終戦と新秩序
連合軍の攻勢にルーデンドルフは焦り、ウィルソンの14ヶ条を碌に見当もしない内に交渉を進展させた。ウィルソンは交渉が進展するにつれて強硬になり、帝政の廃止も要求した。交渉を観察していた日本帝国は驚いた。是までの戦争で政体の変更を要求したのはナポレオン戦争ぐらいしかなかった。それもナポレオンは謀反人ということでブルボン王朝のルイ十八世に戻した。戦勝国が講和条件として政体の変更を要求するのは極めて異例だった。
井上首相は「青いボルシェビキであるウィルソンの本性が出ただけだ。しかし、問題はない。革命の輸出を行う国家は敵が増えることはあっても減ることはない。いずれ、アメリカ合衆国は日本帝国の助力を必要とする」と述べた。日本帝国は益々、ウィルソン政権への敵愾心を深めた。
山南国防副大臣はイギリスのロイドジョージ首相に「アメリカ合衆国の提案で講和は問題外になりました。確かに、ヴィルヘルム二世は忌々しい皇帝でした。しかし、君主は王家の存続のために自制心が働きます。それに比べて、革命で誕生した政権は自制心が働きません。対外特務庁の報告書で示した通り、ヴィルヘルム二世はシュリーフェンプランの発動に消極的でした。積極的だったのはドイツ陸軍参謀本部です。敵を間違えてはなりません。大体、自国の皇帝に忠節を通さず、戦局が不利になると革命を起こす連中が信用に値しません。連中が外国との条約を守り、復讐戦争を挑まないと本気で思われますか?」と述べた。
日本帝国の説得でロイドジョージも考え直した。ロイドジョージは日本帝国にも協調姿勢をとらせるように圧力をかけるので政体の変更は取り下げる様に求めた。しかし、ウィルソンは戦争の元凶がヴィルヘルム二世だと決めつけていたので頑としてロイドジョージの意見を拒絶した。このため、日本帝国は強硬姿勢を徹底することにしてフランスを説得してドイツへの侵攻を強行させようとした。
しかし、フランスのクレンマンソー首相はイギリスやアメリカが共同しなければ不可能だとした。日本帝国の提案に賛同したのはフォッシュなどの少数派だった。「貴国は賠償金も植民地も受け取るべきでは成りません。貴国に必要なのはドイツとの緩衝地域です。ライン川西岸まで進撃してこそドイツは敗北を実感します。嘗て、貴国の偉大な皇帝であるナポレオンは大きな間違いをしました。オーストリアに止めを刺さなかったことです。今、ライン川西岸まで進撃しなければ貴国はナポレオン戦争と同じく復讐戦争で敗北することは確実です」と山南国防副大臣は述べた。フォッシュは大賛成だったが、他は消極的だった。
井上内閣はイギリスやフランスが消極的なので投げ槍になり、ドイツには何も要求せずに友好関係を再構築することにした。更にフランスには二度と陸軍を派遣しないことも決定した。枢密院と貴族院で承認され、イギリス政府にも通告された。ロイドジョージは流石に不安になり、ライン川西岸まで進撃するように閣内を説得しようとしたが殆どの閣僚に反対されて断念した。この間に、休戦交渉の噂が各国の陸軍兵士達に伝わり、厭戦気分が広がった。
このため、連合軍の攻勢は11月1日に延期された。更に日本帝国はライン川西岸に連合軍が侵攻しないなら攻勢の意味がないとして、交渉の行方を見守るため、12月1日まで攻勢を延期するように求めた。イタリアも同調した。フォッシュは攻勢の発動を主張したが、攻勢は11月20日まで延期された。10月27日にルーデンドルフは解任されていた。休戦を主張したにも関わらず、戦局が落ち着くや継戦を主張したためだ。ルーデンドルフが解任されてもドイツの立場が改善することはなかった。ウィルソンがヴィルヘルム二世こそ元凶だと思い込んでいたからだった。このため、連合軍の攻勢発動前に思わぬ事態が発生することになる。
10月27日、ドイツ海軍に出撃命令が出された。しかし、水兵達は厭戦気分に浸っていた。
11月3日、キールで水兵達が公然と反抗し始めた。11月4日、水兵達が軍艦を占拠し、赤旗を掲げた。
11月6日、反乱はドイツ本土の全海軍基地に広がった。日本帝国、アメリカ、イタリアの提案で攻勢は来年まで延期された。
11月9日、ベルリンで労働者による水兵と連動した大規模デモが発生した。是がドイツ革命の始まりだった。11月10日、ヴィルヘルム二世は退位してオランダに亡命した。連合国はドイツの形成を静観することにした。1918年11月8日、ドイツの交渉団がコンピエーニュの森の列車の中で休戦協定に署名した。11月11日、休戦協定は正式に発効した。第一次世界大戦は終了した。
ドイツでは混乱が続いた。しかし、ドイツ陸軍が組織したフライコール(義勇軍)によりドイツ共産党のスパルタクス団は鎮圧されていった。オーストリアでは緊張状態が続いていた。
11月11日、ハンガリーで共産主義勢力(日本帝国の圧力でオーストリア官憲が摘発を進めていた)が蜂起したが、日本帝国とイタリアの支援を受けたオーストリア陸軍に反撃されて1919年1月までに撃滅された。オーストリア帝国は各民族が独立しか眼中になかったので、段階的に(5年間で)分離していくことになった。各国の国境線の策定は日本帝国とイタリアが行うことで合意が成立した。
両国が講和の斡旋国であり、援助も約束していたからだ。日本帝国は旧オーストリア帝国の領土が共産主義勢力の手に落ちれば大きな脅威になると認識していた。イタリアも周辺国が共産化するのは嫌であり、今回の戦争で併合した領土を安定化させるためにも旧オーストリア帝国の地域の安定は不可欠だった。日本帝国とイタリアは戦後も協力して旧オーストリア帝国の安定に努めていくことになる。
11月14日、ルーマニア陸軍がハンガリーに侵入したが日本帝国やイタリアから要請されたブルガリア陸軍が出兵してオーストリア陸軍と協力して一週間で撃退した。日本帝国とイタリアは陸軍部隊をオーストリア帝国の国境地帯に集結させて介入の構えを見せ、ルーマニアに最後通牒を発した。このため、ルーマニアは侵攻を中止した。これにより、日本帝国とイタリアは旧オーストリア帝国からの独立国の信頼を得た。日本帝国とイタリアは旧オーストリア帝国の地域に大きな影響力を持つ様になり、第二次世界大戦でも大きな役割を果たすことになる。
第1次世界大戦の講和会議はフランスの外務省で行われることになった。日本帝国の全権代表は石田外務副大臣であり、山南国防副大臣が補佐した。日本帝国とイタリアはドイツも講和会議に招くべきだと主張した。日本帝国は連合国軍がライン川西岸まで侵攻しないことが明白になってからは融和路線に転換していた。また、戦勝国だけで会議を開けば各国の利害が激突して連合国の一体感が損なわれることを懸念した。アメリカも同調したが、英仏の主張で戦勝国だけによる講和会議となった。これが大きな過ちだった。会議は冒頭から各国の利害が正面衝突して収拾がつかなくなった。
ウィルソンは民族自決に拘り、オーストリア帝国の即時解体やイタリアが併合した新領土での住民投票などを求めた。日本帝国とイタリアの代表団は激怒した。旧オーストリア帝国の地域は両国の努力で安定してきており、ウィルソンの意見は安定を破壊しかねなかった。更に日本帝国やイタリアにとって民族自決の原則は承認したこともないし承認できなかった。
イタリアの代表団は帰ろうとしたが、日本帝国が引き留めた。石田外務副大臣(対外特務庁の予備要員)が引き留めた。「貴国の退出は、青いボルシェビキ(ウィルソン)の思う壺です。戦争では撤退しても奪還することはできます。しかし、外交交渉で退席は相手国の善意に頼ることを意味します」と述べた。イタリアは席に戻った。日本帝国とイタリアは一貫して協調し、ウィルソンの主張を阻むことに全力を注いだ。
しかし、アメリカ、日本帝国とイタリアが共通したこともあった。ドイツに賠償金も領土も請求しなかったことだ。ウィルソンは理想主義からであり、日本帝国とイタリアは現実主義からだった。英仏がドイツを徹底的に攻撃する気がないのなら、ドイツに苛酷な要求をするのは馬鹿げているというのが日伊両国の共通認識だった。イタリアは新領土の安定のために協調を必要とし、日本帝国はソ連に加えてアメリカ(正確にはウィルソン政権)の脅威を感じていた。ドイツとは和解して脅威を減らしたかった。日本帝国は山東省をドイツに返すことさえ提案した。
イギリスは日本帝国の豹変ぶりに驚いたが、日本帝国にすれば当然だった。ライン川西岸まで侵攻できない以上、ドイツを屈服させるのは不可能だった。イギリスやフランスが侵攻する気がないなら軍備制限や莫大な賠償金も意味がなかった。ドイツが再戦を決意すれば、苦戦は免れなかった。「苛酷な要求を履行させるのに相手の善意を頼みにすることは愚かですよ」と石田外務副大臣はロイドジョージに語った。日本帝国とイタリアは戦争責任についても反対した。前記の通り、ヴィルヘルム二世は戦争の主犯ではなかった。
更に日本帝国とイタリアは戦争責任の追及自体に反対だった。第一次世界大戦の最大の原因は、ドイツのシュリーフェンプランの発動だった。しかし、ロシアの総動員令も無視できない要因だった。ニコライ二世は総動員令がロシアの開戦を意味しないとドイツに説明したが、ドイツだけではなく日本帝国なども信じなかった。中央アジア、満州、朝鮮半島などでのロシアの行動を見れば、隙を見て攻撃してくると考えるのは当然だった。そして、中立侵犯はヨーロッパの戦争でも珍しくない事だった。これらの事でドイツ皇帝などを告発するのは問題外だった。
戦争責任を追及できそうなのは毒ガスの使用を命令したファルケンファインなどだった。しかし、実はドイツ陸軍が毒ガスを使用する前にフランス陸軍も催涙ガスをドイツ陸軍に対して使用していた。催涙ガスも戦争時に使用が禁止されていた。フランス陸軍の催涙ガスは警察用であり、効果も薄かったがドイツ陸軍を断罪できるかは疑問だった。他にもベルギーで民間人がドイツ陸軍部隊を攻撃してドイツ陸軍部隊が応戦したことがドイツ陸軍の残虐行為とされることなども発覚した。ドイツ陸軍の残虐行為があったことは確かだった。しかし、組織的な事件は少なく連合軍も責任を追及できる程、行いは良くなかった。このため、日本帝国とイタリアは協調して戦争責任条項の破棄に全力を挙げた。
これは、日本帝国がドイツを憎んでいなかったことを意味しない。憲政党と帝国党の議員の多くはヴィルヘルム二世やドイツを憎くむようになっており、イギリスかフランスの陸軍がドイツ国内に進軍するなら喜んで日本陸軍を指揮下に置いて従軍させることを決めていた。ロシアに共産党政権を誕生させたドイツは日本帝国にとって「ソ連の同類(大谷国防大臣)」であり、憎悪するようになっていた。
しかし、英仏が陸軍を侵攻させないことに決めた以上、日本帝国に選択の余地はなかった。日本帝国は11個師団、3個騎兵旅団、8個砲兵旅団、陸軍航空隊(約4100機)を主力とする陸軍部隊と海軍の主力を派遣していたが、国力の関係で是が限界だった。これに加えて、イタリアに各種の援助を行っていたからだ。さらに、日本陸海軍は志願兵を核とした職業軍的な性格の強い軍隊であり、増強には限度があった。しかも、世界的に共産主義や無政府主義が流行しており、軍隊の規模を闇雲に増やして大衆軍的な性格を強くするのは危険だった。日本帝国は満州や中国でもアメリカやイギリスに条約上の義務を負っていた。これ以上の派兵は兵力的にも不可能だった。
こうした日本帝国の説明にイギリス政府はドイツに軍縮と莫大な賠償金を課すことで弱体化させると説明した。しかし、「意味のある軍縮と賠償金の取り立ては敵陸軍の打倒と苛酷な占領でしか達成できません。そして、条約で相手を屈服させることが不可能なのは歴史が証明しています」と石田外務副大臣は述べた。石田外務副大臣はオーストリアやプロイセンがナポレオンによって打倒された後に、条約で軍備を制限されたにも関わらず陰で再軍備を進めてナポレオンを打倒したことなどをロイドジョージに思い出させようとした。
しかし、ロイドジョージは国内世論の動向もあって日本帝国の意見を採用しなかった。それどころか、フランスによるドイツ本国の占領や割譲を常に抑える側に回った。そして、賠償金や軍縮をドイツに強要することも止めなかった。更にウィルソンの国際連盟に賛同して各国を団結させようとした。
しかし、イギリス政府の試みは成功する筈もなかった。民族自決の原則を掲げるウィルソン政権が率いるアメリカと、多民族国家の日本帝国および新領土を併合したイタリアが協調できるわけもなかった。アメリカはヨーロッパが嫌で移住してきた移民による国家なので心配はなかったが、日本帝国は台湾やカムチャッカ半島などを征服して拡大した国家だった。これらの地域の住民は日本帝国の国民としての権利を認められ、議会にも議員を送っていた。対外特務庁や内務省には台湾系住民や欧米系住民の幹部も多かった。独立運動は存在していたが、賛同するのは極少数だった。
しかし、ハワイ併合の時もアメリカは欧米系住民(アメリカ系住民の中にさえ王党派がいた)も含めてハワイ国民の多数派が反対だったにも関わらず、クーデターで女王を退位させてハワイ共和国を建国した。そして、後にアメリカへ併合した。この時、日本帝国は何の抗議もせず、各国で最初にハワイ共和国を承認した。当時の通商外交省大臣が併合を支持する声明も出した。ロシアとの対決に備えてアメリカと対立の火種を残さないためだった。
同時に、警戒して日露戦争までアメリカ人に一連の規制を課したが外交的には完全に協調していた。日露戦争後にアメリカ人に対する一連の規制も解除され、日本人移民排斥についても何の抗議もしなかった。それどころか、政府の訓令に逆らって抗議した通商外交省の領事や職員の数名が懲戒免職にされた。アメリカに干渉して無用の対立を起こしたくなかった。
帝国党はアメリカの国内問題に干渉する気はなく、日本帝国内で外国人労働者(特に密入国の朝鮮人労働者)を排斥する立場なので干渉する筈もなかった。憲政党は基本的に親米路線であり、経済的な観点からだけではなく思想面でも共感していた(天皇に忠節を誓うことを除けば)。帝国党(君主制支持政党の立場からアメリカを嫌っている議員が多かった)を説得してアメリカとの友好関係を推進した。それにも関わらず、ウィルソンが民族自決の原則を打ち出したのは腹立たしかった。このため、憲政党は却ってウィルソンへの敵意を強めた。
