連合国の総反攻と日米対立の激化
最終攻勢に備えて、日本陸軍の第6軍団はアミアン戦線に移動し、イギリス第4軍(ローリンソン将軍が指揮)の指揮下に編入された。第6軍団の穴はイタリア陸軍の第2軍(10個歩兵師団)が埋めた。連合軍の作戦目的は、アミアン~パリ間の鉄道をドイツ陸軍重砲の射程外に置くことだった。日本陸軍の第6軍団の任務はイギリス第4軍のカナダ軍団の南での攻撃だった。フランス陸軍の第31軍団は南に移動し、モルイユを攻撃することになった。
ローリンソンの作戦はオーストリラリア軍団のジョン・モナッシュ中将がアメル戦で有効性を証明した戦術を拡大させた作戦だった。モナッシュ中将が発案した「モナッシュ戦術」とは、「機械的な手段(各種火砲、戦車、航空機など)によって歩兵部隊の損失を最小限に抑えつつ、歩兵部隊が進撃すること」だった。つまり、モナッシュ戦術は第2次世界大戦前に各国が導入した「陸軍部隊の機械化」を先取りした戦術だった。
しかし、歩兵部隊を中心とした諸兵科連合部隊が敵部隊を排除しながら敵陣地を占領する戦術だった。戦車部隊の衝撃力(敵にショックを与えて突破する効果)は考慮されていなかった。戦車は未経験の相手にこそ、「戦車ショック」という心理的な衝撃を惹き起こすが敵部隊も慣れるので、結局は歩兵部隊が必要だとモナッシュは考えていた。
もう一つのモナッシュ戦術の特徴が「緻密な作戦計画」だった。モナッシュは「ただ、計画の経過によって当たり前の経過で前進するだけだ。全ての戦闘は最終目標と設定した戦に到達するまでは容赦なく、しかも秩序ただしく戦場を前進するのみだ」と述べた。
しかし、この点だけは日本陸軍などの軍人達にとっては納得できなかった。戦場の霧などに起因する不測の事態にも対応できるように、臨機応変な判断ができるように余裕のある作戦計画の方が良いというのが日本陸軍の多くの将官達の意見だった。実際、英仏陸軍は柔軟性のない作戦計画を立てて大損害を受けていた。しかも士官や下士官に独自判断の余地が小さすぎた。
対して、日本陸軍やドイツ陸軍は大綱を示すだけで実行の細部については下級指揮官に権限を委譲する訓令戦術を導入して戦果を挙げていた。モナッシュ戦術も大隊までの柔軟性を否定する戦術ではないが、旅団や師団の行動は作戦計画に従うことが求められていた。これでは包囲攻撃は難しく、大戦果は期待できない。これがモナッシュ方式の問題点だった。ただし、不意を突かれることも少なく、損害を軽減できることが魅力だった。
このため、後に日本陸軍はモナッシュ方式の信奉者になる。アメルの戦いでモナッシュ方式の有効性が証明されていたので、神尾中将以下の第6軍団司令部は全面的に賛同した。こうして、アミアンでの攻勢の作戦計画はローリンソンを中心としたイギリス第4軍司令部が立案したモナッシュ方式の作戦計画となった。
ただし、神尾中将の提案で日本陸軍の第6軍団の戦区については戦術上の細かい変更が認められた。例えば、移動弾幕射撃ではなく日本陸軍の従来通りの砲撃方法で行うこと、歩兵部隊の戦術は歩戦協同戦術だけではなく浸透戦術も併用することなどだ。当初、ローリンソンは神尾中将の提案に難色を示した。モナッシュ戦術では緻密な作戦計画が原則であり、勝手な変更は作戦計画全体を狂わせる危険性があったからだ。
また、日本陸軍がイギリス陸軍の指揮に、忠実に従うか若干の不信感を懐いていたからだ。しかし、意外にもモナッシュが神尾中将を支持したのでローリンソンは同意した。モナッシュは神尾中将の提案が作戦の趣旨を逸脱しないと判断した。また、自身の考案したモナッシュ戦術は柔軟性が少ないことも理解しており、事前の作戦準備段階では柔軟な変更が必要だとも判断していた。ローリンソンもモナッシュの説明に納得して、神尾中将の提案を承認した。こうして、連合軍は各国軍の協調も円滑になり、万全の態勢で攻勢の時を待った。
しかし、日本陸軍の派遣部隊(第6軍団や日本陸軍航空隊)がアミアン戦線に投入されるなど連合軍の兵力が大挙して移動したのでアミアン戦線で攻勢が行われることは明白だった。このため、ドイツ陸軍参謀本部は予備兵力を戦線後方に集結させて待ち構えた。イギリス本土で上陸作戦の準備が進められており、呼応して北部の連合軍が攻勢に出る情報もあったが、陽動作戦だと判断された。上陸作戦を決行しても鉄道で迅速に予備兵力が移動して対応すれば良いだけだった。
既に、日本陸軍航空隊が鉄道に対する爆撃を頻繁に行っていたが、当時の飛行機は低性能(速度が200キロを超える機種は稀。小銃でも撃ち落とされる)、照準器が未熟で爆弾は極稀にしか命中しない、爆弾搭載量が少ない(ロケット弾では威力不足で線路を充分に破壊できない)だった。このため、多少の負担は増えたが(対空部隊の配置や列車に対空機銃を装備させるなど)、基本的に嫌がらせの域を出ていなかった。また、北部の戦線には日本陸軍の穴埋めとしてイタリア陸軍第3軍が配備されていた。イタリア陸軍は日本帝国の援助で装備は充実し練度も向上していたが、基本的には日英仏米陸軍には及ばないとドイツ陸軍参謀本部は評価していた。このため、北部は手薄だった。
8月8日、ベルギーのイープル戦線の北で連合軍の大攻勢が発動された。まず、攻勢を実行したのはドイツ陸軍参謀本部が警戒していない連合軍部隊だった。アルベール一世が指揮するフランダース軍だった。主力は、ベルギー陸軍6個師団、イタリア第3軍(10個師団)、イギリス第9軍団だった。ドイツ陸軍参謀本部はフランダース軍を全く警戒していなかった。
ベルギー陸軍は12個師団を保有していたが国土の大部分を占領されていたので補充できる兵力が少なかった。実質は6個師団未満だった(このため、攻勢前、6個師団に統合された)。イタリア陸軍は低評価だったし、イギリス第9軍団は消耗していた。イギリス第9軍団は元々、消耗した師団を集合させた軍団だった。第9軍団はドイツ陸軍の一連の攻勢の防衛線で、さらに消耗していた。それがフランダース軍の指揮下に入ったので、ドイツ陸軍参謀本部がフランダース軍は守備専門部隊だと判断したのも無理はなかった。
ところが、8月8日、フランダース軍が全面攻勢を発動し、ニーポールトの沖合に日英伊の大艦隊が大輸送船団を伴って現れた。8月8日の夜明けと同時に、フランダース軍の攻勢が始まった。連合軍の艦隊も加わって、猛砲撃がドイツ陸軍の陣地に開始された。艦隊の砲撃も有効に活用するため、日本陸海軍の砲撃戦術が採用された。キルボックス戦術で、戦区全体を格子状に分けて砲兵隊が砲撃できる区域と時間を任務ごとに割り当てる戦術だった。重要目標の多い区域への砲撃の集中、無駄討ちの防止、より多くの目標発見の促進といった効能があった。
以前から、日本陸海軍は同様の戦術を導入していたが、この頃に確立された。今回は、陸軍と海軍の協同砲撃なので特に重要だった。陸軍と海軍の連携は通信の関係で特に難しかったからだ。さらに、組織上の縄張り意識もあった。日本陸海軍は幕府陸海軍以来の経験で慣れていたが、他国の陸海軍は違った。イギリス陸海軍でも連携に慣れておらず、ガリポリ上陸作戦で失敗したばかりだった。ましてや、イタリア海軍は始めてだった。ただし、イギリス海軍もイタリア海軍も日本海軍と共同訓練を重ね、艦砲射撃の技術を向上させていた。そこで、今回の砲撃計画は日本海軍の海兵隊の坪井少将が参謀の補佐を得て作成した。航空機の着弾観測もあり、的確な砲撃が可能になった。他は、アルベール一世が主にイギリス陸軍の参謀達の補佐で作戦計画を作成した。
基本はモナッシュ戦術だった。こうして、始まった攻勢は是までの攻勢と違っていた。攻撃の先鋒となったのは、イタリア陸軍の3個歩兵師団(第1、第2、第3)とベルギー陸軍の2個歩兵師団(第1、第2)だった。短期間ではあるが、猛烈な準備砲撃が始まり、ベルギー陸軍の2個歩兵師団の戦区では艦隊の支援も加わった。
第1線にはモニター艦と連合軍の砲兵隊の猛烈な砲撃が降り注ぎ、第2線や第3線には日英伊海軍の戦艦、重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦の砲撃と列車砲などの重砲兵隊の猛砲撃が降り注いだ。第1線の塹壕にはモニター艦の砲撃が5分間、降り注いだ。そして、3分間、砲撃が中断した。戦車と歩兵の混成部隊が前進を始めた。更に、砲兵隊が猛砲撃を5分間、継続した。
モニター艦と砲兵隊は事前の計画に従って弾幕をドイツ軍陣地の奥へと移動させていった。砲兵隊は塹壕線に万遍なく砲撃を注ぎ、モニター艦部隊は事前の航空偵察によって判明した敵のトーチカ、大隊本部、砲兵陣地などを潰していった。ドイツ陸軍砲兵隊が阻止砲火を始めると、日英艦隊の戦艦、重巡洋艦、軽巡洋艦が砲撃目標を変更し、水上機の航空観測の支援を受けながら砲撃をドイツ陸軍砲兵隊に注いだ。
準備砲撃が終わると、ベルギー陸軍の第1歩兵師団と第2歩兵師団が浸透戦術で前進を開始した。ベルギー陸軍部隊には戦車が配備されていなかった。日英仏とも生産能力が手一杯だったからだ。このため、ベルギー陸軍の2個師団は穴埋めとして艦砲射撃の支援が追加された。ベルギー陸軍の2個師団の歩兵部隊は砲兵弾幕の後ろから寄り添うように、素早く前進した。迫撃砲も活用されて弾幕は途切れることなく続いた。航空機が上空から着弾地点を修正した。敵陣地まで約1千mに迫ると、迫撃砲以外の火砲は煙幕弾に切り替えられた。
ベルギー陸軍の第1波の歩兵部隊は手薄な地点から次々に第1線の塹壕を突破した。そして、第2線や第3線も突破して後方に浸透した。それから反転して後方から攻撃を始めた。ベルギー陸軍の第2派の歩兵部隊は第1波に続いて第1線を突破すると、第3戦まで浸透して第1波の部隊と共に塹壕線を背後から制圧していった。頑強に抵抗するドイツ軍部隊に対しては軽迫撃砲から赤色の目標指示弾を撃ち込んだ。すると、上空の着弾観測機が砲兵隊の砲撃を誘導した。砲撃で抵抗力を弱めると、第3派のベルギー陸軍の歩兵部隊が山砲や迫撃砲の支援を受けながら制圧していった。ベルギー陸軍の歩兵分隊も2艇の軽機関銃(種子島1911)が配備されており、分隊単位の火力も高かった。日本陸軍の訓練でベルギー陸軍の全師団は浸透戦術が実行可能なようになっていた。
ドイツ陸軍部隊は混乱して対応できなかった。30㎝榴弾砲や40㎝榴弾砲のモニター艦の砲撃は強烈であり、続いて砲兵隊の砲撃が降り注いだ。それから直ぐ、煙幕弾が撃ち込まれ、ベルギー陸軍の歩兵部隊が浸透してきた。そして、第3線や第2線が背後から制圧されていった。第1線のドイツ陸軍部隊は第3派の歩兵部隊と挟撃されて制圧された。こうして、ベルギー陸軍の2個師団は防衛線を突破した。突破口が確保されると、ベルギー陸軍の2個歩兵師団は残的掃討と地域の確保を後続部隊に任せて進撃した。
一方、艦砲射撃の射程外で攻勢を始めたイタリア陸軍の3個師団では攻撃方法が異なっていた。イタリア陸軍の3個師団は200輛の戦車部隊(予備に30輛。別に補給戦車が40輛)に支援されており、モナッシュ戦術が証明されたアメルの戦いと似た形で戦闘を実行した。ベルギー陸軍と同時刻に、攻勢が開始された。ベルギー陸軍と同様の手順で短い時間の準備砲撃が続き、戦車と歩兵の混成部隊の第1波が突入した。突入してからは違う展開となった。
イタリア陸軍の戦車と歩兵の混成部隊の第1派は第1線を突破すると、第2線の制圧に着手した。混成部隊に随伴していた補給戦車から、有刺鉄線、杭、掩蓋用の鉄板を取り出して陣地を構築した。それから軽迫撃砲を設置してドイツ陸軍のトーチカにオレンジ色の目標指示弾を撃ち込んで砲撃を誘導した。また、V字型の白布が広げられ、小銃弾と機関銃弾の弾薬箱、医薬品、手榴弾箱、工兵用爆薬を収納した箱がパラシュートで投下された。このように体制を整えながら第1派の部隊は第2線を制圧していった。
後続の第2派の部隊は歩兵部隊で構成されていた。第2派の部隊は浸透戦術で第1線を突破すると、直ぐに反転して第1派の部隊と迫撃砲部隊の支援を受けながら第1線を制圧していった。こちらでもドイツ陸軍部隊は対応できなかった。ドイツ陸軍部隊は砲撃が終わると同時に多数の煙幕弾が撃ち込まれ、戦車と歩兵の混成部隊が突入してきたので容易に突破された。そして、第2線に戦車と歩兵の混成部隊が食い込んで制圧を始め、第1線も第2派の歩兵部隊から急襲されて制圧されていった。ドイツ陸軍部隊は大半が降伏に追い込まれた。この間、第3線のドイツ陸軍部隊は砲撃を浴び続けた。
