菓子菓子パニック(下)
「アンタローっ!」
住宅街とは遠い街の裏側は人通りが少ないので、私は思い切り声を出せた。
「……? おかしい、風はもう……止んでいるはずなのに……上空の方は……違うのか?」
マグは息も切らさず、冷静に走っている。
アンタロー風船は、ぐんぐんと上昇しながら、崖のある方へと行こうとしていた。
「そんなことどうでもいいだろ!! くそっ、間に合うか!?」
「あ、あんな、たかい、とこから、おちたら、しんじゃうよ…!」
私の言葉に反応して、ユウはぐんとスピードを上げた。
私はもう全然二人に追い付けずに、涙目になりながら空を見上げるばかりで、なんとか倒れないように走って、ぜーぜーと呼吸をするのが精一杯だ。
くそー、リアルだったら、小学生の頃の50メートル走の記録は7秒9だったのに…!
ザザザアッ!
私のはるか前方で、ユウが足にブレーキをかける。
崖のギリギリ手前で止まった。
ちょうど、アンタローの真下の位置だ。
「アンタロー、ここだ、降りて来い!!」
ユウは両手を広げてアンタローに呼び掛けている。
マグもいきなり急ブレーキをかけてこっちを見てきた。
「ツナ!? 上じゃなく……っちゃんと、前を見―――」
「うぶっ!?」
いきなりバサっと目の前がふさがった。
なになになに!?
あ、痛い、葉っぱだ!
茂みに突っ込んじゃった!?
「ツナッ!!!」
今までに聞いたことのないようなマグの焦り声がしたと同時、私の足はそのまま、たたらを踏むように茂みを抜けて。
そして、地面の感触がなくなった。
「あれ…?」
タワーとかの展望台とかにある、物凄く速いエレベーターに乗ったような浮遊感。
上に上がる方じゃなくて、下に降りる方の。
崖際に茂みがあるなんて、なんて不運なんだろう。
などと妙に冷静に考えながら、耳はドサッという音をとらえた。
なんだろうと思うと、次の瞬間にはマグに抱きかかえられている。
あ、そうか、マグが持っていた荷物を放り捨てた音なのか。
それで私が今、荷物で。
「―――ツナ、幸せにな」
びっくりするくらい耳元でマグの声がした。
次の瞬間には、私は空へと放り投げられている。
ザザアッと、先ほどまで居た地面に叩きつけられるように、背中から着地した。
「……けほっ!」
「ツナ!?」
驚いたようなユウの声がしたが、私はユウの方を見る余裕がなかった。
今、自分が落ちたはずの崖を、上から覗き込む。
この崖は、4階建てのマンションくらいの高さだったらしい。
下で寝転がっているマグが、まさにそのくらいの距離にいる。
そのくらいの距離なので、マグの表情は見えない。
見えたのは、倒れたマグの下から、じわじわと広がっていく、血の色。
下の大地は、木など一つもない、岩盤だけ。
「………は?」
ユウの声は、私のすぐ隣から聞こえて、しかし最初は、私が「は?」と言ったのかと思った。
それくらい、急激に何もかもが分からなくなっていた。
<・・・・・パラ・・・・・>
「まずい、あっちは……崖が多い……!」
「―――…っ!!」
走っていたはずの私の足は急に止まり、茫然とその場に立ち尽くす。
「っ、はあっ、は、はあ……っ!!」
走って疲れたという理由以外で、息が荒い。
ぎゅっと目をつむって、心臓を抑えた。
落ち着け、落ち着け、大丈夫大丈夫、ページは戻った! あれは不正解だった! マグは無事だった!!
本当に怖い!!
ページが戻るまで、不正解かどうかわからないなんて、拷問だ!!
