イタリア戦線と海上での日本帝国陸海軍の活躍
イタリアは1915年5月24日に参戦した。イタリア政府との事前協議で日本海軍の第1艦隊の進出は決まっていた。日本海軍第1艦隊第1任務群はスエズ運河を経由して地中海に入っていたが、5月27日ターラント港に入港してイタリア海軍の指揮下に入った。以後、続々と増援の海軍部隊が送り込まれた。一方、日本陸軍の動きは慎重だった。
英仏両国は武器弾薬などを供給することも申し出たが、日本帝国は断った。英仏両国も激戦中であり、日本帝国は補給に不安を感じたからだ。このため、イタリアでの兵器増産体制の確立、日本本土からの輸送による武器弾薬や航空機の交換部品などの蓄積を待つことにした。このため、日本帝国は山南国防副大臣をイタリアに派遣している。
イタリア参戦の翌日、山南国防副大臣はフランスからイタリアに入った。5月27日、山南国防副大臣はイタリアのアントニオ・サランドラ首相と会見した。山南「サランドラ首相閣下、イタリア王国は、1916年まで防御に徹するべきです。イタリア王国は自国の利益のために参戦した筈です。しかも、貴国と英仏両国の間には開戦前、同盟や協商条約は有りませんでした。英仏両国の都合は二の次で良く、自国を優先すべきです」。
サランドラ「山南国防副大臣、尤もな御意見だ。しかし、英仏と条約を結び参戦した以上は両国と協調しないわけにはいかない、領土獲得のためでもあるが、戦後の事も考えると尚更だ。オーストリアやドイツがイタリアに復讐戦を挑んでくるのは確実だ」。
山南「首相閣下、国際関係においては協力も不可欠です。時には同盟国のために、自国の兵士を犠牲にすることを覚悟しなければなりません。しかし、それは同盟国が自国に対して兵士の犠牲に見合った利益をくれた場合だけです。過去にイギリスやフランスがイタリアのために、命懸けで支援してくれたことがありますか?フランスは途中でイタリアを見捨てたではありませんか。イギリスが支援してくれたことがあったのでしょうか?よって、イタリアも自国本位で事を進めてよいのです。イギリスやフランスの具体的な支援がない状況で行動してはなりません。日本帝国陸軍派遣部隊も準備不足です。貴国が無謀な攻勢に出るなら日本帝国は派遣部隊の撤退を決断せざるを得ません」。
サランドラ「では、貴国の派遣部隊の態勢が整うのは何時なのか?英仏両国の意向も考慮すると、早い方が良い」。
山南「首相閣下、落ち着くべきです。現在のフランス戦線の戦局を見れば、性急な攻勢が破滅を齎すのは明白です。1916年の9月になるまでは、日本帝国陸軍の態勢は整いません。また、貴国の陸軍が攻勢を発動するのは無謀です。貴国の陸軍はタンネベルクのロシア陸軍のように壊滅するでしょう。その場合、イタリア王国は如何なるのでしょうか?普墺戦争時に、ビスマルクが貴国を見捨てたことを御忘れですか?同盟は条約だけでは紙切れに過ぎません。具体的な支援があって意味があります。イギリスやフランスは何もしていません。こうした状況で、無理な攻勢に出ることは自国の兵士達への裏切りになります」。
サランドラ「では、イギリスが強硬に要請してきた場合は如何するのか?貴国とイギリスは長年の同盟国だ。イギリスが強硬に要請してきた場合、貴国もイギリスの意向を優先するしかないだろう」。
山南「首相閣下、日本帝国は戦時の同盟国を粗略に扱うほど愚かではありません。イタリア王国と共同戦線を組む以上は、同盟国として全力を挙げて貴国を支援します。しかし、それには貴国の思慮深き姿勢も不可欠です。無謀な攻勢を発動してはなりません。自国の兵士を大切にしない国を信頼する同盟国がいるのでしょうか?自国の兵士達、即ち、自国民を大事にしない国が他人の集団である同盟国を大切にできる筈がありません。こうした事は、偉大なるイタリア王国は熟知されている筈です。日本帝国も共同参戦し、支援することを御忘れなく。どうか、冷静に御判断ください」。
サランドラ「安心した。確かに、貴国の意見は正しい。では、軍事的な観点から質問したい。陸軍による攻勢の発動を1916年まで遅らせて良いのか?オーストリアの準備も整うし、ロシアが戦線から脱落すればドイツ陸軍の増援部隊もイタリアに集中するのは確実だ」。
山南「首相閣下、攻勢の延期を決めたのは御賢明です。さて、軍事的な側面からですが、御懸念は無用です。フランス戦線の戦況を見ても、防御側が有利なことは明白です。現在の軍事技術では、騎兵部隊が無力化されています。装甲車は不整地の走行能力が限られています。つまり、歩兵と砲兵だけが有効です。是では攻勢側は平手押しでしか戦線を押し上げられません。対して、防御側は鉄道で迅速に兵力を移動できます。タンネベルク戦でロシア軍が壊滅したことからも防御側の有利は明白です。貴国との条約に従って援助物資が到着しつつあります。航空機、航空機の交換部品、自動車、砲弾、鉄鋼やゴムなどの戦略物資などです。イタリア陸軍は待つほど、有利です。1916年9月まで待つべきです。それに、イタリア陸軍が大損害を被れば貴国は不利になります。現在の戦況で英仏の軍がベルリンを占領することが可能でしょうか?講和時に、貴国の陸軍が攻勢不能では貴国の要求が実現することはありません」。
サランドラ「日本帝国の見解は卓見だ。貴国が敵国でなくて良かった。攻勢の発動は1916年9月まで待つ方向で検討する。イタリア王国も貴国に配慮を欠かさないようにする」。
その後、サランドラ首相と山南国防副大臣は援助の詳細などについて協議を重ねた。イタリア政府の中で首相などの主要閣僚は山南国防副大臣の勧告に賛同した。イタリアは領土目当てで連合国側に参戦しただけで開戦前は何の条約もなかったからだ。砲弾、硝酸やセルローズなどの戦略物資(石炭すら採掘体制の不備で不足していた)も不足していた。このため、日本帝国の援助が到着し、日本陸軍の態勢が整うのを待つ方がイタリアにとって有利なのは明白だった。イタリアの内閣は、当面は海軍作戦を主とし、陸軍は防御態勢をとるとの方針に傾いていた。
しかし、イタリア陸軍参謀総長カドルナは英仏陸軍への見栄、攻勢至上主義の信奉、英仏駐在武官などによる御世辞や圧力などから攻勢作戦を発動してしまった。イタリアの内閣はイギリスやフランスの圧力もあってカドルナの方針を否定できなかった。このため、イタリア陸軍単独による攻勢作戦が始まってしまい、内閣の指示を受けた山南国防副大臣は日本陸軍の作戦参加を拒絶した。
日本帝国政府は、日本国防省がイタリア海軍省と合意していた日本海軍の作戦協定と類した日本陸軍の作戦協定を締結しようとしていたが調印を見送った。このため、第6軍団を中心とする日本陸軍の派遣部隊は1916年まで戦略予備として待機することになる。日本陸軍派遣部隊は飛行場の整備、第1軍団の戦訓を基にした航空隊と地上部隊の共同演習などを行って1916年9月に向けて準備を整えていった。
カドルナは怒ったが、イタリア政府は日本帝国陸軍の姿勢を容認した。英仏の圧力を笠に着て政府を無視しがちなカドルナにも不快だったし、日本海軍はイタリア海軍の指揮下で重要な貢献をしていた。そして、日本帝国はイタリアに多大な軍事援助と財政援助を実行しつつあった。この状況で、日本帝国との関係を悪化させるわけにはいかなかった。更に日本帝国の示した方針の方がイタリアにとって得だった。しかし、英仏の圧力を完全に拒否することもできなかった。このため、カドルナは陸軍参謀総長として攻勢作戦を発動し続け、イタリア陸軍は消耗戦に嵌り込んでいく。一方、日本陸軍派遣部隊は1916年に向けて万全の態勢を整えていく。
日本陸軍がイタリア戦線に到着しつある頃、フランス戦線は完全に膠着状態となっていた。1914年のマルヌ戦でシュリーフェンプランは失敗した。ドイツ陸軍の攻勢は挫折し、フランス戦線は塹壕線に陥った。一方で、ドイツ陸軍はタンネンベルク戦でロシア陸軍に大打撃を与えた。以後、ドイツ軍は東部戦線で有利に戦局を進めていく。マルヌの責任を取らされて小モルトケは解任され、ファルケンファインが陸軍参謀総長に任命された。その後、ファルケンファインはイープルで攻勢を発動するが撃退される。英仏陸軍も攻勢を発動するが、こちらも撃退された。その後、トルコがドイツ側で参戦する。そして、イギリスはガリポリ上陸作戦を発動する。日本陸海軍も参加を求められたが、日本帝国は拒否した。
イギリスの駐日大使であるウィリアム・グリーンと大谷国防大臣は名古屋城内の首相官邸で会談した。 グリーン「大谷国防大臣閣下、大英帝国と日本帝国は永年の同盟国です。貴国の事情も理解していますが、トルコはイタリアの近くです。我が国の国民感情を考慮しても戦術上も、貴国が作戦に参加しないのは不合理です」。
大谷「グリーン大使、失礼ですが認識不足ではないでしょうか?日本帝国陸海軍は広範囲の戦線に展開しており、戦力に余裕はありません。そして、同盟関係とはギブ・アンド・テイクが基本です。日本帝国は圧倒的に、大英帝国に対してギブを行っています。日本帝国はベルギーに対して何の義務もありませでした。そして、以前から指摘していますが、貴国がベルギーを救援するためにドイツに対して宣戦布告した行為は日英同盟が適用されるケースではありません。しかし、日本帝国政府は貴国の存亡が懸かっていることに鑑みて議会を説得して参戦しました。貴国が日本帝国と同じ立場に置かれた場合の困難を想像してみてください」。
グリーン「それは承知しています。確かに、日本帝国の貢献は素晴らしい。貴国の陸海軍が中国大陸に対応しなければならないことも承知しています。しかし、我が国もガリポリに貴国の陸海軍を釘付けにする気は有りません。作戦期間については今後の協議で検討します。しかし、我が国の陸海軍も余裕がないのです。貴国がガリポリ作戦に不参加では世論が納得しません」。
大谷「大使、我が国の世論も作戦参加には納得しません。日本帝国陸海軍は既に多大な貢献をしました。戦争が終わるまで、日本帝国陸海軍は連合国の側で戦い続けます。これを議会に納得させるには、特別法で範囲を限定する必要がありました。
議会も内閣も納得できないのは、日英同盟の対象からアメリカ合衆国が貴国の要請で除外されていることです。日英同盟は、元から先制攻撃時は義務なしです。それにも関わらず、貴国は日本帝国がアメリカ合衆国に先制攻撃を仕掛けると決めつけてアメリカ合衆国を対象から除外しました。アメリカ合衆国が先制攻撃を仕掛ける気がないと断言する根拠は何でしょうか?貴国に対して日本帝国が同じことを認めさせたら、貴国の内閣は日本帝国のために参戦すると容易く議会を説得できるのでしょうか?
更に大英帝国は、アメリカ合衆国が日本帝国を先制攻撃しても同盟を発動しません。現在の日英同盟は、それが現実です。また、戦争以外にも中国などに武器供与や傭兵部隊の派遣で日本帝国を攻撃させることなどができます。この事は、日本帝国で広く知られています。よって、同盟といえども貴国と同じく制限を課します。貴国が自国の利益を優先するのは正義です。しかし、同盟国に対して貢献をさせるには、貢献に見合った対価が必要です」。
グリーン「国防大臣閣下の意見には頷ける部分も多いです。しかし、今回の作戦は戦局に大きな影響を及ぼします。日本帝国が日英同盟の制限を撤廃する条件は何でしょうか?」。
大谷「大使、制限解除の条件は聞くまでもないでしょう。日英同盟の対象にアメリカ合衆国を含むことです。それが実現できれば、制限は解除されます。ガリポリの作戦にも当然、日本帝国陸海軍は参加します」。
グリーン「我が国とアメリカ合衆国の関係は特別です。其の要求は拒否するしかありません。勿論、我が国と日本帝国との関係も特別です。本国に指示を仰ぎ、改めて提案を行います。失礼いたします」。
大谷国防大臣に見送られて、グリーン大使はイギリス大使館に帰っていった。その後、ロンドンと名古屋で協議が重ねられた。結局、イギリスは従来通りの貢献で構わないと回答するしかなかった。
日本帝国は前述してきた貢献の他にも連合国の各国の戦時国債を購入して各国の戦費を賄っていた。また、イタリアには別に多額の財政援助をしていた。他に、毒ガス兵器も連合国に供給していた。毒ガス兵器はドイツがイープル戦から本格使用し始めた毒ガスの報復として供給され始めた。日本帝国は開戦前から毒ガス兵器の開発に熱心であり(中国やアメリカが使用した場合の報復用)、一時はイギリス軍とフランス軍の使用する毒ガスの約9割を日本帝国が供給していた。こうした貢献を無視できるわけもなかった。このため、イギリスは日本海軍と日本陸軍航空隊の派遣範囲を拡大することを求めた。
日本帝国はイギリスの要請を了承したが、1916年まで待つことを要求した。日本海軍は太平洋、オセアニア、インド洋を担当し、地中海でもエジプトからイタリアまでの海域に戦力を集中し始めていた。戦力的に、他の海域に振り合向けるのは無理があった。更にオーストリア海軍も其れなりの戦力を保有していた。イギリスは了承したが、日本海軍が保有する金剛級戦艦4隻の派遣を強く要請した。
協議に臨んでいた日本帝国の国防省の代表団(陸軍代表と海軍代表も含む)はオーストリア海軍の撃滅を優先する方が効率的だと判断していた。オーストリア海軍(弱くはないがドイツ海軍には劣る)を日本海軍とイタリア海軍で撃滅してしまえば、日本海軍とイタリア海軍は戦力を他方面に振り向けることができるからだ。しかし、井上内閣は戦後の事を考えてイギリス政府の要請を承諾することにした。しかし、オトラント海峡の封鎖線が安定するまでとの条件を付けた。日本陸軍に関してはイタリア戦線に集中するという従来の方針がイギリスにも了承された。
一連の戦闘で、日本帝国はイギリスとフランスに対する信頼を失った。イギリス陸軍とフランス陸軍が自軍の兵士達を大量に戦死させるのに躊躇しなかったからだ。大谷国防大臣は「自国民である兵士達を使い捨てにするイギリス政府が同盟国を大事にすることはありえない」と述べた。日本帝国の内閣、枢密院、国防省、陸海軍参謀本部、対外特務庁はイギリス政府とフランス政府の態度に驚愕した。この時期の国防省や対外特務庁の報告書の見出しに「イギリスとフランスは戦争に勝ったとしても国家としては没落する」、「最良の兵士達を戦死させる国家に未来はない」などのタイトルが並んでいた。
軍情報局と対外特務庁は共に、イギリスとフランスが没落するのは確実だと結論付けていた。国家に貢献しても良いという若い国民達(特に、イギリス陸軍は志願兵が多い)が大量死してしまえば、国家から金を巻き上げてやろうと考える国民が大勢を占めるのは確実だったからだ。また、イギリス陸軍やフランス陸軍の兵士達が復員すれば、見返りを要求するのは確実だった。他の国民も怒りに駆られて自制心をなくし、政府から金を巻き上げようとするのは疑いの余地がなかった。つまり、最低でも社会主義に突入し、共産主義に突き進む可能性も大いにあった。イギリスやフランスで共産主義革命が起るのではないかとの予測が軍情報局や対外特務庁で真剣に検討された程だった。
