「白い結婚だから触れるな」と言われたので、夫婦の寝室を診療室にしました
結婚式の夜、夫となった辺境伯カイラス様は、私に向かって淡々と言った。
「君を妻として扱うつもりはない」
銀の燭台に照らされた横顔は、冷たいほど整っていた。
戦場で名を上げた若き辺境伯。王国北部の守護者。多くの令嬢が一度は憧れるという方。
けれど、その憧れは花嫁になった途端、ずいぶん簡単に砕けるものらしい。
「この結婚は王命だ。拒むことはできなかった。君に不自由はさせないが、夫婦らしいことを求められても困る」
「つまり、白い結婚ということでしょうか」
「そうだ」
「承知いたしました」
私があまりにあっさり頷いたからだろうか。
カイラス様は、わずかに眉を動かした。
「怒らないのか」
「怒ってほしいのですか?」
「いや……そういうわけではない」
「では、私は私の役目を果たします」
私は微笑んで、部屋を見回した。
本来なら夫婦の寝室になるはずだった部屋。
天蓋つきの大きな寝台。見事な彫刻の化粧台。壁際には、使われていない長椅子と戸棚。窓は広く、風通しもいい。
なるほど。
かなり使いやすそうだ。
「ところで、旦那様」
「何だ」
「この部屋は、お使いにならないのですよね」
「ああ。私も使わないし、君と共に使うこともない」
「では、私が好きにしてもよろしいでしょうか」
「好きにすればいい」
その言葉を聞いた瞬間、私は心の中で小さく拳を握った。
好きにしていい。
たしかに、そうおっしゃいましたね、旦那様。
*
翌朝、私は自分付きの侍女であるリネアと、もう一人の侍女マリを呼んだ。
「奥様、お召し替えでございますか?」
「いいえ。まず、この寝台を運び出します」
「……寝台を?」
リネアが目を丸くした。
「はい。使いませんので」
「ですが、こちらは旦那様と奥様の寝室では……」
「旦那様はお使いにならないそうです」
リネアとマリは、さっと顔を見合わせた。
その目には、あまりにも正直な同情が浮かんでいた。
ああ、これは噂になるだろう。
初夜に夫から拒絶され、夫婦の寝室から寝台を運び出した新妻。
きっと昼頃には使用人の間で、夕方には騎士団の兵舎で、明日には門番から城下の商人にまで伝わるに違いない。
けれど、それでいい。
ぞんざいに扱われた妻が、ただ泣いているよりはずっといい。
「寝台の代わりに、あちらの長椅子を中央へ。戸棚には薬草を入れます。窓際には清潔な布と湯を置ける台が欲しいですね」
「奥様、いったい何をなさるおつもりですか?」
「診療室にします」
「診療室?」
「はい。屋敷の者と騎士たちを診ます」
私は嫁入り道具として持ち込んだ木箱を開けた。
中に入っているのは宝石でも、流行のドレスでもない。
乾燥させた薬草、包帯、軟膏、消毒用の蒸留酒、そして分厚い薬学書。
私は伯爵家の三女、エリシア・フォルネ。
家を継ぐ予定もなく、大きな政略結婚の駒として期待されていたわけでもない。
だから幼い頃から、領地の修道院で薬学と看護を学んできた。
父には「令嬢らしくない」と呆れられ、母には「嫁ぎ先で役に立つならいいでしょう」と笑われた。
そして今、まさに役に立つ時が来たのである。
「奥様が、そのようなことをなさるのですか?」
「白い結婚なので、夫に構う時間が余っております」
私がにっこり言うと、リネアは泣きそうな顔をした。
「奥様……」
「泣かなくていいのです。リネア、あなたは字が書けますね?」
「はい」
「では、薬草の名前と使い方を記録してください。マリは清潔な布を準備して。二人には、私の身の回りの世話だけでなく、診療の手伝いもお願いしたいのです」
「私たちに、できるでしょうか」
「できます。手を洗うこと、布を清潔に保つこと、痛がっている人の話を聞くこと。そこから始めましょう」
リネアとマリは、少し緊張した顔で頷いた。
