『お前のような悪女は死罪だ!』と婚約破棄されたので、自ら毒杯を仰ぎました。〜三年後、辺境で薬師としてスローライフを満喫していたら、なぜか国中が私の死を悼み、元婚約者の王太子が廃人寸前になっています〜
豪奢なシャンデリアが眩い光を投げかける王城のメインホール。
建国記念の祝賀夜会が最高潮に達しようとしていたその時、優雅なワルツは不自然に鳴り止み、冷たい沈黙が広間を支配した。
「セレスティア・ヴァン・クロフォード公爵令嬢! 貴様のような悪女との婚約は、ただいまこの時をもって破棄させてもらう!」
ホールの中央、一段高くなった壇上で、この国の王太子であるレオンハルトが声高に宣言した。
金糸を紡いだような輝くブロンドに、サファイアの瞳。
見目麗しい彼は、しかし今、その端正な顔を怒りに歪ませ、私――セレスティアを忌々しげに睨みつけている。
彼の腕の中に庇われているのは、庇護欲を唆る小柄な体躯と、儚げな薄紅色の髪を持つ男爵令嬢、マリアベルだ。
彼女は先日『光の聖女』として見出されたばかりで、大きな瞳には大粒の涙が浮かび、可憐な唇は恐怖に震えているように見えた。
「……殿下。それは、いかなる理由によるものでしょうか」
私は静かに問い返した。
漆黒のドレスに身を包み、背筋を伸ばした私の声は、静まり返った広間によく通った。
怒りも、悲しみも、焦りもない。
ただ淡々と、劇のセリフを読み上げるように。
「白を切るつもりか! お前がマリアベルに対して行った数々の悪逆非道な振る舞い、すべて調べはついている!」
レオンハルトの怒声が響き渡る。
「彼女の教科書を破り捨て、ドレスを切り裂き、あろうことか階段から突き落とそうとしたな! 聖女である彼女を害することは、この国そのものへの反逆と同義である!」
レオンハルトの糾弾に、周囲を取り囲む貴族たちから非難のざわめきが起こる。
皆、私のことを冷酷な悪女だと信じて疑わない目だ。
私は心の中で、深々とため息をついた。
(教科書を破ったのは、彼女が授業についていけず癇癪を起こして自ら破り捨てたから。ドレスが裂けたのは、サイズに合わない見栄を張ったドレスを無理やり着てコルセットが弾けたから。階段から落ちそうになったのは、よそ見をして勝手に足を踏み外したのを、私が間一髪で腕を掴んで助け上げたからなんだけれど……)
しかし、そんな真実を今ここで口にしたところで、盲目的にマリアベルを信奉しているレオンハルトの耳には届かないだろう。
彼はすでに、彼女の『聖女』という肩書きと、甘ったるい涙に完全に酔いしれているのだから。
「レオン様……もういいんです。セレスティア様も、きっと私に対する嫉妬で、心にもないことをしてしまっただけなのですわ」
マリアベルが、涙声でレオンハルトの胸にすがりつく。
「ああ、マリアベル。君はなんて優しく、慈悲深いんだ。それに比べてこの女は……!」
レオンハルトは私を虫ケラでも見るような目で見下ろした。
「公爵家という権威を笠に着て、陰湿な嫌がらせを繰り返す性悪女。もはやお前のような毒婦を、次期王妃として迎えるわけにはいかない! お前は死罪だ!」
「……死罪、ですか」
「そうだ! だが、ただの死罪では済まさない。聖女を暗殺しようとした罪は重い。本来ならば市中引き回しの上で公開処刑だが……長年私の婚約者であった情けだ」
レオンハルトは傍らの近衛騎士に合図を送る。
騎士が恭しく銀の盆を捧げ持ってきた。
その上に乗っていたのは、美しい装飾が施された一つの杯。
「自らその毒杯を仰ぎ、命を絶つことを許そう。それがクロフォード公爵家の名誉を守る、最後の情けだと思え」
ざわめきが、悲鳴へと変わる。
夜会での突然の死罪宣告。
いくらなんでも異常な事態だ。
(……は? 毒杯?)