最早、英仏は没落することは確実だと予測されていたので、日本帝国は英仏の両国が日本帝国とアメリカの対立を緩和してくれることを期待できなくなった。このため、イギリスに対しては対米戦争時に中立を保ってくれること、戦時も通商を継続してくれること、アメリカとの講和を仲介してくれることが期待されるようになった。これでも日本帝国にとってはメリットが多かった。このため、日本帝国は第1次世界大戦を戦い抜くことを決意した。イギリスをアメリカ側に追いやらないためという戦略目的もあったが、アメリカとの戦争に備えて日本陸海軍に実戦経験を積ませることが重要だとの認識に拠る。
イタリアは参戦すると、オトラント海峡に堰を築いた。堰は漁船や小舟を大索やネットで繋ぎ、要所に機雷を設置した。日本海軍が加わると、これに対潜機雷が加わって海峡は完全に封鎖された。日本海軍の第1艦隊(第2艦隊の戦艦3隻、金剛級2隻を含む任務群を始めとして大幅に増強)がイタリア海軍の指揮下に入ったことでオトラント海峡封鎖線は完全になった。オーストリア海軍はオトラント海峡封鎖線を破壊しようと、度々、出撃してきた。
1915年6月2日午前3時、オーストリア海軍の第1巡洋艦隊(軽巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、水雷艇8隻)が攻撃を加えようとしたが、日本海軍の第1艦隊第1任務群の哨戒部隊(重巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)に発見された。オトラント堰の聴音硝が第1艦隊に通報したので哨戒部隊が出動していた。日本艦隊は数発の照明弾を打ち上げ、オーストリア艦隊を照らし出した。オーストリア艦隊は日本艦隊に発見されたので深入りを避けて退却を開始した。第1艦隊の第1任務群(戦艦3隻が主力)に追跡されたが、煙幕を焚き速度差で逃げ切った。
しかし、第1艦隊第4任務群(比叡と霧島の金剛級2隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦8隻)が哨戒部隊の通報で急行してきた。比叡と霧島は距離1万5千mから砲撃を開始した。第4任務群はオーストリア艦隊の北西から接近してきた第4任務群がオーストリア艦隊の前方を遮る。双方の艦隊を上から見ると、八字のようになった。オーストリア艦隊は比叡と霧島を発見して分散した。第4任務群は針路を遮ろうとした。
しかし、オーストリア艦隊の水雷艇が纏めて突撃してきた。オーストリア艦隊の水雷艇は日本艦隊からの集中砲火を浴びた。日本海軍の軽巡洋艦は120mm連装砲塔8基を装備しており、155mm砲と共に水雷艇を攻撃した。駆逐艦や戦艦も120mm連装砲を放って水雷艇を攻撃した。次々に照明弾が上げられ、オーストリア海軍の水雷艇の姿が浮かび上がる。日本艦隊の120mm砲による砲撃は激烈な上に、夜間射撃も充分に訓練されていた。オーストリア海軍の水雷艇は約20分後に全滅した。
第4任務群は追跡を続けた。その後、イタリア海軍の水雷艇がオーストリア海軍の軽巡洋艦1隻と駆逐艦1隻を発見した。照明ロケット弾が上がり、両艦の姿が照らし出される。両艦とも逃げ切れないと見て反転する。しかし、忽ち第4任務群の集中砲火を浴びた。比叡と霧島は軽巡洋艦を、第4任務群の軽巡洋艦4隻は駆逐艦を砲撃した。照明弾で浮かび上がった両艦の周りに多数の水柱が上がる。弾着が修正され、命中弾が出始める。日本艦隊は約1万mから発砲した。
交戦開始から約8分でオーストリア海軍の軽巡洋艦は5発の35.6㎝砲弾を受けて炎上し始めた。オーストリア海軍の駆逐艦も155mm弾を少なくとも10発以上を受けて爆沈した。炎上し始めた軽巡洋艦は速度も落ちたが、煙幕を張って逃走を図った。しかし、日本艦隊は砲撃しつつ、距離を詰めていった。5分間で8発以上の砲弾が命中してオーストリアの軽巡洋艦は沈没した。イタリア海軍の重巡洋艦2隻と駆逐艦4隻も出動して、オーストリア海軍の軽巡洋艦1隻を沈めた。
この海戦ではイタリア海軍の水雷艇部隊が重要な役割を果たした。悪天候で水上機が使えなかったので、イタリア海軍の水雷艇が打ち出す照明ロケット弾のおかげで日本艦隊はオーストリア海軍艦艇を発見して攻撃することができた。オーストリア海軍の残りの艦艇は退却できたが、カッタロ港に入港する時、日本海軍の潜水艦が仕掛けた機雷に触雷して駆逐艦1隻が沈没した。こうして、第1次オトラント海峡海戦は終了した。
両軍の損害は次の通り。オーストリア海軍は軽巡洋艦2隻、駆逐艦2隻、水雷艇8隻を喪失。日本艦隊の損害は金剛、軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻が小破、イタリア海軍の損害は重巡洋艦1隻が小破、駆逐艦1隻が中破、水雷艇3隻が喪失。この海戦以降、オーストリア海軍は出撃に慎重となる。イタリア艦隊と日本艦隊を併せれば、オトラント堰の警備のローテーションに隙ができるわけもなくオーストリア海軍は出撃できなくなった。日本海軍の水上機部隊も展開して昼間の出撃は極めて困難になった。こうして、オトラント海峡が封鎖されたことで連合軍の地中海のシーレーンは安全になった。フランス海軍やイギリス海軍は戦力を分散させずに済んだ。
オーストリア海軍が軍港に籠ってしまうと、イタリア海軍と日本海軍は潜水艦と魚雷艇を使った機雷敷設に重点をおいた。この機雷敷設は効果的でオーストリア海軍を効果的に封じ込めた。日本海軍の水上機部隊が攻撃作戦に参加していないのは日本海軍の水上機部隊は着弾観測が第1の任務だったので通信機(当時の無線機はサイズが大きい割に低性能)を搭載しており、機動性が低かったためだ。一連の作戦はイタリア海軍の指揮で行われた。
オトラント堰の端のブリンディジに日伊海軍の指揮センターが設置され、両国の艦隊、水上機部隊を指揮した。この指揮センターの設置は日本海軍参謀本部の提案だった。日本帝国海軍は実戦経験により、艦隊の連携が極めて困難であることを痛感していた。このため、強力な通信能力を持つ司令部が必要で専用艦も試作していた。しかし、当時の無線機はサイズの割に性能が低かった。さらに、大量の電力を必要とする司令部の機能を石炭動力のエンジンで賄うのは無理があった。
そこで、専用の発電所を造って陸上に司令部を建設することにした。ブリンディジの司令部は当時、世界最高の司令部だった。司令部の無線の出力は強力で遠方の艦隊にも苦も無く命令と情報を伝えることができた。イタリアの各地に中継所も設置され、司令部の命令と情報を伝え、艦隊からの報告と要請を中継した(当時の通信技術では遠距離になると送受信が不確実になることが多かったので中継所が必要だった)。日伊両海軍は司令部から両国艦隊の状況を把握し、的確に命令と情報を送ることが出来た。
運営は初期段階では日本海軍が全面的に担当したが、イタリア海軍の訓練が進むと日伊海軍共同運営となった。日本帝国の国防省はアドリア海に精通しており、地元で兵站を担うイタリア海軍が主導権を握ることを認めた。日本海軍参謀本部は不満に思う参謀も多かったが、両国海軍の関係は概ね良好だった。日本海軍派遣部隊の総司令官の原三郎中将はイタリア海軍のオトラント海峡封鎖作戦が効率的で優れていると認めて全面的に協力した(日本海軍参謀本部も国防省の厳命と原中将の報告もあってイタリア海軍の支持に回った)。
イタリア海軍は機雷や司令センターなどの最新の軍事技術を使用させてくれて(ブラックボックス化されている部分はあった)、イタリア海軍の指揮下に服す日本海軍を尊重して日本海軍の意見を作戦に反映させた。日本海軍もイタリア海軍の作戦(オトラント海峡封鎖作戦)が優れていたことと、イタリア海軍が日本海軍の意見を尊重してくれることで好ましく思っていた。両国海軍の協力関係は終始、良好だった。
作戦は概ねイタリア海軍の提案が基になった。日本海軍が活躍する場面が結果として多くなったのは、日本海軍が巡洋戦艦の金剛級を4隻、保有していたことによる。金剛級は巡洋戦艦に分類されるが、装甲と武装は戦艦並みだった。そして、優速だったので単独で戦艦と打ち合うことも可能だった。アドリア海は作戦範囲が狭く潜水艦に発見されて雷撃される危険性が高かった。この頃は対潜哨戒機などもなく、ソナーの探知範囲も短かった。このため、潜水艦の脅威は第2次世界大戦と変わらなかった。
幸いなことは潜水艦の性能が低かったこと、潜水艦に対する洋上での支援体制が殆ど無かったことだった。しかし、脅威が大きいことに変わりなく、アドリア海内での作戦行動は危険だった。特に、低速で小回りが利かない戦艦は危なかった。このため、金剛級が活躍した。日伊の戦艦部隊はオトラント堰にオーストリア艦隊が迫った場合に迎撃したが、オーストリア海軍は軽巡洋艦、駆逐艦、水雷艇を使用することが殆どで艦隊決戦は発生しなかった。こうして、アドリア海にオーストリア海軍は終戦まで封じ込められることになった。
日本帝国海軍とイタリア海軍の連携が巧く機能したのは戦前から日本帝国とイタリアが友好関係にあったことによる。主に、軍需産業間の繋がりが強かった。日本帝国海軍の魚雷はイタリア企業との共同開発であり、30㎝臼砲はイタリア企業の製品だった。イタリアは日本帝国の国防省などが軍事技術を入手する過程で様々な便宜を与えていた。同時にイタリアにも軍事技術が共有されていた。ただし、イタリアは量産と実用化が極めて苦手であり、種子島や国友と提携していた。こうした密接な繋がりが日本帝国によるイタリア戦線派兵の一因だった。
このため、イタリアは第1次世界大戦が始まると、直ちに日本帝国との秘密協議を始めた。両国の陸海軍参謀同士の協議も行われた。両国の海軍参謀達は開戦前に、作戦計画に合意して詳細を詰めていた。これに従って、開戦前から山丹総合会社がブリンディジの指令センターの建設を進めていた。同社は欧米系の日本国民を社員として多く雇用していた。このため、同社の社員がイタリアで活動していても特に目立たなかった。こうして、開戦前から日本海軍が展開する準備は整っていた。
これに対して、イタリア陸軍と日本陸軍の協議は難航していた。イタリア陸軍は日本陸軍の派遣規模から日本陸軍を軽視していた。日本陸軍は第6軍団(大幅に増強。8個師団、3個騎兵旅団、3個砲兵旅団が主力)を派遣するので小規模ではなかった。しかし、イタリア陸軍は日本陸軍が精鋭の第1軍団などを派遣しないことが不満だった。日本陸軍は消耗戦で志願兵が大量に戦死することを嫌っていた。日露戦争の結果を見れば明らかであり、イタリア陸軍にも準備が整うまで待つことを提案していた。イタリア陸軍の将軍達の中には賛同する将軍も多かったが、陸軍参謀総長のカドルナは早期攻勢を迫るばかりだった。日本陸軍はイタリア戦線に陸軍航空隊の主力を送ることも提案していたが、カドルナは必要ないと返答した。日本陸軍が航空隊の兵站を自己で全面的に賄うと提案して、やっと合意させた。
当時、日本陸海軍を除くと航空機は軽視されていた。このため、カドルナは「玩具を送ることで、誤魔化そうとしている」と発言して日本陸軍の代表団を激怒させている。一連の協議で日本陸軍とイタリア陸軍の溝は深まるばかりだった。このため、両国共同の作戦計画が出来る筈もなく、日本陸軍とイタリア陸軍は開戦後も連携が悪かった。日本陸軍航空隊が航空写真を提供してもイタリア陸軍参謀本部は受け取らなかった。政府命令で受けとる様になってもカドルナは特に重視しなかった。日本陸軍航空隊の提供する航空写真と分析書は前線のイタリア陸軍部隊の指揮官達には好評だったが、イタリア陸軍全体としては作戦に反映されなかった。こうして、日本陸軍派遣部隊は1916年5月まで事実上、放置された。
元々、日本陸軍参謀本部と神尾中将は1916年9月まで攻勢を待つべきだとの意見だったので、国防省の承認を得て喜んでイタリア陸軍との連携を断った。両国の内閣は陸軍同士の対立に困惑したが、そのままとされた。イタリア政府は日本帝国提案に賛成で陸軍の攻勢は待つべきだとの意見だったが、英仏の圧力に抗しきれなかった。このため、カドルナの攻勢も認め、日本陸軍派遣部隊の待機も認めることになった。イタリア陸軍は攻勢を次々に発動したが、オーストリア陸軍に反撃されて犠牲の割に前進できなかった。こうして、イタリア戦線の陸戦は海戦と対照的に進展しなかった。ただし、日本陸軍航空隊が制空権を確保したのでオーストリア陸軍は索敵面で不利だった。
イタリア戦線が膠着状態になっている頃、他の戦線も膠着していた。1916年2月ファルケンファインはフランス戦線を優先してベルダンを攻略しようとした。フランス陸軍を消耗させることがファルケンファインの作戦目的だったが、ドイツ陸軍の指揮官達は作戦の趣旨に賛同しなかった。ドイツ陸軍部隊は攻撃を強行し、大損害を被った。ベルダンも攻略できず、ドイツ陸軍は撃退された。こうした中で、注目すべき自体が起こった。ベルダン攻防戦が始まると、フランス陸軍の要請でロシア陸軍は攻勢を発動した。
1916年6月4日、ブルシロフ将軍が率いるロシア南西軍(4個軍団)が攻勢を発動した。ブルシロフ将軍は指揮下の部隊に浸透戦術を実行させた。まず、1日、準備砲撃を実行した。全戦線で砲撃を行い、攻勢地点を把握できない様にした。そして、掘り進めていた突撃壕からロシア陸軍歩兵部隊が散開して前進した。是までと違い、オーストリア陸軍部隊の抵抗を避けながら浸透していった。第1線を多くの地点で突破した第1派のロシア陸軍歩兵部隊は一挙に第3線まで突破した。さらに、後続したロシア陸軍予備隊が塹壕に籠ったオーストリア陸軍部隊を包囲した。オーストリア陸軍部隊は地下壕から出る間もなく包囲された。機関銃陣地に配置される間もなく、ロシア陸軍部隊に急襲された部隊もあった。オーストリア陸軍は完全に崩れ、大損害を被った。オーストリア陸軍は約19万人を失い、50㎞以上の地域をロシア陸軍の南西軍が占領した。
ブルシロフは他の方面軍の攻勢を要請した。多方面で攻勢を実行すれば、当時の偵察技術ではロシア陸軍の狙いが分からない。ドイツ陸軍やオーストリア陸軍は予備隊を分散するか一方面を手薄にするしかない。どちらにしろ、ロシア陸軍は突破に成功する。しかし、ロシア陸軍総司令官のアレクセイエフは直ちに他方面で攻勢を実行しなかった。これまで攻撃が失敗続きだったので躊躇った。さらに、他のロシア方面軍はブルシロフの戦術が解らず、突破できなかった。ブルシロフも他の司令官や総司令部に説明しなかった可能性が高い(理由は現在も不明)。このため、アレクセイエフは突破していたブルシロフ指揮下の南西軍に増援部隊を送り込んでしまった。このため、ドイツ陸軍の増援部隊がロシア陸軍を阻止するのは簡単だった。こうして、ブルシロフの攻勢も阻止されてしまった。しかし、オーストリア陸軍は大打撃を受けて単独で勝利することは難しくなった。
此のブルシロフ攻勢の前の1916年5月15日、オーストリア陸軍が南チロルで攻勢を発動した。オーストリア陸軍はカドルナがイソンツォ川で懲りもせずに攻勢を実行していた時に、南チロルで攻勢を発動した。事前に、オーストリア陸軍が集結しているという情報があり、日本陸軍航空隊やイタリア陸軍航空隊が航空偵察でオーストリア陸軍の詳細を掴んでいた。ところが、カドルナは構わずに攻勢を発動した。カドルナはオーストリア陸軍がロシア戦線、バルカン戦線を抱え、自軍とも戦っていたので攻勢の余裕はないと思いこんでいた。しかし、オーストリア陸軍は10個歩兵師団と1個歩兵旅団を集結させ、予備も待機していた。
