美歌
私は人とはちがう世界にいる。
ここは真っ暗。前も後も。右も左も。いつのまにこんな暗闇の中に落っこちたんだろう。私が自分から暗闇に飛び込んだのか、それとも誰かに背中を押されて落っこちたのか。もう、わからない。わかりたくない。
私はいたって普通の女子として生きてきた。クラスの上部でも下部でもなく中の下、くらいに居場所を定めていた。自分の人生がシンデレラストーリーのように激変することもない、リア充にも属さない。そんなことはわかっている。
でも、女性としての歩む道は、他のみんなとだいたい一緒だろうと思っていた。どこかの大学を卒業し、何かしらの仕事をし、時期がくれば結婚、出産し、家庭を作る。
結果は違った。
私は暗闇に落ちた。這い上がる気力すら湧かない深い深い暗闇に。
きっかけはアイツだ。元同僚のアイツ。名前も呼びたくないほど。
私は保育士をしていた。アイツは同期だった。おとなしくて華のない顔立ちをしているという面では、私と同じだった。
就職して三年目。一緒に一歳児クラスを担当することになった。私とアイツともう一人パートさんと三人体制で働いていた。
その日々で私は不満を募らせていった。アイツは私をいいように使っていると思った。思い通りにならないと泣き喚く子、なかなか昼寝しない子、友達に手が出る子、といった対応が大変な子ども達を上手くさけながら仕事していた。
当然その皺寄せは私とパートさんにくる。毎日、苛々した。そのつもりに積もった不満は、私に多大なストレスを与えた。
朝、電車に乗るため改札を通ろうとすると体が硬直する。改札手前で立ち止まった私を、迷惑そうに他の通勤客は避けていく。
電車に乗ると涙が止まらなくなった。右にも左にも前にも後ろにも人がいる。人目を気にするよりも、辛くて辛くて涙が止まらなかった。
職場では終始苛々していたため孤立した。アイツだけでなく、他の職員とコミュニケーションをとるのも苦痛で私は喋らなくなった。
眠れない。ご飯が食べられない。
体力もどんどん落ちていった。このまま衰弱して死ねたらな、なんてぼんやり考えていた。
そんなある日、姉から連絡が来た。
「近くまで行く用事があるからお茶しない?」
私は了承した。休日はベッドに張り付けられたような日々を送っていたから、姉からの誘いはありがたかった。鬱々とした気分から抜け出せるかもと思ったのだ。
半年ぶりに会った姉は私を一目見て「何があったの⁈」と若干叫ぶように尋ねた。
――何があった? とくに何も……
と私自身は思っていたのだけれど、姉の目に写った私は痩せこけ、青白く、目が死んでいたのだった。
近くにあったコーヒーショップに入った。コーヒーなんて飲めないと思うほど私の胃腸は弱っていて、シトラスティーを選んだ。
空いている席につくなり姉は「病院行った方がいいと思う」と今までに見たことがない深刻な表情で言った。
幼い頃から私達は仲がよかった。五歳と割と年が離れているせいか、姉は私のことを可愛がってくれた。お菓子を分けてくれたり、宿題をする姉の横で私はぬりえをしたり、といつも側にいた気がする。
就職を機に姉も私も実家を出た。実家までは二時間弱あれば帰られる。でも、頻繁には帰っていない。姉とは住んでいる場所が近かったからこうやってお茶したりランチしたり、ショッピングに出かけることもあった。
姉が結婚を決めるまでは。
姉はもうすぐ結婚する。
まだそれぞれの両親に挨拶とか、挙式のこととかは具体的には動き出していなかった。
幸せになる大好きな姉に余計な心配をかけさせてしまった。
「不安なら一緒に病院行ってもいいよ?」
姉が心配そうに言う。私は黙って首を横に振った。
「……病院は自分で探してみる」
それに対して姉は「うん。わかった」と頷いた。
