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悪役令嬢

「白い結婚だから触れるな」と言われたので、夫婦の寝室を診療室にしました

作者: くるみ
掲載日:2026/07/06

 結婚式の夜、夫となった辺境伯カイラス様は、私に向かって淡々と言った。


「君を妻として扱うつもりはない」


 銀の燭台に照らされた横顔は、冷たいほど整っていた。

 戦場で名を上げた若き辺境伯。王国北部の守護者。多くの令嬢が一度は憧れるという方。

 けれど、その憧れは花嫁になった途端、ずいぶん簡単に砕けるものらしい。


「この結婚は王命だ。拒むことはできなかった。君に不自由はさせないが、夫婦らしいことを求められても困る」


「つまり、白い結婚ということでしょうか」


「そうだ」


「承知いたしました」


 私があまりにあっさり頷いたからだろうか。

 カイラス様は、わずかに眉を動かした。


「怒らないのか」


「怒ってほしいのですか?」


「いや……そういうわけではない」


「では、私は私の役目を果たします」


 私は微笑んで、部屋を見回した。

 本来なら夫婦の寝室になるはずだった部屋。

 天蓋つきの大きな寝台。見事な彫刻の化粧台。壁際には、使われていない長椅子と戸棚。窓は広く、風通しもいい。


 なるほど。

 かなり使いやすそうだ。


「ところで、旦那様」


「何だ」


「この部屋は、お使いにならないのですよね」


「ああ。私も使わないし、君と共に使うこともない」


「では、私が好きにしてもよろしいでしょうか」


「好きにすればいい」


 その言葉を聞いた瞬間、私は心の中で小さく拳を握った。


 好きにしていい。

 たしかに、そうおっしゃいましたね、旦那様。


     *


 翌朝、私は自分付きの侍女であるリネアと、もう一人の侍女マリを呼んだ。


「奥様、お召し替えでございますか?」


「いいえ。まず、この寝台を運び出します」


「……寝台を?」


 リネアが目を丸くした。


「はい。使いませんので」


「ですが、こちらは旦那様と奥様の寝室では……」


「旦那様はお使いにならないそうです」


 リネアとマリは、さっと顔を見合わせた。

 その目には、あまりにも正直な同情が浮かんでいた。


 ああ、これは噂になるだろう。

 初夜に夫から拒絶され、夫婦の寝室から寝台を運び出した新妻。

 きっと昼頃には使用人の間で、夕方には騎士団の兵舎で、明日には門番から城下の商人にまで伝わるに違いない。


 けれど、それでいい。

 ぞんざいに扱われた妻が、ただ泣いているよりはずっといい。


「寝台の代わりに、あちらの長椅子を中央へ。戸棚には薬草を入れます。窓際には清潔な布と湯を置ける台が欲しいですね」


「奥様、いったい何をなさるおつもりですか?」


「診療室にします」


「診療室?」


「はい。屋敷の者と騎士たちを診ます」


 私は嫁入り道具として持ち込んだ木箱を開けた。

 中に入っているのは宝石でも、流行のドレスでもない。

 乾燥させた薬草、包帯、軟膏、消毒用の蒸留酒、そして分厚い薬学書。


 私は伯爵家の三女、エリシア・フォルネ。

 家を継ぐ予定もなく、大きな政略結婚の駒として期待されていたわけでもない。

 だから幼い頃から、領地の修道院で薬学と看護を学んできた。

 父には「令嬢らしくない」と呆れられ、母には「嫁ぎ先で役に立つならいいでしょう」と笑われた。

 そして今、まさに役に立つ時が来たのである。


「奥様が、そのようなことをなさるのですか?」


「白い結婚なので、夫に構う時間が余っております」


 私がにっこり言うと、リネアは泣きそうな顔をした。


「奥様……」


「泣かなくていいのです。リネア、あなたは字が書けますね?」


「はい」


「では、薬草の名前と使い方を記録してください。マリは清潔な布を準備して。二人には、私の身の回りの世話だけでなく、診療の手伝いもお願いしたいのです」


「私たちに、できるでしょうか」


「できます。手を洗うこと、布を清潔に保つこと、痛がっている人の話を聞くこと。そこから始めましょう」


