江藤内閣
江藤首相は内政が順調に進展していたので安全保障政策に力を入れ始めた。ロシアは日本帝国の度重なるロシア排除に苛立ち、1858年からシベリア鉄道の建設に着手していた。1878年からは全力を挙げて建設を行っていた。このため、朝鮮半島にロシアが進出してくる恐れが出てきた。そうなると、次の標的は日本帝国になる公算が高かった。ロシアはカフカスとバルカンを経由してオスマン帝国、中央アジアを攻略しながらイラン王国に侵攻するのを繰り返してきた。ロシアが朝鮮半島を併合した場合は将来、日本帝国を征服すべきだとの意見がロシアで主流になるのは確実だった。ロシアはシーレーンを自己の管理下に置くのが目的化していた。このことは日本帝国では常識であり、対応する必要があった。
江藤首相は川上操六国防大臣に朝鮮陸軍の強化を指示した。川上は陸軍参謀総長だったが、任那事件で関与が疑われて自発的に退役した。江藤内閣で国防大臣に任命されていた。川上は乗り気だったが、軍情報部、多くの国防省の文官(軍需産業の関係者や予備役も多いので素人集団ではない)、多くの陸軍の将官、対外特務庁は反対だった。
特に、陸軍参謀総長の大谷亮介中将は反対だった。閣議で江藤首相から説明を求められて大谷亮介中将は次のように説明した。大谷「誠に恐れ多いことながら、川上国防大臣の御意見には賛成できません。朝鮮半島の地形は侵攻に適していません。よって、即応防衛力としての朝鮮軍の強化は無用です。詳細は軍情報局や対外特務庁の資料を御覧ください。しかし、概略を説明させていただきます。朝鮮は、山がちで道が少ない、道と周辺は雨が降れば泥濘、秣が少ない、水が少ない、徴発しようにも土地が貧しくて作物が少ないという世界でも稀に見るほど陸軍が行動しにくい場所です。前述の条件で鉄道敷設も極めて困難です。朝鮮半島にロシア陸軍が来て鉄道を敷設し始めても海上機動する日本陸軍によって鉄道が完成する前に撃破されるのは確実です」。
江藤「ふむ、君の説明に同意できる部分も多い。しかし、朝鮮が近代化してくれれば、それに越したことはない。別に、朝鮮が親日でなくても構わない。清国やロシアなどと同盟しなければ良いのだ。猪子長官、朝鮮が近代化して中国やロシアに対して中立的な態度を維持できる国家となる可能性はないのか?」。
対外特務庁長官の猪子長佑(猪子はコードネーム。本名は本城忠崇。対外特務庁長官では初めて本名が確認できる。元は山丹総合会社の幹部。満州や極東ロシアの事情に精通し、ロシア語、中国語、他の現地語を読み書きできた。対外特務庁の分析部にも出港して高い評価を受けていた)が説明した。
猪子「江藤首相、朝鮮が近代化するのは極端に困難です。勿論、予算を無制限に投入すれば何れは近代化できます。しかし、それは日本帝国にとって不利益です。詳細は手元の資料と、後で届ける資料を御覧ください。しかし、別の観点での分析も御聞き下さい。朝鮮が近代化したと仮定します。朝鮮が日本帝国に対して好意的な行動を採る筈がありません。朝鮮が是までの経緯から日本帝国に対して好感を抱く筈もありません。朝鮮軍が近代化すれば、当然、日本帝国を攻撃しようと考えます。更に、力をつけた朝鮮がロシアを朝鮮半島に招き入れる可能性があります。ロシアにとって朝鮮が味方に付けば日本帝国と戦争する上で有利です。
そうなると、ロシアにとって力をつけた朝鮮は利用価値がある国となり、それなりに尊重される可能性もあります。朝鮮の立場からはロシアとの同盟も選択肢の一つです。そうなると、朝鮮は清国も招き入れます。両国が互いに牽制し合えば、朝鮮は併合を免れる確率が高くなります。実際は清国の力が弱いので朝鮮はロシアの従属国になります。しかし、これまでも朝鮮は中国の歴代王朝の従属国でした。朝鮮は小中華の意識もあり、日本帝国への反感が極めて強いです。以上の様に、朝鮮が日本帝国に付く理由は皆無です。よって、清国との共同管理が最適です。清国と共同すれば、歴史的にも自然です。何よりも我が国の負担が減ります」。
大谷「猪子長官の見解に大賛成です。軍事的観点から補足させてください。朝鮮が近代化しない方が得です。朝鮮は日本帝国陸海軍によって国土を瞬く間に占領できるのは確実です。清の救援は間に合いません。前述の事情で陸路の進撃は困難だし、海軍力でも日本帝国が断然、優勢だった。救援に来たとしても制海権を握る日本陸海軍は海上からの補給により断然、有利です。大体、日本帝国陸海軍は北京を占領することも可能なのだから清国が救援に来るとは考えにくいです。
ロシアは北東アジアや周辺に海軍基地を持っていないので問題になりません。シベリア鉄道が完成するまではロシアには手段がないです。現時点で朝鮮を救援するのは困難だし、シベリア鉄道が完成したとしても前述の理由で救援は難しい。朝鮮を無力にしておく方が日本帝国にとって得なことは明白です。そして、日本帝国がロシアの首都のサンクトペテルブルクを攻略する事は不可能ですし、中国を征服するのも困難なのは明白です。このため、朝鮮が一時的に味方になっても裏切ります。また、朝鮮で親露派、親清派、攘夷派が共通して嫌っているのが日本帝国です」。
一連の説明を受けて、江藤首相も計画を断念した。また、枢密院も反対だった。一旦、朝鮮の政治に介入すれば、日本帝国は朝鮮を併合するか介入し続けるしかない。どちらにしろ、相当の費用が必要だった。また、朝鮮半島を吸収すると国内の雇用が朝鮮に流出する事は確実だった。朝鮮の鉱物資源は豊富の様だったが、貧しく悪路の朝鮮で鉱山業を黒字化するには相当の投資が必要だった。前述の様に悪路の朝鮮半島では海路が便利だが、鉱山と予想される山岳地帯は内陸だった。
枢密院からの依頼で調査を行った山丹総合会社(民間戦争会社業務と行政サービス請負業務を主とした会社になっていた)は朝鮮半島が日本帝国の負担にしかならないと結論した。また、枢密院は朝鮮に介入すれば、日本帝国と清国は開戦することになり清国を破れば満州にロシアが侵入してくるとの陸海軍の多数派の見解に賛成していた。さらに、朝鮮が近代化すれば、朝鮮半島の悪条件が緩和されて侵攻経路として適した土地になってしまうことも指摘した。
つまり、ロシアを防ぐ方策の筈が逆に道を造ってしまう結果になると指摘した。現状の状態が望ましく、満州でロシアと清国が衝突してから介入しても遅くないと勧告した。ただし、清国がロシアに満州の鉄道敷設権を与える、満州にロシアが侵入して占領する、清国が沿海州をロシアに割譲したといった場合は直ちに戦争を開始すべきだとした。
