第一次世界大戦の勃発
日露戦争後の後、日本帝国の安全保障上の課題はなくなったかに思われた。どの政党も国内問題に取り組んでいた。終戦後、林内閣は軍縮に着手した。前述の様に、日露戦争の結果として日本帝国の安全保障に対する脅威が消滅したから当然だった。市川国防大臣は海軍を重点的に削減することにした。ロシアの太平洋艦隊は消滅し、アメリカとの戦争の可能性も減少したので当然だった。
主な軍縮は次の通り。第一に、人件費の削減。士官学校の新規採用の中止、将官と高級将校の早期退役、徴集兵の現役数の削減、基地業務の民間委託など。士官学校の新規採用は中止され、士官学校の業務は選抜された准士官に将校としての教育を施すことになった。艦船、基地、部隊を削減する中で、将校は要らなかった。補充は志願兵の准士官に将校としての教育を施せば十分だったからだ。
次に、将官と高級将校の早期退役。50歳以上の将官と高級将校の多くが予備役に編入された。国防省が職を世話したが、再就職後の給料は下がったので当然、不満が発生した。また、師団長、旅団長、艦長などのポストが1ランク下げられた。戦時に昇進させることになっていたが、これも不満の種だった。
次に、徴集兵の現役数も削減された。艦船、基地、部隊などが削減されるから当然だった。徴兵も志願兵の選考試験や訓練に脱落した者が優先されるようになった。当然、徴兵される人数も削減された。次に、 基地業務の民間委託の本格的な導入。清掃、炊事、洗濯、平時の医療業務、事務、平時の兵站業務などがPMCに委託された。PMCの要員は予備役兵か国防省での勤務資格を持つ後備役なので特に問題とされなかった。
しかし、これにより志願兵の退役が年齢通りとされるようになった。これまでは、これらに40歳以上の志願兵を割り当てて退役を遅らせていた(50歳まで)。前線部隊の兵員が不足した時に司令官の判断で彼らを歩兵の穴埋めに使うことを考えていたからだ。実際、そういう場面は結構あった。日露戦争中も後方の兵站部隊がロシア陸軍騎兵部隊の迎撃に成功している。しかし、ロシアの脅威が消え、アメリカや清国との戦争の可能性も大幅に減少したとなると特別措置は必要ないとされた。このため、平時は基地業務の大部分がPMCに委託されて海軍基地では軍人よりもPMCの要員の方が多くなった。PMCの要員も予備役か後備役なので有事の際は戦闘に参加するが、基地の防御能力が落ちたことは確かだった。
特に、海軍陸戦隊が大幅に削減された海軍は心配していた。海兵隊は海軍陸戦隊から選抜されていたので海兵隊の練度低下も心配だった。海兵隊が陸戦隊の穴埋めに艦船、基地、在外公館の防衛に分散されて部隊の即応力が損なわれた。陸軍の志願兵中心の部隊が海兵隊の平時の任務を行うとされた。朝鮮半島や満州の駐留部隊も同様。平時の兵站業務が民営化された結果、海軍の補給艦や陸軍の鉄道部隊は殆どPMC部隊も同然になった。象徴的だったのが、陸海軍の儀仗隊と軍楽隊が専門の部隊ではなくなったことだ。これらの部隊は志願兵の予備役部隊が交代で担当することになった。
第二に、艦船、装備、基地、部隊の削減と基幹部隊の統合。大々的に削減されたのは海軍だった。戦艦の数は16隻から10隻に、重巡洋艦と軽巡洋艦は半分に、駆逐艦は6割に削減された。海軍基地も半分が閉鎖された。これらの基幹部隊は統合された。更に、3年間の新規装備の調達凍結。一方、陸軍は小幅だった。6個師団の基幹部隊の統合(25個師団体制から19個師団体制に)、保管されていた兵器の大幅削減、基地の1割を閉鎖、3年間の新規装備の調達停止。以上の他にも、陸海軍による式典が殆ど中止されるなど国防省は国防予算の削減を推し進めた。
一連の軍縮は国民に歓迎された。この軍縮は野党や世論による軍縮の要求の機先を制するためだった。志願兵は将官と高級将校を除けば殆ど削減されなかった。採用数も平時に戻されただけだった。単に戦時の員数から平時の定員に戻しただけだった。この点は陸海軍とも同様だった。海軍の軍艦や基地が大幅に削減されたのは、志願兵を解雇しないための費用を捻出する必要があったからだ。
また、海軍は大幅な装備の改編時期に当たっていた。イギリス海軍戦艦のドレッドノート型の出現だった。ドレッドノート型は副砲を減らして大口径砲を増やしたのが一番の特徴だった。また、新技術である蒸気タービンエンジンを装備することで装甲も速力も寧ろ向上した。海軍の砲術の急激な進歩に対応した設計だった。他にも、魚雷の性能向上や潜水艦の出現もあった。
国防省としては海軍の兵器を大幅に更新しなければならないのだから、この機会に思い切って削減しておく方が得策だった。勿論、脅威が低下したので海軍の重要性が低下したことも重大な要因だった。また、陸軍も航空機や通信機など新兵器の導入が予想された。国防省は兵器の更新に多額の予算が必要なので予め軍縮を行って政党や国民の理解を得ておこうとした。脅威が低下したにも関わらず、国防予算を削減しないことが非常識なのは国防省も認識していた。このため、市川国防大臣は先手を打って軍縮を行うことで大幅な軍縮を避けようとした。
こうした国防省の姿勢は議会でも好感されて憲政党と帝国党の議員達は市川国防大臣を強力に支持した。市川国防大臣の策は功を奏した。国防予算は義和団の乱の前と同水準に保たれた。これに関して批判されたが、市川国防大臣は頑として国防省案以上の削減に反対した。
市川国防大臣は「平時に軍備を整えておかなければ、有事に対応できません。また、軍事力は抑止も重要な役割です。軍事力が強いからこそ相手国が交渉する気になるのです。これは敵国の場合だけでなく、同盟国の場合も同様です。皆様、自分を外国人に置き換えて考えてみてください。軍事力が弱く、同盟国を助けられないどころか、敵国に従属して裏切りそうな国を同盟国にしたいでしょうか?共産主義者などの革命主義者以外の方は思わないでしょう。
そして、クラウゼヴィッツの言うように、侵略者は平和の愛好家です。侵略者は侵略そのものを目的にしているのではありません。相手を自分の思い通りにしたいのです。相手が自分から奴隷になるのを希望しているのなら喜んで平和を与えます。そして、奴隷を自分の思い通りに使います。皆様、戦争も平和も手段に過ぎないことは幕府が証明した通りです。そして、平和を選びたいなら国力に見合った軍事力を持つことです。力こそが正義なのではなく、強者だけが手段を選択することができるのです」と述べた。
市川国防大臣の粘り強い主張は枢密院にも支持された。国防予算が適切な水準に保たれたおかげで第1次大戦にも対応できた。さらに、後のソ連との交渉でも日本陸海軍の軍事力が交渉力として有利に作用した。そして、生憎なことに、この時代は戦争の連続だった。日本帝国は僅かな期間しか平和を楽しめかった。
まず、北東アジアで平和が崩れた。1911年、辛亥革命が勃発した。四川省と湖北省で現地の清国軍が反乱を起こし、それが13省にまで拡大した。日本帝国は早々に邦人の避難を開始した。清朝は袁世凱を指揮官として反撃を開始した。この段階では、国民党などの革命派は排外主義を不鮮明にしていたが日本帝国の対外特務庁は孫文などに代表される革命派の姿勢が極めて攻撃的であることを察知していた。孫文の三民主義の内、民族主義が中国の攻撃性を助長して周辺国への損得抜きの侵略と干渉を繰り返す可能性があったからだ。さらに容認できなかったのは民生主義で、生産手段の国有化と農地の国有化を意味しており共産主義者の主張だったので帝国党だけではなく憲政党も容認できなかった。
それに、革命派は対外利権の回収(強奪)を鮮明にしていたからイギリスやアメリカと対立することは確実だった。両国と友好関係にある日本帝国は出兵を余儀なくされる。どちらにしろ、中国で中華主義で過度の拡張主義をとる政権が成立することは日本帝国にとって歓迎できなかった。このため、邦人の避難が終わると早々に清王朝に対する支持を鮮明にした。しかし、憲政党と帝国党が清王朝を支持したのに対し、立憲政友会は革命勢力に好意的だった。単に野党だったから与党連合に反対しただけではなく、アジア主義に幻想を懐いており中国人と日本人が連携できると一方的に思っていた。
激しく憲政党および帝国党と立憲政友会は対立した。しかし、対立は呆気なく終わった。清国軍総司令官の袁世凱が清朝に圧力をかけて、帝政を廃止してしまったからだ。これにより、日本帝国は不干渉主義に転じた。軍事力だけで獲得した政権であり、正統性がないと判断したからだ。対外特務庁は袁世凱以外の軍司令官達も野心を懐いたことは確実だとした。
そして、対外特務庁は袁世凱政権はクーデターの脅威と中国人の共通の野心に晒されて安定できないと結論付けて不干渉主義を主張した。国防省は軍情報局の分析を根拠にして革命政権が日本帝国に敵対姿勢をとるのは確実だとして袁世凱政権を支援するべきだと主張した。内閣は判断に迷ったが、結局、対外特務庁の意見通りに不干渉主義をとることにした。帝国党は中国流の禅譲を行って自己の政権を確立した袁世凱には全く保守派の要素がないとして支持できないと強硬に主張した。
更に革命派が政権を獲得して日本帝国に敵対してきても其の段階で対処すれば良いとの意見が多数になり、不干渉主義が採用された。枢密院も内閣の方針を支持した。帝国党も日露戦争から約4年しか経っていないのに大陸での戦争を行うことは有権者の支持を得られないと判断した。さらに、国防省と対外特務庁の一致した見解で干渉は戦争に結び付くと結論付けていた。このため、干渉は論外とされた。ただし、革命派の亡命や日本帝国内での活動を厳禁する方針は継続された。このため、どちらかといえば、革命派とは敵対していた。内閣は国防省と対外特務庁に対して満州や朝鮮半島での日本帝国の方針について本格的な検討をしておくように指示した。
ただし、この段階では中国大陸の情勢が如何なる形で変化していくか予想がつかなかった。このため、国防省は朝鮮半島、満州、中国各地の租界での作戦計画を立案しておくように陸海軍参謀本部に命じた。陸軍参謀本部を海軍参謀本部が補佐する形で本格的な作戦立案が始められた。一方、中国にいた日本邦人は天津、上海、威衛海、旅順の租界以外からの退去が命じられた。それ以外の場所に留まった場合は自己責任だと通告した。この後、日本帝国は中国大陸の情勢を静観することになる。
林内閣は中国大陸の情勢変化を静観することにしたが、軍事予算の増額は開始した。中国大陸、満州、朝鮮半島への出兵が予想されていたので陸軍が優遇された。軽機関銃の配備(種子島1911。BARの改良型。リムレス弾薬で、尖頭弾の6.5mm。20発弾倉で二脚付き、銃身交換が簡単。)、機関銃を全て国友1901に更新、小銃を38式小銃2型に更新(リムレス弾薬で、尖頭弾の6.5mm弾を使用)、5個師団の基幹部隊の復活、軽機関銃の配備に合わせた新戦術の開発、航空部隊の本格的な配備、毒ガス兵器の増強など。
特に、驚かれたのが弾薬の更新だった。弾薬の更新は手間と莫大なコストが掛かる。それまでの弾薬の在庫もあるので、弾薬の更新は難しい。他に、配備する新兵器もあるから尚更だった。しかし、旧弾薬はリムドであり、軽機関銃の弾薬に適していなかった。分隊を支援する軽機関銃が新型の弾薬を使うしかない以上は小銃も新型弾薬を使用するしかなかった。全軍の小銃の弾薬を一挙に切り替えないと、前線で弾薬を融通できなくなる。このため、戦時並みの予算と生産体制が必要になる。国営や民間の軍需産業にとっても大きな負担だった。
しかし、中国、ロシア、朝鮮(大分、脅威度は劣るが)に加えてアメリカも仮想敵国であった当時の危機感が予算の承認を正当化した。もちろん、日本海軍の軍拡も進められていた。戦艦6隻および巡洋戦艦4隻は最新型に更新、海兵隊および海軍陸戦隊の規模が日露戦争前の水準に拡大、新型魚雷の配備、水上機部隊の配備開始など。内閣は軍拡を推進していたが、租界の守備、満州および朝鮮半島への介入を想定していた。革命派が中国の実権を握った場合は満州と朝鮮を中国から分離することも決めていた。前述の様に国民党に代表される革命派の傾向は清王朝よりも極めて攻撃的であり、容認できなかった。革命派が満州と朝鮮半島を握れば、日本帝国に対する重大な脅威になると判断していた。
一方で、中国の情勢に深入りする気は全くなかった。清王朝が消滅した以上、正統性のある政権は存在しないので袁世凱政権も支援する気がなかった。租界についても将来は撤退する方針を決定していた。ただ、同盟国のイギリスなどに配慮して駐屯を継続していただけだった。帝国党は中国に日本企業が進出すると、日本人の雇用が損なわれるので元から極めて批判的だった。中国からの輸入品に高額の関税を課す法案も成立させて国民から支持されていた。
このため、満州と朝鮮半島以外からは日本人を退去させたかった。しかし、日本国民だけを引き揚げさせると中国の革命派が勢いづくし、イギリスとの同盟関係にヒビが入る恐れもあった。このため、租界の守備は続けたが、アメリカやイギリスに対して革命派を撃滅しないのなら日本陸海軍は租界の守備を続けることはできないと警告していた。
イギリスは国力が衰え始め、アメリカは中国への出兵に消極的だった。両国とも租界の守備や邦人保護に関しては日本帝国を頼りにしていた。しかし、日本帝国の戦略方針である革命派の撃滅に関しては賛成しなかった。このため、日本帝国は天津、上海、旅順、威衛海の4租界以外への派兵をやめ、他の租界に関しては英米の態度が変化しない限り放棄することを決定した。
林内閣は英米が袁世凱政権を全力で支援して革命派を撃滅する気なら他の租界を維持する方針だったが、英米が同意しなかったので諦めた。租界の維持、満州への関与なども中国が日本帝国の脅威にならないようにするためだった。欧米列強が中国を侵略していれば、中国が日本帝国の脅威になることはないからだ。英米と違って、中国に日本企業が進出することは雇用の流出に繋がるので嫌っていた。革命派が政権を掌握した場合は租界からも撤退する方針も憲政党と帝国党は合意していた。
しかし、満州と朝鮮半島に関しては革命派に掌握させる気はなかった。満州を支配されれば、ロシアが日露戦争中に放棄したウラジオストック(建設途中)が再生されてしまい(日露戦争後に日本帝国は街を徹底的に破壊し港湾も埋め立てた)、日本海に脅威が発生することになる。日本帝国海軍の有利な点は日本海に戦力を配置しなくて良いことだったから是は重要だった。中部太平洋や北太平洋には日本帝国の領土が広がっており、アメリカ海軍などによる日本本土への奇襲は困難だった。日本帝国海軍は中国方面を重点的に警戒して戦力を配置すれば良かった。この状態が崩れることは日本帝国の脆弱性を造り、抑止力を損なうことになる。