1時間30分が経過すると、戦車と歩兵の混成部隊の第1派は前進を再開し、時間をおいて第2派の歩兵部隊も後続した。捕虜の収容と残敵掃討は第3派の歩兵部隊に引き継がれた。イタリア陸軍部隊の第1派と第2派は第1線や第2線と同じように第3線を制圧してドイツ陸軍の防衛線を完全に崩壊させた。こうして、イタリア陸軍も突破に成功し、占領地を広げていった。突破口から戦車部隊の支援を受けていないイタリア陸軍歩兵師団も侵入して側面から浸透戦術でドイツ陸軍の陣地を占領していった。
ドイツ陸軍はフランスダース軍が全面攻勢に出て戦線を突破したので衝撃を受けた。さらに、オーステンドの沖合に大船団が待機していた。ドイツ陸軍参謀本部は直ちに予備兵力を急派した。9日の夜明け前に、上陸作戦が始まったとの報告も入った。フランダース軍の全面攻勢を受けたドイツ陸軍部隊も混乱した。オーステンドから上陸した敵部隊にも対処しなければならず、兵力が分散した。しかし、オーステンドの部隊は全くのダミー部隊だった。ポルトガル陸軍の2個師団とイギリス海兵隊師団がダミー部隊を担当した。
7月1日から準備が開始され、約1千隻の輸送船がイギリスのワイト島で陸軍部隊を積み込んだのは本当だった。ただし、ポルトガル陸軍の2個師団が乗り込んだだけだった。積み込まれた大砲の多くはダミーであり、甲板の下に運び込まれると直ぐに分解されて船から運び出された。そして、警備された倉庫の中で又も素早く組み立てられ、再び輸送船に搭載された。他にも、弾薬箱や砲弾の収納箱などのダミーが積み込まれた。各輸送船には喫水線の深さでダミーを積んでいることが解らない様にダミーの箱に入れた砂が積み込まれていた。
中ではポルトガル陸軍やイギリス海兵隊の兵士達が箱に入っていた砂を麻袋に詰めて船底などに運んでいた。また、兵隊の乗船はワイト島全体を隔離して夜間に行われた。ポルトガル陸軍はイギリス陸軍の制服を着用し、何度もワイト島で乗船を繰り返した。これにより、1個軍団以上の兵力が輸送船団に乗船したと報告された。しかし、実際は3個師団の兵士達が分散して乗船しただけだった。3個師団の兵士達は輸送船に乗船すると、ダミーを積み終えたボートや艀の船底に隠されて隔離された地区に戻されて行進することを繰り返していた。こうして乗船を完了した上陸船団は8日の攻勢発動前に、オーステンドの沖合に展開した。当初、ドイツ陸軍は警戒部隊を配置しただけだった。鉄道で予備兵力を送り込めば良いだけだからだ。
ところが、8日からのフランダース軍による戦線の突破が全てを変えた。沖合の上陸船団から大部隊が上陸すれば、脅威となる。ドイツ陸軍が警戒し始めた矢先に上陸作戦が発動された。各輸送船からボートや上陸舟艇が下され、各輸送船から兵隊が移り始めた。そして、照明弾が上げられ、艦砲射撃が開始された。同時に、煙幕も焚かれた。水上機も上空に現れた。警戒していたドイツ陸軍部隊は慌てふためき、連合軍の1個軍団以上の上陸作戦が始まったと報告した。そして、連合軍の上陸舟艇やボートが接近してきたのでドイツ陸軍部隊は阻止砲火を行った。当然、ドイツ陸軍は予備兵力を沿岸に配置した。そして、発進してきた上陸舟艇を十数隻ほど破壊した。十数隻のボートが木端微塵になるのも目撃された。多数の煙幕弾が沿岸に撃ち込まれたが、兵士達の悲鳴や断末魔が聞こえた。ドイツ陸軍部隊は反撃が順調だと判断した。
しかし、夜が明けてみると唖然とした。撃破した上陸用舟艇やボートに乗っていたのはダミーの人形だった。上陸舟艇は無人で海岸に進むようになっていた。ボートは本物の上陸舟艇(これにもダミー人形が積まれていた)に曳かれており、周囲に砲弾が着弾すると上陸舟艇の兵士がダミーのボートを爆破した。なお、ダミーのボートのオールもバッテリー付きの装置で水兵が漕いでいるように動くようになっていた。煙幕が立ち込める中でドイツ陸軍部隊は完璧に騙された。兵士達の悲鳴や断末魔は予め録音されていた音を魚雷艇が煙幕の後ろからスピーカーで流していた。
なお、艦砲射撃の方も継続して行っていたのはイタリア艦隊だけだった。対地攻撃用のモニター艦はイタリア海軍の2隻だけだった。怪しまれない様に、金剛級やイギリス海軍の巡洋戦艦を中心とする日英海軍の艦隊も艦砲射撃を実行した。しかし、いずれも攪乱目的の砲撃であり、平均して10分でベルギー軍の支援に戻った。後は、煙幕の後ろでダミーの砲身から閃光が炸裂させただけだった。モニター艦部隊や戦艦部隊の艦砲射撃の音も十数隻の輸送船に搭載されたスピーカーで流されていた。こうして、「海上における史上最大の欺瞞作戦」は大成功に終わった。ドイツ陸軍は予備兵力を沿岸に急派してしまい、フランダース軍の攻撃に全力で対処することができなかった。
このため、9日の攻勢も成功した。フランダース軍は2日間で約14㎞も前進した。9日からはイギリス第2軍も攻勢を発動した。ただし、牽制攻撃の要素が強かった。大半の戦車部隊がアミアン戦線に投入されていたからだ。それでもイタリア第3軍と呼応してドイツ陸軍の戦線を約3㎞は押し込んだ。ドイツ陸軍参謀本部は多くの予備兵力を北部に急派した。フランダース軍やイギリス第2軍の攻勢に加えて沖合の大船団が気になっていた。
勿論、9日の上陸作戦が陽動作戦であるのは既に把握していた。しかし、陽動作戦にしては規模が大きすぎた。まず、日英伊の大艦隊に約1千隻以上の輸送船団(煙幕などの要因で規模を少し誤認)という規模だった。また、ワイト島における準備期間も陽動作戦にしては長すぎた。航空写真を分析しても喫水線は沈んでおり、物資が満載されていることを示していた。
また、各輸送船の甲板にはイギリス陸軍の将兵(ポルトガル陸軍の兵士はイギリス陸軍の制服を着て同じ装備で射撃していた。階級章などはポルトガル陸軍の物を付けていたが厳密には国際法違反)がおり、ドイツ軍偵察機が接近すると重機関銃、軽機関銃、小銃で激しく銃撃してきた。当時の飛行機は歩兵の銃撃でも撃墜されることが多かったので、こうした行動が普通だった。勿論、日英伊の艦隊からも対空砲火が行われた。ドイツ陸軍参謀本部としては上陸作戦の可能性を排除できなかった。このため、沿岸の兵力を減らすわけにはいかなかった。このため、アミアン戦線で待機していた予備兵力も多くを北部に転用するしかなかった。
11日にはフランダース軍を中心とする北部の攻勢が行き詰った。ドイツ陸軍の予備兵力が到着し、前線を補強したことによる。また、戦線を突破できても戦果を拡張できる兵力がなかった(騎兵部隊は全くの無力)。しかし、アミアン戦線に回せるドイツ陸軍兵力が少なくなった。列車は自動車部隊のような柔軟な兵力の移動が難しい。事前計画なしに大量の兵力を送ってしまうと、後から物資や兵器が送られてくるので路線が塞がってしまうからだ。これにより、連合軍は貴重な時間を稼ぐことが出来た。
8 月12日、アミアン戦線で連合軍の大攻勢が発動された。イギリス第4軍とフランス第1軍が攻勢を発動した。既に、ドイツ陸軍が北部に大兵力を投入していたことは明白だった。ドイツ陸軍参謀本部が即座に投入できる予備兵力は8個師団になっていた。既に、連合軍の配置は8日に完了していた。当初、師団長達にも攻勢開始は8日と知らされていた。
それが7日の23時に中止となりフランダース軍が攻勢を発動した。アミアン戦線では落胆の空気が広がった。当初予定時刻の36時間前に知らされた兵士達は尚更だった。このため、不平不満が噴出するのは避けられなかった。こうした状況はドイツ軍情報部にも伝わり、ドイツ陸軍参謀本部は予備兵力を北部戦線に移動させた。
ところが、10日に師団長達や旅団長達は攻勢開始が12日だと知らされた。普通は混乱するところだが、モナッシュ戦術に従って全ての準備は完了していた。8日からの態勢は攻勢延期後も変更を禁じられていた。師団長達や旅団長達には日付だけを変更した作戦計画書と最新のドイツ陸軍部隊の情報を記した分析報告書(航空写真つき)が再配布された。基本的に、日付だけを除けば当初の計画通りに実行すれば良いだけだった。このため、各師団や各旅団は素早く態勢を整えた。
こうして、8月12日の午前4時20分、連合軍の猛烈な準備砲撃がドイツ陸軍陣地に降り注ぎ始めた。5分後、イギリス陸軍部隊は戦車と歩兵の混成部隊が移動弾幕の後から計画に従って粛々と前進した。砲兵の移動弾幕は先頭を進撃する部隊の前方200ヤード(約182m)に一直線に展開された。そして、計画に従って砲兵弾幕の移動と歩兵部隊の前進を繰り返した。これに援護されて、戦車と歩兵の混成部隊は順調に前進してドイツ陸軍陣地を占領していった。ドイツ陸軍部隊の防御射撃を困難にするため、事前の計画に従って夜間爆撃専門の航空隊が多数の煙幕弾を投下し、イギリス陸軍の部隊がドイツ陸軍陣地の500m以内に接近すると迫撃砲部隊も多数の煙幕弾を撃ち込んだ。側面から歩兵部隊が機関銃などで掃射されないためだった。
事前の計画に従って煙幕弾は使用されたが、砲弾の爆煙が加わって忽ち見通しが悪くなった。しかし、これによりドイツ陸軍部隊の対応が遅れた。断続的な砲撃と共に、煙の中から戦車と歩兵の混成部隊が突如として現れて陣地内に突入してきた。イギリス陸軍部隊は手早くドイツ陸軍部隊の陣地を掃討していった。補給戦車から重機関銃や軽迫撃砲などの重火器を受け取って歩兵部隊も強力な攻撃力を発揮した。
午前5時半頃、太陽が昇り始めると、イギリス陸軍戦車の火砲、航空観測による正確な砲撃がドイツ陸軍部隊を圧倒した。更に連合軍の航空隊がロケット弾や機銃掃射でドイツ陸軍砲兵隊を空爆した。そして、ドイツ陸軍砲兵隊は航空観測による砲撃も受けて圧倒され、有効な阻止砲火を展開できなかった。さらに、航空機からの補給物資の投下も効果的だった。こうして、イギリス陸軍部隊は戦線突破に成功した。
イギリス第4軍に属する日本陸軍第6軍団は、他の連合軍部隊とは攻撃方法を異にしていた。日本陸軍の第6軍団で攻撃の先鋒となったのは、増援として到着した第1、第2、第3の3個師団だった。各師団には菱型戦車144輛と補給戦車24輛が配備されていた。イギリス第4軍に属するイギリス陸軍部隊と同時に作戦を開始した。午前5時半まではイギリス陸軍部隊と同じだった。移動弾幕の背後から戦車部隊と歩兵部隊が続く。
第1派の部隊は、各歩兵中隊(各小隊に工兵分隊と機関銃分隊を配属)に戦車5両が配属された。第2派の部隊は歩兵部隊、機関銃部隊、ストークス臼砲部隊、山砲部隊で構成される混成大隊から成っていた。
どちらも、各分隊は充分な距離を空けていた。移動弾幕の背後から第1派の部隊も第2派の部隊も事前の計画に従って粛々と進む。第1派の部隊は濃い霧と爆煙に紛れてドイツ軍の第1線に突入した。戦車が塹壕を次々に乗り越え、塹壕に大砲を撃ち込み始めた。戦車に随伴する歩兵小隊は小銃、軽機関銃、重機関銃による猛烈な銃撃を行い、ドイツ陸軍歩兵部隊を牽制した。
戦車に続いて、各歩兵分隊が機関銃分隊に援護されて次々に塹壕へ突入した。日本陸軍の各歩兵分隊には2丁の短機関銃(トミーガンのライセンス生産品。種子島1917)が配備されていた。日本軍では下士官ではなく短機関銃手が短機関銃を装備。狙撃を警戒したのと、兵士が任務に忠実な傾向が強いためだ。なお、短機関銃は攻勢時のみ使用し、防御時は短機関銃手も小銃を使用した。短機関銃が配備されていたことで戦術の柔軟性が増した。
塹壕に接近した各歩兵分隊は次々に手榴弾を投擲して突入する。短機関銃手が周辺のドイツ陸軍兵士を薙ぎ倒し、他の日本陸軍兵士達を援護する。他の日本陸軍兵士達はドイツ陸軍兵士を銃剣で刺殺し、距離を空けると手榴弾を投擲して塹壕を制圧していった。短機関銃手による掃射はドイツ軍兵士達を効果的に牽制した。短機関銃の銃撃は狭い塹壕内でも有効であり、無理に突撃してきたドイツ軍兵士は薙ぎ倒された。短機関銃手に援護された日本陸軍兵士達が次々に手榴弾を投擲していく。ドイツ軍兵士達が距離を空けると、軽機関銃が威力を発揮した。それに加えて、戦車と重機関銃の援護が加わる。
日本陸軍の各小隊は各分隊を状況に応じて、塹壕内を進むだけでなく塹壕の背後にも分隊を回して背後から攻撃させた。主として手榴弾で塹壕を制圧していく。戦車と機関銃分隊も援護する。退避壕などは他部隊に援護された工兵分隊が次々に爆破していった。こうした戦術をとる小隊で構成された第1派の基本戦術は次の通り。
第1派の部隊は戦車1輛と1個小隊が塹壕に沿って塹壕を制圧し、戦車2輛と2個小隊が塹壕を背後から急襲した。戦車2輛と1個小隊は予備として状況に応じて他の小隊を支援した。第1線のドイツ陸軍部隊は日本陸軍部隊の諸兵科連合戦術に圧倒されて多くの兵士が降伏に追い込まれていった。第1派の部隊は抵抗の大きな地点を迂回し、多くの手薄な地点を占領した。第1派の部隊は予定の時間になると、ドイツ陸軍の第2線へ向かった。
