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ロシアのソ連化とアメリカの参戦による日本帝国の苦悩

サンクトペテルブルクで、1917年2月26日、食糧デモが発生した。そして、3月8日、暴動が発生した。ニコライ二世は武力鎮圧を命じた。血の日曜日事件も偶発的な事件だったが、今回は意図的だった。約200人が射殺された。ところが、発砲を拒否する連隊が続出した。


3月12日になると、サンクトペテルブルクの全ての連隊が反乱を起こした。内務省、軍司令部、警察署などを襲撃した。各連隊で士官が銃殺され、警察も阻止できなかった。革命が成功した原因は帝政ロシアが内乱を想定しない体制だったことによる。


第一に、陸軍の士官が少なすぎた。帝政ロシアの陸軍は、異常に士官が少ない軍隊だった。予備役や後備役では士官が1500人に1人だった。さらに、下士官の扱いが兵隊と変わらず、政府に忠実でなかった。


第二に、反乱を鎮圧する部隊が弱体だった。まず、軍内の憲兵隊が文字通りの警察だった。また、警察も小銃を持っているくらいで文字通りの警察だった。内務省は諜報機関であり、武力行使は無理だった。後のソ連政府や現在のロシア政府が多くの準軍自組織(実質上は軍隊)を保有しているのは、この時の反省による。ちなみに、この時期、陸軍の反乱を全く心配していなかったイギリスでさえ、憲兵隊を約9万人も保有している。


第三に、官僚機構内の思想の取り締まりが不充分だった。後に、ブルシロフ将軍など帝政ロシア陸軍の軍人の相当数が赤軍として闘った。さらに、後のロシア内乱時に白軍(反共産党軍)の中にも、帝政の復活を目標として掲げた勢力は存在しない。西ヨーロッパの思想が理解もされずに、導入された結果として体制に対する忠誠心が低下していた。


  国会議員から成る臨時執行員会が発足し(臨時政府の成立)、ケレンスキーが事実上のトップになった。3月15日、ニコライ二世は退位に追い込まれた(全ての軍司令官が退位の要求に賛成した)。アメリカとイギリスの多くの国民(アメリカ政府も)は深く考えもせずに喜んでいた。


 一方、日本帝国政府の反応は対照的だった。日本帝国はロシア国内から日本人の退去命令を下した。そして、退避の完了が確認された5月になると、臨時政府に対してニコライ二世を始めとするニコライ一家などのを日本帝国に出国させることを求めた。応じなければ、ロシアに対する援助を差し止め、一連の条約も破棄するという強硬な要求だった。言外に、武力行使も示唆した。ケレンスキーは同意した(厄介払いの意味もあった)。日本帝国では革命そのものに反感が強かったので、政府の措置は追認された。ロシアの臨時政府は連合国側の説得で継戦を決定した。このため、暫くロシア陸軍は戦線に留まることになる。ドイツは進撃を継続する一方で、レーニンなどの共産主義者達をロシアに送り込んだ。


日本帝国でニコライ一家などの亡命受け入れについて、異論がなかったわけではない。ニコライ二世は日本帝国を敵視していた張本人であり、第一次大戦の原因を創った人物でもあった。ニコライ二世はロシア陸軍が総動員を実行しても先に国境を超えることはないと表明していたが、ドイツだけではなく日本帝国も信用していなかった(再三の警告を無視してベルギーに侵攻したドイツにも日本帝国は愛想を尽かしていたが)。枢密院は内閣と意志を共有している関係で直ぐに承認したが、貴族院は承認を渋った。


 井上首相は貴族院で説明した。井上「ロシア人は、全員が領土拡張を追い求めていました。ニコライ二世は其の意志に流されただけです。ロシアよりも露骨な領土拡張欲を持つ中国とも程々の外交関係を保っているのに、ロシアのロマノフ家だけを敵視するのは不合理です。それに、ニコライ二世が生きているとなれば、共産主義者や無政府主義者は安眠できません。是がニコライ一家の亡命を受け入れる最大の理由です」。

 「首相の答弁には概ね納得できます。しかし、国民に説明するには他にも理由が必要です。他の理由も説明してください」と質問中の貴族院議員が述べた。

 井上「諒解しました。第一に、日本帝国が明確に革命を拒否する姿勢を示しておくためです。日本帝国は、ロシアの国内情勢に干渉する気がなかった。対外特務庁によればロシアの革命が過激化することは必至であり、共産主義者が政権を獲得する可能性が高いです。なぜなら、共産主義者の方が組織力もあり、陸軍兵士に最も浸透しているからです。ドイツ陸軍参謀本部が支援している理由でもあります。詳細は対外特務庁の資料を御覧ください。そして、革命で獲得された政権は力次第であり、革命に賛成した他の勢力は是を認識していません。日本帝国と共産主義勢力は天敵の関係です。しかし、日本帝国陸海軍がロシアのサンクトペテルブルクやモスクワを攻略することは不可能です。よって、共産党政権に対する武力干渉はしません。しかし、明確に共産主義を拒否しておく姿勢を国内外に示しておく必要があります。ニコライ一家などの亡命受け入れは、一番の措置です。

 第二に、第一とも関連しますが、英仏によるロシアへの干渉の要請を拒否するためです。英仏はロシアに共産主義政権が成立した場合、干渉する可能性が高いです。しかし、兵力を消耗している英仏が干渉しても勝てる確率は低いです。その場合、兵力に比較的、余裕がある日本帝国に出兵を求めてきます。要請は拒否しますが、その場合、共産主義を容認しているように見られるのは避けなければなりません。

 第三に、ロシアの共産主義者に脅威を残しておくことができます」。

 「成程、納得できます。しかし、ロシアに共産主義政権が成立しないことが最良です。最初から共産主義政権が成立する前提で政策を決定するのは間違いだと思います。共産主義者は議会でも少数派です。我が国が援助すれば、反共勢力が勝利するのも可能ではないでしょうか?勿論、反共勢力も親日的ではないでしょう。しかし、共産主義政権よりはマシです」。

 井上「残念ながら、ロシアは共産主義者が制するのは確実です。ロシアの諸政党は愚かにも共産主義勢力が議会を尊重すると思っています。共産主義勢力は確実にクーデターで政権を掌握します。共産主義者の政権が誕生した場合、反共産主義の勢力が決起して内戦が発生する可能性が高いです。その場合、共産党政権が勝利します。何故なら、共産主義勢力が陸軍に最も浸透しているからです。更に共産主義勢力の方が組織力もあり、多くを約束できます。共産主義勢力は議会制民主主義を実行する気がなく、公約を守る気も皆無です。正確には、共産党が定義する権利を与えるということになります。よって、内戦中は約束を乱発できる共産主義勢力の方が味方を創れます」。

 「共産主義勢力が優位なのは理解できます。しかし、ロシア国民の多くも騙されたと分かれば、共産主義勢力から離反するのではないでしょうか?共産主義では確実に経済破綻が起こります。ロシアは資源が豊富ですから暫くは持ち堪えるでしょう。しかし、国力を低下させるか大量虐殺を実行するかの選択を一党独裁政権は迫られます。どちらにしろ、ロシア国民は共産党から離反します。我が国が反共勢力を援助すれば、共産主義勢力を打倒することは可能です」。

 井上「理屈は、その通りです。しかし、共産主義勢力には強力な味方がいます。列強の左派勢力です。御存知の通り、我が国にも無視できない人数がいます。今回の戦争で自国民の兵士を平然と大量に戦死させたヨーロッパ諸国でも共産主義勢力が増えることは確実です。更に、アメリカは共産主義勢力に好意的です。王制や帝政を憎むあまり、共産主義を好ましく見ています。我が国が共産主義勢力の打倒に全力を挙げれば、アメリカは我が国に敵対的な姿勢をとることは確実です。下手をすれば、背後から我が国を攻撃するでしょう。安全保障政策は冷静かつ冷徹に判断しなければ、国家と国民を確実に滅亡させます。共産主義勢力を打倒するのは、世界革命を目指す共産主義の脅威がアメリカを脅かした時です」。

 「首相の御懸念は理解できます。確かに、現在のアメリカは共産主義に好意的です。しかし、アメリカは孤立主義が残るアメリカが我が国に敵対的な行動をとるでしょうか?アメリカが敵対的な行動をとるにしても動きは極めて遅くなります。肝心なのはロシア国民の動向なのではありませんか?」。

 井上「確かに、その通りです。しかし、共産党政権では、国民ではなく人民です。国民としての責任を放棄して共産主義を選ぶからです。共産党は従わせるために、虐殺と全ての自由の剥奪を行うのは確実です。当然でしょう。人民は力にしか従いません。人民の要求通りにしていけば、共産党の基盤である国家は衰退し、共産党は破滅です。そして、不満を抑える方法はあります。質を落として量を増やすことで不満は抑えられます。そして、ロシア人は議会制民主主義、自由、法の支配のために戦う気がありません。元官僚などのエリート達は一党独裁の共産党に味方します。何故なら、一党独裁の方が自分達の地位が向上すると思うからです。一方、騙されたことに気付いたロシア人民は逆らいません。何故なら、共産党政権が情け容赦しないことは明らかだからだ。何しろ、自分達が革命で政権を転覆させたのだから他人を信用できません。こうした状況で共産党が脅威を覚えるのは、伝統的な帝政の正当性です。何故なら、他の革命勢力も力で政権を転覆させた点は同じだからロシア人民は信用できません。しかし、帝政なら少なくとも共産党政権が成立する前の権利は期待できますし、共産主義と違う政治を行う点は確実です。

