第1章 2
◇
約四十人を収容出来る教室に、川原颯太は一人でいた。
何をしているかというと、教科書をひたすらめくる作業をしているが、すぐに飽きて机の上に放り投げてしまう。
日差しが川原を襲い、確実に体力を削りにかかっている。
教室内のクーラーは、流石に一人の為につける許可が下りるわけも無く、腕捲りをしながら手元にあるうちわでどうにかしている状況。
歴史の教科書の中身は、やはり目にしても脳内に浸透していく様子はなく、そこにある扉が開かないような状況。
早くこの状況を打破したい気持ちから、理解しようとする努力をする部分もあるが、結局全てが無になっている。
川原は昔かこうというわけではなかった。
幼少期の頃はもっと明るい性格をしており、活発的な少年だった。
だが、ある日を境に、急に性格が今のように荒んでいってしまった。
小学校の頃別段問題なかった社会のテストで、急に点数が落ち始めたのもその辺りだ。
両親は性格の変貌とテストの成績急降下を心配して、一度脳の検査を行うが問題は無かった。
何故、こうなったのかは、自分自身も覚えておらず、分かっていない。
まるで最初から自分がこうであったかのように、昔の記憶があまりない。
だからこそ、川原は特に違和感なく、今の自分を受け入れて生きている。
ちなみに、今は案の定、歴史の補習を行っている最中である。
話は少し遡って、川原が教室に呼ばれた時まで戻る。
「なあ、川原?」
職員室の自席で頭を抱えて、悩ましそうな顔をしている歴史担当の高木。
「はい」
川原は相変わらずのそっけない態度で返した。
「もしかして、先生に私怨があったりするのか?」
「いえ」
「先生の授業で分からないことがあるのなら、なんでも聞いていいんだぞ」
「はい」
「先生にも夏休みがあってだな、家族と旅行に行く予定を立てているんだ」
「はい」
「だからなぁ、川原。先生は出来れば夏休みの補習を避けたいわけだ」
「はい」
「と、いうわけで今からこの追試を受けてくれないか。特別に赤点さえ回避出来れば夏休みの自由はお前の物。私の家族と旅行に行ける。ウィンウィンだと思わないか?」
「はい」
「だろう。分かるだろう? 川原。時間は三十分後だ。それまで教科書を見ているといい。大丈夫だ。教科書の中からしか問題は出てこないし、そんなに難しい問題は出ない」
三十分後、テストを受けたが、結果は見事に赤点で、先生は泣きそうな顔をして分かりやすく肩を落としていた。
で、今に至る。
別に川原は遊ぶ知り合いがいるわけでも部活動に所属しているわけでもないので、補習を受けてもなんら問題はない。
実際、川原が〝天使を理解する能力が欠如している〟事を学校に話せば、その辺を上手くやれたかもしれない。
だが、それが医学的に証明されている根拠がない為、川原自身が勉強を怠慢しているという見方しかされない事も事実。
先生がつきっきりで教えても糠に釘なので、まずは教科書をめくる事から始める。これなら、違う先生に監視を頼めば、高木は旅行に行くことも出来る。
ようは理解して貰えないなら諦めるしか無いという、教師側の考えも見えてくる。
どうせ教わっても理解出来ない事を、川原自身が一番理解しているので、その方がありがたかったりもするようだ。
再度、机の上に置いてある教科書に目を通すが、やはり理解出来ない様子。
ちなみに、天使が歴史に干渉してきたのは、戦国時代からだと言われており、姿が確認されなくなったのは、江戸時代の終わりと言われているようである。
「・・・・・・また滑稽にも一人で教室にいるみたいね?」
そう言いながら川原に近づく一人の少女の姿があった。
「ああ? なんだ隣かよ・・・・・・ひやかしか?」
名前は加藤燐。
身長はそんなに高くなく、百五十にギリギリ届かないくらい。
おかっぱボブなヘアーに、知的な印象を植えつける双眸。
ぷくっと膨らんだ鼻が可愛らしく、口元には川原をあざ笑うように笑みを浮かべている。
「ええ、ひやかしよ・・・・・・感謝して欲しいくらいだわ。あなたみたいな馬鹿の為にこうして監視に来てあげているんだもの」
「ふん。生徒会も暇なんだな」
「迷惑な話だわ。生徒会の激務を縫ってあなたの様子を見に来なければならないなんて」
「たださぼりに来ただけだろ」
「私だって本当はこんな所に来たくなかったわ。けど幼なじみのよしみとして、学業をさぼっているあなたの様子を見に来させられる、私に憐憫の情でも送って欲しいわ」
「ああ、はいはい。可哀想だな」
感情が入っていない棒読み。
それが加藤の怒りメーターを上げる。
「まったく。一体どうしてあなたはこんなにも変わってしまったのかしら? 昔はもっと天真爛漫で活発で可愛らしい一面があったっていうのに・・・・・・」
「俺にそんな一面あるはずがないだろう?」
川原は、性格がねじ曲がる前の記憶が無いに等しい。
だが、幼なじみの加藤は、その時を覚えている。
「それがあったのよ。どうして覚えてないのかしら?」
「さあ? 知らん。記憶に無いし」
「とにかく! 高木先生も大層困ってるのだから、早く補習を終わらせたらどうかしら?」