第2派の部隊は第1派の部隊の攻撃によって孤立した第1線のドイツ陸軍部隊を掃討していった。同時に、捕虜の後送も開始した。太陽が昇り始めると、日本陸軍は自軍の砲撃戦術を開始した。第1派の部隊は太陽が上がり霧が晴れはじめると、次々に信号弾を上げた。更にX字型の布を広げ、部隊の位置を表示する。観測機が第1派の部隊の信号弾を確認し、射撃指揮所に報告する。日本陸軍の榴弾砲部隊がドイツ陸軍の第2線に榴弾による15分間の猛砲撃を行う。15分間の間に、第1派の部隊は補給戦車から小銃と機関銃の銃弾、手榴弾、爆薬などが補充された。
その後、恒例の戦術が始まった。ドイツ陸軍部隊の第2線に野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、第3線に榴弾砲部隊が榴弾による砲撃を行った。日本陸軍砲兵隊は航空観測による正確さを伴った柔軟な砲撃を重視していたので移動弾幕は好んでいなかった。このため、航空観測ができるようになると、自軍が得意とする戦術に切り替えた。観測機が着弾結果を報告し、射撃指揮所が其れを基に砲撃を修正していく。第1派の部隊が第2線の約200m前後で停止し、次々に信号弾を上げた。
上空の観測機が確認し、第2線への煙幕弾による砲撃を止めさせ、第3線と第2線への交通壕に榴弾による砲撃を集中させる。第1派の部隊は第2線への砲撃が止むと第2線へ突入する。第1派の部隊は第2線を第1線と同じ戦術で制圧していった。ドイツ陸軍部隊は戦車と機関銃部隊の援護を受け、各分隊にも軽機関銃2挺と短機関銃2丁を装備する日本陸軍部隊に対応できず打ち負かされていった。ただし、ドイツ陸軍部隊が頑強に抵抗する地点は避け、半包囲状態にして孤立させた。
第2線に橋頭堡を確保した第1派の部隊は補給戦車から有刺鉄線、地雷、掩蓋用の鉄板、土嚢用の麻袋を受け取って防御を固めた。更に、X字型の布を広げて空中補給を受けた。航空機から銃弾、手榴弾、機関銃の銃身が投下され、第1派の部隊が回収した。第1派の部隊は応戦しつつ、第2派の部隊を待った。その間、日本陸軍の砲兵隊は第3線を砲撃し続ける。第1線を掃討した第2派の部隊は第3派の部隊に第1線の確保を任せて第2線へ向かった。第1派の部隊は第2派の部隊と協力して第2線を掃討した。第1派の部隊と第2派の部隊は再編成を行ってから進撃した。そして、ドイツ陸軍の第3線と第4線を前の塹壕線と同じように占領した。
この間、日本陸軍航空隊も大きな役割を果たした。制空権を確保し、観測機で砲撃を誘導して勝利の鍵を作った。特に、ドイツ陸軍砲兵隊を粉砕できたのは日本陸軍航空隊の功績だった。偵察機で戦場を把握し、ドイツ陸軍砲兵隊への対砲兵射撃を誘導して多くを無力化した。また、隠れていたドイツ陸軍の砲兵隊が砲撃を始めると、直ちに観測機が砲撃を誘導して無力化した。
砲兵隊が他目標の攻撃中で砲撃できない場合、観測機が発煙弾を投下してドイツ陸軍砲兵隊の位置を標示した。上空に待機していた爆撃隊が降下し、ドイツ陸軍砲兵隊に多数のロケット弾を一斉発射した。これにより、ドイツ陸軍砲兵隊の砲撃は更に制限された。しかし、ドイツ陸軍部隊も対空射撃の訓練を重ねており損害が続出した。
一方、ドイツ陸軍航空隊の戦闘機の活動は低調だった。北部のフランダース戦線に多くの戦力を抽出していた上に、連合国軍との連日の航空戦で消耗していた。このため、制空権は連合国軍が握っていた。日本陸軍部隊を始め、連合国軍部隊が優勢に砲撃戦を行うことが出来たのは航空戦力の功績だった。航空戦力に加えて、諸兵科連合能力が最大限に発揮された日本陸軍の攻撃はドイツ陸軍部隊を圧倒した。こうして、日本陸軍の第6軍団もドイツ陸軍部隊の戦線を突破した。
戦線を突破すると、戦果拡張の段階になった。連合軍の快足部隊(当時の基準での快足部隊)がドイツ陸軍部隊を捕捉できなければドイツ陸軍は態勢を立て直してしまう。日本陸軍の第6軍団では、追撃用の部隊として第6、第7、第8の3個騎兵旅団が待機していた。3個騎兵旅団とも名前こそ騎兵旅団だったが、実際はホイペット戦車48両と装甲車(種子島1913式3型)32輛を主力とする機械化旅団だった。騎兵部隊も実際は馬に乗る歩兵部隊だった。しかし、今回は全ての騎兵部隊が馬から降りて自転車に乗って進軍することになった。
初めは移動の自由度が大きい馬(荒れ地などでも楽に移動できる。当時の車輛は荒れ地などでは大きく性能が低下した)に乗って進軍する予定だった。しかし、馬が行動するには餌となる秣が必要であることが指摘された。秣を運ぶにはトラック部隊や馬車部隊の支援が必要であり、道路を渋滞させてしまう。また、馬は降りてしまうと管理しておくための兵員を残さなければならないので煩わしかった。このため、全部隊が自転車で移動した方が効率的だと判断された。日本陸軍の自転車はオフロード用であり、路外でも機動できたからだ。重火器や自転車の交換部品などはトラック部隊が運ぶ。第6軍団の予備や他の師団からのトラック部隊や歩兵部隊の増強で3個旅団とも約7千人になった。
第6軍団の3個騎兵旅団は先鋒の3個歩兵師団が前線を突破すると、計画どおりに進撃していった。第7騎兵旅団はドイツ陸軍第225師団の背後に回り込み、第8騎兵旅団はドイツ陸軍第14バヴァリア師団の背後に回った。両騎兵旅団のホイペット戦車は自転車部隊と共同作戦を行った。ホイペット戦車の最高速度は約13キロであり、自転車部隊との共同作戦に適していたからだ。
もちろん、自転車に乗った歩兵はホイペットと一緒に突撃できすることはできない。しかし、歩兵部隊が掩護することでドイツ陸軍歩兵の手榴弾攻撃や徹甲弾による銃撃を妨害することができた。自転車なら乗り捨てて戦闘を行い、移動時に再度、乗れば良いだけで扱いが簡単だった。また、日本陸軍の歩兵部隊は浸透戦術も得意としていたので戦況の変化に対応できた。このため、ドイツ陸軍の歩兵部隊は戦車と歩兵の両方に対応しなければならなかった。
これらの要因で、日本陸軍のホイペット戦車部隊は英陸軍のホイペット戦車部隊と比べて戦果を挙げることが出来た。日本陸軍の3個騎兵旅団とも道路上を装甲車部隊が進み、ホイペット戦車部隊は路外に出て草原を進んだ。それに加えて、野砲部隊、ストークス臼砲部隊、山砲部隊が後続した。騎兵旅団の砲兵隊も機械化されており、6輪で全輪駆動のトラック(種子島社製)が迫撃砲と弾薬を運搬し、旅団の砲兵隊の要員は自転車で移動した(本当は砲兵隊も機械化したかったが、生産が追い付かなかった)。ドイツ陸軍部隊もイタリア戦線で日本陸軍が装甲車部隊を戦果拡張に活用していることは確認していたので対策を講じていた。日本陸軍が戦線を突破すると、廃材などを利用した障害物と地雷を道路に多く設置した。このため、装甲車部隊は道路を外れて戦闘をするしかなく、進撃速度が低下した。
しかし、ホイペット戦車部隊が活躍した。日本陸軍の騎兵旅団の基本戦術は次の通り。2個中隊(32輛)は両側面から道路上の障害物を守るドイツ陸軍部隊に機銃掃射を浴びせる。ドイツ軍陣地の背後にも回り、掃射を浴びせて後方との連絡を妨害する。ただし、ドイツ陸軍歩兵とは充分に距離を空ける。日本陸軍のホイペット戦車は手榴弾除けの金網を装備しているが、歩兵の手榴弾による攻撃には弱いからだ。ドイツ陸軍部隊は側面から出現し、陣地の側面と後方に掃射を浴びせてくるホイペット戦車部隊を排除しようと歩兵を次々に差し向ける。しかし、ホイペット戦車に接近しようとするドイツ陸軍兵士に銃撃が浴びせられる。
ホイペット戦車部隊に後続してきた歩兵部隊がホイペット戦車部隊と共同でドイツ陸軍陣地を攻撃する。両側面に2個小隊ずつが回り、ドイツ陸軍部隊に継続躍進で迫る。各小隊は2個分隊が射撃している間に2個分隊が前進する。それを繰り返してドイツ陸軍部隊に迫っていった。これにホイペット戦車からの機関銃による掃射が加わる。ドイツ陸軍兵士は次々に撃たれ、ドイツ陸軍部隊は左右から押されていく。道路上の主力も呼応して障害物を守備するドイツ陸軍部隊を攻撃する。ストークス臼砲部隊が弾幕射撃を始める。榴弾の弾幕により、ドイツ陸軍陣地が爆煙に包まれる。正面からも日本陸軍の各小隊が継続躍進で迫る。三方向から攻撃されたドイツ陸軍部隊は堪らず退却していく。こうして、ドイツ陸軍の陣地は次々に突破された。
陣地が占領されると装甲車部隊の兵員輸送車(装甲車と同型)から工兵隊が下車した。工兵隊が地雷を撤去し、障害物を爆破した。その後、装甲車部隊は進撃し、自転車部隊が後続した。一方、本隊から分離したホイペット戦車16輛は戦線後方に浸透して馬車、砲兵隊、トラックを攻撃した。混乱するドイツ陸軍部隊を後続の騎兵旅団の主力が攻撃する。抵抗の大きい地点は迂回し、後続の師団に任せた。
砲弾で出来た砲弾孔などに遭遇すると、随伴していた輸送車(種子島1913式と同型)や輸送車が牽引してきたトレーラーから小型の橋梁が出されて設置された。ホイペット戦車が乗り越えられない幅の塹壕や対戦車壕などにも工兵隊が複数の橋梁を繋げて設置した。ホイペット戦車は是により行動の自由を確保した。各騎兵旅団はドイツ軍兵士が降伏した場合、武装解除して後続の師団に後送は任せた。
騎兵旅団を追って、第1、第2、第3師団の歩兵部隊も自転車に乗って後続した。トラック部隊が計画に従って次々に自転車を輸送して、歩兵部隊は自転車に乗って進撃した。騎兵旅団の進撃速度が落ちない様に空中補給が大々的に行われた。是までの空中補給に加えて飛行船部隊も投入され、装甲車やホイペット戦車向けに燃料がパラシュートで投下された。X字型などの布が広げられ、各種色の発煙筒が焚かれた。進撃路ごとに標示の種類や発煙筒の煙の色が決められており、空中補給は概ね正しく行われた。当然、航空機が飛ぶ空路も事前に設定されていた。計器が未発達で電波航法などがない当時は是が確実な方法だった。これにより、日本陸軍部隊の進撃速度は是までと比べて格段に速かった。
3個騎兵旅団と後続の3個師団の猛進撃でドイツ陸軍部隊は大混乱に陥った。戦線が突破された後に、ホイペット戦車部隊、装甲車部隊、迫撃砲部隊、歩兵部隊(自転車部隊)の諸兵科連合部隊が後方に進撃して退路を塞がれた。補給部隊や砲兵隊などが次々に襲撃されていった。装甲車対策のために、大量の障害物や地雷を準備していた。しかし、ドイツ陸軍部隊は日本陸軍騎兵旅団の諸兵科連合部隊に対応することができなかった。後続の3個師団が残存のドイツ陸軍部隊を掃討していった。
最も大胆に突進したのは第6騎兵旅団だった。午前8時、一挙にレッドラインまで達した。第1歩兵師団の歩兵部隊も自転車に乗って後続してきた。第6騎兵旅団はドイツ陸軍の第1後備兵師団と第82後備兵師団の先鋒部隊を撃退した後、南下してドイツ陸軍第192師団の主力を攻撃しようとした。
しかし、ドイツ陸軍の後備兵の2個師団は第192師団が撃滅されない様に、防御線を大急ぎで構築した。ドイツ陸軍の歩兵部隊は戦車や装甲車に対する訓練も受けており、戦車や装甲車が突出してきたら手榴弾で攻撃しようと待ち構えていた。しかし、第6騎兵旅団の戦車部隊や装甲車部隊は歩兵を蹂躙しようとはしなかった。距離を空け、銃撃を続けて第1師団を待った。
その間に、自転車に乗った歩兵部隊が次々に到着した。第1師団の歩兵部隊が到着すると、各部隊の士官の数名ずつが集合して簡単な打ち合わせを行った。その後、ストークス臼砲部隊が弾幕射撃を始める。ドイツ陸軍陣地に榴弾が降り注ぎ、陣地が爆煙に包まれる。野砲部隊と山砲部隊はドイツ陸軍の野砲部隊に煙幕弾を浴びせ、射撃を妨害する。
援護を受けて、装甲車部隊およびホイペット戦車部隊と歩兵部隊が攻撃を開始する。まず、2個歩兵中隊が装甲車部隊やホイペット戦車部隊の掩護射撃で前進する。各小隊は継続躍進戦術で前進する。2個分隊が射撃し、その間に2個分隊が前進する。是を繰り返す各小隊の後ろから機関銃部隊が後続する。ドイツ軍陣地の両側面に歩兵中隊が到着すると、次は歩兵中隊の掩護射撃で装甲車部隊やホイペット戦車部隊が前進した。是を繰り返した。ドイツ陸軍の歩兵部隊は次第に損害を増していき、後退していった。