 よって、ロマノフ家は少なくとも、共産党政権の心配の種になることは確実です。戦略的な理由からの説明は以上です」。

 ここで首相は水を飲んでから発言を続けた。「では、心情的には如何でしょうか。一応、国民にも説明しなければなりません。確かに、ニコライ二世は愚かです。しかし、大部分のロシア人の心情に流されただけです。そもそも、歴史を見れば大半の民族や国家は侵略を繰り返してきました。侵略を企てただけで憎むのは馬鹿げています。日本帝国は、伝統的に相手の行為に応じて相手を歓待してきました。日本帝国内の共産主義勢力が政権を獲得すれば、大虐殺を行うのは確実です。経済も破綻し、更に多くの国民が死んでいくのも確実です。しかし、我々は共産主義勢力が違法な活動をしない限り殺害する気はありません。国内の共産主義勢力を抹殺しないのに、ニコライ2世の死を望むのは馬鹿げています」。枢密院と貴族院は首相の説明に納得して同意した。なお、戦時中であったので例によって衆議院には説明されなかった。


 ロシアで帝政が打倒され、臨時政府が発足したのに続いて戦局の転換点となる出来事が発生した。1917年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告した。アメリカがドイツに宣戦布告したのはドイツの無制限潜水艦作戦も一要因だが、ツィンメルマンノート事件が主要因だった。ドイツ外務大臣のツィンメルマンはメキシコをドイツの同盟国とし、アメリカが参戦した場合、メキシコにアメリカを攻撃させようとした。また、日本帝国にもアメリカを攻撃させるように促す内容もあった。この電報がイギリスの情報部に解読されてイギリス政府が其れを1917年2月24日、アメリカ政府に通報した。


 4月1日、それがアメリカの新聞に掲載された事件だ。後に、ツィンメルマンは電報が事実であることを認めた(理由は不明)。ツィンメルマンの電報を見れば、ドイツに対して敵意を懐かずにいられる筈もなかった。このため、アメリカ政府はドイツに対する宣戦布告を決意した。なお、日本帝国が陸軍をイタリア戦線に派遣し、海軍を大規模に展開させて独墺軍と激戦中であることを考慮すれば内容は荒唐無稽ともいえた。


 しかし、日本帝国の対外特務庁と軍情報局は内心を見透かされた様で肝を冷やした。当時の日本帝国の上層部は親米派と言われていた憲政党でさえ、アメリカに対する不信感に苛まれていたからだ。対外特務庁と軍情報局はイギリスにも不信感を懐いた。イギリス政府がツィンメルマンの電報の内容を報せてこなかったからだ。対外特務庁と軍情報局の合同暗号解読部隊は独自にツィンメルマンの電報を解読していた。


 ところが、解読が終わってイギリス情報部に渡す前の3月27日に対外特務庁がツィンメルマンの電報が新聞に掲載されることを掴んだので渡すのを止めた。対外特務庁はイギリス政府がアメリカ政府に何らかの情報を渡していたことは掴んでいたからだ。暗号解読や通信傍受に関する情報は日英間で共有する協定を開戦時に結んでいたから、対外特務庁と軍情報局は激怒した。日本帝国の両諜報機関は誠実に履行していたからだ。


 これ以後、内閣の承認を得て両諜報機関はイギリス情報部に渡す情報を制限し、イギリスを対象とした諜報活動も再開した。しかし、日英同盟の破棄が考慮されることはなかった。元々、日本帝国の日英同盟に対する期待は冷めた物だったからだ。ともあれ、アメリカの参戦が決まったことでドイツの敗北が確定したことは認識された。しかし、アメリカが参戦するとなると、アメリカの影響力が強まることは必至だった。このため、日本帝国政府は悩むことになる。このため、対米方針が4月8日に決定された。趣旨は次の通り。

 第一に、イギリスの不信感を醸成させないために、戦争中はアメリカを批判しない。

 第二に、アメリカに対する諜報活動を強化してアメリカ政府の意図を把握するように全力を挙げる。

 第三に、講和会議ではアメリカ政府の意図の実現を妨げるように全力を注ぐ。

 以上の様な内容で、アメリカが参戦した時点で日米の対立は決まっていた。それでも、あそこまで対立が激化するとは誰も思っていなかった。


 アメリカの参戦が決まった4月に、英仏陸軍は懲りもせずに大攻勢を発動した。4月9日からイギリス陸軍が攻勢を発動し、戦車部隊の支援を得て割と順調に目標を達成した。しかし、1週間で4万人以上の戦死者を出した。続いて、フランス陸軍が攻勢を発動した。戦車部隊も投入され、航空隊も大々的に投入された。しかし、攻勢の計画が事前に察知され、ドイツ陸軍は万全の態勢で迎撃した。このため、フランス陸軍の攻勢は失敗した。今回の攻勢は失敗だったとはいえ、是までのフランス陸軍の被害に比べれば損害は少なかった(それでも約3万人が戦死した)。遂に、フランス陸軍兵士達は限界に達した。


 5月から反乱を起こす部隊が続出した。パリに向かう部隊までが現れた。ペタン将軍が陸軍参謀総長に任命され、反乱の鎮圧に当たった。ペタンは約2万4千人を逮捕した。ただし、措置は穏便で50人が銃殺、350人が流刑になっただけだった。一方で、休養ローテーションと食事の改善、休暇の増加などを行った。また、無謀な攻勢を発動しないことを約束した。これにより、反乱は急速に沈静化していった。フランス陸軍兵士達は部署に戻った。このため、フランス陸軍兵士達の戦意が心配され、イギリス政府は日本陸軍の第6軍団をフランス戦線に移動することを強硬に要求した。


 しかし、日本帝国は拒否した。欧州大戦介入法でイタリア戦線以外への陸軍の派遣は議会の承認が必要だったからだ。さらに、これまでの英仏陸軍による自軍の戦死者を気にしない大攻勢に不信感を懐いていた。さらに、ロシアは戦争から脱落寸前でドイツ陸軍の大規模な増援部隊がイタリア戦線に派遣されるとの情報が飛び交っていた。このため、日伊陸軍は防御態勢に移行した。英仏は極めて不満だったが、日本帝国は応じなかった。


 イギリス陸軍が6月から攻勢を再開していたが例によって多数の戦死者が出ていた。一方、ドイツ陸軍参謀本部は迷っていた。イタリア戦線で攻勢を発動することも検討されたが、日伊陸軍が万全の態勢で待ち構えているので断念した。ドイツ陸軍にとって日本帝国が強力な援助でイタリア陸軍を強化したのは予想外だった。今や、オーストリア陸軍より、質でも量でも日伊陸軍が上回っていた。このままでは、オーストリアが崩壊するのは時間の問題だった。


 幸い、日伊の両国は英仏に不信感を懐いていた。このため、ドイツ陸軍はイタリア戦線にロシア戦線から徐々に師団を引き上げて布陣させることにした。イタリア戦線は山岳地帯と森が多いので、日伊陸軍が先に発動する可能性は低かった。このため、ドイツ陸軍の師団が布陣すれば、それだけで抑止することになる。


 万が一、攻勢を発動してくれれば、ドイツ陸軍の思う壺だった。しかし、日伊陸軍の将官達の最近の傾向として望み薄だった。ドイツ陸軍参謀本部の狙いは陽動だった。ここでドイツ陸軍師団を休憩させると共に、連合国に対してイタリア戦線でドイツ陸軍が大攻勢を発動しようとしていると見せかけるようとしていた。ドイツ陸軍参謀本部の目標はフランス戦線だったが、連合国は騙された。


 ドイツ陸軍はオーストリア陸軍にイタリア戦線での攻勢計画を伝え、共同で検討を始めた。山岳部隊のアルプス軍団や第200猟兵師団も投入された。これらの部隊は防衛が真の目的だった。しかし、師団長達まで騙していた。このため、日伊陸軍は一層、警戒して攻勢を発動しなくなった。ドイツ陸軍参謀本部の狙いは成功した。ドイツ陸軍は兵力の温存に成功し、日伊陸軍を釘付けにした。イギリス陸軍の攻勢は11月まで続き、約8万の戦死者を出した。


 一方、ロシア戦線ではドイツ陸軍の進撃が続いていた。しかし、ロシア陸軍は追い詰められていたが崩壊はしなかった。ドイツ陸軍参謀本部は焦り、レーニンなどの共産主義勢力に対する援助を強化して臨時政府を崩壊させようとした。

 11月7日、トロッキーの率いる赤軍が臨時政府の首相府などを占領してサンクトペテルブルクを制圧した。赤軍は巧妙だった。まず、鉄道局、電話局、水道局、郵便局、電信局などを制圧して都市機能を掌握して臨時政府を孤立させた。それから、政府庁舎を制圧した。日本帝国の対外特務庁と軍情報局は大いに感心した。同時に、将来、血みどろの戦いを繰り広げることになる敵を警戒した。共産党はケレンスキーなどの反撃を撃退して政権を掌握した。ソ連政府は直ちに、ドイツとの講和交渉を開始した。


 12月15日、公式に休戦となった。しかし、ドイツとソ連の交渉は難航した。ドイツ側の要求が強硬だったこともあったが、ソ連側の態度は奇妙だった。講和条約なしの停戦を主張した。当然、ドイツ側はドイツが不利になれば、停戦を破棄して再戦を行う魂胆だと判断した。