一方、帝国党は元からアメリカを好きではなかったので(君主制国家を好むことから)、態度は平静だった。帝国党からすれば、ハワイの次に日本帝国が標的とされただけの事だった。日本帝国の連立政権の与党が二つとも、この様な態度なので日本帝国がアメリカと協調する筈もなかった。
イタリアは当初、アメリカに敵対していたわけではなかった。しかし、ウィルソンが強硬に民族自決の原則を主張してくるので怒りが高まってきた。このため、日本帝国と共同して徹底的にウィルソンの構想に反対した。パリ講和会議はドイツへの処分を決める筈がアメリカ(正確にはウィルソン政権)の理想主義を世界の潮流とするか、日本帝国やイタリアが主張する現実主義の継続かの争いになった。
日本帝国やイタリアはポーランドやバルト三国の独立にも反対した(これらの地域はドイツに統合すべきと主張)。国際連盟にも強く反対した。日本帝国が強硬になったのは、ウィルソンが山東省を中国に返還するよう要求してきた上に、朝鮮半島を支配する高麗自治共和国の漢民族優位政策を改める様に日本帝国が圧力を加える様に要求してきたからだ。このため、日本帝国やイタリアは民族自決の原則が敗戦国を対象とした要求ではなく、ソ連と同様にアメリカが輸出する革命の概念だとの確信を深めた。当然、両国はウィルソンの全ての構想に断固として反対し、アメリカとの対立が深まった。
イギリス首相のロイドジョージはアメリカ対日本帝国およびイタリアの対立に頭を抱えていた。三国とも第1次世界大戦での戦死者が英仏や独に比べて少なく、攻勢を行う力を残していた。このうち、アメリカの派遣できる陸軍兵力が最も多かったし、ドイツが休戦する大きな要因がアメリカの参戦だった。
しかし、事は単純ではなかった。アメリカは第二次世界大戦時と比べると信じがたいが、軍需産業の規模が列国に比べて大幅に劣っていた。戦車、飛行機、野砲はフランスから供与され、迫撃砲と予備の小銃はイギリスから供与された。戦闘に参加した師団は11個師団だった。対して、日本帝国は全ての軍需物資を自前で調達し、自国の陸海軍に補給していた。
その上、イタリアに戦車、航空機、榴弾砲、迫撃砲などの陸軍装備や線戦略物資を供給してイタリアの戦争遂行能力を大幅に強化した。日本帝国の援助を受けたイタリア陸軍は20個師団をフランス戦線に投入し、大いに貢献した。
戦争全体の貢献でも日本帝国の貢献は軽視できなかった。ドイツ植民地の攻略作戦、ドイツ東洋艦隊の撃滅、太平洋やインド洋などの日本海軍による担当海域の引き受けでイギリス陸海軍は第一次世界大戦の前半、戦力を集中してドイツ陸海軍と交戦することが出来た。更に日本帝国が英仏に毒ガス兵器と防毒マスクを供与したのでドイツへの報復が迅速に行えた。
イタリア参戦後は更に活躍が目覚ましく、日本海軍とイタリア海軍合同のオーストリア海軍封じ込め、イタリア戦線でのオーストリア陸軍への攻撃とオーストリアの戦線脱落の秘密工作、ユトランド沖海戦での日本海軍の奮戦、フランス戦線のアミアン戦線などでの日本陸軍の活躍で日本陸海軍の奮戦も勝利に貢献した事は明らかだった。日本帝国と疎遠になった場合、イギリスが不利になることはイギリス国民にも周知された。
アメリカが参戦したのはツィンメルマンノート事件や無制限作戦でドイツに脅威を感じていたからであり、イギリスにとって今後も頼れるかは不確実だった。アメリカはイギリスなしで安全保障政策を行うことも可能だった(得ではないが)。それに比べて、日本帝国はイギリスとの同盟を必要としており、確実な同盟国だった。ソ連や中国からの脅威、アメリカとの仲介においてイギリスによる協力が日本帝国にとって必要なのは明白だった。このため、ロイドジョージは何としてもアメリカと日本帝国の対立を緩和させたかった。
そこで、石田外務副大臣とロイドジョージは会談した。ロイドジョージ「日本帝国はアメリカ合衆国に何を求めますか?」。
石田「日本帝国の解体に繋がる民族自決の原則の撤回と、友好関係の維持です」。
ロイドジョージ「民族自決の原則はウィルソン政権に限らずアメリカ合衆国の方針になるでしょう。そして、アメリカ合衆国は民族自決の原則に限らず、理想を断行できる力を持っています。其れは貴国が一番、理解されている筈です。貴国はアメリカ合衆国が何を提供すれば妥協しますか?」。
石田「アメリカ合衆国が共産主義への敵対姿勢を明確にし、具体的な行動を示せばアメリカ合衆国の理想主義に従いましょう。ウィルソン政権の理想主義がアメリカ合衆国の得になるとは思えませんが」。。ロイドジョージ「結構な御返事ですが、貴国で承認されますか?特に、帝国党は反対するのではないですか?」。
石田「問題ありません。憲政党、帝国党、枢密院、貴族院の承認書があります。御覧ください」。ロイドジョージは承認書を受け取り、概要に目を通した。そして、驚いて顔を上げた。
ロイドジョージ「山東省だけではなく、上海と満州以外の利権も中国に返還するというのは本当ですか?しかし、ウィルソンはオーストリアやドイツの地域などで民族自決の原則を実行しようとしているのであって貴国に適用しているわけではありませんが?オーストリア帝国をウィルソン大統領の要求通りに処分した方が貴国の損失は少ないのではありませんか?」。
石田「ロイドジョージ首相閣下、それは短期的な利益にしかなりません。オーストリア帝国の各民族を短期間に独立させれば、内戦状態に突入するのは確実です。各民族が入り乱れている地域で民族自決の原則が適用された場合、領土は細切れ状態になります。当然、必要な国土を確保しようと各民族が戦争を開始するのは確実です。そうした状態に付け込むのはソ連やドイツです。それは、貴国やヨーロッパ全体だけでなく、我が帝国やアメリカ合衆国にとっても最悪です。
よって、オーストリア帝国は段階的に分離し、各国に一体性を持たせることが必要です。連邦制が理想的ですが、最低でも安全保障体制と貿易に関する協商体制を構築させる必要があります。また、イタリアの協力も欠かせません。旧オーストリア帝国の地域を安定させるうえでもソ連に対抗するためにもです。旧オーストリアからの独立国とイタリアが合わされば、地域が安定化しますし、ソ連もドイツも侵入することが難しくなります。我々の構想の方が貴国やヨーロッパ全体、現地の人々にも最良です。
しかし、イタリアも義務と危険を負うのですから、見返りが必要です。イタリア国民が納得してこそ、イタリア王国も地域の安定化に全力を尽くせます。イタリア王国が直接的には最も利益を受けますが、脅威が顕在化しない内から理解を得るのは難しいです。ロイドジョージ首相閣下、貴国がアメリカ合衆国に遠慮する気持ちは理解できますし、アメリカ合衆国が超大国であることも理解しています。しかし、超大国の国民は同盟国の大切さを忘れがちです。超大国の国民による世論という名の気紛れに備えておくことも不可欠だと思いますが。如何でしょうか?」。
ロイドジョージ「全面的に賛成です。貴国の戦略が最善だと確信します。大英帝国は貴国の戦略を軸にヨーロッパの情勢に対応していきます。しかし、御無礼を承知で申し上げますが満州共和国と高句麗自治共和国に何らかの働きかけを行っていただけませんか?形式だけでも構いません。そうした行為だけでも超大国の国民に対する配慮となります」。
石田「申し訳ありませんが、御断りします。形式的な抗議だけでも両国は無視できません。ましてや、アメリカ合衆国と合同したとなれば、両国は日本帝国が見捨てたと思います。それだけでなく、中国共産党も含めた中国の革命勢力も勢いづきます。そうなれば、我が帝国も貴国も脅威に晒されます。また、我が帝国は、妥協する場合は同盟国に損を押し付けるのではなく自国が損をするようにしてきました。条約を厳守している同盟国の信頼を失うことが不利益になることを日本帝国は熟知しています」。
ロイドジョージ「感服しました。大英帝国も貴国の信頼を損なうことが国益上、不利になることを自覚していると、天皇陛下に御伝え下さい。何故なら、満州共和国や高麗共和国に対して条約以外の義務を強要しないなら、より関係の深い我が大英帝国にも同様の対応を行うと確信できるからです。今後、アメリカ合衆国との関係が深まっていくのは確実です。しかし、大英帝国が大国であるためには同盟国の弱体化を望まない同盟国が不可欠であり、その国が日本帝国だと確信しています。この事を天皇陛下や首相閣下などに御伝え下さい」。
ロイドジョージは立ち上がって、握手を求め、二人は固い握手を交わした。
その後、ロイドジョージと石田外務副大臣はポーランドやバルト三国の独立について話し合った。ポーランドやバルト三国に関しては、日本帝国やイタリアはアメリカとの駆け引きで反対しているに過ぎないことも説明された。その後、一連の合意が成立し、ロイドジョージは喜んだ。日本帝国はアメリカがソ連および共産主義や無政府主義などの過激派を敵とすれば、ウィルソンの構想に同意した。中国の治安維持に関してはウィルソン政権の意向を確認することにした。ウィルソン政権は山東省を中国に返還するだけではなく、中国の利権を全て中国に返還することまで主張していた。
そうなると、革命派により列国の貿易や商業はできなくなるし、列国の邦人達も確実に危害を加えられる。石田外務副大臣はウィルソンの要求に同意した場合、日英同盟の中国大陸における適用範囲を香港、上海、満州に絞り、他の租界からは撤退するとロイドジョージに通告した。また、イギリス以外の国からの出兵要請には応じないし、イギリスからの出兵要請も貴族院と衆議院の承認を得ることになるとも警告した。
こうした日本帝国の意見には帝国党などの保守派の意見が関係していた。帝国党などの保守派は中国大陸からの安い製品の流入を敵視していた。このため、ウィルソンから各国への中国利権返還請求は渡りに舟だった。是を機会に中国との貿易(満州自治共和国と高句麗自治共和国を除く)を完全に遮断して、国内の雇用を更に安定させたかった。ロイドジョージは難色を示したが同意するしかなかった。日本帝国にアメリカへの妥協を促したのはイギリスだからだ。ロイドジョージも社会主義的な福祉政策の要求が強まるイギリスはアメリカに依存するしかないと承知していた。
其のアメリカが中国からの撤退を求めているのでは従うしかないと観念していた。日本帝国もイギリスもアメリカが何故、中国を助けるのか全く理解できなかった。中国はベトナム、チベット、ウイグルなどを侵略してきた無類の侵略国家だった。そして、アメリカ自体も帝国主義がなければ誕生しない国家だった。しかし、日英両国ともアメリカの世論の気紛れを理解しており、ウィルソンの責任を明確にした上でアメリカの意向に従うことで合意した。
ロイドジョージは喜んでいた。日本帝国が同意すれば、イタリアも同意するしかないからだ。イタリアは新規に併合した領土の獲得を反対されて日本帝国と同調していただけだった。よって、日本帝国の譲歩でアメリカがイタリアの新領土を認めればアメリカの構想に反対する筈もなかった。ロイドジョージはバルフォア外相に日本帝国の合意文書を持たせてアメリカ政府のランシング国務長官とパリのアメリカ大使館で会談させた。ウィルソンに直接、渡さなかったのは理想主義者のウィルソンでは他の閣僚にも知らせず、拒否するかもしれないと危惧したからだった。
ランシングはバルフォアから日本帝国の合意文書を渡されて概要に目を通した。日本帝国の合意文書の概要は次の通り。第一に、ポーランドとバルト三国の独立の承認。
第二に、チェコ軍団のチェコスロバキアへの帰還の保障。チェコ軍団の将兵はチェコスロバキアが独立した時にチェコスロバキアの正規軍に編入される。
第三に、国際連盟の構想への全面的な賛成。条件として、ソ連および各国の共産主義勢力や無政府主義勢力などの過激派への敵対姿勢を明確にし、具体的な措置を講ずること。
第四に、中国に山東省を返還する。また、上海と満州以外の日本帝国が保有する利権も中国に返還する。
第五に、民族自決の原則ではなく「民族尊重の原則」であれば全面的に支持する。「民族尊重の原則」とは、国家内の各民族に同等の権利を与える原則だった。日本帝国の代表団がウィルソンの民族自決の原則の代案として考案し、本国の承認を得た構想だった。これなら、各民族は独立の必要はなくなる。チェコスロバキアやポーランドなども国内の少数民族問題に悩まされなくて済む。是は努力義務であり、期限は設けずに各国が目指す方向とする。
第六に、日本帝国とイタリアがオーストリアと合意した講和条約に妥協の余地はない。また、朝鮮半島に関する干渉も一切、拒否する。同盟国は属国ではない。
第七に、中国政策について確認を要求する。中国に利権や特権を返還した場合、中国の治安は著しく悪化する。その場合、日本帝国は上海と満州以外の中国領では義務を遂行することはできない。当然、北進事変時の円明園条約の中国への規定も破棄することになる。つまり、中国大陸でアメリカ国民が危害を加えられても日本帝国陸海軍は救援しない。其のことを承知の上で、中国の権利を認めるのかを文書で明確に回答して頂きたい。以上の概要で、ランシングは驚いた。日本帝国がアメリカの要求の多くを認めたからだ。
ランシング「バルフォア外相、日本が是ほど譲歩したのは何故ですか?今まで、日本は我がアメリカ合衆国の意見に悉く反対して来ました。日本が急に譲歩する理由が見当たらないのですが?」。
バルフォア「其れは失礼ながら、貴国の大統領が全く妥協の姿勢を見せないからです。日本帝国は同盟国が条約の義務を誠実に履行している限り、同盟国を対等の立場として扱います。その日本帝国が満州自治共和国や高句麗自治共和国、今回の戦争で同盟国になったイタリア王国に圧力を加えるわけがないでしょう。これらの国が日本帝国に敵対すれば話は別ですが、その様な事態は考えにくいです。
そして、貴国と日本帝国は便宜的な同盟国に過ぎません。アメリカ陸海軍は明らかに日本陸海軍との共同作戦を忌避していますね。意図的に共同作戦を行わず、同盟国の絆が深まるとは思えません。さらに、戦争が終了すれば同盟は解消される。国際連盟は集団安全保障機関ではない。これで日本帝国が貴国を真の同盟国として扱う筈がありません。貴方も日本帝国やイタリア王国を怒らせた理由に心当たりがあるのでは?」。