 リネアとマリは、少し緊張した顔で頷いた。

 こうして、夫婦の寝室になるはずだった部屋は、たった半日で診療室になった。

 扉には、私が木札を掛けた。


『痛いところがある者は遠慮なく入ること。我慢は美徳ではありません』


     *


 最初に来たのは、厨房で火傷をした下働きの少女だった。


「奥様、本当に診ていただいてもよろしいのですか?」


「もちろんです。まずは冷やしましょう」


 次に来たのは、肩を痛めた若い騎士。


「この程度、鍛錬を続けていれば治ると……」


「治りません。悪化します。しばらく訓練後に温めて、この薬を塗ってください」


「奥方様、こいつ、夜になると咳が止まらなくて」


「兵舎が湿っていませんか? 寝具を干す場所を変えましょう。薬草茶も出します」


 毎日、誰かがどこかを痛めていた。

 この屋敷は辺境を守るための場所なのに、そこで働く人々の体は驚くほど後回しにされていた。

 リネアは患者の名前と症状を帳面に書き、マリは湯を沸かし、清潔な布を並べた。

 最初はおどおどしていた二人も、十日も経つころには、すっかり頼もしい助手になっていた。


「奥様、次の方は右手の切り傷です。膿はありません」


「ありがとう、リネア。では洗浄から」


「奥様、軟膏が残り少ないです」


「マリ、午後に作り足しましょう」


「はい」


 薬は、寝室だった診療室で作った。

 火傷用の軟膏。咳を鎮める薬草茶。傷口を洗うための蒸留酒。眠れない兵のための香草袋。

 部屋には、絹の寝具の香りではなく、薬草と湯気の匂いが満ちるようになった。

 そして当然のように、噂も広がった。


「辺境伯様は、奥方様を初夜から放っておいたらしい」


「夫婦の寝室を、奥方様が診療室に変えてしまったそうだ」


「いや、追い出されたのではないか」


「お気の毒に。けれど奥方様は、泣くどころか騎士の傷まで縫っておられるとか」


 門番が聞きつけ、商人が広め、やがて城下の領民たちまで知ることになった。

 白い結婚を強いたのはカイラス様なのに、評判を落としているのはカイラス様だけだった。


 私は何も言っていない。

 ただ、寝室を診療室にしただけである。


     *


 ある日、門番が遠慮がちに診療室を訪ねてきた。


「奥方様。お願いがございます」


「どうしました?」


「城下のパン屋の子どもが熱を出しておりまして。医師を呼ぶ金が足りず、困っているそうです」


 リネアが心配そうに私を見た。

 診てあげたい。

 けれど、領民を屋敷の奥にある寝室へ通すわけにはいかない。

 いくら診療室に変えたとはいえ、ここは本来、夫婦の私的な空間だ。屋敷の警備上も、礼儀上も、外の人を招き入れる場所ではない。


 私は少し考えた。


「東庭の先に、使われていない温室がありましたね」


「はい。昔、先代奥様が花を育てておられた場所です。今はほとんど物置ですが」


「そこを開けましょう」


「温室を、ですか?」


「はい。領民を診る場所にします。外門から庭を通れば、屋敷の奥に入らずに済みます。日当たりもよく、水場も近い。ちょうどいいでしょう」


 リネアとマリは、目を輝かせた。


「私たちもお手伝いします」


「もちろんです。二人には、もう立派な診療助手ですから」


 こうして、寝室だった診療室で薬を作り、旧温室で領民を診る仕組みができた。

 温室には、待合用の椅子と診察台を置いた。割れた硝子は職人に直してもらい、古い花台は薬草棚に変えた。


 扉には、新しい札を掛けた。


『領民の診療日は、週に二度。急病の場合は門番へ申し出ること』


 最初に訪れたのは、熱を出したパン屋の子どもだった。

 母親は何度も頭を下げた。


「奥方様、本当にありがとうございます。ですが、お代が……」


「今日は不要です。その代わり、子どもが元気になったら、パンをひとつ持ってきてください」


「パンでよろしいのですか?」


「ええ。リネアとマリが喜びます」


 二人が横で小さく頷いた。

 それから温室には、少しずつ人が来るようになった。

 畑仕事で腰を痛めた老人。包丁で指を切った料理人。咳が長引く子ども。出産後、体力が戻らない若い母親。