結局、江藤首相は清国に次の事を警告するに留めた。朝鮮半島で鉄道、道路、港湾、橋を建設ないし改修しないこと、朝鮮半島に向けて鉄道や道路を接続ないし新規に建設しないこと、鴨緑江を現状のままにすること、沿海州を割譲しないこと、前記のことを外国に認めないこと及び黙認しないことといった趣旨だった。そして、清国が警告を無視すれば戦争を仕掛けるし、外国の行為を黙認すれば日本帝国が行う軍事作戦を黙認するように求めることも警告した。これに対して清国は表面上、反発したが日本帝国も同様の義務を負うことを条件に同意した。
当時、日本帝国と清国の外交関係は改善していた。アロー号戦争で日本帝国が英仏に比べれば条件を控えめにしたこと、アロー号戦争で証明されたように日本帝国を敵に回せば極めて高い代償を支払わされること(焼打ちを三国軍の中で最も行ったのは日本帝国軍だった。ただし、住民を退避させ、弁償もしていた)を清国が認識したからだった。更に日本帝国が朝鮮でも清国の立場にも配慮を示していたこと、日本帝国が現状維持を望んで無用な干渉をしてこないことが清国にとって有り難かった。日本帝国はフランスが玩国(現在のベトナム)に野心を示した時も極東委員会で断固として反対した。陸海軍も動員した。イギリスやオランダも日本帝国に同調した。このため、フランスは断念した。
日本帝国がフランスを止めたのは、日本帝国が東南アジアで現状維持を望んでいたからだ。フランスの勢力が東南アジアで増大するのは好ましくなかったからだ。また、玩国はフランスの支配を受けたことがないので台湾などに独立運動を惹き起こす懸念もなかった。そして、清国が玩国を助けるために参戦するのは確実であり、フランスが清国を弱体化させるのは避ける必要があった。
保守派は清国ないし中国の新政権が日本帝国の脅威になるのは日本帝国の脅威になるのは確実だと判断していた。しかも清国が弱体化すればロシアの進出が促進されると判断していたし、大陸進出は日本帝国にとって負担となるだけだと確信していた。このため、清国を弱体化させることは避け、朝鮮半島や中国大陸に無用な干渉は行わなかった。
つまり、日本帝国は清国を緩衝国として扱っていた。このような事情で、清国は江藤内閣の提案に同意した。清国にとっても満州や朝鮮半島は現状維持が望ましく、日本帝国の提案は得だった。それに、この提案は事実上、ロシアを対象にしていた。清国にとってもロシアは脅威であり、日本帝国が対抗してくれるのは有り難かった。江藤内閣の提案が受け入れられたので日本帝国は朝鮮半島を現状維持とした。ただし、清国が緩衝国でもロシアが無理押した場合、清国が敗北するのは確実だった。
このため、江藤内閣は国防予算を大幅に増額した。陸海軍の共同演習が繰り返され、物資が集積された。軍情報局や対外特務庁は中国大陸の諜報網を拡大し、清国やロシアの暗号解読に全力を挙げていた(清国の暗号は解読を終えていたが、ロシアの暗号は一部しか解読できていなかった)。国防省の指示で、陸軍参謀本部は海軍参謀本部に補佐させながら作戦計画を修正していた。国防省は国友1889(口径6.5mm。リムドの無煙火薬。5連発。GEW88を参考にし、モーゼル社の協力を得て6.5mm弾使用にした小銃)を始めとする新兵器の配備を急いだ。こうして、ロシア戦に備えて日本帝国は万全の態勢を整えていく。
1894年、朝鮮で東学党の乱が発生した。5月の下旬には農民側の反乱軍が朝鮮政府軍を圧倒していた。5月25日、江藤首相は釜山とソウルに派遣されていた海兵隊と海軍陸戦隊を増援するために、川上国防大臣に派兵を命じた。直ちに閣議で決定し、枢密院に派兵の承認を求めた。随時、報告を受けていた枢密院は直ちに承認し、貴族院と衆議院にも承認を急がせた。貴族院は26日、衆議院は27日に承認した。27日、清国にも派兵を通告した。
5月31日、仁川に教導歩兵旅団、海兵隊第1旅団の後続部隊、海兵教導連隊が上陸した。海兵隊が仁川港を固め、教導歩兵旅団は進撃してソウル郊外の日本大使館に布陣した。同日、釜山に第5師団、第2海兵旅団の後続部隊が上陸した。両部隊は釜山の日本租界を中心に布陣した。ただし、日本陸海軍は邦人、租界、大使館などの防護体制が完了すると、後は動かなかった。被保護国の朝鮮に宗主権を行使する形で、邦人保護のために派兵しただけだった。
日本政府は、戦々恐々とする朝鮮政府に清国へ鎮圧の援軍を頼むように促した。清国政府は派兵の準備に手間取り、第一陣が朝鮮半島に到着したのは6月12日になってからだった。清国軍が到着しただけで朝鮮軍の士気は上がり、反乱軍の勢いは衰えた。反乱の指導者達と政府の間で妥協も成立して、反乱は終息した。
日本陸軍の江川英吉中将と清国軍の司令官の袁世凱は和やかに会談して、撤兵の手順を取り決めた。6月25日から日清両国軍は撤退を開始した。まず、日本陸軍の部隊と清国軍の主力が引き上げを開始した。両国軍は互いに連絡将校が率いる小隊を派遣して撤兵を監視した。7月6日から日本海軍の海兵隊と清国軍の支隊も撤退し、条約で定められた兵力だけが残った。この後、日本軍は海軍陸戦隊1500ずつが釜山とソウルに展開した。清国軍は1千ずつがソウルと平壌に展開した。日清両国は現状維持で合意した。清国は治安維持のために朝鮮軍の強化を希望したが、日本帝国の反対で断念した。こうして、東学党の乱も解決し、日清両国は穏便に事態を収拾できた。
江藤内閣の朝鮮における対応の評価は分かれた。一連の措置は立憲政友会や大陸浪人などからは不評だった。彼らは朝鮮の改革を主張し、清国との戦争さえ主張していた。対して、帝国党は江藤内閣を絶賛した。帝国党の支持層である保守派は繰り返し述べてきたように中国を脅威だと見做していたが、干渉する気もなかった。必要な戦争は断固として行うことを決意していたが、無駄な戦争を行う気はなかった。ましてや、中国人や朝鮮人が日本帝国を好きになるとは夢想しなかった。このため、江藤内閣の措置を絶賛した。また、枢密院も江藤内閣の措置を賞賛した。枢密院も明治天皇を始めとして朝鮮情勢に介入しすぎる事には批判的だった。現状でも朝鮮半島は日本帝国の影響力下にあり、戦争の危険を冒してまで介入することはないと判断していた。