日本陸軍の歩兵部隊は自転車で移動しており、重機関銃や軽迫撃砲などの重火器を手早く展開できた。このため、ドイツ陸軍歩兵部隊は強烈な火力を受けることになった。そして、軽機関銃2艇を歩兵分隊に装備する日本陸軍の歩兵部隊は射撃戦で有利だった。更に自転車で弾薬の手持ち分が多く、空中補給やトラック部隊が弾薬を継続して供給した。日本陸軍の歩兵部隊は弾切れを気にすることなく、攻撃を続けた。ドイツ陸軍部隊の多く(特に後備兵師団)は塹壕線に慣れきっており、こうした遭遇戦や機動戦が苦手だった。そこに、火力が優勢で機動力も優勢な日本陸軍の歩兵部隊が装甲車部隊などの支援で攻撃してきたので敗退した。
日本陸軍も砲兵隊の進出が渋滞で遅れる事態が発生した。しかし、連合軍の航空隊が執拗な爆撃(主にロケット弾)を行って砲撃と移動を妨害した。これも計画通りであり、第6騎兵旅団などに対応すると予想されていたドイツ陸軍の後備兵2個師団の上空には常に観測機が付きまとっていた。そして、観測機によってドイツ陸軍部隊が第6騎兵旅団などと接敵したのが報告された。すると、待機していた航空隊が計画に従ってドイツ陸軍の後備2個師団の上空に進出して砲兵隊を目標にして空爆を行った。観測機からの情報が航空基地に伝えられ、それに従って航空隊が空爆を行った。
こうして、ドイツ陸軍の砲兵隊が空爆されている間に、第6騎兵旅団や第1師団の砲兵隊が進出して砲兵火力は五分になった。後は観測機の誘導による砲撃で日本陸軍砲兵隊がドイツ陸軍砲兵隊を圧倒した。ドイツ陸軍の後備兵2個師団は日本陸軍の第6騎兵旅団と第1師団に打ち破られて後方に退却した。第ドイツ陸軍の192師団は退却できたが、重火器を全て失った上に兵員の約半分が戦死するか捕虜になる大打撃を負った。日本陸軍の第6軍団は初日に計画されていた最終目標線であるブルーラインまで到達した。これは他のイギリス陸軍の軍団よりも大幅に突出していたが、作戦計画で認められていた。
日本陸軍の第6軍団の突進により、フランス第1軍に対応していたドイツ陸軍部隊は背後を衝かれた。フランス陸軍の攻勢もあって、南部のドイツ陸軍部隊は総崩れになった。こうして、日本陸軍第6軍団の戦果拡張は大成功した。
ドイツ陸軍の第225師団はカナダ陸軍の第3師団、日本陸軍の第6騎兵旅団と第2師団によって包囲撃滅された。ドイツ陸軍の第14バヴァリア師団もフランス陸軍の第37師団、日本陸軍の第7騎兵旅団と第3師団によって包囲撃滅された。前述の様に、ドイツ陸軍の第192師団も大打撃を受けた。フランス陸軍の攻勢もあってドイツ陸軍の第24師団も重火器を全て失って撤退した。日本陸軍第6軍団の戦果拡張の成功は南部で攻勢を発動したフランス第1軍とフランス第3軍を大いに援けることになった。
日本陸軍の後続部隊の前には嘗てない光景が広がっていた。ドイツ陸軍部隊の複数の砲兵陣地が爆破されており、黒煙を上げて燃えていた。ドイツ陸軍の馬車、トラックなども散乱していた。それらを工兵隊と兵站部隊が撤去し、遺棄兵器や弾薬は工兵隊が爆破処理していた。道路の脇をドイツ陸軍の捕虜達が狙撃班に援護された哨兵達に監視されて後送されていく。第6軍団の司令部でも次々に入ってくる各部隊からの報告、作戦参謀達の視察報告、航空写真で高揚感に溢れていた。神尾中将は「今回の戦闘の勝利で連合国軍は戦争でも勝利を確実にした。物量は連合国軍が上であり、ドイツには新技術もない。どちらも軍人では解決できない課題だ。ドイツにはルーデンドルフという名の軍人がいるだけだ」と述べた。
フランス陸軍の攻勢も日本陸軍の攻勢と連動して大いに進展していた。ドイツ陸軍の第14バヴァリア、第192の2個師団が日本陸軍との挟撃で早々に壊滅したことでフランス第1軍の第9軍団と第31軍団は急速に進撃できた。両軍団はアーヴル河沿いに進撃して12日中にブルーラインを越えて日本陸軍第6軍団の側面を固めた。
一方、アーヴル河南で攻勢を発動したフランス陸軍の第10軍団と第35軍団も順調に進撃していた。第35軍団はモンディディエを攻略し、第10軍団は第9軍団と協力してドイツ陸軍の第24師団を攻撃して敗走させた。第10軍団と第35軍団も12日中に、第9軍団と第31軍団と並行した線まで前進できた。
フランス第軍の南で攻勢を発動したフランス第3軍もフランス第1軍と連動して進撃した。フランス第3軍の第34軍団と第15軍団も12日中にフランス第3軍と並行した線まで進撃した。ドイツ陸軍が対応できなかったのは日本陸軍の第6軍団の進撃速度が当時としては驚異的な速度だったこと、北部の戦線に多数の予備兵力を投入してしまったのでフランス陸軍の攻勢幅を広くとる広正面攻勢戦術に対応できなかったことによる。こうして、12日に、ドイツ陸軍は日本陸軍の第6軍団、フランス陸軍の第1軍と第3軍によって南に大きな脅威を受けることになった。
日本陸軍やフランス陸軍に比べてイギリス陸軍の戦果拡張は失敗した。原因は日本陸軍に比べてホイペット戦車や装甲車の台数が少ないこともあったが、日本陸軍と違って戦車部隊や装甲車部隊が諸兵科連合戦術に慣れていなかったことが大きい。ホイペット戦車部隊は騎兵部隊(乗馬した)と連携させられてしまい、実力を発揮できなかった。イギリス陸軍の騎兵部隊は乗馬して進撃し、騎兵突撃さえ行った。このため、忽ちドイツ陸軍部隊の銃撃で薙ぎ倒された。
騎兵部隊に足を引っ張られたホイペット戦車部隊は前進できなかった。また、装甲車部隊もドイツ陸軍が前記のように装甲車対策を準備していたので戦果を拡張できなかった。ホイペット戦車部隊も装甲車部隊も工兵隊や迫撃砲部隊などの砲兵部隊による支援がなかった。このため、ドイツ陸軍部隊が足留めするのは簡単だった。更に日本陸軍と違って歩兵部隊が大量の自転車を装備しておらず、ホイペット戦車部隊や装甲車部隊に追随することができなかった。このため、数台の例外を除いてホイペット戦車や装甲車は活躍できなかった。このため、イギリス陸軍に攻撃されたドイツ陸軍部隊は打撃を受けたが退却できた。
ドイツ陸軍参謀本部はアミアン戦線における連合国陸軍の大規模な突破に驚いた。イギリス陸軍は戦果拡張に失敗したが、鮮やかな突破であることに変わりはなかった。カンブレー戦と違ってイギリス陸軍に隙はなく、予備兵力を投入しての反撃は難しかった。更に日本陸軍が突破したことに加えて大幅な戦果拡張に成功したことに驚愕した。フランス陸軍も呼応して急速に進撃した。予備兵力を派遣しようにもフランダース軍やイギリス第3軍の攻勢に対応して予備兵力を大量に派遣したばかりだった。このため、直ちに派遣可能な兵力は8個師団に過ぎなかった。
このため、ドイツ陸軍参謀本部は夜間に防衛線の縮小を命じた。12日の夜、ドイツ陸軍部隊が撤退し始めているとの報告が複数の偵察部隊から齎されたが日英仏陸軍は何れも動かなかった。夜間戦闘は計画外であり、航空機による着弾観測もできないので攻撃したくなかった。このため、日英仏の陸軍は休息、再編成、砲兵隊の前進に専念した。ドイツ陸軍参謀本部は南部の戦線をノアイヨン~ラフェール間とした。イギリス陸軍に対応していたドイツ陸軍部隊も戦線をノアイヨンから北部に伸びる鉄道線に沿って防衛線を設定した。
翌日の13日の夜明けから日英仏陸軍は進撃を再開した。神尾中将は戦車部隊の整備のために14日から進撃するべきだと意見した。しかし、ローリンソンはドイツ陸軍の予備兵力が到着する前に占領地を広げるべきだとして攻撃の続行を命じた。フォッシュ元帥を始めとする連合軍上層部も攻撃の続行を命じた。ドイツ陸軍が後退を重ねているのはタンネベルクの会戦前後を除いてなかったからだ。しかし、神尾中将が懸念した通り、戦車の故障が続出した。
当時の戦車は信頼性が低いので、戦場までは鉄道で運ぶことを前提にしていた。その戦車を鉄道も直らない内から移動させたので故障が続出したのは当然だった。ドイツ陸軍部隊が予想を超えて大幅に後退したので砲兵隊の移動も困難を極めた。更に、連合軍が進撃する戦場は嘗てのソンム戦が行われた場所だった。放棄された塹壕線、錆び付いた鉄条網、砲弾孔などで補給も困難になり、戦車部隊さえ移動が困難になった。このため、13日の攻撃は早々に中止された。
連合軍は、14日は移動と再編成に専念した。15日に攻勢は再開されたが、前記のような地形だったのでホイペット戦車や装甲車などが使えなかった。このため、菱型戦車を先頭にした攻撃しかできなかった。当然、前線は突破できてもドイツ陸軍部隊は退却してしまう。歩兵部隊と菱型戦車部隊で追撃するのは難しかった。ドイツ陸軍は後方の陣地で態勢を立て直すことができた。それでも日本陸軍の第16師団とフランス陸軍の第42師団が共同してノアイヨンを攻略するなど前線を平手押しすることはできた。しかし、ドイツ陸軍の予備兵力も続々と到着した。8月15日の15時に攻勢は中止された。ドイツ陸軍は連合軍の攻勢が終了すると戦線を更に縮小した。北からハホーム、ベロンヌ、ネスル、ラフェールを繋いだ線だった。こうして、アミアン戦は終わった。
アミアン戦は連合軍の勝利だった。ドイツ陸軍に大損害を与えて後退を余儀なくさせた。アミアン戦線のドイツ陸軍突出部も完全に解消された。これにより、ドイツ陸軍が再びアミアンを狙うのは困難になった。つまり、イギリス陸軍とフランス陸軍の分断が事実上、不可能になったことを意味する。アメリカ陸軍が続々と到着する以上、ドイツの敗北を意味することにもなる。他にもイタリア陸軍が加わるからだ。
しかも、アミアン戦で見せつけられたモナッシュ戦術やフランス陸軍によるルノーFT107、歩兵部隊、工兵部隊、砲兵隊による歩戦協同戦術を展開された場合、敗北は確実だった。アミアン戦における両軍の損害が其れを表している。ドイツ陸軍の損害は戦死が約2万9千、捕虜が約4万5千、負傷が約4万3千だった。対して、日英仏陸軍の損害は戦死が約1万1千、負傷が約3万4千だった。ドイツ陸軍参謀本部にとって是は衝撃的だった。連合軍の諸兵科連合作戦により、前線が苦も無く突破され、予備兵力を投入しても防御できるだけだったからだ。
カンブレー戦でもイギリス陸軍が戦車隊を先頭にして塹壕線を突破したが、予備兵力の大量投入で反撃に成功した。しかし、今回は日英陸軍がモナッシュ戦術により効率的に塹壕線を突破し、手早く展開していたので隙はなかった。しかも日本陸軍の騎兵旅団を先頭にした追撃は急速でドイツ陸軍は対応できなかった。装甲車対策のために準備はしていたが、諸兵科連合の快足部隊(当時の基準で)には対応できなかった。騎兵旅団を中心とした機動戦で2個師団が撃滅され、1個師団が大打撃を受けて戦線が一挙に崩壊した。それにより、フランス陸軍の攻勢も大成功を収めた。
第一次大戦の戦訓として「防御が有利」という原則が主流になっていた。それが逆転した。しかもドイツ陸軍参謀本部は連合国陸軍の防御戦術を打ち破る戦術を考案できていなかった。特に、ルーデンドルフにとってはショックであり、アミアン戦の期間を「ドイツ陸軍暗黒の3日間」と呼んだ。予備兵力を大量に投入してもカンブレー戦と違って連合国の各国陸軍は崩れず、防御で精一杯だったからだ。ドイツの敗北は避けられないと感じ、和平を求めることになる。
このようにアミアン戦は第1次世界大戦における決戦となった。連合国の各国陸軍にとって勝利するための戦術が確立し、ドイツ陸軍に予備兵力を使い切らせることになったからだ。これ以後、ドイツ陸軍は連合国の各国陸軍による連続した攻勢に対応できなくなっていく。
アミアン戦の戦訓を最大限に活かしたのは日本陸軍だった。日本陸軍はモナッシュ戦術の熱烈な信奉者となり、戦後、陸軍部隊の機械化を最優先で進めていく。まず、戦車の種類も当初から中戦車に統一していた。このため、歩兵部隊と戦車部隊は共同作戦が容易になり、日本陸軍部隊は全力で敵部隊を攻撃することが出来た。第二次世界大戦においてイギリス陸軍が重装甲だが鈍足の歩兵戦車を装備する歩兵部隊、快足だが軽装甲の巡航戦車を装備する機甲部隊に分けて各個撃破されたのとは対照的だった。
また、歩兵と砲兵の機械化も進んでいた。そして、後に独立することになる空軍との連携も極めて巧かった。「機械的な手段によって損失を最小限に留めつつ、歩兵部隊が進撃する」が趣旨のモナッシュ戦術を実践することが出来た日本陸軍は強力な戦闘能力を第二次世界大戦でも発揮することになる。また、東南アジアや北東アジアなど日本帝国陸海軍が展開すると予想される戦場の多くが機甲師団には向かなかった。更に、日本帝国は海軍との連携を考えないわけにはいかない。
ただし、余りにモナッシュ戦術の信奉が過ぎて弊害も出ることになる。防御戦術は以前の自軍の戦術を踏襲して柔軟性を保っていたが、攻撃戦術はモナッシュ戦術に傾斜して柔軟性が損なわれた。このため、第二次世界大戦において日本陸軍は独ソ米の陸軍が示したような機甲師団を中心とした機動戦による包囲撃滅を達成することはできなかった。
