。各隊とも報告の限りでは予定通りに行動できているようです」。


 信長「御苦労、後は諸将に油断がなければ勝利は確実だ」。


 佐々「上様、失礼ながら大丈夫でしょうか?羽柴様の部隊などの動きが遅れれば、我が軍は窮地に落ちります。やはり、軍を大幅に後退させた方が良いのでは?」。


 信長「心配無用だ。先程も言ったように、良い作戦でも読まれていては意味がない。北条方は我らが意図的に行った分散に付け込んで攻めてきた。しかし、事前に計画された作戦の内で武将達に心理的な動揺はない。更に、我が織田軍は数々の実戦経験を積み、軍としての練度は極めて高い。充分に持ちこたえられる。対して、北条の救援軍は偵察の暇がなく我が軍の配置も把握しきれていない。こうした状況では、北条軍は出たとこ勝負の作戦を行うしかない。対して、こちらは準備ができており、余裕を持って尚且つ臨機応変に対処できる。充分に安全ではないか」。


 佐々「流石は上様。後は油断なく、迅速に行動するだけですな」。信長は満足げに頷いた。小田原城内の北条軍は救援軍の攻撃開始に合わせて出撃した。小田原城の北部の久野口と江戸口に陽動として7千ずつが攻撃し、主力攻撃部隊の1万3千が井細田口から出撃して今井に布陣した蒲生氏郷軍を攻撃した。織田軍の各部隊は攻撃に耐えていた。




 織田軍の陣地は空堀、杭、土盛り、柵、逆木、土嚢からなり内と外に対応できる複合陣地となっていた。北条軍の部隊が柵を破って陣地内に侵入した。


 しかし、陣地の内側にも柵が構築されており、行動が制限された。そして、次々に撃たれた。織田軍の鉄砲隊が第一の陣地の土盛りの背後に構築されていた第二の陣地から射撃を開始した。鉄砲隊に援護されて槍隊が北条軍の足軽達を崩していく。北条軍部隊が陣地の外に叩きだされる。各所で同様の展開となり、北条軍による攻撃は停滞した。


 しかし、織田軍の予備隊が対応に追われて北条の救援軍による攻撃が容易になった。救援に来た北条部隊は5千を海岸沿いの道から進撃させ、主力の1万は井細田の近くの酒匂川に架けられた織田軍の船橋を急襲した。北条軍の攻勢は事前の計画通りに進んだ。織田軍の攻囲陣地からは火の手が派手に上がり、北条軍は視界を遮られながらも勢いを増して前進した。蒲生氏郷の部隊は馬廻り衆を中心とする精鋭部隊が配されていたが、北条軍を防ぐことはできずに徳川軍の援護下で後退した。蒲生氏郷は北条軍の攻撃を見ながら「後世の人間は何故、北条方が敗れたのかと悩むな。しかし、こうした戦は奇計であり繰り返してはならないことを我らも忘れないようにしなければ」と言った。北条軍は攻囲線に襲い掛かり、織田軍に猛攻を加えた。こうして、北条軍の攻撃は成功したかに思われたが、翌日に事態は一変する。




 足柄街道を羽柴秀吉が率いる織田軍約4万7千が南下して戦場に到着したからだ。北条軍も接近に気づいていたが、規模を見誤っていた。北条軍は攻囲線の織田軍との戦闘で精一杯であり(待ち受けていた織田軍が迅速に対応したため)、余裕がなかった。更に、陣地内の火災による煙も状況把握を遅らせた。羽柴部隊も夜中の内に到着していたが、疲労困憊していたので攻撃は翌日からとなった。このため、翌朝から羽柴隊が攻撃を開始すると北条軍は驚愕した。進軍する羽柴軍の鉄砲隊が射撃を開始した。攻囲線を攻めていた北条軍は戦列の向きを変えながら対抗したが出遅れて苦戦した。更に、北条軍の兵士達が驚愕する事態が発生した。酒勾の海岸に滝川一益部隊(約2万。3日前に到着した長宗我部軍8千を含む)が上陸した。




 滝川隊は上陸を開始すると、竹束と盾で仕寄せを造り、杭を打ち込んだ。そして、部隊を続々と上陸させた。羽柴隊は攻囲線を攻撃していた北条軍に猛攻を加えた。北条軍に防戦一方だった小田原城攻囲の織田軍も反転攻勢に出た。鉄砲隊が次々に射撃を行い、槍隊が前進していく。北条軍部隊は織田軍の猛射に押され、槍隊に突き崩されていく。北条軍は攻囲線の火災に視界が遮られて対応が遅れた。攻囲線にいた織田軍と、滝川隊と羽柴隊に包囲された状態になった。まず、攻囲線の中に攻め込んだ北条軍部隊が猛攻で総崩れになった。更に、滝川隊が攻撃を開始したことにより全軍に動揺が広がった。北条軍は総崩れになった。小田原城に逃げ込む敗残兵の群れを追撃して織田軍は槍隊を先頭にして猛攻を続けた。北条兵は次々に刺され、死体が転がった。




