ルエリアの話
少女は気が付けば、笹林の中にある、小さな小屋に住んで居た。
気が付けば、というよりも、物心ついたときには、と言った方が正しいだろう。
何故こうなったのか、自分は誰なのか、自我が芽生えるにつれて、疑問に思うことは増えていく。
毎日毎日、食べ物を求めて笹林を彷徨い歩く。
遠くまで行って、木の実を得ることができる日もあれば、何も得られない日もあった。
くたくたになって小屋に帰ると、潤沢な食糧がテーブルに用意されている。
金色をしたリンゴなんて、一番の好物となった。
それが少女の世界の仕組みであり、不思議に思う余地すらなかった。
年を経るにつれて、行動範囲が少しずつ増えていく。
近くに、自分以外の生き物が密集する、集落があることがわかった。
「おい、エルフだ!」
「ほんとだ、やっちまえー!」
「ナガミミ、ここは人間のテリトリーだぞ!」
何の気なしに村に足を踏み入れると、そういった言葉とともに、子供たちが面白がって石を投げてくる。
ナガミミエルフというものが、自分の個体名なのだと思った。
投げられた石は痛かったので、それからは遠くから村を見守ることに時間を費やしていく。
あの生き物たちと違って、自分は耳が長く、遠くの音まで拾うことができる…と、本能の部分で理解をする。
遠くから聞き耳を立てて、言語というものを少しずつ習得していった。
何故か、他の生き物たちは、この笹林に絶対に近づいてこない。
安全な日々を過ごし、少女はすくすくと成長していった。
ある日、その日々は終わりを告げる。
明らかに村の者とは違う、目つきの悪い男が三人、自分一人くらいすっぽりと入ってしまいそうな麻袋を構え、下卑た笑みを浮かべながら取り囲んできた。
攫われる…。
そう思って笹林を逃げるのだが、人数差を利用されて、追い込まれてしまった。
絶体絶命だと思った瞬間、目の前に雷が落ちてきた。
三人の男は黒焦げになって息絶え、その前には、美しい黒髪の男が立っていた。
夜を塗りこめたかのようなマント。
金色の目が振り向く。
「やあ、無事かい?」
少女は、ただ頷いた。
その男は無遠慮な視線で、少女をじろじろと、頭のてっぺんからつま先まで見てくる。
「何もされてはいないようだな、安心したぜ。ああ、怖がらなくてもいい。ぼくはルエリア」
「ルエ…リア。これは、ナガミミエルフ」
その時、少女は初めて会話というものをした。
しかし、ルエリアはそれを聞いて噴き出す。
「あっはは! それが個体名だとでも思っているのかい? 馬鹿を言っちゃいけない。そうだな、ぼくが名前を付けてやるよ。お前は、ササ。笹林で育ったから、ササだ」
「ササ…」
「やれやれ、美しく育つのも考え物だな。一体どこからエルフの情報が漏れたのやら…。また村人の死体でも2、3晒して、遠ざける必要があるか」
ぶつぶつと考え込み始めたルエリアを見て、ササは焦りを覚えた。
このまま、どこかへ行ってしまうのだろうか。
そうなると、自分はまた一人になってしまう。
あんな怖い思いを、またすることになるかもしれない。
「ルエリア」
ササはルエリアの名を呼び、彼の手を掴んだ。
ルエリアは少し驚いた顔をしてササを見る。
「ああ…そうだな、今日のようなことがまたあってはいけない。落ち着くまで、しばらくは一緒に居てやるよ」
その日から、ササはルエリアに夢中になった。
名を呼べば振り返ってくれる。
早く声を聞き慣れたい欲求が溢れてくる。
おかしなことに、ルエリアは、ササの住む小屋のことをよく知っているようだった。
勝手知ったる他人の家とばかりに、特に不自由なく過ごしては、ふらりとどこかへ出かけて帰ってくる。
