第1章 7
ふと、声が聞こえた。鈴を転がしたような、清涼たる声質が空間切断の中で反響する。
停止しかけて、流されるがままだった川原の思考が再度回転を再開。
空から振ってきた怒号にも聞こえるその声が、どこからで、誰の物なのか、川原は宙に視線を泳がせた。
一方、姉の方は、汗をだらだらと流しながら、小刻みに体がガタガタと震えていた。
川原が振り仰いだ先には何もおらず、視線を前に戻すなり姉の変化に疑問符を浮かべた。
明らかに何かに怯え、動揺している姿。
その何かが、川原の後ろから空間切断に干渉しながら姿を現した。
それを確認した姉は、体を硬直させつつも、発動予定だった光の奔流を解いた。
何が起こったか、川原には瞬時に理解出来なかった。
「申し訳ありません。大丈夫でしたか?」
心配そうに言いながら、横に膝を折りながらやってきた存在に、川原の視線、思考、感情の全てが彼女に引き込まれた。
きらびやかな長い金髪をなびかせ、処女雪のように肌は白く、儚く脆いガラス細工のような印象があり、キャストドールのような愛らしい美貌も持ち合わせている。
服装は、姉と同じようなデザインの制服を優雅に着こなしている。
間違いない。こんな綺麗な女性を簡単に忘れられるはずない、と川原は確信した。
彼女は、自宅のガラス窓を突き破って入ってきた天使に間違いなかった。
あの時の弱々しい感じは当に無く、今はその可憐な蕾のような相好に、はっきりとし憤慨の感情を貼りつけている。
「おねーちゃん。これは一体どういう事なのか説明してくれるよね?」
「い・・・・・・いやぁ・・・・・・」
あの姉が、妹を前にするだけで、余裕を完全に消して明らかな狼狽を見せている。
姉は、バツが悪そうに目を背けながら、双方の人差し指をつんつんさせて、あのー、そのーと消え入りそうな声で言い訳を探していた。
「本当に申し訳ありません。うちの馬鹿姉が」
不安に揺れる瞳を向けながら、川原の頬に触れる。それだけで充分に川原の頬がリンゴみたいになる理由となった。
近くで見ると本当に綺麗だなと再知覚出来る。目の色が微かにサファイアのようで、見つめているとこのまま吸いこまれてしまいそうだ。鼻梁はぷくっと小さく、唇はまるでチェリーのようで美味しそうにさえ見えてしまう。
「どうされました? もしかして熱が・・・・・・?」
頬に触れていた手がおでこに移動して、更に川原の体温を上昇させる原因になった。
暖かくも柔らかく、同じ肌の断面とは思えない心地よさが川原のおでこを包み込む。
「そ、そそそいつから離れろ! アリーシャ!」
まるで嫉妬に狂うヒロインみたいに腕を縦にぶんぶん振る姉。
妹は、川原から離れると、侮蔑とも取れる冷ややかな視線で姉を突き刺す。
「そういえば、まだこの状況を説明して貰って無かったね、おねーちゃん。用事があるからっていうから何してるのかあと思えば・・・・・・見に来て正解だったよ」
明らかに立場を失いつつある姉。妹の放つ威圧で、たじたじになっている。
「だ、だから・・・・・・違うんだアリーシャ。おねーちゃんはただ・・・・・・」
「ただ! 何がどう違うの?」
妹は腕を組みながらこめかみ辺りをぴくぴくさせている。
「あ・・・・・・あれだ。そいつは私を見つけるなり後ろから襲って来ようとしたんだ。だからこれは正当防衛だ!」
妹が離れてから上半身だけ起こしていた川原は、姉の苦し紛れの発言を受け、何を言っているんだ? という気持ちが沸き立ち、すぐさまその感情のまま反論しようとしたが、
「どうして、そんな幼稚な嘘つくのかな、おねーちゃん?」
妹にはすぐ虚言であると見破られてしまったようで、火に油を注ぐ結果になり、川原の出番は来なかった。
「う、嘘じゃないんだアリーシャ・・・・・・私は本当にーー」
嘘と見破られているのに、まだ言い訳を繰り返す姿は、もはや滑稽としか映らない。
「おねーちゃん。実は言わなかったけど私、全部知ってるんだからね!」
「え・・・・・・」
呆けたように、脱力した表情を見せる姉。
「私、あの時うっすらとだけど意識はあったから、声は認識出来た。この人は私達を天使と知っても、おねーちゃんがいくら暴言を重ねても、私を助けようとしてくれた!」