次に、朝鮮半島は現在の状態のままならロシアも中国も日本帝国に対する侵攻基地として使用することは無理があった。朝鮮半島は悪路で補給は海路に依存するしかなく、工業基盤もなかった。敢えて基地化しようとすれば、日本帝国陸海軍の先制攻撃を受けて敗北することは確実だった。日本帝国海軍が制海権を握り、海兵隊、陸軍の第1軍団、教導旅団部隊、近衛師団が迅速に急襲してくるので対応は難しかった。この状態が崩れればロシアや中国の脅威が再燃し、アメリカも敵対行為を示すのではないかと懸念されていた。ましてや、中華主義かつ領土拡張主義で周辺国に損得なしの侵略や干渉を繰り返す可能性が高い中国の革命派に満州や朝鮮半島を渡すのは問題外だった。こうして、日本帝国は満州や朝鮮半島を念頭に置いた戦争準備を整えていたが、これが思わぬ形で役立つことになる。
1914年6月28日、ボスニアのサラエボにおいてオーストリアの皇太子フェルディナンドが暗殺された。オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけ、セルビアがオーストリア官憲による取り調べだけを拒否したにも関わらず、宣戦布告した。これに対して、ロシアが総動員令を発して国境に軍隊を集結させた。ロシア政府はドイツ政府に対してロシア軍から先制攻撃を行うことはないと通告したが、ドイツ政府もドイツ参謀本部も信じなかった。ドイツはシュリーフェンプランを発動してフランスとロシアに宣戦布告した。8月4日、ドイツ帝国はベルギーに侵攻してしまった。このため、8月5日、イギリスと日本帝国はドイツに対して宣戦布告した。こうして、第1次世界大戦が始まってしまった。
日本帝国政府にとって、第1次世界大戦の勃発は驚くべきことではなかった。対外特務庁はシュリーフェンプランの詳細を掴んでおり、日本帝国政府はイギリスに警告していた。シュリーフェンプランの詳細が露見したのは各駅の鉄道のスケジュール表を対外特務庁の諜報員達が盗撮して、本部が其れを分析した結果だった。当然、動員時の鉄道のスケジュール表は秘密にされていたが、余りにも関連している要員が多かったので対外特務庁の諜報員達が入手して盗撮した後に元に戻すのは難しくなかった。入手できたのは断片的なスケジュールばかりだったが、繋ぎ合わせるとベルギーとオランダを指向していた。その他の情報源も総合すると、シュリーフェンプランが中立国のオランダとベルギーにドイツ陸軍を侵攻させて、フランス陸軍の防衛線を迂回する計画だとの結論に達した。
内閣、枢密院、国防省は何かの間違いだとして信じなかった。ベルギーやオランダに侵攻することはイギリスの参戦を招く。そうなれば、フランスは長期戦に望みを繋げる。嘗て、ナポレオンはイギリスの長期間の抗戦と同盟国への援助で敗北に追い込まれている。ドイツの基幹となったプロイセンは其の恩恵でナポレオンに勝利することができたからイギリスの参戦を望むわけがない。ビスマルクもイギリスが介入してこない様に細心の注意を払っていた。其のドイツがイギリスを参戦させるようなことをする筈がないというのが対外特務庁以外の見解だった。
軍情報局は、ドイツ陸軍参謀本部はフランスを奇襲するためにベルギー南部を侵犯することは計画している。主力はアルデンヌの森を通過してフランスに攻め込むと分析していた。対外特務庁内でも疑う声は多く、イギリスやフランス内部で囁かれていた謀略説も考慮すべきだとの意見も多かった。シュリーフェンプランの中立国侵攻の情報はフランス陸軍参謀本部をドイツ侵攻の恐怖に駆り立てさせて先にベルギー侵攻を発動させる謀略ではないかとの見方だった。そうなれば、イギリスがフランスに宣戦布告することも期待できる。
ところが、小モルトケがドイツ陸軍参謀総長に就任すると軍情報局も対外特務庁の見解に同調した。理由は小モルトケが鉄道スケジュールを変更してオランダ向けの鉄道輸送を止め、アルデンヌ方面への鉄道輸送を増やしたからだ。鉄道輸送は綿密な調整が必要で極秘の侵攻計画なら尚更、面倒だった。小モルトケの措置はオランダ侵攻を中止し、アルデンヌ方面への防備を強化したと分析された。軍事的には極めて妥当な措置だったが、軍情報局はシュリーフェンプランの詳細が対外特務庁の見解通りであることを確信した。
志願兵中心の第1軍団などを保有する日本帝国陸海軍と違い、徴集兵中心の部隊しか保有していないドイツ陸軍は有事の際に急速動員して鉄道で陸軍部隊を集結させるしかない。一旦、集結を始めたら当時の通信技術で修正は困難だ。ましてや、極秘度の高い侵攻作戦のための鉄道スケジュールは修正をしたがらない。当時の技術では作業が煩雑すぎるし、機密が漏れる可能性も高い。其れを敢えて行ったのだから、ドイツ陸軍参謀本部が真剣にベルギー侵攻を計画しているのは明らかだった。
対外特務庁と軍情報局の見解が一致したことで、内閣と枢密院はシュリーフェンプランをイギリスに警告することで一致した。軍情報局の副司令官がイギリスに渡り、対外特務庁と軍情報局の見解を詳細に説明した。日本帝国政府はベルギーのために世界大戦の危険を冒すことに消極的であり、イギリス政府にベルギーとの条約を破棄して参戦を回避することを薦めた。国防省も対外特務庁もフランスとロシアがドイツに打倒された方が日本帝国への脅威が減るのでイギリスの参戦を回避させるべきだと結論付けていたからだ。
しかし、イギリス政府が拒否し続けたので日本帝国政府はイギリス陸軍の規模を大幅に増強するように求めた。イギリス陸軍の戦争準備は不充分であり、日本帝国の国防省が不安を内閣に伝えていたからだ。このため、日本帝国政府はイギリス政府にイギリス陸軍の戦争準備が不充分なら日本帝国は参戦しないと伝えた。日本帝国とベルギーの間には何の条約もないし、日英同盟にも、こうした場合の参戦義務はない。日本帝国はベルギー侵攻をイギリスへの先制攻撃とは見做さない。イギリスが日本帝国の参戦を求めるならイギリスが戦争準備を開始すべきだと伝えた。
これを受けて、イギリス政府は陸軍の増強に着手し、日英の陸海軍参謀本部同士の事前作戦協議、日英陸海軍の合同演習を開始した。こうしたことは露見するし、日英は隠そうともしていなかった。ドイツが日英の動きに気づいてシュリーフェンプランを修正してくれることを期待していたからだ。更に日本帝国政府はドイツ政府やドイツ陸軍参謀本部に公然とロシアだけを攻撃するように呼びかけた。
当時の国防副大臣の児玉源太郎はドイツ陸軍士官学校における講演で個人的な立場での発言と断った上で「バルカン半島で有事が発生した際は、ロシア帝国だけを攻撃してください。そうすれば、ドイツ帝国の勝利は確実です。我が日本帝国と違ってドイツ帝国はサンクトペテルブルクを占領することができます。ロシア陸軍も弱くはありませんし、数も多いですがドイツ陸軍には敵いません。この時、一挙にロシア帝国を攻略しようとすべきではありません。ナポレオンの二の舞になります。越冬しつつ、補給体制を整えながら進撃していくべきです。確かに、ロシア陸軍の兵士数は多いです。しかし、将兵、兵器、兵站ではドイツ陸軍が優位です。ポーランドまでは迅速に進撃し、そこからは着実に兵站線を整備しながら進撃すれば勝てます。ロシア陸軍は防御でこそ粘り強いですが、攻勢は只の力押しです。油断しなければ、ドイツ帝国陸軍の勝利は確実です。そして、ロシアに侵攻する際は海軍力と河川による補給を軽視してはいけません。
嘗て、フリードリッヒ大王はロシアに対する侵攻を計画した際、サンクトペテルブルクへの進撃に際して艦隊による支援を計画していました。おそらく、友好関係にあった大英帝国の艦隊を想定していたのでしょう。これは、現在でも応用できます。成程、今は鉄道の時代です。しかし、鉄道は兵員や兵器など全てを運ばなければなりません。ドイツ陸軍部隊が大量に使用すれば、補給が滞ることは確実です。そこで艦隊の活用です。ドイツ帝国海軍が制海権を掌握してから、バルト海沿岸の港を制圧して兵站の拠点にすれば良いのです。サンクトペテルブルクの攻略に役立ちます。最低でもロシア陸軍部隊をバルト海沿岸に拘束することができます。それ以外の所では河川を補給に活用すべきです。河川で食料や燃料などを輸送すれば、鉄道は兵士や武器弾薬などを輸送することに専念できます。厳寒期なら河川は道路代わりになります。湖や河川に冬期や厳寒期での臨時鉄道を建設する計画も立案しておくべきです。このように、ロシアを攻略する手段は幾らでもあります。
対して、ロシアの同盟国であるフランス共和国を攻撃するのは愚かです。フランスは物量ではドイツ帝国に対して劣りますが、兵器の質や補給能力では互角です。普仏戦争の時のようにはいかないでしょう。何よりも、大英帝国がフランス共和国の背後にいます。嘗て、プロイセンがナポレオン率いるフランス帝国を破った時に大英帝国の力も大きかったことはドイツ陸軍の皆様は御存じの筈です。大英帝国を敵に回せば戦争は終わらなくなります。しかし、フランス共和国に対抗する方法は簡単です。
ドイツ帝国が先に国境を越えなければ大英帝国は参戦しませんし、援助もしないでしょう。当然、日本帝国がフランス共和国側で参戦することも援助することもありません。愚かにもフランス共和国が貴国を攻撃するために国境を越えれば、大英帝国も日本帝国もフランス共和国に対して好意的な対応はとりません。しかし、ドイツ帝国がフランス共和国に対して先制攻撃をしたり、ベルギーなどを侵犯してフランス共和国に侵攻すれば対応は異なります。遺憾ながら日本帝国は大英帝国とともにフランス共和国側として参戦することになるでしょう。偉大なるドイツ帝国の皆様に申しあげておきます。クラウゼヴィッツが言ったように、戦争は外交の延長に過ぎません。くれぐれも御忘れなき用に御願いします」と述べた。
翌日の新聞に児玉国防副大臣の演説の概略が大々的に掲載された。各国では大騒ぎになり、「日本、ドイツにロシアへの先制攻撃を促す」や「日本、ドイツにロシアを東西から挟撃することを提案」などの見出しが各国の新聞の1面を躍った。ロシア政府は激昂し、ロシア各地では暴動が発生して日本帝国の在外公館が襲撃された。
イギリスのグレイ外相は日本帝国政府に厳重抗議した。児玉国防副大臣は謝罪して国防副大臣を辞職したが、半年後、朝鮮担当高等弁務官に任命された。朝鮮担当高等弁務官は朝鮮半島における日本帝国の指揮官であり、陸海軍部隊や通商外交省の要員などを指揮できた。事実上の朝鮮総督だった。正に、形ばかりの左遷だった。
その後も、児玉源太郎ほどではないが、日本帝国の有力者達は同様の趣旨を婉曲的にドイツ側に伝えた。日本帝国がドイツに対してロシアへの先制攻撃を容認したのはロシアの無責任なバルカン半島諸国の扇動がヨーロッパの不安定要因だと断定していたからだ。それに、ロシアの過去の行状からして国境に陸軍を留めても隙を見て侵攻すると、対外特務庁と軍情報局は断定していた。そのため、ドイツにロシアだけを攻撃するように説得した方が良いと判断した。明らかにドイツの得になる提案だからドイツはシュリーフェンプランを破棄するだろうと思われた。
実際、ドイツ帝国内ではシュリーフェンプランを破棄してロシア向けの作戦計画に変更しようとの意見が有力になった。ドイツ陸軍参謀本部でも同様の意見が強まった。しかし、小モルトケを始めとする作戦課の面々はシュリーフェンプランに拘った。これは作戦計画の変更に膨大な手間が掛かることもあったが、当時の多くの陸軍で一般的だった極端な攻勢優位の信奉(日本帝国陸軍を除く)およびドイツ陸軍のイニシアティブ重視の戦術があった。ドイツ陸軍は運動戦重視であり、イニシアティブをとれば攻撃は必ず成功するとの考えが信仰に近い程、信じられていた。このため、フランスに対して防衛に徹することは敗北を意味すると信じ込んでいた。
このため、動員の遅いロシア陸軍を後回しにしてフランス陸軍を攻撃する作戦計画に固執した。流石に、ヴィルヘルム2世はロシアだけを対象にした作戦計画を立案する様に、ドイツ陸軍参謀本部に命令した。しかし、小モルトケなどの作戦課は様々な詭弁を弄して作戦計画の修正をサボタージュした。結果として、ヴィルヘルム2世はシュリーフェンプランの発動を選択するしかなかった。ロシアが国境に陸軍を待機させたままであると信じることはできなかったからだ。それに、戦争は短期決戦で終わると考えていた。これにより、シュリーフェンプランが発動され、第1次世界大戦が始まってしまった。
日本帝国では1912年に内閣が交代していた。憲政党の井上純啓が首相に選出された。井上内閣は当初、サラエボ事件が第1次大戦に結び付くとは思っていなかった。しかし、大谷亮介国防大臣(1911年に陸軍を退役していた)は首相に対して動員の準備開始を進言した。大谷国防大臣は万が一に備えるべきだとした。さらに、日本帝国陸海軍が動員の用意を開始すれば、ドイツ政府とドイツ陸軍参謀本部はイギリスも参戦すると考えてシュリーフェンプランを万が一にも発動しないと判断した。同時に、イギリス政府に対してベルギーとの条約を直ちに破棄して参戦の義務を除いておくことも求めることにした。直ちに、ロンドンの日本大使館に長文の暗号電報が打たれ、駐英大使がイギリスの首相および外相に面会した。その上で、内閣は枢密院にも承認を求めた。大正天皇は性急すぎるとして反対したが、枢密院は賛成多数で承認した。ただし、異論も多かった。
「井上首相、日本帝国の仮想敵国の一つはロシアだ。そのロシアの同盟国であるフランスを助けるために戦争をしても良いのか?確かに、フランスは日露戦争において講和のために尽力してくれた。しかし、今後の世界情勢によっては態度を変える可能性もある。説明していただきたい」と枢密院議員の一人が述べた。
林「御懸念は尤もです。しかし、イギリスとの同盟は重要です。経済的な繋がり、中国や東南アジアにおいてイギリスが優位を占めていることによる安定などは御存知の通りです。しかし、最も強調したいのはアメリカとの関係においてイギリスが仲介を務めてくれていることです。アメリカは信用できません。このため、イギリスとの同盟関係は特に重要です。イギリスが中立ならアメリカとの戦争になっても講和の仲介国があるからです。それにイギリスが中立ならシーレーンも維持されて貿易も途絶えません。オランダもイギリスがいればアメリカの圧力に抗して中立を保てます。
両国ともアメリカに反植民地的な傾向が発生していることを把握しており、アメリカと友好関係を結ぶことにデメリットがあることも気付いています。このため、依存度を減らしておきたいとの思惑もあり、日本帝国がアメリカの半分でも頼りになれば日本帝国との同盟関係を維持するでしょう。また、両国とも日本帝国と敵対すれば自国の勢力圏を喪失することを認識しています。このため、アメリカと日本帝国が対立しても日本帝国が頼りになるなら中立を保つことは確実です。逆に、日本帝国が頼りにならないと両国が判断すれば両国は完全にアメリカ側に付きます。そうなると、日本帝国は孤立し、貿易も閉ざされます。経済的にも大打撃であり、日本帝国が孤立するのを見てロシアや中国が敵対姿勢をとる可能性も高まります。