ササは、植物が水を吸収するかのように生き生きと、急速に言葉や知識を蓄えていく。
だが、培ってきたその知識が、そろそろルエリアと別れの時が近いと告げていた。
ひと月ほどの共同生活を送った時、ルエリアは、小屋の扉に手をかけた。
「さて、そろそろ頃合いだな。ササ、この笹林への闖入者は、また数十年は現れないと思ってくれていい。ぼくはそろそろ行くよ」
「ルエリア…。ルエリアは、ササと別れても平気?」
「…へえ。面白い聞き方をするね? 平気ではないのは、一体どちらなのか…聞いてみたくなってくるなァ?」
牙を見せ、意地の悪い顔をして笑うルエリアに、ササはしがみついた。
するとルエリアは、おかしくてたまらないとばかりに笑い始める。
「…はははっ、あっはははは!! エルフが魔族に情を移しただって!? なるほどね。やはりぼくの研究は正しかった。生理的嫌悪というものは、どうやら先天的なものではないらしい。ゴキブリと一緒さ。寒冷地に生きる者は、あの生き物を知らない。知らない者が見ても、嫌悪する対象かどうかすらわからないから、平気だ…ということらしい。エルフの情も、それと同じなんだろう。ササ、君は人間寄りに育った。ぼくの予測通りだ。こうなると、世の中の血筋制度のすべてが怪しくなってくるな。高貴な血筋など、どこにも存在しないということになる…」
「そんなことはどうだっていい! ルエリアは、ササと一緒に居たくないの?」
同じ質問を重ねるエルフの額に、ルエリアは口づけをする。
「安心しろよ、骨の髄まで愛してやるよ。そして、西風に掻きまわされる薄雲の美しさにかけて誓おう。この愛を、お前に連なる者にだけ捧げて生きることを」
魔族はいつものように、息をするように愛を囁く。
ササはルエリアで満たされた。
ある日、ルエリアは満面の笑顔を浮かべて、ササを見る。
「やあ、ササ。随分とお腹が大きくなったものだね? そんな君に、今日はぼくからのプレゼントがあるんだ」
「…?」
改まったような物言いに、ササは首を傾げた。
「ねえ、ササ。君は考えたことがあるかい? どうして自分は、こんな笹林の寂しい小屋で暮らしているのだろうか、と。どうして自分は一人ぼっちなのだろうか、と」
「今は一人じゃないわ…?」
「ああ、そうだ。君にはぼくが居るからね。けれど、…実はすべて、ぼくの仕業なんだ」
ルエリアは、くすくすと笑い声をあげながら、言葉を続ける。
「ササ。君はエルフの族長の大事な大事な一人娘だった。それを、研究のために、ぼくが攫って来たんだ。この笹林は呪われているという噂を流し、人間たちを遠ざけ、君が育つための実験場にした。君はただの実験動物。君の人生を狂わせたのは、ぼくだったのさ!」
「……」
「そして、君の人生はそろそろ終わりを迎えようとしている。魔族とエルフのハーフだって? そんな強大な魔力を有した存在を産みおとして、母体が無事でいられる可能性は極めて低い。ササ、君はぼくに隅々までいいようにされて、命を落とすんだ。どうだい、ステキな絶望だろう?」
「……ルエリア。どうして、それを今になって、話したの…?」
「君に絶望をプレゼントしたかったからさ。前に話しただろう、魔族は愛する者を、酷く傷つけて突き放したくなるものだ、と。生物というものは、出産期には精神的に不安定になるものだ。君に真実を告げるのは、今が絶好の機会だったのさ。そして、君の憎しみはぼくのものになる。君がここからどう動くかも、すべて研究対象だ。自害をするか、ぼくを殺しに来るか。安心しなよ、余すところなく利用してやるからさ」
「憎しみ……」
ササはしばらく考え込み、大きくなったお腹を撫でる。
「ルエリア…。ササが今感じているのは、憎しみじゃないわ」