私は内心、ひどく驚いていた。
婚約破棄までは、ある程度予想していたことだ。
最近の彼のマリアベルへの入れ込みようは異常だったし、私を遠ざけようとする動きも察知していた。
しかし、まさかこの公開の場で、正式な裁判も経ずにいきなり死罪を言い渡されるとは。
いくら王太子とはいえ、筆頭公爵家の令嬢をこんな手順で処刑すれば、国政が荒れることなど火を見るより明らかなのに。
(この男、本当に底抜けの馬鹿なのね……)
呆れ果てて、言葉も出ない。
父である公爵は現在、領地の視察で王都を離れている。
私を庇う者は、この場には誰もいない。
彼らは完全に私の逃げ場を塞いだつもりなのだろう。
私は静かに歩み寄り、銀の盆から杯を手に取った。
中には、うっすらと紫がかった透明な液体が注がれている。
甘い、独特の香り。
これは……ベラドンナと、トリカブト、それに数種類の麻痺薬を調合したもの。
即効性があり、数分で心肺機能を停止させる劇薬だ。
……王宮の薬草園の管理から、暗殺者からの毒殺対策まで完璧にこなしていた『稀代の毒物使い』である私に向かって、毒杯を賜るとは。
(本当に、何も知らないのね)
私が長年、彼に代わってどれだけの裏仕事をこなしてきたか。
政敵からの数え切れないほどの暗殺未遂。
食事に盛られた毒、寝室に放たれた毒蛇、すれ違いざまに刺された毒針。
それらを全て自力で看破し、時には自らの体で毒を中和する訓練すら積んできた私にとって、こんなものは児戯に等しい。
とはいえ、ここで毒を飲んで平然と立っていれば、私は化け物扱いされ、最悪の場合は物理的に首を刎ねられるだろう。
どうやってこの場を切り抜けるべきか。
思考を巡らせたのは、ほんの数秒のことだった。
私は、自分の右手の薬指にはめられた、大粒のルビーの指輪にそっと触れた。
私の裏仕事を知る者は少ないが、私は常に『最悪』の事態を想定して生きている。
いついかなる時、強力な毒や致死の攻撃を受けても生き延びられるよう、この指輪の裏側には、私が独自に調合した仮死薬が仕込まれていたのだ。
それは、あらゆる毒の進行を遅らせると同時に、服用者の心拍と呼吸を極限まで低下させ、数日間にわたって完璧な死体を偽装する秘薬。
(……ああ、そうね。ちょうどいいわ)
私は全てを悟った。
レオンハルトは、私が彼のためにどれだけ身を粉にして働いてきたか、まるで理解していない。
執務をサボり、遊び呆ける彼に代わって、私がどれだけの書類を処理し、どれだけの貴族たちの対立を宥め、どれだけの国政を回してきたか。
彼が「天才王太子」と持て囃されているのは、すべて私が裏で完璧にお膳立てをしてきたからだというのに。
(馬鹿らしい。本当に、馬鹿らしいわ)
愛など最初からなかった。
ただ、王妃教育という名の呪縛に縛られ、国のために尽くすことが私の義務だと思っていただけ。
でも、もう疲れた。
彼のお守りをするのも、傲慢な貴族たちの相手をするのも。
ここで私が「死んだ」ことになれば、すべてのしがらみから解放される。
彼らは厄介払いできたと喜び、私は自由の身となる。
まさに、一石二鳥ではないか。
「……セレスティア様」
マリアベルが、勝ち誇ったような、それでいて同情を装ったような顔で私を見る。
私は彼女を一瞥もせず、指輪の細工を指先で弾いた。
極小の錠剤が、こっそりと私の掌に転がり落ちる。
私はレオンハルトを真っ直ぐに見据えた。
「殿下。今までのお言葉、しかと承りました。この死罪、喜んでお受けいたします」
「なっ……! 強がるのも大概にしろ! 早くそれを飲め!」
「ええ、飲みますとも」