ドイツ陸軍がフランス戦で電撃戦を披露し機甲師団の有効性を証明したにも関わらず、1943年まで日本陸軍は機甲師団を編成しなかった。機械化歩兵師団に機甲旅団を配属して臨時に機甲師団を編成すれば良いとの考えによる。更に、攻撃が慎重なので攻撃が予想されやすかった。北アフリカ戦線でロンメルが率いるアフリカ軍団に手古摺る結果となった。
アミアン戦の後、フォッシュは直ちに攻勢の発動を命じた。ドイツ陸軍が消耗している内に攻撃する必要を確信していたからだ。航空隊の移動、航空機用の爆弾および燃料の集積に時間が掛ったので攻勢開始は予定の8月21日より遅れた。
それでも8月27日、アメリカ陸軍のパーシング大将が指揮する連合軍の攻勢が開始された。アメリカ陸軍11個師団、イタリア陸軍10個師団、フランス陸軍9個師団が大攻勢を発動した。目標はサンミシェルを中心としたドイツ陸軍突出部だった。戦術はフランダース方面軍が実行したのと類似した戦術だった。イタリア陸軍はモナッシュ戦術を展開して被害を最小限に抑えて進撃できた。アメリカ陸軍とフランス陸軍も攻勢に成功し、サンミシェル突出部は8月30日、完全に攻略された。追撃用の部隊が騎兵部隊だけだったので決定的な損害は与えられなかった。それでも3日でフランス陸軍が攻略できなかった突出部を3日間で攻略したことは大きな成果だった。
ルーデンドルフは相次ぐ自軍の敗北に驚いた。連合国軍が攻撃側であるにも関わらず、損害はドイツ陸軍の方が多かった。予備兵力もベルギー北部の戦線やアミアン戦線に投入しており、その予備兵力も消耗していた。一先ず、シャトウチェリーを中心とした突出部から兵力を撤収させた。そして、逐次、ドイツ陸軍部隊をヒンデンブルク線に撤退させた。連合軍は直ちに追撃したかったが、戦車が予想以上に消耗していたので断念した。
ここでフォッシュは忘れ去られていたサロニカで、9月1日、連合軍の攻勢を発動させた。約30万人の英仏陸軍、セルビア陸軍の生き残り部隊、ギリシャ陸軍がセルビア陸軍部隊の先導で山岳地帯を突破してセルビアに侵入した。ブルガリア陸軍はドイツ陸軍に援軍を要請したが拒否された。このため、日本帝国やイタリアの仲介でブルガリアも講和に向けて交渉を本格化させた。それ以前から交渉は進められていたが、ブルガリアはドイツへの義理立てもあって難色を示していた。ところが、ロシア戦線に50個師団もいるにも拘らず、ルーデンドルフは援軍派遣を拒否した。このため、ブルガリアは戦前の国境に戻るという条件に合意した。こうして、9月10日、ブルガリアも連合国に降伏した。
ブルガリアは講和条件に従ってドイツ陸軍部隊を国外に退去させた。また、占領地をセルビア陸軍などの連合軍に引き渡した。英仏陸軍はセルビア陸軍とギリシャ陸軍に返還された領土の統治を任せてフランスに移動し始めた。セルビアはイタリアに対してイストリア半島など(現在のクロアチアに当たる地域)を明け渡せと要求した。しかし、イタリアは冷ややかに拒否した。オーストリアは単独講和する際にボスニアをブルガリアに引き渡していたが、他はイタリアに割譲した。このため、セルビアはボスニアをブルガリアから講和によって得た。既にユーゴスラビア王国の創設を宣言していたボスニアはクロアチア人の多く住む地域も領土に含めようとした。しかし、イタリアが拒絶したのでイタリアとセルビアの間に深刻な対立が改めて浮き彫りになった。
日本帝国の支援を受けているイタリアは強気だった。日本帝国もイタリアもセルビアの存在を邪魔だと考えていた。前記の様に、日本帝国もイタリアもセルビアが抹殺されることを望んで行動し、実際に国土からセルビア陸軍は追い出された。改めてイタリアとセルビアは激しく対立し、アメリカの提唱した民族自決の原則も絡んで戦争寸前となり、戦後の国際情勢にも重大な影響を与えることになる。
オーストリアに続いてブルガリアも降伏したことで連合国の士気は大いに高まった。逆にドイツは心理的に追い詰められていた。1ヶ国だけで、フランス、イギリス、日本帝国、イタリア、アメリカなどの連合国と闘わなければならなかったからだ。アメリカは続々と増援部隊を派遣してくるし、日本帝国とイタリアは兵員を消耗しておらず攻勢を行う余力が大きかった。戦車、装甲車や自動車、航空機、トラックなどの生産能力では連合国が上であり、防御に回っているにも関わらずドイツ陸軍の損害が大きかった。ソ連に領土を返還して兵力をドイツ本土に戻すことも検討されたが、ルーデンドルフが却下した。
ルーデンドルフは自己の責任を認めることに拒否反応が強かった。更に、ソ連に領土を返還してしまうとドイツは食糧や天然資源の調達先が無くなってしまうと懸念された。第二次世界大戦時と違ってドイツは長期戦になり、各国から包囲されて猛攻を受けると予想していなかったからだ(長期戦を政府が予想していたのは日本帝国くらいだが)。スウェーデンなどの北欧やスイスなどと貿易ルートはあったが価格が高騰していたし、需要に対して供給が足りないと予想されていた(実際は足りた)。
ルーデンドルフはドイツ外務省に日本帝国やイタリアに対して講和の仲介を要請させた。ところが、両国とも会談さえ拒否した。日本帝国は戦後のイギリスとの同盟継続を優先し、イタリアは新領土を英仏両国に承認させたかった。両国とも既にオーストリアやブルガリアの講和仲介で英仏米と軋轢が生じており、これ以上の危険を冒す気はなかった。
特に日本帝国はロシアを打倒するために共産党も支援したドイツに不信感を強めており、徹底的に叩き潰すべきだと判断していた。このため、開戦直後と異なって日本帝国はフランスと同調するようになっており、最低でもライン川の西岸まで進撃すべきだと主張していた。日本帝国の枢密院も井上内閣を支持し、貴族院は「ライン河西岸までの進撃」を求める決議を採択した。大谷国防大臣は貴族院の本会議で「国家が国益のために、選択できる手段を全て使うのは当然だ。しかし、手段を選ばないドイツと話し合う余地はない。ドイツは共産主義政権を成立させた犯罪国家であり、犯罪者として扱わなければならない」と強硬姿勢を鮮明にした。
連合国の中で、唯一アメリカが会談に応じた。このため、ルーデンドルフはアメリカに講和の仲介を要請させた。ウィルソンは喜んだが、実際はアメリカ政府も強硬だった。一方で、連合国間の対立は更に深まっていた。ロシア革命後に、主にチェコ人兵士で構成されるチェコ軍団がロシアから脱出しようとしていた。ところが、日本帝国とイタリアの仲介でオーストリアが降伏してしまったのでチェコ軍団は帰る場所が無くなってしまった。
チェコ軍団はチェコ独立派を明確に支持していた。チェコは依然としてオーストリアの支配下だったので帰れば反逆罪で裁かれる恐れがあった。ソ連政府とも衝突してチェコ軍団は孤立していた。このため、チェコの独立を支持していたアメリカが英仏に呼びかけてチェコ軍団を救出するために出兵した。英仏は日本帝国に出兵を要請したが、日本帝国は拒否した。日本帝国は英仏によるロシアへの干渉も支持しなかった。
英仏両国が支援する反共産党の白軍は共産党政権に反対しても帝政の復活を目指してはいなかったからだ。日本帝国にとっては反共産党というだけでは支援に値しなかった。あくまで其の地域の保守的伝統に根差した体制(多くの場合は君主制)を構築する反共勢力しか支援しない方針を決定していた。日本帝国は選挙による勝利を正当性の一助としか見做さなかった。現に、ロシア共産党は議会で少数政党だったが水兵達や陸軍の力を借りてクーデターで政権を掌握した。軍事力の掌握を重視した共産党の作戦勝ちだが、ロシア人の多くが選挙で誕生した政権に命を懸ける価値を見出さなかったことも大きい。
当時、多くのロシア人は機会主義的であり、多くを約束する(代償として約束したこと以外は全て奪う。与える権利も他の西洋諸国とは定義が違う。そして、約束実現の後に奪わないとの保証はしない)共産党に味方した。共産党が一番、実行力があったからで多くのロシア人は力を重視していた。ブルシロフなどの優れた帝政ロシア陸軍の将軍や士官の多くが赤軍に味方した。こうしたロシア人の傾向は対外特務庁によって把握されており、日本帝国は赤軍の勝利が確実だと判断していた。
そもそも、臨時政府を構成していた社会主義勢力は政権を掌握するまでは度々、テロを起こしていた。このため、日本帝国はロシア内戦をテロ組織同士の抗争と見做していた。よって、日本帝国が白軍を支援する筈もなかった。日本帝国はロシア人の多くがロマノフ王朝の復活を望まない限り、支援する気はなかった。共産党の宣伝とは裏腹に、ロマノフ王朝の復活を支持した白軍はなかった。白軍は臨時政府を再興して、民主主義を実現するために戦った。しかし、多くのロシア人にとって民主主義は自分達の要求を実現するための手段であって命を懸ける対象ではなかった。
共産党はウクライナから穀物を収奪して都市部に配給して支持を増やしていった。多くのウクライナ人が餓死した。しかし、共産党にとっては当然のことだった。ロシアは既に都市部の人口が多く、農村部の支持は軽視しても良かった。兵士と共産党派の食糧さえ確保していれば政権は盤石だった。集団農場化を進めて親共産党派の農民を囲い込むことで農村部でも反感の広がりを抑えていた。裏では、既にNKVDによる強制収容所送りと虐殺が進められていた。
しかし、都市部では食料の配給が多くなったので、それを見た西側のマスコミや文化人などはソ連政府の統治が優れていると思い込んだ。さらに、共産主義、社会主義、無政府主義が世界的に流行していたこともあって共産主義が良いことだと思い込みたがっていた。日本帝国政府は此のような西洋諸国の風潮も考慮してソ連を打倒するのを諦めていた。
英仏は既に国民を死なせ過ぎて当てにならず、当時のアメリカは共産主義に融和的だった。代わりに、ロシア以外で反共勢力を王制などの伝統的な体制を基本とした政治の実行を条件として援助していくことを決定した。民主主義が単独で正当性を確保するとは全く見做していなかった。井上首相は「人民は、選挙で選ばれた人間を捨てることができる。しかし、共産党員を捨てることはできない。共産党員は力を持ち、容赦なく粛清を行うことができるからだ。国民としての自覚を国民が持ち、自由と法に命を懸ける決意を固めている国民が多くを占めている国でだけ議会制民主主義が正当性を持つ。議会制民主主義には王制などの伝統的な権威が必要だ」と述べた。
憲政党も帝国党も共産主義には激しい敵意を懐いていたが、負ける戦争をする積りはなかった。以上の様な日本帝国の方針はイギリス政府とイタリア政府に伝えられていた。イギリス政府の内部では反発もあったが、ロイドジョージ首相は了承した。ロイドジョージもウィルソンの共産主義容認の姿勢によりソ連を打倒するのは不可能だと判断していた。また、自国が戦死者を出し過ぎたために没落しつつあることも自覚していた。
しかし、チェコ軍団の救助は断固として要請した。連合国に味方する勢力を見殺しにすることはできなかったし、アメリカとの関係も重要だった。井上首相はイギリスの要請に渋々、同意した。代償として、次の点を要求した。第一に、日本帝国が支援している張遼軍閥(朝鮮半島を実質的に支配)と張作霖軍閥(満州を実質的に支配)を正式に承認すること。
第二に、張遼軍閥が朝鮮半島で行う朝鮮政策に抗議せず、張遼軍閥と正式な通商条約を締結すること。また、張作霖軍閥とも正式な通商条約を締結すること。
第三に、両軍閥が中国からの独立を宣言した場合、イギリスが承認すること。第四に、日英同盟に反共産主義の規定を盛り込むこと。以上の趣旨のワイト島協定が締結された。これを受けて日本陸軍はチェコ軍団救援のために出兵した。
8月11日、精鋭の第1軍団がソ連に侵攻した。ところが、英仏陸軍の指揮下でチェコ軍団は西に向かい始めた。事前に合意した内容と違うので、内閣の指示で日本陸軍は直ぐ満州に戻った。さらに、ウィルソンが日本の判断を褒め称えたことで事態が悪化した。以前からウィルソンは共産党政権を説得によって連合国側にすることができると主張していた。
このため、日本帝国政府はウィルソンが「青いボルシェビキ」であるとの確信を深めた。更に、対外特務庁がアメリカ陸軍の目的の一つが日本陸軍や張作霖軍閥の監視であることを突き止めた。暗号電報の解読、アメリカ陸軍派遣部隊に接触していた中国人スパイ達(対外特務庁の二重スパイ)などによる。このままでは、朝鮮半島政策や満州政策でもウィルソン政権の介入を招く恐れがあると判断された。このため、井上内閣は張遼軍閥からの提案を承認した。