何よりもアメリカとの戦争になった場合、講和を仲介してくれる国が無くなります。このため、国力が優勢なアメリカとの戦争が終了しません。また、アメリカがロシアや中国と同盟を組む可能性が高いです。そうなると、日本帝国は滅亡です。イギリスがフランスを助けると決めている以上は選択の余地がないのです。同時に、ヨーロッパを制する国家は世界を制します。世界の大半を支配するヨーロッパで同盟国のイギリスが敗北するのは黙認できません。イギリスが敗北すれば、日本帝国の立場も弱まるのは自明の理です」。
「確かに、イギリスとの同盟は重要だ。しかし、フランスが信用できるかも重要ではないのか?」。
大谷「その通りです。ドイツとフランス、どちらを重視するかも重要です。ドイツよりもフランスの方が国家として信用できます。フランスは日露戦争の回避に尽力していました。そして、言われた通り日露戦争の講和が成立したのはフランスの尽力も大きいです。対して、ドイツは黄禍論の発祥国であり、アメリカで反日感情が広範に広がる切っ掛けを創った国です。更に、ニコライ2世を扇動してロシアの極東進出を進めさせました。詳細は御配りした対外特務庁の資料を御覧ください。そして、日露戦争中にビヨルケ密約(日露戦争後に発効する独露同盟)を締結しています。ビヨルケ密約は、結局、ロシアがフランスを対象から除外することを要求したので破棄されました。一歩間違えれば、日露戦争が終結しなかったかもしれません。ヴィルヘルム2世に代表されるドイツ人の黄禍論は中国人の中華主義並みに強固です。ドイツが打倒されるのは喜ぶべきことです。イギリスがフランス側で参戦するなら、フランスに味方するのは当然です」。
こうして、枢密院は辛うじて承認した。憲政党と帝国党では既にドイツへの敵愾心が蔓延していた。枢密院、国防省、対外特務庁は両党ほどドイツを敵視していたわけではなかったが、有力な仮想敵国と認識していた。このため、国防省は陸海軍の参謀本部に対独用の作戦計画を作成させていた。しかし、現実問題として日本帝国陸海軍がベルリンを占領することは不可能だった。それにオーストリアと同盟したドイツがロシアを攻撃する可能性が高まってきたので、敵対感情を押し殺しておくべきだと意見した。枢密院も是に賛成した。
このため、憲政党、帝国党、国防省、対外特務庁はドイツに対する敵対感情を押し殺した。それどころか、前述の様にドイツに対してロシアを攻撃するように促した。このため、ドイツは日本帝国が自国に対する戦争を本格的に考慮していることに気づかなかった。このようにドイツにとっては不意打ちだったが、日本帝国の上層部は元からドイツに対して強い敵愾心を懐いていた。
このため、枢密院議員達は内閣、国防省、対外特務庁の説明を受けて、動員開始準備に賛成した。まず、第1軍団や海兵隊などの志願兵中心の部隊が即応態勢に移行した。続いて、内務省が総動員令の準備を秘かに各県の担当部署に指示した。国防省は各船会社に有力な船舶をドイツやオーストリアから遠ざけておくように指示した。また、全ての日本船籍の船舶の位置を確認するように指示した。どちらも内密だった。しかし、ドイツ軍情報部が気付かない筈がなかった。実際、日露戦争の開戦準備と比べると秘匿に重きは置かれなかった。ドイツにシュリーフェンプランの発動が自国に不利であることを分からせるのが目的だった。イギリスは過剰反応だとした。
しかし、前述の様にオーストリアがセルビアに対して宣戦布告した。これを受けて内閣は枢密院、貴族院、衆議院に宣戦布告の事前承認を求めた。枢密院は直ちに賛成したが(大正天皇は反対)、貴族院と衆議院では激論になった。国防省や対外特務庁が枢密院で説明したのと同じ内容を説明したが、議論は紛糾した。是は当然であり、日露戦争に参戦していないイギリスのために陸軍を派遣するのは抵抗があった。
それに、イギリスが参戦するのはベルギーやフランスなどを守るためであり、イギリスの国益が懸かっているかどうかも微妙だった。普仏戦争の時の様に、イギリスが中立を保つ様に働きかけるべきだとの意見も多かった。しかし、前述の様に以前からベルギーとの条約破棄を働きかけてもイギリスが拒否してきたことを改めて説明された。そして、ドイツの日本帝国に対する態度も改めて詳しく説明された。そして、何よりもアメリカとの関係においてイギリスとの同盟関係が必要不可欠であることも改めて説明された。それでも議論は紛糾した。
前述の様に、内閣や国防省も御世辞にも乗り気ではなかった。このため、陸軍のヨーロッパ戦域への派遣は慎重に実行することも説明された。異例だったが、陸海軍の参謀本部が作成している作戦計画の概要が衆議院議員達にも説明された。概略は次の通り。第一に、日本帝国陸海軍は中国、アフリカ、ニューギニア及びサモアのドイツ植民地を攻撃して占領する。これらの地域の防備は手薄であり、日本陸海軍の志願兵中心の陸軍部隊と海兵隊がドイツ軍を駆逐することは困難ではない。
第二に、日本帝国海軍は太平洋、インド洋、南大西洋に展開してイギリス海軍の負担を軽減する。この内、太平洋とインド洋に関しては日本帝国海軍が指揮権を握り、全面的な責任を負う。
第三に、ヨーロッパ戦域への陸軍部隊派遣はイタリアが連合国側で参戦した場合にのみ、イタリア戦線に対して派兵を行う。イタリア戦線にのみ、派兵を行うのはイタリア戦線なら日本陸軍が従来通りの訓練で対応できるからだ。さらに、イタリア軍の小銃の口径も6.5mmであり、補給面の負担も軽減できる。他のヨーロッパ地域、中東、北アフリカに陸軍部隊を派遣する場合は改めて枢密院、貴族院、衆議院の承認を得る。
以上の様に、かなり目標を限定し、議会の了解を求める内容になっていた。日露戦争の時は枢密院の承認を受け、事後的に貴族院の承認を取り付けていた。衆議院には新聞報道以上の事実は説明されず、衆議院が承認を拒否しても憲法の規定で枢密院と貴族院が承認したことで、2対1で内閣の方針が承認されていた。平時においても貴族院に対しては機密事項も含めた安全保障政策の詳細が説明されていたが、衆議院には予算の超過や流用がないかを検証する程度の情報しか説明されていなかった。つまり、衆議院は安全保障政策に関しては無視されていた。内閣の閣僚が枢密院の承認を得て、与党の有力な議員達に説明することもあったが、全員ではなかった。
しかし、今回は違った。ロシアと中国は日本帝国にとって明白な敵国であり衆議院の意見を無視しても有権者は政権を支持した。しかし、ドイツは確かに不愉快な国で日本帝国の仮想敵国だったが、ドイツ陸海軍が日本本土を攻略することは不可能だった。ドイツに対して強い敵愾心を懐いていた憲政党や帝国党にしてもドイツと積極的に戦争する気はなかった。ましてや、参戦の最大の理由がアメリカとの関係を仲介しているイギリスの信頼を確かにしておくためだから誰も乗り気ではなかった。
よって、衆議院も含めて議員達の理解を得ておく必要があった。大量の戦死者と多額の戦費が必要であり、帝国党でさえ充分な説明がなければ離党者が続出するのは確実だった。衆議院議員達の守秘義務の規定は緩いので(前述の様に安全保障政策に関して衆議院は軽視されていた関係で)参戦の事前承認の話は漏れた。日本帝国としてはドイツに気づいてもらい、シュリーフェンプランの発動を思い留まってもらいたかった。
実際、ヴィルヘルム2世は日本帝国が参戦の準備を急速に進めているということはイギリスも参戦するに違いないと判断して小モルトケにシュリーフェンプランの代案を提示するように求めた。ところが、小モルトケはシュリーフェンプランの代案の作成作業が殆ど進行していないと開き直った。ヴィルヘルム2世は激怒して小モルトケを解任しようとした。しかし、何と首相や陸軍大臣が小モルトケの留任を支持した。彼らは戦争前に参謀総長を解任すると陸軍が混乱するなどと述べた。普仏戦争や普墺戦争でドイツ国民の参謀本部に対する信頼は深いので国民が政府を支持しないと思ったからだ。こうして、日本帝国の一連の努力は無駄に終わった。
一方、日本帝国の貴族院と衆議院での審議は難航していた。井上首相は「将来の日米戦争時に、イギリスとの同盟は不可欠なのです。イギリスが日英同盟を維持すれば、日米戦争時もイギリスは中立です。また、日英同盟が維持されていればアメリカは敢えて日本帝国に敵対行為を行うことはありません。日米戦争も高確率で避けられます。皆様、我々も積極的に参戦したいわけではありません。しかし、今回の戦争で参戦しなければ日英同盟は廃棄され、アメリカが付け込む余地が生じます。そして、忘れてはなりません。
現在のヨーロッパは強大であり、ヨーロッパを制する国が世界も制するのです。インドや東南アジアなどをヨーロッパ諸国が制していることで明らかです。ヨーロッパで同盟国であるイギリスが敗北することは日本帝国にとって致命的です。ドイツが信用できない国家であるのは是までの説明の通りです。更にイギリスは経済的には最良の同盟国ですし、アメリカ以外となら軍事的にも頼れる同盟国です。勿論、イギリスが今回の戦争に参戦しないのが一番です。それがイギリスの国益にもなりますが、イギリスの意志を変えるのは無理です。極めて不本意ですが、今回の戦争も日露戦争と同じく日本帝国の運命が懸かっているのです。日本帝国の存続のためには望まない戦争も遂行する必要があります」と貴族院の安全保障委員会(非公開が原則)で述べた。
当時の日本帝国のアメリカに対する猜疑心は現在から見ると驚くべきものだが、ハワイ併合時の時などに芽生えた不信感は払拭されていなかった。満州の開発を共同で始めてからは信頼感も出てきた。しかし、アメリカのマスコミなどが日本帝国の中国政策や朝鮮半島政策に文句をつけ、アメリカ議会の議員達が理解を示していることが懸念されていた。アメリカが中国と組んで日本帝国を挟撃するのではないかとの懸念もあった。結局、日米共同の満州開発も第1次世界大戦の参戦もアメリカへの不信感が最大の動機だった。貴族院は7月27日に参戦を事前承認した。衆議院は否決した。しかし、憲法の規定により枢密院と貴族院の承認で参戦が承認された。枢密院と貴族院は承認の条件として特別法を求めた。前述の派遣計画の概略を成文法にした法律で「欧州大戦介入法」と呼称された。こうして、参戦は開戦間際に決定した。
7月29日、日本帝国はイギリスに対して、日米戦争時に中立を保つことや講和の仲介を行うことなどを条件として参戦すると伝えた。イギリス政府は日本帝国の極度のアメリカ不信に驚いたが、承諾した。日本帝国の参戦によりイギリスはヨーロッパ方面に戦力を集中できるからだ。日本帝国がイタリア戦線にしか陸軍部隊を派遣しないにしてもメリットが大きかった。イギリス政府はロシアへの武器供給も求めた。イギリスが日英同盟の改定を表明すること(前述の要求に従って)を条件として日本帝国は承諾した。こうして、日英両国は参戦で正式に合意した。しかし、日英両国はドイツがシュリーフェンプランを発動しなければ参戦するつもりはなかった。しかし、ドイツはシュリーフェンプランを発動した。8月5日、日英両国はドイツに宣戦を布告した。
8月7日、午前0時43分、ドイツ艦隊(重巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻。シュペーが指揮)は日本海軍の仮装巡洋艦の村上にサモア島の南西40㎞の地点で発見された。村上の見張りが複数の艦船を発見した。「第1級戦闘配置!」の命令が伝声間で伝達され、ブザーが鳴り響く。音が艦の外に漏れる恐れのある艦橋などでは天井や床の警告灯が点灯し、士官達が確認して伝達する。村上は軍艦旗を掲げてから戦闘態勢に入った。水兵達が甲板に一斉に上がり、15cm砲の偽装を外す。また、別の水兵達はマストの偽装を外す。また、甲板の一部を外す。船内からアンテナが上がった。戦闘配置完了が各所から報告されると、村上は15cm砲から数発の照明弾を打ち上げた。直ちに、付近でドイツ艦隊を追跡していた複数の日本艦隊に打電した。
ドイツ艦隊は日本帝国の参戦を懸念したドイツ海軍本部の指示でサモア島に移動していた。日本帝国の宣戦布告を受けて直ちにサモア島を出港した。一旦、ニューギニアに向かう素振りを見せて日本海軍の仮装巡洋艦を追い払い、イースター島を目指そうとしていた。ところが、日英の軍情報部は共同で暗号を解読していた。暗号解読の結果、ドイツの石炭運搬船2隻がイースター島に向かっていることを知っていた。このため、発見するのは容易だった。ドイツ艦隊は全力で村上を撃沈しようとした。村上は探照灯に照らされる。忽ち、村上の周囲に多数の水柱が上がった。しかし、村上は商船改造艦ではなく偵察や秘密工作を目的として建造された仮装巡洋艦だった。村上は煙幕を張りながら逃走した。
村上はドイツ艦隊に向けて照明弾を発砲し続け、執拗に追跡を続けた。村上は射程外に逃げると、もう一つの機能を発揮し始めた。電波ジャミングを開始し、ドイツ艦隊の交信を妨害し始めた。ドイツ艦隊は追跡を諦めて逃走を図った。しかし、金剛と榛名を中心とする日本海軍第1艦隊の第2任務群(巡洋戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦8隻)に捕捉された。日本艦隊は南西から単縦陣で接近した。日本艦隊の重巡洋艦2隻と軽巡洋艦2隻が照明弾でドイツ艦隊を照らした。複数の照明弾が日本艦隊からドイツ艦隊の上空に向かう。ドイツ艦隊の上空で照明弾が煌めき、ドイツ艦隊が背景照明で姿が浮かび上がった。金剛と榛名は距離1万5千mから発砲を開始した。ドイツ艦隊は日本艦隊に砲撃されて驚いた。村上に電波ジャミングを掛けられ、シュペーは適切な指示ができなかった。
ドイツ艦隊の旗艦シャルンホルストの周りに多数の水柱が立つ。シャルンホルストに金剛の初弾が命中した。シャルンホルストの第1煙突の後ろに命中した。金剛と榛名は1万5千mを維持しながらシャルンホルストに砲撃を集中した。シャルンホルストの周辺に多数の水柱が上がり、2発が命中し火災が発生した。その後もシャルンホルストに集中砲火が浴びせられた。シュペーは発火信号でドイツ艦隊の各艦に対して煙幕を展開しつつ、各個に逃走するように命令した。これを見た日本艦隊は全速で追尾を開始した。駆逐艦の2個戦隊には突撃が命令された。
砲撃開始から約30分で金剛と榛名はシャルンホルストを大破させた。シャルンホルストは速度が低下し、脱落していった。金剛と榛名は目標をグナイゼウに切り替えた。忽ち、グナイゼウの周辺に多数の水柱が上がり始めた。間もなくシャルンホルストは駆逐艦1個戦隊(4隻)に雷撃された。シャルンホルストは21センチ砲や15センチ砲で応戦するが、砲撃で射撃装置も破壊されていた。第2任務群の第2戦隊がシャルンホルストに全速で接近し、約2千mで次々に魚雷を発射した。12本の魚雷がシャルンホルストに向かう。シャルンホルストも回避するが、3本が命中した。シャルンホルストは沈み始めた。