私は杯を口元に運ぶ動作に合わせて、掌に隠した仮死薬の粉を口の中に放り込んだ。
そして、毒杯の液体でそれを一気に流し込む。
ゴクリ、と冷たい液体が喉を通っていく。
致死毒が体内に回る前に、仮死薬が猛烈な勢いで私の血流を支配し始めた。
視界が急速に暗転し、手足から感覚が抜け落ちていく。
「……っ」
空になった杯が床に落ちて甲高い音を立てた。
私は大袈裟に胸を押さえて膝をつく。
「セレスティア!」
遠くで誰かの声が聞こえたような気がしたが、私の意識は急速に暗闇へと沈んでいった。
冷たい大理石の床に倒れ伏す私の耳に最後に届いたのは、レオンハルトの「ふん、自業自得だ」という冷酷な声だった。
◇◇◇
「……さてと」
暗く、冷たい石造りの霊廟。
私はゆっくりと目を開け、硬い棺桶の中から身を起こした。
全身の強張りを解くように、軽くストレッチをする。
仮死状態から目覚めるのは、ひどい寝起きのようで少しだけ体がだるい。
自作の薬は完璧に作用し、あの毒の成分は見事に中和され、分解されていた。
王族や高位貴族の遺体は、埋葬される前に数日間、この王家の霊廟に安置される。
その慣習を利用して、私は蘇ったのだ。
「計画通り、ね」
私は棺桶から抜け出すと、霊廟の隅に隠しておいた平民の服に着替えた。
いつかこの国を捨てる日が来るかもしれないと、こっそり逃亡用の資金や衣服を霊廟の隠しスペースに準備していた過去の自分を褒めてあげたい。
豪華なドレスは、丸めて棺桶の中に戻しておく。
クロフォード公爵令嬢セレスティアは、あの夜、猛毒を煽って死んだのだ。
霊廟の裏口は、昔、王宮の古い設計図を調べて見つけておいた抜け道に繋がっている。
私は誰にも見つかることなく、夜の闇に紛れて王都を後にした。
悲しみや後悔は、微塵もなかった。
むしろ、重い鎖から解き放たれたような、清々しい解放感で胸がいっぱいだった。
これからは、誰のためでもない、私自身の人生を生きるのだ。
面倒な国政も、愚かな王太子も、嘘つきの聖女も、もう私には関係ない。
「さようなら、窮屈だった私の過去」
私は夜風に吹かれながら、晴れやかな笑顔で辺境へと向かう馬車の荷台に潜り込んだ。
◇◇◇
それから、三年後。
私は王都から遠く離れた、豊かな自然に囲まれた辺境の村で暮らしていた。
名前は『セリア』と名乗り、森で薬草を摘み、村人たちに薬を処方する『薬師』として生計を立てている。
「セリア先生! またお婆ちゃんの腰痛の薬、お願いできるかな?」
「ええ、もちろんよ。今回は少し温熱効果を高めた軟膏にしておくわね。生姜の成分を多めに入れておいたから、塗るとぽかぽかして気持ちいいはずよ」
「ありがとう! 先生のおかげで、村のみんな元気いっぱいだよ!」
村の子供たちが、弾けるような笑顔で手を振って走っていく。
ここは良い場所だ。
空気は澄んでいて、水は美味しく、人々は素朴で温かい。
複雑な権力闘争も、見栄の張り合いも、毎日のように山積みにされる分厚い決裁書類もない。
私は今、スローライフを心の底から満喫していた。
王宮で培った毒物の知識は、そのまま薬学の知識に直結する。
毒と薬は表裏一体。
成分の抽出方法や調合のバランスを変えれば、猛毒も万能薬に変わるのだ。
私の作る薬はよく効くと評判になり、今では隣町からもわざわざ患者が訪れるほどになっていた。
村人たちは私を温かく迎え入れ、美味しい野菜や狩りの獲物をお裾分けしてくれる。
「ふふっ、今日もいいお天気」
私はカゴを手に、森の奥へと薬草採集に向かう。
太陽の光を浴びながら、自分のペースで仕事をし、夜は薪ストーブでコトコト煮込んだ美味しいシチューを食べて、ふかふかの温かいベッドで眠る。