更に「朝鮮の近代化」や「「朝鮮の独立」のスローガンを叫びながら朝鮮が思い通りにならなければ征服しようとする立憲政友会や大陸浪人などを嫌悪していた。彼らの姿勢はロシアが中央アジアを征服した時に、イギリスに弁明した時の姿勢と瓜二つだった。明治天皇や枢密院議員達も世界が戦国時代であることを認識していたし、策略が必要なことは完璧に理解していた。しかし、立憲政友会などを始めとする朝鮮介入派の態度は「契約を守る」という最低ラインを下回っていた。
これでは日本帝国の信用がなくなるし、「契約を守る」という最低ラインを破れば悪い先例となることを懸念していた。特に、軍人、諜報機関員、外交官などが日本帝国の不利益にならなければ相手国に何をしても良いと思い込む可能性があった。後の世代の国民にも悪影響を及ぼすと懸念された。その点、保守派は軍国主義的で帝国主義者だったが、清国との対応で明らかなように契約を厳守していた。明治天皇は内政でも安全保障政策でも保守派を頼りにしていた。枢密院議員達も明治天皇に影響されたこともあり、保守派に近い考えになっていた。枢密院が江藤内閣を賞賛したのは当然だった。
一方、憲政党の議員の大部分は一致結束して江藤内閣を支えた。彼らの大半は、政権に就く前は中国大陸や朝鮮半島の介入に積極的だった。しかし、政権を担うようになり、諜報機関、国防省、陸海軍の意見や機密データーに接して考え方を変え始めた。更に枢密院が保守派よりの考え方をしていた。枢密院は保守派の有識者達を指名することで意思を示した。明治天皇の主導による。枢密院の存在により天皇は露骨でない形で内閣に影響力を及ぼすことができた。憲政党の議員達が影響されたのは言うまでもない。更に有権者である予備役や後備役の意見を考慮すれば、安易に戦争することはできなかった。
このため、憲政党は保守派に近い安全保障政策を採るようになった。そして、江藤首相は国内政策で憲政党の政策を実現したければ平和の方が望ましいと判断した。戦時となれば、国内政策は後回しにするしかないからだ。江藤首相は保守派が対外関係を安定させていたことで、憲政党が余裕をもって政治を行えることを実感した。また、江藤首相は徴兵が国民の負担になることを熟知していた。
更に枢密院や保守派と同じく中国大陸や朝鮮に介入することは日本帝国に害になると判断していた。中国や朝鮮で活動する大陸浪人や同調する政治家および民間人が日本帝国よりも中国の方を優先するのにも失望した。江藤首相も大陸介入論者だったこともあるが、日本帝国の国益が最優先だった。「西洋の覇道、中国が王道」、「中国人は日本人より知力で優れている」などと妄想を叫び続ける輩に辟易していた。
朝鮮の開化派への肩入れを止めない福沢諭吉などには「朝鮮の針路を勝手に決める君達が朝鮮人に好かれると、なぜ、妄想できるのかね?君達の私的な干渉で日本帝国の兵士達を無用な戦死に遭わせるかもしれないと考えることはできないのか?そんなに、朝鮮の政治に干渉したければ朝鮮に帰化したまえ」と述べた。江藤首相は朝鮮人が日本帝国を好きになるとは思えなかったし、中国の膨張志向を日本帝国が修正できるとは考えていなかった。
何よりも、干渉が反発されて中国や朝鮮で騒乱が起きれば(しかも確実に)、軍を出動させないわけにはいかない。そうなると、戦死者は出るし、本格的な戦争に発展する可能性も高い。安全保障政策を軽く考える立憲政友会、アジア主義者、自由民権派の大陸進出論者などに、江藤首相は同調できなかった。このため、安全保障政策では保守派の帝国党と完全に協調した。
1895年、江藤内閣により外国に対する民間人による私的な干渉を禁止する「海外交流規律法」が提案され、憲政党と帝国党の賛成多数で衆議院でも貴族院でも可決された。1897年10月、内務省軍、国内特務庁、対外特務庁によって福沢諭吉、三浦梧桜、竹添信一郎などが日本国内と上海租界で一斉検挙された。いずれも中国や朝鮮に対する干渉を続けていた。福沢諭吉、三浦梧桜、竹添信一郎などの指導部は懲役7~15年の判決を受け、釈放後も流刑地のグアム島から出ることを禁じられた。日本国内に匿われていた朝鮮の開化派も全員が逮捕されて朝鮮に強制送還された(後に、殆どが処刑)。これ以後、日本帝国の国内で、日本帝国の民間人や民間団体が中国や朝鮮に介入することはなかった。
1900年、義和団の乱が発生した。1900年1月から日本帝国は陸海軍を警戒態勢に置いていた。対外特務庁が前年から騒乱の発生を警告していた。軍情報局と対外特務庁は緊密に協力した。軍情報局は仮装巡洋艦を多数、派遣して清国軍を厳重に監視し、軍情報局の工作員と対外特務庁の工作員を仮装巡洋艦から送り込んだ。仮装巡洋艦で日本側に雇われた中国人スパイが情報を提供したのは言うまでもない。
また、軍情報局と対外特務庁の暗号解読班は共同して暗号を解読し続けた。暗号書の入手作戦でも両方の工作員達は対外特務庁の指揮下で緊密に協力した。また、対外特務庁は仮装巡洋艦にヨーロッパ系の工作員を乗り込ませて船長を勤めさせ、日本の工作船だと気付きにくくした。対外特務庁は清国軍だけではなく、清国の他の政府機構、犯罪組織、商人達の幇助組織、行商人などに幅広く浸透していた。
幕府以来の伝統で、対外特務庁は中国に諜報網を確立していた。軍事情報だけでなく、政治、経済、治安などの情報も入手して分析にも長けていた。軍事情報に偏っている軍情報局に比べて、中国の全体像の把握では上だった。このため、義和団の乱のような事態への対応は対外特務庁が得意だった。しかし、対外特務庁はカバーする範囲が広いので装備が足りなかったし、工作員も不足気味だった。優秀な工作員を増やすことは簡単ではなかった。
このため、戦時は軍情報局と緊密に連携できるように、平時から体制が整えられていた。連絡将校が相互に派遣され、工作の規定も協議されていた。内閣府の諜報部門が各諜報機関を調整していた。内閣府の諜報部門は指揮系統を定め、各諜報機関に対する情報の注文を決めた。今回は、清国に対する出兵が目的になりそうなので軍情報局が主体で秘密工作を行い、対外特務庁が其れを支援することになった。内閣府の諜報部門が両諜報機関の情報と分析を受けて、全体の報告を纏めた。