ランシング「そういわれると、困りますね。確かに、ウィルソン大統領は外交を理解していない。外交とは双方がギブ・アンド・ティクで互いに利益を引き出そうとすることの筈です。ところが、ウィルソン大統領は自分の理想に各国が賛成しないのは悪だと思い込んでいます。最初は、ドイツやオーストリアなどの敗戦国を対象とする筈でした。
ところが、日本帝国やイタリアと敵対している。さらに、関係のない中国の代表を出席させて山東省の返還や利権の返還まで主張させた。おまけに、朝鮮半島の問題まで論争している。これでは、日本やイタリアが民族自決の原則を戦争処理の条件ではなく、イデオロギーの布教だと思ったのも当然です。私自身、困惑しています。ウィルソン大統領の主張が実現したとしてもアメリカ合衆国の利益にはなりません。国際連盟だけは実現すれば、何らかの利益に繋がるかもしれません。しかし、ウィルソン大統領のように自分の理想を主張するばかりでは機能しません。今回の日本の提案は妥当です。アメリカ合衆国の構想は実現するのですから。この案を基本にして協議を進めるように、大統領に進言します」。
バルフォア「素晴らしい。是で貴国の立場は強まり、世界の安定にも寄与するでしょう。日本帝国やイタリア王国もアメリカ合衆国が世界を主導することに異論はありません。しかし、貴国の属国になる気も有りません。貴国も世界の全てに介入する気がなければ各国の意向を考慮した方が得でしょう」。
ランシング「貴方の意見に賛成です。確かに、日本帝国の提案には利点が多い。我が国が旧オーストリア帝国の地域で独立国を誕生させて内戦を起こしてしまえば無責任の誹りを免れませんからね。また、ソ連は世界に革命を輸出することを公言していますから各国共通の課題となるのも当然です。よって、国際連盟の使命の一つを反共とするのは賛成です。
また、民族尊重の原則も良いことです。これなら各民族が混在している地域での内戦も避けられますし、各民族の地位向上も実現するでしょう。努力義務ですから、各国の実情に合わせて改革が進められます。ウィルソン大統領も納得するでしょう」。ランシングはバルフォアに一週間後の回答を約束して会談を終了した。
一週間後、ランシングは自動車でイギリス大使館を訪れた。応接室にランシングは憂鬱な表情で入ってきた。バルフォアはランシングがウィルソンの合意を取り付けてこれると思っていたが、様子が変なので訝しんだ。ランシングはバルフォアにウィルソンからの書簡を渡した。
ウィルソンの書簡の概要は次の通り。第一に、旧オーストリア帝国の地域の各国を直ちに独立させること。また、日本とイタリアが推進している旧オーストリア帝国の地域の各国の集団安全保障機構の設立は止めること。旧オーストリア帝国の復活に繋がりかねない。
第二に、国際連盟の目的に反共主義を盛り込むのは認められない。国際連盟は世界平和のための国際機関であり、ソ連が加わる可能性もある。ソ連は説得により、穏健な路線に変更可能だ。日本帝国はソ連を憎悪することを止めなければならない。
第三に、民族尊重の原則ではなく、民族自決の原則でなければならない。各民族が独立を望んでいる以上、誤魔化しは止めなければならない。
第四に、中国に利権や特権を返還する点は良いことだが、アメリカ合衆国には責任がない。いずれにしろ、日本帝国は中国に不信感を懐きすぎであり、中国を信頼すべきだ。以上の要望の他に、チェコ軍団の帰還を保障したことや中国に配慮し始めたことなどは良いことだ。一層の柔軟な姿勢を期待する。以上の概要で、読み終えたバルフォアは唖然とした。
バルフォア「ランシング国務長官、ウィルソン大統領は日本帝国の提案を理解しているのですか?日本帝国は自国で譲歩できる点は譲歩し、貴国の構想を認めています。しかも、自国の理想主義を押し付けながら結果に責任を負う気がないと表明するのは何故ですか?」。
ランシング「全く、仰るとおりですね。ハンガリーにルーマニア軍が侵攻したことや共産主義勢力が武装蜂起したことなどからも明らかなように、旧オーストリア帝国が急に分裂するのは騒乱を招きます。また、国際連盟に反共主義の概念を盛り込むのも良い提案です。ソ連は革命の輸出を公言していますし、アメリカ合衆国の政治体制とは相いれません。そして、民族尊重の原則も良い提案です。確かに、ドイツが将来、民族自決の原則を隣国への戦争の口実に使う可能性がありますからね。しかし、大統領の方針は変わりません。私が何をしても無駄です」。
バルフォア「しかし、これはアメリカ合衆国にとってもウィルソン大統領にとっても絶好の機会の筈です。貴国の主導で国際体制を確立し、主導権を握れるではありませんか。日本帝国はアメリカ合衆国の提案に応えて対案を出してきました。中国やソ連の脅威に晒されている日本帝国は現実主義でしか行動できません。アメリカ合衆国しか主導できませんし、各国も認めています。アメリカ合衆国が理想主義を推進、国際経済体制の主導などを行うに当たって、日本帝国の提案は的確だと思いますが」。
ランシング「ウィルソン大統領は、批判を恐れず果敢に理想を実現するのみ、妥協すれば体面が失われるなどと言っています。そして、我がアメリカ合衆国の国力が各国を上回っている上に、道義的にも優れているから各国が賛同するのは当然だと思い込んでいます。ところが、特に日本帝国とイタリア王国から猛反対を受けたことから強情になっています。国益が懸かった会議である以上、各国の代表団が自国の利益を最優先して見返りなしで妥協しないのは当然です。それが税金で雇われている公的な立場の人間の最低限の義務です。しかし、ウィルソン大統領には其のような常識がありません」。
バルフォア「ランシング国務長官、少しウィルソン大統領の悪口を言い過ぎではありませんか?仮にも貴国の大統領ですよ」。
ランシング「大統領である以上、自国の国益を優先していただきたいですね。私が国益の観点から進言しても聞きません。しかも、ウィルソン大統領の理想主義が全て実現したとしても、アメリカ合衆国の国益に繋がらず、世界を不安定化させるだけでしょう。そして、アメリカ国民は世界中に軍隊を派遣する気はありません。共産主義などの脅威が増大すれば、話は別ですが。貴方に御願いしたいことは、日本やイタリアと、我がアメリカ合衆国の関係が険悪にならないよう仲介を貴国が行ってもらうことです。ウィルソン大統領が理想主義に酔っている以上、合意は無理です。私の仕事はアメリカ合衆国と、日本帝国などとの決定的な関係悪化を防ぐことだけです。後任の大統領が各国との外交権関係修復を行うための余地を残しておければ最良でしょう」。
バルフォア「日本帝国やイタリア王国との仲介は諒解しました。しかし、日本帝国とイタリア王国がウィルソン大統領の構想を受け入れる可能性は極めて低いです。会議が完全に決裂しなかったと取り繕うのが精一杯です」。
ランシング「貴国の御尽力に感謝します。日本やイタリアの代表団にも伝えてください。ウィルソン大統領の理想主義をアメリカ合衆国が武力、経済的圧力、外国への支援などの手段で強要する気はないと御伝え下さい。こうなれば、できるだけ早めに条約を纏めましょう。このまま、各国との敵意が深まれば次の戦争の火種になりかねません」。
バルフォア「了解しました。貴方の御見識に敬服します。日本帝国やイタリア王国を国際連盟に加盟させるよう力を尽くします。旧オーストリア帝国の問題やイタリアの領土問題などは妥協が無理ですが、できる項目から合意を纏めましょう」。ランシングとバルフォアはポーランドやバルト三国の独立など合意のできる事項についての詳細を詰めて会談を終了した。
ランシングが帰ると、バルフォアは直ちにフランス外務省へ向かった。首脳同士で会談中のロイドジョージを別室に呼び出して、ランシングとの会談結果を伝えた。ロイドジョージは落胆して、「体面を重んじて妥協を拒否するのなら戦争でしか目標は実現しない。大国が交渉によって屈服すると、あの男は本気で思っているのか?」と叫んだ。バルフォアはランシングとの遣り取りを詳細に説明し、合意できる事項から纏めて早急に会議を終了することにした。事実上、この日、日本帝国とイタリア、アメリカの交渉は事実上、決裂した。英仏は会議が完全に決裂したとの印象を与えない様に、交渉妥結を急ぐことになる。
翌日から、各国の交渉は急速に進んだ。英仏が主導して合意できる事項から文書を取り纏め始めたことによる。まず、ドイツに関する賠償金と領土割譲が決定された。これにより、ドイツは莫大な賠償金を課され、全ての海外植民地を失った。そして、ポーランドにも多くの領土を割譲させられた。なお、アメリカ、日本帝国、イタリアは賠償金を受け取らなかった。しかし、日本帝国とイタリアはドイツを全く信用していなかった。前記の様に、英仏がライン川西岸まで進撃しなかったことによる現実的な対応だった。更に日伊の主張で戦争責任の条項は破棄された。
次に、国際連盟に関してはイギリスの説得で日本帝国も加盟し、イタリアも追随した。国際連盟の目的には反共主義が盛り込まれなかった。引き換えに、旧オーストリア帝国の扱いに関しては継続協議となった。
次に、ドイツの軍備制限が各国によって承認された。ドイツは陸軍の兵力を約10万に制限された。海軍に関しても、艦船の保有数を極端に制限され、新規に建造する場合も排水量を制限された。潜水艦の保有も厳禁された。次に、ラインラントやザール地方が一定期間、占領されることも決まった。
次に、日本帝国が山東省を中国に返還し、上海と満州を除いた利権も返還することも同意された。また、アメリカも上海と満州以外の利権や特権を中国に返還した。しかし、アメリカは中国の治安悪化について自国の責任を事前に認める文書を出すのは拒否した。日本帝国も深くは追求しなかった。最早、満州を除いた中国大陸でアメリカと協調行動を行うのを日本帝国は諦めていた。
次に、民族自決の原則が明記され、ポーランドとバルト三国の独立が承認された。他にも、次々に合意が決まっていった。最後まで揉めたのが、イタリアが新たに獲得した領土の扱いだった。ウィルソンは民族自決の原則を強硬に主張し続けた(他のアメリカ政府の閣僚は投げ槍だった)。イタリアと日本帝国は全く譲歩しなかった。イギリスが会議の決裂を懸念して継続協議とした。これにより、重要な協議は全て終了した。
そして、1919年5月7日、連合国からドイツに条約の草案が提示された。
5月29日、ドイツ政府は改善を求める文書を送った。連合国はドイツに条約の受け入れを迫り続けた。
6月22日、休戦以来、スカパフロー泊地に停泊していたドイツ海軍の主力(74隻)が自沈した。これにより、イギリス政府も態度を硬化させた。同じ日、ドイツ政府は連合国の提示した講和条約の草案を受け入れると回答した。連合国は直ちにドイツ政府の回答を拒否し、48時間以内の前面受諾を求める最後通牒を発した。ロイドジョージはドイツ艦隊の自沈でドイツに対する信頼を失った。日本帝国とイタリアは、これを口実にライン川まで進撃することを主張した。しかし、イギリスとアメリカが反対したので断念した。フランスも表向きの強硬な主張とは裏腹に陸軍の総動員は実行しなかった。戦死者が多すぎ、とても再戦が許容される政治状況になかったからだ。これが、日伊両国がドイツに対する強硬策を主張した最後の時となった。
日伊両国にとって武力行使を排除してドイツに強硬姿勢をとる英仏の態度は理解できなかった。「相手を屈服させるのに、相手の善意に頼ることほど愚かなことはない」と石田外務副大臣は述べた。この後、日伊両国はドイツに対して表面上は融和的な姿勢を取り続ける。しかし、裏側ではドイツによる再戦に備えて共同作戦計画の立案、諜報体制の構築などの検討が始まった。イギリスの陸海軍の参謀達も協議に加わった。ただし、当初はオブザーバーとして参加した。日伊両国はフランスも加えた上でイギリスが正式に参加する同盟機構の発足を求めた。
しかし、イギリスが拒否した。ロイドジョージは旧来の常識に囚われており、フランスとドイツのバランスをとろうとしていた。ロイドジョージはウィルソンと同様に、国際連盟と軍縮がヨーロッパの平和の鍵だと考えていた。イギリスも戦死者が多すぎ、集団安全保障体制は政治的に許容されなかった。日伊両国はイギリスの態度を考慮してドイツに対して集団安全保障体制で抑止を行うことを諦めた。これ以後、日伊両国は戦争準備を進める一方でドイツに対する強硬措置には参加を全て拒否した。そして、日伊両国は概ねイギリスに追随した。
日本帝国、イギリス、イタリアは日英伊協商を締結して、次の戦争に備えた。イギリス政府は日伊両国が急速にドイツとの融和を深めていくのに不安を懐いた。ロイドジョージもドイツに無警戒だったわけではなく、次の戦争でも日両国の応援は欲しかった。アメリカが再度、参戦してくれる保障はなかったからだ。しかし、フランスを加えることはドイツに対するフランスの強硬姿勢を強めかねないとロイドジョージは心配していた。このため、フランスを除いた同盟となった。
日英伊協商の概要は次の通り。第一に、同盟の目的は、日英伊の三国に対する侵略への対応、共産主義および無政府主義などの過激思想への対応。侵略の定義は、国家による先制攻撃の他、テロ、ゲリラ、テロおよびゲリラへの支援、暴動の扇動を含む。兵站、諜報、経済面(資金援助、敵対国や敵対勢力への経済制裁など)で支援する。
第二に、先制攻撃の場合、参戦義務はない。その場合でも、先制攻撃をした同盟国を他の同盟国は支援すること。
第三に、平時から三国の諸政府機関で次の事を行う。三国の陸海軍参謀本部による作戦協定、諜報面での協力(暗号解読、通信傍受、航空偵察での協力が主。諜報員による協力は戦時のみ)、三国の陸海軍による合同演習、治安機関同士の協力、軍事技術の共同研究。
第四に、共産主義および無政府主義などを三国の治安機関は協力して取り締まる。情報は別に定められる協定に従って共有される。
第五に、この同盟はアメリカ合衆国を対象としない。ただし、アメリカ合衆国が共産主義や無政府主義などの過激思想を採用した場合、テロを実行した場合などを除く。