カドルナは南チロルに展開する第1軍に対して守備に徹することを命令した。しかし、第1軍の指揮官は攻勢第1主義で守備でも即時の逆襲ばかりを考えていた。このため、第1線の塹壕は堅固でも第2線や第3線は弱かった。第4線や第5戦は無いも同然だった。カドルナはオーストリア陸軍の攻勢前に前線を視察した。防御に徹する命令が守られていなかったので、司令官を更迭して守備体制を強化した。しかし、依然として防御線は弱かった。
一方、オーストリア陸軍にも弱みがあった。日伊陸軍航空隊が制空権を保持しており、航空偵察が困難でイタリア陸軍の配置が断片的にしか解らなかったことだ。当然、航空機による着弾観測もできなかった。しかし、オーストリア陸軍は突破に成功した。原因はイタリア陸軍の陣地の多くが山頂に築かれていたことだった。山頂を押さえていた方が有利だが、余りに高低差があって銃撃が届かなかった。このため、オーストリア陸軍部隊は谷間を突破できた。多くのイタリア陸軍部隊が包囲されて山頂に取り残された。補給を断たれ、砲撃を浴びせられて(山頂は目立ち、砲撃目標にされやすい)、降伏に追い込まれていった。
カドルナは日本陸軍派遣部隊に情報を報せていなかった。しかし、日本陸軍派遣部隊は日本陸軍航空隊の航空偵察で状況を把握していた。情報参謀達が航空偵察などの情報を総合してオーストリア陸軍の攻勢が迫っていることを確認した。
5月7日、報告を受けた神尾中将は直ちに旅団長や師団長を集めて協議を行った。イタリア陸軍とは連携が断絶した状況なので応援に急行するかどうか意見が分かれた。神尾中将は各旅団長や各師団長の意見を聞いた。暫く考えていたが、ローマにいる山南国防副大臣に許可を得た上で直ちに急行すると決断した。旅団長達や師団長達は其々の部隊に戻る。神尾中将はローマのイタリア海軍省でイタリア海軍の上層部と協議中だった山南国防副大臣に緊急電報を打って日本大使館に戻ってもらった。日本大使館で神尾国防副大臣は直通電話を受けた。
神尾「山南国防副大臣閣下、緊急事態です。詳細は空輸しますが、オーストリア陸軍が攻勢の準備をしています。場所は南チロルです。遅くとも二週間以内に攻勢が発動されます。カドルナには苛つきますが、イタリア王国は同盟国です。直ちに、南チロルへ向かう許可をください。イタリア陸軍との調整を行いたいので斡旋も御願いします」。
山南「神尾中将、貴官の熱意は素晴らしい。しかし、即時の出動は却下だ。南チロルに向かうのはオーストリア陸軍が攻勢を発動してからだ」。
神尾「しかし、国防副大臣閣下、それでは同盟国の陸軍兵士達が多く、死ぬことになります。確かに、今回の戦争で急に同盟国となったので縁は薄いです。カドルナなどの様に、自国軍兵士が死ぬのを気にしない将軍が多いのには怒りを覚えます。しかし、同盟国であることに変わりはありません。道義的にも、日本帝国の信用を維持する上でも直ちに南チロルへ向かうべきです」。
山南「神尾中将、貴官の意見は正しい。しかし、軍人としてはだ。この場合、軍事的に正しい意見でも却下するしかない。貴官も理解できるだろうが、諜報活動には決定的な限界がある。それは、相手の意志の変化だ。例えば、こちらが諜報活動に基づいて適切な防衛策を講じた場合、敵は攻勢を中止する。その場合、その諜報活動は失敗だったと見られる。そして、対応した指揮官は判断を誤ったと思われる。
第6軍団が南チロルに展開した場合、恐らくオーストリア陸軍は攻勢を中止する。その場合、カドルナが日本帝国の失敗だと騒ぎ立てるのは確実だ。英仏も巻き込んで政治的に許容できない騒ぎになる。面目を失うだけなら良い。しかし、これを口実にして日本帝国への圧力は強まる。つまり、無謀な攻勢が強要されるわけだ。要請を拒否すれば、英仏の圧力でイタリアは第6軍団の撤収を求めるだろう。役立たずとのレッテルを貼ってな。そうなると、日本帝国は無謀な攻勢を実行するか同盟国の信用を失うかの選択を迫られる。動くのは、オーストリア陸軍が攻勢を発動してからだ」。
神尾「諒解しました。しかし、何もしないわけにはいきません」。
山南「当然だ。何時でも救援に向かえるようにしておけ。私はイタリアの首相と陸軍大臣と会談して鉄道を利用できるように手配しておく。例によって、カドルナは邪魔にしかならんからな。現地のイタリア陸軍部隊や国家憲兵隊などのイタリアの行政機関とも調整できるように手配しておく。第6軍団の作戦参謀などが南チロルへ視察に行ける様にもする。オーストリア陸軍が攻勢を発動するまでに手配が済むよう全力を尽くす。貴官は救援作戦の立案と第6軍団の準備に専念してくれ」。
神尾「国防副大臣閣下、了解しました。宜しくお願いします。閣下の実行力を完全に信頼しています。こちらも期待に応えるよう、全力を尽くします」。
山南「私も貴官の能力を完全に信頼している。救援作戦は任せたぞ。油断せず、落ち着いて作戦を遂行すれば貴官が讃えられるのは確実だ」。
その後、二人は早急に会って協議を行うこと、詳細は暗号電報で送受信することを確認して電話を終えた。第6軍団の各師団や各旅団は駐屯地で準備を整え始めた。神尾中将を中心に第6軍団の司令部は救援作戦の立案に全力を挙げる。山南国防副大臣は電話を終えると、直ちにイタリア首相に電話を掛け、会談の約束を取り付けた。その後、第6軍団が迅速に救援作戦を発動できるように全力で手配した。手配は12日に、漸く完了した。
15日、オーストリア陸軍の攻勢が始まった。神尾中将は直ちに、救援作戦の発動を命令した。第6軍団の各師団や各旅団は駐屯地から駅に向かった。日本陸軍派遣部隊の3個騎兵旅団は機械化されており、先行して南チロルに向かった。イタリア政府の黙認で(カドルナに知らせず)、現地のイタリア陸軍部隊と日本陸軍派遣部隊の間で鉄道の輸送計画が事前に立案されていた。このため、オーストリア陸軍の予想に反して日本陸軍派遣部隊は迅速に、イタリア第1軍を救援した。
日本陸軍派遣部隊の第1騎兵旅団は5月18日にアルシエーロに入った。日本陸軍部隊は逐次、到着してアルシエーロとアジアーゴに展開した。オーストリア陸軍部隊に対して、日伊陸軍飛行隊が空爆を行った。各地の飛行場から多数の複葉機が飛び立つ。日本陸軍航空隊の1913飛の小隊が先導した。目標を発見すると、発煙弾を投下して目標を指示した。前線の歩兵部隊を狙っても撃墜されるので、後方の兵站部隊や砲兵隊を空爆した。日伊陸軍航空隊はロケット弾で攻撃した。
日伊陸軍の複葉機が上空から次々にロケット弾を一斉発射する。ロケット弾が次々に着弾し、馬車が次々に吹き飛ばされていった。オーストリア陸軍兵士達にとって忌まわしいことに日伊陸軍の複葉機の編隊は繰り返し襲来して空爆を行った。狭い山道を進む砲兵隊も標的になり、多くが各種火砲が破壊されたり弾薬を運ぶ馬車が誘爆で吹き飛んだりした。
後方の部隊は襲われると思っておらず、射撃が下手な兵が多かった。機関銃も殆どなかった。馬車と砲兵隊の火砲が多く破壊された。それでも次第に小銃による射撃が増加し、日伊陸軍航空隊の複葉機で撃墜される機体が増えていった。それでも全体として空爆は成功だった。これまで、イタリア陸軍航空隊は前線しか空爆せず(殆ど効果なし)、日本陸軍航空隊は空中戦と航空偵察しかしていなかったのでオーストリア陸軍の後方部隊は不意を突かれた。山岳地帯で補給路は狭く空爆するのは簡単だった。オーストリア陸軍部隊の兵站部隊や砲兵隊が空爆を避けるために前進を躊躇するようになり、オーストリア陸軍部隊の進撃速度が落ち始めた。もちろん、空爆による損害も痛かった。
オーストリア陸軍はアジアーゴに迫ったが、日本陸軍の第16師団と第17師団を中心とする日伊陸軍部隊が立ち塞がった。1913飛による着弾観測が行われ、オーストリア陸軍部隊に弾幕射撃が浴びせられる。発煙弾が投下され、観測機が風向や風速などを報告する。それから試射が行われ、観測機の報告を受けて修正が行われて本格的な砲撃が始まる。
日本陸軍の榴弾砲部隊が榴弾の弾幕射撃を浴びせる。多数の榴弾が着弾し、次々に炸裂する。オーストリア陸軍兵士達が吹き飛ばされていく。オーストリア陸軍部隊が接近すると、ストークス臼砲部隊の弾幕射撃が降り注ぐ。特に、ストークス臼砲部隊の弾幕射撃は効果的だった。ストークス臼砲は迫撃砲の元祖であり、上方から着弾するので木や枝に当たっても弾道が変化しにくい。このため、極めて有効な砲撃を行えた。なお、日本海軍は迫撃砲に装備を更新していた。しかし、日本陸軍は装備する部隊の数が多い上に他にも配備しなければならない新兵器が多かったので更新していなかった。しかし、それは他国の陸軍も同様であり、日本陸軍よりも更新と配備が遅れていた。このため、全く支障は無かった。
オーストリア陸軍は日本陸軍と比べて(他の多くの陸軍もだが)遅れていた。ストークス臼砲に類する兵器も前線部隊には配備されておらず、不利だった。更にオーストリア陸軍も他の多くの陸軍と同様に、砲兵隊の中で野砲部隊の比率が高かった。このため、森林地帯の砲撃は苦手であり苦戦した。更にオーストリア陸軍砲兵隊の位置は日伊陸軍航空隊の偵察機によって把握され、着弾観測機が砲撃を誘導した。歩兵戦闘でも日本陸軍の分隊は軽機関銃2挺を装備しており、銃撃戦で有利だった。そして、機関銃部隊を中心とした防御線が敷かれ、激烈な銃撃が行われた。ストークス臼砲部隊の弾幕射撃も相まって、オーストリア陸軍の歩兵部隊の突撃は薙ぎ倒された。日本陸軍の狙撃班による狙撃もオーストリア陸軍の進撃の阻止に貢献した。イタリア陸軍部隊もオーストリア陸軍部隊を喰い止める。
第16師団と第17師団は戦局が落ち着くと、1個旅団ずつを迂回させて東西からオーストリア陸軍部隊を圧迫する。オーストリア陸軍部隊は後退を余儀なくされた。アジーゴに迫ったオーストリア陸軍部隊は完全に喰い止められた。
日本陸軍の第18師団と第19師団を中心とする日伊陸軍部隊はアルシエーロの北にあるぺデスカラを中心に布陣してオーストリア陸軍部隊を迎撃した。オーストリア陸軍部隊は山岳を機動して側面を衝こうとしたが、日伊陸軍部隊に迎撃された。日本陸軍の歩兵小隊は2個分隊が射撃している間に2個分隊が前進する継続躍進戦術でオーストリア陸軍部隊を圧倒した。軽機関銃の射撃はオーストリア陸軍歩兵の照準を乱し、38式小銃2型の命中精度の良さを際立たせることになった。そして、日本陸軍の機関銃部隊の分隊は機関銃陣地に拠らず、適宜、場所を変えながら射撃する戦術に慣れていた。このため、有効に歩兵小隊を支援することができた。ストークス臼砲部隊の弾幕射撃もあってオーストリア陸軍部隊の進撃は頓挫した。逆に、日本陸軍の小隊が各所でオーストリア陸軍部隊の側面を攻撃した。航空機による着弾観測で支援された砲兵隊の砲撃も有効でオーストリア陸軍部隊は後退した。
この戦闘では、日本陸軍の狙撃班が際立った活躍を見せた。森を進むオーストリア陸軍部隊を狙撃して足留めし、支援の歩兵分隊に迫撃砲で数種の色の発煙弾を撃ち込ませて目標を上空の観測機に表示した。観測機が砲撃を誘導し、大損害を与えることが多かった。また、樹の中に集束手榴弾を埋め込んで偽装し、樹の傍をオーストリア陸軍部隊が通ると接触信管を狙撃して爆破した。日本陸軍の狙撃班はイタリア陸軍の狙撃兵や斥候の支援を受けて効果的に活動した。イタリア陸軍に正式な狙撃部隊がなかったので、日本陸軍派遣部隊が非公式な狙撃兵訓練所(イタリア陸軍の多くの将軍が狙撃手を嫌ったので)を開設して狙撃兵を育成した。猟師を中心に狙撃兵を養成した。使ってみると、有用性が高かったのでイタリア陸軍でも徐々に狙撃手が増えていった。
イタリア陸軍の狙撃手達の評価は日本陸軍でも高かった。日伊両軍の狙撃手達は38式狙撃銃を正式装備としていた。イタリア陸軍の狙撃手達も38式狙撃銃を好んだ。なお、日本陸軍の狙撃手達はBARの狩猟タイプも自費で購入して師団の兵器部隊に改造させた上で使用し始めていた。森が多い地形では手早く撃てるセミオートの狙撃銃が有効だったからだ(後に、正式採用される)。現地のイタリアの銃器メーカーも協力した。このように、イタリア陸軍と日本陸軍派遣部隊は現場における協力関係は良好だった。しかし、上層部同士の関係は最悪であり、後の戦局に影響する。
オーストリア陸軍は日本陸軍派遣部隊に阻止されて進撃を阻止された。また、渓谷から向かったオーストリア陸軍部隊も守備配置に就いていたイタリア陸軍部隊に阻止された。その後、カドルナも増援部隊を送り込み、オーストリア陸軍の進撃は完全に頓挫した。日伊陸軍砲兵隊の弾幕射撃で損害が累積するばかりであり、6月1日、総退却に移った。カドルナは山岳地帯で深追いすれば補給が困難になり、損害が累積するばかりだとして追撃を中止した。神尾中将も賛成だった(カドルナと意見が一致したのは是だけ)。
日本陸軍派遣部隊がオーストリア陸軍の攻勢を撃退するのに尽力したことから日伊陸軍上層部の関係は少し改善した。しかし、カドルナが攻勢に参加を求めると、神尾中将は拒絶した。カドルナは又も怒ったが、日本陸軍参謀本部と神尾中将は方針を変えなかった(国防省は承認済み)。南チロルで示されたように、航空機による着弾観測で支援された日伊陸軍の砲兵隊は強力な火力を発揮していた。イタリア陸軍の砲兵隊も日本帝国からの供与と自国内の生産体制の向上で火力と正確性を大幅に向上させていた。
他にも、日本帝国の援助で陸軍航空隊の大幅増強、無線機の大量配備(師団と旅団用の)、自動車の大量配備(救急車とトラックが主)、兵站体制の充実などが進展していった。攻勢を焦る必要は全くなかった。イタリア陸軍の態勢が整うのは1916年9月だった。無駄な攻勢は兵力を損なうばかりだった。日本陸軍派遣部隊がオーストリア陸軍の攻勢を撃退するのに尽力したことから、イタリア陸軍の将官達にも理解者が増えていた。
神尾中将は態勢が整うまで待つことを力説した。イタリア陸軍の攻勢は5度も失敗していた。確かに前進はしていたが、オーストリア陸軍の戦線が崩壊する見込みはなかった。損害が大きすぎた。オーストリア陸軍が消耗してもイタリア陸軍が壊滅しては意味がなかった。ドイツ陸軍が主力を向けてくればイタリア陸軍は壊滅するからだ。さらに、イタリアの戦争目的は未回収のイタリアの回収であり、セルビアなどと再び戦争になる可能性が高い。戦略的にも戦死者の増加は抑制されなければならない。
神尾中将は「将官の軍隊における存在価値は、国家の戦略目的を達成すること、自軍の戦死者を抑えることにあります。この内、国家の戦略目的の達成が優先されるのは当然です。軍隊は政治の決定に従うのが最低限の義務ですし、国家の戦略目的は将来において国家と国民が繁栄するために設定されます。是を達成するためには自軍の兵士の犠牲は止むを得ません。しかし、我々は国民に雇われている身です。自国民である兵士達が戦死することを気にしない将官は国民を裏切っています。国家の戦略目的を自国民である兵士達の最小限の犠牲で達成することに全力を尽くさない将官に存在価値はありません。兵隊を突っ込ませるだけなら、下士官だけで充分です」と述べた。