2月1日、江藤首相は川上国防大臣に本格的な出兵準備を命じた。閣議で清国との全面戦争に向けた準備を進めることを決定した。同時に、清国に対して鎮圧を断行するように圧力を軍事と外交の両面で加えることを決定した。一連の措置は清国との全面戦争に繋がる可能性が高いので、江藤首相は枢密院に承認を求めた。法律上の義務はないが、内閣の措置を枢密院が差し止めることができたので事前承認を求めた。
枢密院は閣議決定された事項について事前承認を与えた。まず、列強に日本側の義和団についての分析結果が伝達され、在留邦人の避難と連合軍の結成が提案された。この段階では多くの列強が日本帝国の過剰反応だとした。ただし、ロシアだけは積極的だった。江藤内閣はロシアの意図を懸念したが、清国に出兵する場合、ロシア以外との連携は期待できなかった。イギリスはボーア戦争で陸軍を南アフリカに集中していた。アメリカは平時の軍備が小さく、動員完了までの時間が掛り過ぎた。両国とも海軍の派遣しか期待できなかった。フランスはプロイセンに普仏戦争で敗北した後、フィリピン駐留のフランス軍を削減していた。他の列強は距離が遠すぎた。
2月20日から日本帝国陸海軍とロシア陸海軍の作戦協議が始まった。日本帝国政府は2月10日、在留邦人の避難を開始させた。同日、日本陸軍の第5、第7、第12、第23の緊急展開対応師団(兵站部隊を除いて志願兵の現役兵で構成される緊急対応部隊)が動員を完了して台北と宇品に到着した。また、歩騎砲の各教導旅団と海軍の海兵隊は出兵準備を完了させていた(これらの部隊は全員が志願兵で構成)。海軍には第一級警戒態勢が国防省から発令された。枢密院と貴族院の承認を受けて大谷亮介陸軍参謀総長は大将に臨時昇格した。
2月11日、清国に対して義和団を断固として鎮圧するように日本大使が強く要請し、書簡が渡された。清国は日本帝国が動員を進め、ロシアと作戦協議を始めたことに衝撃を受けた。日露関係は険悪で両国が連携する筈がないと思われていたからだ。ロシアと日本帝国が南北から共同して攻撃すれば北京の陥落は確実だった。2月20日、大谷亮介大将が仁川港で駐朝鮮大使兼駐朝鮮の清国軍司令官の袁世凱と会談した。
大谷大将「袁世凱少将、日本帝国は貴国に重大な懸念を懐いています。義和団が暴動を起こし、それを貴国の官憲が黙認しているのは容認できません。義和団が拡大し、北京に集結しつつあることも把握しています。貴国が義和団を鎮圧しなければ、各国の海兵隊と陸戦隊が北京などに配置されます。それを義和団が襲撃し、貴国軍が支援すれば戦争です。貴国も外国で自国の邦人が危害を受けた場合、同様の措置を採るでしょう。また、義和団を支援することは国家によるテロ行為であり、その場合は日本帝国が手段を選ばずに貴国を攻撃することを御承知ください!」。
袁世凱「大谷大将、失礼ながら心配し過ぎですぞ。恥ずかしいことですが、中国に置いて騒乱は頻繁に起きます。良く、御存じのはずだ。現在、反乱鎮圧に向けて清国陸軍が集結中です。しかし、我が国は鉄道の整備も遅れており時間が必要です。兎に角、焦らずに御待ち下さい」。
大谷「袁世凱少将、好い加減にしてください!貴国の誤魔化しは、日本帝国の清国に対する敵意を深める結果にしかなっていません。貴国を征服するのは困難ですが政権を崩壊させるのは容易です。貴方も理解している筈です。それに加えて、今回は日本帝国がロシアと協調することを御考慮下さい。貴国がテロを実行した場合、日本帝国はロシアが満州を征服するのを容認します。日本帝国は朝鮮半島と沿海州の一部を征服します。他国も貴国の領土を征服するでしょう。なお、奥地に逃げ込んでも無駄です。貴国が国家によるテロを行った場合、日本帝国は貴国の国土を荒廃させます。貴国は大混乱に陥って衰退することは確実です。その場合、華北は確実にロシアが征服します。これは脅迫ではなく、警告です。別に、日本帝国は貴国が如何なる選択をしても良いのです」。
袁世凱「大谷大将閣下、焦り過ぎですぞ。ロシアと合同した義和団鎮圧が日本帝国のためにならないのは明白です。落ち着いて吉報を御待ち下さい」。
大谷「袁世凱少将、我が国が根拠なしで焦っているとでも?日本帝国と貴国の交流の長さは御存知でしょう。そして、現時点ではロシアの態度が貴国よりも誠実です。日本帝国とロシアが連携しなければ清国は鎮圧する気が起こらないでしょう。そして、貴国が義和団を鎮圧できないなら日本帝国は手段を選びません!貴国が鎮圧できないなら各国軍による鎮圧の黙認でも構いません。その場合は、ロシアの進出は認めず、清国の現状を維持することを保障します。以上の趣旨を記した書簡を李鴻章閣下に渡していただきたい。それも直ちに!」。
袁世凱は李鴻章に書簡を渡すことを約束し、側近を向かわせた。大谷大将は同席させていた柴五郎准将を袁世凱の側近と同行させて、李鴻章と会談させた。柴五郎准将は李鴻章と会談した後、海兵教導連隊を率いて栄名園要塞に入城した。イギリス公使館などの守備を固めるためだった(日本大使館は上海にあった。元々、日本帝国は清国を信用していなかった)。日本帝国を始めとする各国は公使館の守備を固め始めた。李鴻章などは日本帝国とロシアが清国に共同して侵攻することを怖れ、直ちに義和団を鎮圧するように主張した。しかし、清の宮廷は漢民族の反発を怖れて決断ができなかった。柴五郎准将は栄禄(満州人で後の北洋大臣)と秘かに会談して、次の様に述べた。
「栄禄閣下、外国に贈ることがあっても家臣に頼ってはなりません。清王朝が幾ら漢民族の中華思想に合わせても漢民族は謀反を企むことを止めません。彼らが強硬なのは責任感がなく、王朝が崩壊するのを気にしないからです。漢民族は王朝の崩壊を歴史の常として気にせず、逆に自己と一族の栄達の機会と考えます。そして、外国軍が侵攻してくれば必死に戦わないことは歴史の常ではありませんか」。
栄禄「准将、君は我が国の歴史を誤解している。金や元などは打倒された。我が清王朝は明王朝を継承したことにより正当性を確保している」。