以上の概要で、例によってイギリスがアメリカに遠慮した内容となった。日伊両国とも不満もあったが、依然として大国であるイギリスに配慮した。日伊両国ともアメリカと決定的に対立することは避けたかったので、イギリスによる仲介に期待した。これは、イギリスにとっての目標でもあった。イギリスの有力者の多くはアメリカを中心とした国際秩序に各国が協調していくしかないと判断していた。今回の戦争での大量の戦死により、福祉政策の要求が急速に強まっていた。最早、改革を断行して国力を回復する政策が支持される可能性は低く、アメリカに依存するしかないと思っていた。
日本帝国もソ連を打倒するために、アメリカにはアメリカを主軸とした世界体制が望ましいと判断していた。また、ドイツが再戦を挑んでくることも確実だと判断していた。日本帝国はドイツ陸軍参謀本部がレーニンなどの共産主義勢力を支援してロシアを共産主義化したので敵視を強めていた。目的のためには手段を選ばないドイツ人の手法に途方もない危険を感じていた。このため、アメリカ主導の世界体制を受け入れる用意もあった。
しかし、それにはアメリカが共産主義に敵対することが最低条件だった。世界体制の主導権を握るからには、世界の安全保障に責任をもつべきだというのが日本帝国の考えだった。ウィルソンはソ連に融和的であり、日本帝国がウィルソンに協力する筈もなかった。このため、ウィルソン政権の間は日本帝国が日米関係の改善に努力することはなかった。
1919年6月28日、ドイツはヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴェルサイユ条約に調印した。旧オーストリア帝国の問題については条約に盛り込まれず、後日、別の条約で決めることになった。ヴェルサイユ条約でヨーロッパに再び、大戦争が起きないと思わない人間が多数派だったのはアメリカとイギリスだけだった。フランスのフォッシュ元帥は「これは終戦ではない。20年の休戦に過ぎない」と断言した。日本帝国とイタリアも同様の意見だった。
日本帝国陸軍とイタリア陸軍はパリでの戦勝パレードに部隊を送らず、イタリアに移動を始めた。両国の政府とも戦勝パレードを行うような勝利ではないと認識していた。このため、ドイツから無用な反感を買わないように陸軍部隊をフランスから早々に撤退させた。日本陸軍とイタリア陸軍はドイツのラインラントやザール地方の占領に陸軍部隊を派遣しなかった。進駐ではドイツに敗北感を味あわせるのは不可能であり、領土を返還する以上、無意味だと判断されていた。
日本陸軍の第6軍団は部隊を本国から派遣された部隊と従事、交代させた。そして、イタリアが獲得したダルマツィア地方やイストリア半島に展開した。イタリア陸軍と合同で旧オーストリア帝国の各国(既に、事実上は独立していた)で騒乱が起きないように牽制していた。また、ユーゴスラビア王国を牽制する意図もあった。特に、セルビアは日伊両国のせいで国土が占領された上に大量の兵士と民間人が死亡して、恨み骨髄に達していたからだ。
神尾中将はパリを離れる際に、フランス陸軍の将官達に「フランス陸軍は要塞や塹壕ではなく、戦車を核とした諸兵科連合部隊で勝利しました。この事を忘れれば、今度はドイツ陸軍がパリを行進することになります」と述べた。こうした日伊両国の行動はヴェルサイユ条約の前途に疑問を懐かせた。このため、イギリス政府内でも不安が高まった。間もなくイギリス陸海軍の参謀達も日伊陸海軍の作戦協議に、正式に参加するようになった。
1919年7月15日、旧オーストリア帝国の独立予定の各国の間で、ヴェネツィア条約が締結された。5年後の独立、独立国による集団安全保障体制の発足、各国間の自由貿易および国境の開放などを趣旨とした条約だった。
調印した将来の独立予定国は、チェコ、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、スロベニアだった。これらの中で、チェコとスロバキアはチェコスロバキアとして独立する予定だった。しかし、日本帝国とイタリアは独自の調査でスロバキア人が独立を望んでいるため、独立させることにした。また、クロアチアとスロベニアはセルビアを中心とするユーゴスラビア王国の勢力を抑制するためだった。イタリアはダルマツィア地方をクロアチアに譲ることを嫌がった。
しかし、日本帝国がユーゴスラビアの脅威を強調してイタリアを納得させた。イタリアとしてもユーゴスラビアと国境を接すれば、新たな戦争になるのは確実なのだった。それならば、クロアチとスロベニアを独立させてユーゴスラビアに対する盾とした方が得だった。尤も念願の独立を果たしたクロアチアとスロベニアは不満だった。クロアチアはクロアチア人が多数派のイストリア半島をイタリアに併合され、スロベニアは海への出口がなかった。
しかし、念願の独立を果たせた上に、日本帝国とイタリアが多額の経済援助と軍事援助を行うことに同意した。さらに、イタリアがスロベニアに関しては関税なしでイタリアの港から海外と貿易できるとした協定を含む自由貿易協定を締結した(後に、チェコ、ハンガリー、スロバキアも同様の協定をイタリアと締結する)。このため、クロアチアとスロベニアも渋々、同意した。両国ともユーゴスラビアの脅威が心配だったことによる。
こうして、締結されることになったヴェネツイア条約の概要は次の通り。第一に、チェコ、ハンガリー、スロバキア、クロアチア、スロベニアは国境を開放し、相互に関税を設定しない。この措置は各国が独立する1923年から開始される。
第二に、チェコ、ハンガリー、スロバキア、クロアチア、スロベニアは集団安全保障体制として中欧同盟機構を発足する。各国は共同軍事演習、戦時の兵站支援、戦時の加盟国への聖域(軍需物資の通過の容認、一時的な兵力の退避、領空への侵入を容認など)の提供、平時からの作戦協議、平時および戦時の諜報体制の協力、兵器の共同開発、弾薬の口径の統一、各国治安機関の協力を行う。同盟の目的は、侵略の抑止および防御、共産主義および無政府主義などへの対応。また、日本帝国とイタリアが準加盟国として支援する。
第三に、各国の国境線は日本帝国とイタリアが主導する中欧委員会によって決定される。原則的に、住民投票で多数派となった民族の希望を尊重する。ただし、民族尊重の原則に基づいて各国は支配地域の少数民族に対して、国民として対等な権利を保障しなければならない。同時に、各国は少数民族問題に介入してはならない。更に、民族自決の原則を本条約および各国の憲法において明確に否定する。以上の内容で、第二次世界大戦まで、この地域の安定に深く寄与することになる。
日本帝国とイタリアは多数の陸軍部隊(両国で併せて、17個歩兵師団、イタリア陸軍の3個騎兵師団、日本陸軍の3個騎兵旅団)を1924年まで旧オーストリア帝国の地域に展開して独立予定の各地域の紛争を抑止した。日本帝国とイタリアは慎重な調査と領土区分、適切な実力行使で各国を平穏に独立させた。しかし、同条約による安定は脆弱だった。
第一に、イギリスが同条約への関与を拒否した。当初、中欧同盟機構はイギリス、日本帝国、イタリアが参加する防衛型の集団安全保障機構になる予定だった。しかし、イギリスは国内世論の反発で参加しなかった。このため、イタリアも弱気になり、支援に留めた。日本帝国は地理的に即時の救援は不可能であり、イタリアと同様に支援に留めるしかなかった。大国の直接支援がないことで加盟国も動揺した。このため、中欧同盟機構はドイツに対する抑止は限定的であり、第二次世界大戦で弱点が露呈することになった。
第二に、ヴェネツイア条約に署名した各国はスロバキアを除いて不満だった。まず、チェコはズデーデン地方の併合を否定されて不満だった。日本帝国とイタリアはドイツを警戒していた。しかし、ズデーデン地方は圧倒的にドイツ人が多数派であり、チェコが併合すれば却ってチェコが脆弱になると判断した。また、イギリスが救援してくれる見込みがない以上、ドイツとの対立要因は少ない方が良いと判断した。チェコの行動は無鉄砲であり、帰還したチェコ軍団を核としたチェコ陸軍がズデーデン地方を併合しようとした。
このため、日本陸軍とイタリア陸軍がハンガリーとスロバキアに展開した。チェコには日伊から最後通牒が送られ、侵攻を中止しなければ戦争だと警告された。チェコへの最後通牒の最後にはギョッとするような文言が記されていた。「この最後通牒を受け入れるか受け入れないかは貴国の自由です。受け入れなければ、1920年にチェコという国家が滅亡したと各国の年表に記されるだけの事です」との文面で結ばれており、チェコは侵攻を断念した。日本帝国とイタリアは援助を増額し、チェコもドイツなどの脅威を受けているので表向きには文句が言えなかった。
次に、ハンガリーはスロバキアとチェコ南部が自国領に編入されなかったのが不満だった。しかし、ハンガリー王国の折衝であるホルティ(事実上の最高権力者)は国内の反対を抑えてヴェネツィア条約に調印した。日本帝国とイタリアが尽力して(米英仏の要求も拒絶した)、ルーマニアとオーストリア共和国に領土(トランシルバニアとバナト、ブルゲンラント州)を割譲しないで済んだからだ。ヴォイヴォディナに関しても住民投票でハンガリーへの編入を望む住民が多数派の地域はハンガリーに留められた。
イタリアは現物賠償のみで済ませ、日本帝国は条約で定められた現物賠償も軽減した(旧オーストリア帝国海軍の艦艇などの兵器だけとし、石炭などは免除した)。更に、他の連合国への賠償金や現物賠償についても日本帝国が援助した。別に、経済援助と軍事援助も提供された。敗戦国なのに上々の扱いであり、ホルティは満足すべきだと判断した。
なお、ホルティは日本帝国の陸海軍の軍人達などに尊敬されていた。優勢な日伊海軍に打撃を与え、終戦後に自国で蜂起した共産主義勢力を鎮圧したからだ。これにより、日本帝国とハンガリー王国の上層部の関係は当初から良好だった。ホルティが特に喜んだのは、日本帝国とイタリアが他の連合国の反対を押し切ってヨーゼフ・アウグストをハンガリー国王として認めたことだった。日本帝国とイタリアは他の連合国が戦争できる状態でないことを見透かしていた。このため、ホルティを強力に後押しした。このため、ハンガリー国民の希望通り、王政復古が実現した(代償として領土不拡大を憲法に明記)。このため、ハンガリーは不満を懐きつつもホルティの指導力もあって中欧同盟機構のために尽力していく。
次に、クロアチアとスロベニアは前記の理由で不満だった。以上の様に、各国とも不満を抱えていた。このため、ドイツの脅威が増大すると各国の思惑で団結が崩れ、戦争抑止に失敗した。しかし、中欧同盟機構のおかげで加盟国は第二世界大戦でも被害を軽減することになる。
第三に、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ユーゴスラビア、ルーマニアといった仮想敵国に囲まれていたこと。ポーランドが敵対的なのはチェコのテッシェンを狙っていたことによる。
次に、ユーゴスラビアはハンガリーがヴォイヴォディナの半分を保持していることに不満だった。更に中欧同盟機構の後ろ盾である日本帝国とイタリアに怨念を懐いていた。
次に、ドイツは中欧同盟機構の存在に脅威を感じていた。日本帝国とイタリアが強力に後押ししていたからだ。幸い、イギリスが弱気なので直接支援は確約されていないがイギリスと対立したらイタリアの態度が変わるのは確実だった。このため、ポーランドを仮想敵国としていたドイツでは中欧同盟機構に対する戦争が想定されていた。また、中欧同盟機構の各国を併合することでドイツの国力を増してイギリスや日本帝国に対抗するべきだとの意見もあった。こうしたドイツの動向は当然、中欧同盟機構にも伝わって中欧同盟機構の各国は警戒心を強めた。
次に、ルーマニアもハンガリーからトランシルバニィアやバナトを奪うことを諦めていなかった。周囲を仮想敵国に囲まれていたが、これが中央同盟機構の各国が団結した理由でもあった。
以上の様に、中欧同盟機構は脆弱性を抱えていたが、日本帝国とイタリアの後押しで戦間期を無難に乗り切ることになる。また、第二次世界大戦でも一定の効果を発揮し、加盟国はドイツやソ連による占領を免れた。一方、日本帝国やイタリアにも利点があった。
日本帝国にとって、中欧同盟機構の各国はヨーロッパにおける諜報活動の拠点だった。ドイツやソ連に対する諜報員による諜報活動、共産主義勢力や無政府主義勢力などの過激派の追跡および公殺を含む秘密工作の実行、無線傍受や暗号解読の共同作業および基地の提供が中欧同盟機構の各国の協力によって行われた。イタリアも、これらの協力を得た。イタリアにとっても中欧同盟機構の各国は自国の盾だった。ドイツ、ソ連、ユーゴスラビアの各国による脅威に自国が直に晒されないで済んだ。
そして、日伊両国が中欧同盟機構の各国に協力した最大の理由は、これらの国が共産主義に染まらせないことだった。
次に、ソ連の動向を把握するためだった。日伊両国はソ連がコミンテルンを使って各国に革命を輸出していることの詳細も含めてソ連の動向を詳しく把握していた。このため、中欧同盟機構の各国を共産主義に対する防壁とした。中欧同盟機構は第二次世界大戦を経てNATOに吸収されるまで重要な役割を果たしていく。
なお、日本帝国とイタリアはトルコ、ブルガリア、フィンランドとも条約や協定を結んだ。資金援助や軍事技術の提供などと引き換えに、通信傍受基地の提供と共同の暗号解読などで合意した。当然、対象はソ連だった。
こうして、日本帝国はヴェルサイユ条約調印後も油断せず、同盟国ないし準同盟国との協力態勢を整えた。こうした日本帝国の動きはイギリスにとっても都合が良かった。日本帝国が中国大陸や中欧で同盟を構築していれば、地域が安定化してイギリスの軍事力を強化しなくても済むからだ。
しかし、日本帝国としてはイギリスが関与しないのは困ったことだった。日本帝国の脅威は、ソ連、国民党や共産党などの中国の革命勢力、ドイツだった。日本帝国は地理的にソ連と中国の革命勢力を主敵としているので、ドイツに対してはイギリスが中心となって対応してほしかった。イタリアは日本帝国の援助がなければ力不足だった。イギリスが主体となるしかないのだが、当のイギリスは平和が第一との世論が強かった。