「で、でもだなぁ・・・・・・アリーシャ。それはきっと、私があの場にすぐ追いつけたからだ。そ、そうだ。あいつは私が来なければ妹の美貌に目が眩み、陵辱の限りを尽くしていたに違いない」
それを受けて、妹の双眸が更に恐怖感を増し、姉の冷や汗の量を倍増させた。
「おねーちゃん。それ本気で言ってるの? いいわけもここまで来ると呆れてくるよ」
「いや・・・・・・だから・・・・・・その・・・・・・」
「おねーちゃんが、私を大事にしてくれてくる事はよく分かるよ。でも、今回のは流石に度が過ぎてる。この人が危害を加えてくるなら話は分かるけど、実際はそうじゃなかった。おねーちゃんの剣幕を前にしても引く事無く、献身的に向き合ってくれた。おねーちゃんはこの人のそんな優しい気持ちを簡単に足蹴にしたんだよ。分かる!?」
「は・・・・・・はい」
もう言い訳をする気力も無くなったのか、素直に頷いて見せた。
「それじゃー。何かこの人に言うことがあるんじゃないのかな? おねーちゃん」
「・・・・・・すまん」
ここまで妹に絞られてもプライドが邪魔しているのか、素直に謝罪の意を示そうとしない姉。
妹の後方からゴゴゴゴたる轟音が聞こえる錯覚が川原には見えて、川原も妹の存在に恐怖感を植えつけられた。
「おねーちゃん・・・・・・?」
妹のこめかみが再度蠕動しているかのようにぴくぴく動いた。二回動いたから、次動く事があればレッドカード確定だろうか。
流石に妹のそんな姿を見て完全に血の気が引いたのか、ゼンマイ人形のようにぎこちなく歩を進めて行き、ぽかんとしている川原の前までやってきた。
そして、矜持など完全に捨てきった土下座を敢行。
「あの・・・・・・この度は無礼を働き・・・・・・大変もうしわけ御座いませんでした」
「あ、いえ・・・・・・」
突然過ぎたその予想外な展開に、川原の脳内が現実に追いついておらず、それだけ零した。
妹はよく出来ましたと言わんばかりにうんうんと頷いてから、くるりとそのご尊顔を川原に向けた。
「私が倒れて苦しんでいた時、助けようとして下さり、ありがとうございました」
ぶかぶかとお辞儀をしながら、妹の方も感謝の意を示してきた。
「そんな・・・・・・僕は当然の事をしただけですので・・・・・・」
「あ、すいません。自己紹介が遅くなりました。私はアリーシャと言います。もう既にご存じだとは思いますが、天使です。よろしくおねがいします」
制服のスカートの端をつまみながら、まるでお嬢様のような優雅な所作を披露。
ほら、おねーちゃんも、とアリーシャが促すと、姉は立ち上がる。
「エリアーナです・・・・・・」
不良息子のような挨拶をしながら浅く礼を一つ。特にアリーシャは何も言わなかった。
「自己紹介ありがとう。僕は川原颯太っていいます」
「川原颯太さん。いいお名前ですね。あの・・・・・・颯太さんってお呼びしてもいいですか?」
アリーシャは掌を合わせながらもじもじと赤面する。
川原は面映ゆさを感じたが、いいですよと首肯した。
アリーシャの顔が、ぱああと笑顔を咲かせて、ありがとうございますと返した。
「ところで、今更になったけど、もう体調は大丈夫なの?」
「あ、はい。もう大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます。颯太さんこそ、すいません。おねーちゃんが乱暴な行為を働いて」
「あ、うん。何故か、なんともなかったみたいだから大丈夫だよ」
と、向こうを安心させる為に愛想笑いを振りまいてみたが、アリーシャは何故か小難しい顔をしだした。
その顔を、そのままエリアーナへ向ける。
「おねーちゃん。確かに颯太さんの記憶を消す行為をしたんだよね?」
「え? あ、ああ・・・・・・確かに」
突然そんな質問を振られて、エリアーナは動揺しつつも答えた。
「・・・・・・ああ。もしかして僕の記憶から天使の部分が抜けて無かった事?」
「ええ。そうです。おねーちゃんもお話したと思うんですが、天使は人間に存在を知られてはならないのです。もし人間界にいるなら普通の人間として過ごす必要があり、もし存在が露見した場合、その部分の記憶だけを抜き取ります。なのでおねーちゃんはそれに乗っ取り、川原さんの記憶を抜き取ったはずなんですが・・・・・・」
「でも、僕の記憶からは・・・・・・」