「……なんだって?」
「哀れみよ。可哀想なルエリア。ルエリアはそうまでして、ササを愛することを恐れるのね。今、ササがルエリアを選んだとしても、ルエリアはこういった逃げ道を用意している。『ササには他に行き場がないから、自分を選ぶしかない』と。ルエリアはまず、ササをエルフという種族の里に返すべきだったのよ。そうしてくれたら、ササはルエリアをきちんと選べたのに」
「……は、」
「ルエリアは、魔族ではなく、ルエリアとしてササに接した。その時からササにとって、ルエリアが魔族だということは、言い訳でしかないのよ。種族による愛を盾にしないで。ルエリアが、ルエリアという一個体として、ササに真実をプレゼントしたかったのだと、きちんとそう言って? それだけで、ササはルエリアを受け入れられるのだから。ササには今、ルエリアが何かを怖がっているようにしか見えない」
「はははっ…! 面白いな、随分と小賢しく育ったものだ」
「ルエリア、ササはルエリアとの子を産むわ。そして、この子がササの手を必要としなくなるまで、生きて見せるわ。ルエリア、あなたの人生も、これで狂ってしまうわね? それで、お互い様よ。さあ、ルエリア、あなたはササを、強いと評するかしら。生意気と評するかしら。どちらにしても、ササがはこう告げるわ。『あなたのおかげで、そう育ったのよ』とね」
「………」
ルエリアの表情から、笑いが失せた。
ふらりと小屋を出て行く。
ササは、何も言わなかった。
もう戻ってこないかもしれないと、そう覚悟はしておいた。
やがて、ルエリアは戻ってきた。
一本の花を携えて。
「ハイドランジア…だ」
「…?」
ササは、差し出された花を受け取る。
「愛らしい手毬花だろう? お腹の子の名前にふさわしいと思ってね」
「ルエリア…」
「ササ…生きてくれ…。君を失いたくない…」
ササは、静かに、ルエリアを抱きしめ返した。
ササは、赤子の授乳期が終わるまで、生き延びた。
最期まで、笑顔だった。
「ササ、つらかっただろう。ここまで生き延びてくれるなんてね…。実に興味深い。ひょっとしたらこの世界は、強い願いなら必ず叶うようにできているのかもしれないな」
ルエリアは赤子を抱いて、ベッドに横たわる、婚姻を結んだ妻でも何でもない、ただの他人の顔を見る。
「ササ…。皮肉な話だ。生物の時を止めるのは至難の業だが、今こうしてただの肉の塊になった君になら、時を止める魔法を難なくかけられる。時々、こっそりと会いに来るよ。ハイドに君の存在を知られるわけにはいかないからな、そう頻繁には来られはしないが…」
ルエリアは一度、腕の中で眠る赤子の頭を撫でた。
「…さて、実はこれからどうするかは決めているんだ。まずは君に石を投げつけた、あの集落を滅ぼしに行くよ。もちろん、ただの腹いせだ。君の人生は、じっくりと研究させて貰っていたからね、すべてぼくの記憶のうちにある。この世で君を最も知る人物は、ぼくだ。同時に、ぼくを最も知る人物も君だったというのは、皮肉なことだけれど。君と過ごしたのは、たった数年の出来事だったのにね。ああ、でも、このカオスは嫌いじゃない。ぼくはこれからも、君がくれたカオスを抱いて生きていこう」
ルエリアは最後に、ササの頬にキスをした。
「ただ、もう…。ぼくはもう一度、このカオスを失うことには耐えられないだろう。何とかハイドよりも先に死ぬ術を考え抜かないといけないな。そのためにも、まずは魔石を大量に手に入れる方法から手を付けないとなァ。ああ、その時が楽しみだ……。もし、ぼくが神のように俯瞰した視点を持てていたならば、今この瞬間を、こう書き記すだろうな。『ここから、すべてが始まった』―――と……」