このため、イギリス政府は見返りとして日本帝国の軍需産業とイギリスの軍需産業の共同開発や事業提携などの規制を大幅に撤廃した。これにより、日本帝国の軍需産業の技術力は一段と高まった。菱型戦車やホイペット戦車などを実用化したのが好例だが、当時のイギリスの軍事技術のレベルは高かった。日本帝国にとっては苦手な爆撃機と戦車の分野で大幅に技術力を向上させることが出来た。
一方、イギリスにとっても大いに得だった。戦間期の軍縮の中で、日本帝国の資金を使って軍事技術のレベルを維持し向上させることができたからだ。日本帝国の軍需産業とイギリスの軍需産業の提携関係は現在まで続いており、アメリカとの兵器取引でも役に立っている(アメリカは現在でも兵器のレベルを下げたり、売却や共同開発を潰そうとすることがある)。
1920年、日本帝国はイギリスに同盟の更新の前倒しと更新時期を25年に延長することを求めた。イギリスは直ちに同意した。この時点で、同盟国として実力があり、信頼できるのは日本帝国だけだった。イギリスは日本帝国が同盟国や準同盟国による集団安全保障体制を構築する一方でドイツに対して高圧的な態度に出ないことを高く評価していた。
現在からは想像しがたいが、当時のイギリスではドイツへの融和論が圧倒的だった。ドイツに対する敵意は急速に退潮し、フランス人を怠け者とする論調が強かった。ドイツが社会主義革命で帝政を打倒したことで異様なドイツ擁護論となっていた。イギリスの世論は第一次大戦で一変し、急速に社会主義へ向かっていた。このため、ドイツに親近感が強く、強硬姿勢をとるフランスには批判的となった。
これに対して、日本帝国はドイツに高圧的ではなく(表面上は)、イギリスの外交政策にも概ね強調していた。この事でイギリスの国内世論の日本帝国に対する好感度は更に増して日英同盟は延長された。アメリカが日英同盟を不快に思おうが、日本帝国がイギリスにとって最も信頼できる同盟国であることに変わりはなかった。こうして、日本帝国はイギリスとの同盟を維持して孤立を免れることになる。これにより、イギリスやオランダとも連携を維持でき、アメリカとの対立も緩和された。以後、日本帝国とイギリスは紆余曲折を経ながらも日英同盟を継続していく。
日本帝国が同盟国や準同盟国との安全保障体制を構築する一方で、アメリカのウィルソン政権の国際連盟などの理想主義は破綻しつつあった。まず、旧オーストリア帝国の扱いに関しては前記の様に日本帝国とイタリアに主導された体制が安定しつつあった。ウィルソンによる民族自決の原則は無視された。
次に、中国大陸のアメリカ資産が満州と上海を除いて賠償なしで国有化された。日本帝国は山東省を返還した後、1919年12月までに上海と満州(旅順)以外の租界から陸軍、海兵隊、陸戦隊を完全に撤退させた。この後、アメリカ政府にとっては予想外なことに(他国からすれば予想通り)、アメリカの資産が全て国有化された。租界以外のアメリカ資産は直ちに国有化され、租界のアメリカ地区にも中国の各政府の陸軍が集結して撤退を迫った。
ウィルソンは民族自決の原則で中国から好感されると思い、中国におけるアメリカの経済活動にも影響はないと思い込んでいた。ところが、中国の各政府は民族自決の原則で山東省を返還された以上、租界も当然に回収できる(強奪できる)と主張した。中国の租界は元々、中国人が外国人に暴動を起こすので設置された(各地の中国政府は黙認し、時に扇動した)。
よって、アメリカが租界を返還して自国の在留邦人や資産が無事で済むと判断した理由が各国には理解不能だった。しかも、当時の中国は革命気分に染まっており、外国との条約を守らなくても恥だとは考えていなかった。外国は侵略者なので守らなくても良いというのが中国人の理屈だった。
しかし、中国がキルギスやチベットなどを侵略するのは良しだとしていた。国民党や共産党などの革命政権は在外公館や租界を襲撃し、外国人に危害を加えても構わないと考えていた。ウィルソンは民族自決の原則で、中国の行為が正当化されることはないと声明した。しかし、何の効果もなかった。
日本帝国は撤退する前に、中国の各地の政府に満州、上海、在外公館、船舶、海軍艦艇以外で、アメリカ人およびアメリカの資産が危害を加えられても日本陸海軍は干渉しない旨を文書で通知していた。同時に、イギリスなど他国の国民および資産に危害が加えられた場合、容赦なく攻撃するとも警告していた。日本陸海軍は日本の在留邦人も満州と上海以外からは総退去させた。日本在留邦人の資産はイギリス企業などに売却された。
ウィルソンの平和14ヶ条が発表されてから日本帝国政府は在留邦人に満州と上海以外の中国からの退去を勧告していた。元々、連立政権の帝国党は中国大陸から安い製品が日本帝国内に流入してくるのを好んでいなかった。更に、中国大陸で活動する日本企業のために出兵するのは問題外だった。このため、日本帝国は上海、満州、香港、朝鮮半島以外の日本企業や在留邦人は基本的に保護および支援をしなかった。外国企業に勤務していた日本人はイギリス人などと共に救助されていた。
今回、日本人は例外なく総退去が命じられた。イギリスにも議会の議決がなければ即時の救援は困難であることが通告された。このため、イギリスなどの各国は1920年12月30日まで日本陸海軍による南京や広東などの租界の援護を求めた。日本帝国も同意した。
しかし、アメリカに対しては援護を延長しなかった。このため、アメリカの資産は即座に没収された。更に12月8日から国民党や親派の地方政府の支配地域では暴徒がアメリカ領事館などを襲撃した。是までと違い、日本陸海軍は全くアメリカを援護しようとしなかった。イギリスから要請があっても拒否した。また、兵站面での協力も拒否した。
しかし、広州で暴徒が調子に乗ってイギリスなど他国の邦人や資産に危害を加え始めると日本海軍の艦隊が艦砲射撃を開始し、海兵隊と陸戦隊も猛射を開始した。モニター艦を中心とする日本海軍の艦隊は水上機の誘導を受けながら、約1万発の砲弾およびロケット弾を叩きこんだ。海兵隊と陸戦隊は迫撃砲と機関銃で暴徒を掃射し、歩兵部隊と狙撃班が追い打ちをかけた。その後、日本海軍の海兵隊と陸戦隊の歩兵部隊が前進していき、生き残っていた暴徒を全て射殺するか銃剣で刺殺した。日本海軍の第2海兵隊師団と第1陸戦隊旅団は広東租界の周辺に鉄条網、塹壕、地雷原による防御線を構築した。中国人の暴徒は約3千人が殺害された。
国民党政府が抗議してきたが、日本帝国政府は最後通牒を発した。「国民党政府には治安維持の責任がある。大人数の暴徒を見過ごしたのは、国民党政府に悪意があるか余程の間抜けかだ。抗議を受けたが、そちらに責任がないのなら感謝しなければならない。日本帝国政府は国民党政府が暴動を扇動したとの噂を根拠がないと判断して、そちらの意図を善意に解釈した。このため、日本帝国海軍は国民党軍を攻撃しなかった。よって、日本帝国は感謝されても恨まれる筈はない。日本帝国陸軍部隊も待機している。そちらに責任がないのなら、日本帝国海軍やイギリス海軍などの行為を公式に追認すること。12月15日までに回答がない場合、武力行使を含む全ての手段を講じる。なお、そちらの対応が良好なら満州、上海、朝鮮半島を除く中国の国内情勢に干渉しない。また、他国の干渉を支援することもない」と冒頭に記されており、後に細かい条件が記述されていた。
国民党政府は日本帝国政府の最後通牒を受け入れるしかなかった。ここで日本帝国と戦争状態に突入すれば、他の軍閥によって打倒されるのは確実だった。当時、保守派が政権を担う日本帝国は国民党や共産党を除く中国人には嫌われていなかった。日本帝国は他国と比べて要求が控えめで中国の内政にも干渉しなかったからだ。同時に日本帝国を敵にした場合、苛烈な報復を受けるのが常だったからだ。
また、日本帝国政府の政権を担っていた憲政党、帝国党、枢密院、国防省、対外特務庁などは日本国民と中国人が協調できないことを理解していた。このため、大陸浪人などの日本人のアジア主義者達と違い、日本帝国の考えに同調させることは全く考えていなかった。そして、張作霖や張遼の様に契約を守る中国人に関しては厚遇し、条約などの契約以外に関しては何も強要しなかったからだ。このため、張作霖や張遼以外にも日本帝国と誼を通じている中国人の有力者達は多かった。
しかし、日本帝国は張作霖軍閥と張遼軍閥以外には亡命、亡命後の身の安全の保障と経済的援助以外は基本的に約束しなかった。日本帝国は中国への干渉の火種に成りかねない事は一切、しなかった。日本帝国の基本方針は満州自治共和国(張作霖)や高句麗自治共和国(張遼)にも信頼された。両国は中国内の政府の中で排外主義をとらず、アメリカの邦人や資産に何の危害も加えられなかった。両国がウィルソン政権に批難されていたことからすると、皮肉なことだった。一連の事件で、当時の中国に邦人の安全、条約に基づいた権利、正常な経済活動を保障するのは日本帝国の協力が不可欠だという事実が再認識された。
アメリカはイギリス海軍の砲艦や海兵隊の援護で自国の邦人を救出したが、数名の死者と行方不明者、多数の負傷者を出した。アメリカだけが中国で多大な損害を被って排除された形となった。このため、ウィルソン政権に批難が集中した。ウィルソンは民族自決の原則でアメリカは好感されると思い込んだ。しかし、自国でもチベット、ウイグル、内モンゴルを占領し、ヴェトナムやビルマにも侵略を繰り返していた中国人には好感されなかった。しかも、朝鮮半島の漢民族優位政策についてウィルソン政権は高句麗自治共和国に抗議していたが、これも中国人の反感を買っていた。国民党や共産党も含めて中国の領域が広がり、漢民族が他民族の優位に立つことは中国人にとって良いことだった。
このため、他の軍閥政府もアメリカに反感を懐いた。よって、国民党や共産党のような暴力的な手段はとらなかったが、租界を接収してアメリカの資産を略奪した。各国との貿易関係に支障はなかったし、ウィルソン政権も強い対応はとらなかった。イギリス以外の各国はウィルソン政権の理想主義(妄想)による自業自得だとして協調行動を拒否した。各国から孤立したウィルソン政権は窮地に追い込まれていく。
第三に、アメリカ国内でウィルソン政権への批判が強まっていた。前記の様に、対外政策が明らかに失敗していたからだ。各国(特に日本帝国との)と対立が深まっただけで何の意味もなかった。中国の市場からは中国人によって排除され(ウィルソン政権が非難していた満州自治共和国と高句麗自治共和国を除いて)、民族自決の原則で独立した各国はアメリカに見返りを渡さなかった。それどころか、中国の各政府は都合よく解釈するか反発し、アメリカに敵対的な行動をとった。民族自決の原則が各国に混乱を引き起し、アメリカが出兵して事態を収拾しない限り影響力を行使できないことも明らかになった。こうした負担にアメリカ国民は消極的だった(当時は共産主義の脅威が認識されていなかった)。
また、国際連盟に関しても懸念が表明された。ウィルソン政権下でもハイチが保護国化され、ドミニカも軍政下に置かれた。国際連盟に加盟した場合、こうした中米や中南米への介入が不可能になり、中米や中南米の各国が他の列強を呼び込むことが懸念された。モンロー主義は中米や中南米で評判が悪く、充分に懸念されることだった。
こうしたアメリカ世論の変化は中国における騒乱もあったが、日本帝国の対外特務庁による秘密工作もあった。ハワイをアメリカが民間人によるクーデターで奪取して以来、対外特務庁はアメリカ国内に広範な諜報網を構築していた。欧米系の諜報員がアメリカ国内で活発に活動していた。対外特務庁はアメリカ国内の日系人社会には諜報網を広げなかった。日系人は目立ち過ぎ、差別されていたので諜報活動に不適当だと判断していたからだ。
欧米系の工作員達は日系人社会と接触を避け、白人社会に浸透していった。欧米系の諜報員達は英語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語の一つか複数を使い、日本人だということを悟らせなかった。アメリカ当局の偏見にも助けられて、第一次世界大戦の直前には諜報網が確立していた。こうして、構築された諜報網のスパイとなっていたアメリカ人達を使ってウィルソン政権の対外政策が行き詰っていることを広範に広めた。
内容が真実であるだけにアメリカ国民への浸透は早く、ウィルソン政権への批判が強まった。ポイントは日本帝国との友好や連携などを勧める内容を盛り込まなかったことだ。ウィルソン政権への理想主義に疑念が強まれば、自然に日本帝国との連携を求める意見が強まると予測されていたからだ。
当時の中国でアメリカが経済活動を営むには日本帝国の協力が不可欠だった。更に北東アジアや東南アジアでアメリカが安心して進出するには日本帝国と連携した方が明らかに得だった。意図を露骨にしすぎない方がプロパガンダとしては有効だった。通商外交省がプロパガンダを行わず、日本人を表面に出さなかったのは日本帝国が当時のアメリカにおいて嫌われていたことによる。日系人排斥の機運に加えて、ウィルソンの理想主義に日本帝国が悉く反対したことが嫌われていたからだ。
日本帝国がイギリスを通じて申し出た譲歩については余り知られていなかった。この点を強調することも検討されたが、井上首相の「相手の好き嫌いを変えようとすること程、愚かなことはない。相手の好き嫌いを変えることは相手の心に踏み込むことになり、相手の怒りを買う。外交やプロパガンダの目的は相手に利害を説き、味方した方が得だと認識させることにある」との意見を受けて、対外特務庁によるプロパガンダが行われた。関係改善は次のアメリカ大統領の時に行うことが内閣と枢密院で再確認された。
このため、ウィルソン政権に対するプロパガンダ攻撃は続き、ウィルソンが1919年10月2日に脳卒中で倒れると対外特務庁は是も噂として流していた。ウィルソンが執務できない状態であることも噂として流していた。共和党ばかりか民主党の議員達もウィルソン政権に反対し始めた。ウィルソン政権の対外政策が行き詰っていることは明らかであり、大統領の判断能力まで疑われる状態では支持する議員が減っていくのは当然だった。このため、ウィルソンの提案した国際連盟への加入は共和党と民主党議員の多くの反対で早々に否決された。