柴「思慮深き栄禄閣下の御言葉とは思えません。確かに、金や元は後で打倒されました。しかし、打倒された原因は漢民族の諸王朝と同じです。度重なる外征の実施による財政悪化による増税、統治範囲が広すぎることによる腐敗と行政費用の増大です。漢民族は易姓革命の概念により、王朝が順調な時は従いますが不調になれば謀反を起こします。王朝が漢民族かどうかは気にしません。漢民族が外国勢力を利用するのを躊躇ったことがあるのでしょうか?つい、最近は反清勢力が我が国の反政府勢力と接触していたのを御存知でしょう。清国が安定するには財産権の保障と起業の自由、民間企業の育成、軍の近代化、治安対策の徹底、官僚組織の改革が肝要です。いずれも冷静な判断と柔軟性が不可欠です。中華思想とは対極にあります。冷静な判断に基づいて対外関係を安定させ、国内を固めることが不可欠の筈です」。
栄禄「貴国を信頼しろとでも言うのか?確かに、貴国は信用できる。しかし、貴国も帝国主義国家だ。まあ、貴国は我が国も似たな存在だと言うだろうが」。
柴「栄禄閣下、別に日本帝国を信頼しろなどと言っているのではありません。国益に基づいて判断を下し、秩序を保つことは洋の東西を問わず基本ではありませんか。貴国の偉大な孫子の言葉通り、対外戦争は国家の一大事です。一時的な雰囲気に流されるのではなく、国益に基づいて御決断下さい。貴国と日本帝国の利害は根本的に異なります。しかし、日本帝国は貴国の弱体化がロシアの南下、過激な革命政権が中国で誕生することなどに繋がることを理解しています。其の点を考慮して、御判断下さい」。
栄禄は柴准将の言に耳を傾けていたが、従来の見解を繰り返した。
しかし、その後に「清国が義和団を扇動したことはない。清国は各国が事前に通告してくれれば、国ごとに1万人未満の規模で海兵隊や陸戦隊の派遣を認める。陸軍は遠慮してもらいたい。また、清国の正規軍が攻撃してくることは絶対にない。しかし、恥ずかしながら騎兵や歩兵が個々に義和団に加わることを防ぐのは困難だ。砲兵隊と海軍は心配しなくて良い。信義の証として北洋艦隊は朝鮮の群山港に、広東艦隊などは香港に寄港させる。当然、日本海軍などが監視して構わない。
万が一、陸軍の派遣が必要になった場合も輸送は海路に限定してもらう。ロシア陸軍などが陸路から国境線を越えた場合は、清国の正規軍が応戦する。陸軍の海上輸送についても兵力の通知が条件だ。また、陸軍を海上輸送する時は事前に公表し、介入する各国で構成する委員会で撤兵の時期を明確に決めて公表してもらう。何れにしろ、各国の在外公館や租界が囲まれなければ陸軍の派遣が正当化されることはない。海兵隊や陸戦隊の派遣も最小限にするのが賢明だ」と述べた。
そして、以上の趣旨についての文書を出すことは拒否したが、清国の艦隊に日本艦隊が同行すること、海兵隊や陸戦隊の派遣許可などの一連の合意文書を出すことを口頭で約束した。柴准将は同意して円明園要塞に戻った。栄禄は柴准将との会談後、李鴻章などと協議を重ねて柴准将との合意について同意を得た。
4月から清国の艦隊は群山港と香港に移動した。4月14日、列強による清国安定化委員会が長崎に設置された。同日、日本帝国陸海軍の予備役および後備役に対して、自分の属する県から外の引っ越しや旅行の禁止などが伝達された。志願兵は予備役も含めて陸海軍の基地に出頭して待機した。動員令前の予備的な措置として定められており、清国への出兵が噂になった。
4月15日、清国の駐日大使が、栄禄が約束した一連の合意文書と各種の許可証を長崎の各国代表に手渡した。清国の首脳部は、その間も議論を繰り返すばかりだった。この頃には、列強は清国に圧力をかけることで一致していた。各国の海兵隊や陸戦隊は清国に通知した上で、天津、上海、広東に派兵していた。
5月になると、各国の海兵隊および陸戦隊と義和団が衝突し始めた。清国は曖昧な態度をとるばかりだった。5月30日、長崎の清国安定化委員会は清国に二週間以内に清国軍が義和団を攻撃しなければ、陸軍部隊を天津に上陸させると通告した。清国は派兵の猶予を求めたが、袁世凱を通じて非公式に義和団を鎮圧することが困難であることが通知した。
6月6日、長崎で清国の代表が各国の代表の前で、柴准将と栄禄の合意を文書化した協定に署名した。6月13日、イギリス海兵隊を中心とする2500の合同部隊を清国の董福祥の正規軍から攻撃された。何とか、合同部隊は撃退に成功したが、北京との連絡が遮断された。
同日、北京の在外公館に義和団が本格的な攻撃を開始した。柴准将が各国守備隊の指揮を執り、円明園要塞での籠城が始まった。6月14日、列強は清国に陸軍部隊の派遣を通告した。清国からは董福祥の暴走に過ぎないとの通知が伝えられた。6月17日、朝鮮に待機していた第5師団と教導歩兵旅団が天津に上陸を開始した。両部隊は天津に待機し、後続部隊も続々と上陸した。
6月21日、清国の宮廷は宣戦布告とも受け取れる声明を発表した。同日、袁世凱を通じて各国に清王朝の声明が宣戦布告でないことが告げられた。そして、董福祥の部隊は清国軍と見做さなくて良いとし、清国の正規軍は連合軍を妨害しないことが通知された。天津に待機していた連合軍は直ちに北京に向けて進撃を開始した。海兵隊と陸戦隊が天津を固め、陸軍が北京に向けて進撃を開始した。日本陸軍の福島中将の第1軍団が主力だった(第12と第23の2個師団は朝鮮半島に派遣)。第5師団、教導歩兵旅団、教導砲兵旅団が北京に向けて進撃し、第7師団と教導騎兵旅団が鉄道を修理しながら後続して兵站線を確保した。他に各国の混成軍約1万人(ロシア陸軍が約5千)が北京に進撃した。董福祥の部隊以外の清国軍は全く動かなかった。一連の戦闘で董福祥の部隊は撃滅され、義和団も掃討されていった。
6月29日、連合軍は円明園要塞に到達して包囲を解き、各国大使館の安全を確保した。清国の軍使が来て休戦を提案したが、追い返された。連合国は一致して北京を攻略し、義和団に総攻撃を行うことで一致した。
6月30日、ロシア陸軍が軍議の合意に反して抜け駆けしたが、撃退された。済し崩し的に総攻撃が始まり、日本陸軍も突入を開始した。日本陸軍に義和団と董福祥部隊の残党が突撃してきたが、大損害を被って撃退された。その間に、イギリス軍が紫禁城に到達した。後は各国軍が念入りに義和団を掃討した。各国軍は義和団の降伏を認めず、負傷者も含めて殆どを殺害した。こうして、義和団の乱は終わった。
西太后は北京を脱出しようとしたが、秋山大佐の騎兵挺身隊に遮られた。秋山大佐は丁重に西太后一行に、北京に戻るよう促した。西太后一行は北京に戻った。日本帝国の軍情報局と対外特務庁は北京の動向を把握しており、西太后が逃亡の準備を進めているとの情報を得て騎兵部隊に阻止網を張らせた。西太后が気を変えて抗戦を叫ぶことを怖れたからだ。西太后も栄禄や李鴻章などから報告を受けていた。しかし、日本陸海軍が大軍で迅速に殺到してきたので日本帝国と李鴻章などが手を組んで自分を排除しようとしているに違いないと思い込んで逃亡した。