第2戦隊は照明弾を上げて、シャルンホルストの状況を確認した後で別の目標に向かう。金剛と榛名の砲撃はグナイゼウを捉え、7分間で5発が命中した。グナイゼウは煙幕を展開しつつ反転した。グナイゼウは魚雷発射管を装備していたので接近してくる金剛と榛名に雷撃をしようとした。しかし、金剛、榛名、軽巡洋艦2隻に集中砲火を浴びせられた。グナイゼウの周囲で多数の身柱が上がり、砲弾が次々に命中していく。距離8千mで大破炎上した。金剛、榛名、軽巡洋艦1隻は残りの艦を追尾した。残りの軽巡洋艦1隻は念のため接近する。グナイゼウは戦闘不能で速度も落ちていた。降伏を勧告したところ、グナイゼウが受け入れたので接収を試みると共に救助作業に移った。しかし、炎の回りが激しいために接収は直ぐに断念した。
一方、日本艦隊の重巡洋艦2隻は村上からの連絡を受けてドイツ艦隊の軽巡洋艦1隻を捕捉して午前1時7分に撃沈した。ドイツ艦隊の残りの軽巡洋艦2隻の内、1隻は煙幕から突入してきた日本海軍の駆逐艦2個戦隊に雷撃されて撃沈された。1隻だけが逃亡に成功した。日本艦隊は魚雷を使い果たした駆逐艦1個戦隊と2隻の仮装巡洋艦にドイツ艦隊の乗員の救助を任せて追撃した。其の1隻も、7日に日本海軍第2艦隊の第2任務群(一時的に第1艦隊に編入。比叡、霧島、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦8隻)に捕捉されて集中砲火を浴びて撃沈された。日本艦隊はドイツ艦の生存者を救助してから引き揚げた。こうして、ドイツ太平洋艦隊はエムデンを除いて沈んだ。
9日、日本海軍の第1海兵隊旅団がサモア島に上陸してドイツ軍を降伏させて占領した。同日、陸軍の第16師団が中国の青島に上陸した。青島のドイツ軍は戦前からの日本帝国の戦争準備を警戒して防備を固めていた。このため、第16師団は急襲を断念して包囲に切り替えた。後続の第6軍団や第1攻城師団などが続々と到着して包囲を固め、突撃壕を掘り進めた。
11日、日本陸軍の第1軍団は続々とアフリカ戦線に向けて出発した。ポルトガル領のモザンビークでは民間人に偽装していた教導歩兵旅団の1個連隊(ポルトガル当局は黙認)が公然と武装して第1軍団のための現地訓練所を開設した。同日、ポルトガルもドイツに宣戦を布告した。
8月20日、第2海兵隊旅団と第3海兵隊旅団を中心とする陸海混成軍団がドイツ植民地のニューギニア各地に上陸した。8月30日までに各地のドイツ軍守備隊を降伏させた。日本陸海軍は第1次世界大戦が始まると、迅速に行動して太平洋のドイツ軍を短期間で無力化することに成功した。この後、日本帝国はヨーロッパ派兵の準備に重点を移した。この時、日本帝国の国防省、対外特務庁などはヨーロッパでの戦争が長期化することを予期していた。しかし、日露戦争と同じぐらいだと判断していた。それ以上になれば、妥協が成立するだろうと予測していた。
青島に上陸した日本陸軍の第6軍団(神尾光臣中将が指揮)は大幅に増強されていた。5個師団、2個騎兵旅団、2個砲兵旅団が増強されていた(別に第1攻城師団が配属)。青島に籠っているドイツ軍は約4300(他に民兵部隊など)だった。事前の諜報活動で、5千名未満であることが判明していたので過剰だった。しかし、日本陸軍参謀本部はヨーロッパに派兵される予定の第6軍団の最終調整として青島攻略戦を展開した。このため、攻囲戦よりも部隊の揚陸、通信の調整、飛行場の建設、陸軍航空部隊の展開などに手間が掛かった。このため、本格的な攻撃開始は大幅に遅れて9月6日になった。
なお、青島に残っていたドイツ艦5隻は全艦、既に撃沈されていた。8月16日から日本海軍の第2艦隊のモニター艦6隻が水上機の着弾観測の報告を受けながら港内のドイツ艦隊に砲撃を加えた。ドイツ艦隊の3隻の砲艦、駆逐艦1隻は是で撃沈された。偽装していた水雷艇1隻は夜間に出撃したが、日本海軍の潜水艦が敷設した機雷に触雷して沈没した。艦艇が始末されると、次は青島の沿岸砲台と要塞砲が標的となった。
8月、飛行場は未完成だったので水上機が着弾観測を行う。水上機からの着弾観測により、第1攻城師団の40cm榴弾砲、30cm榴弾砲、30㎝臼砲、155mm榴弾砲の各部隊が砲撃を開始する。まず、発煙弾が撃ち込まれ、観測機と観測兵部隊が風向と風速を確認する。それから試射が行われ、観測機と観測兵部隊の報告を受けた射撃指揮所が弾着を修正していく。上空から観測機が着弾結果を報告してくるので着弾のパターンが把握し易く迅速な修正が行えた。このため、早々に効力射の指令を出すことができ、命中弾が増えた。そして目標が発見し易くなり、効率的に砲撃を割り振れた。
40cm榴弾砲と30㎝榴弾砲の徹甲榴弾の砲撃でドイツ軍要塞の天井を潰し、30cm臼砲が榴弾の砲撃で被害を拡大させる。155mm榴弾砲は兵舎などの比較的、強度が低い目標を砲撃した。巨大砲の威力は強力であり、観測機部隊の活躍もあって的確な砲撃となった。徹甲榴弾が次々に降り注ぎ、要塞の天井を破って内部で爆発する。観測機の報告で複数の命中が報告されると、30cm臼砲の砲撃が開始される。榴弾が次々に着弾し、炸裂する。強力な爆発が起こり、爆風が外にも飛び出すのが確認された。ドイツ軍の沿岸砲台と要塞砲は次々に破壊された。
第2艦隊は掃海部隊に念入りに掃海を実施させた。こうして障害は排除され、日本艦隊と日本陸軍砲兵隊が安心して砲撃を行えるようになった。9月6日から準備砲撃が開始された。第1攻城師団を始めとする陸軍の軍団砲兵は陸上機から着弾観測を行い、猛砲撃を行った。
榴弾砲部隊は塹壕線を万遍なく砲撃し、ドイツ軍部隊の消耗と突破口の形成を狙った。野砲部隊は夜間に、日中に榴弾砲部隊などが砲撃した地点を砲撃して復旧作業を妨害した。第1攻城師団は昼間、観測機の報告を受けながら大型トーチカを次々に破壊していった。40cm榴弾砲と30cm榴弾砲の両部隊が徹甲榴弾でトーチカの天井を徹甲榴弾で崩し、その後で榴弾を使用して被害を拡大させていった。30㎝臼砲部隊は航空偵察で判明したドイツ軍の塹壕線の重要な部分(交通壕など)を榴弾で破壊していった。155mm榴弾砲部隊は沿岸砲台や要塞砲を砲撃し続けて復旧作業を妨害した。
また、第1攻城師団は夜間になると塹壕線を万遍なく砲撃してドイツ軍部隊を消耗させた。第1攻城師団の砲撃はドイツ軍兵士を精神的にも消耗させた。トーチカなどが安全でなく自分が砲撃で何時、死ぬか分からないというのは大きな恐怖だった。体力的にも、トーチカなどに避難出来ず急ごしらえの塹壕の退避壕で耐えるという状況は苛酷だった。
日本帝国海軍も強力な砲撃を行った。戦艦6隻とモニター艦12隻を中心とする第2艦隊(増強されている。対地攻撃のために、第1艦隊と任務群を入れ替えている)は水上機から着弾観測を受けながら激烈な艦砲射撃を行った。40cm榴弾砲を主砲とするモニター艦と30㎝榴弾砲を搭載するモニター艦の艦砲射撃は強力だった。日露戦争から日本帝国海軍のモニター艦の艦砲射撃は強力で日本帝国陸軍からも頼りにされていた。
第1次世界大戦から観測機による着弾観測で更に有効性は増した。モニター艦は昼間、航空偵察に基づいてドイツ陸軍の塹壕線の重要な箇所(交通壕など)を榴弾で破壊した。夜間は、塹壕線に万遍なく砲撃を行った。モニター艦はトーチカも砲撃した。是も有効であり、観測機による支援もあって的確な砲撃を行えた。しかし、洋上で揺れるモニター艦は第1攻城師団と比べれば命中率が悪く艦に搭載できる砲弾が切れると、港に戻らなければならない。トーチカなどの堅固な目標は直撃させないと被害を及ぼせない。このため、有る程度の射撃データーが得られると早々にトーチカへの砲撃は中止された。モニター艦による砲撃は第1攻城師団の砲撃と同様の効果を齎した。
戦艦と重巡洋艦は昼間、沿岸砲台、要塞砲、大型トーチカを主に砲撃した。既に沿岸砲台や要塞砲は破壊され、大型トーチカも逐次、第1攻城師団によって破壊されていた。これらの施設を復旧させないことが目的だった。戦艦と重巡洋艦は夜間に塹壕線も砲撃したが、艦砲は弾道が直線的なので対地攻撃に向かない。だからこそ、専門のモニター艦が配備されている。ドイツ軍部隊を疲弊させるためと、突破口を作るのが目的だった。軽巡洋艦と駆逐艦は主として塹壕線を夜間に万遍なく砲撃する任務だった。塹壕の復旧作業を妨げるためだった。艦砲は前述の様に、対地攻撃に向かないからだ。昼間も砲撃したが、突破口を作るのが目的だった。しかし、陸軍の砲兵隊に比べて効率が悪かった。
砲艦はモニター艦に次ぐ有効な艦砲射撃を行った。日本海軍の砲艦は装備を積み替えることができ、迫撃砲やロケット砲で火力支援を行った。砲艦は浅瀬に侵入することができたので命中率も高かった。沿岸なら、固いトーチカでも主砲の120mm砲で損害を与えることが出来た。迫撃砲は塹壕線に上方から迫撃砲弾を撃ち込めた。また、森林でも弾道が変化せず、丘などの稜線の反斜面などにも有効だった。中国の都市は高い城壁に囲まれていたことから迫撃砲が特に有効だった。ロケット弾は一度に大量のロケット弾を発射することで、面目標を一挙に攻撃できる。発射機の強度も火砲より低くて済むので弾頭の大型化も容易だった。こうしたロケット弾の特性は、地雷原を一挙に吹き飛ばしたり歩兵の集団突撃を粉砕することなどに最適だった。日本帝国海軍の砲艦は各種ロケット砲を使用し、塹壕線に広範な被害を与えた。特に、大型ロケット弾は地雷原や鉄条網を吹き飛ばすのに効果的だった。ロケット弾が大量に発射されるので沿岸でのドイツ軍兵士の移動も制限された。
日本帝国海軍の砲艦は主砲、迫撃砲、ロケット砲を使い分けて効果的に沿岸を攻撃した。第2艦隊は各艦艇に沿岸へ接近するよう厳命し、実行された。従わない指揮官は階級を問わず、直ちに解任された上で降格された。戦艦は5㎞まで、重巡洋艦は4㎞まで、軽巡洋艦は3㎞まで、駆逐艦は2㎞まで、砲艦は1㎞までが原則とされた。砲艦は艦長の判断で更に接近することも推奨された。しかも原則であり、更に接近することが命令されることもあった。事前に、陸軍の砲兵隊との共同砲撃で障害を除去していた。更に、掃海部隊や魚雷艇部隊が入念に事前偵察した。それでも危険であることに変わりはなかった。
しかし、第2艦隊の首脳部や日本帝国海軍の上層部は命令を徹底させた。艦砲射撃の有効性を高めることが国防省から厳命されていたからだ。更に、海軍としても陸軍の橋頭堡を確保するのに有効な支援ができなければ、自己の存在意義に関わることだった。敵海上兵力の撃滅による制海権の確保、シーレーンの防衛、敵国のシーレーンの破壊と並んで敵国などへの上陸作戦の実行も重要任務とされていたからだ。日本帝国海軍はナポレオン戦争の教訓として海上で勝利しても陸上に脅威を与えなければ、影響は限定的であることを認識していた。国防省も同様であり、国防省は陸軍を予算面で優遇する傾向にあった。制海権を確保しても敵国の領土を占拠できなければ意味が無いからだ。
このため、日本帝国海軍は陸軍の支援にも熱心だった。海軍首脳部の姿勢は現場にも徹底され、海軍部隊は陸軍部隊とも意思疎通を徹底させた。このため、陸軍部隊からも艦砲射撃は大いに歓迎され、効果が誇張された。実態は違う。日本帝国海軍も的確かつ強力な艦砲射撃を行ったが限界も明らかになった。艦砲射撃は陸軍の砲兵隊の砲撃よりも有効性が劣ることが再度、証明された。それに、沿岸地帯でしか行うことができない。日本帝国の場合、海に囲まれているので艦砲射撃による支援も有用だ。しかし、技術的には発展の見込みは無かった。このため、日本帝国海軍は航空機を対地攻撃に使用できないか研究していくことになる。陸海軍の砲撃は青島沖に停泊した海軍の司令船から行われた。ただし、軍団砲兵と艦砲射撃の指揮は第6軍団の軍団砲兵の少将が行った。陸海軍の砲撃は日露戦争から行われ始めていたキルボックス方式だった。戦域を格子状に区切って、砲兵隊と艦隊に砲撃する目標と時間を任務ごとに割り当てる方式だった。重要目標への砲撃の集中、無駄討ちの防止などの効果がある。
日露戦争当時は地上部隊の目視か気球部隊による目視しかない。気球は基本的に場所を移動できず、低性能だった。目視でロシア陸軍陣地を確認しスケッチする。それを総合してキルボックスを設定した。このため、キルボックス方式の有効性は限定的だった。それが、今回からは航空偵察が使えるようになった。水上機や陸上機が細かく航空写真を撮影し、司令船の写真分析班が航空写真から情報を分析した。それを総合してキルボックスが設定され、目標が割り当てられた。重要だったのは目標の選定が、第2軍団の師団長達も加えて行われた事だ。従来の軍団砲兵による砲撃や艦砲射撃の目標は軍団砲兵や任務群の指揮官と軍団長が主導して行っていた。
勿論、全体の作戦も重要なのだが必ずしも師団長が砲撃して欲しい目標を砲撃していたわけでは無かった。このため、進撃する師団では目標が砲撃されていなかったり、砲撃が不充分だったりすることなどがあった。その度に、砲撃を要請するので効率が悪かった。しかも、前線部隊には無線機がない。前述の様に航空機による偵察と違い、偵察の有効性が劣り敵軍の全体像が掴めない。不測の事態に備えて軍団長が目標をバランス良く割り振るしかないという事情もあった。それが航空偵察により一変した。敵軍の全体像が明らかになり、不確実性が減った。地形も明確になり、キルボックスも的確に設定できるようになった。師団長達も状況を把握でき、師団長達の意向を目標に反映できるようになった。こうして、陸海軍による有効な砲撃が青島要塞に行われ、第6軍団の歩兵部隊による攻撃が始まる前にドイツ軍部隊は大打撃を受けていた。
第1次世界大戦で日本帝国陸海軍が使用した兵器の中で目立った兵器の一つがロケット兵器だった。日露戦争時、ロケット砲部隊は陸海軍とも動員されていなかった。幕府陸海軍以来、ロケット砲部隊が運用されていたのは焼夷ロケット弾により、広範囲に放火することが目的だった。都市、町、村を焼き払えば、敵軍や便意兵などが抵抗しにくくなるからだ。都市を抱え込んだ要塞なら火災を発生させて混乱を引き起し、陥落させることもできた。焼夷ロケット弾は幕府陸海軍の十八番だった。しかし、当然ながら焼夷弾は残虐であり昔から評判が悪かった。元込め砲の野砲、榴弾砲、山砲が配備され、砲弾も炸裂弾になると使用が次第に自粛される様になった。
そして、駐退装置付きの榴弾砲、野砲、山砲が主力火砲になり、迫撃砲の原型となるストークス臼砲が歩兵部隊の支援用として大量に配備された。最早、弾幕を大砲で行うことが可能になり広範囲の目標を効果的に砲撃できるようになった。便意兵が跋扈する都市、町、村も砲撃で潰せる。評判が悪い上に命中精度も悪く、兵站上も負担が大きいロケット砲部隊は無用の長物だった。殆どのロケット砲部隊は榴弾砲部隊に転換された。一部のロケット砲部隊は残されたが、予備状態だった。毒ガスの研究が進んでおり、ロケット弾の特性が毒ガス散布に最適だからだ。
しかし、戦時条約に関係なく日本帝国は毒ガスを先制使用する気は無かった。このため、ロケット砲部隊は予備部隊で定期的に演習を行うだけだった。しかし、中国大陸で日本帝国海軍が治安維持活動を行うようになると、事情は一変した。モニター艦、駆逐艦、砲艦で砲撃を行い、海兵隊や陸戦隊を上陸させる必要があった。暴徒や便意兵、時折ある正規軍の集団での殺戮、これらが複合した暴動に対処する必要があった。広範囲を攻撃できる兵器が必要だった。モニター艦、駆逐艦、砲艦が充分な弾幕を張れる数まで揃うのには時間が掛った。弾幕射撃を行えば、威嚇だけで暴動を抑制することもできたからだ。