「おねーちゃん。もう一人の記憶からは私達の事が抜けていたんだよね?」
「ああ。確かに確認した」
空気の行き先が変化していくのを感じ、川原はひやひやし始めた。
「あの・・・・・・僕やっぱり再度記憶をいじられるの?」
「最悪、私達が言わなければいいだけの話ですので。それに、颯太さんは私達の事を話すような人に見えませんので、記憶に影響が無くても問題なしと判断できます」
それは逆に言えば、もしアリーシャやエリアーナの事を世間に告発すれば記憶を全て飛ばされる事に等しい。
「ただ少しだけ気になっただけですので大丈夫です。おそらく上手くいかなっただけだと思います」
そう簡単に片付けて笑みを再び掘り起こしたアリーシャ。
なので、川原は色々考え込む事を止めた。
ここで心配事が無くなったと内心で胸を撫で下ろす川原。
「僕からも、聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「はい。答えられる範囲でしたらなんなりと」
「二人はあの暴風雨の中、どんな感じで過ごしていたの?」
そう質問する川原に対して、アリーシャは拍子抜けを食らった顔をしていた。
「え? どうかしたの・・・・・・?」
何かまずい事を聞いたかなと、少し不安げに眉を潜ませる。
「いえ・・・・・・てっきり私達自身ーー天使の事を聞かれると思ってましたので」
「あ、ああ・・・・・・なるほど。普通はそうだよね」
ここでも愛想笑いを浮かべながら、後頭部を掻く。
アリーシャは意識が薄い状態だったので、妹は姉に返答をお願いした。
「あの中・・・・・・私は普通に飛んでいた。逆に好都合だったよ。人間に私達の姿を見られる事がなかったから。そこから、廃墟や空き家、橋の下などを探してはそこで治療をしていた」
川原はなるほどと思いながら、一つの疑問が浮かんだが、それは踏み込んだ問いの気がして、寸でのところで思い止まっていた。
なので、質問を変える。
「その・・・・・・それじゃあ。これからどうするの?」
その質問にアリーシャは視線を逸らしてすぐに返事を返さなかった。その行動が、川原の抱く予想に現実味を帯びさせる。
「・・・・・・正直な話をしますと、これからどうするのか、どうなるのか。何も分かってはいません」
サファイア色の綺麗な瞳を伏せながら、胸の裡にある不安を吐露する。
エリアーナも特に何かを話す事はなく、妹を見つめながら歯を食いしばっていた。まるで無力な己を恨むかのように。
そこで川原は、一つの提案をした。
「あの・・・・・・良かったらひとまずは僕の家に来る?」
「は? 何を言ってるんだ」
反射的にエリアーナが不満そうに声を出した。
「あ、いや・・・・・・困ったときはお互い様だと思って。それに、ずっと廃墟とかにいたならあまり休めてないと思うし」
「・・・・・・そうですね。天使の力で清潔感を保つ事は可能ですが、正直、もう体力的にも限界が近いです」
アリーシャは、素直に自分の弱い部分を見せ始める。
「ですが・・・・・・ご迷惑をおかけした上に、またご迷惑になるのは・・・・・・忍びないです」
罪悪感が苛み、素直に首を縦に振ることが出来ないでいる。
「何か色々事情を抱えているみたいですし、外にいても炎天下に体力を奪われるだけですから。それに、また廃墟とかで過ごすよりは物事を考える意味でもいいと思うんですよ」
川原は、真っ先にアリーシャはの心配をするように、廃墟で過ごす二人を見ていられず、助けてあげたいと思ったのだろう。
その、献身的な姿勢を断るのも、申し訳ない気持ちにアリーシャはなってきた。
正直、二人は体力の限界が近い状態にあるのは確かで、砂漠の中にある川原というオアシスがあるなら飛び込みたい気持ちでいっぱいだった。
なので、今のアリーシャの状態を慮るのであれば、否定の声をあげるのは、エリアーナとて、やりづらいようだ。
「あの・・・・・・本当にご迷惑ではないでしょうか?」
念の為なのか、アリーシャが弱々しい声で聞いた。先ほど姉を叱りつけて体力をガバっと持って行かれた事も影響しているようだ。それが顔に出始めている。
「はい」
まるで聖母のような微笑みで、川原は首肯した。
「では・・・・・・すいません。ご迷惑をおかけします」
こうして、一人から三人が、川原家へ向かう事になった。