 織田信長は攻城戦術の基本を無視して総攻撃の合図を出した。信長「佐々成政、予備隊を率いて攻城用の梯子や資材などを持たせた上で各部隊を支援しろ!北条の運命は今日で終わりだ!」。


 佐々成政は予備隊を引き連れて各部隊の支援に向かった。一方、井細田に架けられていた船橋から北方に退却する北条の残存部隊も無事では済まなかった。蒲生部隊と徳川隊に追撃されて散々に討ち取られた。槍隊が追撃の先頭に立ち、鉄砲隊と弓隊が後続して行く。蒲生隊は船橋を視界に捉えたが、蒲生氏郷は橋を急襲しなかった。


 蒲生「待て、橋を攻撃するな。鉄砲隊と弓隊を展開させ、戦列を整えろ!」。


 部下「何故ですか?」。


 蒲生「逃げ道を塞ぐと敵は死に物狂いになる。心配無用だ。連中は川の先で死ぬ運命だ。皆の者、上様は川向うで追撃する連中を上回る恩賞を約束されたぞ!防衛線の恩賞と併せて恩賞は他の部隊の2倍だ!全力で攻撃せよ!」。




 蒲生氏郷が、この様な指示を出したのは信長の作戦計画に部下達を従わせるためだった。戦闘では追撃戦で最も敵を討ち取りやすい。特に、戦国時代の軍隊は傭兵軍的な性格が強いので損失を避けなければならない。兵士達にしても事情は同じで命と引き換えにしても戦を行う兵士は少数派だった。このため、戦国時代の戦闘では火力か兵力が優勢でなければ戦局が停滞し、双方とも戦闘中は損害が極端に増えることはない。大量の戦死者が出るのは一方が崩れて勝者が追撃戦に入ってからだ。この過程で行われる首取りは兵士達にとって恩賞の引換券を得るためだったの争奪戦なので積極的に行われた。これを兵士達に我慢させるのは容易な事ではない。


 このため、信長が事前に約束していた。織田家の財力が大きく、恩賞が出せる見込みがあったので武将達や足軽達も渋々だが従った(後に、実際に交付)。織田軍の鉄砲隊と弓隊が展開し、逃げる敵兵に射撃を加えて死体を増やしていった。槍隊は橋への退路を塞がずに追い打ちをかけた。徳川軍も信長の作戦計画に従って橋を迂回して北に向かい、北条軍の退路を限定した。


 橋を渡って北方に退却した北条軍の残存部隊(敗残兵の群れに近いが)も多くは長生きできなかった。柴田勝家隊が追いつき、徹底的に追撃したからだ。北条軍の兵士達は次々に銃や矢で撃たれ槍で刺されて死体となっていった。そして、首を取られていった。柴田勝家は徹底的に攻撃させつつ、北に退路を開けさせておいた。必死で抵抗されるのを防ぐためだった。このため、北条軍の敗残兵は北に逃れたが長生きはできなかった。前田利家部隊(約1万)が展開しており、敗残兵は徹底的に掃討された。取られた首が余りにも多かったので、後の首実検が一週間以上も掛った程だった。




 北方に逃げた北条軍の残存部隊が撃滅されつつある頃、小田原城の落城も決まりつつあった。織田軍の各部隊は北条軍を追撃して小田原城内に侵入した。佐々成政の部隊が各部隊に攻城用の資材を届け、各部隊は北条軍部隊を掻き分けて進んだ。大鉄砲で焼夷弾が撃ち込まれ、織田軍の足軽達が次々に梯子を架けた。北条軍は門を閉じようとし、門の近くにも展開して織田軍の侵入を防ごうとした。しかし、自軍の退却する兵士達を見殺しにはできなかったし(行えば戦意が失われる)、混乱した上に人数が少なかった。城内に雪崩れ込んだ織田軍は竹束や盾で仕寄せを構築した。鉄砲隊と弓隊が仕寄せに展開し、援護射撃を行った。それに合わせて、竹束を持った槍隊が進む。槍隊は仕寄せを北条軍に近づけていった。射撃戦で北条軍が劣勢になると大鉄砲から焼夷弾が撃ち込まれ、弓隊は火矢を放った。織田軍の部隊はそれを合図に雪崩れ込んでいく。




