第61話 シナリオ8 追憶の旅・水 歌姫の憂鬱⑧
「トオル、起きて、起きて!」
「う……?」
気がついたとき俺の顔の前にはナギサの顔があった。
かすむ思考の中、徐々に今の状況を思い出してきた。視線を回りに動かす。視界の右側がぼやけている。浮遊眼がいない。大きなダメージを受けて消失したのだろう。俺は床の上に上向きで横たわっていた。頭の後ろの感触からナギサに膝枕されている。ミヨはナギサの横から俺の顔をのぞき込み、手を引っ込めるところだった。
頬が熱い気がする。ミヨ、お前俺を平手で殴って起こした?
「良かった。気が付いた。大丈夫?違和感ない?」
「おはよう。うん、違和感はない、な」
「本当に?無理してない?」
「ん……無理はしてない。大丈夫だ」
「そう?念のため、後でお医者さんに診てもらおうね」
「分かった。……そうだ、あの女は?」
俺がいるのは制御室。先ほどまで意識のあった場所だ。特に移動などはしていない。
ナギサは首を振って答えた。
「トオルを床に寝かせたらあいつら二人とも私たちを無視して扉から出て行った。それっきり。数分したら私たちが動けるようになったから、トオルを起こしたところ」
「俺、何分くらい気を失ってた?」
「10分くらい」
ミヨに手を引っ張ってもらいながらゆっくりと体を起こす。立ち眩みのような一瞬のめまいがあったが、その後はとくに何もなし。手をぐーぱーさせて腕を回したりするも、特に違和感のようなものは残っていない。
「私たちは術で麻痺状態にされて、トオルだけ何か特別なことをされたみたい」
「無詠唱で問答無用で麻痺か。強力な術だな。間違いなく、俺たちを排除する力があった。なのに何もせずに去るとは。解せないな」
「あの二人の正体も気になるけど、もっと急がないといけないことがあるの。スイッチが……」
「そうだ、制御スイッチを押されてしまったよな?」
タイミングよく、アナウンスが聞こえてきた。
『現在、劇場内注水率10%。壇上の荷物移動に注意ください。繰り返します……』
「劇場はロックされて、注水が進行中」
「解除は?」
ナギサの視線が移動したので俺もそちらに目をやる。
制御盤の前でヒジリさんとホクトの二人が表示を調べているのが見えた。
「ダメだ。壊されていて反応しない。すぐに直せそうにはない」
ヒジリさんが首を振る。
制御盤には先ほどまでなかった大きな溝が幾筋も残されていた。俺が気絶している間にあのアダマスという女がやったのだろう。
「いまから劇場に、アラタさんたちのところへ行くべきです」
「危険では?敵に遭遇すると私たちも危ない。特に先ほどの女は危険すぎる」
「だからといってここで待つのは無駄だと思います。ここを守る理由はもうありません」
「それには同意だ。だが、動くなら外の騎士団員と連絡を取ってからの方がいい。そちらとの合流を目指すべきだ」
慎重派のヒジリさんと積極派のホクトが議論していた。
個人的にはアラタを助けに行きたい。注水率10%がどれくらいかわからないが、完了すると劇場内に水が満ちるであろうことは容易に想像できる。なんとかしなければ。そうだ、もし緊急排水用の設備などがあれば、それを手動で動かせば何とかなるかもしれない。
ただ、先ほどの女たちに遭遇する可能性もある。どうするか……
そう思っていると、足音が聞こえてきた。
関係者用通路から複数人がこちらに向かってくる。
そちらに視界を向けると、接近しているのは顔見知りだと分かった。
召喚獣を呼んだヒジリさんとホクトに敵ではないことを告げ、扉が開くのを待つ。
関係者用通路から顔を出したのは、ポックルさんとリュミスさん、そして昨日アラタがお店で話していた少年。
「トオルちゃん。ようやっと見つけたで」
「どうしてここに?」
「私の召喚獣のこと、お忘れですか?この方を連れて、ここにやってくることが一番の解決策だという結果が出ましたの」
リュミスさんが手に持ったカードをヒラヒラさせた。
「いやー、劇場の外を自警団が封鎖してん。中から外に出るのはかまへんのに、外から中には入れさせんゆーて。難儀したで」
「何やらいざこざが起きていましたわ。入ろうとする一団と入れさせまいとする一団が押し問答。私たちは隙をついて侵入しました。ポックルもこういう時は役に立つものですわね」
「いやー。褒められると照れるわぁ」
ポックルさんは着ていた外套を転がっている椅子に掛けて一息ついている。
一方のリュミスさんは壁に大穴が開いて物が散乱し、傷だらけの部屋の様子を見て呆れているようだ。
「ひどい有様ですわね。この部屋で暴れ熊でも出ましたの?」
「まぁ、そんな感じです。それより、この子は?」
少年に視線を移す。
少年はヒジリさんに向かって訴え始めた。
「あんた、近衛騎士なんだろ?偉いんだろ?助けてくれよ」
事情を知っているようなので、とりあえず落ち着かせて話を聞くことにした。
少年の名前はリッツ。ローレライの歌姫の弟ということだった。
ここでいう歌姫は、実際の歌を歌っている方。
昨晩、お店の水槽の中でうたっていた女性の方だ。名前をリーナというらしい。
一方、今日、劇場で人魚姫を演じていた女性はジェシカ。
表向きはジェシカが歌姫として劇団に所属している。
ジェシカには秘密があった。
劇団ローレライの歌姫になる女性は、召喚獣がセイレーンでなければならない。
しかし、彼女の召喚獣はセイレーンではなかった。もともとジェシカは歌姫になるはずではなかったのだ。
当代の歌姫になるべき人物。召喚獣セイレーンを所持する女性・リーナは、とても歌姫になれるような人物ではなかった。演技は下手だし、容姿は十人並み(最大限の配慮をした上での表現)。なにより、やる気がない。ただ、歌だけは抜群に上手かった。それこそ、歴代歌姫でも最高といえるくらいに。
劇団をまとめる団長は考えた。
リーナを歌姫に据えることは難しい。かといってジェシカを歌姫に据えても伝統が失われる。であれば、演技、容姿ともに優れたジェシカを表向き歌姫ということにして、召喚獣と歌唱部分のみをリーナが担当すればよい。リーナとリッツは身寄りのない姉弟で、団長が保護者。幸い、歌姫は常時仮面をつけることになっている。歌唱の有無はごまかすことができる、と。
この秘密を知っているのは団長・ジェシカ・リーナ・リッツの4人。
4人が墓場まで持っていく秘密のはずだった。
「昨日、あんたらのお仲間はこのことを知ってた。その上で、俺に、団長との面会をセッティングするようにお願いしてきたときは驚いたよ。悪いようにはしないって言ってたじゃないか。団長は今日の夜には面会に応じるつもりだったんだ。なのに、ヨルドと組んで劇場を占拠するなんて……頼む。助けてくれ。ジェシカさんを助けてください……」
「ちょっとまて。誤解だ。我々はヨルドという人とは無関係だ。そもそもそのヨルドとは何者なんだ?」
ヒジリさんがリッツに確認を入れた。
「町長の息子。ジェシカさんにちょっかいかけてくる下衆だよ!知らないの!?」
「知らない。聞いたこともない」
ヒジリさんの言葉に少年は固まった。