しかし、日本帝国は単に清国を信用していなかっただけだった。李鴻章なども西太后の逃亡に狼狽したが、西太后が戻ってきたので安堵した。西太后も自分が戻ってきて周囲が安堵していたので誤解を解き、李鴻章に全権を委任して各国と交渉させた。各国代表は李鴻章と円明園で交渉を開始した。
7月2日、清国の宮廷から各地の総督に義和団の討伐が発令された。福島中将は第1軍団を率いて、直隷省と山西省で義和団を掃討した。朝鮮半島から到着した第12と第23の2個師団も加えて徹底的な掃討戦が行われた。他の省では清国軍が掃討を行い、各国軍は監視するだけで済んだ。日本帝国の全権の柴准将は各国の要求を抑える側に回った。栄禄や李鴻章との契約だったからだ。このため、列強の要求は抑えられた。
8月8日、列強と清国の間で円明園条約が締結された。条約の概要は次の通り。
第一に、清国は被害を受けた各国に賠償金として1億テールずつを支払うこと。また、別に個々の被害者に賠償と謝罪を行うこと。
第二に、天津でも上海と同規模まで租界を拡充して上海の租界と同様の権利を認めること。
第三に、各国の陸海軍の駐兵権と艦艇の通行権を認めること。各国陸海軍が駐兵できるのは天津、上海、南京、威海衛、広州。北京には海兵隊および陸戦隊が駐留できる。各国海軍の艦艇は自由に中国の領海および河川を通行できる。また、各国の艦艇から海兵隊および陸戦隊は港なら自由に上陸できる。ただし、これらの艦艇、海兵隊、陸戦隊は清国に詳細を通知し、通知の規模を越えないこと。駐留軍および通行権を持つ艦艇、海兵隊、陸戦隊の規模は支那秩序委員会で決定される。
第四に、清国は支那秩序員会の承認なしで海軍基地および陸軍基地の提供、鉄道敷設権を与える、港湾の租借などを行わないこと。
第五に、清国は次のような軍備制限を課される。まず、海軍の規模を現行のままとする。また、新規艦艇の購入も禁止される。次に、陸軍について詳細を各国に報告すること。また、新規の武器弾薬は支那秩序委員会を通じてのみ購入出来る。さらに、支那秩序員会の派遣する駐在武官の査察団に清国陸軍を査察させること。
以上の概要で、清国にとって手痛い内容であることに変わりはなかったが、かなり抑制された。清国にとって損なことばかりではなかった。満州や沿海州などをロシアに割譲されることは免れたし、鉄道敷設権などを各国に新規に与えることも免除された。また、朝鮮半島も現状維持とされた。新規の租借や割譲は免れた。さらに、支那秩序委員会の承認なしで海軍基地および陸軍基地の提供、港湾の租借などを行えないということは逆に言えば、清国がロシアなどに領土租借や割譲を断る理由になるからだ。
また、日本帝国などによる介入も期待できた。何より、列強の中国進出が支那秩序員会で調節される。清国は各国の利害を分断することで進出を抑制することができた。何しろ、列強の利害が一致することは滅多になかったからだ。例外は義和団の乱のように、中国人が外国人に集団テロを行った時ぐらいだった。このため、清国政府は円明園条約によって却って自国の立場が強化されたので秘かに喜んだ。日本帝国と清国の友好関係は復活した。江藤内閣が清国への要求を控えめにして柴准将に清国を擁護するように指示したのは、栄禄や李鴻章などとの契約のためだけではなかった。
江藤内閣は清国を緩衝国として位置付けていた。清国を弱体化させ過ぎれば、ロシアが南下してくるのは確実だったからだ。また、対外特務庁は清国が崩壊した場合、中国を支配する漢民族の新政権は極めて危険だと警告した。人口過剰の中国で多数派の漢民族が国民国家としての政権を創った場合、利益を度外視した領土拡張に踏み切るのは確実だった。なぜなら、人口過剰による貧困や食糧不足などを緩和したいとの国民の動機を国民国家が無視するのは無理だからだ。
対外特務庁は中国の歴代王朝の領土拡張指向は、人口過剰な漢民族の不満を軽減するためだと結論付けた。この点、清王朝は満州民族であり、漢民族の反乱を心配しなければならない。ある程度の抑制が可能だった。それに加えて、ロシアの脅威があり、日本帝国と協調せざるを得ない戦略的事情があった。内外に脅威を抱え込んだ清朝が中国を支配していた方が日本帝国の利益になった。
これまでの清朝は漢民族に合わせようとしていたが、度重なる敗北で清朝も方針転換を余儀なくされていた。日本帝国は幕府時代は概ね清国と協調していたし、アロー号戦争後も清国に対する要求は控えめだった。このため、清国との協調は可能だった。対外特務庁は清国との同盟は期待できないどころか有害であり、清国が将来的に日本帝国の脅威になることも否定できないとした。
しかし、それでも内外に脅威を抱える清国は漢民族による国民国家よりも脅威度は低いと結論付けた。武力と諜報活動は欠かせないが、清国を崩壊させるのは日本帝国の利益にならないとした。江藤首相を始めとする憲政党の首脳部も納得した。保守党や枢密院が賛成したのは当然だった。従来からの保守派の見解だからだ。これ以後、清朝を支えることが日本帝国の中国政策の基本になる。
保守派の帝国党は当然のことながら憲政党も清国を友人だと思ったことはなかった。日本帝国と清国の利害が根本的に違うことに変わりはなかったからだ。このため、清国の要人から御世辞の限りを言われても笑顔で応じるだけだった。日本帝国の国益に基づいて、憲政党も帝国党も清国に対する政策を決定していた。しかし、清国も其の方が良かった。清国も自国と日本帝国の利害が根本的に違うことは自覚していたからだ。また、日本人と漢民族を仲良くさせるのは無理があり過ぎた。
この時代、両国の間には適度な距離感があった。これにより、自然と対立要因は解消されていった。大正時代に、普通選挙で選ばれた政治家達やアジア主義者などによって距離感が失われて日本帝国と中国の間で大規模戦争が勃発するとは日清の誰も予測していなかった。