このため、PMC部隊がロケット砲部隊を運用し始め、日本帝国海軍の砲艦が使用するようになった。効果は絶大だった。日本帝国海軍はロケット砲を大幅に増強した。日本帝国陸軍も海軍の成功を受けた国防省の指示でロケット砲部隊を復活させた。しかし、陸軍の場合、自動車が未発達で兵站が大変だった。このため、航空機の搭載兵器として採用した。照準器が未発達であり、弾道が直線的で一度に発射できるロケット弾は最適だった。
このように、日本帝国陸海軍が第1次世界大戦で大々的に使用し始めた兵器や戦術は突如、採用され始めたのではなかった。中国、ロシア、朝鮮に加えて、アメリカに囲まれた日本帝国の危機感は強く、兵器や戦術の改良は怠ることができなかった。日本帝国とアメリカは協商条約を結んだものの、相互不信が根強かった。両国の相互不信は、ソ連の敵対意志をアメリカが明確に認識する1948年前後まで延々と続くことになる。アメリカへの不信が日本帝国の兵器や戦術が世界の最高水準を維持し続ける要因の一つになった。
準備砲撃は9月21日まで続けられた。是は初の航空機による実戦の着弾観測なので陸軍の砲兵隊も海軍の艦隊も問題点を洗い出しておきたかったからだ。実際、演習で見つからなかった複数の不具合が発見されて改善された。日露戦争後は流石に演習の規模を制限するしかなく(弾薬の費用が増大したため。それでも他国軍と比べれば実戦さながらだった)、青島の攻略戦は良好な最終調整となった。なお、9月20日に神尾中将は青島のドイツ軍部隊に降伏勧告を行おうとしたが、大谷国防大臣によって禁止された。大谷国防大臣は第6軍団、海軍部隊、航空隊の最終調整を完全にするため歩兵部隊を突入させて作戦を完遂する様に厳命した。
9月21日の夜明けと同時に準備砲撃は終了した。第6軍団は本格的な攻撃を開始した。軍団砲兵が激烈な砲撃をドイツ軍の塹壕線に開始した。準備砲撃は省略された。
野砲部隊は多数の煙幕弾をドイツ軍の塹壕の第1線に撃ち込む。榴弾砲部隊はドイツ軍の塹壕の第2線を万遍なく砲撃した。第1線が煙幕に包まれ、第2線は多数の榴弾が次々に着弾して爆発して爆風に包まれる。第1攻城師団は大口径の榴弾を第2線や第3線の重要な箇所(交通壕など)を砲撃し続ける。交通壕などに大口径の榴弾が次々に着弾して爆発する。着弾した地点にはクレーターができる。当然、爆発に巻き込まれてドイツ軍兵士も死傷する。ドイツ軍兵士達は退避壕に逃げ込む。
第1派の日本陸軍部隊が突撃壕から飛び出していく。陸軍の作戦開始と同時に、海軍も作戦を開始する。モニター艦、戦艦、重巡洋艦は水上機の報告を受けながら大型トーチカや司令部と推測された地点などを砲撃し続けた。軽巡洋艦、駆逐艦、砲艦は輸送船団を伴って陽動作戦を実行した。輸送船から続々と上陸用舟艇(後のアメリカ海軍の車輛用の上陸舟艇であるLCMと同じ大きさだが兵員を20人しか輸送できない)でが降ろされる。海兵隊が上陸舟艇に乗り、上陸舟艇は整列して待機する。魚雷艇が上陸舟艇を誘導した。
軽巡洋艦と駆逐艦は直接照準で沿岸の塹壕線や機関銃用のトーチカなどを砲撃し続ける。砲艦は水上機の報告を受けながら120mm迫撃砲で軽巡洋艦や駆逐艦が砲撃した後の目標を砲撃して更に破壊していく。急角度で着弾する迫撃砲弾は直接照準された目標の被害を拡大させ、破壊を完全にした。更に、沿岸を移動するドイツ軍の分隊を迫撃砲と主砲で砲撃して移動を更に困難にした。陸軍の攻撃開始と同時に、上陸舟艇も沿岸を目指す。軽巡洋艦と駆逐艦は直接照準で沿岸のドイツ軍塹壕線を万遍なく砲撃し続け、迫撃砲装備の砲艦は多数の煙幕弾を撃ち込んで上陸舟艇が向かう沿岸の側面を煙幕で覆う。ロケット砲装備の砲艦は大量のロケット弾を発射し始めた。大量のロケット弾が着弾し、爆発が沿岸を覆う。上陸舟艇の大部隊が魚雷艇に誘導されて沿岸へ向かう。誰が見ても上陸作戦に見える。
隠れていたドイツ軍の山砲が上陸舟艇に向かって砲撃を開始する。砲艦が直ちに主砲で反撃する。ロケット砲装備の砲艦から大量のロケット弾が発射され、山砲の周囲に着弾する。山砲を多数の爆発が覆い、山砲は沈黙した。煙が晴れると、砲艦が主砲で砲撃する。ドイツ軍部隊は沿岸で配置に就く。しかし、上陸舟艇の部隊は沿岸から約500mで反転した。ドイツ軍部隊は陽動作戦だと気付いたが、簡単に沿岸を離れられない。上陸舟艇には、実際に日本帝国海軍の海兵隊が乗船している。何時、上陸してくるか分からないからだ。このため、ドイツ軍は上陸を警戒して部隊を残し戦力が更に分散した。準備砲撃で破壊された電話線も多く、ドイツ軍は部隊の指揮が困難になっていた。
海軍の陽動作戦の開始と同時に、日本帝国陸軍も攻勢を開始した。第16師団、第17師団、第18師団が攻撃を開始した。突撃壕から歩兵分隊が飛び出して敵陣に向かう。日本陸軍の歩兵部隊の基本戦術は分隊(16名)を単位にして突破する戦術となっていた。分隊には軽機関銃の種子島1911が2艇配備されており、軽機関銃の2個班に小銃だけの2個班が付いて傘型の隊形を基本とした。各兵員の距離は6mとされており、格段に散開していたので砲撃や銃撃の被害が軽減された。軽機関銃が2艇配備されていたので散開しても火力で対抗できると陸軍参謀本部は予測した。塹壕などを占領するまでは分隊で行動するのが当たり前だった。
ただし、未だに浸透戦術は採用されていなかった。理由は通信技術の発達により、浸透した部隊が砲兵隊に支援された予備隊に各個撃破されるのではないかと思われたからだ。それに、包囲された前線の部隊が救援を信じて抵抗を続ければ浸透した部隊は孤立して窮地に陥ると考えられていた。浸透戦術の心理的効果は実戦でなければ確かめようがなく、ロシア陸軍のブルシロフ将軍が実行した浸透戦術に日本陸軍は後に驚くことになる。ともあれ、日本陸軍の新戦術は効果的だった。
日本陸軍の第1派の部隊は第1線の塹壕に向かう。各分隊が独自の判断で進んでいく。ドイツ軍部隊は煙幕の切れ間に、日本陸軍兵士を見つけて発砲する。しかし、日本陸軍の分隊から軽機関銃の連射が行われる。ドイツ軍兵士の塹壕に多数の弾が当たりドイツ軍兵士達は怯む。その隙に、日本陸軍の分隊は進む。ドイツ軍部隊が手薄そうな場所に向かう。煙幕に紛れて接近した分隊は次々に手榴弾を投擲する。爆発が起こる。その後、塹壕に突入する。ドイツ軍兵士がいれば銃剣で刺殺する。それから手榴弾を投擲して、左右を制圧する。
しかし、実際は日本陸軍の分隊が突入してくると殆どのドイツ軍兵士は直ぐに降伏した。既に、的確かつ徹底的な準備砲撃で大打撃を受け、精神的にも疲弊して戦意が低下していた。日本陸軍の分隊はドイツ軍兵士から小銃と手榴弾を取り上げ、手榴弾で爆破した。分隊長が「後続部隊に降伏せよ。抵抗しなければ安心だぞ」などと言ってから信号弾を打ち上げた。日本陸軍の分隊は第1線の塹壕を飛び出して、第2線に向かう。
信号弾が次々に上がると、観測機や観測兵部隊から報告を受けた射撃指揮所が砲撃を切り替える。第2線へ野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、第3線へ榴弾砲部隊が榴弾による砲撃を行う。第1線へは第2派の日本陸軍部隊が突入する。第2派の部隊は歩兵部隊、機関銃部隊、ストークス臼砲部隊、工兵隊で構成される。第2派の部隊は第1線を突破して第1派の部隊を追う。ドイツ軍部隊が抵抗すれば、軽機関銃や機関銃の射撃やストークス臼砲の砲撃で牽制して進撃する事になっていた。
しかし、今回はドイツ軍兵士達の多くが既に降伏していたので、そのまま進撃した。降伏していたドイツ軍兵士達を日本陸軍の将校達が確認する。再度、簡単に身体検査をして武器を没収する。その後、捕虜達に警告をしてから第1線の塹壕を離れる。直後に、第3派の部隊が突入し第1線の塹壕の完全制圧に着手した。第3派の部隊は歩兵部隊、機関銃部隊、ストークス臼砲部隊、山砲部隊、工兵隊で構成されていた。降伏していたドイツ軍兵士達は捕虜として収容され、後送され始めた。第1派の部隊は煙幕に紛れて第2線の塹壕に接近する。
ドイツ軍兵士達の銃撃には主として軽機関銃が応戦する。軽機関銃の連射が塹壕に浴びせられ、ドイツ軍兵士達が怯む。その間に、日本陸軍の分隊が進む。分隊は次々に手榴弾を投擲して塹壕に突入する。それから各分隊は分隊長の判断で第2線の制圧に着手した。塹壕を出て、背後から第2線の塹壕に手榴弾を投擲して制圧していく分隊もあれば、そのまま塹壕を進んで手榴弾を投擲して制圧していく分隊もあった。多くのドイツ軍兵士は降伏していった。その場合、分隊は小銃と手榴弾を取り上げて手榴弾で爆破する。その後、捕虜達には後続部隊へ降伏する事と、その場で伏せておくように命じて進撃を継続する。
第2派の部隊は煙幕に紛れて第2線に接近する。ドイツ軍部隊の手薄な地点を目指し、抵抗が激しい地点は迂回する。第2派の部隊は分隊ごとに距離を空けるが、小隊長の指示で各分隊は行動する。第2派の部隊は手榴弾を次々に投擲して塹壕線に突入する。塹壕線に突入すると、抵抗するドイツ軍兵士がいれば銃剣で刺殺し、距離が空くと手榴弾を投擲して制圧する。しかし、多くのドイツ軍兵士は降伏した。第1派の部隊に降伏した兵士も多かった。橋頭堡を確保すると、第2派の部隊は次々に信号弾を上げる。観測機と観測兵部隊から報告を受けた射撃指揮所は煙幕弾による砲撃を止め、第3線と交通壕に砲撃を集中する。
第3派の部隊は第1線の塹壕から第2線を目指して突撃する。第2派の部隊も簡単に武装解除と周りの兵器の爆破をしてから捕虜達に伏せておくように指示して進撃する。第2派の部隊は第1派の部隊と協力して第3線に通じる交通壕の制圧を目指して攻撃する。日本陸軍部隊は軽機関銃の射撃とストークス臼砲部隊の砲撃でドイツ軍部隊の銃撃を妨害し、接近した歩兵達が次々に手榴弾を投擲する。ドイツ軍部隊は圧倒され、手榴弾で次々に制圧されていった。第2派の機関銃部隊は歩兵部隊の側面を警戒し、接近するドイツ軍兵士を射撃して牽制した。第2派と第1派の部隊は交通壕に迫る。
ドイツ軍部隊は機関銃部隊を展開させて交通壕を守ろうとする。ドイツ軍の機関銃部隊はストークス臼砲部隊からの砲撃と軽機関銃を中心とする銃撃で射手達が死傷するか怯み、その隙に接近した日本陸軍の歩兵達に手榴弾を投擲されて制圧されていった。塹壕の背後にも日本陸軍の分隊が回り、軽機関銃を主とする銃撃を浴びせる。その援護で接近した歩兵達が次々に手榴弾を投擲して塹壕を制圧していく。相次いで交通壕が占拠され、第2線と第3線の連絡が遮断される。第3派の部隊も突入し、第2線の完全制圧に着手する。捕虜達の完全な武装解除と後送も始まる。狙撃班も展開され、ドイツ軍兵士達の動きを封じる。狙撃班は捕虜達を監視する哨兵の援護も行った。第2線のドイツ軍の残存部隊はストークス臼砲部隊や山砲部隊から砲撃されると、殆どが相次いで降伏した。
日本陸軍の各師団は予定よりも大幅に早く進撃できた。日本陸軍部隊は態勢を整えるため、暫く第2線で休憩した。その間も、第3線と後方の大型トーチカなどに榴弾による砲撃が加えられ続けた。日本陸軍部隊が攻撃を再開する。第3線に野砲部隊が煙幕弾による砲撃を行い、他の砲兵隊や艦隊は大型トーチカやドイツ軍の中隊本部などを砲撃し続けた。第1派の部隊は第3線を通過し、ドイツ軍戦線の後方へ向かう。第2派の部隊は第3線に突入すると、手薄な地点を占拠した。そして、第3派の部隊が到達すると順次、第1派の部隊に追従してドイツ軍戦線の後方へ向かった。第3派の部隊は第3線の制圧に着手した。ドイツ軍部隊はストークス臼砲部隊と山砲部隊の援護を受けた日本軍部隊に塹壕の背後からも攻撃されて圧倒された。次々に、ドイツ軍兵士は降伏していった。
一方、第1派の部隊はドイツ軍部隊を迂回しつつ、大型トーチカや中隊本部などの近くで第2派の部隊を待つ。第2派の部隊は第1派の部隊と合流しながら、ドイツ軍部隊の抵抗の激しい地点を迂回する。そして、信号弾を次々に上げて砲撃の停止を要請する。観測機が信号弾を確認して砲撃が停止される。艦隊と第1攻城師団は、日本陸軍部隊が侵攻していない戦域のドイツ軍拠点を砲撃し続ける。野砲部隊と榴弾砲部隊は観測機の誘導で移動するドイツ軍部隊や密集しているドイツ軍部隊を砲撃すると共に、観測兵部隊の要請に応じて砲撃を行い、歩兵部隊を支援する。
第2派の歩兵部隊は抵抗の激しい拠点は迂回し、抵抗の手薄な拠点を制圧していった。ストークス臼砲部隊の砲撃、機関銃部隊の銃撃、軽機関銃を主とする歩兵分隊の銃撃でドイツ軍兵士達の射撃を封じ、接近した日本陸軍歩兵分隊が主として手榴弾の投擲で制圧する。トーチカの側面や後面に回り込んだ歩兵部隊に援護された工兵隊がトーチカを爆破する。抵抗の手薄な大型トーチカ、中隊本部、機関銃用のトーチカなどの拠点が次々に爆破された。
工兵隊の爆破が終わると、直ちに日本陸軍の分隊が手榴弾を爆破で生じた穴へ次々に投げ込む。集束手榴弾が特に効果的で、二次爆発が起こることもあった。有る程度、攻撃が進展するとドイツ軍兵士の降伏が相次ぐ。その場合、第1派と第2派の部隊は小銃と手榴弾を取り上げて爆破処理してから近くの遮蔽物の陰で伏せておくこと、後続部隊に降伏することを告げて進撃を継続する。
第3派の部隊は第3線の制圧を終えると、第1派と第2派の部隊に協力して残りのドイツ軍拠点の制圧に着手する。捕虜達の後送も始められる。山砲部隊やストークス臼砲部隊がトーチカの銃眼や機関銃部隊の周りに煙幕弾を撃ち込み、ドイツ軍部隊の視界を遮る。煙幕に紛れて日本陸軍の分隊が接近する。各分隊が位置に就くと、狙撃班の狙撃とストークス臼砲部隊の弾幕射撃が始まる。ドイツ軍の機関銃部隊はストークス臼砲部隊の弾幕射撃で射手が死傷し、伏せざるを得ない。銃眼には山砲部隊が直接照準で煙幕弾を叩き込み、射撃を妨害する。狙撃班もドイツ軍の機関銃手を狙撃して死傷させていき、効果的に射撃を妨害した。
更に、狙撃班は新戦術も実施した。狙撃班(4名)の内1名が軽機関銃手だった。狙撃手が銃眼の近くの土嚢などを目標にして零点規正を行い、軽機関銃手にも隣で同じ目標に零点規正を行わせた。こうして、狙撃銃と軽機関銃を同軸に近い状態にした。狙撃班による其の戦術がドイツ軍の機関銃部隊に最も有効だった。狙撃手の撃った曳光弾が外れても軽機関銃手が曳光弾の後を追って銃撃することが出来た。軽機関銃の掃射で高い確率で射手は死傷した。更に、軽機関銃の掃射で副射手なども死傷することだ。ドイツ軍の機関銃部隊は銃撃を封じられ、接近してきた日本陸軍の歩兵部隊に手榴弾を次々に投擲されて撃破された。ドイツ軍の機関銃部隊が敗れると、接近は簡単だった。