その頃には私は仕事に行けなくなっていた。有給休暇を消化する形で休んでいた。動かない体を宥めすかしながら、スマホで病院を探し予約を入れた。
初診は一時間以上かかった。問診票をもとにあれやこれや医師から訊かれた。自分が何て答えたのか全く覚えていない。最後に「これチェックしてみてください」とファイルに挟まれたA4の用紙を渡された。
そこにはいくつかの質問があった。ぼんやりした頭で記入していく。記入を終えると待合室で少し待つように言われた。
しばらくして再び診察室に呼ばれ「うつ病ですね」と言われた。
姉は私に会って以来、頻繁に連絡をくれていたから、私から診断名を伝えた。
もしかしたら、迷惑をかけるんじゃないかな、と漠然と不安になる。私の病気が結婚の足枷になるんじゃないかと。
でも、姉から返ってきた返事は
〈大変だったね。ゆっくり休みなよ〉
だった。どうして姉はこんなに優しいんだろう。心が凍てついていたはずなのに、その日は声を上げて泣いた。
世の中は偏見だらけだ。人としてのルートを外れると人としてみなされない。
私が予感した通り、私の存在が姉と旦那さんになる彼の幸せの足枷になった。
私の両親に病気を打ち明けた時も、二人は戸惑っていたけれど、娘の変わり果てた姿を見て、責めることだけはしないでくれた。でも、受け入れてくれているわけでもないように感じた。
姉の結婚に何かしら影響するかもしれないという気配が、二人から漂うのが目に見えるようだった。
そして両親の心配は現実のものとなった。
〈私達、籍入れるだけにしたんだ〉
ある日、姉からメッセージが届いた。その日は普段に比べると体調がよく、私はソファーに座ってテレビを見ていた。そのメッセージを見て、どうして? と思った。
前に姉とお茶をした時、私に病院を勧めてくれた後、姉は挙式をしたい場所の候補をいくつか教えてくれた。その時の笑顔は眩しいくらいに輝いていた。
それなのに籍だけ入れるということは、挙式はしないということだ。
〈どうして?〉と返信するより先に姉から再びメッセージが届いた。
〈それに合わせて〇〇に引っ越すんだ。なかなか会えなくなっちゃうけど、体調落ち着いたら遊びにきてね〉
姉が指定した街はここから飛行機に乗らないといけない。姉もその旦那さんになる彼も、転勤がある仕事に就いていないし、引っ越す理由はないはずだ。
その時、はっとした。原因は私だ、と。
私は姉に電話をかけた。数コールしたところで姉は出た。声は元気そうだし、生きるエネルギーに満ち溢れている人らしくはずんでいる。
「挙式しないのって、私がらみで何かあったよね。それに引っ越しするのだって」
気づくと直球で言葉を投げていた。
姉が電話の向こうで小さく息を吸うのが聞こえた。
「あのね、美歌。私は美歌が大切な家族なの。何があっても。それを守りながら私達が一番幸せになれる方法を考えただけ。だから、自分のせいとかそんなこと絶対に思わないで。約束して」
姉の声は落ち着いていて、私に何か発言させる余地を与えない声色だった。私は唇を噛む。
「私、幸せだから大丈夫だよ」
続けてそう言った姉の声は柔らかく淡いピンク色かがっていた。
―― 私達が一番幸せになれる方法を考えただけ。
あの日以来、私の頭の中では姉の言葉がリフレインしている。
姉が引っ越して半年。たまに電話で話す。声を聴く限りでは元気そうだ。
私の体調はいい日もあれば悪い日もある。もどかしいけれど、じたばたしても仕方がないと思っている。
朝、起きてカーテンを開ける。朝日が差し込む窓辺で目を瞑り祈りを捧げる。
姉夫婦の幸せ。
目を開けるときらきらした朝日が飛び込んできた。思わず目を細める。
――大好きなお姉ちゃん、どうかずっと幸せでいて。
第一話、読んでいただき、ありがとうございました。