 各所で北条軍は圧倒され、織田軍は城内に橋頭堡を築いた。旗で橋頭堡が確保されたのを確認すると織田軍の各部隊は進撃を停止して仕寄せを構築し、鉄砲隊と弓隊を展開させた。やがて、カノン砲と臼砲を装備した傭兵砲兵部隊が展開した。カノン砲と臼砲が焼玉を撃ち込み、防御施設に打撃を与え火災も発生させた。火災がある程度まで広がると、臼砲から榴弾が撃ち込まれた。櫓などの防御施設は崩れ落ち、柵や竹束も燃え落ちた。突撃の太鼓と法螺貝が鳴らされ、織田軍の部隊は総攻撃に出た。鉄砲隊と弓隊が鉛玉と火矢を射かけ、カノン砲と臼砲が鉄弾と榴弾を撃った。北条軍の兵士達は鉄弾や榴弾で吹き飛ばされ、織田軍の兵士達が雪崩れ込んでいく。篠曲輪を完全に占拠した織田軍は城内に侵入し、方々に放火した。北条軍は残存部隊を二の丸と三の丸に集結させて防戦を図った。




 しかし、劣勢は覆しようがなかった。織田軍は主として滝川隊が城内の防衛線を東から西に突破した。他の織田軍も城内に進入した。織田軍は小田原城内の町を焼き払っていった。これにより、小田原の町は大半が焼き払われた。織田軍は街が焼け落ちると陣地の構築を行って北条軍の逆襲に備えた。織田軍は将兵の疲労を癒すために3日ほど休息してから攻勢を再開した。仕寄せを構築しながら、織田軍は接近していった。並行して、約180門の大砲(臼砲とカノン砲が半数ずつ)と同数の投石機を据えた攻囲線が城内に構築された。城内侵入から6日目に攻囲線が完成すると、織田軍の総攻撃が開始された。5日間に亘る激烈な砲撃で、三の丸の城壁が崩れ始めた。焼き玉や焼夷弾が撃ち込まれ、火災が発生すると臼砲から榴弾が撃ち込まれて櫓などの防御施設が破壊されていった。


 信長は榴弾が炸裂し、櫓が崩れていく様子を満足げに見ていた。信長「良い火祭りだ。大砲の轟音は帝国の幕開けを告げる音として最高だ」と言った。砲撃に合わせて仕寄せも延長されていった。ここで黒田官兵衛が信長に講和を提案した。信長は近衛前久を勅使として北条氏に降伏を勧告した。結局、北条氏は受諾した。北条氏一族は長宗我部氏に預けられた。封鎖されていた忍城などの支城も開城して、1586年5月23日、小田原攻めは終わった。




 織田軍が勝利できたのは織田信長の作戦計画と、それを実行できた織田軍将兵の練度による。信長は北条氏の籠城作戦に付き合って軍資金と時間を浪費する気などなかった。信長は主に羽柴秀吉と入念に作戦計画を練り上げた。当然、羽柴秀吉の部隊が急速に戻ってこられたのは偶然ではなかった。事前に、進撃路が選定されていた。街道には休息所が設けられ、食事と水が用意されていた。夜間になると、松明が焚かれて道が照らしだされた。足軽は陣笠と刀だけで行軍しており、鎧や他の武器は狩川を川船で運ばれた。そして、小田原城の北にある多古の北5キロの地点で羽柴隊は武器や鎧を装備して南下し、北条軍を急襲した。つまり、織田軍は中国大返しを再現したのだった。もう一つ、織田軍の作戦が成功した要因は攻囲線と備蓄物資に惜しげもなく放火したことだ。蒲生氏郷隊の撤退も予定通りであり、秩序だったものだった。普通は見破られるのだが、蒲生氏郷隊が攻囲線と備蓄物資に放火したことから北条軍の視界が遮られた。このため、北条軍は戦況の把握に苦労し、部隊間の連携も困難になった。


 当たり前だが、当時の通信手段は馬、伝令、狼煙ぐらいしかないので救援に来た北条隊と城の北条軍主力が連絡を行うのは困難だった。このため、事前の作戦計画通りに攻撃を続行するしかなかった。それに、当時の常識として攻囲線と備蓄物資に惜しげもなく放火してしまうというのは常識外だった。北条軍部隊が互いに味方が攻囲線に攻め込んで放火したと思い込んだのも無理はなかった。信長と秀吉による作戦計画がなければ、対北条戦は大幅に長引いていた可能性が高い。