トーチカなどに接近した日本陸軍の歩兵分隊と工兵分隊はトーチカに爆薬を仕掛ける。工兵が導線を伸ばし、スイッチを入れる。爆発が起こり、トーチカの壁が崩れる。直ちに、歩兵分隊が集束手榴弾を次々に投げ込む。トーチカの内部で更に爆発が起こり、トーチカは完全に破壊される。徹底的な砲撃で多くのドイツ軍拠点が損傷しており、工兵隊による爆破は簡単だった。トーチカなどの拠点が密接に支援し合っている地点では、前線に進出した野砲部隊が直接照準で徹甲榴弾をトーチカなどの拠点に撃ち込んで突破口を作った。その後、援護を受けた工兵隊と歩兵部隊が爆破していった。既にドイツ軍は苛烈かつ的確な準備砲撃で大打撃を被っていたので実弾演習に近い雰囲気だった。
当初は一週間で攻略する予定だったが21日中に青島は占領された。正午には指揮系統が分断され、ドイツ軍部隊の戦線が完全に崩壊した。艦隊、第1攻城師団、野砲部隊の砲撃が完全に停止された。最早、21日中の陥落は確実だったからだ。威力が適正で弾道の特性上も支援に適している榴弾砲部隊だけで充分だった。13時にはドイツ軍司令部もストークス臼砲部隊と山砲部隊から砲撃を受けるようになった。ドイツ軍部隊の抵抗が激しいので日本陸軍部隊(司令部であることが判明していなかった)は制圧を見送り、他の拠点の制圧を優先した。しかし、機関銃部隊を中心とする日本陸軍部隊が包囲した。観測兵部隊によって砲撃が誘導され、榴弾砲部隊が砲撃した。機関銃部隊の銃撃と併せてドイツ軍部隊の動きは封じられ、沈黙した。狙撃班も狙撃を行って効果的にドイツ軍部隊の動きを封じた。他の拠点も同様な状況だった。
14時、第6軍団はドイツ軍に降伏を勧告した。日本陸軍は攻撃を停止した。日本陸軍の将校が塹壕から白旗を掲げた。暫く振っても撃たれないので4人の兵士を伴って包囲されたドイツ軍司令部に向かった。ドイツ軍司令部は降伏を受諾した。
15時、ヴァルデック海軍大佐が降伏文書に署名する。日本陸軍の航空機と日本海軍の水上機がドイツ軍の降伏を知らせるビラを大量に散布した。ドイツ軍兵士は降伏していき、ドイツ軍将校と日本陸軍部隊が巡回してドイツ軍部隊を降伏させていった。こうして、青島攻略戦は終わった。両軍の損害は次の通り。日本陸軍の損害は戦死が106、負傷が419。ドイツ陸軍の損害は戦死が1087、負傷が3122。青島が陥落したことで日本帝国陸海軍は後顧の憂いなく、イタリア戦線に派兵できるようになった。
前述の様に、イタリア戦線に派遣される予定の第6軍団が最終調整を行うことができ、陸軍航空部隊との調整、航空機による着弾観測などで実戦試験を行うことができた。これにより、第6軍団は万全の状態でイタリア戦線へ向かうことが可能になった。ただし、この時はイタリアが参戦するかどうかは不明だった。緒戦の日本帝国陸海軍の勝利はイギリスで意外に高く評価された。シュペー艦隊が壊滅したおかげでイギリス海軍は戦力を分散せずに済んだ。また、オーストラリアやニュージーランドに近いドイツ領が早期に攻略されたことでオーストラリア陸軍やニュージーランド陸軍はアンザック軍団を結成して早々に派兵することが可能になった。アンザック軍団はエジプトに向けて出発した。
日本陸海軍は第1次世界大戦で比類なき戦闘能力を発揮できたのは国防省だけではなく、憲政党と帝国党の与党連合、枢密院(大正天皇を除く)、対外特務庁が軍事力強化の必要性を認識していたからだった。仮想敵国はロシア、中国、アメリカの三大大国であり、気を抜くことが出来なかった。このうち、アメリカは満州に利権を持っており、満州に陸軍部隊も駐屯させていたので気軽に日本帝国を敵にすることはできなかった。
しかし、日本帝国の保守派は全く信用していなかった(表面上は丁重だったが)。アメリカ国民や政治家に根強かった君主制に対する極度の反感に不信感を懐いていた。更に、アメリカは日中共有の属国である朝鮮から亡命者を複数、受け入れていたことに強い敵愾心を懐いていた。日本帝国はアメリカの内政問題に不干渉の態度を明確にしていたから尚更だった。日系移民の排斥問題が発生した時、現地の日本人移民を保護した数名の外交官が懲戒免職にされている。アメリカが日本帝国の問題に介入してくる口実を与えたくなかったのと、これまでの日本帝国の外交方針に反していたからだ。
当時、日本帝国は朝鮮半島からの密入国者に極めて厳しい態度をとっていた。朝鮮半島からの密入国者が出稼ぎ目的で日本帝国に来ていた。帝国党は密入国者による治安の悪化や労働賃金の低下などを嫌って苛烈な取り締まりを強硬に主張した。憲政党は帝国党ほど強硬ではなかったが、朝鮮半島から不法移民を流入させる気はなかった。このため、内務省に指示して清国と共同して徹底的な取り締まりを行った。朝鮮では中国の企業が朝鮮人を酷使していた。是と日本帝国政府による朝鮮政策(鉄道の敷設禁止など)が朝鮮からの不法移民流入の原因になっていたが、憲政党も対朝鮮半島政策を修正する気はなかった。朝鮮人の小中華主義と反日主義は筋金入りであることを理解していたからだ。よって、憲政党も帝国党も朝鮮半島にアメリカの干渉を拒絶する以上はアメリカの国内問題に干渉する気は全く無かった。
憲政党の中には同情的な数名の議員もいたが、大半の憲政党の議員も帝国党と同じくアメリカの国内問題に干渉することがアメリカによる日本帝国内への干渉に繋がると考えていた。このように、日本帝国はアメリカの国内問題に干渉していなかったにも関わらず、アメリカが日本帝国の朝鮮半島政策への批判(時折だが)、朝鮮からの亡命者の受け入れと引き渡し拒否をしていたことに帝国党も憲政党も怒っていた。
このため、軍事力の強化は日露戦争後も不可欠だと考えられた。このため、国防省、種子島や国友の軍需産業はヨーロッパの軍事技術を買い漁り、ヨーロッパの軍事技術者達を多く雇用している。特に多かったのが、イギリスの新軍事技術の買収とイギリス人技術者の雇用だ。代表的なのがポーレンの艦船用砲撃管制装置の採用および改良とポーレンの雇用だった。ポーレンは長距離の砲撃に対応でき、自艦が砲撃中に針路を変更しても対応できるようになっていた。イギリス人のポーレンは自分が発明した砲撃管制装置がイギリス海軍省に盗作された(ただし、ポーレンのオリジナルよりも低性能)ので怒って各国に売り込んでいた。
当然、日本帝国の国防省が見逃す筈もなかった。日本帝国の国防省はポーレンにイギリス海軍省が約束していた10万ポンドを前金として支払い、日本海軍の海軍工廠に専属で雇用した。この際、イギリス外務省に感づかれない様に、数か国を経由して日本帝国に入国させた。ポーレンの行為は完璧に合法だった。しかし、イギリス外務省は日本帝国がイギリスを始めとするヨーロッパ各地で新式の軍事技術を買い漁っていることに疑念を持って妨害を始めていたため、其れを回避するためだった。イギリス外務省は日本帝国が日露戦争後も軍事力の強化に余念がないのはアメリカに対する先制攻撃を考えているからではないかとの疑念をもち、イギリスでの軍事技術入手を妨害し始めた。特に、ポーレンの砲撃管制装置はイギリス海軍省が盗作したほど優秀だったので妨害した。これは両国の新聞にも掲載されて大騒ぎになり、両国の関係に緊張が走った。
しかし、直ぐに沈静化した。イギリス海軍省はポーレンの砲撃管制装置を盗作した後ろめたさもあって特に対応しなかった。また、イギリス外務省の妨害もアメリカ国務省からの要請に応じた側面が強かった。このため、イギリスが日本海軍の仮装巡洋艦の大西洋のイギリス領の港への寄港をアメリカの了解なしには行わないことを声明して妥協が成立した。日本帝国はイギリスが同盟国である自国の軍事技術入手を妨害したことに怒ったが、イギリスをアメリカ側に追いやらないためにイギリスの提案に同意した。しかし、この事件は例外だった。イギリス陸軍省とイギリス海軍省の新技術に対する無関心もあって入手は合法的に行われ、目立たなかった。イギリス政府の矛盾した態度は軍事予算の節約姿勢、軍官僚の守旧的態度、アメリカと日本帝国の板挟みにされたことによる両国への遠慮が合わさった結果だった。
ポーレンの砲撃管制装置は海軍工廠でポーレン、海軍工廠、国友、種子島の技術者達が協力して改良を重ね、当時としては最高の命中率を獲得するに至った。この他にも、航空機、装甲車、潜水艦、戦車などの技術や完成品をイギリスから日本帝国は購入している。また、イギリスのアームストロング社、ウィットワース社、ヴィカース社は日本帝国の陸軍工廠および海軍工廠、国友、種子島と密接な提携関係にあった。日本帝国は自国に種子島と国友を中心とする優秀な軍需産業があった。しかし、労働者の監督方法が原因で技術の実用化や製品の量産は世界一だったが、発明は苦手だった(ベルトコンベアシステムシステムが導入されて変化が始まっていたが、この頃は旧体質が残っていた)。このため、日本帝国はヨーロッパの軍需産業の新技術の入手に極めて熱心だった。ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、スイス、スウェーデンに国友や種子島は大規模な事務所を設けて技術者を勧誘し、軍需産業や下請け企業にも提携を働きかけていた。
一方、アメリカは有力な仮想敵国と見做されていたので、この種の動きは皆無だった。アメリカを仮想敵国としていたため、海軍も強化されていた。日本海軍の軽巡洋艦以上の艦艇は76mm対空砲4門、複数の対空用の機銃を装備していた。輸送船を航空機や飛行船の脅威から守るためだった。そして、軽巡洋艦以上の艦艇は水上機を2機ずつ搭載していた。これにより、日本海軍の索敵能力は高かった。着弾観測を普通に行うことができ、艦隊戦でも有利だった。こうして、設備を大量に載せているので日本海軍の軽巡洋艦以上の艦艇は魚雷を搭載していなかった。砲塔も他国に先駆けて三連装砲塔を採用した。魚雷もイタリアとの共同開発しており、第1次世界大戦で日本帝国の駆逐艦部隊は大活躍した。陸軍の方も、航空機、装甲車、通信機などの運用にも慣れており、性能も世界トップクラスだった。こうして、日本帝国は質に置いて最高水準の兵器を陸海軍に装備させることができ、陸海軍も演習を繰り返して運用に習熟していた。
緒戦で中国、南太平洋、ニューギニアのドイツ軍を壊滅させた日本陸海軍は早速、次の作戦行動に移った。10月から日本陸軍の第1軍団はポルトガル領のモザンビークに続々と上陸して訓練所で現地の気候や現地人の文化に慣れる訓練を1ケ月行ってからドイツ領東アフリカに侵攻を開始した。ドイツ領東アフリカのドイツ軍はドイツ兵と現地アフリカ兵を併せて約5千だった。指揮官はレットウ=フォルベック大佐であり、優れた指揮官として日本陸軍を悩ますことになる。
日本陸軍は第1軍団、近衛師団、内務省軍のコマンド旅団(レンジャー旅団から改称)、内務省軍第1騎兵旅団、教導騎兵旅団、教導歩兵旅団といった精鋭部隊を送り込んだ。他に、外人部隊(PMC部隊)が加わった。台湾戦、ボーア戦争などに従軍していた部隊の戦訓からゲリラ戦を展開された場合、長期間に亘って部隊が拘束されて兵站の負担が増大すると予測していたからだ。イタリア戦線に派兵が予定されている関係で早期に決着をつける必要があった。このため、志願兵中心の精鋭部隊が集中投入された他、モザンビーク、コンゴ、ケニアの国境地帯で教導歩兵旅団の部隊が現地労働者を雇用して数か所の飛行場建設に当たっていた。
そして、開戦になると現地の教導歩兵旅団の部隊は公然と武装して正規軍としての正体を現した。訓練基地も立ち上げられ、第1軍団を始めとする日本軍部隊は現地の気候に慣れるまで作戦を発動しなかった。教導歩兵旅団の部隊がセルビア事件直後から現地に展開して戦術マニュアルを作成していた。更に、ボーア戦争に参加した軍人やイギリス軍がケニアを占領した時に参加した軍人などの報告も参考にされていた。しかし、マニュアルがあるのと将兵が現地の気候に慣れているかは別問題だった。このため、日本陸軍派遣部隊の指揮官である赤松玄木中将は部隊が現地の気候に慣れ、航空部隊による支援体制が整うまでは作戦を発動しなかった。1ケ月して気候に慣れ、訓練を終えた部隊からドイツ領東アフリカに侵攻した。
12月2日に第23師団、第12師団、教導騎兵旅団がモザンビークから、第7師団、第5師団、第1騎兵旅団がケニアから侵攻した。別に、第1海兵隊旅団と海兵教導連隊がタンガニーカ湖に砲艦部隊や魚雷艇部隊と共に展開した。近衛師団、教導歩兵旅団、内務省軍の第1騎兵旅団がコンゴから侵攻した。同時に、海軍の第2海兵隊旅団を中心とする部隊が上陸作戦を行うかのような陽動作戦を展開してドイツ軍の注意を引き付けた。日本陸軍部隊は旅団単位で行動した。日本陸軍の旅団は小型師団であり、小規模なドイツ軍相手には都合が良かったからだ。
フォルベックは日本陸軍との決戦を回避してゲリラ戦に徹した。日本陸軍は現地に500機の航空機を展開させて地上部隊を支援させていた(別に日本海軍が40機の水上機を展開)。日本陸軍が索敵で圧倒的に有利であり、真面に相手をすれば早期の壊滅は免れなかった。フォルベックは日本陸軍を長期に亘って東アフリカに拘束することを目標にしていた。そうすれば、日本陸軍に兵站の負担を強いることができるからだ。ヨーロッパに派兵するであろう日本陸軍にとって軽い負担ではなかった。このため、日本陸軍としては早急にフォルベック軍を撃滅する必要があった。第1軍団などの精鋭部隊をイタリア戦線に投入する予定はなかったが、輸送船団が東アフリカ戦線に拘束されると兵站が滞る恐れがあった。しかし、原中将は現地の気候に慣れない内に地上部隊を動かすことはしなかった。
訓練が完了するまで、座礁していたドイツ海軍巡洋艦のケーニヒスブルクの破壊とタンガニーカ湖の制圧を行った。10月14日、陸海軍の航空部隊がタンガーニ湖のドイツ軍砲艦を空爆した。日本陸軍航空隊の国友1912飛(単発の複座機。爆撃機タイプと偵察機タイプがある)が攻撃を開始する。1912飛の編隊がロケット弾を大量に発射する。ドイツ軍の砲艦から機関銃や小銃で激しく射撃が行われる。しかし、1機も撃墜されなかった。これは専用の対空機銃をドイツ軍が装備していなかった他、ドイツ軍が対空射撃の訓練を受けていなかったことによる。航空機を撃墜しようとする場合、航空機の針路の前方に撃ち込む必要がある。航空機は高速で移動するので、直接、狙っても航空機は通り過ぎているからだ。このため、この時は運よく1機も撃墜されなかった。しかし、直ぐにドイツ軍が対空射撃の訓練を全部隊に施すようになった。このため、日本陸海軍の航空隊は第1次世界大戦において空爆に消極的となる。しかし、今回は効果的だった。