8月20日、張遼軍閥の陸軍が朝鮮軍を一斉に攻撃し始めた。その日のうちに、ソウルは占領された。アメリカ政府が抗議すると、張作霖軍閥の部隊が満州内のアメリカ軍(陸軍および海兵隊)に敵対する姿勢を取り始めた。住民に反米デモを起こさせ、アメリカ軍が出てくると自軍部隊で威嚇行動をとった。反米デモ隊は鉄道路線を占拠して鉄道輸送を妨害した。また、中国人達はアメリカ軍に物資を売らなくなり、電信線や電話線が度々、切断された。
張作霖軍閥と張遼軍閥は同盟しており、ウィルソンの民族自決の原則に危機感を懐いていた。このため、ウィルソンが抗議すると途端に敵対行動を開始した。ただし、日本帝国が両軍閥に強く要請して敵対行動を中止させた。日本帝国はウィルソン政権を敵と見做していたが、アメリカを敵国と見做したわけではなかったからだ。ただし、日本帝国の両軍閥に対する支持は明確だった。
8月25日、日本陸軍の第2軍団と第1海兵隊旅団が朝鮮北部の元山に上陸した。現地の張遼軍閥の陸軍部隊や張作霖の陸軍部隊(張遼軍閥の要請で来援)と協力して朝鮮軍を攻撃した。第1軍団も満州から海路で朝鮮半島の群山に投入された。日本陸軍と張遼軍閥軍は日本帝国が台湾などで実行してきた対ゲリラ戦術の応用で手際よく朝鮮軍などを掃討していった。以前から張遼軍閥は朝鮮半島の完全併合を狙っており、計画を進めていた。このため、朝鮮軍などからも裏切りが続出した。
しかし、張遼軍閥軍は残虐な手段も実行した。まず、張遼軍閥に反抗的だった朝鮮人が約1万人も即決裁判の後で処刑された。更に一旦、攻撃を開始すると降伏を受け付けず、負傷者も含めて皆殺しにした。都市部の掃討作戦では降伏勧告が拒絶されると毒ガスを使用した(ボンベによる放射攻撃)。日本帝国政府は張遼軍閥の残虐行為を黙認した。大正天皇と井上首相は張遼軍閥の残虐行為を止めさせようとした。朝鮮半島の日本陸海軍派遣部隊の撤退も行おうとした。
しかし、他の閣僚、枢密院、貴族院が断固として張遼軍閥を支持した。朝鮮人の反日感情を熟知していたからだ。更に、中国人が干渉に対して憎悪の感情を強く懐くことを理解していた。後の国民党政権や共産党政権の宣伝とは裏腹に張作霖軍閥も張遼軍閥も日本帝国の操り人形ではなかった。日本帝国も操り人形にしようとはしなかった。このため、両軍閥とも日本帝国のとの関係は良好で両軍閥の支配下にある中国人も反日の動きに同調しなかった。
対照的に、ウィルソンの民族自決の原則は大不評だった。朝鮮半島や満州に移民していた中国人達にとって朝鮮民族や満州民族が独立することは悪夢だった。もちろん、張作霖軍閥と張遼軍閥の上層部も猛反発した。事実上の同盟国である日本帝国の要請で両軍閥は敵対行動を中止したが、怒りは収まらなかった。このため、民間の反米運動を大々的に扇動した。満州や朝鮮半島の中国人達も両軍閥を支持した。満州や朝鮮半島ではアメリカ製品が売れなくなり、満鉄は久しぶりに赤字となった。
日本帝国は両軍閥に反米運動を鎮圧するように迫ったが、「貴国は我々の同盟国であって、盟主ではない」などと回答されるばかりだった。しかし、日本帝国に次ぐ投資国であるアメリカを敵に回すことは不利だった。このため、反米運動は両軍閥によって禁止された。しかし、満州や朝鮮の中国人達の怒りは収まらず、反米運動が完全に終息するのはウィルソンが死亡した後だった。
張遼軍閥軍と日本陸軍による朝鮮半島の制圧は順調に進展し、9月1日には朝鮮軍や朝鮮人の抵抗勢力は釜山などの朝鮮半島南部に追い詰められていた。同日、李氏朝鮮王朝の廃止が発表された。朝鮮王朝の王である高祖は退位を強制され、アメリカへの亡命を認められた。国王の退位で朝鮮軍は戦意を失って日本陸海軍に降伏した。朝鮮軍の将兵は難民となってアメリカなどに亡命した。残りの朝鮮人の抵抗勢力は抵抗を続けたが、張遼軍閥軍と日本陸海軍の総攻撃を受けた。
9月12日、釜山も含めた朝鮮半島全土が制圧された。張遼軍閥軍と日本陸海軍は徹底的な残敵掃討を継続し、朝鮮人の抵抗を粉砕した。そして、1919年1月1日、朝鮮半島の中国併合が正式に宣言され、「高句麗省」となった。実質上は張遼軍閥の国となった。併合完了までに、朝鮮人は約11万人が殺害された。ウィルソンは自分が提唱した民族自決の原則が又も否定され、満州や朝鮮の中国人からも猛反発されたことにショックを受けた。朝鮮半島の一件で日本帝国とアメリカ(正確にはウィルソン政権)の対立は決定的となった。日本帝国とアメリカは戦後のパリ講和会議で徹底的に対立することになる。
ここで、日本帝国の大陸政策を理解するために時を遡る。袁世凱が政権を掌握した後、日本帝国は袁世凱政権にも革命派にも味方しなかった。両派からの誘いも拒絶し、両方とも「交戦団体」と規定した。袁世凱政権に不利な措置だった。近隣の大国である日本帝国が袁世凱政権を唯一の政権と認めなかったからだ。このため、袁世凱は反発したが、ロシアもアメリカも中国大陸に介入する気はなかったので日本帝国との対立は避けた。革命派も孫文などが日本帝国に提携を申し入れたが、日本帝国が承諾する筈もなかった。
一方、日本帝国の対外特務庁は満州と朝鮮半島の中国陸軍の幹部達と接触を深めていた。こうした状況で、1915年12月12日、袁世凱が皇帝に即位しようとした。しかし、反乱が続発し、1916年3月に皇帝への即位を撤回した。そして、1916年6月6日、袁世凱は失意の内に死亡した。
6月10日から、満州と朝鮮半島の中国陸軍の軍管区で事実上のクーデターが発生した。張作霖中将と張遼中将が袁世凱政権から派遣されていた役人と憲兵隊を全て逮捕して満州と朝鮮半島を制圧した。北京政府は討伐も検討したが、直隷派と安徽派に分裂していたので討伐は無理だった。張作霖と張遼は日本帝国の対外特務庁の援助を受けていた。配下の将官、佐官、下士官も日本帝国の陸海軍の顧問達と親しくしており、日本帝国との事実上の同盟関係に異存はなかった。
日本帝国の憲政党、帝国党、枢密院は両軍閥に対して条約の厳守、治安維持、安定した法秩序、自由主義経済、反共政策の五原則だけを要求し、一貫して援助した。このため、両軍閥とも日本帝国との関係は良好であり、部下達や支配下の中国人も親日的だった。日本帝国は張作霖軍閥(満州)と張遼軍閥(朝鮮半島)に関税自主権を認め、通商協定も結んだ。それぞれ、満州自治共和国(張作霖軍閥)と高句麗自治共和国(張遼軍閥)と名乗った(独立国ではないとの建前)。満州や朝鮮半島では張作霖軍閥や張遼軍閥が財産権の保障と起業の自由を認め、司法の独立にも努力したので(中国の基準では高水準)租界と同じように中国人の資本家達が集まった。このため、両地域の経済は急速に発展した。
日本帝国の軍情報局が陸海軍と内務省軍の顧問達やPMC部隊を指揮して両軍閥の陸軍や内務省軍を強化した。通信や兵站などでは日本帝国各軍の顧問達とPMC部隊が全面的に主導権を握り、戦闘にも加わった。両軍閥とも支配地の治安向上に力を注いだ。日本帝国が台湾などで実行してきた対ゲリラ戦術が極めて有効だった。両軍閥とも馬賊やマフィアなどの犯罪組織の一掃が成功しつつあった。これも、経済発展に極めて重要だった。張作霖や張遼も日本帝国の強力な援助に感謝し部下達も同様だったが、両軍閥とも日本帝国の操り人形ではなかった。
まず、張作霖は日本帝国の助言にも関わらず、中国統一の夢を捨てなかった。部下達も同様であり、満州で力を蓄えつつも南進の機会を窺がっていた。1927年になると、日本帝国が猛反対したにも関わらず南進を開始した。次に、張遼は悪名の高い漢民族優位政策を朝鮮半島で展開した。張遼は張作霖を慕っていた上、中国統一に興味はなかった。張作霖が中国を統一すれば喜んで従うつもりだった。ただし、朝鮮半島での自分の支配地域を自治共和国として認めてもらう協定を締結していた。張遼は中国が人口過剰で飢饉が多く、貧困層が多いことに心を痛めていた。志は立派だったが、行った手段は残虐だった。張遼は朝鮮半島において南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策とアメリカのインディアン征服政策を参考にした漢民族優位政策を開始した。
漢民族優位政策の要点は次の通り。第一に、朝鮮半島の朝鮮人の両班(朝鮮人の貴族)以外の朝鮮人の所得を平等にした。食料も配給制とした。そして、両班に再従属させた。これにより、朝鮮人から資本家や企業家が出る余地をなくした。両班に再従属させられた朝鮮人達は、事実上、両班の奴隷とされた。財産権や移動の自由などが奪われた。
第二に、朝鮮人に一切の商業を禁止した。商業は全て中国人が行うようになった。金融業、企業経営、料理店、鉱山業などで中国人が担うようになり、経済発展が進んでいく。両班は中国当局の指導に従って非両班の朝鮮人を使役するようになった。両班は功績に応じて中国人と同じ権利を認められるので徹底的に非両班を酷使した。非両班の朝鮮人は農業以外を禁止され、他では両班に使役されて鉱山業、工事、清掃作業などで中国人の補助に従事させられた。中国人は両班の朝鮮人達に使用料を払った。
第三に、非両班の朝鮮人達は設定された居留地に強制移住させられた。そして、居留地の管理は両班の朝鮮人達によって行われた。衣食住は保障されたが、それだけだった。待遇は「人類の歴史で最悪の待遇の奴隷(1917年のイギリス外務省の報告書の表題)」だった。居留地内の非両班の朝鮮人達は非両班の朝鮮人以外との結婚を禁じられた。
第四に、民族ごとの身分設定。漢民族と満州族が同列で第一の身分とされた。なお、李王家や両班の一部も第一の身分とされた。第二の身分は中国支配下の少数民族。第三の身分は両班の朝鮮人。第四の身分が非両班の朝鮮人だった。第三および第四の身分の朝鮮人は身分の中でも細かい階級があった。以上の他にも、様々な漢民族優遇政策が行われた。反発した朝鮮人もいたが、張遼軍閥の陸軍部隊や中国人の民兵部隊に情け容赦なく殺戮された。中国人達(多くが中国では貧困層)も必至であり、朝鮮半島の中国人は殆どが陸軍、内務省軍、民兵部隊(陸軍や内務省軍の予備益部隊)に所属していた。
中国人は続々と移民してくるので人口の差で勝ち目はなかった。更に朝鮮半島は元から人口が少なく、両班に支配されている朝鮮人は元から奴隷だったので張遼軍閥の支配体制に違和感は少なかった。また、両班にとっては悪い統治でもなかった。両班は非両班の朝鮮人を「人間ではなく家畜として扱う」ことができた。また、中国人から非両班の朝鮮人達の使用料を得ることが出来たので収入は安定していた。非両班の朝鮮人を奴隷としていたのは両班の朝鮮人であって中国人ではなかった。
張遼は中国人に奴隷を持たせず、先進国の国民の様に振る舞うことを望んだ。両班の朝鮮人に奴隷所有の喜びを味あわせ、団結させないようにするのが狙いだった。こうした残虐な政策は一般の外国人の目には映らなかった。外国人は釜山やソウルなどの租界から出ることを基本的に禁止されていた。朝鮮半島の租界には各国の企業が進出した。
中国本土よりも治安が良く、裁判所や行政機関の対応も良かったからだ。そして、労働賃金も中国本土と同じで低かった。しかし、ここまで大々的に残虐な政策を行って外国に知られないわけがなかった。各国から抗議がきた。しかし、張遼軍閥は無視した。
張遼は各国が朝鮮半島に武力介入していないことを承知していた。日本帝国は戦略上、張作霖軍閥と張遼軍閥を敵にすることは不利だった。アメリカは介入できないと判断していた。間に日本帝国が存在していたし、朝鮮半島や中国大陸でアメリカ兵が大量に戦死するのをアメリカ国民は望まないと判断していた。張遼は抗議してきたアメリカ大使に強烈な皮肉を述べた。「我々はアメリカ合衆国がインディアンを征服した時と同様の事をしているに過ぎません。手段は我々の方が残虐であることは認めます。しかし、50年も経てば貴国も含めて忘れるでしょう」と述べた。日本帝国でも抗議すべきだとの意見が強く、アメリカの意向を気にしていたこともあって井上内閣は抗議した。井上首相も張遼軍閥の朝鮮政策には反対だった。
張遼軍閥への援兵も主導したのは専ら大谷国防大臣だった。しかし、大半の閣僚は張遼軍閥に干渉すべきではないとの意見だった。そして、連立政権の与党は憲政党も帝国党も張遼軍閥への干渉に反対だった。帝国党は張遼軍閥の朝鮮政策に干渉すべきでないとし、憲政党も七割の議員は首相の意見とは逆だった。枢密院(大正天皇を除く)と貴族院は共に張遼軍閥への干渉に反対だった。