カドルナは自分の事が真面に批難されたので激怒したが、イタリア陸軍の将官達やイタリア政府の閣僚には秘かに賛同する者が多かった。このため、新しく組閣されたイタリア内閣は遂に1916年9月まで攻勢を停止することに決定した。ただし、カドルナは解任されなかった。攻勢至上主義のカドルナは英仏陸軍首脳部にとって有り難い存在であり、英仏の強い支持があったからだ。このため、イタリア政府はカドルナを解任する決断ができなかった。
1916年になって、日本海軍参謀本部は国防省の指示でイギリス政府との合意に基づいて第1艦隊合同任務群(第3任務群と第4任務群を再編成。金剛級4隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦8隻、駆逐艦16隻。伊東三郎中将が指揮)をイギリス本土のスカパフロー泊地に移動させ、ビーティ提督の指揮するイギリス巡洋戦艦部隊の指揮下に入れた。日本海軍ヨーロッパ派遣部隊の原中将は不満だった。イギリス本国艦隊は充分な規模であり、ドイツ艦隊を封じ込めていた。ドイツはイギリス本土に上陸する気もなければ、能力もなかった。
逆にイギリス海軍もヨーロッパ方面で上陸作戦を決行する気もなかったし、得でもなかった。鉄道で迅速に殺到してくるドイツ陸軍部隊に上陸部隊が撃滅されるのは確実だった(空軍力が発達して鉄道が爆撃されるようになると事情が変化してくる)。ドイツ沿岸の港に機雷原を敷設し続ければ効果的だが、当時は主力の艦船のエンジンの燃料は石炭だった。潜水艦は石油)。燃費が悪く、戦闘行動をドイツ近海で行うことは不利だった。下手をすると、燃料切れで漂流する可能性もあった。洋上補給の技術も開発されていなかった。
逆に言えば、ドイツ艦隊が出撃してくることも不利だった。機雷原を敷設しても優勢なイギリス本国艦隊は直ぐに機雷原を掃海できる。ドイツ艦隊は数で劣勢な上に、長期間、洋上に留まることができない。イギリス本国艦隊が余程のミスをしないかぎり、イギリス本土は安全だった。このため、原中将はアドリア海に金剛級4隻を中心とする艦隊を留めていた方が得策だと主張した。アドリア海でオーストリア海軍を封鎖するのに金剛級が非常に有効だったからだ。しかし、政治的な事情で金剛級4隻が派遣された。
当時、イギリスではフランス戦線で戦死者が続出している実態が殆ど国民に知らされていなかった(おかげで戦後は政府の信用が低下してチャーチルなどがナチスドイツの危険性を訴えてもイギリス国民は躊躇することになる)。このため、多くのイギリス国民は日本帝国の貢献が少ないと不満を叫んでいた。日本帝国海軍が太平洋、オセアニア近海、インド洋を担当し、地中海や南大西洋でも重要な役割を果たしていることは知られていた。しかし、イギリス陸軍がフランス本土で激戦中なのに日本陸軍がイタリア戦線で待機しているのは不満だった。イギリス政府上層部は日本帝国の事情を理解していたが、イギリス海軍の強い要望もあって金剛級4隻のイギリス本土派遣を要請した。
内閣は国防省に指示して地中海の日本艦隊から金剛級4隻を中心とする艦隊を分遣した。日本帝国は対米戦争になった場合、アメリカとの講和を仲介してもらうために条約の義務がないのに参戦したのでイギリス国民の感情に配慮することも必要だった。このため、目立つ貢献として金剛級4隻が派遣された。この旨が国防省から原中将に伝えられ、原中将も伊東義隆中将に、イギリス海軍の命令に忠実かつ全力で従うことを命令した(内心は不満たらたらだったが)。
日本艦隊はビーティの指揮下でイギリス巡洋戦艦部隊と合同訓練を重ねた。両方の巡洋戦艦部隊は合同で作戦や演習をしたことが一度もなかったからだ。ドイツ艦隊が出撃してこなかったので訓練は一応、完了した。しかし、イギリス本土に到着したのが1月4日だったので約4か月しかイギリス巡洋戦艦部隊と訓練していなかった。この状態で同一の艦隊に組み込めば混乱が発生することは確実だった。このため、日本艦隊はビーティの指揮下で行動しつつもイギリス巡洋戦艦部隊とは離れて作戦行動をとることになった。
1916年5月31日、ドイツ艦隊は出撃した。巡洋戦艦5隻、戦艦16隻、旧式戦艦6隻が主力だった。イギリス艦隊も無線傍受でドイツ艦隊の出撃を察知して出撃した。イギリス艦隊は戦艦23隻、巡洋戦艦9隻、クィーンエリザベス級戦艦5隻(当時は高速戦艦に分類)が主力だった(ジェリコ大将が指揮)。当然、日本艦隊も出撃した。ビーティー提督の命令で巡洋戦艦部隊の前衛を務めた。
5月31日14時20分、イギリス海軍の偵察の1個戦隊がドイツ海軍部隊を発見した。
伊東中将はビーティーの指令で針路を変更し、15時30分にドイツ海軍の巡洋戦艦部隊を発見した。直ちに、ビーティーの率いる巡洋戦艦部隊に発見を打電した。ビーティーは「全力で攻撃し、本艦隊が追いつくまでドイツ艦隊を拘束せよ。ただし、優勢なドイツ艦隊を発見した場合は本艦隊の方向に退却せよ」と打電した。
ドイツ海軍の巡洋戦艦部隊(ヒッパー艦隊)は南に反転した。伊東中将は主力部隊に合流する行動だと判断して全速で距離を詰めた。幕僚達は金剛級の長射程を活かして遠距離で砲撃すべきだと進言した金剛級は35.6㎝砲なのに対してドイツ巡洋戦艦は28㎝砲か30㎝砲で射程は金剛級が長かったからだ。しかし、伊東中将はヒッパー艦隊がドイツの主力艦隊に合流するとイギリスの主力艦隊の戦闘時に厄介な存在になると判断して、確実に仕留めるため艦隊を接近させた。金剛級は大口径砲を装備し戦艦並みの装甲であり、交戦を躊躇する理由はなかった。ビーティの事前の指令でも積極的に攻撃し(特にドイツ巡洋戦艦部隊を)、ビーティ艦隊やジェリコ艦隊(戦艦部隊)にドイツ艦隊の主力を誘引する様に指示されていた。
日本艦隊は1万5千mで砲撃を開始し、ドイツ艦隊も応射した。両軍とも単縦陣で並行砲戦となった。双方の艦の周りに多数の水柱が立ち、やがて命中弾が出始める。日本艦隊とドイツ艦隊の射撃装置は共に優秀であり、互いに命中弾を与えた。10分間で日本艦隊は金剛と霧島が2発ずつ命中弾を受け、比叡と霧島も1発ずつ命中弾を受けた。ドイツ艦隊はリュッツォウが4発の命中弾を受け、ザイドリッツが2発の命中弾を受けた。双方とも相手が崩れないので距離を保ち、しかも駆逐艦が煙幕を展開したので交戦が続いた。しかし、金剛級の主武装が35.6㎝砲の三連装砲塔であり、ドイツ艦隊は苦戦した。ただし、ドイツの巡洋戦艦は金剛級ほどではないが防御に優れており、隻数も5隻だったので圧倒されることはなかった。
しかし、ビーティーの巡洋戦艦部隊も追いついて猛攻を加え始めた。ヒッパー艦隊の周りにイギリス巡洋戦艦部隊からの砲弾が次々に着弾し、多くの水柱が上がった。ヒッパー艦隊は煙幕を展開して全速で退却し始めた。ビーティの巡洋戦艦艦隊が後方から、日本艦隊が東から砲撃を加えた。ドイツ艦隊の各艦に命中弾が続出し始めた。ドイツ巡洋戦艦のリュッツォウは約11分間で8発以上の砲弾を受けた。リュッツォウはビーティ艦隊の駆逐艦部隊の雷撃で撃沈された。日本艦隊は砲撃をモルトケとザイドリッツに集中し始めた。ただし、日英艦隊は無線が混信するなどして砲撃調整が巧くいかなかった。
このため、デアフリンガーとフォンデアタンは煙幕や煙に紛れてイギリス艦隊に相対した。ドイツ艦隊を挟撃しようとしていたイギリス艦隊に砲撃を浴びせた。数回の斉射でイギリス巡洋戦艦インディファイティガブルが轟沈した。日英艦隊は砲撃を続行したが、互いの煙幕で砲撃が困難になっていた。このため、伊東中将は駆逐艦部隊に突撃を命じた。
駆逐艦3個戦隊12隻が突撃した。日本艦隊は駆逐艦部隊を掩護するために一挙に距離を詰めていった。当然、日本艦隊にも命中弾が続出した。重巡洋艦と軽巡洋艦が1隻ずつ大破して炎上し始めた(後に両艦とも沈没)。突撃した駆逐艦部隊も3隻が多数の命中弾を受けて沈没し始めた。しかし、ドイツ艦隊も軽巡洋艦1隻と駆逐艦5隻が撃沈された。他のドイツ艦も損害を受け、日本の駆逐艦部隊の雷撃が可能になった。日本の駆逐艦9隻は約1千mから次々に魚雷を発射した。ザイドリッツとモルトケを目標であり、合計して54本の魚雷を発射した。
両艦は回避しようとしたが、煙幕に紛れて次々に魚雷を発射してくる駆逐艦を撃退できなかった。ザイドリッツは魚雷6発が次々に命中して撃沈された。モルトケは魚雷を避けたが煙幕を抜けてしまい、金剛級4隻に集中砲火を浴びた。距離は約7千mしかなく金剛級の主砲と副砲の直接照準で砲弾が次々に命中した。最初の砲撃で主砲弾と副砲弾が18発以上も命中した(金剛級の乗員達も慌てており、正確な命中数は不明)。約5分間でモルトケは集中砲火で戦闘能力を喪失して速度も著しく低下し、炎上した。モルトケは白旗を掲げ、機関を停止して降伏した(約2時間後に沈没)。
更にイギリスの高速戦艦部隊も合流した。この時、ドイツの戦艦部隊の主力が出現したので日英の巡洋戦艦部隊は距離を空けた。危く全滅するかと思われたヒッパー艦隊は救われた。しかし、デアフリンガーとフォンデアタンも中破した上に戦闘能力が低下しており、ドイツ艦隊司令官のシェーアは両艦に退却を命令した。
一方、ビーティは日本艦隊に対して損傷艦を退却させると共に、ビーティ艦隊の後衛に回る様に指示した。伊東中将は、中破していた金剛と霧島などの損傷艦と護衛の艦船を退却させ、比叡と榛名(共に小破)など(他に軽巡洋艦2隻と駆逐艦4隻)で後衛に回った。ジェリコ艦隊も合流したが、イギリスの戦艦部隊はドイツ艦隊の位置が掴めず、ビーティ艦隊などと連絡が付かなかった。このため、ジェリコ艦隊は慎重な行動に終始してドイツ艦隊を積極的に追撃しなかった。ドイツ艦隊は全速で退却し始めた。巡洋戦艦部隊やイギリス高速戦艦部隊は慌ててドイツ艦隊を追撃した。
日没になった。伊東中将はビーティに、夜戦に慣れた日本艦隊も前衛に回るべきとの提案を打電した。ビーティは承認した。日本艦隊は使い捨てで全ての水上機を発艦させた。パラシュートで夜の海に降りるのが前提だったので水上機のパイロット達には、特別に任務が強制されなかった。しかし、全員が志願した。日本艦隊の水上機6機は分散して索敵に向かい、日没の約1時間後にドイツ主力艦隊を発見すると照明弾を投下し、日本艦隊に発見を打電した。日本艦隊は発見を全艦隊に転電した。ドイツ艦隊が照明弾で照らし出され、位置が明瞭になった。ビーティは「全艦で突撃し、全力で攻撃せよ。後続艦隊も急行中」と各艦隊に打電した。
ジェリコは慌ててビーティの命令を否定する電文を打った。ところが、電文の混信で日本艦隊、イギリスの高速戦艦部隊、イギリス偵察部隊もジェリコの命令を認識できなかった。他の日英艦隊はビーティが全力で攻撃せよと打電したのだから、当然、ジェリコ艦隊が援護していると思った。どの艦隊もビーティの指揮下にあり、通信状態も悪かったのでビーティを経由してジェリコに確認することはしなかった。ビーティはジェリコの命令を握りつぶした。明らかに戦況はイギリス艦隊が優勢であり、攻撃を掛ければジェリコ艦隊も後続してくると見込んでいた。このため、全力でドイツ艦隊をビーティ艦隊、高速戦艦艦隊、日本艦隊、イギリス偵察艦隊が全力でドイツ主力艦隊を攻撃することになった。
ビーティ艦隊はドイツ旧式戦艦のポンメルンに砲火を集中して炎上させた。ポンメルンは落伍し、降伏した。ドイツ艦隊も応戦したが、巡洋戦艦部隊、高速戦艦部隊、日本海軍部隊、イギリス海軍の偵察部隊が全力で一斉に攻撃してきたのでイギリス艦隊が全力で攻撃していると誤解した。夜戦の混乱によりクィーンエリザベス級で構成される高速戦艦部隊をジェリコ艦隊と誤認していた。日本艦隊は多数の照明弾を上げ、ドイツ艦隊を照らし出した。
日本艦隊はイギリスの駆逐艦部隊の突撃を援護した。比叡、榛名、軽巡洋艦2隻が約1万mから砲撃する。ドイツ軍の軽巡洋艦2隻に比叡と霧島が1発の主砲弾を命中させ、軽巡洋艦2隻が2発ずつ主砲弾を14分間で命中させた。その後、日本艦隊の駆逐艦4隻が突撃し、魚雷を次々に発射した。被弾していたドイツ海軍の軽巡洋艦2隻が撃沈された。周囲のドイツ艦も回避したので、イギリス駆逐艦部隊の雷撃が可能になった。
イギリスの駆逐艦部隊は勇敢に突撃した。イギリスの駆逐艦部隊はドイツ戦艦のボーゼンに雷撃を敢行して撃沈した。ボーゼンは味方の軽巡洋艦に衝突して速度が落ちていた。ドイツ艦隊は針路を塞ぎつつあった比叡と榛名(意図的ではない)に砲撃を集中した。日本艦隊は慌てて煙幕を張り、一旦、退却した。イギリスの高速戦艦部隊は日本艦隊に注意を集中していたドイツ戦艦部隊を猛射し、グローサー・クルフュルストを落伍させた。グローサー・クルフュルストは煙幕に紛れて退却した。しかし、巡洋艦部隊の援護で突撃してきたイギリス駆逐艦部隊に雷撃されて2時間後に沈没した。ビーティはジェリコ艦隊が現れないので、この時点で攻撃を中止させた。こうして、ユトランド沖海戦は終了した。
日本艦隊は水上機の乗員の安全を確保するために、危険を承知で照明を探照灯で上空を照らした。幸運な事に全員が救助された。イギリス艦隊が戻ると、ジェリコとビーティは互いを無視した。両者は互いに報告書を提出して、非難合戦を始めた。ジェリコはビーティの命令違反を咎め、ビーティはジェリコの消極性により決定的な勝利を逃がしたと非難した。イギリス海軍省は両者に論争を禁止した。この後、ジェリコは第1海軍卿とされ(後に護送船団方式の導入に反対して解任)、ビーティはジェリコの地位(本国艦隊艦隊司令長官)を引き継いだ。一応、ビーティは譴責処分を受けたが、ユトランド沖海戦を勝利に導いたことは高く評価された。こうして、ユトランド沖海戦は終わった。
両海軍の損害は次の通り。日英海軍は沈没14隻(イギリス艦隊は巡洋戦艦1隻、重巡洋艦が3隻、駆逐艦が5隻。日本艦隊が重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻)、大破13隻(イギリス艦隊は巡洋戦艦3隻、重巡洋艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻。日本艦隊は重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻)、中破14隻(イギリス艦隊は巡洋戦艦1隻、高速戦艦1隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻。日本艦隊は金剛級が4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦2隻)。ドイツ海軍は沈没21隻(巡洋戦艦3隻、戦艦2隻、旧式戦艦1隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦9隻)、大破11隻(戦艦1隻、旧式戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)、中破10隻(戦艦2隻、旧式戦艦1隻、巡洋戦艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦3隻)。日英艦隊の損害も大きかったが、ドイツ艦隊の方が大きかった。イギリス艦隊の砲撃管制装置が日本艦隊やドイツ艦隊と同性能であれば、ドイツ艦隊の損害は更に大きかった筈だった。更にイギリス艦隊は全体的に防御力が弱かった。また、素早い砲撃を重視して防火扉を開けていた。対して、ドイツ艦隊や日本艦隊は防火扉などが完備し、乗員もダメージコントロールの訓練を重ねていた。とは言え、イギリス艦隊の勝利だった。