 このため、1918年2月18日、ドイツ陸軍は休戦を破棄して進撃を再開した。抵抗は脆弱で、1週間に約300㎞も前進した。さらに、2月25日、ヘルシンキにドイツ陸軍3個師団が上陸した。同日、ドイツ艦隊はサンクトペテルブルクに艦砲射撃を敢行し、ソ連海軍の軍港に大量の機雷を敷設し始めた。レーニンは首都をモスクワに移転させた。ソ連軍の抵抗が脆弱なのは奇妙だが、これは当然だった。共産党は終戦を実現することを宣言して政権を獲得した。当然、元ロシア陸海軍の兵士達の戦意は消えた。その上、陸軍兵士や水兵に反乱を起こさせていたので指揮系統が崩壊していた。当然、兵士達は命令に逆らうか消極的になった。共産党の私兵部隊の赤軍は要所を掌握するのが精一杯の兵力しかない。ロシア警察は軽武装で、反共産党であり大半が逃亡していた。


 最早、ドイツ陸軍の条件を受諾するしかなかった。2月26日、共産党政府はドイツに降伏した。こうして、ブレストリトウスク条約が締結された。この条約で、ソ連は約6分の1の領土と約3分の1の人口を失った。ソ連となったロシアは完全に戦争から脱落した。


 ロシアが追い詰められていく状況で、西部戦線の連合軍はドイツ陸軍の大攻勢を前に待機していた。イギリス陸軍もフランス陸軍も流石に攻勢を断念していた。英仏両政府は日伊両政府に陸軍部隊を送ることを要請したが、日伊両国は拒否した。日伊両政府ともイタリア戦線でドイツ陸軍が大攻勢を敢行する可能性を考慮していた。更に、是までの攻勢で国家としての英仏は敗戦国も同然になったと判断していた。最早、英仏が将来、頼りになることはなさそうだったので日伊両政府の上層部でもドイツなどと講和すべきだとの意見が強まっていた。しかし、井上首相は閣内の承認を取り付け、戦争を継続する方針で枢密院を説得した。井上首相が強調したのは、イギリスを完全にアメリカ側としない必要があるということだった。


 井上「ウィルソン大統領による平和14か条の原則は日本帝国にとって重大な脅威です。民族自決の原則を広範に打ち出しており、オーストリア帝国を解体することも公言しています。欧米系の国民が多い樺太やカムチャッカ半島などの北方地域、中国系や先住民が多い台湾などを領有している我が国にとっても致命的です。民族自決権の原則が国際法化されれば、日本帝国は解体されます」。

 「しかし、ウィルソン大統領の14ヶ条の原則はドイツやオーストリアなどを対象にした講和条件ではないのか?日本帝国に適用する程、アメリカが無法な国家だとも思えないが。どちらにしろ、イギリスやフランスは今回の戦争に勝ったとしても衰退する。放置すれば、自然に講和が成立すると思うが」と枢密院議員の一人が述べた。

 井上「確かに、イギリスとフランスが衰退するのは確実です。しかし、我が国とイギリスの経済的関係は濃密です。イギリスが敗北するのが不利益であることは明白です。更に、イギリスは依然として大国であり多くの領土を保有しています。アメリカも無視することは不可能です。

 逆に、日英同盟が解消されればアメリカは躊躇なく我が国を敵視し始めるでしょう。日米協商条約がありますが、アメリカ国内では廃棄論が常に渦巻いています。廃棄される可能性は常にあります。中国に同情する意見、共産主義に同情的な意見、君主制を敵対視する意見が渦巻いています。そもそも、日米協商条約も満鉄の共同経営もアメリカの敵意を緩和するためでした。両国の間には基本的に信頼はありません。この状況で、日英同盟の廃棄は致命的です。

 更にドイツは黄禍論の発祥国ですし、中国と親しいことも忘れてはなりません。何よりも共産主義の発祥国ですし、ロシアに共産主義政権を誕生させました。ドイツが滅びることは日本帝国にとっても世界にとっても良いことです。ドイツが勝利することを歓迎すべきではありません」。

 「確かに、ドイツの勝利を歓迎すべきではない。更に、イギリスとの同盟も依然として有用だ。しかし、首相はウィルソンを敵視し過ぎではないのか?アメリカの国益上、日本帝国との対決が不利益なのは明白だ。日米協商条約もあるから、一般のアメリカ国民にも理解しやすい筈だ。ウィルソンも無茶は出来ないし、奴が大統領を退任すればアメリカの態度も自ずと変化すると思うが?」。

 井上「残念ながら、ウィルソンは無茶をします。共産主義や無政府主義に好意的であり、夢想家です。そして、国際秩序が混乱することを考慮していません。詳細は、対外特務庁の資料を御覧ください。さて、民族自決の原則は今回の戦争における特別措置ではありません。

 何故なら、第13条においてポーランドの独立が定義されています。ロシアと連合国は戦争していません。また、ロシアはソ連になりましたがソ連とも今のところは戦争していません。これまでの国際法の原則からすると、ポーランドの領有権は占領しているドイツかソ連です。開戦前はロシア領です。ロシアの政権を掌握したソ連に領有権がなる筈です。それなのに、戦争もしない内にポーランドの独立を実現させようとしています。是が国際法化されると、日本帝国も対象とされます。更に14条で帝国主義者に対抗することを明言しています。

 この場合の帝国主義者は、当然、アメリカを含みません。アメリカ自体がインディアンを征服して建国された国家であり、黒人も少ない権利しかないです。しかし、黒人は白人に比べて数が少なく権利も制限されています。インディアンは数が少ない上に居留地で封じ込められています。ウィルソンは投票で自決権が認められるかを決めようとしているのでアメリカに適用される筈もありません。

 これに対して、日本帝国の状況は全く異なります。異なる人種や民族にも日本帝国に忠誠を誓い、国籍を取得すれば日本国民としての権利を与えてきました。議員の中に台湾の中国系、台湾の先住民系、欧米系などの議員がおり、今、枢密院の席にも何人かが座っています。日本人が多数派ですが、地域によっては少数派です。特に、台湾とカムチャッカ半島などの北方地域では日本人が少数派です。この状態で独立運動が扇動されれば、日本帝国は解体される可能性が高いです。懸念される地域の国民は日本帝国の支配に馴染んでおり、投票が行われても日本帝国に残留することを選択する可能性が高いです。しかし、アメリカが干渉の口実に使うことは疑いの余地がありません。また、ソ連は共産主義のイデオロギーと絡めてテロ活動や武装蜂起の口実とするのも確実です。日本帝国はウィルソンの構想を完全に挫折させる必要があります。それにはイギリスがアメリカだけではなく、日本帝国の立場も考慮するようにする必要があります。ドイツを勝利させない事も含めて戦争の継続は不可欠です」。

 「しかし、イギリスは日本帝国とアメリカを仲介できるのか?この先は衰退していくばかりだ。イギリスを無視してアメリカが日本帝国への敵視政策を行うことも可能だ。日本帝国とアメリカが戦争になった場合もアメリカがイギリスの仲介を無視する可能性がある。ドイツも日本帝国にとって有害な国家だが、日本帝国の仮想敵国で危険なのはアメリカだ。イギリスのために戦争を継続する価値があるのかを検討する必要があると思うが?」。

 井上「確かに、イギリスが衰退しアメリカに依存していくのは不可避です。しかし、イギリスが多くの植民地を領有し、今後、十数年は大国の一つであることも確実です。アメリカも無視はできません。そして、民族自決はイギリスにとっても好ましくありません。このため、日本帝国の味方をすることはなくてもアメリカと日本帝国が争った場合、中立を保って仲介をするメリットは充分にあります。アメリカにとって日本帝国を害するには孤立させなければ気軽に行うことはできません。日本帝国は中国やソ連と対立せざるを得ないので、アメリカはイギリスやオランダを日本帝国から引き離そうとします。

 しかし、イギリスやオランダは民族自決の原則を掲げるアメリカの意向に同調することに躊躇いがあります。アメリカが同盟を結んでイギリスやオランダの本土の安全を保障しない限り、アメリカの意向に完全な同意を行うことはないです。ただし、日本帝国が頼りになると両国の国民が明確に認識する必要があります。既に充分な貢献をしているし、イギリスが同規模の貢献を実行するとは考えにくいです。

 しかし、政府上層部は兎も角、イギリスの一般国民はアメリカのためなら日本帝国を切り捨てても構わないと思い込みます。アメリカがイギリスと同盟を結ぶ気がなくてもです。しかし、日本帝国陸軍がフランス戦線で戦闘すれば、そういうわけにもいきません。日英同盟を破棄することが不利になるのが明確に認識されます。よって、日本帝国がアメリカと戦争になった場合も中立を支持する可能性が濃厚になります。第1次大戦に日本帝国が参戦した目的は、イギリスをアメリカ側に、完全に追いやらないことでした。確かに、日本帝国は大英帝国に充分な貢献をしています。しかし、東ローマ帝国の名称であるベサリウスは、(危機に直面した時、神は将兵に対し、公平に防護を与えない)と言いました。同じように、神は国家に対しても公平な防護を与えません」。枢密院は渋々、承認した。


 枢密院は井上首相に協力し、貴族院と衆議院にも働きかけた。貴族院は承認し、衆議院は承認しなかった。欧州大戦介入法により、衆議院の意見も無視できなかった。両院協議会の多数決で、漸く承認された。さらに、砲兵隊だけではなく、歩兵師団の追加派兵も承認された。こうして、日本陸軍の第6軍団はイタリアからフランスに移動した。ドイツ陸軍やオーストリア陸軍の攻勢に備えて、イタリア陸軍は防衛線を更に縮小した。イタリア政府は日本帝国の支援に感謝しており、イタリア陸軍の3個歩兵師団を第6軍団に配属した。こうして、日伊陸軍もドイツ陸軍の最終攻勢を前にしてフランス戦線に加わった。