 私はできることをした。

 できないことは、できないと言った。


 医師が必要な人には、王都から医師を呼ぶ手配をした。

 診療室で薬を作り、温室で人を診る。

 リネアは帳面をつけ、マリは薬草茶を配る。

 私の身の回りの世話をしていた二人は、いつの間にか領民たちからも頼りにされるようになっていた。


     *


 カイラス様が異変に気づいたのは、結婚から一月ほど経ったころだった。

 遠征から戻った彼は、屋敷の前で不思議そうに足を止めた。

 東庭の温室に、領民たちが列を作っていたからだ。


「……なぜ、私の屋敷の温室に人が集まっている」


 私はちょうど、薬草茶の入った籠を持って温室へ向かうところだった。


「診療日だからです」


「診療日?」


「はい。温室を領民用の診療所にしました」


「誰が許可した」


「旦那様です」


「私が?」


「はい。『好きにすればいい』とおっしゃいました」


 カイラス様は沈黙した。

 彼の後ろで、従者が気まずそうに視線を泳がせている。


「それは、寝室の話ではなかったか」


「ええ。寝室は屋敷の者と騎士たちの診療室にしました。領民を寝室に通すわけにはいきませんので、温室を開けました」


「寝室を……診療室に?」


「はい」


 カイラス様は、額を押さえた。

 そのとき、腕に包帯を巻いた若い騎士が勢いよく頭を下げた。


「辺境伯様、奥方様のおかげで助かりました! 傷が悪化していたら、剣を握れなくなるところでした!」


「私もです、旦那様。奥様が厨房に冷水桶を置くよう言ってくださらなければ、火傷が残っていたかもしれません」


「うちの子も、奥方様のおかげで熱が下がりました!」


 領民たちが、次々と頭を下げる。

 カイラス様は驚いたように私を見た。

 私はいつも通り微笑んだ。


「お帰りなさいませ、旦那様。診察の順番をお待ちでしたら、木札をお取りください」


「私は患者ではない」


「では、何のご用でしょうか」


 カイラス様は少しだけ口を開き、何も言わずに閉じた。


     *


 その夜、珍しくカイラス様から夕食に誘われた。

 結婚して以来、初めてのことだった。


「エリシア」


「はい」


「君は、私を恨んでいるのか」


「なぜですか?」


「初夜にあのようなことを言った」


「ああ、白い結婚の件ですね」


 私が肉料理にナイフを入れながら言うと、カイラス様は苦い顔をした。


「そう何度も口にされると、胸が痛む」


「痛む場所はどちらですか? 診ましょうか?」


「そうではない」


「では、どうぞ続けてください」


 彼は深く息を吐いた。


「私は、貴族の令嬢というものを信用していなかった」


「でしょうね」


「……否定しないのか」


「初夜に妻へ『君を妻として扱わない』と言う方が、女性を信頼しているとは思えません」


 カイラス様は気まずそうに視線を落とした。


「以前、婚約者がいた。彼女は辺境の暮らしを嫌い、私の留守中に王都の男と逃げた。その時、屋敷の金も持ち出された。兵たちの治療費に充てるはずだった金だ」


「それで、私も同じだと?」


「……今となっては、愚かだったと思っている」


「今となっては、ですか」


 私は静かにナイフを置いた。


「旦那様。私はあなたの過去の傷を軽んじるつもりはありません。ですが、傷ついたからといって、他人を傷つけてよい理由にはなりません」


「その通りだ」


「私はあなたの妻になるために来ました。けれど、あなたが私を妻として扱わないのなら、私は私の力で、この屋敷に居場所を作るだけです」


 沈黙が落ちた。


 やがてカイラス様は、ゆっくりと頭を下げた。


「すまなかった」


 辺境伯が、妻に頭を下げている。

 使用人が見たら卒倒しそうな光景だった。


「謝罪は受け取ります」


「エリシア」


「ですが、夫婦になるかどうかは別です」


 彼が顔を上げる。

 私は微笑んだ。


「旦那様は、まず診療室の床掃除から始めてください」


「床掃除?」


「はい。夫婦としての信頼関係は、一日にして成りません。まずは私の仕事を理解していただきます」


