青年期 4
護衛を振り切り、道を外れた二人は、森の中をゆっくり馬に跨り進んでいた。
前回会った時に、『どうしても二人っきりで行きたい場所があるんです。』と言われ、今日の逃走となったのだが・・・
「簡単でしたね。」
先を行くブライアンに、思わず言ってしまうほど簡単だった。
「ん?何がですか?」
「護衛の人達を振り切るのが、です。」
「急に走り出したので、驚いたのでしょう。」
前を進むブライアンの顔を見る事は出来ないが、特に気にしている様子は感じられない。
しかしエレノアは、そんな姿に首を傾げていた。護衛が護衛対象を見失って良いのだろうか?しかもこんなにもあっさりと・・・
「怒らないのですか?」
「怒る? 何故ですか??」
『何故?』なんて言葉が返ってくるとは思っておらず、もしかして、自分の考えが間違っているのだろうかと、少し不安になる。
「護衛対象に簡単に逃げられたので?」
「何故、私が怒るのです?」
ブライアンは彼等の上司のはず・・・
彼が怒らないで、誰が怒るのだろう?
「え?部下なんですよね?」
「・・・・ああ、そうですよね。大丈夫です。彼等には後日特別訓練を受けさせるつもりですから。」
ブライアンの声が動揺している気がするが、ブライアンがそう言うのなら、そうなのだろうと、微かな違和感を感じながらも、その時はそれ以上深くは考える事無く、心地良い草木の香りを胸いっぱいに吸い込み、森の景色に目を向けているうちに、気にならなくなっていた。
二人は静かな森の中をゆったりと、馬の背に揺られて進む。
鳥達の鳴き声、草木が風で揺れる音、ゆったりと吹き抜ける柔らかな風。
それらに包まれながら、たどり着いたのは、不思議な場所だった。
「ここは・・・。」
先程まで見渡す限り草木や苔の生い茂る森だったはずなのに、突然 草木が避けているかの様に、木の一本どころか草の一本すら生えていない場所。
そこにあるのは、丸くつるりとした無数の砂利と、その中心に広がる青く澄んだ大きな泉。
地下から水が湧き出しているのだろう、流れ入る川は見当たらず、その底からは、時折ポコリと空気の泡が上って来ている。
その水は何処までも澄んでいて、青が濃く、深い泉の底にあるはずの石までもが、はっきりと見えた。
「・・・ここは?」
出てきた声は吐息交じりの、掠れた小さな声だった。
一言で言うなら、美しい。
しかし、一言で言い表すには勿体無いほど、幻想的で神聖な場所。
「ここは、この国でも限られた者しか入る事が出来ない場所なんですよ。だからほら・・」
そう言いながら、ブライアンは先程馬から降りた場所に視線を向ける。それにつられてエレノアも振り返れば、乗ってきた馬達が、手綱を木に繋いでいるわけでも無いのに、森と砂利との境界線の前で足踏みをしていて、それ以上こちらに来る気配が無い。
「入って来ない。」
「何故、その様な場所に?」
ブライアンは、エレノアの疑問には答えず、ニッコリと笑うと、そっとエレノアの手を取り歩き出す。
大きくてゴツゴツとしていて、優しく温かく、包み込んでくれるブライアンの手。今まで、段差や馬車から降りる時など、一瞬、そっと触れる事しか無かった手が、今はしっかりと力強くエレノアの手を握り込んでいる。
「あの・・・手・・。」
手を握られているだけ・・・それなのに、エレノアの心臓は痛いほどに激しく鳴り響き、必死に絞り出した声は、小さくかすれていた。
それでも、ブライアンには聞こえたのだろう。チラリと振り返り小さく笑っていた。しかし、何か言うでも無く先を急ぐ様にエレノアの手を引き歩いていく。
多分、ブライアンの目には、顔を真っ赤に染めたエレノアの姿が映っていたはずだ。
ジャリ ジャリ ジャリ ジャリ
砂利を踏む一定のリズムと、風に揺れる木々の葉音。そして、時折聞こえる鳥達の鳴き声。
普段であれば、無意識に感じているはずの、メイドや護衛の気配は無い。
本当に二人っきり・・・
普段であれば、皮肉を込めた物言いをしつつ、この場を茶化す事が出来たのに、今は何の言葉も出て来ず、ただ手を引かれたまま泉の方へと歩き続けた。
そうして水際まで来ると、ブライアンはようやくエレノアの手を放し・・・ゆっくりと・・・・上着のジャケットを脱ぎ・・・・
「え?」
続いて乗馬用のブーツを脱ぎ・・・ジャケットの下に着ていたシャツに手を・・・
「ちょっと待ってください、何をしているのですか!!!」
先程まで、手を繋いで歩く事すら無かった相手が、突然服を脱ぎ出したのだから、思わず声を張り上げてしまうのは、当然の事だ。
それなのに、ブライアンは何故そんな事を聞くのか、分からないとばかりにキョトンとした顔をしている。
「服を脱いでいますが?」
「それは、見れば分かります。そうでは無くて、何故脱いでいるの!」
「そのまま入ると、服が濡れてしまいます。」
「泉に入るつもり?」
「はい。だって、ほら。」
そう言って、ブライアンは泉の底を指差した。