円明園条約で一カ国だけ激怒している国があった。ロシアである。ロシアは日本帝国より派遣兵力は大幅に少なかったが、二番目の派遣国だった。さらに、ロシアが日本帝国と共同しなければ、清王朝が義和団を鎮圧する方向に纏まることは考えにくかった。このため、ロシアは見返りが少ないと激怒した。満州には一歩も食い込めず、沿海州を割譲させることもできなかったからだ。又も外洋への道が日本帝国によって遮られてしまった。もっとも、日本帝国も其れなりの見返りをロシアに与えた。前述のように、ロシアが共同しなければ清国が義和団鎮圧に動かなかったのは明白だからだ。このため、日本帝国は清国に圧力をかけ、朝鮮においてロシアに様々な経済的特権を与えた。清国もロシアを怒らせたままでは拙いので日本帝国に同調した。
ロシアには、土地の自由購入権(しかもロシア人は朝鮮政府に土地の税金を支払う必要がない)、鉱山の開発権、ロシア人およびロシア企業だけの低税率などで朝鮮はロシアの経済的な植民地となった。しかし、鉄道敷設権は与えられず、海軍基地の設置も認められなかった。朝鮮半島では日清両国の意向で鉄道が全く敷設されなかった。道路の建設も厳重に規制されていた。港湾の建設、拡張、改修も必要最小限に留められていた。日清両国はロシアが朝鮮を基地化するのを怖れて厳重に管理した。
朝鮮をロシアに経済的な植民地として与えたのは、間に満州と沿海州があるので兵站線が繋がっていないからだ。ロシアが敵対すれば、直ちに攻撃して奪取するだけのことだからだ。海上からの補給も日本帝国が直ちに遮断する。それでも、万が一の可能性を考えてロシアに経済的な利権は与えても交通インフラは必要最小限しか造ることを許可しなかった。当然、公使館の守備隊以外のロシア軍が朝鮮半島に駐留することを認めるわけがなかった。
朝鮮がロシアの経済的な属国になったので、ヴィッテ大蔵大臣などは満足すべきだとした。日本帝国と清国が戦争をしていないので、清国軍が打撃を被っていないからだ。ロシア陸軍が清国軍を敗北させるのは確実だったが、その後に日本帝国が介入してくればロシアの勝ち目は薄かった。ロシアの海軍基地は遙か彼方だった。精々、偽装した通商破壊艦を日本近海に送り込むぐらいだった。それも距離が遠すぎるし、イギリスやオランダは日本帝国の同盟国だった。日本帝国の海上兵站線を妨害するのは無理があった。陸路から鉄道を建設しながら進撃する方法もあったが、建設資材はヨーロッパ方面から輸送しなければならなかった。
当時のシベリアは本物の辺境地帯であり、資材や食糧などは全てヨーロッパ方面から輸送していた。日本帝国が清国の港湾に一括して鉄道の資材を揚陸して、鉄道敷設を始めれば日本帝国が勝つのは明白だった。このため、ロシア陸軍も北東アジアへの進出は諦めるべきだとした。ところが、ロシア海軍やロシア皇帝のニコライ二世などは諦めなかった。
1901年、江藤首相の二期目が終わった。それまでの実績や有権者の支持率から次期政権も憲政党だろうと予想されていた。ところが、江藤内閣に不満を持っていた衆議院の憲政党の左派が脱党して立憲政友会に鞍替えした。
彼らの不満は、第一に江藤党首などの憲政党執行部が普通選挙を認めなかったこと、
第二に江藤内閣が大陸や朝鮮への介入を最小限にしたこと、第三に、江藤内閣が共産主義者、無政府主義者、大陸浪人などを厳重に取り締まったことだった。江藤党首は普通選挙を認めなかった。国民の責任感が充分ではないと判断したことと、共産主義や無政府主義がヨーロッパで流行し始めていたからだ。 今、選挙権を日本国民というだけで与えることは共産主義や無政府主義などにチャンスを与えるだけだと江藤首相などは判断した。更に選挙権は徴兵制と引き換えに与えられたのであり、それを無条件に与えるのは既存の有権者から反発を受ける。江藤首相も国民が無条件で与えられた権利を認めれば責任感が低下するだけではないかと疑問を感じていた。憲政党の執行部も同様の考えだった。憲政党の執行部や主流派は保守派が政権を選挙結果に基づいて譲渡したしたこと、共産主義や無政府主義の流入などで考え方を変えた。
これに、憲政党の左派は反発した。次に江藤内閣が中国大陸や朝鮮半島に最小限しか介入しなかったこと。憲政党の左派は立憲政友会のように、中国大陸や朝鮮半島の情勢に介入すべきだと考えていた。多くは中国人や朝鮮人が日本人を好きになるとは考えていなかった。しかし、中国大陸や朝鮮の反清勢力や開化派などを支援すれば、多少は日本の立場が有利になるのではと考えた。同時に、中国や朝鮮が近代化しなければ、強制的にでも近代化させようと妙な使命感にも燃えていた。
彼らの考えに江藤首相などの執行部や主流派が賛成するわけもなかった。前述のように、清国を緩衝国とした方が日本帝国の利益になった。更に清国や朝鮮の情勢に介入すること自体が反発を招くことを理解していた。それによって、出兵を余儀なくされ、日本帝国の兵士達が戦死するのは容認できなかった。そして、近代化した中国や朝鮮が日本帝国の味方になることはないと判断するようになっていた。左派は、執行部や主流派が自分達の意見を全く採用しないことに猛反発した。
第三に、江藤内閣が共産主義、無政府主義、大陸浪人などを厳重に取り締まったことにも反発していた。憲政党の左派は、江藤内閣の実施した取り締まりは必要なかったと主張した。国民の良識に任せればよいというのが彼らの立場だった。しかし、江藤首相などの執行部や主流派は責任を国民に丸投げする姿勢には断固として反対だった。一般人は平穏な生活を楽しみたいと思うのが自然だから、一般国民に責任を押し付けるのは無責任だった。イギリス、アメリカ、スイスなどの様な伝統がない日本国民が共産主義者などの圧力に耐えることはできないと判断した。国民は政治家が「責任を担ってくれる」ことを期待して「政治家を雇っている」と確信している江藤首相などの執行部や主流派が左派に同調する筈もなかった。憲政党の左派は、国民が「要望を叶えてくれる」ことを期待して「自分達を選んでくれている」と信じていたので執行部や主流派との溝は深まるばかりだった。こうした憲政党内の状況に付け込んだのが立憲政友会だった。陸奥宗光が憲政党の左派を切り崩した。これで、立憲政友会が衆議院における第一党になったので立憲政友会が政権を握るかと思われた。