1919年12月17日のことであり、判断能力が衰えていたウィルソンは続いて提出された共和党の国際連盟加入案を民主党の議員達によって否決させた。ウィルソンは「指導的役割を恐れず果敢に国際連盟に加入するか体面を保って撤収するかだ」と述べて妥協を拒否した。このため、アメリカが国際連盟に加入することはなかった。ウィルソンが執務できない状態であることも知れ渡り始めた。ウィルソン政権が何の成果も挙げられず、ウィルソンの判断能力が劣化していることが明らかになると辞任を求める声が強まった。このため、1920年1月10日に大統領を辞任した。
2月1日、副大統領のトーマス・マーシャルが大統領に就任した。トーマス・マーシャルは嫌々、副大統領にさせられていた。大統領に就任するのも嫌々だった。このため、政策はウィルソンの政策を継続するとした。このため、井上内閣はマーシャルの大統領就任を好機とみて3月1日に石田外務副大臣を特使としてワシントンに派遣して関係改善の交渉を本格化させた。マーシャルは喜んで応じた。
石田外務副大臣は次の提案を行った。第一に、日本帝国は中国大陸においてアメリカと以前に結んでいた協定を復活させる。つまり、上海と満州以外でもアメリカの邦人保護のために日本陸海軍を出動させる。平時から作戦協議を行っておく。
第二に、アメリカは満州自治共和国と高麗自治共和国を正式に承認する。
第三に、民族自決の原則をアメリカ政府が後押ししないことを鮮明にすること。
第四に、日本帝国はアメリカと自由貿易協定を締結し、相互に一連の規制を撤廃する。
第五に、日本帝国とアメリカは協商条約を締結し、軍事支援と好意的中立を約束する。また、極端に高い関税を掛けない。
第六に、世界各地で戦争などが発生した場合、日米両国は互いの邦人救助に尽力すること。
第七に、日米英の三ヶ国は共産主義や無政府主義などの過激な政治思想の拒絶を公式かつ明確に宣言する。三国間で是らの過激思想に関する相互協定を締結する。
第八に、イギリスとも同様の協定を結び、三国協商とする。以上の趣旨で、アメリカとしても得な内容だった。
当時のアメリカ政府は急速な軍縮を行いたがっており、世界での激変には対応できなかった。このため、現実問題として友好国に軍事力を行使してもらった方が良かった。特に、中国大陸では日本帝国による援護が不可欠だった。また、イギリスの協力も得られた方が得だった。そうしておけば、アメリカは平時の軍事力を比較的、小規模にしておけるからだ。
当時のアメリカではウィルソンの理想主義が破綻したことは明白となっていたのでマーシャルは同意した。しかし、アメリカが有利となる様に(しかも義務は極力、負わない様に)、様々な条件を付けた。ワシントンの国務省でイギリスの代表団も加わって協商の詳細が詰められた。交渉はアメリカの主導で進んだ。
アメリカ側は日本帝国とイギリスがアメリカの支援なくしてソ連やドイツの脅威に対抗できないことを認識し、強気に交渉を進めた。しかし、同時にアメリカ国民が世界各国に介入するのを嫌っていた。このため、地域紛争などは日英両国に任せ、アメリカが背後から支援する体制を構築したかった。こうすれば、金銭的な負担を除けばアメリカは安全だった。
しかも、日英両国に参戦(大規模戦争での)は確約しなかった。更に、世論次第で朝鮮半島問題や植民地の独立問題などに干渉する積りだった(不干渉を確約しなかった)。こうしたアメリカの態度は特に日本帝国内で反発された。余りに、アメリカ側が有利だったからだ。
しかし、帝国党に代表される保守派が枢密院や貴族院を纏めた。帝国党の主張は単純だった。日本帝国が単独でソ連や中国に対抗することは困難だったからだ。
第一に、日本帝国陸海軍はモスクワやサンクトペテルブルクを占領できない。また、シベリアを横断して遠征を行うのは事実上、不可能だった。
第二に、中国を日本帝国の支配下に置くことは不可能。中国軍を打ち破ることは簡単だ。しかし、中国人が日本帝国を嫌っているのは変えようがない。これは、どの政治勢力が政権を獲得しても変えようがない。このため、統治は不安定になり、割に合わない。経済的に日本帝国が破綻する。また、ソ連に対抗するため、余計な負担はできない。
以上の様な地政学的な条件は変えようがない。このため、アメリカの支援が必要不可欠であり、妥協するしかない。以上のような趣旨の帝国党の主張に枢密院や貴族院は納得するしかなかった。
ソ連を打倒しようにも反ソ連の白軍は帝政ロシアの復活を好まない革命派に過ぎなかったからだ。貴族院は国防省や対外特務庁の高官達を執拗に諮問したが、両方とも帝国党と同意見だった。憲政党は元が親米的であり、ウィルソンの理想主義が後退すればアメリカに譲歩するのは賛成だった。こうして、日本帝国内の意見は纏まり、日本帝国はアメリカ主導の国際体制を受け入れることになる。
1920年7月1日、日米英協商がアメリカのワシントンのホワイトハウスで調印された。日米英協商は概ね日本帝国の提案通りだったが、次の様なアメリカに有利な点が追加された。
第一に、日英の両国が領土拡大を行わないことを明確にする。また、日英両国の同盟国にも同様の原則を適用する。日英両国は同盟国に方針を強要するために武力以外の全ての手段を用いること。代わりに、民族自決の原則をアメリカが武力で後押しすることはないのを明確にする(つまり、武力以外の手段なら干渉の余地がある)。
第二に、軍事援助の条件として日英両国が先制攻撃を行う場合は1ケ月前に、アメリカに通告すること。
第三に、アメリカを主導とした三ヶ国による一連の会議を開催する。安全保障会議、貿易政策会議、三国首脳会議を開催する。何れの会議も5年ごとに行う。
第四に、アメリカの主導による通貨基金を創設する。通貨基金は日本帝国、アメリカ、イギリス、イギリスの自治国の金融市場を安定化させることを主任務とする。
第五に、日英両国はアメリカによる南北アメリカ大陸の各国(カナダを除く)への政策を無条件に支持すること。日英両国は各国との交渉について全てアメリカに通告すること。通商に関する条約以外は締結しない。アメリカが提案した場合のみ、日英両国は各国との条約を締結できる。
以上の趣旨の追加条項が加えられたことでアメリカが日米英協商のリーダーであることが明確になった。ソ連と中国の脅威により、保守派も含めてアメリカが優位に立つことには広範な合意が成立していた。しかし、協商条約の内容が余りにアメリカに有利だった。このため、日本帝国の枢密院や貴族院では反対が強まり、帝国党や憲政党でも反対論が再燃した。日本帝国内の主な反対意見は次の通り。
第一に、共産主義や無政府主義などの過激思想に対するアメリカの態度に曖昧さがあったこと。アメリカ政府は共産主義や無政府主義を拒絶することを明確にした。
しかし、アメリカ政府が確約したのは、明確に革命を標榜する共産党や無政府主義者の取り締まりだけだった。おまけに共産主義や無政府主義の定義も曖昧であり、アメリカ共産党派アメリカ社会主義党と名前だけを変えて活発に活動していく。無政府主義者達も同様だった。更に、日英両国との引渡条項もアメリカは拒否した。アメリカは既存の犯罪者引き渡し条約で充分だとした。
このため、アメリカ国内からの共産主義や無政府主義の勢力による日本帝国内の共産主義や無政府主義の勢力への支援に悩まされることになる。日米英協商の成立後、対外特務庁によるアメリカ国内での共産主義や無政府主義の勢力への秘密工作が著しく制限されたことによる。共産主義や無政府主義の容疑者の引き渡しも殆ど機能しなかった。革命やテロなどを明確に標榜する輩でなければ、アメリカは引き渡しに応じなかった。こうした傾向は、ソ連の脅威をアメリカが深刻に認識し始める1946年まで続く。
第二に、アメリカがウィルソン流の理想主義で干渉できること。再び、民族自決の原則を前面に押し出してくる可能性があった。また、同盟国である満州自治共和国や高麗自治共和国に対する干渉は続行される。更に、当時のアメリカには親中的な傾向や容共的な傾向があり、日本帝国内では不信感が強かった。
第三に、日本帝国やイギリスが大幅に譲歩してもアメリカが参戦を確約しなかったことだった。以上のような反対にも関わらず、憲政党と帝国党は日米英協商条約を締結し、批准を急いだ。安全保障政策では事実上、連立政権と一体である枢密院は直ぐに批准を承認した。対して、貴族院では承認が難航した。多くの貴族院議員達は保守派であり、帝国党よりだったが帝国党の方針変更に戸惑っていた。ウィルソンの理想主義(日本帝国の保守派から言わせれば妄想)に最も反対してきたのが帝国党だったからだ。
しかし、帝国党の党首でもある大谷国防大臣は枢密院や内閣での議論を掻い摘んで説明した。また、機密事項も含めて国防省の分析報告も詳細に説明した。そして、日本帝国はソ連と中国の両方に単独で対処するのは無理であり、アメリカの支援が不可欠であることを詳細に説明した。そして、共産主義を輸出するソ連と共存するのは日本帝国にとって不可能であることも説明した。そして、今回の譲歩は全てアメリカがゴリ押しすれば認めるしかない項目であることを説明した。
当時の日本帝国はGDPの総額でもイギリスに迫る経済大国だったが、アメリカには劣っていた。更に、中国とソ連に近いので常に危険が付きまとっていた。国土が日本帝国よりも広くて豊か(日本帝国も狭くはないが)、人口も日本帝国より多くて適正な規模、隣国が脅威でないといったアメリカが超大国となるのは自明の理だった。このため、「強いられての譲歩は相手を怒らせるだけで無意味です。相手が優位であることが明白なら先んじて譲歩し相手に恩を売る方が得です。ただし、信用できる相手にしか通じないのは当然です」と国防大臣は述べた。
更に、共産主義はイデオロギー上、アメリカ国内の左翼勢力を無視できず必然的にアメリカとソ連は敵対することなども説明した。
貴族院議員達は理屈の上では納得したが、ウィルソンのような意見が国策となるアメリカへの不信感で議論が長引いた。採決の日、「今回の譲歩は残念ながら運命です。残念ながら国際情勢は自分達が主導権を握れないことも多いのです。平和主義者と呼ばれる夢想家共のように、自分達の意思次第で全てが決まると考えてはなりません」と大谷国防大臣は貴族院で述べた。枢密院の勧告もあって多くの貴族院議員達は渋々、批准に賛成した。こうして、10月15日、枢密院と貴族院が承認したことで日本帝国の批准が決定された。アメリカでは11月30日、イギリスでは10月5日、批准が承認された。
アメリカで日本帝国の提案が受け入れられたのは日本帝国の対米政策の緩急が絶妙だったことによる。日本帝国は対外特務庁を中心としてウィルソン政権に執拗なプロパガンダ攻撃を行う一方でアメリカの有力者達に広範な働きかけを行っていた。また、抑制も図られていた。
第一に、日本帝国はウィルソン政権の理想主義には断固として反対しつつも日本帝国からアメリカの国民感情を刺激する提案は一切、行われなかった。例えば、人種平等案はパリ講和会議で提案されなかった。人種差別の激しい当時のアメリカで広範な反日感情が形成されるのは避けられないと内閣が判断したからだ。国防省と対外特務庁も同意見だった。大正天皇、当時の皇太子である祐仁皇太子(後の昭和天皇)の意向で枢密院が提案する様に勧告してきたが、前記の理由で内閣は拒否した。多くの枢密院議員達も天皇と皇太子の手前、内閣に勧告したが内閣と同意見だった。このため、枢密院の勧告は一回限りに終わった。
また、日系人排斥にも日本帝国政府は引き続き、全く干渉しなかった。内閣府や各省庁の報道官も「アメリカ合衆国で働く以上はアメリカ当局に従うのは当たり前だ。嫌ならアメリカ合衆国から帰ってくれば良いし、アメリカ合衆国に行くべきでもない。外交政策は自国に住む自国民のために行うのが第一だ。よって、アメリカ合衆国政府も日本帝国に倣い、無用な干渉は止めるべきだ。国益に適ないことをして外国の信用を得ることはできない。自国民を無用な危険に晒す政府が他国民を尊重すると思う外国は少数派だ」(枢密院の報道官)などのコメントが繰り返されるだけだった。
こうした日本帝国の態度は帝国党などを始めとする保守派の排外主義による。日本帝国排外主義の特徴は「貴国らの国民には次のことを求める。契約を厳守すること、礼儀正しく振る舞うこと、自分達に関係のないことは現実主義で行動すること。以上であり、全く難しくない。我々も外国で同様に振る舞うが、それ以上は保障しない。我々も好き嫌いがあり、貴国らと同じく自国民を優遇し、嫌いな外国人は排斥するだけのことだ(明治の江藤内閣の外相が各国の大使に行った声明)」だった。
このため、当時のアメリカの日系人排斥やオーストラリアの白豪主義にも怒らなかった。それどころか、南アフリカのアパルトヘイト政策などにも干渉しなかった。逆に、ウィルソンのような理想主義を非常に嫌った。日本帝国の保守派の排外主義は極度の大衆不信に基づいていた。このため、こうした傾向はソ連が崩壊するまで変化はなかった。
第二に、内閣が官僚達の間で急激に高まった反米感情を抑制したこと。日本帝国の解体に繋がるウィルソンの民族自決の原則が発表されて以来、日本帝国の対外特務庁や国防省などで反米感情が急激に高まった。それまではハワイが侵略されたことによる警戒感が主であって、反米感情は少なかった。日本帝国の保守派は極めて現実的であり、力が有る程度以上の国家なら侵略を行うのは普通だと理解していた。更に日本帝国の隣国は、ロシアと中国であり両国とも侵略的傾向が極度に強い国家だった。対して、アメリカは基本的に弱い国家としか戦争しなかった。それに、隣国だが日本本土からは遠かった。このため、二次的な脅威と見做されていた。
しかし、ウィルソンの理想主義は台湾やカムチャッカ半島などの分離独立運動を刺激して日本帝国を解体させる恐れがあった。ただし、現地住民は日本帝国の国民として馴染んでいた。日本帝国の保守派が恐れていたのは分離独立運動を口実にした外国からの干渉だった。このため、ウィルソン政権は極度に敵視されるようになった。このため、対外特務庁や国防省で内閣や枢密院の意図を越えた作戦計画が提案され始めた。メキシコなどからの黒人暴動の扇動、民族自決の原則を逆用したハイチやドミニカなどでの独立運動の扇動などが対外特務庁で立案されて内閣に提案されていた。国防省や陸海軍の参謀本部でもアメリカを主敵とした作戦計画が立案された。