この後、ドイツ大洋艦隊の司令官に就任したヒッパーは全艦をバルト海に移した。損害比率でもドイツ海軍の方が大きかったのでイギリス海軍を牽制する効果はないと判断したからだ。バルト海のロシア海軍を撃滅してサンクトペテルブルクに脅威を与えた方が良いと判断した。陸軍参謀本部もヒッパーの決定を支持した。
ドイツ陸軍参謀本部でも東部戦線を重視する意見が多くなっていたからだ。特に、ホフマン大佐などは開戦前に児玉副大臣がドイツ陸軍士官学校で行った演説に賛同しており、以前から東部戦線を優先することを主張していた。ヒッパーの決定もホフマン大佐などの働きかけによる。ファルケンファインは西部戦線を重視していたが、ユトランド沖海戦によりドイツ海軍はイギリスの牽制にならなくなったと判断してドイツ海軍の決定を支持した。こうした情報は通信傍受や暗号解読で日英の諜報機関が把握していた。
日本の国防省はイギリス政府に対して第1艦隊合同任務群を第1艦隊に復帰させることを求めた。ドイツ海軍に打撃を与えたので、イギリス海軍の優位は決定的になった。日本艦隊は地中海に戻った方が効果的だと主張した。イギリス政府は日本の国防省の提案を承認し、ビーティも賛成した。ビーティは日本艦隊の伊藤中将を訪問して固い握手を交わした。
日本艦隊はドイツ海軍の巡洋戦艦部隊に大打撃を与えるのに大きな貢献をしたからだ。イギリス巡洋戦艦部隊は有利となり、ドイツ艦隊に対して主導権を握れたからだ。当時は敵艦隊の針路を塞ぐのが極めて重視されていたので(T字戦法が理想とされていた)、これは大きかった。さらに、当時の索敵の中心だった巡洋艦を駆逐するには巡洋戦艦が最適であり、この点でも大きかった。また、伊東中将がドイツ巡洋戦艦部隊を拘束していなければ、イギリス巡洋戦艦部隊の被害は増大していたことは確実だった。こうしたことからもビーティが感謝したのは当然だった。
一方、日本海軍の方でも積極果敢なビーティの方が好かれていた。伊東中将は「海戦では陸戦と違い、優勢な海軍は攻勢に出るべきだ。劣勢な海軍は優勢な海軍が攻勢に出てくれば、港に籠るか消耗するしかない。また、海軍力を形成するには多年の時間と費用が必要で損失が強要されれば、劣勢な海軍にとって耐えがたい損害となる。ドクトリンは基本でしかなく、状況に応じて行動してこそ提督の存在意義がある」と述べた。日本艦隊がユトランド沖海戦で積極果敢に活躍したので、日本帝国に対する批難は少なくなった。これが日本帝国にとって、最大の成果だった。日本艦隊の損傷艦はイギリスのドックに約2か月に亘って入渠し修理を行ってから地中海に戻った。しかし、この間にオーストリア海軍は思い掛けない逆襲に出た。
オーストリア海軍のホルティ提督はユトランド沖海戦が勃発した情報が伝わると、直ちにオトラント堰の破壊作戦を発動するように求めて承認された。この頃のオーストリア海軍は日伊艦隊に封じ込められ、士気も低下していた。第1次オトラント海峡海戦の後も、襲撃は失敗の連続で、逆に日本海軍の潜水艦部隊に戦艦1隻と重巡洋艦1隻、イタリア海軍の魚雷艇部隊に戦艦1隻が撃沈された。ホルティは日本艦隊の金剛級を中心とする艦隊がイギリス本土に移動したことが各国の新聞で報道されたことが情報部から報告されると、直ちにオトラント堰の破壊作戦を発動すべきだと提案した。失敗したとしても金剛級がいなければ、日伊艦隊は追撃を躊躇する可能性が高いからだ。それに、このまま封じ込められたままではオーストリア海軍の存在価値はないも同然だった。
日本帝国からの援助物資は続々とイタリアに入っており、これを妨害すればオーストリア陸軍は必然的に有利となる。こうした理屈はオーストリア海軍首脳部も理解していたが、金剛級を中心とする艦隊がいなくても日伊艦隊の方が優勢なので躊躇した。オーストリア政府にも艦隊を出し惜しみする傾向があった。大金を費やして建造した艦隊を消耗させることを躊躇した(陸軍参謀本部にも)。ホルティは焦ったが、少将に過ぎないので如何しようもなかった。漸く、オーストリア海軍上層部の決断がついたのはユトランド沖海戦が終わった翌日だった。ユトランド沖海戦に金剛級を中心とする日本艦隊が参加したことがドイツ海軍などの情報で明白になったからだ。
また、ドイツ軍情報部から日本艦隊が軽巡洋艦を中心とする部隊を南大西洋などに増援している可能性が高いことも報らされていた。ドイツ軍情報部は新聞などの公開情報、諜報員達による商船の船員との接触で日本海軍が軽巡洋艦を中心とする部隊を増派しているのを把握していた。当時、日本帝国海軍が南米諸国の商船をドイツ海軍の仮装巡洋艦と見做して撃沈した事件の影響で南米諸国はドイツ軍情報部の活動を黙認していた。
オトランド海峡は依然と比べれば手薄になっており(戦艦部隊を除く)、ドイツ政府はオーストリア海軍に出撃を督促していた。そのこともあって、ユトランド沖海戦に金剛級を中心とする日本艦隊が参加していることが明白になると直ちに作戦の発動が承認された。通信傍受で察知されない様に、調整は全て有線による通信と人員で行われた。
6月7日、オーストリア海軍は稼働する全ての艦船を出撃させた。オトラント堰の破壊を担当するのはホルティの艦隊だった(軽巡洋艦3隻、駆逐艦2隻、水雷艇10隻、掃海艇8隻、自爆用の仮装巡洋艦4隻)。他の艦隊は陽動だった。また、日伊の海軍や情報部を誤魔化すために複数の欺瞞作戦が行われた。主な作戦は次の通り。
第一に、潜水艦のダミーを多数、製造した。日伊海軍が潜水艦部隊の動向に注意を集中していたからだ(戦艦同士の艦隊決戦なら勝てる自信は充分にあった)。今回の作戦目的を考慮すると、潜水艦部隊の動向の秘匿は極めて重要だった。漁船などの小型船に木材のフレームを付けて帆布(ペンキを塗って潜水艦に見せかける)を被せ、バランスを取るためと浮力を増やすためにドラム缶(少し砂が入っている)が前と後ろに数個ずつ付けられた。これで海軍基地を外から監視している連合国の諜報員達、潜水艦や魚雷艇などの艦艇を誤魔化した。念の要ったことに、タグボートがダミーをドックに入れることも行われた。また、ダミーには乗員が出入りできるようになっていた。偽の艦長などが出入りしていた。
潜水艦部隊は他の水上部隊と隔離されて、機密が保たれた。オーストリア海軍省などの文書でもダミーの潜水艦の詳細と乗員名簿が記載された。海軍基地の郵便もダミー潜水艦部隊の分だけ増やされた。手紙を書いたのは士官学校の生徒などだった。何れも連合国の諜報機関が探り出すことを見越した措置だった。こうして、日伊海軍はオーストリア海軍の潜水艦部隊の位置を正確に把握できなくなり、数も誇張して見積もるようになった。
第二に、水上艦のダミー艦も建造された。こちらは商船に廃材の排水管などを使ったフレームを付けて偽の武装や艦橋などを取り付けて重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦を装った。ダミー艦の砲塔からは「発砲する」ことができた。原理はロケットの発射と同じだった(初期のロケットは火薬を推進剤に使用していた)。火薬、アルミニウム、鉄屑の調合で艦砲と同じ発砲炎を出せた。夜間なら充分に誤魔化せた。それから偽装網を被せたが、本物の水上艦艇にも同様の物を被せた。これで基地の外から見る分には誤魔化せた。
第三に、通信傍受を利用して日伊海軍を逆に混乱させた。まず、前述のダミー水上艦にも本物の通信設備を搭載し、偽の交信を開始させた(例えば戦艦を装わせた)。同時に、本物の水上艦では周波数を変更させて別の艦艇に見せかけた交信を開始させた。当然、この程度では日本海軍情報部を誤魔化すことは期待できないことはホルティも理解していた。当時の通信機は性能にバラツキがあり、通信手の打電によっても個人で癖が出た。分析官達が詳細に分析すれば、識別は可能だった。そこで、度々、偽装艦に通信させながら夜間に出港させた。当然、日伊海軍情報部は識別してダミー艦と見破る。それを繰り返してダミー艦の通信機を本物の水上艦の通信機を数週間で交換する。同時に、通信チームも入れ替える。これで、日伊海軍情報部は本物の水上艦をダミー艦だと思い込む。なにしろ、ダミー艦の物だった通信機をダミー艦の通信チームが操作しているのだから通信傍受では識別するのは無理だった。通常は、このような手間の掛る方法は使われない(この後、使われた例はない)。通信機の接続は手間の掛る作業であり、不具合が生じる事も多かった。
しかし、オーストリア海軍上層部の消極姿勢が幸いした。日伊海軍情報部や日本帝国の軍情報局などはオーストリア海軍上層部が本当に消極姿勢なのでオーストリア海軍が出撃してこなくても不自然に思いようがなかった。この間に、通信機の交換が行われた。
ホルティ提督は「我々には利点が二つだけある。第一に、戦場が一つであること。第二に、時間の余裕があること。利点は此の二つだけだが、勝利を追求しなければ高級軍人の存在価値はないからね」と述べた。他にも、様々な方法が試されることになった。こうして、オーストリア海軍は作戦を発動した。オーストリア艦隊が大挙して出港したが、日伊海軍はダミーの艦船が多数、出港したと判断して対応が遅れた。その後にダミー艦隊が大挙して出港したので日伊海軍は来襲に備え始めた。ところが、日伊艦隊が態勢を整え始めた頃に、水上偵察機や魚雷艇部隊からオーストリア艦隊発見の報告があった。しかし、司令センターの方ではダミー艦隊の方が本物の艦隊の可能性が高いと判断していた。このため、各艦隊の調整が遅れた。
オーストリア艦隊は日伊艦隊を発見すると直ちに攻撃し、突撃した。艦隊や任務群(日本海軍)ごとに調整されると、劣勢なオーストリア艦隊に勝ち目はなかった。このため、ホルティは事前の作戦会議で積極果敢な攻撃を行って、日伊海軍に調整攻撃を行わせないことを主張した。是が認められ、オーストリア艦隊は日伊艦隊に各個戦闘を挑むことが出来た。日伊艦隊は是までのように、水上機や魚雷艇部隊の支援を受けつつ、司令センターの管制を受けながら他艦隊や他任務群と共同攻撃するという常套戦術が使えなかった。このため、是までと違って互角の戦闘となった。さらに、日伊艦隊の多くの司令官が司令センターの情報に惑わされて決断を躊躇った。
このため、オーストリア艦隊との戦闘では艦隊や任務群ごとの攻撃になり、魚雷艇部隊や水上機部隊との連携も暫くは機能しなかった。特に、痛かったのが日本艦隊の軽巡洋艦(駆逐艦や水雷艇に対する攻撃が得意)や駆逐艦の部隊が他方面に引き抜かれていたことだった。更にイタリア海軍もイギリス海軍からの要請で部隊を引き抜いていた。そして、イタリア海軍は戦時に伴う戦力増強のために、既存艦隊から熟達した士官を引き抜いて艦長に昇進させていた。つまり、日伊海軍は偶然にも共に戦力が低下した状態だった。夜戦ということもあって日伊艦隊とオーストリア艦隊の条件は互角になっていた。オーストリア艦隊も被害が続出したが、是までの戦闘に比べれば良い条件での戦闘だった。
日伊艦隊とオーストリア艦隊が激闘を繰り広げる中、司令センターはダミー艦隊を本物の艦隊ではないと断定することに躊躇していた。このため、思い切った戦力配分ができなかった。魚雷艇部隊や水上機部隊から情報が報せられていたが、司令センターの管制員達や分析官達もベテランが引き抜かれていたので対応が遅れた。このため、日伊艦隊は夜間の上に、煙幕や無線の混信で優位が帳消しになった。日伊艦隊は艦隊や任務群が各個に戦い続けた。それでも日伊艦隊の方が物量は優勢であり、予備戦力が投入され続けた。日本海軍の戦艦や重巡洋艦の性能は優勢、イタリア海軍の各艦種は互角で消耗戦になればオーストリア艦隊の方が負けるのは確実だったからだ。やがて、オーストリア海軍の攻撃も下火になり、司令センターの方でも状況が把握され始めた。
しかし、ここでダミー艦隊が到着した。オーストリア艦隊は再度、攻撃を敢行した。日伊艦隊は漸く混乱から立ち直りつつあったが、ダミー艦隊と本物のオーストリア艦隊の合同攻撃で混乱した。依然として司令センターからの指令も混乱していたので各艦隊はオーストリア艦隊が同規模で再攻撃したと判断した。このため、日伊艦隊は混乱した。例えば、日本の第1艦隊の第1任務群(戦艦3隻が主力)は暫く囮の艦隊を砲撃していた。その後、重巡洋艦2隻を中心とする艦隊を発見して攻撃した。イタリア海軍の戦艦部隊も別のオーストリア艦隊(戦艦3隻が主力)を攻撃していた。ダミー艦と本物のオーストリア軍艦が一緒に発砲したので日伊艦隊は戦力を集中できなかった。
日伊艦隊が混乱している間に、ホルティ艦隊はイタリア海軍の魚雷艇部隊を排除しながらオトラント堰に向かった。軽巡洋艦3隻で砲撃を加えて堰を有る程度まで破壊した。水中にも多数の副砲弾を撃ち込んで有る程度の機雷も爆破した。それから自爆船4隻を突入させた。自爆船はドイツの協力を得て建造された(日本海軍が後に配備した無人標的艦の摂津と似たシステムを採用。摂津ほどの自動化はできなかったが、大部分が自動化されていた。乗員は堰が視認された時点で脱出)。
巧くシステムは機能し、まず、2隻が突入して機雷に触雷して大爆発した。堰も大幅に損傷した。続いて、2隻が突入して堰の一角が完全に破壊された。ホルティ艦隊の軽巡洋艦3隻は砲撃を続けて堰の損傷を拡大させた。掃海艇部隊は機雷を出来る限り除去していた。その間に、オーストリア海軍の潜水艦が続々と浮上して水上航行で堰の破壊箇所から外洋に向かって脱出していった。
一方、日伊海軍は堰が自爆船によって破壊された時点で漸くホルティ艦隊に気づいた。堰の複数の係留施設からの緊急連絡で日伊海軍の司令センターは近くの艦隊に破壊箇所に向かうことを指示した。日本海軍の数機の水上機が現場に向かい、軽巡洋艦の発砲炎の光でホルティ艦隊を発見した。そして、照明弾を投下してホルティ艦隊を照らし出した。潜水艦が脱出しつつあることも報告された。
日伊海軍が慌てたのは言うまでもない。水上機が照明弾を投下した時点で、ホルティは艦隊に退却を命令した。ただし、掃海艇には掃海の続行、処理できなかった機雷に触雷した潜水艦の乗員の救助を命じた(逃げ切れないと判断した場合は降伏しろと命令)。オーストリア海軍の潜水艦部隊は3隻が触雷して沈没した他は脱出に成功した。合計して18隻が脱出した。
ホルティ艦隊はイタリア海軍の艦隊(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)に捕捉された。劣勢だったが(他にもイタリア海軍の水雷艇部隊が襲撃してきた)、ホルティ艦隊は優れた技量を見せつけた。幸いなことに、イタリア艦隊の司令官がT字戦法に拘って先制攻撃の機会を逸した。イタリア海軍の軽巡洋艦に砲撃が集中して炎上した(2時間後に沈没)。