これ以上の幸せが、どこにあるというのだろう。
公爵令嬢として、王太子妃候補として、分刻みのスケジュールで動いていたあの頃が、まるで遠い前世の出来事のように感じられた。
◇◇◇
しかし、そんな平和な日常は、ある日突然もたらされたニュースによって、わずかに波立つことになった。
月に一度、王都から日用品や珍しい品を運んでくる行商人のトーマスが、広場で興奮気味に語り始めたのだ。
「いやあ、大変なことになっているんですよ! 王都は今、未曾有のパニック状態です!」
村人たちが興味津々でトーマスを取り囲む。
私も薬草の仕分けの手を止め、少し離れた場所から耳を傾けた。
「何があったんだい?」
「実はですね……あの『光の聖女』と持て囃されていたマリアベル様が、完全な偽物だったと発覚したんです!」
「なんだって!?」
村人たちが驚きの声を上げる。
私は心の中で、「あ、やっぱり」と呟いた。
「彼女が使っていたのは、聖なる力なんかじゃありませんでした。違法で強力な『魅了の香薬』を使って、殿下や周囲の貴族たちを洗脳していただけだったんです! 最近になって薬の供給源が絶たれ、洗脳が解けたことで全てが明るみに出ました!」
なるほど、そういうカラクリだったのか。
どうりで、レオンハルトがあそこまで狂信的に彼女を庇い、私の言葉に一切耳を貸さなかったわけだ。
彼女の不自然なほどの愛嬌も、周囲が不気味なほど彼女に甘かったのも、すべて薬の力だったというわけね。
薬に頼らなければ人を惹きつけられないなんて、ある意味哀れなことだ。
「しかも、驚くべきはそれだけじゃありません。三年前に亡くなられた、セレスティア公爵令嬢……彼女がマリアベル様をいじめていたというのも、すべてマリアベル様の自作自演、真っ赤な嘘だったことが証明されたんです!」
「なんと……あの美しく賢いと評判だった公爵令嬢は、無実の罪で処刑されたというのか……」
「ええ……。洗脳から解けた殿下は真実を知り、マリアベル様を反逆罪で地下牢に投獄しました。しかし、時すでに遅し、です」
トーマスは大袈裟な身振りでため息をつき、首を横に振った。
「セレスティア様が亡くなられてからというもの、我が国の国政はボロボロです。殿下が処理するはずの書類は天井まで山積みになり、貴族たちの派閥争いは激化。隣国との外交も決裂寸前で、経済は悪化し、王都はスラム化が進んでいます」
トーマスの言葉に、村人たちは青ざめた。
「どういうことだ? 王太子殿下は、類まれなる優秀な方ではなかったのか?」
「それが……優秀だったのは、裏で全てを取り仕切っていたセレスティア様の方だったんですよ。彼女がいなくなって初めて、皆がその事実に気がついたんです。セレスティア様は、この国を根底から支える大黒柱だったと」
私は思わず、苦笑いをこぼしそうになった。
気づくのが遅すぎる。
私がどれだけ忠告しても、書類の山から目を逸らしてマリアベルとお茶会ばかりしていたのは、彼自身ではないか。
「今や国中は、セレスティア様の死を悼む声で溢れかえっています。彼女の無実を信じられなかった自分たちを恥じ、毎日のように公爵家の前には献花の山ができているそうです」
「それで、王太子殿下はどうされているんだい?」
「殿下は……もう、目も当てられません。真実を知り、自分がどれほど愚かだったか、どれほどかけがえのない宝を自らの手で壊してしまったのかを悟り……後悔のあまり、完全に心を病んでしまわれたそうです」
トーマスの声が一段と低く、深刻なものになる。