こうして、夫婦の寝室になるはずだった部屋は、たった半日で診療室になった。
扉には、私が木札を掛けた。
『痛いところがある者は遠慮なく入ること。我慢は美徳ではありません』
*
最初に来たのは、厨房で火傷をした下働きの少女だった。
「奥様、本当に診ていただいてもよろしいのですか?」
「もちろんです。まずは冷やしましょう」
次に来たのは、肩を痛めた若い騎士。
「この程度、鍛錬を続けていれば治ると……」
「治りません。悪化します。しばらく訓練後に温めて、この薬を塗ってください」
「奥方様、こいつ、夜になると咳が止まらなくて」
「兵舎が湿っていませんか? 寝具を干す場所を変えましょう。薬草茶も出します」
毎日、誰かがどこかを痛めていた。
この屋敷は辺境を守るための場所なのに、そこで働く人々の体は驚くほど後回しにされていた。
リネアは患者の名前と症状を帳面に書き、マリは湯を沸かし、清潔な布を並べた。
最初はおどおどしていた二人も、十日も経つころには、すっかり頼もしい助手になっていた。
「奥様、次の方は右手の切り傷です。膿はありません」
「ありがとう、リネア。では洗浄から」
「奥様、軟膏が残り少ないです」
「マリ、午後に作り足しましょう」
「はい」
薬は、寝室だった診療室で作った。
火傷用の軟膏。咳を鎮める薬草茶。傷口を洗うための蒸留酒。眠れない兵のための香草袋。
部屋には、絹の寝具の香りではなく、薬草と湯気の匂いが満ちるようになった。
そして当然のように、噂も広がった。
「辺境伯様は、奥方様を初夜から放っておいたらしい」
「夫婦の寝室を、奥方様が診療室に変えてしまったそうだ」
「いや、追い出されたのではないか」
「お気の毒に。けれど奥方様は、泣くどころか騎士の傷まで縫っておられるとか」
門番が聞きつけ、商人が広め、やがて城下の領民たちまで知ることになった。
白い結婚を強いたのはカイラス様なのに、評判を落としているのはカイラス様だけだった。
私は何も言っていない。
ただ、寝室を診療室にしただけである。
*
ある日、門番が遠慮がちに診療室を訪ねてきた。
「奥方様。お願いがございます」
「どうしました?」
「城下のパン屋の子どもが熱を出しておりまして。医師を呼ぶ金が足りず、困っているそうです」
リネアが心配そうに私を見た。
診てあげたい。
けれど、領民を屋敷の奥にある寝室へ通すわけにはいかない。
いくら診療室に変えたとはいえ、ここは本来、夫婦の私的な空間だ。屋敷の警備上も、礼儀上も、外の人を招き入れる場所ではない。
私は少し考えた。
「東庭の先に、使われていない温室がありましたね」
「はい。昔、先代奥様が花を育てておられた場所です。今はほとんど物置ですが」
「そこを開けましょう」
「温室を、ですか?」
「はい。領民を診る場所にします。外門から庭を通れば、屋敷の奥に入らずに済みます。日当たりもよく、水場も近い。ちょうどいいでしょう」
リネアとマリは、目を輝かせた。
「私たちもお手伝いします」
「もちろんです。二人には、もう立派な診療助手ですから」
こうして、寝室だった診療室で薬を作り、旧温室で領民を診る仕組みができた。
温室には、待合用の椅子と診察台を置いた。割れた硝子は職人に直してもらい、古い花台は薬草棚に変えた。
扉には、新しい札を掛けた。
『領民の診療日は、週に二度。急病の場合は門番へ申し出ること』
最初に訪れたのは、熱を出したパン屋の子どもだった。
母親は何度も頭を下げた。
「奥方様、本当にありがとうございます。ですが、お代が……」
「今日は不要です。その代わり、子どもが元気になったら、パンをひとつ持ってきてください」
「パンでよろしいのですか?」
「ええ。リネアとマリが喜びます」
二人が横で小さく頷いた。
それから温室には、少しずつ人が来るようになった。