続いて、水雷艇が全艦で突入してイタリア艦隊に雷撃を浴びせた。ホルティ艦隊の他艦も突撃した。イタリア艦隊は完全に混乱した。重巡洋艦1隻は魚雷2発が命中して大破し、もう1隻は魚雷1発が命中した上にホルティ艦隊の軽巡洋艦からの数発の砲弾が命中して中破した。駆逐艦は1隻が大破した。ホルティ艦隊は2隻の水雷艇が撃沈されただけで突破した。
ホルティ艦隊は続いて日本艦隊の第1艦隊第1任務群の偵察部隊(重巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)に捕捉された。照明弾が上げられ、ホルティの艦隊が照らし出される。日本艦隊はホルティ艦隊を発見すると直ちに砲撃を加え、他艦隊や水上機に応援を求めた。ホルティは日本海軍の水上機が上空に滞空したことから煙幕を張って艦隊を退却させた。日本艦隊は追跡を続けたが、オーストリアの主力艦隊(ダミー艦を中心とした偽艦隊)を発見したと思ったので追跡を中止した。
おまけに、オーストリア海軍の潜水艦に雷撃された。4本の魚雷が発射され、重巡洋艦1隻が3発の魚雷を当てられた(2時間後に沈没)。この時点で、日伊海軍の各艦隊は完全に混乱状態であり、日伊海軍の司令センターは各艦隊に戦闘の中止を命令した。こうして、オーストリア海軍によるオトラント堰破壊作戦は大成功した。
両軍の損害は次の通り。オーストリア海軍の損害は次の通り。沈没が28隻(軽巡洋艦1隻、駆逐艦7隻、水雷艇16隻、潜水艦4隻)。大破が4隻(戦艦1隻、重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻)。中破が7隻(戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)。対して、日伊海軍の損害は次の通り。沈没が23隻(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦6隻、水雷艇13隻。日本艦隊は重巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)、大破が8隻(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻。日本艦隊は重巡洋艦1隻、駆逐艦1隻)、中破が6隻(戦艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦3隻。日本艦隊は戦艦1隻、駆逐艦2隻)。オーストリア海軍の損害も大きかったが、日伊海軍の方が優勢であったことを考えれば、勝利だった。
しかし、オトラント堰は直ぐに修復された。原大将は危険を覚悟で日本艦隊の第1艦隊の第1任務群と第2任務群(戦艦5隻が主力)を出動させて直ちにオトラント堰の修復に着手した。イタリア海軍は止めたが、原大将は日本海軍の責任で行うとして作業を強行した。結局、イタリア海軍も作業に加わった。予め、予備のトロール船、漁船、係留施設のケーソンなどが用意されていた。しかし、機雷の敷設などは時間が掛った。このため、オーストリア海軍の潜水艦が日本艦隊に襲撃を度々、仕掛けてきた。また、魚雷艇や駆逐艦が機雷を大量に流した。このため、機雷敷設艦1隻、掃海艇母艦1隻が撃沈された。さらに、重巡洋艦1隻、駆逐艦1隻が大破した。
作業を中止してはとの意見も出たが、原大将は作業を続行させた。作業開始から3日目の夜に、日本艦隊の戦艦「堺」がオーストリア海軍の潜水艦に雷撃されて魚雷3発を受けて中破した。しかし、原大将は作業を続行させた。イタリア海軍も主力艦隊で援護して堰の修復を続けさせたため、オトラント堰は1週間で修復できた。オーストリア海軍は日伊艦隊の戦艦部隊に勝てる程の戦力はなかったので修復作業を妨害できなかった。このため、オーストリア海軍は再び封じ込められた。
しかし、オトラント堰破壊作戦の戦略的意義はあった。脱出したオーストリア海軍の潜水艦はQシップ(民間船に偽装した艦船)の補給艦と会合して補給を受けた上で16隻がトルコやブルガリアの港に辿り着いた(2隻はQシップによる補給中に撃沈された)。これ以後、この16隻はガリポリ上陸作戦の船団を襲撃してイギリス海軍やフランス海軍に負担を強いた。オーストリア海軍はイタリアに向かう船団を攻撃したかったが、ドイツの強い要請でガリポリ上陸作戦の輸送船団を攻撃した。オトラント堰が修復されてしまったので潜水艦部隊に兵站を提供する手段がなかったため、ドイツの言うことを聞くしかなかった。ドイツは見返りとしてロシア軍と対峙していたオーストリア陸軍部隊の大幅な引き上げを認めた。
7月1日、ファルケンファインはベルダン戦を中止させた。こうして、オーストリア陸軍は兵力に余裕ができて防戦が楽になった。このような戦略的効果もあって、オトラント堰破壊作戦はオーストリア国民の士気を大いに高めた。ホルティは中将に昇進し、1918年、オーストリア海軍の総司令官に任命されることになる。一方、原大将は更迭を申し出たが、国防大臣は慰留して任を全うするように厳命した。国防省はイギリス本土の艦隊と南大西に増派されていた艦隊を第1艦隊に戻した。
大谷国防大臣はイギリスに配慮して第1艦隊の戦力と増援艦隊を分散させたことに責任を感じており、原大将に責任を負わせる気はなかった。また、司令センターから熟達した管制官や分析官などを南大西洋やイギリス本土に応援として派遣させたのは国防省だった。原大将が直ちにオトラント堰の修復を行ったことも高く評価していた。直ちに修復しなければ、オーストリア海軍が活発に活動してイタリア向けの船団が重大な脅威に晒される恐れがあったからだ。日本帝国の戦略を理解して国防省の命令に忠実な原大将を高く評価していた。原大将は終戦まで日本海軍の派遣総司令官を務め、終戦後は連合艦隊司令長官に任命された。
ユトランド沖海戦でイギリス国民に、日本帝国の貢献を強力に印象付けることもできたので日本帝国の国防省は日本海軍の配置を元に戻した(イタリア海軍も)。イギリス政府もオトラント堰の重要性を再認識し、日本帝国に同意した。以後、イギリスは日本海軍の増援を他方面に向けるよう要請することも無くなった。ユトランド沖海戦での日本艦隊の活躍もあって、日本帝国の貢献に対するイギリス国民の認識が高まったことが重大な要因だった(イギリス政府は従来から認識していた)。終戦まで日本帝国とイギリスの関係は良好だった。
1916年7月1日、イギリス陸軍はソンムで大攻勢を開始した。しかし、長時間の砲撃で奇襲性を損ない、密集隊形で突撃したので大損害を被った。前進することもできず、戦局は膠着状態に陥った。日本帝国は英仏に対して攻勢を1916年9月まで発動しない様に求めた(最低でも。できれば、1917年まで)。ところが、イギリス陸軍は聞く耳を持たなかった。イギリス政府は理解を示したが、こちらも解任する気はなかった。ヘイグを解任することはイギリス政府の失敗を認めることになるからだ。このため、イギリス陸軍は以後も損害を重ねることになる。
一方、ドイツ大洋艦隊は続々と出港してバルト海に移動した。ドイツ陸軍を支援するために、ロシアのバルチック艦隊を撃滅してサンクトペテルブルクに脅威を与えるためだった。一先ず、再編成と艦船の補修を行った。上陸船団の準備が進められていたが、イギリス陸軍がソンムで大攻勢を発動したことから作戦は延期になった。
一方、1916年8月31日、ルーマニアが参戦した。ルーマニアはロシア陸軍の南西方面軍(ブルシロフ将軍)による攻勢でオーストリア陸軍が大打撃を受け、ドイツ陸軍も打撃を受けて後退を余儀なくされたことに幻惑された。しかし、ロシアはルーマニアに何も期待していなかった。よって、援軍を送る気は全く無かった。ドイツ陸軍、ブルガリア陸軍はルーマニアを攻撃して追い詰めていった。そして、12月7日、ドイツ陸軍とブルガリア陸軍はルーマニアの首都のブカレストに入城した。こうして、ルーマニア陸軍は事実上、壊滅した。そして、1918年5月、正式にドイツなどに降伏した。このように、1916年の状況はドイツなどの中央同盟諸国が少し有利だった。
1916年10月16日、日伊陸軍は大攻勢を発動した。これまで、英仏が幾ら要請しても日本陸軍派遣部隊は陸戦で攻勢を発動しなかった。イタリア陸軍も攻勢を停止していた。日伊両国の政府は英仏の自国軍兵士が戦死することを何とも思わない無神経さに嫌気が差していた。カドルナを除くイタリア陸軍の多くの将官達も日本陸軍派遣軍の主張に賛同し始めていた。当初の方針では9月には攻勢を発動する予定だった。
しかし、イタリア政府が攻勢の延期を提案した。表向きの理由は、日伊陸軍の戦車部隊の出撃の準備が整うからだ。しかし、イタリア政府が日本帝国の意見に賛同し始めた結果だった。未回収のイタリアを手に入れたならば、セルビアなどと国境紛争を抱えることは確実だった。戦争になる可能性も高い。この戦争でイタリア陸軍が回復不能の打撃を受ければ領土を維持できなくなり、何のために参戦したのか分からなくなってしまう。このため、イタリア政府も攻勢に消極的になっていた。このため、9月の予定が戦車部隊の準備が整う10月まで延期になった。
更にイタリア政府は陸軍戦術法を制定した。攻勢時に戦死者が10%に達した師団は陸軍大臣の指揮下に移すというのが趣旨だった。つまり、カドルナが攻勢を抑制することが目的だった。カドルナは激怒したが、イタリア政府は無視した。イタリア政府は英仏の意向もあってカドルナを解任はしなかったが、カドルナは自発的に辞職することを期待していた。しかし、カドルナは辞職しなかった。
この間、日本陸軍とイタリア陸軍は共同訓練と調整を入念に行っていた。歩戦共同訓練、航空隊と地上部隊の調整、通信の調整などを行っていた。現場レベルでは連携が深まっていた。多くのイタリア陸軍の将官達と日本陸軍派遣部隊の将官達の連携も良かったが、カドルナとの関係は最悪だった。しかし、日本陸軍派遣部隊は日本海軍と違ってイタリア陸軍の指揮下にあったわけではなく、イタリアの陸軍大臣が連携させているに過ぎなかった。このため、カドルナの意向とは関係なく、日本陸軍派遣部隊は攻勢の準備を進めた。
イタリア陸軍部隊が日本陸軍派遣部隊に予備兵力として配属された。3個歩兵師団と200輛(予備として20輛)の戦車部隊だ。なお、日伊陸軍の戦車はイギリス製の菱型戦車だった。日本帝国の国防省は戦死者を少なくする必要から戦車の開発にも熱心だった。このため、イギリスと共同開発を進めていた。漸く、この時期になって準備が整った。イタリアの参戦が決まると、イタリアにも供与と訓練の指導を進めていた。こうした準備が整い、日伊陸軍は攻勢に向けて自信を深めていた。日本陸軍の戦車は合計で300輛(予備として40輛)だった。
ゴリツィアを攻略する前に、イゾンツォ川の前の陣地を占領する必要があった。さらに、ゴリツィアの前にはイゾンツォ川があり、まず、歩兵部隊が橋頭堡を確保する必要があった。当時の戦車は性能が低く、イゾンツォ川の浅い所でも立ち往生してしまうからだ。しかし、神尾中将は派遣部隊の練度に自信をもっていた。攻勢の中心となるのは日本陸軍派遣部隊だった。神尾中将などの指揮官達は観測兵の軍装をして前線を度々、視察した。
そして、10月17日、日本陸軍派遣部隊とイタリア陸軍部隊が攻勢を発動した。作戦目標はゴリツィアだった。10月17日の明け方から日本陸軍の第20師団と第21師団が陽動作戦を開始した。35分間の猛烈な準備砲撃後、両師団の歩兵部隊が突撃壕から進撃する。オーストリア陸軍の第1線には野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、第2線には榴弾砲部隊が榴弾による砲撃を行った。日本陸軍が塹壕線を突破する際の常套手段であり、オーストリア陸軍は予備兵力を移動させた。しかし、日本陸軍部隊は第1線の塹壕は奪ったが、それ以上の前進はしなかった。あくまで陽動作戦だからだ。オーストリア陸軍部隊は防戦に成功していると思っていた。第2線へも日本陸軍の各歩兵分隊が銃撃を加え続けた。犠牲も多かったが、オーストリア陸軍の予備兵力を引き付けた。
12時20分、日本陸軍派遣部隊に配属されたイタリア陸軍の第1師団が戦車150輛で攻撃を開始した(50輛が故障して脱落していた)。イタリア陸軍の第1歩兵師団は他の2個師団から増強されていた。特に、全ての迫撃砲部隊が増強されていたので近接火力が強くなっていた。まず、10分間の準備砲撃がオーストリア陸軍の塹壕線に行われた。第1線と第2線が野砲部隊と榴弾砲部隊によって万遍なく砲撃された。地雷を吹き飛ばすのが目的だった。それが終わると、イタリア陸軍の第1師団の第1派の部隊(戦車と歩兵の混成部隊)が前進した。戦車部隊は前進する間に、誘導されて整列した。戦車5両が歩兵1個中隊に付いた。勿論、歩兵分隊同士の間隔は開いている。
イタリア陸軍も日本陸軍と同様に、散開した隊形で戦闘できるよう訓練しつつあった。第6軍団に配属された3個歩兵師団は其の先駆けだった。各歩兵分隊にも日本帝国から供与された種子島1911(2挺)が配備された。各歩兵中隊には機関銃分隊と工兵分隊も増強されていた。第1線の塹壕には野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、榴弾砲部隊が第2線の塹壕に榴弾による砲撃を行った。航空観測による的確な砲撃だった。オーストリア陸軍の砲兵部隊が阻止砲火を開始する。榴弾が着弾し始め、イタリア陸軍の歩兵部隊は伏せる。
しかし、日伊陸軍航空隊の観測機がオーストリア陸軍の砲兵隊に砲撃を誘導する。発煙弾がオーストリア陸軍の砲兵隊の近くに撃ち込まれる。観測機が風向と風速を報告すると、試射は省略され直ちに効力射(本格的な砲撃)が開始される。観測機の誘導で弾幕がオーストリア陸軍の砲兵隊に向けられていった。オーストリア陸軍の砲兵隊は砲撃に包まれる。火砲と砲手達が吹き飛ぶ。残りの砲手達は伏せているしかない。オーストリア陸軍の阻止砲火は止み、歩兵部隊は戦車に追いつく。オーストリア陸軍の砲兵隊は日伊陸軍の砲兵隊の激烈な砲撃により沈黙していった。
こうして、イタリア陸軍の第1師団の第1派は順調に前進した。第1派の部隊は第1線に約200mまで迫ると、次々に信号弾を上げた。観測機や観測兵部隊の報告で煙幕弾による砲撃が停止され、第1派の部隊が第1線の制圧に着手する。同時に、第2派の部隊(歩兵部隊、工兵部隊、機関銃部隊、ストークス臼砲部隊、山砲部隊で構成)が突撃壕から第1線へ向かう。第1派の部隊では歩兵部隊と戦車部隊が連携して塹壕を制圧していく。オーストリア陸軍の機関銃陣地を発見すると、歩兵部隊が戦車に近寄って位置を報せる。
一例は次の通り。戦車1輛が1個歩兵小隊と共に正面から迫る。戦車は砲で機関銃陣地を砲撃する。戦車に随伴している歩兵小隊も2個分隊が前進し、2個分隊が射撃する(継続躍進)のを繰り返しながら戦車と共に前進する。一方で、戦車2輛と2個歩兵小隊が左右から継続躍進で進撃して攻撃する(戦車2輛と1個小隊は予備として待機)。