 北条氏の降伏後、信忠は小田原城において戦後処理を行った。まず、論功行賞が行われた。主なものは次の通り。徳川家康には伊豆と相模と甲斐の織田領および戦費の補償(代わりに三河は織田氏の直轄領に編入)、羽柴秀吉には備後と多額の黄金(別に戦費も織田氏が保証)、丹羽長秀は上野、前田利家は国替えで安芸(戦費も織田氏が補償)、長宗我部氏は四国の全て(別に、戦費も織田氏が補償。なお、三好は出雲に国替え。淡路島は織田氏の直轄領に編入)、柴田勝家には越中が与えられた。別に、恩賞かどうかは微妙だが毛利は国替えとなり、武蔵、下総、上総、安房、常陸の旧北条領が与えられた。戦費も保証され、国替えに当たって別に援助を行うことが約束されたが、毛利氏では不満の声が大きかった。しかし、反逆できるわけもなかった。なお、長門は織田氏の直轄領となった。一連の論功行賞は信忠が黒田官兵衛と蒲生氏郷の補佐を受けて行った。




 北条領では戦災地の復興が始められた。例のないことだった。この措置だけは信長が信忠に秘かに指示していた。信長は織田幕府の創設のために、評判に配慮する必要性を感じていた。同時に、街道の整備も命じ、戦災で家を失った者を雇うように指示している。こうしたことは、後を引き継いだ大名が織田氏の援助で継続している。信忠は小田原城に、半年、滞在して戦後処理を行った。この間、安土から多数の織田家の家臣が出張して政務は小田原城で行われた。信忠の側近として黒田官兵衛と蒲生氏郷がこれを機に、織田信長は織田信忠に実権を譲った。ただし、信忠からの要請で朝廷工作と外交の権限は保持した。



 最後の支城(忍城)が開城すると、織田信長は戦後処理を信忠に任せて、近衛前久と共に安土に引き返した。安土に帰還すると2日間、休息してから京都に上洛した。戦勝報告を朝廷に行うと共に、幕府を設立するための根回しが始めた。信長が近畿に素早く戻ったのは、織田信忠に戦後処理を任せることで信忠が織田家の当主であることを示したかったこと、九州攻めの準備を早期に開始したかったからだ。信長は次の九州攻めを「織田幕府による九州平定」としたかった。




 理由は、次の通り。第一に、織田幕府に対する権威づけ。織田幕府による戦争を行うことで、織田幕府が諸大名を統率して九州平定を行ったとの実績を作りたかった。信長は後世において織田幕府の第一章が戦争の勝利によって語られることを望んでいた。信長は本能寺の変以来、外部から正当性を付与されていない政権は常に謀反の危険に晒されていると認識していた。このため、朝廷から承認された幕府が天下布武を行うという形に拘っていた。「征夷大将軍である織田信忠が九州平定を行った」となれば、仮に自身が死亡したとしても織田信忠に権威が継承されると考えた。また、信長は鎌倉幕府が権威を確立できたのは壬申の乱において朝廷軍を敗北させたことによると考えていた。


 つまり、幕府軍が敗北させる敵は強いほど良いことになる。そうなってくると、島津氏は丁度良い標的ということになる。織田家が北条討伐に専念している間に島津氏は九州統一を急いでいた。すでに、信長が干渉する意向を表明していたからだ。このため、島津氏は攻勢を強めており、大友氏は筑前に追い込まれていた。信長は織田幕府の優位を確かにするために島津氏の領地を削ることが不可欠だと判断していた。島津氏が強いことは明白だったが、織田家に勝てるほどではなかった。征夷大将軍の実績作りの標的としては申し分ない。


 第二に、織田家との同盟者である諸大名への配慮を見せておくこと。長宗我部氏との約定が好例であるが、織田家の同盟者である大名も幕府の命令という正式な形式でなければ織田家に協力したがらなくなっていた。天下布武の達成が目前になってきたので、どの大名も一定の秩序を欲していた。以前の信長なら、こうした懸念について全く配慮しなかったが本能寺の変からは変わった。人生50年の時代でもあり、信長は信忠の時代を考慮していた。




 以上の理由を考慮すると、織田家と島津氏の対決は避けられなかった。信長は近衛前久などの助力を得て、織田信忠を征夷大将軍にすることを朝廷に承諾させた。なお、朝廷は織田信長の意向を歓迎していた。信長の子である信忠が征夷大将軍に就任するということは織田政権が朝廷の機構に組み入れられることになるからだ(つまり、織田政権が朝廷の権威を政権維持の一助にするので朝廷が必要な存在であることを確認できたからだ)。このため、朝廷は簡単に承諾した。信忠が安土から帰還すると、早速、朝廷から征夷大将軍に任ずるとの意向が勅使によって伝えられた。信忠は承諾した。




 

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