皮肉なことに、野党の立憲政友会は井上首相の意見と同じだった。それどころか、一部の議員達は満州自治共和国や高句麗自治共和国との条約を破棄することさえ主張していた。このため、憲政党内でも井上首相を支持する議員は減る一方だった。憲政党の議員達も立憲政友会の大陸進出政策などには断固として反対だった。他の政策でも両党の隔たりは大きかった。井上首相も同様だった。
朝鮮人の反日が筋金入りであり、朝鮮人を救っても日本帝国に有害であることも理解していた。しかし、張遼軍閥の対朝鮮政策は許容限度を超えていると判断していた。個人的な政治信条を別としても日本帝国民が許容しないと判断していたからだ。このため、大正天皇の意向もあって張遼軍閥に対して朝鮮政策を緩和するようにとの圧力を掛けようとした。
しかし、前述の様に閣僚も含めて大勢は張遼軍閥への干渉に反対だった。このため、外交的にも手段は限られた事しかできなかった。戦時中だったので憲政党も帝国党も井上首相を退陣させようとはしなかった。閣僚も両党の議員達も井上首相を信任していた。しかし、閣僚も含めて朝鮮問題に対してだけは不服従の態度を示した。このため、井上首相の個人外交の様な様相を呈した。
このことが張遼軍閥に知られない筈もなかった。張遼軍閥は平然と井上首相の抗議を拒否した。しかし、張遼は大正天皇の意向もあって行動している井上首相を無視するのは得策ではないと判断した。このため、会談には応じることにした。井上首相と張遼は旅順の日本租界統治本部で会談した。井上「張遼閣下、本日は旅順までお越しいただき感謝します。まず、高麗自治共和国が日本帝国との条約を厳守していることに感謝します。貴国は日本帝国の安定に大きな役割を果たしています。それを承知の上で申し上げさせていただきます。高句麗自治共和国の、厭、閣下の対朝鮮政策には賛成できません。確かに、朝鮮人は事大主義な上に退廃的です。
しかし、閣下の対朝鮮政策も限度を超えています。御存知でしょうが、天皇陛下は反対です。国民世論も反対です。朝鮮人の反日姿勢のため、直ちに高句麗自治共和国との条約を破棄することにはなりません。しかし、何れ、条約見直しの意見が強まるでしょう。既に、高麗自治共和国軍は朝鮮人を約11万人も殺害しました。最早、朝鮮人が反抗することは不可能です。対朝鮮政策を転換しても支障はありません。対朝鮮政策の変更は高麗自治共和国の利益にもなります」。
張遼「首相閣下、私ごときに閣下の敬称を付けないでください。張遼で結構です。外交上、不適切と思われるなら中将か殿でも良いです。さて、朝鮮政策についてですが変更は出来ません。貴国やアメリカなどの言うとおりに変更したとしましょう。朝鮮人は手段を選ばず、我が政府や中国国民にテロを行います。元から朝鮮人は退廃的かつ残虐です。朝鮮の実態については貴国も御存知でしょう。今回の強硬策は、古来からの慣習に基づいた通過儀礼です。モンゴルや清帝国が朝鮮を支配した際も我が政府と同様の行為を行っています。
そして、高句麗自治共和国の政策は李氏朝鮮時代の伝統に回帰する政策です。寧ろ、朝鮮人民達の希望に適う政策です。特に、八班達は喜んでいます。仮に、貴国が朝鮮人民達を解放しても決して感謝されません。逆に貴国へテロなどを行います。アメリカは遠く離れていますから大した害は有りません。貴国の言葉で言えば、対岸の火事です。しかし、貴国は真面に害を被ります。首相閣下は日本帝国民の安全を考えた判断をなさるべきです」。
井上「確かに、朝鮮人は反日であり如何しようもない存在です。しかし、それと張遼閣下の朝鮮政策を容認するかは別問題です。日本帝国民は貴国の朝鮮政策を好ましく思うことはありません。また、日本帝国はアメリカ合衆国と友好関係を深めていくことが不可欠です。ソ連と中国の脅威に対抗する以上、避けられない事です。満州自治共和国と貴国も同様です。国益のためにも再考すべきです」。
張遼「首相閣下、失礼ながら苦言を呈させていただきます。朝鮮人民達の運命は貴国に影響しません。日本帝国にとって重要なのは朝鮮半島が敵対する国か勢力に支配されないことである筈です。このことは天皇陛下と首相閣下も含めて日本帝国の皆様は理解されている筈です。そして、天皇陛下と首相閣下を除く与党勢力で朝鮮人民達に同情する上層部はいません。
日本帝国の大多数は確実に高句麗自治共和国との対立を避けるでしょう。成程、貴国の一般国民の大多数は我が国の朝鮮政策を嫌悪するでしょう。しかし、それと我が国や満州自治共和国と敵対するかは別問題です。貴国の国民は優しい性質が強いとはいえ、我が国や満州自治共和国の中国国民から嫌われることも好まないでしょう。御存知の通り、既に貴国での宣伝に多大な努力を行っています。貴国の一般国民にも我が国や満州自治共和国への理解が広がっていることは喜ばしい限りです。そして、貴国の枢密院や貴族院などの上層部は我が国や満州自治共和国を積極的に支持しています。そして、帝国党と憲政党の議員の方々を始めとする保守派や中道右派の国民もです。天皇陛下と首相閣下だけでは日本帝国の政策を決定することは不可能です。
更に繰り返しますが、朝鮮人民の解放は日本帝国の国益に反し、日本帝国民にも多大な災いを齎します。一方、アメリカ人は暫くすれば忘れます。心配御無用です」。
井上「確かに、天皇陛下や私の意見は寧ろ少数派です。また、貴国や満州自治共和国と対決することは一般国民も好みません。朝鮮を支持しているのは左右の過激派、左右の過激派の心理的な追従者達、国民意識が薄い左派が主です。このような状況で天皇陛下や私が朝鮮の味方をすることは日本帝国にも悪影響を及ぼすのも事実です。しかし、天皇陛下も私も個人的な感情や政治的な信念だけで貴国の朝鮮政策を非難しているのではありません。貴国や満州自治共和国との同盟が日本帝国の安全保障に不可欠であることも理解しています。そして、貴国と満州自治共和国は我が国との条約を厳守する信頼できる同盟国です。その上で断言します。貴国の朝鮮政策は極めて有害です。我が国やアメリカ合衆国との関係だけではなく、貴国にとってもです。張遼閣下、貴方が最も良く理解されている筈です」。
張遼「井上首相閣下、流石ですね。そして、天皇陛下もです。敬服いたします。確かに、現在の朝鮮人民に対する政策は高句麗自治共和国にとっても有害です。現在の朝鮮政策を続ければ、我が国や満州自治共和国の中国国民は残虐な性質が残ってしまいます。私は張作霖閣下と違い、大きいことが良いとは考えていません。
寧ろ、秦が統一する前の中国の様に複数の国が並立している状態が望ましい。そう、ヨーロッパの様にです。国家が安定するには、国土の広さと人口が適正でなくてはなりません。ヨーロッパ諸国が世界主導権を握り、今後も世界の有力な勢力となることからも確実です。勿論、技術と統治ノウハウの進歩が適正な国土の広さと人口の数値を増大させます。しかし、それでもアメリカやソ連が適正です。アメリカとソ連が超大国として世界を主導するのは確実です。
一方、中国は未来も超大国になることはできません。我が中国は人口が多すぎます。私は高句麗自治共和国を中国本土とは事実上、分離した国家としたいのです。そして、地道に富国強兵政策を進めて大国を目指します。更に、中国の悪癖である中華主義を排します。ソ連および中国の革命勢力などの過激派を除いて各国と協調します。そして、日本帝国との同盟を強め、第1次世界大戦の英仏と同じく戦います。敵はソ連と中国の革命勢力です。勿論、日本帝国が主であり我が国は銃です。国力的にも地政学的にも当然です。しかし、この正当路線を漢民族が主体である我が国が行うのは困難です。よって、現在の朝鮮政策が必要不可欠なのです」。
井上「つまり、朝鮮人民を八つ当たりの標的とするわけですか?そんな事をする国が大国になれるとは思えませんね。残虐行為や奴隷制度などは自己の心も汚していきます。一流の国家を目指すには、それに相応しい振る舞いが不可欠です」。
張遼「首相閣下、仰る通りです。現在の我が国は一流の国家に全く相応しくありません。しかし、何事も始まりがあります。最初から正当な路線を実行できない場合も多いことは御存知でしょう。我が国のような場合です。中華意識、異常な統一意識、易姓革命などの悪癖が染みついているのが漢民族です。漢民族を主体とする高麗自治共和国では感情の高まりを押さえつけるのは困難です。貴国と違って武力も経済力も二流以下であり、内戦は直ちに国家滅亡へ繋がります。よって、感情を爆発させる標的が必要なのです。それに、朝鮮民族と協調したら連中の気質が伝染して極めて有害です。そして、連中が協調を弱さとしか見ないのは良く御存知でしょう。さあ、この状況で穏やかに統治できますか?」。
井上「張遼閣下の懸念は理解できます。しかし、日本帝国の国民が嫌悪したままでは貴国の将来が危ういです。日本帝国は国民国家であり、同盟国にも最低限の規範が求められます。貴国は規範を満たしていません。更に申し上げておきます。アメリカ合衆国まで敵に回れば、ソ連や中国の革命勢力に囲まれた日本帝国は敗北を免れません。貴国や満州自治共和国も同様です。納得できない部分が多いのも分かります。しかし、ソ連や中国の革命勢力に対抗するにはアメリカ合衆国との協調が不可欠です」。
張遼「首相閣下、心配無用です。アメリカについても既に満州自治共和国と合同で莫大な資金を投じてプロパガンダを行っています。是は首相閣下も御存知の通りです。勿論、プロパガンダの効果は限定的です。宣伝戦は相手の気紛れ次第ですからね。余程の間抜けが揃っている国でなければ騙せないことは熟知しています。
しかし、プロパガンダには相手国の国民にとって印象が低い地域における相手国の行動を制約できる効果があります。国民国家の宿命ですね。是は民主化の度合いが低い貴国の様な国家でも同様です。アメリカ合衆国に対しては尚更です。そして、朝鮮半島はアメリカにとって重要ではありません。アメリカにとって重要なのは日本本土と満州です。朝鮮半島は間にあることで注目されています。しかし、アメリカにとって忘れても支障がない地域であることに変わりはありません。更に中国とアメリカは歴史面で似たところがあります。我が中国とアメリカは本土とされる地域でも一昔まで他民族の領土でした。そして、両国とも人口の多さで先住民族を圧迫して強引に征服を進めてきました。アメリカは我が中国に遠慮するのは当然です。特に、朝鮮半島などの民族問題では。人口比では我が高句麗自治共和国が圧倒的に多く、アメリカは批難するのを躊躇うでしょう。既に、兆候が出始めています。それにアメリカの善意とやらも気紛れです。ソ連がロシア全土を征服する過程で約500万人以上を死なせましたが、一般のアメリカ国民は終始、無関心でした。ウィルソン大統領などの政府首脳も同様でした。朝鮮半島の問題も満州自治共和国と我が国が共同でプロパガンダを行い、並行してアメリカとの関係を深めていけば良いのです。やがて、アメリカは忘れます」。
その後も、井上首相は張遼に説得を重ねたが拒否され続けた。会談は物別れに終わった。張遼は日本帝国内で自己の軍閥に対する干渉への支持が弱いことを見透かしていた。その後も張遼軍閥は丁重ながら断固として拒否した。憲政党も帝国党も朝鮮人の反日意識は筋金入りであることを熟知しており、強くは改善を要求しなかった。福富対外特務庁長官は貴族院の安全保障委員会で「朝鮮人は永久に反日です。なぜなら、日本国民が中国人のような統治を行わないと知っており、反日を行っても抹殺されないことを確信しているからです。それを愚かと気づかないのが朝鮮人の特質です」と述べた。
アメリカなどでの関心も低下していき、高句麗自治共和国の漢民族優位政策は続いていくことになる。後にソ連の脅威が増大し、アメリカとの連携が不可欠になると漢民族優位政策の破棄が求められた。しかし、張遼軍閥が発展した渤海共和国はソ連が消滅するまでは緩和や破棄を拒否し続けた。
張遼は元々、袁世凱の腹心であった。暗殺部隊を率いて朝鮮半島において十数名の日本人(大陸浪人など)を暗殺しており、反日的と見做されていた。しかし、義和団のような暴動や国民党および共産党の排外主義の革命派には断固として反対だった。また、朝鮮半島に展開した日本陸海軍との関係も良好だった。自国民や外国人との契約も厳守し、極めて誠実だった。また、清朝を日本帝国の天皇家のような扱いとして易姓革命の連鎖を断ち切る様に進言したが袁世凱は聞かなかった。このため、袁世凱から任されていた朝鮮半島の中国陸軍を掌握して日本帝国と接触した。憲政党と帝国党の連立政権が中国人の政治に干渉してこないことを確信したからだ。
