あの人の手紙
『そちらは秋ですね。こちらも過ごしやすい気温になってきました。変わりなくお暮らしのようで喜んでおります。いつもあなたのご健康をお祈りしております』
『その後、お変わりありませんか。自分も変わりなく軍務に励んでおります』
『寒さが厳しくなりました。一層お体を大切にしてください』
戦地に赴いた恋人からの手紙は、月に数回送られてきていた。
けれど、優しいあの人が私を気遣う手紙は月に一度になり、二月に一度、三月に一度になって半年が経ち、そのまま途絶えてしまった。
それからようやく終戦を迎えたが、あの人は帰ってこない。
待てど暮らせど便りはない。
どのような状況なのだろう。あの人は無事なのだろうか。
あの人に会いたい。せめて一目でも――。
私はあの人の無事を祈りながらひたすら便りを待ち続けた。
そうして何の便りもなく、生存への期待を失いかけたある日。一通の手紙が届いた。差出人にあの人の名があり、私は彼の生存を喜んだ。
しかしそれは束の間のこと。そこにはこう綴られていた。
戦地で大怪我を負い、長い間治療を受けていて連絡できず申し訳なかったという謝罪の言葉。
そこで献身的に世話をしてくれた女性に情愛を抱き、生涯を共にしたいと思っているということ。
そして薄情な自分のことなど忘れて、あなたはあなたの幸せをつかんでほしいという、別れの言葉だった。
生涯を共にしたい。その相手が私ではない。
あの人が無事に帰ってこれたら、これから先のことを一緒に考えたいと思っていたのに。そんなふうに言われてしまったら、私にはどうすることもできない。
だけど酷い仕打ちではないか。
長い間彼の無事を祈り、帰還を待ち続けた私にこの仕打ちはあんまりではないか。
しかし両親はもう忘れるようにと何度も私に諭す。あの人とはまだ結婚していないことが救いだったと、私が未亡人にならなかったことを安堵するように言う。
あの人には身寄りがなく、親戚や知らせる相手もいない。誰も所在のわからぬあの人のことを思っても仕方がないのだ。
私はうなずくしかなかった。
それからは虚無感に囚われた。
私はあの人を忘れるために、食事をし、仕事をし、疲れた体を癒やして眠る。ただ生きるだけの日々を過ごした。
箱に詰めた、これまで交わしたあの人との手紙をいつまでも部屋の奥にしまったまま。
次の夏がきて、雲一つないある朝のこと。
家に見知らぬ男が私を訪ねてきた。
軍の関係者だという男に渡された物は、汚れが染みつき穴の空いた軍帽。
手紙一つで別れたあの人の――遺品だと。
これが発見されたのは二月前のこと。
死んだ彼には身寄りもなく、当時私が恋人だと知っていたようでこれを届けに来たという。
亡くなったのは終戦前。
あの別れたいという手紙が書かれる以前に亡くなっていたというのだ。
では、あの手紙を書いたのは誰なのか。
何故別れたいなどと嘘を手紙に書いて寄越したのか。
軍帽を届けてくれた人物は手紙のことなど何も知らないようだった。
真実を知りたい一心で私はあの人が所属していた部署を訪ね、手紙を書いた人物を探した。
その人物はすぐに分かった。
生前に一度だけ手紙の中で、戦時中に足をなくした戦友のことが書かれていた。負傷兵となって生き延びた男。
杖をつく男に挨拶すると、私がやってきたことを知って男は動揺を見せた。
遺品の軍帽が別の者の手で私のところへ届けられたのは想定外だったらしい。
戦友だったという男はあの人から生前、『自分が死んだら彼女には死んだことを知らせないでほしい』と遺言を聞いていたという。
生きてどこかで暮らしていれば、自分のことなどいつか忘れられよう。
死んだと知らせれば、永久に彼女の中から忘れられぬ故人となってしまう。真面目な彼女のことだ、生涯操を立てて独りで生きようとするかもしれない。
だからこんな薄情な男のことなど忘れて幸せに生きてほしいだけなのだ――と。
生前に彼が書き残した最後の手紙を送ったのは私です、とその男は謝罪した。
今思えば筆跡は確かにあの人のものだった。その判別もできぬほど私は冷静ではなかったのだ。
いいえ、あなたはあの人の遺言どおりにしただけ。真実を伝えてくださり、ありがとうございました。
私はそう告げてその男と別れた。
帰路に就く道中、私はこれまでのことを思い起こしていた。
手紙一つで勝手に別れたあの人を、どうやって探し出そうかと思い巡らせていた。
戦地で世話をしてくれた女なら娼婦かもしれない。体の世話もされていたと考えただけで煮えたぎるような感情が沸き立った。
生きてどこかで幸せに暮らしているあの人とその女をもし見つけだせたら、その時私は――。
ふふ……と思わず笑みが零れた。
ああ、良かった。
間違いを犯さずに済んで。
帰路に就く足取りはとても軽く、空まで飛んでいけそうだった。
その先に、あの人はいるのだろうか。
じりじりと照りつける太陽が眩しく、視線を落とせば精一杯生きた末に転がる蝉。
先ほどまで何も感じていなかった体は思い出したように暑さを感じ、汗をかく。
夏がこれほど暑かったことを私は長い間忘れていた。
太陽の照りつける道の先へ意識を移すとその足で大地を踏み締め、しっかりした足取りで真っ直ぐ自宅へ帰り着いた。
三年後、私は見合いをした相手と結婚した。
今も実家の庭には、箱に詰めた数年分の思い出が灰となって埋まっている。
〈終〉