これにより、多くの機関銃陣地は苦も無く撃破された。戦車に近寄ろうとするオーストリア陸軍の歩兵は歩兵小隊が銃撃で薙ぎ倒していった。こうして、第1線は簡単に突破された。重要なのは抵抗が激しい地点は避け、手薄な地点を制圧していったことだ。第1線の塹壕に橋頭堡を確保すると、第1派の部隊は戦車部隊を整列させ、歩兵1個小隊を護衛に付けた。そして、第1派の歩兵部隊は第2派の部隊と協力して残敵を掃討し、第1線を完全に制圧した。それから、第1派の部隊は第1線から出撃して第2線へ向かった。第2線は第1線と同様の手段で制圧された。
オーストリア陸軍師団司令部はイタリア陸軍部隊が是までと違って、的確な支援を受けながら前進してきたので驚愕した。第3線の塹壕に増援部隊を向かわせた。しかし、日伊陸軍の砲兵隊が観測機の支援で的確な阻止砲火を行った。発煙弾が撃ち込まれ、観測機からの報告を基に射撃指揮所が修正して試射を行う。観測機からの報告で修正しながら着弾が交通壕に集中したところで効力射の指令が出される。交通壕に多数の榴弾が着弾し、次々に炸裂する。多くのオーストリア陸軍兵士が吹き飛び、増援が遮断される。イタリア陸軍部隊は第3線も制圧する。
第3線まで第1歩兵師団が到達すると、予備の戦車と修理された戦車が全て投入され、イタリア陸軍の2個歩兵師団に配属されて進撃を続けた。オーストリア陸軍部隊は仮設橋を渡って対岸に退却した。こうして、ゴリツィア前面のオーストリア陸軍陣地は陥落した。イタリア陸軍の第1師団などの将兵は是までと違って格段に少ない犠牲で陣地を奪取し、捕虜も多かったので大いに士気が上がった。一方、オーストリア陸軍はゴリアチが危険になったので一旦、ゴリツィア前面の戦力を増強した。しかし、日本陸軍の戦車部隊が夜間、大挙してゴリツィアの北と南の対岸に移動していたので戦力を再配置した。
しかし、これは欺瞞作戦だった。移動していたのは戦車のダミーだった。ダミーはトラックに載せており、拡声器から戦車の走行音を録音したテープを大音量で流していた。更に、戦車の移動を隠すそうとしていると見せかけるために、砲兵隊と夜間攻撃の特別飛行隊が攻撃を行った。ただし、前線のオーストリア陸軍部隊がダミー戦車の音を聞き取れる程度に。一方で、ゴリツィア前面には砲撃が続いていた。日本陸軍の砲兵部隊は準備砲撃を短めに行うのが普通だった。このため、オーストリア陸軍部隊の指揮官達はゴリアチ前面の砲撃は陽動作戦の一環で攻勢は北と南だと思ってしまった。実際は、日本陸軍の本物の戦車部隊が砲撃の音に紛れて移動していた。他の日本陸軍部隊とイタリア陸軍部隊も秘かに交代していた。
そして、10月18日の夜明けと同時に、イソンゾ川の一帯に突破点を造るための砲撃が10分だけ行われた。その後、第1線と対岸に野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、第2線に榴弾砲部隊が榴弾による砲撃を行った。第18師団、第19師団、第22師団が作戦を開始した。日本陸軍の各歩兵分隊が煙幕に紛れて第1線の塹壕に接近する。オーストリア陸軍部隊の射撃には軽機関銃の銃撃で応戦しつつ、抵抗の手薄な地点を目指す。抵抗の手薄な地点を見つけたら、そこに手榴弾を次々に投擲して突入する。そして、オーストリア陸軍兵士がいれば銃剣で刺殺していく。降伏する兵士がいれば、小銃と手榴弾を取り上げて爆破処理してから伏せておくように命じる。それから後方に浸透していく。
第2線の塹壕に近づくと、各歩兵分隊は信号弾を発射して砲撃の着弾地点を挺進させた。日本陸軍の各歩兵分隊は手薄な地点を攻撃しながら、更に後方へ浸透していった。そして、第3線を突破すると反転してオーストリア陸軍の塹壕線の手薄な地点を攻撃した。第2波の日本陸軍の部隊は歩兵小隊に機関銃分隊と工兵分隊を配属している。第1派と同様に突破していく。ただし、こちらは第3線を第1派と共同で制圧した。ただし、抵抗の大きな地点は放置して第3派の部隊を待った。この間、日本陸軍航空隊の観測機は第二波の各歩兵分隊が突破すると、オーストリア陸軍の強化陣地付近と兵力の密集地域に砲撃を誘導し、オーストリア陸軍部隊の逆襲を防いだ。
前線のオーストリア陸軍部隊は混乱した。第1線の部隊は短い砲撃の後に多数の煙幕弾を撃ち込まれ、突破された。第2線や第3線の部隊は継続的に砲撃を受け、砲撃が終わった後、直ぐに複数の日本陸軍歩兵分隊の攻撃を受けて突破された。そして、態勢を立て直せない内に背後から日本陸軍の各歩兵分隊によって攻撃された。オーストリア陸軍部隊は塹壕線に沿って戦力が分散していた。更に、日本陸軍の歩兵分隊は2艇の軽機関銃を装備していたので火力でも撃ち負けなかった。そして、オーストリア陸軍は分隊単位での戦闘に慣れていなかった。第3派の日本陸軍部隊は小隊単位で進んだ。勿論、各分隊で距離をとっていた。第3派の部隊は歩兵部隊、機関銃部隊、ストークス臼砲部隊、工兵隊で構成されていた。
第3派は第1派と第2派に呼応して、塹壕線を制圧して地域を確保していった。ただし、抵抗の薄い地点を制圧するようにし、抵抗の強い地点は迂回した。抵抗の強い地点には、第3派の歩兵部隊がストークス臼砲から発煙弾を撃ち込んで上空の観測機に目標を報せて、砲撃させた。橋頭堡を確保すると、工兵部隊が渡河橋を組み立て戦車部隊を渡河させた。戦車部隊は第3派の歩兵部隊に支援されながら第2線塹壕と第3線塹壕を制圧していった。オーストリア陸軍部隊は浸透してきた複数の歩兵分隊の攻撃に混乱していた。そこに、戦車と歩兵の混成部隊が攻撃してきたので総崩れになり、相次いで降伏した。こうして、イゾンツォ川の防衛線は正午までに呆気なく突破された。橋頭堡が安定すると、日本陸軍部隊は砲撃の支援を受けながら戦車と歩兵の混成部隊で前進した。
基本的にはイタリア陸軍と同様の戦術だった。第18師団の第1旅団は市街地の北側から、同師団の第2旅団は市街地の南側からゴリツィアを攻撃した。日本陸軍の砲兵隊は観測機の支援により、猛砲撃をオーストリア陸軍の砲兵隊や部隊の密集地域に浴びせた。オーストリア陸軍部隊は砲兵隊を無力化され、反撃のための部隊集結も妨害されて追い詰められていった。戦車と歩兵の混成部隊に押され、歩兵部隊の浸透戦術で戦線を分断されていった。
市街地に迫っても日本陸軍部隊の優位は変わらなかった。正面から迫る戦車と歩兵の混成部隊に応戦していると、左右から浸透した日本陸軍の各小隊に攻撃された。日本陸軍の小隊は2個分隊が射撃している間に2個分隊が前進した。是を繰り返して前進する。そして、接近すると次々に手榴弾を投擲して制圧していった。ゴリツィアのオーストリア陸軍部隊は撃滅される恐れが出てきたので慌てて退却した。オーストリア陸軍部隊は、的確な砲兵支援、歩兵部隊による浸透戦術、戦車と歩兵の混成部隊(迫撃砲部隊や工兵隊の支援も加わる)を駆使する日本陸軍部隊の攻撃に対応することができなかった。
正午には、オーストリア陸軍部隊は潰走に追い込まれていた。日本陸軍の第6騎兵旅団が追撃した。第6騎兵旅団は1個連隊ずつを3個師団の戦区に割り当てた。騎兵旅団の装甲車部隊が道路上を進み、オーストリア陸軍部隊に機関銃で銃撃を浴びせる。オーストリア陸軍の歩兵が薙ぎ倒される。騎兵部隊は馬を下りて下馬戦闘を行う。歩兵部隊と同じく2個分隊が射撃し、2個分隊が進む。是を繰り返して進撃していく。オーストリア陸軍の歩兵分隊は軽機関銃を装備しておらず、不利だった。装甲車部隊の機関銃掃射も相まって、オーストリア陸軍兵士が次々に撃たれていった。装甲車部隊は下馬した騎兵部隊と連携しながら進撃した。
第18師団、第19師団、第22師団の歩兵部隊も騎兵旅団の部隊に続く。トラック部隊が自転車を運んでくる。それに歩兵部隊は乗って、装甲車部隊に後続した。オーストリア陸軍兵士達の降伏が相次いだ。日伊陸軍の航空隊による空爆が混乱に拍車を掛けた。日伊陸軍の複葉機が次々に降下し、ロケット弾を一斉発射する。オーストリア陸軍部隊の馬車が次々に吹き飛んでいく。オーストリア陸軍部隊の退却は完全な潰走に変わる。オーストリア陸軍部隊はゴリアチの北部にある高地や南部の森に逃げ込んだ。
13時20分にはゴリアチのオーストリア陸軍部隊の全てが降伏した。オーストリア陸軍部隊は森や高地で態勢を立て直そうとしたが、第19師団と第22師団は歩兵部隊による浸透戦術で追撃した。日本陸軍部隊は航空観測による砲撃の支援で猛攻を続けて18日中にゴリツィア周辺を制圧した。神尾中将は攻勢を続行することも検討したが、オーストリア陸軍が鉄道で予備兵力を急派しつつあることや砲兵隊の大規模な配置転換が必要であることから攻勢を中止した。
ただし、ゴリツィア南部の森における攻勢は続けさせた。次回の攻勢に備えて、出来るだけ前進しておきたかったからだ。このため、他の戦線でも陽動攻撃を続行させた。オーストリア陸軍部隊を追撃して第19師団と第24師団はモンファルコーネを目指した。しかし、オーストリア陸軍が森に予備隊を送り込んで防御線を展開したので20日に攻勢は中止された。こうして、日本陸軍派遣部隊を中心としたゴリツィア攻略作戦は終了した。
日伊陸軍の明確な勝利だった。ゴリツィアを中心とする地域を約2日で制圧し、イストリア半島への進撃が可能になったからだ。また、オーストリア陸軍にとっては守備しなければならない地域が増えたので防衛が困難になった。また、損害面でも日伊陸軍の勝利だった。両軍の損害は次の通り。日伊陸軍は戦死が約4700(日本陸軍は約4千)、負傷が約1万5千(日本陸軍は約1万2千)。オーストリア陸軍の損害は戦死が約1万3千、捕虜が約2万2千、負傷が約1万6千。オーストリアにとってはロシア陸軍によるブルシロフ攻勢に次ぐ衝撃を与え、陸軍や国民の戦意が低下した。ドイツは6個師団と航空隊を急派した。ドイツ陸軍は、この後も増援部隊を派遣するしかなかった。ドイツ陸軍に兵力分散を強いたことも重要な戦略的成果の一つだった。
ゴリツィア攻略作戦の勝利で日伊陸軍の将兵は大いに士気を高めた。日本陸軍派遣部隊にとってはイタリア戦線における大勝利であり、イタリア陸軍にとっては初の明確な勝利だった。特に、イタリア陸軍の将兵にとっては是までの犠牲が多い割に戦果が少ない攻勢とは対照的だった。
日本陸軍派遣部隊が攻勢の中心だったとはいえ、イタリア陸軍の第1歩兵師団を中心とする部隊も是までと比べて格段に少ない損害で戦果を挙げることが出来た。戦車、軽機関銃、イギリス陸軍型のヘルメットなどの新装備で固められ、勝利できたことは大きな自信となった。イタリア陸軍の兵士達は自分達がオーストリア陸軍を上回る存在になったと感じた。これにより、度重なる攻勢による大量の戦死者で低下しつつあった戦意が回復した。是は後の戦局にも大きな影響を与えた。
一方、日本陸軍派遣部隊にとっても大きな意義があった。第一に、初の戦車、歩兵、砲兵、装甲車、航空機を諸兵科連合させた攻勢作戦だった。幾ら訓練を積んでいても、実戦となれば話は別だった。このため、神尾中将も内心は不安だった。しかし、入念な準備と徹底的な訓練で大成功を収めた。これにより、日本陸軍派遣部隊は大きな自信を持ったし、運用の経験を最良の形で積むことができた。
第二に、歩兵部隊による浸透戦術および歩兵部隊と戦車部隊の混成部隊による攻撃戦術(迫撃砲部隊と工兵隊も配属)の成功。歩兵部隊による浸透戦術はロシア陸軍に同行していた武官達の報告書や軍情報局および対外特務庁の報告(ロシア陸軍内部にも複数のスパイを確保していた)を基にブルシロフ将軍の浸透戦術を取り入れた戦術だった。元々、日本軍は被害を軽減するために、分隊の単位でも戦闘できるように訓練されていたし、過去にも戦闘を行っていた。このため、浸透戦術の概要だけでも判明すれば、実践は難しくなかった。日本陸軍でも類似した方法が検討されていたが、全く前例のない戦術だったので採用されなかった。
それだけに、ブルシロフ将軍が実行した時は驚愕した。大戦果を挙げたから尚更だった。しかし、詳細は不明だったし、実戦となると話は別だった。それが成功し、経験を積むことができたことは大きかった。同時に、行われた戦車と歩兵の混成部隊による攻撃も上手く機能した。配属された迫撃砲部隊と工兵部隊も戦車と歩兵の混成部隊を効果的に支援した。そして、歩兵部隊による浸透戦術と、戦車と歩兵の混成部隊による攻撃戦術の組み合わせが成功したことは意義が大きかった。
この頃の戦車は性能が低く、歩兵部隊を主体にした攻撃を実行するしかない場面が多かった。このため、歩兵部隊が浸透戦術によって攻撃路を開く方が望ましかった。また、当時の戦車は無線機がなく、歩兵部隊も基本的に徒歩で追随するしかなかった。このため、戦車と歩兵の混成部隊が進撃して攻撃すると同時に、歩兵部隊が浸透戦術で側面を急襲する戦術が最良だった。それが今回の戦いで実現できたのだから、日本陸軍上層部の喜びは大きかった。
塹壕線を突破する方法は確立され、後は戦果を拡張する戦術が課題だった。日本陸軍の装甲車(種子島1913式)は6輪駆動であり、当時、配備されていた軍用車では世界最高の性能だった。しかし、不整地踏破能力は依然として低かった。このため、塹壕は越えられず、樹や溝などでも進撃が阻止できた。戦果拡張の手段がないことは敵軍に立ち直る機会を与えるが、解決手段は開発されていなかった。このように、課題は残っていたが、ゴリツィア攻略作戦はイタリア戦線の転換点になった。
日伊陸軍はゴリツィア攻略戦以後、戦局を有利に進めていく。しかし、問題は攻勢軸が限られていることだった。イタリアとオーストリアの国境地帯は山岳と森が多いために攻勢が難しかった。このため、トリエステを目標にして沿岸地帯を進むしかないと結論付けられた。そして、イストリア半島を制圧して戦線を広げてオーストリア陸軍の分散を強いる作戦だった。イストリア半島にはオーストリア海軍の軍港があるポーラが位置していた。オーストリアにとっては放棄しにくい半島だった。ここでオーストリア陸軍を消耗させることができれば、オーストリア本土に攻め込む機会も出てくる。
しかし、この作戦だとオーストリア陸軍に対して日伊陸軍は側面を晒すことになってしまう。しかし、イタリア陸軍は攻勢を控えて戦力を温存してきたので兵力に余裕があった。また、日本帝国の援助もあって装備も充実し、生産体制も整ってきた。このため、防御を主とすれば戦線の維持は充分に可能だった。このため、イストリア半島を目標とした作戦が採用された。神尾中将はイタリア陸軍の戦線が広すぎることを指摘し、南チロルなどの戦線は縮小するべきだと主張した。
しかし、イタリア政府は英仏の手前もあって他の戦線も現状維持とした。ただし、他のイタリア陸軍将官達の意見もあって各戦線の背後に戦略予備の軍団を配置することになった。戦略予備の軍団は陸軍大臣の指揮下におかれた(実際はルイジ・カッペロ将軍が指揮)。カドルナに攻勢を独断で発動させない様にするためだった。カドルナが解任されなかったのは英仏にイタリアが攻勢を放棄していないことを示すポーズに過ぎなかった。