1912飛による空爆は装甲の薄い砲艦に大きな損害を与えた。艦橋が破壊されて艦長などが死亡した他、主砲などの武装も損傷した。その後、種子島1913飛(双発の複座機。爆撃機タイプ、着弾観測機タイプ、偵察機タイプがある)が魚雷艇部隊(8隻)を誘導した。ドイツ軍砲艦は応戦したが、魚雷艇部隊は約1千mで次々に魚雷を発射した。ドイツ軍砲艦は座礁を狙って浅瀬に突っ込んだ。2本の魚雷が命中したが、残りの魚雷は浅瀬に突っ込んで命中しなかった。ドイツ軍砲艦は座礁に成功した。魚雷艇部隊に損害は無かった。魚雷艇部隊は機関銃で砲艦に掃射を加えた。砲艇と河川用砲艦も到着し、ドイツ軍砲艦の拿捕に着手する。76mm艦砲、120mm迫撃砲、ロケット砲でドイツ軍砲艦は沈黙した。日本海軍の海兵隊が乗り込み、書類や通信機を破壊している最中の乗員に小銃を突きつけて降伏させた。慌てていたため、多くの書類などが日本海軍の手に渡り軍情報局に送られた。河川用砲艦から潜水士も降ろされ、水中も丹念に捜索された。乗員の日記なども根こそぎ、軍情報局に送られた。ドイツ軍の砲艦は1週間後に爆破処理された。
翌日から、砲艦部隊は水上機部隊に支援されてロケット弾、120mm艦砲、120mm迫撃砲で援護射撃を加え、海兵教導連隊をタンザニアのキゴマに上陸させた。ドイツ軍を誘い出す狙いもあったが、フォルベックは部隊にキゴマを放棄させた。同日、リフジ川のデルタに潜んでいたケーニヒスブルクを日本海軍が攻撃した。日本海軍の第2艦隊第5任務群(日本海軍の大型モニター艦2隻とイギリス海軍のモニター艦2隻を中心とする艦隊)が水上機の着弾観測で砲撃を行い、ケーニヒスブルクを撃破した。魚雷艇部隊と砲艦部隊が遡航して海兵隊を下し、ケーニヒスブルクを爆破して完全に破壊した。ケーニヒスブルクの乗員は脱出した後だった。こうして、障害を除去して日本陸軍はフォルベックの部隊の追跡に専念できるようになった。
12月2日に侵攻するまでに、日本陸軍や日本内務省軍の各部隊は国境地帯で威力偵察を重ね、地形を把握した。また、国境から10㎞以内の住民を退去させて戦略町に収容した。現地住民にとってはヨーロッパ人が征服者であり、忠誠を尽くす義理はなかった。このため、放置しておくと報酬次第でドイツ軍に協力する恐れがあった。更にフォーベックのドイツ軍部隊には多数の現地人部隊が所属しており、現地住民との識別を容易にするためだった。こうして、フォーベックがゲリラ戦を遂行するのを難しくしてから日本陸軍は侵攻した。
日本陸軍部隊がフォーベックの部隊に対する追跡と攻撃、哨戒などを担当した。一方、他のイギリス陸軍、ベルギー陸軍、ポルトガル陸軍は拠点の確保や兵站警備を担当した。日本陸軍部隊はフォーベック部隊を追跡して追い詰めていった。フォーベックは遅滞戦闘を行いながら退却を続けた。日本陸軍はフォーベックの部隊を追跡すると共に、対ゲリラ戦対策を行った。主な対策は次の通り。第一に、現地住民の強制登録。現地住民に写真と指紋などを記載した登録証を発行した。これにより、住民の行動を把握してフォーベック部隊が兵員や軍夫を補充できない様にした。また、フォーベック部隊の現地人兵士が民間人に変装して食料を入手することを困難にした。
第二に、遠隔地の村の住民を戦略村に移住させる。都市部から離れている村の住民を退去させて戦略町に収容した。フォーベック部隊に兵員や軍夫を補充させないためだった。また、食糧を入手させないためでもあった。戦略町の居住環境は良く、診療所と警備の詰所も設置された。農地も割り当てられた。村は土嚢による壁と有刺鉄線で囲われた。
第三に、食糧の配給制と買い取り制の実行。日本陸軍は農村部の現地住民から食料を割高な価格で買い上げて都市部に販売した。現地住民には食料品の買い取りや日本陸軍など連合軍の協力に応じて配給券を配り、生活必需品などを日本陸軍の駐屯地や日本陸軍の巡回部隊から入手できるようにした。こうした制度を行うと、食糧の流れが滞ることが起こりやすいので日本陸軍はドイツ領東アフリカに大量の食料を持ち込んで配給を行っている。
第四に、道路や橋などを建設すること。連合軍の各国部隊の他、現地人が各国の軍服を着せられて大量に雇われた。ドイツ軍部隊を追跡する連合軍部隊の兵站を強化し、移動を迅速にするのが第1の目的だった。ゲリラ戦術に近いコマンド部隊的な行動を行うドイツ軍部隊の追跡には不可欠だった。戦線が明確でなく、ドイツ軍部隊は縦横に移動するからだ。また、現知の住民が主要な道路しか通らないように禁止できる。そうなると、主要な道路や道を通れないドイツ軍部隊は非常に目立つ。主要な道路や道から外れて交通している集団や人はドイツ軍部隊の可能性が高くなる。特に、航空偵察で発見されやすくなった。夜間に移動しても痕跡は残り、連合軍部隊の追跡を振り切るのが難しくなる。期間が短かったので、多くの完成は戦後だった。しかし、仮設や部分的な完成であっても効果があった。
以上の様な対策で、フォーベック部隊は食糧の入手や兵士および軍夫の補充に苦労するようになり、戦略町や日本陸軍の兵站部隊を襲って食料を略奪するしかなくなっていた。必然的に日本陸軍と交戦することになり、数の少ないフォーベック部隊は不利になっていった。日本陸軍が周到な対策を実行したのは、インドなどでの経験からゲリラを制圧することが困難なのを熟知していたからだ。派遣軍司令官の赤松中将もボーア戦争で山丹総合会社の部隊に所属して従軍していたのでゲリラ部隊を制圧する困難さは骨身に染みていた。
このため、ドイツ軍部隊を侮らず、万全の対策を採った。更に、航空隊の支援も有効に活用した。航空部隊の種子島1913飛は旅団本部との交信が可能であり、地上部隊をドイツ軍に向けて誘導した。国友1912飛は地上部隊と交信することはできなかったが戦場を細かく偵察し、写真偵察、発煙弾や連絡筒によりドイツ軍部隊の位置を地上部隊に通報することを行った。航空写真は写真分析班によって分析され、フォーベック部隊の動向が把握された。こうして、当時の軍事技術における万全の態勢をとったのでフォーベック部隊は半年以内に壊滅すると日本陸軍参謀本部は予測していた。
しかし、赤松中将は陸軍参謀本部に最低でも1年は必要だと報告していた。その通りになった。日本陸軍部隊はタボラなどの主要拠点を占領したが(現在のタンザニアの中部および北部、現在のブルンジとルワンダに該当する地域を占領した)、フォーベック部隊を捕捉することはできなかった。フォーベックは部隊を5群に分けて粘り強く抗戦を続けた。フォーベックの各部隊は、日中は仮設シェルターに隠れて夜間の移動に徹した(当時、夜間の航空偵察は基本的に無理だった)。また、痕跡を消すために多大な努力を行った。山がちの国土もあって追跡は難航した。しかし、周辺の国境地帯が無人地帯にされてしまったこともあって日本陸軍を中心とする連合軍部隊の追跡を振り切るのは困難だった。
日本帝国内務省軍のコマンド旅団は各旅団に分派されて追跡において重要な役割を果たした。また、他の兵士達に対して追跡術を指導して各旅団の追跡能力を高めていった。また、内務省軍の軍用犬部隊も日本陸軍の各旅団に分派されて追跡に重要な役割を果たした。日本陸軍の各部隊は交代で追跡を続け、夜間は軍用犬部隊を先頭にして追跡を行って航空偵察を補った。食糧を得るために、戦略町や連合軍の兵站部隊を襲撃するしかなくなったため日本陸軍部隊に追跡されて攻撃されることが多くなった。更に対外特務庁と軍情報局の諜報員達が現地人の案内人を雇って部隊に同行させた。よって日本陸軍部隊が一度、追跡を始めるとドイツ軍部隊が逃れることは容易ではなかった。このため、ドイツ軍部隊の損害は累積していった。
しかし、日本陸軍派遣部隊の思惑が外れたこともあった。フォーベックが開戦前から訓練を積み重ねてきたこともあってドイツ軍の現地人部隊は日本陸軍の各種心理作戦にも係わらず脱走は少なかった。日本軍の主要な心理作戦は次の通り。第一に、日本陸海軍航空隊は大量のビラを散布した(対外特務庁が作成)。ドイツ軍の黒人兵士達の出身地の人間に書かせており、出身地の現地人達の写真も添えられていた。現地人兵士達に脱走を促すと共に、ドイツ人将兵に黒人兵士への疑念を懐かせるためだった。更にフォーベックなどのドイツ人将校や下士官に対する懸賞金が懸けられたことを知らせるビラも大量に撒かれた。
第二に、対外特務庁や軍情報局の諜報員達が現地人部隊の兵士が裏切ったかのように見せかける工作が行われた。ドイツ語で書かれた偽の手紙やメモ(念の要ったことに炙り出しや特殊インクなどを用いた手紙が用いられた)を日本陸軍将校や内務省軍将校の死体に入れた(当時の日本陸海軍や日本内務省軍は、戦闘中は戦死者を回収しない。生存者優先の原則による)。また、ドイツ軍の黒人兵士の死体や家などに現金や宝石を入れておくことなども行われた。痕跡を回収したドイツ人将兵は現地の黒人兵士を疑って殺すだろうとの目論みだった。そして、噂が広まった頃に、日本陸軍の狙撃班は、捕獲したモーゼルGEW98を改造した狙撃銃でドイツ人の将校や下士官を狙撃した(6.5mm弾と7.92mm弾は弾痕が明確に異なる)。
このため、ドイツ人兵士の間で黒人兵士に対する疑心暗鬼が広がった。しかし、フォーベックは日本陸海軍、内務省軍、各諜報機関、民間軍事会社が行う謀略活動の一端を知っていた。ボーア戦争中に、対外特務庁と山丹総合会社がイギリスの諜報機関と共同してボーア軍の兵士同士を殺し合わせる工作を展開していた。フォーベックは諜報活動に関わっていたので是を知っていた。現地人兵士が明確に反逆の意志を示さない限り、現地人兵士を殺害することを厳禁した。
第三に、現場に食糧や水缶、武器弾薬、燃料などを放置してドイツ軍に奪取させた。食糧や水缶には遅行性の下剤が混入され、武器弾薬は暴発するように細工され、燃料は急激に燃える様に細工されていた。兵站部隊が輸送する物資に、こうした謀略用の物資が一定の割合で混ぜられていた。また、日本軍部隊の戦死者の武器弾薬や食糧にも同様の細工をした物が混ぜられた。これらを奪取したドイツ軍兵士数十人が犠牲になり、ドイツ軍の負担を増大させた。他にも様々な謀略が行われた。しかし、思った程は、現地人兵士の脱走は起きなかった。フォーベックの厳命でドイツ人将兵は現地人兵士が明白に反抗しない限りは殺害しなかった。疑わしい場合は部隊から離れさせた。これにより、黒人兵士達はドイツ人将校達を信頼して部隊に留まった。このため、日本軍部隊による追跡は長引いた。しかし、次第に追い詰められていった。
1915年2月4日、ローデシアに機動したドイツ軍の第5戦闘団はカサマの町を奇襲して物資を奪取しようとした。しかし、日本帝国内務省軍の第1騎兵旅団に捕捉された。第1騎兵旅団所属の偵察中隊がドイツ軍の足跡や軍服の切れ端などの痕跡を発見した。第1騎兵旅団は現地の猟師達の案内で追跡を続けていた。内務省軍の第1騎兵旅団は漸くドイツ軍部隊を捕捉できたので喜んだ。支援のため、滞空中の種子島1913飛に連絡した。1913飛はカサマに向かい、同地のイギリス陸軍部隊に警報を発した。カサマの西6㎞の丘に布陣していたドイツ軍の第5戦闘団(ドイツ軍兵士約300、現地人兵士約1100)は分散して夜になるのを待っていた。第1騎兵旅団が下馬して軍用犬部隊を中心に捜索を始めたので慌てて退却し始めた。
しかし、上空の1912飛が発煙弾を投下してドイツ軍部隊の位置を地上部隊に示した。このため、第1騎兵旅団は追いつき交戦が始まった。交戦が始まると、第1騎兵旅団が優位となった。内務省軍の分隊は傘型の隊形でドイツ軍に迫る。軽機関銃2挺を装備する日本陸軍の分隊は38式銃の命中率の良さとも相まって銃撃戦で有利だった。ストークス臼砲部隊の弾幕射撃も効果的な援護になった。日本陸軍の小隊は見事な継続躍進を披露した。2個分隊が前進している間、残りの2個分隊が射撃で援護した。日本陸軍の基本戦術だったが、軽機関銃2挺が分隊に配備されていたので更に効果的だった。これに、機関銃部隊とストークス臼砲部隊の支援も加わる。
騎兵旅団の榴弾砲部隊と山砲部隊は煙幕弾や発煙弾による支援を行った。ドイツ軍部隊が軽装備な上に、分散して退却するのが常だったからだ。それなら支援をストークス臼砲部隊に任せて、歩兵部隊を接近させた方が良い。ストークス臼砲部隊が日本陸軍部隊の頭越しにドイツ軍部隊に弾幕射撃を浴びせ、ドイツ軍部隊を死傷させ動きを封じる。その隙に日本陸軍の各小隊は前進する。各小隊に配属された機関銃部隊による射撃もあり、銃撃戦でドイツ陸軍部隊は圧倒された。ドイツ軍部隊は分散して退却を続ける。しかし、軍用犬部隊を標準装備している内務省軍の騎兵旅団だったので追跡を振り切るのは難しかった。更に日本陸軍の種子島1913飛や1912飛が上空からドイツ軍部隊の位置を発煙弾や無線で地上部隊に報せた。
尤も無線の場合、旅団本部が1913飛から報告を受けた後は装甲車か騎兵の伝令班(4騎)により前線部隊に報せるしかなかった。ドイツ軍部隊は日没になるまで攻撃され続けた。内務省軍の第1騎兵旅団は夜間も追跡を続けた。軍用犬部隊を装備していたので、夜間も追跡は可能だった。そして、日本陸海軍部隊と同様で夜間戦闘の訓練も充分だった。ドイツ軍部隊は夜間も追跡され続け、疲弊していた。
朝になると、内務省軍の第1騎兵旅団は他の日本陸軍部隊やイギリス陸軍部隊に任務を引き継いで休息した。しかし、ドイツ軍部隊は休息できない。ドイツ軍の第5戦闘団は北東に退却を続ける。第1騎兵旅団やイギリス陸軍部隊が追撃を続けた。ドイツ軍の第5戦闘団は2月7日、降伏させた。残りのドイツ軍戦闘団は南東部の森林地帯を拠点に活動しており、捕捉することは難しかった。この後、フォーベックは戦闘団ごとの作戦行動を止めさせ、小隊や中隊単位での行動に切り替えさせた。フォーベック部隊は抗戦を続け、最終的にフォーベック大佐が降伏したのは1915年12月24日だった。
フォーベック大佐は日本軍の精鋭部隊を約1年もドイツ東アフリカに拘束した。フォーベック大佐は捕虜の身だったが少将に昇格した。大谷国防大臣は「フォーベック少将は今後、1世紀のコマンド部隊の鏡になるだろう。現地の気候に慣れて訓練された部隊がコマンド作戦を展開すれば、如何なる精鋭部隊でも1年間は拘束されることを実証したのだから。ナポレオンが言った、名将とは最も錯誤の少ない将軍であるとは、フォーベック少将のためにある言葉だ」と称賛した。日本軍派遣司令官の赤松中将はフォーベック少将を司令部に招いて、「貴方の勝ちです」と言ってサーベルを差し出した。
フォーベックは「我々を約1年で降伏させるなんてことは他の将軍には不可能だったでしょう。将来、高く評価されます。セオドア・ルーズベルトは、賞賛に値するのは実際に行動した人物だと言いました。同感です。東アフリカの戦闘は貴方の勝ちでもあります。我々は約1年しか交戦できませんでした。断言しておきますが、将来の指揮官達は貴方を手本にするでしょう」と答えて、サーベルを受け取らなかった。赤松中将はフォーベック部隊に約1年間も拘束されてイタリア戦線に日本陸軍が派兵する際の兵站に影響を与えたので、自身で降格と更迭を申し出た。
しかし、大谷国防大臣は「君は乃木中将と同じ立場にいる。最初に、事を成した人間は必ず非難される。失敗をする筈がない次の人間には最初の人間が愚かにしか見えない。なぜなら、次の人間は最初に事を成した人間の造った道を通るだけだから失敗はしない筈だからだ。君は最初に事を成した人間だ。下らんことで悩まずに、職務に励みたまえ」と電報を打たせて赤松中将を留任させた。