畑仕事で腰を痛めた老人。包丁で指を切った料理人。咳が長引く子ども。出産後、体力が戻らない若い母親。
私はできることをした。
できないことは、できないと言った。
医師が必要な人には、王都から医師を呼ぶ手配をした。
診療室で薬を作り、温室で人を診る。
リネアは帳面をつけ、マリは薬草茶を配る。
私の身の回りの世話をしていた二人は、いつの間にか領民たちからも頼りにされるようになっていた。
*
カイラス様が異変に気づいたのは、結婚から一月ほど経ったころだった。
遠征から戻った彼は、屋敷の前で不思議そうに足を止めた。
東庭の温室に、領民たちが列を作っていたからだ。
「……なぜ、私の屋敷の温室に人が集まっている」
私はちょうど、薬草茶の入った籠を持って温室へ向かうところだった。
「診療日だからです」
「診療日?」
「はい。温室を領民用の診療所にしました」
「誰が許可した」
「旦那様です」
「私が?」
「はい。『好きにすればいい』とおっしゃいました」
カイラス様は沈黙した。
彼の後ろで、従者が気まずそうに視線を泳がせている。
「それは、寝室の話ではなかったか」
「ええ。寝室は屋敷の者と騎士たちの診療室にしました。領民を寝室に通すわけにはいきませんので、温室を開けました」
「寝室を……診療室に?」
「はい」
カイラス様は、額を押さえた。
そのとき、腕に包帯を巻いた若い騎士が勢いよく頭を下げた。
「辺境伯様、奥方様のおかげで助かりました! 傷が悪化していたら、剣を握れなくなるところでした!」
「私もです、旦那様。奥様が厨房に冷水桶を置くよう言ってくださらなければ、火傷が残っていたかもしれません」
「うちの子も、奥方様のおかげで熱が下がりました!」
領民たちが、次々と頭を下げる。
カイラス様は驚いたように私を見た。
私はいつも通り微笑んだ。
「お帰りなさいませ、旦那様。診察の順番をお待ちでしたら、木札をお取りください」
「私は患者ではない」
「では、何のご用でしょうか」
カイラス様は少しだけ口を開き、何も言わずに閉じた。
*
その夜、珍しくカイラス様から夕食に誘われた。
結婚して以来、初めてのことだった。
「エリシア」
「はい」
「君は、私を恨んでいるのか」
「なぜですか?」
「初夜にあのようなことを言った」
「ああ、白い結婚の件ですね」
私が肉料理にナイフを入れながら言うと、カイラス様は苦い顔をした。
「そう何度も口にされると、胸が痛む」
「痛む場所はどちらですか? 診ましょうか?」
「そうではない」
「では、どうぞ続けてください」
彼は深く息を吐いた。
「私は、貴族の令嬢というものを信用していなかった」
「でしょうね」
「……否定しないのか」
「初夜に妻へ『君を妻として扱わない』と言う方が、女性を信頼しているとは思えません」
カイラス様は気まずそうに視線を落とした。
「以前、婚約者がいた。彼女は辺境の暮らしを嫌い、私の留守中に王都の男と逃げた。その時、屋敷の金も持ち出された。兵たちの治療費に充てるはずだった金だ」
「それで、私も同じだと?」
「……今となっては、愚かだったと思っている」
「今となっては、ですか」
私は静かにナイフを置いた。
「旦那様。私はあなたの過去の傷を軽んじるつもりはありません。ですが、傷ついたからといって、他人を傷つけてよい理由にはなりません」
「その通りだ」
「私はあなたの妻になるために来ました。けれど、あなたが私を妻として扱わないのなら、私は私の力で、この屋敷に居場所を作るだけです」
沈黙が落ちた。
やがてカイラス様は、ゆっくりと頭を下げた。
「すまなかった」
辺境伯が、妻に頭を下げている。
使用人が見たら卒倒しそうな光景だった。
「謝罪は受け取ります」
「エリシア」
「ですが、夫婦になるかどうかは別です」
彼が顔を上げる。
私は微笑んだ。
「旦那様は、まず診療室の床掃除から始めてください」
「床掃除?」