 日本帝国の国防省はイタリア陸海軍と締結したのと類似した協定を結んでイギリス陸軍の指揮下に入れた。陸軍参謀本部や神尾中将などの派遣部隊の司令官達は無謀な攻勢を続けてきたイギリス陸軍の指揮下に入ることを嫌がった。しかし、大谷国防大臣は「軍隊は戦略目的を実現するための道具だ。そして、戦略は政治の目的を達成するための手段だ」と指示してイギリス陸軍の指揮下に入れた。今回は防御なのでイギリス陸軍も無謀にはならないとの計算もあった。しかし、神尾中将以下の第6軍団司令部は不安だった。こうした不安に応えて、国防省は増援部隊を送った。日本帝国は砲兵旅団4個を第6軍団に追加していたが、新たに3個師団を送った。


 第6軍団はイギリス陸軍の指揮下に入り、ポルトガル陸軍2個師団が担当していた戦線に配属された。ポルトガル陸軍2個師団はケンメルコ高地の守備に就いた。第6軍団の布陣は次の通り。ジバンシーからアルメンティエールに4個師団(第17、第18、第19、第20)が布陣して防御線を敷いた。後方に3個師団(第21、第22、第24)が防御線を敷き、イタリア陸軍3個歩兵師団と日本陸軍の2個師団(日本陸軍は第16と第25。イタリア陸軍は第1、第2、第3)が予備として待機した。3個騎兵旅団はべチューンで待機した。戦場は砲撃で荒れ果てており、装甲車部隊が活躍できる環境ではなかったからだ。


 神尾中将は各部隊に陣地構築を進めさせた。防御線はカモフラージュに力を入れ、特に航空偵察で全体像が判明しにくいようにした。日本陸軍航空隊の偵察機が上空から多数の航空写真を撮影し、それを第6軍団司令部が分析してカモフラージュを修正させた。更にダミーの塹壕線とボックス陣地も構築された。ダミーの塹壕線やボックス陣地には、少数の兵士達が歩き回り、料理や食事や訓練などをした。

 同時に、ダミーの人形を動かしていた。伝令の自動車やバイクも出入りし、通信も行われた。ドイツ軍の偵察機が接近すれば、対空砲が射撃した。ドイツ陸軍参謀本部は惑わされ、砲撃目標に多くのダミー陣地を加えてしまった。更に本物のボックス陣地、塹壕線、砲兵陣地にもダミー大砲などの各種ダミーが置かれた。そして、フランス陸軍の防御戦法を参考にした陣地を構築した。前進壕(第1線)、予備壕とボックス陣地(第2線)、最終の塹壕線の順で構築した。


 日本陸軍の基本的な防御戦術は次の通り。第1線の前進壕の部隊は警戒部隊であり、ドイツ陸軍の攻勢が始まって突撃部隊が浸透し始めてきたら第2線に独自の判断で退却する。


 二番目のボックスと予備壕の第2線で本格的な防御戦闘を開始する。ボックス陣地とは複数の迫撃砲を配置した全周防御の陣地だ。第2線はボックス陣地を塹壕で繋げた陣地帯だ。第2線の予備壕とボックス陣地で守備隊は抗戦を続けるが、砲撃の援護でドイツ陸軍の突撃部隊は手薄な地点を突破して後方に浸透していく。突撃部隊の浸透自体は阻止しない。ただし、ボックス陣地からの観測による後方の砲兵隊からの砲撃、キルボックス陣地自体からの砲撃で損害を与え続ける。防御線が破られ、後方から攻撃され始めたら部隊をボックス陣地に収容して抗戦を続ける。必ず、後方から救援が来るので降伏はしない。また、ドイツ陸軍部隊の隙を衝いてボックス陣地から出撃してドイツ陸軍部隊を攻撃する。ドイツ陸軍の砲兵隊は敵味方の識別ができず、砲撃できない。


 対して、日本陸軍部隊はボックス陣地からの観測で後方からの砲兵隊による砲撃とキルボックス陣地からの迫撃砲攻撃で支援される。これで、ドイツ陸軍の第1派と第2派の間を遮断する。ドイツ陸軍が反撃してきたらボックス陣地に戻る。これを繰り返して救援を待つ。


 三番目の最終防御線で、敵を撃滅する。最終防御線では敵部隊の攻撃を受け止めた後に、出撃して砲兵隊や航空隊の支援を得ながら敵部隊を攻撃する。後方に浸透してきたドイツ陸軍の突撃部隊は人数が少なく重機関銃なども装備していないので撃滅は難しくない。機を見て反撃して第2線を救援する。ドイツ陸軍は退却するしかない。第4線には予備兵力を置いて第3線を支援する。


 以上が基本戦術で、航空機とボックス陣地からの観測による砲撃が今回の戦術の要だった。もちろん、基本だった。地形によっては防御線が5線以上、構築された。また、退却してドイツ陸軍部隊の針路を開ける場合もあった。神尾中将を始めとして第6軍団の将官達や参謀達は工兵などの軍装で頻繁に前線を視察して陣地構築を監督した。こうして、日本陸軍の第6軍団はドイツ陸軍の攻勢に備えて万全の態勢で待ち構えた。


 1918年3月21日、ドイツ陸軍は大攻勢を発動した。カイザー攻勢の始まりだった。第1次攻勢はイギリス陸軍とフランス陸軍の境界線(アミアン付近)を狙った。浸透戦術と効果的な砲撃で、イギリス陸軍の第5軍が打ち破られた。イギリス第5軍は退却した。しかし、イギリス第3軍が持ちこたえた。ドイツ第17軍はアミアンの北に向かい、ドイツ第18軍はパリに向かった。作戦目的は英仏陸軍の分断だから本来はアミアンを全力で攻撃しなければならなかった。


 ところが、ドイツ陸軍部隊の兵力が大規模すぎた。歩兵の大軍が雪崩れ込む状況になったので縦隊が発生し、補給のために進撃路を分けなければならなかった。このため、アミアンに戦力を集中できなくなってしまった。それでもドイツ陸軍は約60㎞という驚異的な前進を達成した。3月25日、パリにドイツ陸軍の列車砲3門が183発の砲弾を撃ち込んだ。3月28日までに、第1次攻勢は終了した。ドイツ陸軍は約7万人の捕虜と1100門の大砲を得て多くの地域を獲得した。しかし、英仏陸軍の分断には失敗した。


 ドイツ陸軍の第2次攻勢が4月9日に開始された。陽動作戦であり、目的はイギリス陸軍が南部に兵力を集中させない様にすることだった。ドイツ陸軍が目標としたのは日本陸軍が担当していた地域だった。ドイツ陸軍参謀本部は当初、攻撃目標を変更する積りだった。弱体なポルトガル陸軍に変わって、日伊陸軍混成の第6軍団が布陣したからだ。


 しかし、日伊陸軍は是まで攻勢に慎重だったので両国の政府は消極的だとの意見が出た。ここで日伊陸軍に大損害を与えれば、特に日本政府は陸軍を撤退させてくれる確率が高いとの意見でルーデンドルフも賛成した。英仏両国の陸軍上層部には日本帝国が消極的だと声が根強かったので無理もなかったが、大変な間違いであることが判明する。


 そして、4月9日にドイツ第6軍が攻勢を発動した。まず、砲撃が開始された。ところが、最初から躓いた。航空観測で日本陸軍の砲兵隊が対砲兵射撃を始めた。ドイツ陸軍の砲兵隊の上空を複数の1913飛2型が飛行する。観測機から無線状態が安定したとの確認があると、砲撃が始まる。まず、発煙弾が撃ち込まれ、観測機が風向と風速を確認して報告する。その後、試射は省略され、直ちに効力射が開始された。観測機が弾幕をドイツ軍砲兵隊の方に移動させていった。


 この戦術は効果的だった。ドイツ陸軍砲兵隊は最初から砲撃されたので対処の時間が殆ど無かった。退避が間に合わなかった砲手達が吹き飛ばされた。また、着弾が急に迫ってきたので砲弾や装薬の収納が間に合わず、多くが誘爆した。このため、多くの火砲が完全に破壊された。カモフラージュ用のネットなどを掛ける暇が多くの場合、無かった。ドイツ陸軍砲兵隊は日本陸軍砲兵隊の対砲兵射撃で大損害を受け砲撃は失敗した。


 日本陸軍航空隊がイギリス陸軍航空隊に加わったことで制空権は連合軍が握っていた。このため、観測機部隊は安心して着弾観測を行うことが出来た。ドイツ陸軍航空隊も多数の戦闘機を送り込んだが、日本陸軍航空隊とイギリス空軍の濃密な空中哨戒網で多くは防がれた。同時に、日本陸軍航空隊はドイツ陸軍航空隊の飛行場を空爆して(主にロケット弾を使用)損害を累積させた。日本陸軍航空隊とイギリス空軍の観測機は44機(イギリスは21、日本は23)が撃墜された。それまでも日本陸軍航空隊の損失は大規模な作戦ごとに平均して108機だった。今回は以前よりも更に損失が増大した。ドイツ陸軍航空隊の主力との決戦になったからだ。


 ドイツ空軍の戦闘機部隊から観測機を防護するため、是まで忌避されてきた飛行場への空爆(損失が多く特に嫌われていた)も含めて全力が注がれた。このため、日本陸軍航空隊の損失数は257機に達した。しかし、ドイツ陸軍航空隊も日英軍航空隊の損失数を上回る損害を出して制空権は連合軍が手にした。なお、日本陸軍航空隊(海軍航空隊も)はパラシュートで脱出するのを開戦当初から普通のことにしており、士気の維持に貢献していた。また、開戦前から多数の損失が予想されていたので多くのパイロットと機体が用意されていた。それでも今回の損失は痛かった。しかし、日英軍航空隊の奮戦で着弾観測や航空偵察は妨害なく行えるようになった。このため、今回の戦闘では連合軍が終始、主導権を握ることになった。