「ツナ!? ユウ……っ先に行ってろ!」
またマグが私の変調に一番に気づいて、引き返してきた。
ユウは一瞬だけこちらを振り向くと、ほんの少しの逡巡を見せた後、「わかった!」と言って駆けていく。
「ツナ、むしろここまで……よく走った……!」
マグは即座に荷物を捨てて、私を抱き上げ、ユウを追う。
「マグ、マグ……っ!!」
私は必死にマグにしがみついて、ぼろぼろと流れる涙が抑えきれない。
「大丈夫だ、アンタローは……ユウが助ける……!」
そういうことじゃないのに、マグが喋るだけで嬉しくて嬉しくて、私は何度も何度も泣きながら頷いた。
「アンタロー、ここだ、降りて来い!!」
ユウが崖の端で両手を広げているのが、遠目に見えた。
マグはその様子に安心したのか、私の負担を軽くするため、少しだけ走るスピードを抑えた。
「……? 妙だ、アンタロー……まるで自分では……動けないような……?」
マグの言葉に、ユウたちの方に目を向ける。
確かに、これで終わるかに見えた追走撃は、そこからまるで動きを見せない。
「くそっ、アンタロー!」
ユウの焦るような苛立ち声が近くなる。
マグはあと少しでユウと合流できるというところまできたが、アンタローはユウの手が届かない10メートルくらい上空で、少しずつ崖向こうへと流されていた。
その時、涙で濡れた私の視界の端に、一瞬だけ、キラリと一条の光がよぎったように見えた。
「…?」
見間違いかと思った瞬間、アンタローの口から出ていたフーセンガムが、パチンと割れる。
「ぷぃいいいいいっ!!?」
アンタローが、はるか上空から、ひゅーんと落下していく。
私もマグも息を飲んだ。まだまだ追いつけてもいない距離だ。
するといきなり、ユウがこちらを振り向いた。
今まで見たことがないような、ものすごく晴れやかな笑顔だった。
「…じゃあな、マグ、ツナ! 一緒の旅さ、すっげー楽しかったよ!! 俺さ、世界一幸せだった!! 全然悔いはねーや! じゃ、行ってくる!!」
ダンッ!!
私とマグが言葉の意味を理解する前に、ユウが地面を思いきり蹴って、崖からダイブした。
ちょうど、ユウの目の前を過ぎようとしていたアンタローをキャッチし、そのまま下に消える。
「「ユウ!!?」」
私とマグの叫びの後、下から、ぽとん、コロコロと、アンタローが放り投げられてきた。
ドサッ!
そして私も、いきなりその場に落とされた。
「……ツナは……、……見るな」
「マグ…っ!」
全然余裕のない真っ青な顔で、マグは私を置いて、ゆっくりと崖の下を覗きに行く。
「…………」
そこから、マグが喋ることはなかった。
ただ、口が小さく動いて、「バカが…」と、声にならない声を、ぽとりと落とした。
……これは、何なんだろう?
さっきまで一緒にお菓子を食べて笑ってたのに。
悪意を持った誰かがやっているようにしか思えない。
でも、もう何も考えられない。
私の中に、喪失感だけしか残ってない。
ダメだ、ダメだ、と何度も頭の中で繰り返し、そのうち何がダメだったのか、なんでダメだったのかもわからなくなってきた。
<・・・・・パラ・・・・・>
「まずい、あっちは……崖が多い……!」
私は、どっと膝から崩れ落ちた。
そのまま倒れ込むと、帽子が脱げて転がる。
足が馬鹿みたいに震えて、全然力が入らない。
「ツナっ!?」
「ふたりとも…っ、さきに、いってて!!!」
悲鳴のような声を振り絞る。
はあはあと息が荒いまま、私は地面の一点だけを見つめているようで何も見ていなかった。
しばらくのためらいの後、マグの声がした。
「くそ……すぐに……戻ってくるからな……!」
足音が遠くなる。
私の息は、全然整う気配を見せない。
くそっ
くっそおおおおおおおおおおお!!!
もう、自力で、この精神状態を、治すしかない!!!!!
だいたい私は漫画とかである、衝撃的なシーンにヒロインが気絶するシーンとか大嫌いなんだよ!!!!
でも今ならちょっとわかってしまう、それがすごく嫌だ!!
くそが、やってやる……!!!
何かを喋ろうとするたびに、息が荒くなり、涙がボロボロと零れる。
私がこんなことをしている間に、ユウとマグはあと何回崖から落ちればいいのだろう?
ダメだダメだ!!
気分転換気分転換、気分転換!!
なんでもいいから、気分転換!!
呪文のように頭の中でそればっかりを唱えて、スーッと、大きく息を吸った。
「もーも、たろさん、ももたろさん!!」
声は裏返っているし、掠れているし、音も外れていた。
「おっこしーに、つーっけたっ、きーび、だーんご!!!」
っく、と、時々しゃっくりのような無様な声が漏れてくる。
「ひーっとつ、わーたしーに、くーださい、な!!!」
げほっ、と咳も出た。
「あーげ、ましょう、あーげましょう!!」
よろっと立ち上がる。
まだ足は震えていた。
「こーれから、おーにの、せーいばっつに!」
ゆっくりと指を組み、目を閉じる。
「つーいて、くーるなーら、あーげましょう!!」
思い切り、息を吸ってーー……。
吐いてーー……。
…切り替えろ、切り替えろ、と、頭の中で呪文を続ける。
倒れるわけにはいかないから、魔力は節約モードで。
本当に、ぎりぎりまで、そぎ落とした、部分だけを、見なきゃ。
「このシーンの、原文……出て来い!!」
<つづく>