「はい。夫婦としての信頼関係は、一日にして成りません。まずは私の仕事を理解していただきます」
「……わかった」
「それと、半年も戻っていないお抱え医師には正式な確認を。必要であれば、新しい医師を雇ってください。温室の硝子修理費も必要です。薬草畑も作りたいですね」
「待ってくれ。話が急に領地経営になっていないか」
「医療は領地経営です」
私がきっぱり言うと、カイラス様は一瞬呆気にとられ、それから小さく笑った。
初めて見る、やわらかな笑顔だった。
*
それから、旦那様は本当に診療室の床掃除を始めた。
最初は包帯の場所も薬草の名前もわからず、リネアとマリにまで注意されていた。
「旦那様、その布は清潔なものです。床には使わないでください」
「申し訳ない」
「旦那様、その薬草は胃薬です。熱冷ましではありません」
「覚える」
辺境伯が侍女に頭を下げている姿は、なかなか珍しい。
けれど、彼は逃げなかった。
騎士たちの怪我の記録を読み、兵舎の湿気対策に予算をつけ、温室の修理を進めた。
私ひとりで始めた小さな診療室と温室は、いつしか辺境伯領の正式な施療所へと変わっていった。
王都から視察に来た役人は、感心したように言った。
「辺境伯夫人は、まるで領地の母君ですな」
その言葉に、旦那様は少し誇らしげに答えた。
「ええ。私にはもったいない妻です」
私は横から小声で言った。
「まだ仮です」
「エリシア」
「試用期間中です」
「夫に試用期間があるとは知らなかった」
「白い結婚にも色々ありますので」
旦那様は片手で顔を覆った。
その耳が赤くなっていることに、私は気づかないふりをした。
*
結婚から半年後。
かつて夫婦の寝室になるはずだった部屋は、今も診療室のままだ。
朝にはリネアが帳面を開き、マリが薬草茶を淹れる。
昼には騎士が訓練後の処置に訪れ、午後には温室で領民を診る。
かつて寝台が置かれていた場所には薬草棚が並び、愛を囁くはずだった部屋では、誰かの痛みを和らげる薬が作られている。
夜、旦那様は診療室の扉にかかった木札を見上げた。
『痛いところがある者は遠慮なく入ること。我慢は美徳ではありません』
「エリシア」
「はい」
「私は、ここへ入ってもいいだろうか」
「どこか痛むのですか?」
「ああ」
「どちらが?」
旦那様は少し迷ったあと、私をまっすぐに見た。
「君に嫌われていないかと思うと、胸が痛む」
私は思わず瞬きをした。
半年かけて、この人はずいぶん変わったと思う。
不器用で、言葉が足りなくて、過去の傷に縛られていた人。
けれど、自分の過ちを認め、変わろうとした人。
「診察が必要ですね」
「治るだろうか」
「患者本人の努力次第です」
「努力する」
「では、まずは私を大切にしてください」
「もちろんだ」
「次に、領民を大切にしてください」
「ああ」
「それから、私が疲れていたらお茶を淹れてください」
「練習しておく」
「最後に」
私は一歩近づき、彼の胸にそっと手を当てた。
「二度と、私の価値を勝手に決めないでください」
旦那様は真剣な顔で頷いた。
「誓う」
その言葉は、結婚式の日の誓いよりも、ずっと私の胸に届いた。
私は診療室の木札を裏返す。
そこには、先日こっそり書き足した新しい文字があった。
『本日の診療は終了しました』
旦那様が目を丸くする。
「今日はもう、誰も診ないのか」
「ええ」
「なぜ?」
私は少しだけ笑った。
「今夜は、妻の時間ですから」
旦那様はしばらく固まったあと、信じられないほど嬉しそうに笑った。
白い結婚から始まった私たちの関係は、ずいぶん遠回りをした。
けれど、夫婦の寝室になるはずだったこの場所には、今ではたくさんの人の笑顔が残っている。
だから私は思うのだ。
初夜に夫から「好きにすればいい」と言われたことは、もしかすると人生で一番幸運な命令だったのかもしれない、と。