「んな事言われたってなぁ・・・・・・燐、お前も知ってるだろ、俺の事?」
「ええ、言わずもがな、勿論知ってるわよ」
川原が歴史で点を取れない理由を、おおむね理解しているつもりではいる。
「けど、異常はなかった。仮にそれで性格が変わったのを百歩譲るとしても、歴史だけを理解する能力が欠如するって何? そんなの聞いた事もないわ」
「さあな?」
「さあな? って何人ごとみたいに言ってるのかしら? 今の内ならなんとかなるかもしれないけど、このままじゃ進級できないわよ」
「そんときゃそんときゃだろ。仕方ないし」
「・・・・・・いつまでそんなごっこ遊びしているつもりなのかしら?」
流石の川原もその言葉に憤慨を覚えたのか、感情任せに席を立った。
「なんだよ・・・・・・ごっこ遊びって」
「そうだからどうだって言ったのよ? 悪い? 自分が歴史の勉強出来ないからってそうやって理由をつけて逃げようしているんでしょ?」
「はぁ? 何言ってんだよお前?」
「自分の出来ない事からそうやって逃げて・・・・・・本当に最悪ね」
「お前・・・・・・ほんといい加減にしろよ」
ずっと奥に押し込んでいた感情を引きずりだして、握った拳を震わせながら加藤を睨んだ。
「そんな顔も出来るんじゃない。いいわ・・・・・・なら、私と賭けをしましょう?」
「はぁ? 何の賭けだよ・・・・・・?」
「夏休み明けに再度テストがあるわよね? それで赤点を回避出来ればあなたの勝ち、出来なければ私の勝ち」
「はぁ? なんでそんな話になるんだよ?」
「あなたがそうやっていつまでも赤点ばっかり取るからよ」
「理由になってねえよ!」
「とにかく。それまできっちり勉強しておく事ね」
「はぁ? ちょっと待てよ? 何決まったみたいなってんだよ!」
「もちろん、タダでとは言わないわ」
「何?」
加藤は、右腕を前に出してすっと人差し指を一本立てて見せた。
「賭けに勝った方は、負けたほうになんでも一つ言うことを聞かせられる、でどうかしら?」
「ふん。自分は絶対に勝つという自信の表れだな」
「当然でしょう。私がこれだけ言ってもどうせあなたは赤点を回避出来ないんだから」
加藤の度重なる挑発を受けて、川原は腹を決めた。
「ああ、分かったよ。やってやるよ」
「せいぜい、あがいて見せる事ね」
「俺が勝ったら、何命令するか、考えるのが楽しみになってきたな。おい燐、本当に何でもいいんだよな?」
「え? ええ・・・・・・」
川原の放つ威圧に、優勢だった加藤が何故か押されつつある構図になった。
「まさか勝ったら私の体を・・・・・・」
そう言いながら、胸部だけは立派に育っている体を守るように自分で抱きしめる
「そうだな・・・・・・それも考えてもいいんだよな? なんでもだし」
「あんた本気で言っているのかしら? 不潔で破廉恥でスケベでどうしようもないわね」
「はぁ? お前こそ何言ってんだ? 俺が赤点回避出来ないと思ってんだろ?」
「そ、そうだけど・・・・・・こういうときの男ってリミット越えるし・・・・・・」
それは、加藤にとっても嬉しい話のはずだが、表情に気恥ずかしさが窺える。
「あ? 何か言ったか?」
「い、言ってないわ! それじゃとにかく勝負決定は決まり! 私は生徒会の仕事があるから帰るわ」
川原に背中を向ける。
「なあ・・・・・・燐」
呼び止める川原。その声はどこか弱々しい。
「何・・・・・・かしら?」
それにつられるように、加藤も声の調子を落とす。
「天使って信じるか?」
突拍子もない質問に、拍子抜けを食らった表情を浮かべてから、一度溜息を吐いた。
「あなたがそんな事を聞いてくるなんて、どういう風の吹き回しかしら?」
「別に・・・・・・いいだろ」
加藤は、呆れるように溜息を零してから、言葉を発した。
「ねえ、颯太? 天使の役割って知ってるかしら?」
「さあな? 知らん・・・・・・」
「まあ、そうよね。天使は、死者の魂を天界に持って帰る役割があるわ。輪廻転生と言って、その魂を使い、現世にまた新たな生命を産む。つまり、天使がいないと私もあなたも生まれてくる事がなかったかもしれないわ」
「・・・・・・・・・・・・」
「理解しろっていう方が無理な話よね」
「・・・・・・・・・・・・すまん」
先ほどの勢いが嘘であったかのように、どこかしおらしくなっていた。
「いいわよ。別に謝らなくても。じゃあ私戻るから」
そう言い残して、加藤は教室を出て行った。
加藤は川原を心底心配している。
性格が変貌してしまってから。
歴史の理解が乏しい事を理解しているにも関わらず、どうしてか素直になれない。
どうして私って、あんな風にしか言えないんだろう
やってる事を間違ってないとは思いつつ、己の言い方を反省していた。
たとえエッチな事をされようと、昔の川原が戻ってくるならそれでいいとさえ思っている。
焦っている証拠だ。
仮に、歴史の理解が出来るようになったとて、性格までもが変わる保証はない。
でも、今の加藤にはそうするしか方法がないと思っている。
まずは、川原が赤点を回避する一歩が踏めるか、心残りであるのは確かだ。