 ドイツ陸軍は対応が遅れた。ドイツ陸軍はオーストリア陸軍を軽視していたし、ドイツ陸軍の増援部隊が布陣した戦線では日伊陸軍が攻勢を避けていたのでオーストリア陸軍部隊に派遣されていた将校達の報告書は軽視されていた。このため、日本陸軍の砲兵隊からの対砲兵射撃に驚いた。是までは1日ごとに砲兵隊は陣地を転換していれば、敵の砲兵隊から対砲兵射撃を受けることはなかった。それが、無線機を搭載した航空機からの航空観測で誘導された日本陸軍の砲兵隊による対砲兵射撃を受けるようになった。ドイツ陸軍の砲兵隊は損害が続出した。


 日本陸軍の砲兵隊の陣地にもドイツ陸軍砲兵隊の反撃が行われたが、損害は軽微だった。ドイツ陸軍の砲兵隊はダミーの砲兵陣地や本物の陣地内のダミーの砲兵隊を攻撃することが多かった。これは日本陸軍の巧妙な偽装工作による成果だった。ダミーの野砲や榴弾砲も火を噴くようになっていた(基本構造はオーストリア海軍のダミー大砲と同じ)。ダミーの大砲に本物の大砲も混ぜられていた。ついでに、ダミーの薬莢も運び込まれて回収されていた。


 しかし、長くダミー陣地が置かれていると他の兵科の兵隊が気付いて情報が漏れた。更にドイツ陸軍航空隊の写真解析班がダミー陣地の盲点に気づいた。焦げた地面が少なかったのだ。野砲や榴弾砲が砲撃すると、大砲の前の地面が焦げる。ところが、ダミー陣地には焦げた地面が少なかった。本物の大砲が少ない証拠だった。ドイツ陸軍はダミー陣地やダミー砲兵隊を目標から外した。


 しかし、これは日本陸軍の策略だった。数日してから、ダミーの砲兵隊と本物の砲兵隊を徐々に入れ替えた。そして、ダミーの大砲の前には専用の工場においてバーナーで焦がした砂や土がバラ撒かれた。本物の大砲の地面には砂や土がバラ撒かれ、工兵隊が仕上げを行ってダミーのように見せかけた。以上の作業は夜間に行われた。これで時たまに、侵入してくるドイツ軍偵察機による写真偵察を誤魔化した。念のため、昼間の砲撃時も砲撃の後に偽装工作が行われた。ダミー大砲の前では担当兵達が黒い布を敷き、上から軽く砂を塗した。本物の大砲の前では砲兵隊員達が地面の色に迷彩された布を敷き、上から軽く砂を塗した。


 こうして、完全にドイツ陸軍は騙された。ダミーの砲兵陣地やダミー砲兵隊が多く砲撃され、本物の日本陸軍砲兵隊は被害をかなり軽減された。ダミーの砲兵陣地やダミー砲兵隊では担当兵達が爆薬を爆破して誘爆が発生したように見せかけた。ドイツ陸軍砲兵隊の砲撃は失敗し、日本陸軍部隊は殆ど混乱せず、陣地の損害も少なかった。ダミーの塹壕線やボックス陣地も砲撃されて本物のダメージが軽減された。それでもドイツ陸軍砲兵隊の大砲の数は多く、砲撃で形成された突破口からドイツ陸軍の突撃部隊が浸透し始めた。なお、ドイツ陸軍は日本陸軍部隊を攻撃する時は毒ガスを使用しなかった。


 ドイツ軍が使用しなかった理由は単純だった。日本陸海軍に報復の準備が充分で、日本陸海軍が毒ガス兵器を使用しなかったからだ。日本陸海軍が当初から毒ガスマスクなどの装備を充実させていたので効果が低いと判断された。更に日本帝国は中立国経由でドイツ軍が毒ガスを日本陸海軍部隊などに使用した場合、毒ガスの航空爆弾による空襲を行うと警告したためだった。連合国軍の主要な毒ガス散布手段は日本帝国の陸軍工廠が開発した毒ガスロケット弾だった。このため、この警告はドイツ軍参謀本部を憂慮させた。

 日本陸軍航空隊が大量の毒ガス航空爆弾を備蓄し、投下の演習も繰り返しているのはドイツ軍情報部が掴んでいた。このため、毒ガスでの報復合戦になればドイツ側の被害が大きいと予測された。更に、日本陸海軍は実戦で毒ガスを使用したことは無かった。


 このため、日本陸海軍部隊に毒ガスが使用されることは無かった。イタリア陸軍部隊にもドイツ軍は毒ガスを使用しなかった。イタリア陸軍部隊も毒ガスを使用していなかったし、日本帝国が毒ガス兵器を供与するのを恐れたためだ。実際、日本陸海軍派遣部隊はイタリア陸海軍と毒ガス戦の演習を何回も行っていた。毒ガス戦に関する訓練や装備の提供、イタリアでの毒ガスの生産なども行われていた。


 このため、イタリア陸軍に対しても毒ガスが使用されることは無かった。更に、日本陸軍と共同で作戦している戦区の他の連合軍部隊に対してもだった。何度か、日本陸軍部隊が毒ガスに晒されることもあったが日本帝国は報復を控えた。中立国経由で厳重抗議すると、ドイツ側は中立国で故意ではないと伝え、詳細な状況も説明した。結局、終戦まで日本陸軍部隊とドイツ陸軍部隊が毒ガス戦の応酬を行うことは無かった。


 ドイツ陸軍の突撃部隊は地形に隠れながら徐々に接近した。約500mに迫ると、日本陸軍部隊は激しく応戦する。日本陸軍の重機関銃部隊が掃射を行い、歩兵部隊の小銃による銃撃が始まった。突撃部隊は遮蔽物で銃撃を交わしながら日本陸軍の第1線の手薄な場所を目指した。日本陸軍の狙撃班による狙撃は突撃隊を効果的に妨害した。日本陸軍部隊は各分隊が軽機関銃2挺を装備している利点を活かして、突撃部隊を攻撃した。継続躍進の戦術で1個分隊が射撃している間に、1個分隊が突撃部隊に迫った。勿論、中隊から応援の分隊や重機関銃による援護射撃も加わる。日本陸軍部隊の応戦でドイツ陸軍突撃隊の勢いは削がれた。


 撃たれて死傷するドイツ陸軍兵士も出るし、半分以上が死傷して退却する突撃部隊もいた。しかし、突破する突撃部隊が増えていった。第1線にいた日本陸軍の部隊は中隊単位の判断で第2線に退却し始めた。当時、第1線の部隊が独自の判断で退却することが認められていることは稀だった。このため、ドイツ第6軍司令部は日本陸軍部隊が浸透戦術に動揺して潰走を始めたと判断した。


 その頃、第2線に迫ったドイツ陸軍の突撃隊はボックス陣地からのストークス臼砲部隊と後方の日本陸軍砲兵隊の猛砲撃に晒された。観測兵が目標を伝え、ボックス陣地の射撃指揮所が陣地内のストークス臼砲部隊に砲撃を命じるか後方の射撃指揮所に砲撃を要請した。ボックス陣地観測で的確な砲撃を受け続けた。発煙弾が撃ち込まれ、日本陸軍の観測班が陣地内から風向と風速を報告しドイツ陸軍の突撃部隊を確認する。それから、直ちに効力射が開始された。


 ストークス臼砲部隊の弾幕射撃や榴弾砲部隊が指示に従い、多数の榴弾を撃った。多数の榴弾が着弾し、次々に炸裂した。ボックス陣地を砲撃しないように、着弾地点を離さなければならなかった。試射も省略しているので砲撃は正確さが低下する。しかし、弾幕が急に突撃部隊に迫るので突撃部隊の行動を制限し、連携を困難にした。防御線からも猛烈な銃撃が行われる。ドイツ陸軍の突撃隊は消耗した。日本陸軍の狙撃班は突撃隊を的確に銃撃した。イタリア戦線と同じ戦術で狙撃銃と調整した軽機関銃により、狙撃手が放った曳光弾を見て軽機関銃手が掃射を加えた。また、狙撃班の傍の分隊も一緒に発砲して狙撃班が目立たない様にした。多くの突撃隊が銃撃され、指揮していた下士官や軽機関銃手が倒れた。


 やっと、第2線を潜り抜けると後方から射撃された。ボックス陣地から日本陸軍の小隊が出撃して突撃隊(分隊)に銃撃を加えた。日本陸軍の分隊は軽機関銃2艇を装備しており、銃撃戦にも有利だった。ボックス陣地からの砲撃支援もあった。2個分隊が射撃する間に、2個分隊が迫った。それが繰り返され、突撃部隊は追い詰められていった。突撃隊は日本陸軍の4個分隊から銃撃を受ける形になり、ストークス臼砲部隊による弾幕射撃も浴びせられた。多くの突撃隊は降伏に追い込まれ、第3線に向かうことができた突撃隊も第3線で阻止された。


 第3線の日本陸軍部隊はストークス臼砲部隊や後方の榴弾砲部隊や野砲部隊の支援を受けながら(第3線には観測兵部隊が分散して展開し、主に有線で砲撃を誘導していた)積極的に出撃してドイツ陸軍の突撃隊を攻撃した。第3線を突破できた突撃隊は少数であり、それらも日本陸軍の予備隊に攻撃されて降伏に追い込まれた。