日本帝国の対外特務庁と軍情報局も一致して張遼を支持した。張遼が暗殺した日本人達は政府の方針や日清間の条約に反した行動をしていたからだ。それ以外の日本国民に対して張遼は極めて誠実だったからだ。福富長官は貴族院で「同盟とは、契約以外の事は自己の利害で判断できることです」と述べた。そして、強い政権でなければ役に立たないことを説明した。「第一に、中国人は日本国民を嫌っています。隣国に対抗意識を燃やすのは普通ですが、中国人の場合は中華思想が加わります。中国人は日本帝国を疎ましく思い続けるでしょうし、親日的な政権を嫌い続けます。
第二に、中国人は現在まで続く人口過剰のために隣国への膨張の願望を懐き続けます。この傾向を押さえつけるには強権的な政権しかありません。この二点で、強力な政権であることが不可欠です。強力な政権は、中国人の傾向を考慮して我が帝国の方針と違う行動をとることも多くなるのは確実です。しかし、其れで良いのです。我が帝国にとって必要なのは同盟勢力であって傀儡ではありません。中国を征服した満州の民族などは常に漢民族を味方にして中国を征服し、中国化しました。しかし、日本帝国が中国化しても中国の悪癖を身に着ける必要は皆無です。日本帝国の良さの一つは中国化しないところです。そうである以上、日本帝国は大陸の勢力と同盟しなければなりません。そして、中国人との同盟では信用だけを基準にするしかありません」と述べた。そして、五原則の厳守を求め、他の大陸政策については両軍閥と協調していくと説明した。枢密院と貴族院は承認した。
こうして、ソ連崩壊まで続く日本帝国の大陸政策が決定された。日本帝国、張遼軍閥、張作霖軍閥は時に対立しながらも国民党や共産党と対決を重ねながら満州と朝鮮半島の安定化を達成することになる。満州自治共和国(張作霖軍閥)と高句麗自治共和国(張遼軍閥)は日本帝国の支援で安定した。日本帝国、イギリス、オランダ、イタリアが両政権を承認した。他にも承認する国が相次いだ。
しかし、アメリカは承認しなかった。なお、張遼は日本帝国と交渉を重ね、日本帝国が極度に規制していた朝鮮半島の開発を強力に推進した。しかし、日本帝国は満州と朝鮮半島の鉄道を接続することは認めなかった。満州と朝鮮半島の鉄道が接続されるのは、渤海共和国が成立した後のことになる。
日本帝国は張遼軍閥の漢民族優位政策を修正できずに手を焼いていたが、張作霖軍閥も日本帝国の方針と違った行動を行い始めた。1918年8月27日、張作霖軍閥の精鋭である第1軍団(3個歩兵師団、1個騎兵旅団、1個砲兵旅団が主力。増強されている。日本陸軍によって訓練され、浸透戦術も実行できる練度と装備を持つ)がアイグン条約でロシアが得た領土に侵攻した。侵攻の大義名分は、共産主義からの中国人およびロシア人の救出、中国への併合を希望する中国系住民の要望の実現だった。
張作霖はアメリカ合衆国の大統領であるウィルソンが民族自決の原則を提唱して英仏も認めたのだから中国が民族自決の原則を実行しても問題ないと主張した。更に、共産党政権から中国系住民とロシア人を救援する必要も強調し、住民投票で帰属を決定することも表明した。アメリカ(正確にはウィルソン政権)の脅威があるので、ソ連との直接対決を最低でも10年は回避したい日本帝国にとって張作霖軍閥の行動は非常に困ったことだった。
張作霖軍閥に日本帝国は強力な圧力を加えたが、張作霖は「満州自治共和国は同盟政権であって、貴国の傀儡政権ではない。満州自治共和国は五原則を守っている。更に我々が行った措置を将来的に貴国が感謝することは確実だ。確かに貴国の方が我々より優れている。しかし、満州の事は貴国よりも我々が理解している。勝敗は兵家の常であり、現地の事情に通じている同盟政権に一先ず任せるのが基本とした方が良い。貴国はソ連やアメリカにも備えなければならない。一先ず、我々に任せて失敗したら別の手段を講じれば良いだけではないか」と述べた。結局、日本帝国は張作霖の方針を追認し、満州共和国に援助を継続した。
張作霖の判断は正しかった。中国系住民は満州共和国陸軍を支持した。また、共産主義に同調しないロシア人達からも歓迎された。共産主義者は根こそぎ追放され、残虐かつ徹底した掃討戦が行われた。しかし、満州共和国の地域の統治は安定していた。1920年に住民投票が行われ、圧倒的多数で満州共和国への併合が採択された。1921年4月1日、占領地は正式に満州共和国に併合された。
ソ連は白軍との内戦で極東に陸軍を派遣できる状況ではなかった。更に、戦後にポーランドとの戦争も起こし、ドイツの新共産党勢力にも多額の資金援助を行った。ドイツの共産革命は失敗し、ポーランドとの戦争にもソ連は敗北した。その後、ソ連は暫く戦争を避けて軍事力の強化に邁進する。ソ連はヨーロッパ方面を優先しており、敵国が弱体でなければ戦争を起こすことはなかった。この時の国境が渤海共和国とロシアの現在の国境となった。
張作霖と張遼が満州や朝鮮半島で独自の行動をとり、中国の領域を広げたことは中国国内における両者と両方の政府の立場を大幅に強めた。日本帝国を嫌う中国人にとって日本帝国と友好関係にある張作霖政権と張遼政権は嫌な存在だった(現在も)。その両政権が朝鮮半島と満州で日本帝国の意向に逆らって中国の領土を拡大させたことは、両政権が日本帝国の傀儡政権でないことを明白に示すことになった。国民党や共産党の宣伝は効力が少なくなり、満州や朝鮮半島の中国人の団結も強まった。両政権を傀儡化しない日本帝国の方針もあって、両政権は国民党政権や共産党政権の攻撃を全て撃退して後の渤海共和国に繋がっていく。
日本帝国とアメリカの対立が激化する中、1918年9月26日、連合軍の攻勢が再開された。アメリカ第1軍とフランス第5軍がアルゴンヌで大攻勢を発動した。ドイツ陸軍部隊も反撃してアメリカ陸軍の進撃を停滞させた。続いて、9月27日、アルトワ~サンカタンでイギリス陸軍の第1、第3、第4軍と日本陸軍の第6軍団が大攻勢を発動した。
9月28日には、フランダース軍(ベルギー陸軍6個師団とイタリア陸軍20個師団が主力)が大攻勢を発動した。連続した攻勢であり、予備兵力の投入が間に合わなかった。しかも連合軍は戦車と歩兵の混成部隊を軸にした諸兵科連合部隊による攻勢であり、攻撃側であるにも連合軍の戦死者はドイツ陸軍よりも少なかった。敗北が濃厚な状況でルーデンドルフは焦り、アメリカに他の連合国への講和仲介を求めた。しかし、これでドイツは却って不利になる。
ウィルソンは日本帝国やイタリアが自分の発案した民族自決の原則を完全に無視した行動を行っているので喜んだ。アメリカが主導権を握れると思い、直ちにドイツの申し出を了承した。しかし、ウィルソンは大きな勘違いをしていた。ヴィルヘルム二世が起こした侵略戦争の結果が第一次世界大戦だと根拠もなく、思い込んでいた。
しかし、実際は前記の様にヴィルヘルム二世はシュリーフェンプランの発動に消極的であり、ロシアとの戦争だけを追求していた。しかし、ドイツ陸軍参謀本部のサボタージュによりシュリーフェンプランの発動を余儀なくされてしまった。こうした事を全く認識していなかった。そうとも知らずに、ドイツはアメリカとの交渉を進めた。
一方、他の連合国の政府の反応は様々だった。英仏は強硬姿勢を装いつつも、余りの戦死者の多さにより厭戦感が漂っていた。強硬派はフォッシュなど少数だった。イタリアは目的としていた領土を併合していたので、連合国の多数派に同調することを決めていた。こうした中で、日本帝国は最も強硬だった。日本帝国は日英同盟を維持するために参戦したのであって、当初は前記の様に積極的ではなかった。
海軍は全力でイギリス海軍やイタリア海軍を支援し、陸軍もイタリア戦線でオーストリア陸軍を釘づけにしていた。イタリアにも多くの援助を行っていた。しかし、フランス戦線には派兵を渋り続けた。ベルギーは日本帝国と安全保障上の条約を結んでいなかったからだ。イギリスもナポレオン戦争時に中立国のデンマークを攻撃してコペンハーゲンを焼打ちした。フランスも今回の戦争で中立国だったギリシャのコルフ島を占領して基地化した(その後、ギリシャは連合国側で参戦)。他にも中立を侵犯した例はヨーロッパでも多かった。何故、イギリスがベルギーのために参戦したのか日本帝国は理解できなかった。その後、フランス戦線にも派兵したが政府は積極的ではなかった。
しかし、ドイツ陸軍参謀本部が共産主義勢力を支援してロシアで共産党政権を誕生させたことで日本帝国の態度は一変した。日本帝国はドイツが手段を選ばない国であると認識して徹底的に攻撃してライン川西岸まで占領することを主張していた。フランスが望むのならライン川西岸までをフランスが併合すべきだとまで主張していた。イタリアに対して日本帝国が行った援助とフランス自体の国力を併せれば不可能ではなかった。
日本帝国は共産主義に対する敵愾心が最も強く、ソ連を誕生させたドイツは没落させるべき国家と認識していた。当然、日本帝国は講和の交渉を始めるのはライン川西岸までを連合軍が占領した後にすべきだと主張した。こうした日本帝国やフランス(フォッシュなどを除いて表面上だけ)の強硬姿勢もあってドイツはアメリカとの交渉を急いだが、ドイツにとって高く付くことになる。
9月26日に、アルゴンヌで発動されたアメリカ陸軍を主力とした攻勢は停滞した。アルゴンヌは森林が多く、戦車を有効に活用できなかったからだ。このため、ドイツ陸軍砲兵隊の猛烈な砲撃でアメリカ第1軍は打撃を受けた。
9月27日に発動されたイギリス陸軍の第1、第3、第4軍と日本陸軍の第6軍団の攻勢は成功した。基本的には、アミアン戦と同じ展開となった。イギリス陸軍の第1、第2、第3騎兵師団も騎兵を馬から降ろして自転車部隊として行動させた。アミアン戦での教訓で騎兵は無力であり、ホイペット戦車部隊との共同作戦には自転車部隊が適していたからだ。イギリス陸軍は日本陸軍と違って全部隊に装備させるほどの自転車がなかったので騎兵部隊に集中して配備した。日英陸軍はモナッシュ戦術で容易にヒンデンブルク線を突破した。イギリス第3軍の日本陸軍の第6軍団、イギリス陸軍の第3軍団とカナダ軍団が先鋒となり、カンブレーを正午に占領した。
日本陸軍の歩兵部隊は浸透戦術も得意としていたので航空観測による砲兵隊の的確な支援を受けながら、ドイツ陸軍部隊の野砲陣地(この頃の野砲は直射砲であり、対戦車砲としても使われた)を掃討していった。その後方から戦車と歩兵の混成部隊を中心とする諸兵科連合部隊が進撃した。カンブレーを占領すると、イギリス陸軍の第1、第2、第3騎兵師団が突破口からドイツ陸軍部隊を包囲撃滅すべく進撃した。
しかし、ドイツ陸軍部隊が後方の配置を厚くする縦深防御を採用していたこと、イギリス陸軍の騎兵部隊(今回は自転車に乗っている)が歩兵部隊としての戦闘に慣れていなかったこと、イギリス陸軍のストークス臼砲部隊などとの諸兵科連合戦術に慣れていなかったことなどが災いしてアミアン戦でドイツ陸軍部隊を包囲撃滅することはできなかった。しかし、それでもドイツ陸軍の第17軍などに戦死が約2万2千、捕虜が約5万、負傷が約2万の大損害を与えてドイツ陸軍の防衛線を崩壊させた。
9月30日、日英陸軍はモーブージュまで約6㎞の地点まで迫った。しかし、ドイツ陸軍が多数の予備兵力を送り込んで戦線を死守した。モーブージュは鉄道線の要所であり陥落すると、南部のドイツ陸軍部隊の退路が遮断される恐れがあった(徒歩で撤退するしかなくなる)。このため、ドイツ陸軍参謀本部は多数の予備兵力を送り込んだ他、縦深防御、航空観測による砲兵隊の的確な砲撃で日英陸軍の攻勢を撃退した。しかし、9月28日に発動されたフランダース軍の攻勢に対応する予備兵力が足りなくなってしまった。
このため、10月2日までにフランダース軍はブリュージュ~ヘントを攻略してドイツ第4軍を始めとするドイツ陸軍部隊を一掃しつつあった。フランダース軍はモーブージュを目指して南下を開始した。このため、ドイツ陸軍参謀本部は前線の部隊に退却を命令した。
10月5日、ドイツ陸軍部隊はナミュールとアルデンヌを中心とした防衛線に配置された。連合軍は戦車部隊の整備が間に合わず、徹底した追撃ができなかった。それでもモーブージュなどを占領して戦線を大幅に押し込んだ。戦車部隊の整備が完了する10月24日に再度の連続攻勢を発動することが決定された。