大谷国防大臣は赤松中将を高く評価した。日本陸軍が慣れていないドイツ領東アフリカで、他国軍と連携して作戦を成功させたからだった。さらに補給線は長く、初めて航空隊が大々的に展開した作戦だった。青島攻防戦で航空部隊は初陣を飾ったが、近距離で小規模な展開だった。ドイツ領東アフリカへの航空部隊の展開で、ドイツ領東アフリカでの航空部隊が大々的に展開して作戦行動を行ったおかげで航空部隊の兵站面の問題も洗い出された。ヨーロッパ戦線に日本陸軍航空隊が展開する前に絶好の実戦演習になった。多くのパイロット達が偵察や着弾観測に慣れ、ヨーロッパ戦線で優れた働きを示すことになった。通信兵達や整備兵達の技量も上がり、組織として日本陸軍航空隊の技量も大幅に上がった。
赤松中将は他国軍との連携に加えて、陸軍航空隊とも綿密に打ち合わせを行って有効に活用した。特に、問題だったのが、陸軍の地上部隊の指揮官達は航空部隊の特性を理解できておらず、陸軍航空隊の指揮官達が地上部隊の要求を考慮しない傾向があったことだ。具体的には、地上部隊の指揮官達は航空機の特性を考慮せず、地上の偵察部隊のように航空部隊の支援を要求した。航空隊からすれば、主に次の様な問題点がある。
第一に、航空機は味方地上部隊の位置を確認するのにも苦労するし、敵の座標を知らせるのには尚更、苦労することだった。そもそも、目標に正しく到達することが困難だった。地上から地図を頼りにして目標に向かうのと、航空機が上空から地形を見ながら高速で目標に向かうのとは全然、違った。上空から見ると地形は同じように見え、目標が判別しにくい。一応、地図を見て地形の特徴で判断する。しかし、地上と違って上空から見ると似た特徴をもつ地形は多かった。当時は、電波航法もなく計器も低性能だった。このため、初期は航空機が目標の地域に到達することが珍しいくらいだった。
第二に、航空隊は柔軟性が地上部隊に比べて劣ることだった。航空隊には写真偵察、偵察、着弾観測の複数の任務がある。そして、地上の偵察部隊と違って航空機は補給や写真機のフィルム回収などのために着陸しなければならないし、着陸すれば燃料補給と整備が必要だった。移動目標の場合、偵察のために航空機は飛び回らなければならないので地上部隊の要求が不定期だと対応が困難になる。前述の様に、偵察写真を持ち帰るのには着陸しなければならない。かといって、敵の地上部隊を探すには飛んで探し回らなければならない。そして、着弾観測では滞空しておかなければならない。このため、任務を事前に調整しておく必要があった。しかし、この点が地上部隊の指揮官達には理解できていなかった。
第三に、敵味方識別が航空機からは困難であること。航空機から見ると、地上部隊の敵味方識別は困難だった。特に、歩兵部隊は日独双方が散開していたので識別は困難だった(フォーベックは大戦初期のドイツ陸軍のような密集隊形をとらせなかった)。当時の航空機は速度が遅く(第1次世界大戦末期でも200キロを超えていない)、低空に降りれば機関銃どころか小銃の銃撃でも撃墜された。このため、ある程度は高度を上げておく必要があった。通信機を装備していない種子島1912飛が複座型なのは専用の双眼鏡を使えば高い高度からでも敵の地上部隊を発見できるからだった(航法士と航空機関士の役割も果たしていた)。しかし、散開している地上部隊を識別するのは困難だった。日本陸軍などの地上部隊が上空の飛行機に味方であることを伝える手順が不明確だった。このため、初期は、航空偵察で敵味方の識別ができず、パイロット達の勘で報告していた。当然、混乱して地上部隊は航空隊を信頼しなくなった。以上の様な地上部隊の問題に加えて、航空隊にも問題があった。
航空隊が地上部隊を支援するために行動しないことだった。主な問題点は次の通り。第一に、作戦区域を地上部隊とは関係なく、設定してしまったので地上部隊に役立つ情報が集められなかった。初期は地上部隊から平均100㎞も離れたドイツ軍部隊の位置を報告していた。第一次世界大戦時の地上部隊は基本的に徒歩か馬で進撃していたので(自動車や自転車も導入されていたが当時の型は低性能であり、ドイツ領東アフリカでは使える場所が少なかった。鉄道は防御側しか使えない)、100㎞も離れた敵部隊のことを報告されても仕方がなかった。さらに、地上部隊が要請した地域を偵察せず、空軍の作戦区域に従って偵察していた。このため、細かい偵察ができず、ドイツ軍部隊の位置を絞り込むことができなかった。
第二に、地上部隊に配慮しない支援が行われたことだった。例えば、ドイツ軍部隊を発見した航空機が発煙弾を投下して位置を報せる。しかし、地上部隊は直ぐに向かうことはできない。徒歩であるし、途中で航空機が発見していないドイツ軍部隊に攻撃されるかもしれないからだ。ドイツ軍部隊は発煙弾を投下されると、分散して退却した。地上部隊はドイツ軍部隊を逃がすことになったので航空隊に激怒した。また、着弾観測を行っている種子島1913が勝手に着弾地点を変更することがあった。まず、旅団本部が航空機に連絡して目標付近に滞空させ、地上部隊が迫撃砲などで発煙弾を撃ち込んで目標を表示して航空機に着弾観測を行わせる。しかし、ドイツ軍部隊が退却し始めたのを見た航空機は勝手に着弾地点を変更してしまった。
しかし、地上部隊はドイツ軍部隊を砲撃してもらいたいのではなく、陣地前面の障害(偽装された鉄条網や地雷など)を砲撃で除去してもらいたかった。さらに、パイロットの視点では退却したように見えたが、ドイツ軍は第2線で抗戦するため、部隊の一部を移動させただけだった。当然、第1線にはドイツ軍部隊が残っている。このため、支援砲撃は無効となってしまい、攻撃は中止された。夜間に、ドイツ軍部隊は易々と退却した。当然、地上部隊は激怒した。
以上の様に、航空隊も地上部隊の特性を理解しようとしなかった。陸上部隊と航空部隊の対立は収拾がつかない程になった。こうなった原因は、青島攻防戦の戦訓を基にして陸空の協同戦術が作成されていたからだった。青島では、ドイツ軍部隊は日本陸軍の大軍に包囲され、機動できなかった。このため、実質上は固定目標で作戦区域も狭かったので、地上部隊と航空隊の調整は簡単だった。しかし、ドイツ領東アフリカでは作戦区域は広く、フォーベック部隊は分散して機動していたので問題が表面化した。地上部隊と航空隊の連携で巧くいった点もあった。旅団本部などと航空隊の通信は安定していたし(当時は珍しかった)、航空隊の誤爆による死者は発生しなかった。しかし、陸空の問題を放置していては作戦が長期化するので赤松中将は一連の対策に踏み切った。主な対策は次の通り。
第一に、地上部隊の指揮官と航空隊の指揮官を3人ずつ更迭した。
第二に、陸空で共通の作戦区域を設定した。各作戦区域を格子状に分けてブロック化した。こうして、航空隊の活動範囲を決め、責任を持たせた。
第三に、地上部隊に、航空部隊の作戦参謀が率いる航空統制班が配属された。航空隊にも、地上部隊の作戦参謀が率いる航空調整班が配属された。双方の専門家が調整することで、地上部隊と航空隊の連携が密になった。作戦開始前の調整も綿密に行われるようになり、航空統制班と航空調整班が調整に尽力した。
第四に、陸空の戦訓の伝達。戦訓に応じて戦術マニュアルの小冊子が各指揮官に配布された。また、陸空の将官、佐官、尉官が作戦協議とは別に意見交換を行い、双方の部隊の特性を理解した。現場の兵士達が呼ばれることもあり、双方の問題点が洗い出された。
以上の様な対策のおかげで、陸軍航空隊と地上部隊との連携能力は極めて向上し、フォーベックの部隊を追い詰める原動力になった。当時、地上部隊と航空隊を連携させることは難しく、大谷陸軍参謀総長は赤松中将を高く評価したのも当然だった。ドイツ領東アフリカでの経験により、日本陸軍航空隊は地上部隊を的確に支援できるようになった。この事は、日本陸軍にとって極めて有利となった。他の陸軍では、こうした問題を解決できていなかったからだ。こうしたことに加えて、占領地での日本帝国軍の評判も良かった。日本陸海軍、日本内務省軍は約1年でイギリス軍、ベルギー軍、日本帝国陸海軍の外人部隊(PMC部隊も含む)に占領地を引き渡して撤退した。こうして、日本帝国はイタリア戦線に専念できるようになった。
日本海軍は日本陸軍がドイツ領東アフリカや青島などを攻略している頃、東南アジア、オセアニア、太平洋に加えてインド洋もイギリス海軍から責任を引き継いだ。これにより、イギリス海軍は戦力を地中海や南大西洋に振り向けることが出来た。日本海軍の任務は主に、担当海域の連合国のシーレーンを守ることだった。エムデンを除いてシュペー艦隊が全滅したので任務は割と楽だった。日本海軍参謀本部はシーレーンを防護するために研究を重ねていた。主な対策は次の通り。
第一に、日本海軍の担当地域では初期段階から護送船団に連合国側の船舶は強制的に編入された。船舶をドイツ海軍の通商破壊艦から保護すると共に、単独航行している船舶の数を減らしてドイツ海軍の仮装巡洋艦が一般の商船に紛れる余地を少なくしておくためだった。日本海軍の臨検方法は極めて過激だった。臨検は主に軽巡洋艦が行った。単独航行している船舶を発見すると、最初に威嚇射撃をしてから無線で停船を勧告した。5分間、警告を続けて停船しないと2回目の威嚇射撃が行われた。その後、3回目の威嚇射撃が行われた。3回目の威嚇射撃から5分間で該当船舶が停船しなければ、砲撃が開始されて停船するまで容赦なく砲撃が続けられた。砲撃で通信機が破壊されたり、艦長らが死亡して停船できない船もあった。
このため、中立国の船舶6隻が文字通り海の藻屑とされ、8隻が中大破させられた。中立国の政府から猛抗議され、アメリカや南米の各国政府との外交関係が緊張した。日本帝国は抗議を撥ね付けた。3回も威嚇射撃されて停船しない船は仮装巡洋艦の可能性が高いとし、現在は戦争中であり仮装巡洋艦の脅威から連合国の船舶を守らなければならないとした。日本海軍の臨検は過激だったが、効果はあった。ドイツ海軍の仮装巡洋艦は日本海軍が担当海域を引き継ぐと、インド洋に入ってこなくなった。開戦前から日本海軍が各国に警告していたからだ。
第二に、インド洋のケルゲレン諸島などの遠隔地に潜水艦や通信設備を持たせた海軍陸戦隊を配置した。これにより、ドイツ海軍の仮装巡洋艦が補給や休息する余地をなくした。これらの島々に寄港した場合(通商路から外れている)、安全は保障しないと警告されていた。ドイツ海軍の仮装巡洋艦1隻がケルゲレン諸島で日本海軍の潜水艦に撃沈された。以後、ドイツ海軍の仮装巡洋艦は、これらの島を利用しなくなった。
第三に、連合軍護送船団の管制と哨戒体制の充実。インド洋、太平洋、東南アジアなどの日本海軍の担当海域に護送船団の管制センターが設置され、護送船団の航行を管制した。船団には脅威に関する情報、天候などを伝え、船団を適切に誘導した。中立国の船舶も任意で登録を求められ、管制された。中立国の船舶は日本海軍の情け容赦ない姿勢を知っていたので、殆どの船舶が管制センターの指示に従った。こうして、管制センターの指示に従わない船舶は目立つようになった。また、日本海軍は管制センター、航空機、軽巡洋艦などの連絡を密にし、情報を各部隊で共有した。イギリス海軍は仮装巡洋艦を撃沈することを優先して無線の使用を制限していたが、日本海軍は哨戒を密にして仮装巡洋艦が護送船団に近づく機会を減らした方が効率的だと判断していた。この方針は適切で仮装巡洋艦を追うよりも効率的で日本海軍の担当海域で沈められた連合軍の船舶は7隻に過ぎなかった(5隻は機雷。仮装巡洋艦による被害は2隻のみ)。
以上の様な対策で、日本海軍は担当海域でシーレーンを有効に防衛することに成功した。ドイツ海軍のUボートが活動しなかったという好条件があったが、大成功だった。日本海軍の担当地域で船舶保険の値段は上がらず、日本帝国陸軍やアンザック軍団などの兵員輸送は極めて安全だった。日本海軍は担当海域でシーレーンを防衛する一方で、南大西洋や南米海域を担当しているイギリス海軍にも増援を派遣していた。しかし、こちらでは成果を挙げられなかった。イギリス海軍の敵艦撃沈優先の方針により無線の使用が極めて制限されてしまったからだ。さらに、イギリス海軍の遵法的姿勢、護送船団方式の導入の遅れなどが災いした。このため、ドイツ海軍の仮装巡洋艦は南大西洋や南米海域で活発に活動した。また、エムデンの艦長は日本海軍の方針を熟知していたので初めから南米と南大西洋で活動した。日本海軍の増援部隊が派遣されつつあるとの情報をラジオや無線傍受から入手すると、北上してイタリア艦やスペイン艦などに偽装してトルコに逃げ込むことに成功した。
日本海軍の主力がシーレーンの防衛に当たる一方で、日本海軍第1艦隊第1任務群(第2艦隊の戦艦部隊も編入。戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦12隻)が1915年のイタリア参戦後に地中海へ進出し、イタリア海軍の指揮下に入った。日本艦隊の戦艦は当時の最新型であり、イタリア海軍のオトラント海峡の封鎖は一段と厳重になった。日本海軍は水上機も100機、展開した。日本海軍が対潜用の機雷とアクティブソナーをイタリア海軍に供与したので潜水艦も封じ込められていった。以後、日本海軍はイタリア海軍と共にアドリア海を封鎖し、オーストリア海軍を封じ込めた。なお、日本海軍がイタリア海軍の指揮下に入る際、日本帝国政府はイタリア政府と協定を結んだ。趣旨は次の通り。
第一に、日本海軍部隊は全て日本海軍第1艦隊司令部の指揮下に置かれるが、第1艦隊司令部はイタリア海軍当局の指揮に従う。
第二に、イタリア海軍当局の指揮下に日本海軍の部隊が入るのは日本帝国政府とイタリア政府が合意した海域であり、それ以外の海域では日本海軍が独自の行動をとる。
以上の様な趣旨で、日本海軍はガリポリ戦などへの参加を拒否した。日本帝国政府がトルコと交戦するのを好まなかったことによる。トルコが親日的なこともあったが、ガリポリ作戦が成功してロシアへの援助が本格化してロシアが強くなりすぎることを怖れていた。この頃、日本帝国政府はロシアが戦後、日露戦争の雪辱戦を挑んでくると予想していた。このため、トルコが打倒されるのは戦略上、好ましくなかった。イタリア戦線以外への陸軍派遣を断ったのは自軍兵士の犠牲に無関心な英仏陸軍への不信感や訓練の問題もあったが、ロシアを助けたくなかったからだった。
こうした日本帝国の姿勢をイタリア政府も秘かに歓迎した。自国の戦線に日本陸海軍の戦力が集中するからだ。英仏両国は日本帝国の姿勢に不満だったが、日本陸海軍がイタリア戦線や地中海にも展開すれば戦力を他方面に集中できるので容認した。なお、日本陸軍がイタリア戦線に進出した際も日本帝国政府は日本海軍と類似した協定をイタリア政府と結んだ。こうして、日本陸海軍は主力をイタリア戦線に集中していく。