しかし、内閣も枢密院も従来からの防衛計画以外は廃棄させた。枢密院や帝国党の執行部などの保守派の上層部もウィルソンの理想主義には激しい敵意を懐いていたが、ソ連や中国の脅威に対処するにはアメリカの支援が不可欠だと理解していた。このため、ウィルソン政権だけに対する秘密工作だけに限定するように枢密院からも対外特務庁に厳命が下された。国防省、軍情報局、陸海軍の参謀本部にも内閣と枢密院からソ連と中国の脅威を説明されて一応、納得した。対外特務庁、国防省、陸海軍、軍情報局の要員は大半が保守派であり(他の要員も保守派が多数)、防諜体制も完備していた。
このため、こうした動きは一般には殆ど知られていなかった。日米国民の殆どは両国関係が極度に悪化していたことに気付かなかった程だった。しかし、ウィルソンに対する日本帝国の官僚達の敵意は相当なものだった。このため、ウィルソンが1921年3月4日に死亡すると、日本陸海軍の部隊や艦艇は祝砲を派手に撃ちまくる有様だった。一応、政府は形ばかりの処分をしたがワシントンの日本大使館を含めて政府機関は半旗を掲げなかった。
第三に、内閣はウィルソン政権に対する秘密工作を行わせる一方でアメリカの要人達と接触を深めていた。ウィルソン政権内のマーシャル副大統領やランシング国務長官とも会談して妥協を打診していた。野党の共和党やアメリカの財界などはウィルソンの理想主義よりもアメリカの国益を優先していた。また、ランシングやマーシャルもウィルソンの理想主義についていけなかった(アメリカの国益にもならず、理想主義が動乱を齎す可能性を認識し始めたため)。
また、民主党の議員達も日本帝国やイタリアの猛反発と両国による一連の対抗措置、中国における暴動(国民党の地域では政府ぐるみ)、アメリカが理想主義に責任を担った場合の煩わしさ(地域紛争への介入をせざるをえなくなることなど)などの懸念が増大し、日本帝国との妥協を考慮し始めた。
また、日本帝国がウィルソン政権に示した妥協案はアメリカにとって充分に得だった。後に、第二次世界大戦や冷戦が起こったことを考えると日本帝国の妥協案が最良だった。実際、共産主義に対する警戒感から日本帝国の妥協案に賛成する意見も多かった。しかし、当時のアメリカでは共産主義の脅威が認識されていなかったことから孤立主義が主流だった。ヨーロッパが単一の国家ないし共産主義国家のような過激派連合に制圧されると、アメリカも危険だがアメリカ国民の間で其のような意見は少数派だった。このため、ランシングはアメリカの関与を薄めた形で協力体制を構築した。ランシングは共和党のロッジ上院議員などとも協議を重ねて同意を取り付けた。
ロッジも国際連盟などに反対していたわけではない。留保条件付きの修正案で加盟に賛成していた。ただ、アメリカが独自の対外政策を行う際に国際連盟が障害となるのを懸念しただけだった。このため、ランシングが日本政府との間で合意した日米英協商は民主党だけでなく、共和党でも支持された。日米英協商のおかげで中国やヨーロッパの情勢にも間接的に介入できた。そして、アメリカが直接的な危険を冒さずに済む。何よりも、アメリカ主導の体制に日英両国が組み込まれることでアメリカが世界の事実上の盟主となることが確定する。国際連盟よりも遙かに利益が大きかった。このため、日米英協商が上院で承認された。
以上の様に、日本帝国はウィルソンの理想主義は完全に拒絶し一連の対抗措置を行ったが、アメリカ主導の体制にイギリスと共に組み込まれることを選択した。尤も、日本帝国の保守派が好き好んで日米英協商を選択したわけではなかった。ソ連や中国に対処する時、アメリカが最低でも好意的中立を保ってくれることが絶対に必要だった。
当時のアメリカは共産主義に無警戒なばかりか容共的な意見も多かった。下手をすると、アメリカがソ連や中国寄りになる恐れもあった。アメリカがソ連や中国よりになると、包囲された日本帝国にとっては致命的だった。アメリカが日本帝国を攻撃しないとしてもソ連や中国がアメリカによる牽制を期待して日本帝国に対する敵対行動を続ける恐れがあった。しかし、アメリカが好意的な中立か準同盟国なら日本帝国は強気になれる。海軍力の弱いソ連や中国が日本帝国を打倒するのは事実上、不可能だからだ。このため、アメリカ主導の体制に組み込まれても高い代償ではなかった。日米英協商の成立後、日本帝国はソ連と中国への対処に全力を注いでいく。
1921年10月7日、ワシントンの戦争省で第一回目の日米英協商の会議が開始された。アメリカ政府からはマーシャル大統領も出席したが実質的にはランシングに任されていた。ランシングは解任される予定だったが、日本帝国との交渉が進展してきたのでマーシャルが国務長官に留めた。
日本帝国からは山南国防大臣(大谷はウィルソン死亡時の責任を取る形で辞任)、イギリスからは外務大臣が出席した。この会議では主として中国での治安維持目的での出兵問題について協議された。アメリカ人が中国大陸に戻る上で日英の協力が不可欠だったからだ。中国への介入に関しては日本帝国が主体となるしかなく、指揮権は日本帝国が握ることになった。尤も、日本帝国が喜んだわけではない。日本帝国が指揮権を握るということは責任も被ることになるからだ。
日本帝国は宣教師を中心とした在中アメリカ人左派(中国人信者を獲得するために親中の立場をとる者が多数派)の無責任な批判を避けるためにアメリカ海軍が指揮権を執るようにしたかった。しかし、ランシングは中国での紛争に責任を日本帝国に負わせたかった。在中アメリカ人の宣教師などの左派による批判を避けたかったのと、民主党の議員達が中国にも憎まれたくなかったからだ。このため、ランシングは日本帝国に指揮権を握らせることで押し切った。日本帝国は同意するしかなかった。
アメリカが日本帝国やイギリスと連合して戦うことが重要だった。アメリカと連合することで中国流の外交である「夷を持って夷を制す」の望みを絶つ意味もあった。日本陸海軍の指揮にアメリカ軍とイギリス軍(両国とも多くの場合は海軍)の指揮官達は従うが、アメリカ軍やイギリス軍の部隊は自国の指揮官に従う(基本的には)との趣旨の作戦協定が締結された。第一次世界大戦などで日本陸海軍がイギリス陸海軍の指揮下で戦ったようにアメリカ軍やイギリス軍が戦うことになった。中国以外の地域での指揮権についてもアメリカ軍やイギリス軍に割り振られた。
これ以後、世界各地で日米英軍が共同して作戦行動を行うことになる。殆どの場合は邦人の救出作戦だったが中国などのように全面戦争手前の作戦行動もあった。当然、ソ連の脅威も議題となったが、アメリカが消極的で協議は進展しなかった。しかし、満州にソ連が侵攻した場合、アメリカとイギリスが参戦することも再確認された。アメリカは満州に多大な権益を持ち、日本帝国と共に多額の投資を行っていた。日本帝国と共同で満州に置いて多大な利益を上げていたし、日本帝国とも日米英協商による自由貿易協定の締結で経済関係が格段に深まることは確実だった。満州にはアメリカ人も多かったこともあり、アメリカも合意した。こうして、満州に置いて日米英の陸軍が連合して戦うことが合意された。
この合意により、ソ連は満州に侵攻するのを断念した。スターリンは満州における共産主義運動も自粛させた。日本帝国にとっては大変な成果だった。満州をアメリカとイギリスと連合して防衛できれば日本帝国の安全は大幅に向上するからだ。満州自治共和国も日本帝国の軍事援助で着実に軍事力を向上させていた。高麗自治共和国(こちらの軍事力も向上していた)も加えればソ連や中国に対応できる体制が整ったことになる。自由貿易協定での譲歩は此の成果に比べれば安い対価だった。
一方、アメリカにとっても有益だった。参戦するとしても主体は日本帝国、満州自治共和国、高麗自治共和国だからだ。派遣する主力は航空隊と後方の兵站部隊だからだ。陸軍部隊の派遣も約束していたが、最大で12個師団を主力とする1個軍だった。地上戦の主体は日本帝国であり、アメリカ兵の犠牲は最小限になる見通しがついたからだ。満州、朝鮮、日本でソ連を封じ込め、中国の暴走を抑制できる対価としては安かった。
日本帝国、満州自治共和国、高麗自治共和国がソ連と中国の盾となれば、アメリカの安全保障は確実だった。太平洋に関しては一切の心配をしなくて良かった。このため、日本帝国が自由貿易協定で譲歩したこともあってアメリカの上院も合意を承認することになる。日本帝国はアメリカ陸軍の地上部隊の派遣兵力が限定されたことが不満だった。なお、イギリスは国力が衰え始めていたので陸軍部隊の派遣は期待されていなかった。
しかし、航空隊と兵站部隊の支援、大量の兵器供与でアメリカとイギリスが支援するなら日本帝国が格段に有利となる。ソ連はシベリア鉄道による兵站線に頼らなければならず、日露戦争のロシアと同じ弱点を抱えていた。アメリカとイギリスが支援すれば日本帝国の優位は揺るがなかった。日本帝国、満州自治共和国、高麗自治共和国はアメリカとイギリスの援助で兵器を増強でき、航空隊と兵站部隊で制空権の獲得、兵站面の優位を得られる。また、アメリカとイギリスが同盟国なら日本帝国に侵攻できる国は実質上、存在しなかった。日本帝国は安心してソ連と中国に対処できる。また、地代を経るに従って空軍力の重要性が増していくので非常に価値ある合意だった。
しかし、日本帝国と渤海共和国(1930年、高麗自治共和国と満州自治共和国が統合されて建国された)はアメリカが時折、行う左翼的な外交に悩まれることになる。それでも日米英協商の結果として日本帝国、アメリカ、イギリスが先制攻撃された際に参戦することで合意したことは画期的だった。日米英協商は発展して本格的な軍事同盟の日米英安全保障機構となる。以上のように、日米英の代表者達は一応、ドイツの問題も協議した。
しかし、アメリカとイギリスはドイツを脅威だと思っておらず(イギリスは脅威でないと思い込みたがっていた)、協議は御座なりに終わった。日本帝国は対外特務庁と軍情報局の報告を基にソ連とドイツの間で秘密軍事協約の交渉が進んでいることを指摘して注意を促したが、アメリカもイギリスも特に留意しなかった。日本帝国の対外特務庁と軍情報局はイタリア、トルコ、フィンランド、中欧同盟機構の各国、満州自治共和国と高句麗自治共和国と諜報面での協力体制を確立しており(準同盟ないし同盟関係)、ソ連とドイツに関して詳しい情報を有していた。両国が中国に興味を示しており、対中国の面でも軽視できなかったからだ。
日本帝国の警告にアメリカは好奇心程度であり(自国に脅威が及んでいないことから)、イギリスは無関心を装った(世論の反戦的傾向による)。アメリカはイギリスの意見を重視して日本帝国に反独的な傾向を弱める様に勧めている。日本帝国は同意した。
元々、反独傾向が強かったわけではない。ドイツ陸軍参謀本部がソ連を創りだして以来の警戒感からだった。さらに、科学力に優れており国力も充実したドイツ、天然資源と人口を多く抱えるソ連が軍事協約を締結したとなれば警戒するのは当然だった。日本帝国はイギリスやアメリカが主体にならなければドイツに対処することはできなかったし、その気もなかった。
実際、日本帝国はイタリアと共同して中欧同盟機構を創設したが、チェコの行動を抑制していた。また、フランスおよびポーランドとは全く協力しなかった。距離的に日本帝国が反独の主体となるのは不可能だったからだ。更に、ポーランドはチェコに領土を要求しており寧ろ対立関係だった。このため、イギリスとアメリカがドイツに対処しなくなることが明白になると日本帝国もドイツの問題を日米英協商の会議で取り上げなくなった。こうして、第一回目の日米英協商の協議は終わった。
随行員達が合意内容の文面を纏める中、山南国防大臣とランシングは雑談に移った。会議中は互いに不信感もあり、本音で話せなかった部分も多かったからだ。ランシング「さて、漸く合意も纏まりました。貴国の賢明なる判断と決断に感謝いたします。これで、日本帝国、アメリカ合衆国、大英帝国による同盟の第一歩が始まりましたね。是で三国の友好関係は確かになり、三国の安全保障も確かになりました」。
山南「ランシング国務長官、御同感です。真に喜ばしいことです。しかし、更に厳然たる真実があります。今回の合意は、アメリカ合衆国が世界の頂点に立つ第一歩です。次の世紀は貴国の世紀です。貴国の国民は好まれないかもしれませんが、ソ連やドイツなどの脅威に対処するには孤立主義を選べません。嫌でも世界に関わるしかありません。それなら世界を主導するしかないでしょう。それに、貴国が世界を主導しなければ他の国が世界を主導して貴国を従わせます。我が日本帝国と大英帝国を従えれば、貴国の覇権は確実です。もちろん、貴国と対処法が異なる場合もありますが基本的に目的は同じです。貴国が長となるのです」。
ランシング「確かに、その通りです。しかし、貴国で今回の合意は貴国において支持されるでしょうか?率直に言って、貴国とアメリカ合衆国は余りにも違います。そして、是まで常にアジア地域でイニシアティブをとってきたことに慣れている環境では反対も多いのではありませんか?」。
山南「確かに、その通りです。国内では反対論が渦巻くでしょう。しかし、生憎、ソ連の出現によって我が日本帝国がイニシアティブをとれる時代は終わりました。これまで日本帝国は海に囲まれ、中国だけが脅威でした。ロシア帝国が東進してきましたが補給線は長く、海軍基地の態勢を整える前に攻撃できました。更にロシア帝国は不利となれば、自ずと自制しました。
しかし、全ての事情は変わりました。空軍力が出現し、海だけでは充分な防御となりません。何よりも世界革命を目指すソ連がロシアを支配しました。世界革命を目指すソ連、多すぎる人口所以に膨張主義で過激となる中国は損であっても戦いを止めません。そして、ソ連と中国の傾向からして残虐な手段を戦時も平時も行うのは確実です。
戦争も長引き、休戦しても講和には結びつかないでしょう。こうした状況では貴国の支援が不可欠であり、貴国が長となることに異存はありません。しかし、こうした状況は貴国にも当て嵌まります。最早、孤立主義は貴国の安全を保障しません。我が日本帝国と大英帝国を同盟国としてソ連などの脅威に対処するのが貴国にとっても最善の戦略だと断言します」。