「ろくに食事も喉を通らず、ただひたすらにセレスティア様の霊廟の前に跪き、血を吐くように泣き叫びながら、彼女への謝罪と愛の言葉を繰り返す毎日……。輝くようだったブロンドの髪は白髪交じりになり、頬はこけ、まるで生ける屍、廃人寸前の状態だと噂されています」
広場に、重苦しい沈黙が落ちた。
「可哀想なセレスティア様……」
「これから国はどうなってしまうんだ……」
悲痛な顔をする村人たちをよそに、私は静かにその場を離れ、自分の診療所へと戻った。
胸の中に湧き上がってきたのは、同情でも、優越感でも、ざまぁみろという安っぽい喜びでもなかった。
ただ、「ふーん、そうなんだ」という、どうしようもなく平坦な感想だけ。
愛がなければ、憎しみもわかない。
今の私にとって、レオンハルトも王都の人間たちも、遠い異国の見知らぬ誰かと同じくらい、どうでもいい存在になっていた。
◇◇◇
それから数日後のこと。
私が診療所で、新しく採取した薬草をすり鉢で丁寧にすり潰していると、店の外が何やら騒がしくなった。
馬のいななきと、重い金属が触れ合うような足音。
「ここは……間違いないな」
ガチャリ、と木製の扉が乱暴に開き、見上げるほどの大男が入ってきた。
全身を分厚い銀の鎧で覆い、腰には立派な騎士剣を帯びている。
その顔には、見覚えがあった。
王国の近衛騎士団長、ガラン卿だ。
あの夜会で、私に毒杯の乗った盆を差し出した張本人でもある。
彼は私の顔を見るなり、雷に打たれたように目を見開き、そしてその場に崩れ落ちるように片膝をついた。
「おお……! 神よ、感謝いたします! やはり、生きておられたのですね、セレスティア様……!」
ガラン卿の声は、感極まって激しく震えていた。
屈強な武人の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちている。
どうやら、私の存在が完全にバレてしまったらしい。
辺境とはいえ、これだけ評判の薬師になれば、いずれ耳ざとい情報屋や王家直属の密偵の網に引っかかるだろうとは思っていた。
私は手を止め、ため息を一つ飲み込んでから、ゆっくりと振り返った。
「人違いではございませんか? 立派な騎士様。私はこの村でしがない薬師をしております、セリアと申します」
「いいえ! その気品、その美貌、そしてその声……見間違えるはずがありません! セレスティア様、どうか、どうか王都へお戻りください!」
ガラン卿は床に額を擦りつける勢いで懇願してきた。
「今、国は未曾有の危機に瀕しております! あなた様がいなくなってから、全てが狂ってしまったのです! 国民はあなた様の死を悼み、国政は完全に滞り、そして何より……」
彼は顔を上げ、すがるような、血走った視線を私に向けた。
「レオンハルト殿下をお救いください! 殿下は真実を知り、己の愚かさを呪い、後悔の念に押し潰され、廃人となってしまわれました! 毎日あなた様の名を呼び、涙を流し続けておられます! あなた様が生きていると知れば、殿下も正気を取り戻されるはずです! どうか、慈悲を!」
必死の訴え。
国を憂う忠臣としての、悲痛な叫び。
普通なら、心動かされる場面なのかもしれない。
かつて愛した人が自分のために泣き崩れ、国中が自分を求めていると知れば、駆け寄りたくなるのが乙女心というものだろう。
しかし。
「……申し訳ありませんが、騎士様」
私は、氷のように冷たく、けれど澄み切った声で告げた。
「私はセリアです。セレスティア公爵令嬢は、三年前に王宮の広間で、殿下から賜った毒杯を飲み干し、絶望の中で死にました。それは紛れもない事実です」
「セレスティア様……っ」
「今さら『無実だったから戻ってこい』『国が傾いているから助けてくれ』『殿下が可哀想だから慰めてやってくれ』と言われても」