 ドイツ陸軍の第2派は突撃隊の後から急速に進撃してきた。第1線の塹壕を越えても散発的にしか砲撃を受けず、第1線の日本陸軍部隊が潰走したと思っていたこともあって楽観していた。ところが、第2戦まで約450mまで迫ると激烈な銃撃と迫撃砲の弾幕が浴びせられた。日本陸軍の榴弾砲部隊も砲撃を始めた。最初に試射なしで第1線の塹壕に砲撃を行い(砲撃による誤射を防ぐため)、観測機の誘導で弾幕をドイツ陸軍部隊に浴びせた。ドイツ陸軍部隊を分断して連携を断つためだった。野砲部隊はドイツ陸軍部隊の後続を狙って弾幕射撃を行った。


 その後、観測機とボックス陣地からの観測で細かい修正を加えながらドイツ陸軍部隊を砲撃していった。多数の榴弾が次々に着弾し、炸裂した。ドイツ陸軍兵士が吹き飛び、爆風と破片で死傷者が増えていく。ドイツ陸軍部隊は散開し、前進を続けるが連携が困難になっていった。ドイツ陸軍部隊の山砲、歩兵砲、重機関銃などの重装備を装備している部隊や工兵隊が砲撃目標にされた。これらの部隊が砲撃されてドイツ陸軍部隊は突破に苦労した。


 それでも、ドイツ陸軍部隊は後方に浸透していき、第3戦まで迫った。しかし、第2線を抜ける途中もボックス陣地からのストークス臼砲部隊による弾幕と後方の砲兵隊からの砲撃で損害を与えられ続けた。第3線の日本陸軍部隊は激しくドイツ陸軍部隊に応戦した。その後、ストークス臼砲部隊と後方の榴弾砲部隊による砲撃の支援を受けながら積極的に出撃した。各日本陸軍中隊はドイツ陸軍部隊の攻撃が弱まると、1~2個小隊を出して攻撃した。各小隊とも2個分隊が射撃し、その間に2個分隊が迫る継続躍進戦術を行った。ドイツ陸軍部隊を撃滅するのではなく、消耗させることが目的だった。ドイツ陸軍部隊の攻撃が強くなると、陣地線に退き、弱くなると攻撃した。ドイツ陸軍部隊の勢いは急速に衰え始めた。


 第3線を突破したドイツ陸軍部隊もあったが、日本陸軍の予備隊に迎撃されて戦果の拡大ができなかった。何よりもドイツ陸軍の士官達が衝撃を受けたのは、浸透戦術で後方に浸透しても日本陸軍部隊が落ち着いて迎撃してくることだった。一方、第2線の日本陸軍部隊の多くはボックス陣地や周辺の塹壕線に退却した。ドイツ陸軍の第2派が後方から攻撃を加え始め、第3派が迫ってきたからだ。


 ドイツ陸軍部隊はキルボックス陣地を攻略するために、前後から攻撃したが激烈な反撃を受けた。ボックス陣地は全周防御ができるように構築されていたし、後方には塹壕が取り巻いていた。このため、これまでのように後方から攻撃しても優位とはならなかった。日本陸軍部隊は落ち着いて反撃した。ドイツ陸軍部隊はストークス臼砲部隊の支援を得た日本陸軍部隊に激しく銃撃されて苦戦した。更に、ボックス陣地と航空機からの誘導で後方の榴弾砲部隊が砲撃を叩きこんだ。


 ドイツ陸軍部隊の攻撃が停滞すると、日本陸軍部隊は逆襲した。第3線を攻撃していたドイツ陸軍部隊を目標にして10分間の猛烈な準備砲撃が行われた。その後、第3線と第4線の日本陸軍部隊に出撃命令が出され、日本陸軍部隊が第2線へ向かう。第3線の部隊は小隊単位で向かい、第4線の部隊は中隊単位で向かった。


 勿論、各分隊は充分に距離を空けている。第3線の日本陸軍部隊は歩兵小隊に機関銃分隊が増強していた。各小隊は継続躍進を行った。2個小隊が射撃し、2個小隊が前進する。是を繰り返してドイツ陸軍部隊を攻撃し、第2線を目指した。機関銃部隊が掩護したので更に効果的だった。抵抗の強いドイツ陸軍部隊は避け、抵抗の弱いドイツ陸軍部隊を攻撃して撃破した。ドイツ陸軍兵士が降伏した場合は手榴弾と小銃を取り上げて、それらを手榴弾で爆破した。捕虜にはその後、捕虜には伏せておき、後続部隊に降伏するように言ってから進撃した。ボックス陣地を攻撃していたドイツ陸軍部隊は複数の日本陸軍小隊が迫ってきたので動揺した。


 第4線から出撃した日本陸軍部隊は第3線のストークス臼砲部隊、山砲部隊、狙撃班も併せて進撃する。先発の部隊が取りこぼしたドイツ陸軍部隊を掃討していく。山砲部隊やストークス臼砲部隊が砲撃を浴びせる。榴弾の弾幕がドイツ陸軍部隊を包む。その間に、日本陸軍部隊が半包囲の態勢をとる。そして、機関銃分隊に支援された歩兵小隊2個が別々の方向からドイツ陸軍部隊を攻撃する。状況に応じて、更に残りの歩兵小隊を投入する。狙撃班も狙撃を行い、的確にドイツ陸軍部隊の行動を封じた。山砲部隊やストークス臼砲部隊はドイツ陸軍の機関銃手などを狙って砲撃を続ける。ドイツ陸軍部隊が逃げるか降伏すれば捕虜の後送を始める。そして、先発の部隊を追う。日本陸軍部隊は的確な砲撃の支援と分隊火力の優位(軽機関銃2艇)の優位でドイツ陸軍部隊を退けて、ボックスの後方に回ったドイツ陸軍部隊を駆逐した。更に、第2線の塹壕を占拠していたドイツ陸軍部隊を駆逐する部隊もあった。


 ただし、逆襲は柔軟に行われた。ドイツ陸軍部隊の抵抗が大きいと後退し、抵抗が小さいと砲撃の支援を受けながら攻撃した。観測機部隊はボックス陣地のストークス臼砲部隊が発砲した発煙弾を目標にして榴弾砲部隊の砲撃を誘導した。ドイツ陸軍部隊は日本陸軍歩兵部隊の柔軟な逆襲と激烈な砲撃で大損害を被っていた。


 第2次世界大戦のドイツ陸軍なら戦車、突撃砲、88mm対空砲でボックス陣地を直接照準で破壊できるが、当時、その類の兵器は存在しなかった。このため、ボックス陣地は無線で砲撃を的確に誘導できた。ドイツ陸軍部隊の第3派はボックス陣地を制圧しようとしたが、砲撃で大損害を被った。日本陸軍の歩兵分隊や重機関銃部隊の激烈な銃撃もドイツ陸軍部隊を寄せ付けなかった。日本陸軍の歩兵部隊を追撃しようとして多くのドイツ陸軍部隊がボックス陣地に群がる結果となったことも被害を大きくした。


 こうした状況になると、重機関銃部隊が威力を増した。ドイツ陸軍部隊も分隊が互いに距離を空けながら攻撃するのが一般的になっていた。しかし、日本陸軍の歩兵分隊が火力で勝っていた。撃ち負けない様に数を頼むようになり、自然と集結してしまった。その状態で追撃してボックス陣地に接近したので、迫撃砲の弾幕に加えて重機関銃の猛烈な銃撃で大損害を被った。ドイツ陸軍部隊の攻撃は失敗していた。ドイツ第6軍司令部が状況を把握した時にはドイツ陸軍部隊は大損害を被っていた。最前線の4個師団の防衛線を突破した部隊もあったが(日本陸軍部隊が圧力を緩和するため防衛線を空けた)、後方の3個師団の防衛線に突き当たった後に反撃されて撃退された。


 ドイツ第6軍司令部は信号弾と伝令で戦線を整理しようとしたが、日本陸軍の砲撃や煙幕で連絡が遅れた。正午になると、日本陸軍部隊は攻勢転移に移った。イタリア陸軍の3個師団と日本陸軍の第16師団がドイツ陸軍部隊を駆逐していった。他の日本陸軍師団も本格的な反撃を開始し、ドイツ陸軍第6軍は退却した。撤退する間も航空観測による砲撃と空爆でドイツ陸軍部隊は損害を被った。こうして、ドイツ陸軍の第2次攻勢の1日目は大失敗に終わった。ドイツ陸軍の損害は戦死が約2万2千、負傷が約4万、捕虜が約1万5千に達した。対して、日本陸軍の損害は戦死が約8千、負傷が約2万7千だった。


 ドイツ陸軍参謀本部は攻勢中止も検討した。第2次攻勢は陽動作戦なのに、損害が大きすぎた。しかし、イギリス陸軍部隊の南部への移動を妨害することが大事だとされ、攻勢は継続された。目標を変更し、イギリス第2軍の第25師団と第19師団の線を目標とした。これらの2個師団の防衛線を突破して、ケンメル高地を守備するポルトガル陸軍2個師団を駆逐する予定だった。


 ケンメル高地はイープル一帯を見渡せる要地であり、これまでも攻防戦の焦点になっていた。ここを攻略すれば、周囲の連合軍に攻撃することが容易になる。イギリス陸軍は防戦に手一杯になり、南部へ兵力を集中できなくなる。こうして、ケンメル高地を目標にして再度の攻撃が4月10日に行われた。


 当初、イギリス陸軍の第19師団と第25師団はドイツ陸軍部隊を撃退していた。基本戦術はフランス陸軍の攻勢防御だった。ただし、イギリス陸軍のプルーマー将軍は日本陸軍の戦術を参考にして、第1線の部隊は警戒部隊としてドイツ陸軍の攻勢が始まったら独自の判断で退却させること、航空観測による砲撃、ダミー陣地やダミー砲兵隊の配置といった要素を加えた。ドイツ陸軍の攻勢は前日と同じ展開になった。