ランシング「全く御同感です。しかし、残念ながら我が国の国民が御指摘の脅威を認識するのは困難です。是まで我が国は周囲に強国がいないので同盟の必要性を感じませんでした。急に、是を変えるのは不可能です。更に、我が国は貴国のような貴族院や枢密院がなく世論を無視できません。残念ながら、ソ連などが我が国を攻撃してこない限り、参戦は無理でしょう。少なくとも今後10年は。
実際は、我がアメリカ合衆国も脅威に晒されるので参戦した方が良いことは上層部の人間達は承知しています。しかし、それを一般国民に納得させるのは困難です。御存知の様に、普通の人間は脅威が目前に迫るまで何もしたくない誘惑に駆られます。ましてや、ソ連などの脅威は一般国民が認識するまで時間が掛ります。そして、気づいた時には手遅れです。よって、貴国と大英帝国が脅威を抑制し、脅威が顕在化した時点で我が国が両国を救援する形が望ましいでしょう。しかし、一般国民に孤立主義が歓迎されている以上は次の大統領に期待するしかありません」。
山南「率直な御発言を感謝します。貴国の参戦は貴国にとっても不可欠です。しかし、アメリカ国民が孤立主義に拘るのなら今回のような次善の策を採用するしかありません。どちらにしろ、外国からの説得では限界があります。貴国の政治家が自国民を説得しなければなりません。説得は充分に可能です。世界革命を目指すソ連、膨張主義を伝統とする中国を相手にして、相手の寛大さを試すことが賢明でないのは明らかですから」。
ランシング「努力を継続することをお約束します。何よりも、我がアメリカ合衆国のためですから。脅威が近くにないことがアメリカ合衆国の大いなる利点です。其の環境が変われば、脅威で優位が失われ、国民にも今回の世界大戦の大英帝国と同程度の犠牲者が出るでしょう。国民には納得してもらわなければなりません。しかし、貴国と大英帝国にも忠告しておきます。アメリカ国民は行動による対価として国益に加えて理想も要求します。確かに損ですが、アメリカ国民の特性である以上、どうしようもありません。貴国と大英帝国がアメリカ合衆国の支援を求めるなら、アメリカ国民の理想にも配慮することは避けられませんよ」。
山南「承知しています。貴国が最強である以上、アメリカ国民の意志を尊重するのは当然です。その理想主義が欠点であると同時に、貴国の躍進の原動力の一つであることも承知しています。アメリカ合衆国が最強であり、行動に責任をもつ限り日本帝国はアメリカ合衆国の国益だけではなく、アメリカ国民の理想主義にも配慮します。
しかし、日本帝国からも忠告しておきます。貴国が理想主義を広めることは布教と同一視されます。御存知の通り、世界には狂信者や過激派が無数にいます。連中は必然的に貴国を憎み、戦争やテロなどを実行します。我が日本帝国や大英帝国のように、理性的に交渉できる国や勢力は少数です。理想主義を対外政策の一つとするなら警戒を怠らないことです」。
ランシング「覚えておきます。尤も、アメリカ国民に納得させるのは困難なので配慮してください。しかし、我が国の理想主義は、経済的な繁栄と政治的な自由を伴えば長期的には容認されるのでは?」。
山南「それは、我々のような先進国の理屈です。生憎、人間も動物に過ぎません。損得を冷静に判断できる人間が多数を占める国ばかりでないことは御存じのはずです。それを承知していたからこそ、貴国の偉人の一人であるアレクサンダー・ハミルトンは政府の重要性を強調したことは御存知でしょう。大体、人間が冷静に損得を判断できるなら第一次世界大戦は貴国の参戦前に終わっている筈では?」。
ランシング「確かに、貴方の言うことも理解できます。しかし、アメリカ合衆国の方針は変わらないでしょう。少なくとも今後100年は。私を含めた政治家なども理想主義を長期的な目標とする方に魅力を感じます。もちろん、軍事力と経済力の裏付けがなければ理想主義は妄想に過ぎないことは理解しています。
ですが、我がアメリカ合衆国の国力なら脅威に対処しつつ、理想主義も含んだ政策を実行することは可能です。繰り返すようですが、アメリカ合衆国の対外政策には理想主義も組み込まれます。ソ連などの脅威への対処が最優先ですが、理想主義の実行も忘れられるわけではありません。アメリカ国民が防衛を目的とした参戦を承諾した場合、アメリカ国民の意向が優先されます」。
山南「日本帝国は、アメリカ合衆国が最強であることに努め、責任をもって行動する限りアメリカ合衆国の意向を最大限に尊重します。まあ、ヨーロッパからインドまでを大英帝国に任せ、ビルマから中部太平洋までを我が日本帝国に任せてアメリカ合衆国はソ連などの脅威が顕在化した場合に参戦するのが最良の戦略です。しかし、貴国の国民は、この戦略を御好みにならないでしょうね。アメリカ合衆国が責任を持って行動する度合いに応じて日本帝国は対価を払います。しかし、こちらも繰り返しますが、日米英協商はアメリカ合衆国にとっても最良の戦略なのです。忘れないでください」。
ランシング「諒解しました。民主党、共和党を問わず、アメリカ国民を説得することを今後の課題としていきます。貴方も御存じでしょうが、共和党も適切な介入がアメリカ合衆国の国益となると判断している議員も多いです。孤立主義に染まっているアメリカ国民を説得するのは困難ですが、やり遂げねばなりません。何よりも、アメリカ合衆国を大規模戦争の脅威をアメリカ本国から遠ざけておくために。そして、同盟国と共に繁栄するためにもです。軍事的にも経済的にも適切な同盟国を得た方が繁栄するのは明らかです。以上の二点をアメリカ合衆国が認識しつつあることを日本国民に御伝え下さい」。
山南「その言葉を聞けて嬉しく思います。しかし、アメリカ国民の説得は遅すぎてもいけません。遅すぎれば、ドイツの脅威も高まるでしょう。ソ連と違ってドイツはアメリカ合衆国が参戦することが明らかなら穏健路線を歩み続けるでしょう。しかし、アメリカ合衆国が参戦しないと思えば、過激路線を歩むでしょう。無用な戦争を避けるためにもアメリカ国民の説得を急いでください」。
ランシング「しかし、ドイツが敢えて過激になる必要があるのでしょうか。確かに、ドイツが復讐を目論んでいるのは間違いないでしょう。しかし、ドイツも世界大戦で多くの戦死者をだしています。ドイツが敢えて過激な路線を歩む必然性はないのでは?賠償金を軽減するなどの政策を適切に実行していけばドイツの敵意は沈静化していくと思います」。
山南「寛容と忍耐をもってしては、人間の敵意は溶解しない。報酬と経済支援などの援助を与えても敵対関係は好転しない。ともに、マキャベリの言葉です。もちろん、マキャベリは失敗した政治家です。特に、契約違反を推奨することは論外です。当時のイタリア人にマキャベリのような人間が多かったことがイタリア衰退の原因であることは確実です。しかし、悪人の心理状態を考察する上ではマキャベリの言葉が最適です。
さて、ドイツは御存知の通り、ソ連の生みの親です。そして、ソ連と秘密軍事協定を結んで再戦を目論んでいます。自国でも共産主義勢力が革命を目論んで反乱を起こしたにも関わらずです。ドイツの執念深さと、手段を選ばない過激な思考はソ連や中国と同じです。ドイツにも備えておくべきです。もちろん、大英帝国が主体となるべきです。しかし、今回の世界大戦で膨大な戦死者をだした大英帝国がドイツに対処することは無理です。大英帝国の国民が支持しないのは確実です。よって、アメリカ合衆国の参戦の確約がなければ、ドイツを抑制することはできません」。
ランシング「貴国からの報告は熟読させていただきました。国務長官の立場からは貴国の意見に賛成できませんが、懸念は共有しています。我が国の関係当局でもドイツへの対応を検討しています。次回の協商会議までに纏めておきます。しかし、現状はアメリカ国民の説得に精一杯です。取り敢えずは、我が国と大英帝国の融和政策でドイツに対応していくしかありません。貴国もドイツへの懸念は是まで通り、表面化させないでください」。
山南「諒解しました。いずれにしろ、ヨーロッパでは大英帝国が主体となるしかありません。貴国と大英帝国の政策に従いましょう。ただし、融和政策を相手が受け入れない場合もあることを忘れないでください。同時に、戦争への備えを怠らないことです。融和政策を行う場合こそ、強大な軍備が不可欠なのです。融和政策の場合、全てを決めるのは仮想敵だからです。是は大英帝国にも警告しておきますが、貴国も忘れないでください」。
ランシング「忘れないことを確約します。政治的な事情で万全の備えはできませんが、できるだけの準備をしておきます。貴国の率直な姿勢と落ち着いた態度に感謝します。アメリカ合衆国と日本帝国はパリ講和会議の時に、互いの戦略について話し合っておくべきでしたね」。
山南「御同感です。今回の会議で、貴国と我が日本帝国の間で率直な意見交換ができたことは条約の合意と同じく重要な成果です。両国は互いを避けてきました。率直に言って、両国の国民は余りに気質が違い、気が合わないのは明白でした。距離を置いていたことは以前なら賢明でした。
しかし、ソ連の脅威が出現するなど状況の変化が起こりました。最早、互いを避けるのは愚かです。日米英協商が機能するかどうかは三ヶ国の意思疎通が良好であるかに懸かっています。そして、同盟を結んだ以上、三国の国民の運命が三ヶ国の政府当局の協調に左右されます。日本帝国はアメリカ合衆国の主導に従いましょう。ただし、協調は貴国が責任をもって行動する度合いに応じて行われることを忘れないでください」。
ランシング「確かに、承知しました。アレクサンダー・ハミルトンが述べたように、国外で国家として重んぜられるに足りるだけの安定と力を持たない如何なる政府も、国内で国民に平安と幸福を齎すことは不可能です。天皇陛下と首相閣下、そして日本帝国の国民に安心して良いと御伝え下さい」。ランシングが握手を求め、二人は固い握手を交わした。
両者が握手を交わした後、両国の随行員達がメモを渡した。文案の取り纏めが終わったとの内容だった。両者は談笑しながら会議の席に戻った。これを見て、イギリス代表団は安堵した。パリ講和会議以来の日米対立の構図が解消されたからだ。日米の閣僚が率直に意見交換を行い、両国の閣僚が談笑することは初めてのことだった。こうして、三カ国の代表は和やかに合意文書に署名した。ドイツの賠償金軽減に関する合意も盛り込まれ、表面上は穏やかな空気だった。しかし、実際はソ連、中国、ドイツの脅威が認識され、三ヶ国の代表団には不安が強まっていた。
現在なら、警告の声明が発せられるが当時は第一次世界大戦が終わった後の厭戦気分(特にイギリス)で見送られた。この会談が、三ヶ国の認識を変える一大要因になった。互いの情報を交換し相互認識が深まったことで、三ヶ国は友好と同盟が互いのためであることを認識した。この会議の後、日米両国は相互不信を抱えたまま、何もしないことは止めた。互いに、脅威についての情報、可能なこと、無理なこと、脅威についての分析、自己の意図を通知して協力に努めた。当然、イギリスも是に加わった。尤も、三ヶ国の間は対立も絶えなかった。
このため、三ヶ国の不協和音は大問題になり、三ヶ国の関係は度々、緊張した(特に、日本帝国とアメリカが)。三ヶ国の不協和音が沈静化し(完全にはなくならなかった)、アメリカ主導の体制が確立したのはソ連との対決姿勢を鮮明にしたトルーマン政権がアメリカで成立してからだった。
しかし、この会議が日本帝国、アメリカ、イギリスの三国による軍事同盟のワシントン条約機構に繋がり、第二次世界大戦と東西冷戦を戦い抜く同盟への道を開く切っ掛けになった。しかし、是は後世から振り返った結果である。当時は、誰も現在まで続く安全保障体制に発展するとは考えていなかった。是は、語り継ぐべき教訓である。「我々は未来を見通すことはできないし、戦場だけでなく全ての場面で霧が発生する。平時から準備を欠かさず、有事には行動するしかない。ただし、完璧な行動は神以外できないことを忘れるな」と大谷国防大臣は述べた。この会談を境に、日本帝国の安全保障政策は定まった。そして、東西冷戦を経て日本帝国の周辺は極めて平穏な安全保障環境が確立されている。
この会談以後の資料は依然として非公開である。本財団は1991年までの資料の公開を求めたが認められなかった。もちろん、諜報活動の関係で有る程度の秘匿は依然として必要だが政治的な配慮が濃厚の様だ。日米関係が代表例だが、表面上は穏やかに進行していたので闇に葬ってしまいたいとの意識が関係当局に働いているためだ。更に、幕府以来の日本帝国の対外政策の詳細を公開することで外国に対抗策へのヒントを与えるのではないかとの懸念も強い。
しかし、既に東西冷戦も終わり、日本帝国の周辺は平穏だ(中国とは対立が続いている。しかし、軍事力で圧倒的な差がある)。更に、本書に記された対外政策などは外国の関係当局などには周知のことであり、公開しても実質的な弊害は極めて少ない。明らかに、弊害よりも公開の効用の方が大きい。日本帝国の国民が国家に対する義務を果たしてきたからこそ、現在の安定した安全保障環境がある。国民への義務として機密保持の効用が少なくなった極秘資料は公開する必要がある。
是は「知る権利」などといった抽象的な要求のためではない。次世代の高級官僚、軍人、諜報員、内務省要員などを担うのは国民であり、貴族院や衆議院で議員を選ぶ国民が正しい判断材料を有していなければ国家が巧く機能する筈もないからだ。そして、ITの発達がある。正しい情報を公開しておかなければ陰謀論などが広がって弊害が大きくなる。新しい時代に対応した歴史認識の周知が不可欠だ。アメリカ合衆国のパットン将軍いわく、「14世紀の騎士達も火薬に適応できたのだから、我々もオイル、グリス、エンジンに尻込みすべきではない」。今回の資料公開で日本帝国の対外政策の経緯を歴史的に正しく理解する一助となり、歴史の空白を埋めることになった。本書を読んだ国民の理解が深まり、選挙などに際しての正しい判断の一助となることを期待して本書を終える。最後に、今回の資料公開のために尽力した枢密院議員、与野党の貴族院議員と衆議院議員の方々に心からの敬意を表する。
信長公記財団