私はにっこりと、最高に美しく、完璧な貴族の令嬢としての笑顔を作った。
「面倒なので、私はこのまま死んだことにしておいてください」
「なっ……!?」
ガラン卿が絶句し、口をパクパクとさせる。
「私を追放し、殺そうとしたのは国であり、殿下ご自身です。自分たちで大黒柱をへし折っておきながら、家が傾いたから直してくれと頼むのは、あまりにも虫が良すぎませんか?」
「そ、それは……! 殿下も深く反省しておられます! 魅了の薬のせいもあったとはいえ、己の罪を悔い、あなた様に一生をかけて償うと……! それに、公爵家の方々もあなた様の帰還を心待ちに……!」
「償いなど結構です。私は今、とても幸せなのですから」
私は窓の外に視線を向けた。
澄み切った青空。風に揺れる木々の緑。遠くから聞こえる村の子供たちの無邪気な笑い声。
薬草の優しい香りが漂う、私の大切な居場所。
「誰かのために自分を殺し、感情を押し殺して生きる日々は、もう終わりました。これからは、私の知識と技術は、私を頼ってくれるこの村の人々のためにだけ使います」
「セレスティア様……どうか、国を……殿下を見捨てないでください……!」
「お帰りください、ガラン卿。もし無理矢理私を連れ帰ろうとするのなら」
私は棚から小さな小瓶を手に取り、彼に見せつけた。
中には、怪しくゆらめく緑色の液体が入っている。
「私が『稀代の毒物使い』であることを、その身で思い出していただくことになりますよ。あの夜、私が飲んだ毒など比べ物にならないほどの苦痛を、あなた方にお見舞いすることになりますが、よろしいですか?」
にっこりと笑いながら放たれた私の脅しに、ガラン卿の顔からサッと血の気が引いた。
私が本気であることを、そして、私がその気になれば彼らなど一瞬で全滅させられる力を持っていることを悟ったのだろう。
彼はギリッと唇を噛み締めると、ゆっくりと立ち上がり、深く、深く一礼をした。
「……承知、いたしました。私が見たのは、ただの優秀な村の薬師殿であったと、殿下にはそう報告いたします」
「ええ。それが良いかと思いますわ。どうか、道中お気をつけてお帰りくださいませ」
ガラン卿は重い足取りで、肩を落として診療所を出ていった。
馬の蹄の音が遠ざかり、完全に見えなくなるまで見送り、私はようやくホゥと肩の力を抜いた。
これで、もう誰も私を縛ることはできない。
王都がどうなろうと、レオンハルトが後悔で廃人になろうと、それは彼らが自ら招いた結果だ。
自分のしでかした事の重大さを、せいぜい一生かけて味わえばいい。
「さあて、仕事、仕事!」
私は大きく背伸びをして、再びすり鉢に向かった。
明日は隣の村のおじいさんのために、特製の滋養強壮剤を作らなければならない。
裏山の奥に生えている、珍しいキノコも採りに行きたいし、やりたいことは山積みだ。
窓から吹き込む風は心地よく、私の新しい人生を祝福してくれているようだった。
辺境の気楽な薬師としての私のセカンドライフは、まだまだこれからなのだから。
【作者のひとこと】
先日、オーストラリアのブリスベン空港で、サブウェイのラップサンドを食ったんです。
なんですか、あれ。美味しすぎではありませんか?
もうコンビニの薄っぺらいブリトーでは満足できません。
私はサブウェイに分からせられてしまったのです。
日本のサブウェイは愚かです。あんなにも素晴らしい味を、我々の手から奪い去ってしまったのですから。
あぁ、愛しのラップサンドよ。もう一度だけ。
もう一度だけでいいのです。
私の口に、帰って来てはくれないでしょうか。