 第1線の塹壕は容易に制圧して第2線に迫った。しかし、第2線から約450mに迫ると、イギリス陸軍の激烈な銃撃と砲撃が始まった。ドイツ陸軍部隊は砲撃と銃撃で次々に倒れ、後方に浸透した突撃隊も砲撃で支援された予備隊による迎撃を受けた。ドイツ陸軍部隊の圧力が強まると、イギリス陸軍部隊は第3線の斜交壕まで退却した。ドイツ陸軍部隊はそこで撃退された。他の戦線でもドイツ陸軍部隊が陽動攻撃を行っていた。しかし、前日の反省もあって深追いしなかった。約3時間後にプルーマーは第19師団と第25師団に撤退を命令した。


 第25師団は南の日本陸軍第6軍団の戦区に退却し、第19師団は北に退却して第2軍の他の部隊の戦区に逃れた。ドイツ陸軍部隊はイギリス陸軍部隊が退却したのでケンメル高地に突撃した。弱体なポルトガル陸軍2個師団しか居ない筈だった。しかし、ポルトガル陸軍2個師団も担当範囲が狭いので砲撃支援も得て持ちこたえた。さらに、ケンメル高地の反斜面に布陣していたフランス陸軍の3個師団がドイツ陸軍部隊を攻撃し始めた。ドイツ陸軍部隊の勢いは急速に衰え始めた。北と南に突破口を広げようとしたドイツ陸軍部隊も攻勢を挫かれていた。北にはイギリス陸軍部隊が、南では日伊陸軍部隊が攻勢を撃退していた。


 ケンメル高地にドイツ陸軍が到達してから約1時間後に連合軍の攻勢転移が始まった。砲兵による弾幕射撃が開始され、同時に待機していた日英軍の航空隊が次々に襲来してロケット弾を撃ち込んだ。北からは第19師団を始めとしたイギリス陸軍4個師団が、南からはイギリス第25師団、日本陸軍の第16師団と第25師団が戦車部隊の支援を受けながら前進してドイツ陸軍部隊の分断を図った。ケンメル高地のフランス陸軍3個師団も攻勢に転じた。


 ドイツ陸軍部隊は包囲攻撃を受ける形になり、珍しいことだったが潰走した。ドイツ第6軍司令部は必死になって予備隊を投入し、突入した部隊の救援を図った。これにより、突入した部隊の全滅は免れたが、日英陸軍砲兵隊の砲撃と日英伊陸軍の歩兵部隊による激烈な射撃に突っ込む形になった。ドイツ陸軍部隊は大損害を被り、ドイツ第6軍司令部は早々に攻勢を中止した。


 ドイツ陸軍の損害は戦死が約1万5千、捕虜が約2万、負傷が約4万。対して、連合軍の損害は戦死が約8千、負傷が約3万1千。前日の反省もあって、早々に攻勢を打ち切ったのでドイツ陸軍は損害を軽減できた。それでも損害が多すぎた。ドイツ第6軍の攻勢は24日まで続くが、連合軍部隊を拘束するための陽動攻撃に終始して本格的な攻勢は中止された。ドイツ陸軍の作戦は失敗した。イギリス陸軍の兵力移動を妨げることはできず、逆に大損害を被った。損害も連合軍の方が格段に少なく、その後の反撃も容易になった。


 ドイツ陸軍の攻撃が失敗した根本的な原因は作戦にあった。9日の攻勢で、ドイツ陸軍はアルメンティエール~ジバンシーに22個師団を次々に突入させてしまった。幾ら、ドイツ陸軍の突撃隊が浸透戦術をとり、他のドイツ陸軍部隊も分隊で戦闘できるといっても兵力を投入し過ぎた。これだけの規模の歩兵部隊が突入させると、自然と密集してしまった。日本陸軍部隊が浸透戦術に動揺すれば問題はなかったのだが、日本陸軍は殆ど動揺しなかった。それどころか、効果的に迎撃してきたのでドイツ陸軍部隊は大損害を被り、衝撃を受けた。


 日本陸軍部隊がドイツ陸軍部隊の攻勢に対応できたのは前述してきたように戦術と技術が優れていたことによるが、将兵の信頼感が強いのも大きかった。日本陸軍部隊は下士官以上が志願兵で固められていたこともあって戦前から練度が高かったが、無謀な攻勢を避けたおかげで全体の練度が向上していた。これにより、新戦術への対応も速かった。それが戦果の拡大と被害の軽減にも寄与したので将兵の信頼感が増しており、高い戦意に繋がっていた。こうした事実は他国の陸軍の将官達の多くには余り認識されていなかった。当時は攻勢を躊躇うことは戦意が低い証拠だと見做されていたからだ。それだけに、ドイツ陸軍の将官達が受けた衝撃は大きかった。


 そのため、10日はイギリス陸軍師団に標的を変更した。しかし、プルーマー将軍がフランス陸軍や日本陸軍の戦術を柔軟に取り入れて容易に迎撃した。さらに、わざと後退してケンメル高地を攻めさせてドイツ陸軍部隊を包囲攻撃した。ただし、ドイツ第6軍は前日の反省からイギリス陸軍の第19師団と第25師団の戦区に突入させる兵力を8個師団に限定した。残りの兵力は均等に陽動攻撃を行った。


 しかし、航空偵察で露見していた。ドイツ陸軍もカモフラージュには力を入れていたが、8個師団も集めていれば隠すのは至難の業だった。結局、ルーデンドルフによる一点突破戦術が歩兵部隊に向かない戦術だった。歩兵部隊は浸透戦術で突破口を空けても徒歩でしか進めない。このため、相手が後方に兵力を多めにして布陣していた場合、容易に阻止されてしまう。側面に進出しても敵軍が予備兵力を用意していた場合、容易に阻止される。ましてや、今回は戦果拡大のために大兵力を集結させていたから容易に察知された。


 それでも連合軍部隊が浸透戦術に動揺してくれれば良かったが、英日伊の陸軍部隊は全く動揺しなかった。そして、プルーマーの指示でイギリス陸軍の2個師団が進路を空けると一斉に突入してケンメル高地に殺到した。そして、容易に包囲され、攻撃された。ドイツ第6軍司令部の素早い対応で被害は軽減されたが、それでも大損害だった。ドイツ陸軍参謀本部も衝撃を受けた。ドイツ陸軍の攻勢が容易に撃退され、連合軍の損害は格段に少なかったからだ。英仏陸軍の上層部も日伊陸軍に対する評価を改めた。日伊陸軍の評価は一変した。


 特に、日本陸軍の評価は急速に高まった。日本帝国は陸軍派遣に関して様々な制約を設けていたので、日本陸軍部隊が指揮下に入ってもイギリス陸軍の指揮に従うか疑問視されていた。しかし、戦線に加わると、神尾中将以下の第6軍団はイギリス第2軍のプルーマー将軍の指揮に忠実だった。陸軍航空隊も含めてイギリス第2軍の指揮でイギリス陸軍部隊の地上部隊や航空隊と連携してドイツ第6軍の侵攻を防ぐのに多大な貢献を果たした。


 一方、神尾中将以下の日本陸軍派遣部隊もプルーマー将軍の優れた指揮に安心して、イギリス陸軍への信頼を回復した。日本帝国の本国でもイギリス陸軍に対する信頼が回復した。こうして、日英陸軍で互いに信頼が回復したことは日英両国の信頼を大いに深める結果となった。イギリス国民に日本陸軍が頼りになる存在だと認識されたことは政治的に重要であり、講和会議などでの局面で重大な影響を与えることになる。


 第2次攻勢が失敗に終わった後、ドイツ陸軍参謀本部では攻勢を中止するべきだとの意見が強まった。陽動作戦であるにも関わらず、損害が大きすぎた。さらに、北部にいたフランス陸軍の3個師団やイギリス陸軍の4個師団が増援として南部のフランス陸軍の戦線に移動したからだ。その後もイギリス陸軍は第9軍団を増援部隊として送った。第2次攻勢の作戦目的が達成できなかったことは明らかだった。


 しかし、ルーデンドルフは攻勢を発動させた。アメリカ陸軍が大挙してフランスに来援するのが確実だったのでルーデンドルフは攻勢しか考えなかった。防衛に転じるべきだとの意見もあったが、自己の威信が懸かっているルーデンドルフは攻勢を発動させた。目標はパリだった。


 5月27日から始まった攻勢は、当初は順調だった。

 5月30日、ドイツ第1軍と第7軍の部隊がマルヌ川に達した。しかし、これはフランス陸軍のフォッシュ大将による意図的な作戦だった。ドイツ陸軍部隊が突出部を形成してくれることを狙っていた。

 6月2日、ドイツ陸軍部隊は遂にマルヌ川を渡った。しかし、アメリカ陸軍部隊が出現してドイツ陸軍部隊の進撃にブレーキを掛けた。さらに、イギリス陸軍の4個師団も戦線に到着した。仏英米の3国陸軍は共同して反撃に出た。ドイツ陸軍の攻勢は忽ち行き詰った。こうして、ドイツ陸軍の第3次攻勢も失敗に終わった。


 この時点でドイツ陸軍は守備体制に転じるとも予測されたが、6月8日にドイツ陸軍の第4次攻勢が発動された。第1次攻勢と第3次攻勢で得た地域を繋げることを目的とした作戦だった。しかし、仏英米の陸軍は粘り強く戦い、11日に連合軍は逆襲に転じた。12日、ドイツ陸軍は攻勢を中止した。フランス第10軍を中心とした反撃でドイツ陸軍部隊は逆に駆逐された。