「……わかった」


「それと、半年も戻っていないお抱え医師には正式な確認を。必要であれば、新しい医師を雇ってください。温室の硝子修理費も必要です。薬草畑も作りたいですね」


「待ってくれ。話が急に領地経営になっていないか」


「医療は領地経営です」


 私がきっぱり言うと、カイラス様は一瞬呆気にとられ、それから小さく笑った。

 初めて見る、やわらかな笑顔だった。


     *


 それから、旦那様は本当に診療室の床掃除を始めた。

 最初は包帯の場所も薬草の名前もわからず、リネアとマリにまで注意されていた。


「旦那様、その布は清潔なものです。床には使わないでください」


「申し訳ない」


「旦那様、その薬草は胃薬です。熱冷ましではありません」


「覚える」


 辺境伯が侍女に頭を下げている姿は、なかなか珍しい。

 けれど、彼は逃げなかった。

 騎士たちの怪我の記録を読み、兵舎の湿気対策に予算をつけ、温室の修理を進めた。

 私ひとりで始めた小さな診療室と温室は、いつしか辺境伯領の正式な施療所へと変わっていった。


 王都から視察に来た役人は、感心したように言った。


「辺境伯夫人は、まるで領地の母君ですな」


 その言葉に、旦那様は少し誇らしげに答えた。


「ええ。私にはもったいない妻です」


 私は横から小声で言った。


「まだ仮です」


「エリシア」


「試用期間中です」


「夫に試用期間があるとは知らなかった」


「白い結婚にも色々ありますので」


 旦那様は片手で顔を覆った。


 その耳が赤くなっていることに、私は気づかないふりをした。


     *


 結婚から半年後。

 かつて夫婦の寝室になるはずだった部屋は、今も診療室のままだ。

 朝にはリネアが帳面を開き、マリが薬草茶を淹れる。

 昼には騎士が訓練後の処置に訪れ、午後には温室で領民を診る。

 かつて寝台が置かれていた場所には薬草棚が並び、愛を囁くはずだった部屋では、誰かの痛みを和らげる薬が作られている。


 夜、旦那様は診療室の扉にかかった木札を見上げた。


『痛いところがある者は遠慮なく入ること。我慢は美徳ではありません』


「エリシア」


「はい」


「私は、ここへ入ってもいいだろうか」


「どこか痛むのですか?」


「ああ」


「どちらが?」


 旦那様は少し迷ったあと、私をまっすぐに見た。


「君に嫌われていないかと思うと、胸が痛む」


 私は思わず瞬きをした。


 半年かけて、この人はずいぶん変わったと思う。

 不器用で、言葉が足りなくて、過去の傷に縛られていた人。

 けれど、自分の過ちを認め、変わろうとした人。


「診察が必要ですね」


「治るだろうか」


「患者本人の努力次第です」


「努力する」


「では、まずは私を大切にしてください」


「もちろんだ」


「次に、領民を大切にしてください」


「ああ」


「それから、私が疲れていたらお茶を淹れてください」


「練習しておく」


「最後に」


 私は一歩近づき、彼の胸にそっと手を当てた。


「二度と、私の価値を勝手に決めないでください」


 旦那様は真剣な顔で頷いた。


「誓う」


 その言葉は、結婚式の日の誓いよりも、ずっと私の胸に届いた。

 私は診療室の木札を裏返す。

 そこには、先日こっそり書き足した新しい文字があった。


『本日の診療は終了しました』


 旦那様が目を丸くする。


「今日はもう、誰も診ないのか」


「ええ」


「なぜ?」


 私は少しだけ笑った。


「今夜は、妻の時間ですから」


 旦那様はしばらく固まったあと、信じられないほど嬉しそうに笑った。

 白い結婚から始まった私たちの関係は、ずいぶん遠回りをした。

 けれど、夫婦の寝室になるはずだったこの場所には、今ではたくさんの人の笑顔が残っている。


 だから私は思うのだ。

 初夜に夫から「好きにすればいい」と言われたことは、もしかすると人生で一番幸運な命令だったのかもしれない、と。


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