ところが、ここで枢密院が介入を始めた。枢密院は議会の日程を少し遅くした。その間に、枢密院議員達が貴族院議員達を取り纏めた。貴族院は立憲政友会の党首である伊藤博文の選出を否決した。その間に、憲政党と帝国党は協議を重ね、連立政権の成立で合意した。この後、両院協議会で憲政党の新党首である林義介が首相に選出された。一連の枢密院の介入には明治天皇の意向が強く働いていた。明治天皇は立憲政友会の傾向に危機感を懐いていた。別に立憲政友会が共産主義やフランス革命などを企んでいると考えたわけではないが、立憲政友会の危険を顧みない中国大陸や朝鮮半島の介入姿勢に危機感を懐いたからだ。
立憲政友会は、中国や朝鮮の近代化、満州や朝鮮半島への影響力行使、朝鮮の開化派や反清勢力の支援などを主張し続けていた。このため、明治天皇は怒りを募らせていた。このため、ある日、立憲政友会寄りの貴族院議員(公爵)が枢密院で意見を延々と述べていると声を荒げて「我に、ルイ16世になれということか!?フランスのブルボン家がアメリカ合衆国を助けたことによってフランス革命が起きたことを知らないのか!?」と述べた。明治天皇は、アメリカを助けたことによって財政が悪化して革命が起ったこと、フランス革命に参加した貴族の多くがアメリカ独立戦争に参加していたことなどを述べた。その貴族院議員は顔面蒼白になり、周囲の枢密院議員達も驚いた。明治天皇が癇癪を起こすことなど、見たことがなかったからだ。明治天皇は我に返ると、その貴族院議員に詫びた。そして、周囲にも謝罪し、討議を続けさせた。その日は、それで済んだ。
しかし、一か月後に立憲政友会に近い軍事系シンクタンクが国防省に提案した国防案を見て激怒した。近衛兵庁が明治天皇の命で調査したところ、立憲政友会の依頼に拠る提案だった。提出された案の趣旨は、朝鮮半島の釜山から満州の奉天までフル規格の鉄道を通し、兵站線を確かにして満州でロシア陸軍を迎え撃つという案だった。これで、日本帝国陸軍はロシア陸軍に対して兵站線で格段に有利になり、朝鮮や満州での勝利が確実になると強調されていた。明治天皇が激怒したのも当然だった。もし、日本帝国陸軍が敗れた場合、ロシア陸軍が其の鉄道線を使って急速に進撃してくるからだ。そして、繰り返し記してきたように、朝鮮半島は世界でも屈指の悪路だった。
もし、この案が実現した場合、その戦略環境が根本的に変化する。鉄道を通せば、資材を運ぶために周辺の道路も整備される。朝鮮半島は日本帝国への跳躍台になる。ロシアや中国が鉄道を使って陸軍を送り込んで朝鮮半島を制圧し、朝鮮半島を基地化すれば日本帝国は常に脅威に晒される。それを防ぐには、朝鮮半島を制圧し、満州を影響力下に置くしかない。中国大陸や朝鮮半島に介入を余儀なくされ、日本帝国にとって多大な負担となるのは確実だった。正に軍事のための軍事だった。
枢密院から忠告されて、その提案を知った江藤首相は川上国防大臣に予備調査を中止させた。予備調査は内閣府、枢密院、貴族院などを誤魔化すために、小分けにして予算が計上されていた。陸軍参謀本部や軍情報局にも知らされていなかった。これにより、当時の国防次官が更迭された。川上操六は解任されなかったが、林内閣では入閣できなかった。この一件で、明治天皇は枢密院議員達を取り纏めて前述のように、枢密院を介入させた。明治天皇は枢密院を取り纏め、在位中、憲政党や帝国党と連携して日本帝国が大陸に深入りすることを許さなかった。
この一件で示したように、明治期の政治で明治天皇の影響力は非常に強かった。これは、明治天皇が憲法下で規定された天皇の権限を巧く行使したことによる。明治天皇は、議会政治が始まってからは自分の意志を前面には出さなかった。江藤新平が首相に選出される時も介入を思い止まった。明治天皇は江藤新平が自由民権派であることを懸念したが、保守派が介入を思い留まらせた。保守派は責任を果たす決意を固めた有権者の意志を尊重する必要性を説いた。保守派は「義務なくして権利なし。逆に言えば、権利を与えぬ者に義務を課す資格はない」などの論理を説いた。明治天皇は渋々、納得した。
そして、江藤首相を長とする憲政党政権が適切な政策を実行していったので憲政党を見直すようになった。ただ、江藤首相が実行する政治的な権利を認める政策には反対だったが、枢密院内でも江藤首相を批判する事は避けた。その代り、信頼している数人の枢密院議員に江藤首相と会談させて、疑問点を質問させた。そして、枢密院で任命した有識者達に政府の提案を精査させ、修正させたい点を勧告した。また、枢密院に任命された両院の議長に命じて議会の日程を調整することで影響力を行使した。
勿論、明治天皇の独断ではなかった。枢密院の長とはいえ、天皇も一票だった。しかし、明治天皇は枢密院議員達(当然、憲政党や立憲政友会の議員も含む)の意見を柔軟に聞いて、補佐官達の助けを借りながら作成した提案を枢密院の会議で提案した。このため、明治天皇の提案は枢密院議員達に受け入れられる場合が多かった。明治天皇の提案が否定されることもあったが、その場合でも天皇の意見は反映された。こうして、明治天皇は枢密院の議決に自己の意図を反映させた。孝明上皇が天皇時代に、守旧派寄りの意見ばかりを主張して多くの意見が拒否されたのと対照的だった。明治天皇は孝明上皇の失敗を教訓にして、保守派の意見を聞きながら枢密院で影響力を行使した。
前述の仕組みを作り、明治天皇に枢密院での政治運営を教えたのは保守派だった。明治天皇が自己を飾り物として扱わない保守派を好んだのは当然だった。しかし、保守派(バーク派も保障主義派も)も国民国家の元首である天皇が一方の側に、露骨に組みするのは好ましくないと考えて明治天皇に配慮を求めた。このため、補佐官達も帝国党、憲政党、立憲政友会の三党に近い人物を均等に任命している。
明治天皇は三島派の補佐官達を得意分野に応じて使い、提案の作成や情報分析などに活用した。保守派の補佐官だけを贔屓することはなかった(ただし、名古屋城の隠し部屋で、議員以外の保守派の有力者達と密談していた)。このため、枢密院議員達も党派を超えて目地天皇を中心にして枢密院の職責を果たした。このことが議会政治を円滑にし、官僚や政治家の襟を正させることになった。衆議院でも貴族院でも国会議員達は自分の支持者達よりも日本帝国と日本帝国民のことを第一に考えて審議を行った(少なくとも表面上は)。明治天皇は枢密院の長としての影響力を行使して、明治時代の日本帝国の議会政治が成功する上で多大な役割を果たした。




