瓜二つ
「君はその眼でクジラを見たことがあるかい?」
その言葉を残し、君は海へと消えた。
いつからか、風鈴の夢をよく見るようになった。あの脳を灼くような夏が恋しいのだろうか。近年の冬はひときわ寒く、たしか去年、東京は記録的な大雪だったはずだ。この船の上でも例外はなく、夜に降る雪が甲板のランプの光を乱反射させ、きらめいている。
怒号のような掛け声とともに、毛ガニで満ちた網籠が引き揚げられる。俺は脇に寄り、無造作に中身を巨大なプラスチックのコンテナへ流し込んだ。分厚い手袋の奥に入り込んだ冷気は、手の感覚を麻痺させてゆく。――すいか、食いてぇな。
途端に、轟音が響いた。次の瞬間、船を襲った衝撃に耐えきれず、俺の体は宙を舞う。
やばい、落ちる――その思考が頭を埋めつくした刹那、暴力的な冷気が全身に侵食し、肺を押し潰した。
死ぬ。本気で、死ぬ。
防寒具は水を含み、足元を鉛のように沈める。視界は淀み、船の輪郭が二重三重にぶれて揺らいだ。抗えぬまま意識は深い闇へと沈降していった。
ちりんという音が鼓膜を揺らす。
あ、ばあちゃん。
いや、今はすいかはいらないや。
うん、だってほら、雪が降ってる。結構寒いよ。
あ、そうだ、ばあちゃん、今日の晩御飯なに? もしかしてカニ?
ほんと?ぼく、殻を剥くの得意になったんだ。じゃあ、その前にカエルの水換えてくる!
生ぬるくなった水槽の水を捨て、新しい水を注ぎ込む。バケツに入れたカエルを水槽にひっくり返したとき、僕はプールサイドに座っていた。
友の声に頷いて立ち上がった。じりじりと肌を焼く陽炎、鼻につく塩素の匂い。蝉の合唱が遠くで震えているようで、鼓膜には届かない。飛び込もうと縁に足をかけたその時だった。
音が消えた。蝉も、友も。静まり返った水面は、今では海の底のような深い青色に沈んでいる。
声がした。
「君はその眼でクジラを見たことがあるかい?」
どこかで聞いたことのある声がした。僕はその声に引き寄せられるように、その深い青を確かめに行かなくてはならない衝動に駆られ、急いで飛び込んだ。
しかし、身体を包んだのは、生ぬるいプールの水ではなかった。全身の熱を奪い去る、氷のような冷たさだ。塩辛い味が口に広がり、思い出の夏の日は、急速に闇へと溶解していった。
薄っすらと目を開けると、そこは無音の世界だった。手足の感覚はなく、ただ、己の身体がゆっくりと海の底へ沈んでいくのだけがわかった。重たい防寒具が、今は、錨のように俺を深淵へと引きずり込んでいく。ああ、これが終わりか。そう確信した、その時だった。
深い青の闇の向こうから、山脈のような影がゆっくりと現れる。温度が吸い込まれる冷たさと、どこか懐かしい寛容さが同居する。シロナガスクジラだ。分厚い瞼の奥にはめ込まれた小さな眼は、こちらを覗くのではなくこちらが覗かれる感覚を覚える。
ちりんという音が鼓膜を揺らす。
青い山脈はゆっくりと俺の目の前を通り過ぎる。やがて、巨体の輪郭が、熟れすぎた果実のように脆く崩れ始めた。ちぎれていく肉片は、銀色の泡となって撒き散らされるように光を放った。
泡は粉雪にも見え、あるときはスイカの種のようにも見えた。
泡の夜空から落ちた後、そこに一人の少年が浮かんでこちらを見ていた。いたずらめいた笑みを浮かべ、小さな声で言う。
「どうだったかな?でも、このことは秘密だよ」
少年はそう言うと、どこからか一切れの赤い果実を取り出し、どう見てもスイカなそれを一口かじった。少年は満足そうに目を細め、あるいは口角を不気味なほど釣りあげて静かに言った。
「夏の味がする」
その言葉を最後に、僕の意識は思い出の光に溶解していく。遠くでヒグラシの声がする。口の中に残るのは、甘くて塩辛い味だった。
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