 ドイツ陸軍の攻勢が続く中でスペイン風邪が発生した。アメリカ陸軍が約6万2千人、日本陸軍が約1万も死亡した。日米伊を除く参戦国の陸軍は損害が敵に知られるのを怖れて被害全体を調査しなかった。このため、全容は未だに判然としない。日本陸軍の犠牲者が少なかったのは衛生体制が優れていたことによる。全員にマスクが即座に配布されたこと、アルコールで手を消毒する体制が整えられたことなどが大きい。元々、日本軍は志願兵を中軸にした職業軍的な性格の強い軍隊だったので衛生体制も充実していた。更に無用な攻勢を行わず、適度な休息を取っていたので体力的にも精神的にも抵抗力が損なわれていなかった。こうした傾向は日本帝国の援助で強化されていたイタリア陸軍でも同様だった。同陸軍のスペイン風邪による死者は約2万2千人に留まった。


 こうした状況で日本帝国とイタリアはオーストリアと和平交渉を非公式に開始していた。両国は中央同盟諸国の各国との単独講和を禁ずるロンドン協約に署名していなかった。代わりに、ドイツとの単独講和を禁ずる協定を別に英仏と結んでいた。よって、オーストリアと両国が交渉しても問題はなかったが、非公式に通告されたイギリスとフランスは不愉快だった。なお、日伊の両国ともアメリカには通告もしなかった。


 既に、日伊両国とも戦後を考えていた。イタリアはアメリカによる民族自決の原則がオーストリア帝国に適用されると、未回収のイタリア(南ティロル地方、トリエステ、トレンティーノ地方、イストリア半島、フィーウーメなどの旧ヴェネツイア共和国領)を併合することができなくなる。戦争目的を達成できず、何のために参戦したのか分からなくなってしまう。このため、日本帝国の示唆もあり、オーストリアとの講和に傾いていた。


 講和の条件は、オーストリアが領有している未回収のイタリアを全て割譲することだった。賠償金も求めていたが、軍艦や鉱山資源などの現物による賠償で良いとした。イタリアは不満だったが、日本帝国が説得した。イタリアとしても未回収のイタリアが手に入らないよりは益しだし、冷静に算定するとオーストリアが現金でイタリアに賠償金を払うのは不可能だった。このため、渋々、イタリアは同意した。日本帝国がオーストリアとイタリアの講和に熱心だったわけは、ウィルソンによる民族自決の原則に打撃を加えるためだった。イタリアが未回収のイタリアを併合すれば、ウィルソンの民族自決の原則は実現されない。


 また、アメリカを試す意味もあった。14か条の提案はドイツなど中央同盟諸国への和平条件の提示だからオーストリアが講和してしまえば適用されない筈だった。もし、アメリカが適用を求めれば14か条は和平条件ではないことになる。また、イタリアが未回収のイタリアを併合してから民族自決の原則を適用しようとすれば、それこそ和平条件ではないことになる。イタリアは連合国だからだ。このように、終戦前から既に連合国内の確執は始まっていた。こうした矛盾は次第に大きくなり、パリ講和会議で爆発することになる。


 政治の動きを知る由もない前線では戦闘が続いていた。7月14日、ドイツ陸軍の第5次攻勢が発動された。しかし、フランス陸軍の攻勢防御戦術に弾き返された。是までの攻勢と同じで地域を占領しても連合軍に反撃されて撃退されるの繰り返しだった。7月17日からフランス第10軍とアメリカ軍2個師団の反撃が始まった。21日、ドイツ陸軍部隊は撤退し、又も攻勢は失敗に終わった。連合軍はドイツ陸軍の攻撃を完全に撃退し、総反攻に転じることになる。


 7月28日、オーストリアは連合国への降伏を宣言した。日本帝国とイタリアは直ちに降伏を受理した。講和条約は、ヴェネツィアで調印された。条件は、非公式協議でイタリアが要求した通りになった。講和条約の概要は次の通り。第一にイタリアは、南ティロル地方、トレンティーノ地方、イストリア半島、フィーウーメ、トリエステを獲得する。

 第二に、賠償金は現物で払われること。なお、日本帝国は潜水艦とダコタ社などの兵器技術のライセンス生産権を獲得する。

 第三に、国内のドイツ陸軍部隊の即時撤退。ドイツ陸軍参謀本部はオーストリアを攻撃することも検討したが、敵国が増えても得にならないと判断して撤退した。オーストリアも連合軍をドイツ国内に侵入させないことを約束した。日本帝国とイタリアは同意した。

 第四に、イタリア陸軍の獲得した地域の即時占領。

 第五に、占領地での1国2制度。オーストリアとイタリアは日本帝国の仲介で占領した地域に1国2制度を適用することで合意した。10年間の法制度維持とイタリア人の土地取得の禁止が主な内容だった。イタリア陸軍は占領地に入ったが、現地住民を尊重して丁寧に振る舞った。警察業務は引き続き、オーストリア警察が行った。他の行政機関も同様だった。

 第六に、日本帝国による財政援助と食糧援助。この合意により、オーストリア政府はイタリア陸軍に積極的に協力した。日本帝国からの財政援助が約束され、食糧援助が直ちに実行されたからだった。


 以上のような概要の和平条約で、他の連合国との和平仲介も日伊両国の政府が行った。イギリスは渋々ながら同意した。民族自決の原則が波及するのを怖れたのと(イギリスも多くの植民地を保有)、オーストリアが脱落することによるドイツ国民への心理的な衝撃を考慮した結果だった。見返りとして、イタリアは新たに17個歩兵師団をフランス戦線に投入することを確約した。第1陣として7個歩兵師団がフランスに送られた。


 オーストリア降伏と、日伊両国がオーストリアに与えた保障はアメリカ政府(特にウィルソン)を激怒させた。ウィルソンはチェコの指導者に承認を与えていたからだ。それが日伊両国によって平然と無視されたからだ。直ちに、アメリカ政府は日伊両国に抗議したが無視された。日本帝国はアメリカ政府の抗議を受けてウィルソン政権の真意は和平条件ではないと断定した。日本帝国は自国の思想を世界に広めるウィルソン政権をボルシェヴキ(共産主義者)と同類だと認識した。首相は「ウィルソンは青いボルシェヴキ(自由に憧れつつも本質的に共産主義者との意味)だ」と述べ、対決の決意を固めた。


 これが日本帝国によるウィルソン政権への政治的な攻撃の始まりだった。日本帝国はアメリカを敵に回したくはなかったが、台湾やカムチャッカ半島などの北方地域を分離させる主義を国際的な潮流にしようとする国家と仲良くするほど、御人好しではなかった。ただし、日本帝国政府は次の点も理解していた。


 ウィルソン政権は民族自決などの理想主義(日本帝国から言わせれば共産主義者と同種類の)に熱心だが、他のアメリカ国民にとっては異なる。

 アメリカ国民はツィンメルマンノート事件や無制限潜水艦作戦でドイツに脅威を感じたからこそ、戦争を支持している。ウィルソンの理想主義に共感していたからではない。ただ、聞いている内は賛成するが、アメリカに具体的な負担が求められるなら話は別になる。

 ウィルソンの構想では戦争が避けられないし、アメリカも民族自決の余波を受けて国益上、不利になることが多くなる。こうしたことを広くアメリカ国民が認識すれば、ウィルソンの構想は拒否される公算が大きい。こうして、枢密院と貴族院の承認も得てウィルソン政権への秘密工作を対外特務庁が主体となって行うことを決定した。


 ただし、内閣、枢密院、貴族院は対外特務庁などに次の事を厳命した。「敵はウィルソン政権であり、アメリカ合衆国ではない。アメリカ合衆国が共産主義と闘う決意を固めて具体的な行動を開始すれば、帝国を縮小する結果となっても構わない」と井上首相は指示し、対外特務庁などへの命令書にも記載した。対外特務庁、国防省、軍情報局、陸海軍参謀本部に、この事が徹底的に指示された。


 政治的な対立が激化している中、連合軍の総反攻が開始された。8月8日、連合軍の大攻勢が始まった。是までと違い、準備砲撃を4分~十数分に留め、戦車部隊を前面に押し出しての攻勢だった。是までと違い、連合軍の進撃は迅速であり、砲撃も的確だった。的確な砲撃は各国陸軍とも日本陸軍の航空観測の技術を導入した結果だった。しかし、日本帝国陸海軍の将官達は複雑な気分だった。将来、敵国となる可能性が高いアメリカ陸軍が高い戦闘能力を示していたからだ。


 この頃、日本陸海軍派遣部隊の間でもウィルソンの14か条の提案が話題になっていた。民族自決の原則が日本帝国の解体を意味することは日本陸軍の将兵に広く認識されていた。このため、アメリカに対する反感が広がり、神尾中将などの派遣軍司令部は対応に苦慮した。元々、朝鮮の亡命者を受け入れたことなどでアメリカに対する不信感があった。しかし、日本陸海軍の将兵はアメリカ陸海軍と衝突もせず、任務を遂行していた。


 しかし、英仏は困惑していた。連合国の中で有力な二か国の日本帝国とアメリカが急速に対立し始めたからだ。両国が激突することはドイツが有利になることを意味するので深刻だった。特に、ジレンマを抱えていたのがイギリスだった。本国の安全のためにはアメリカと同盟関係を構築した方が良い。しかし、当時のアメリカはイギリスとの同盟に応じるか不確実だった。対して、日本帝国は一貫した同盟国であり、日本帝国を敵に回すことはアジアやインドなどのイギリス領を危険に晒すことを意味する。経済的な関係も深い。両国が対立することは避けさせたかったが、ウィルソンの民族自決の原則を巡る対立は根本的な方針の違いだった。イギリス政府は日本帝国とアメリカの調停に苦慮することになる。


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