日伊陸軍がイストリア半島を目標にした作戦を展開するにはアドリア海の制海権が不可欠だった。日本艦隊は戦力の集中が完了していなかった。特に、金剛級4隻を中心とする任務群の再編成が終了していなかった。イタリア海軍も再編成のために訓練が完了しておらず、艦隊としての練度が高いとはいえなかった。オーストリア海軍が其れなりの戦力を残していたし、オトラント堰の防衛も重要だった。このため、攻勢は日伊海軍の準備とイタリア陸軍の訓練が終了まで延期になった。英仏は抗議したが、日伊両国とも即時の攻勢の要求を拒否した。1917年の1月まで日伊両国は防衛に徹することになる。
ドイツ陸軍参謀本部は日伊陸軍によるゴリツィア攻略の成功に驚いた。このため、6個師団の増援部隊を急派したが、日伊陸軍は急速に進撃してこなかったので安堵した。冷静に考えると、オーストリア本土に向かうのは山岳地帯を登ることになる以上は無理があった。それに、オーストリア陸軍の兵力は大分、帰還させていたので戦線が崩壊する怖れは少なかった。このため、ドイツ陸軍はオーストリア陸軍に対する増援は6個師団で止め(補充兵を送る必要があるので負担が増えることに変わりはないが)、オーストリア陸軍は防衛に専念させることにした。バルカン半島の戦線からもオーストリア陸軍が戻され、代りにブルガリア陸軍が増派された。ドイツ陸軍参謀本部はイタリア戦線でドイツ陸軍を主体とした反撃に出ることも検討した。
しかし、日本陸軍派遣部隊を始めとする強力な援助を日本帝国がイタリアに提供している以上は見込みがないとされた。さらに、イタリア戦線に戦力を投入し過ぎると、ロシア、イギリス、フランスに対する圧力が軽減されてしまう。連合国側の思う壺だと判断された。陸軍参謀総長のルーデンドルフは攻勢が容易なロシアに対して集中的な打撃を与えて戦争から脱落させることにした。このため、ドイツ陸軍だけではなく、ドイツ海軍も動員した作戦が展開されることになった。
まず、ロシア陸軍に兵力分散を強いるためにアルビオン作戦が発動された。オーゼル島、ダゴエ島、ムーン島が目標だった。リガ湾のロシア艦隊とイギリス海軍の潜水艦部隊を封じ込めると共に、サンクトペテルブルクに脅威を与えるのが目標だった。バルト海沿岸にロシア陸軍が一定の兵力を張り付けることも余儀なくさせることもできる。こうして、1916年11月20日、アルビオン作戦が発動された。ドイツ海軍は戦艦12隻、巡洋戦艦2隻を主力とした艦隊を出撃させた。
ドイツ艦隊は2個師団をオーゼル島とダゴエ島に上陸させた。ロシア艦隊の旧式戦艦2隻と重巡洋艦1隻を主力とする艦隊を配置していた。ドイツ艦隊の戦艦6隻を中心とする艦隊がムーン湾の入り口に陣取っていたロシア海軍の戦艦2隻を攻撃した。ドイツ海軍の戦艦はロシア海軍に比べて新型であり、早々に命中弾を与えた。ロシア海軍の旧式戦艦は圧倒され、約1時間で2艦とも撃沈された。他に、駆逐艦2隻が撃沈された。残りのロシア艦隊は退却したが、巡洋戦艦2隻を主力とするドイツ艦隊に捕捉されて重巡洋艦1隻、駆逐艦5隻が撃沈された。こうして、リガ湾のロシア艦隊は壊滅した。
ドイツ陸軍の2個歩兵師団による攻撃も順調だった。20日中に、両島は占領された。翌日、ムーン島も占領された。リガ湾は封鎖され、ロシア陸軍はバルト海沿岸に一定の兵力を張り付けなければならなかった。ロシア海軍の軍艦は旧式艦が多く、射撃管制装置も旧式でドイツ海軍の敵ではなかった。このため、ロシア陸軍はロシア海軍を信頼できず、戦力を分散するしかなかった。この後も、ロシア海軍はドイツ海軍に押される一方だった。
12月7日、オーランド諸島にもドイツ艦隊はドイツ皇帝親衛師団1個を上陸させて占領した。これらの島を占領したことで、ロシア艦隊はフィンランド湾に封じ込められ、ロシア陸軍も兵力の分散を余儀なくされた。ドイツ陸海軍は、これらの島から工作員の潜入(魚雷艇、漁船などを改造した工作船を使用)、精鋭部隊による奇襲上陸、ラジオ放送や水上機によるビラの散布によるフィンランド独立運動やロシア革命運動の扇動などを行った。フィンランドに対する工作は失敗した。大部分のフィンランド人は共産主義政権が成立するまではロシアに忠実だった。しかし、ロシアの治安機関やロシア陸軍を疑心暗鬼に陥れることはできた。
逆に、ロシア国内への工作は成功した。共産党、社会主義勢力の過激派は程度こそ違えどドイツからの援助を受けていた。ドイツ海軍の工作部隊によるラジオ放送やビラの散布で暴動が頻発した。ロシアの治安機関はロシア国内での取締りが緩かった。帝政ロシアでは言論の自由が基本的に認められ、刑務所の環境も良かった。このため、トロッキーなどはシベリアからも脱走できた。デモは厳重に取り締まられたが、活動家は指名手配されていない限りは逮捕ないし拘束されなかった。こうした政治環境だからこそ、後に共産主義革命が成功した。後のソ連政府や現在のロシア政府が帝政ロシアの教訓を重視したのは当然だった。同時期の日本帝国とは対照的だった。
日本帝国では経済の自由を除けば、自由は法律で認められた範囲でしか無かった。戦時下になると戒厳令が自動的に発動されるので、それらの自由の大半が凍結された。平時でも、公務員には政治上の自由は無く(現在もない。代わりに給料面や税制面で優遇)、枢密院議員、貴族院議員、衆議院議員も国家に対する忠誠義務が課されていた。このため、日本帝国は現在に至るまで共産主義運動などが流行することは無かった。こうした政治環境下にあるロシアで共産主義運動などが流行するのは戦前から予想されていたことだった。このため、日本帝国の援助は限定されていた。日本帝国政府は、この時期から共産主義者や無政府主義者などがロシアで政権を掌握した場合の対策を検討していた。
このように、事態が深刻化したのでロシア政府はロシア海軍に、バルト海の島々の奪還を命令した。正に、ドイツ海軍の思う壺だった。ロシア海軍はドイツ海軍との艦隊決戦に敗れ続けることになる。更に、英仏の要請に応えて攻勢を発動して陸軍兵士達の戦死者を増やし続けたことが戦意を低下させていた。ドイツ陸軍参謀本部はバルト海で攻勢を展開してロシア陸軍の兵力を分散させる一方で、東部戦線の陸上でも攻勢を発動した。
1916年12月24日、現在のラトビアにあるリガに対して、フーチェル将軍が率いるドイツ第8軍が攻勢を敢行した。フーチェル将軍は浸透戦術を実行させ、12月27日、リガと其の一帯を占領した。ロシア陸軍部隊にも大打撃を与えた。ロシア陸軍部隊は度々、ドイツ第8軍がフェイントを掛けてきたのでクリスマスということもあって油断していた。さらに、ロシア陸軍部隊はドイツ陸軍による浸透戦術に対応できなかった。ブルシロフは自身の南西軍が攻勢を成功させた後も、自軍の他の将軍達に詳しい説明をしなかった。理由は現在も不明だが、ロシア陸軍は対応できなかった。ロシア政府は苦境に陥ったので、英仏に支援を要請した。
しかし、英仏に兵力派遣の余裕は無かった。イギリス政府は日本帝国にロシアへの援助増大か陸軍の派遣を要請したが、日本帝国は冷ややかに拒否した。日本帝国はロシアが将来も脅威だと予想していた。さらに、ロシア人の多くが無政府主義や共産主義に染まってきていることにも不信感を懐いていた。そして、これまでの貢献で大部分の国力を使っていた。これ以上の貢献拡大を行えば、中国大陸などで不足の事態が起きた場合、対応できなかった。よって、日本帝国はイギリス政府の提案を拒否した。イギリスは艦隊を派遣することも検討したが、狭いバルト海の入り口に艦隊を突入させれば、ドイツ海軍に撃滅される恐れがあったので断念した。ドイツは1917年にロシアを屈服させることを目指して着々と準備していた。
1917年1月11日、日伊陸海軍は大攻勢を発動した。作戦目標はイストリア半島の攻略だった。まず、1916年12月下旬にイタリア陸軍の1個軍団がマルタ島に移動した。そこに日伊の輸送船団が集結して上陸を計画しているように見せかけた。実際は、イタリア軍部隊は乗船していなかった。喫水線で欺瞞が露見しない様に砂が入れられた木箱などを搭載し、各階級の将兵を船上でスポーツや賭博をさせた(1個小隊の兵士達が艦内で変装していた。ダミーの人形も並べられた)。輸送船から最小限の通信も行われ、イタリア陸軍参謀本部などで上陸作戦の検討が行われた。極秘文書が配布され、郵便の取り扱いも変更された。そして、輸送船団は厳重な護衛下でマルタ島を出発した。オーストリア陸軍の兵力をアドリア海の沿岸に分散させておく狙いは成功した。
その上で、11日にイタリア第1軍(ディアズ将軍が指揮)が大攻勢を開始した。当面の目標はゴリツィアの南方のモンファルコーネだった。同時に、陽動作戦として日本陸軍派遣部隊がゴリツィア東方のアイドフシチュナに向けた攻勢を開始した。日本第1艦隊の主力(戦艦6隻、金剛級4隻)が輸送船団を護衛してオトラント堰を越え、イストリア半島を目指すような行動をした。オーストリア海軍はイストリア半島のボラから撤退した。オトラント堰を再度、破壊する作戦も検討されたがイタリア海軍の主力がオトラント堰の防御を固めていたので断念した。
オーストリア陸軍は兵力を陸上でも二分され、海上からの上陸も警戒しなければならなかった。イタリア陸軍は最早、嘗ての数ばかりが頼りの陸軍ではなかった。歩兵部隊の精鋭部隊も浸透戦術に熟達し(日本陸軍や他の日本軍は全歩兵部隊)、通常の歩兵部隊も分隊や小隊での戦闘を実行できるように訓練されていた。
11日の正午に、イタリア陸軍の本格的な攻撃が開始された。15分間の準備砲撃の後、第1線に野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、第2線に榴弾砲部隊が榴弾による砲撃を行った。航空観測で的確な砲撃が続いた。イタリア陸軍の選抜歩兵部隊(分隊。ドイツ軍の突撃部隊に相当)が浸透していき、オーストリア陸軍の第1線の塹壕線を突破した。続いて、通常の歩兵部隊(小隊。各分隊は距離を空ける)が攻撃して第1線を制圧した。選抜歩兵部隊は第2線も突破して第2線の背後で後続部隊を待った。イタリア陸軍部隊は橋頭堡を確保すると、信号弾が上げられた。工兵部隊が複数の渡河橋を組み立て、戦車部隊が次々に渡った。戦車部隊は歩兵部隊に支援されながら第1派の部隊と呼応してオーストリア陸軍部隊を掃討していった。モンファルコーネの北の森林地帯からもイタリア陸軍の歩兵部隊が攻撃した。選抜歩兵部隊が浸透し、通常歩兵部隊が後続した。イタリア陸軍の各歩兵分隊にも2艇の軽機関銃が配備され、機関銃部隊も増強されていたので撃ち負けなかった。迫撃砲部隊も大幅に増強されていたのでオーストリア陸軍部隊は押されていった。オーストリア陸軍部隊は後方が遮断される危険を感じて退却していった。
12日、イタリア第1軍はモンファルコーネと其の一帯を制圧した。一方、日本陸軍の第6軍団の攻勢は撃退されたが、陽動なので問題はなかった。14日、攻勢は終了した。イタリア陸軍は戦死が約5700、負傷が約1万4千。対して、オーストリア陸軍は戦死が約1万9千、捕虜が約4万、負傷が約1万。これまでと比べて、防御側のオーストリア陸軍の損害が大きくなり、着実にイタリア陸軍が前進できるようになった。
ドイツ陸軍参謀本部は大きな危機感を懐いた。前年のゴリツィア攻略戦の主役は日本陸軍の第6軍団だったので攻勢の規模は限定され、オーストリア陸軍を崩壊させる程とは思っていなかった。それがイタリア陸軍の実力が向上し、攻勢の規模が限定されなくなったことは大きな脅威だった。イタリア陸軍は攻勢を抑制していたので兵力に余裕があり、ドイツ陸軍が相当な規模の増援部隊を送らなければオーストリアの降伏は確実だった。しかし、東部戦線、西部戦線を抱える状況で其れは不可能だった。このため、ドイツ陸軍参謀本部はオーストリアに対して後退を強要した。オーストリア政府は同意するしかなかった。
1月20日、オーストリア陸軍は戦線を大幅に後退させ始めた。まず、23日までにトリエステ前面にまでオーストリア陸軍部隊が後退した。日伊陸軍はオーストリア陸軍の意図を測りかねたが、取り敢えずイタリア陸軍の第1軍は追撃した。2月までにオーストリア陸軍は大幅に後退し、イストリア半島の海岸部から30㎞離れたイストリア半島の山岳地帯を中心に布陣した。ドイツ陸軍参謀本部の強要による戦術だった。山岳地帯で遅滞防御(有る程度、交戦してから準備された陣地や防御が容易な地形に後退して敵軍の消耗を待つ戦術)を展開すれば、質や量の劣るオーストリア陸軍部隊でも日伊陸軍を充分に喰い止めることができるからだ。
当時の飛行機は低性能であり、空爆で敵の地上部隊に有効な打撃を与えることは不可能だった。イタリア陸軍は地道に攻撃していくしかなかった。イタリア陸軍も分隊や小隊の単位で攻撃するのが一般的になったので被害は少なかったが、攻勢は進展しなかった。イタリア陸軍が攻めている地域は山岳地帯と森が広がっており、攻勢が難しい地形だった。このため、オーストリア陸軍に遅滞防御を行われると、当時の軍事技術では急速な進撃は不可能だった。
日伊陸軍は更に戦線を南に広げることも検討した。しかし、これ以上、戦線を広げるとドイツ陸軍が大規模な兵力を投入してきたら側面を貫かれる危険性があった。このため、当初の作戦通りにイストリア半島を攻略することになった。こうして、日伊陸軍は地道に攻撃を重ねてオーストリア陸軍を後退させていった。日伊陸軍も苛立っていたが、オーストリア陸軍は悲観し、ドイツ陸軍参謀本部は更に焦っていた。このまま、消耗戦が続けばオーストリアが崩壊するのは確実だったからだ。しかし、オーストリア陸軍が遅滞防御を展開しておく以外に手段はなかった。3月までにイタリア陸軍はイストリア半島の大部分を制圧したが、オーストリア陸軍は後退して壊滅しなかった。日伊陸軍は進まない戦況に苛立っていたが(これまでに比べて死傷者は格段に少ないが)、英仏の強引な攻勢要求は拒否した。
この時期、カドルナは元帥に祭り上げられ、実権を奪われた。後任には、カッペロ将軍が任命された。イタリアは日本帝国の強力な援助と援軍で陸軍の質と量が向上し、国内の生産体制も充実していた。一連の攻勢の成功で将兵の自信も回復した。このため、英仏に気兼ねする必要がなくなり、カドルナの解任に踏み切った。カドルナの解任後、山南国防副大臣は内閣の承認を得て、イタリア陸軍と作戦協定(日本海軍がイタリア海軍と結んだ協定と類似)を結んで指揮下に入った。神尾中将は協調型の将軍であり、イタリア陸軍の能力が向上すれば指揮下に入ることに躊躇はなかった。日伊陸軍の関係は一層、円滑になった。
イタリア陸軍はイストリア半島付近のバルカン戦線を除いて、戦線の縮小に踏み切った。イタリア陸軍は徐々に後退して、平均で7㎞後退した。山頂から兵力を減らして、谷間の兵力を増強した。そして、縦深防御(部隊配置の奥行きが深い防御線を敷く戦術)を採用した。攻勢のための兵力を抽出すると共に、ドイツ陸軍の逆襲に備えるためだった。日伊陸軍はドイツ陸軍やオーストリア陸軍が攻勢を発動したら防御して反転攻勢に出ることが最良だと判断していた。しかし、ドイツ陸軍参謀本部は攻勢を厳禁した。ドイツ陸軍参謀本部はオーストリア陸軍の崩壊を怖れ、防御に徹するように厳命していた。こうして、イタリア戦線で日伊陸軍が優位の戦局だった時期に、戦局の転換点となる事件が発生する。