その先に視線を向けてみれば、何処までも澄んだ泉があるだけで、特に何も見当たら・・・・
それは、泉の中心にある、澄んだ濃い青色をした、泉の一番深い場所・・・
そこには、小さな花畑があった。
「嘘・・・何故あんな所に・・?」
水中だというのに、その花々は、野原に咲いているかの様に凛と咲き誇っている。
しかし、今まで水中に咲く花など聞いた事も、見た事も無い。あれは本当に咲いているのだろうかと、膝をつき、身を乗り出して目を凝らし、泉の底を覗き込んでいると、エレノアの横からパシャンという大きな水音が響いた。慌てて、音のする方を見てみれば、そこには・・・
「筋肉・・・。」
・・・では無く、泉の底へと潜っていく、ブライアンの姿があった。
下は膝上までの男性用の下着一枚。そして上は・・・
スラリとした身体に鍛え上げられた筋肉、日々の鍛錬の為か、適度に日焼けをした張りのある肌・・・つまりは裸である。
異性の裸など数えるほどしか見た事が無い。しかも、その数回も父と兄だけ、身内以外の異性の裸は産まれて初めてで、気恥ずかしさのあまり逃げ出したい衝動に駆られたが、今はそれどころでは無い。
一見すると、それほど深そうには見えないが、ブライアンの潜ってゆく姿を見れば、相当な深さだと分かる。それに、ブライアンが水中へと飛び込んだ時に飛び散った水は、氷の様に冷たく、泳げているのが不思議なほどだった。
「何を考えているの!!ブライアン!!」
何時もの言葉使いも、澄ました様な態度も投げ捨てて全力で叫ぶ。しかし、水中にいるブライアンには聞こえていないのだろう。振り返る事無くどんどん深く潜っていく。
「ブライアン!!ブライアン!!」
声の限り叫んでみても、ブライアンは深く潜って行く。
ブライアンが潜るのを止めたのは、泉の一番深い場所、小さな花畑の中。
「もしかして・・・。」
ブライアンは出発前に言っていた。『その花を贈られた相手は、幸せになれる。』
「まさか、あの花がハルデス?・・・あの花を取るために・・?」
それだけの為に、こんな冷たい水の中へと潜って行ったというのだろうか。
驚きと、戸惑いと、不安と・・・怒りで、身体が震える。
「馬鹿!」
聞こえないと分かっていても、怒鳴らずにはいられず。怒鳴りながらも、エレノアは立ち上がり、森と泉の境界線で待っている馬の元まで駆け寄り、ピクニック用にと積んでいたブランケットを掴んで、水際へと駈けもどった。
何度も砂利に足を取られ、転びそうになりながら戻って来た水際には・・・
「筋肉・・・。」
では無く、ブライアンが水の中からゆっくりと現れていた。
光を浴び、水をしたたらせながら、美しい泉から現れた姿は・・・・一瞬 男神の化身の様であった。
・・・一瞬・・・本当に一瞬だけだったが・・・
現実のブライアンは顔色が悪く、ガタガタと歯を鳴らし、自分の身体を抱きしめながら荒い息をしている。刺す様に冷たい水に潜れば、当然そうなるだろう。
エレノアは慌てて、ブライアンの身体をブランケットで包むと、お腹に力を入れ思いっきり怒鳴った。
「何やっているの!!死んだらどうするつもり!!」
静かだった森の中で、突然響いた怒鳴り声に鳥達は驚き、抗議の鳴き声を上げながら慌ただしく飛び立って行く。
そして怒鳴ったはずのエレノアの目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「私を心配してくれるのですか?」
ブライアンは、一瞬目を見開き驚いていたものの、その目はゆっくりと弧を描き、嬉しそうに緩んでいく。
「当たり前でしょう。だってブライアンは・・・・。」
散々心配をかけさせられたのに、嬉しそうな顔をして、エレノアの言葉の続きを待っているブライアンに、無性に腹が立ち、エレノアは途中で口を閉ざした。
「私が何ですか?」
「・・・何でも無いです。」
自分が何と言おうとしていたのか・・・・それを思うと恥ずかしいのと同時に、無謀な事をして、心配をかけられたにも関わらず、自分の口から出ようとしていた言葉が、怒りの言葉では無く、どれほどブライアンを大事に思っているか、という言葉だった事が悔しくて、顔を背けた。
「言ってくれないのですか?」
微かな笑いを含みながらも、残念そうなブライアンの声と共に、冷たく氷の様な手がエレノアの頬にそっと触れ、撫でる様に滑り、そっと離れていった。
その冷たさに全身が震え、それ以上に身体が熱くなり、心臓の音が大きく早くなるのをはっきりと聞いた。
「良いですよ言わなくても。ただ、この花を受け取ってもらえませんか?」
そう言ってブライアンは、ブランケットの隙間から、そろそろと花を一輪 差し出した。
ガラス細工の様に透明な茎と葉に、泉の青を吸ったかの様に、透き通った青い花びらが幾重にも重なった、大輪の花。
それは、息をするのも忘れてしまいそうなほど美しい花だった
「綺麗・・・。」
そっと手を伸ばし、花を受け取ろうとするエレノアの手をブライアンの冷たく、大きな手が包み込む。
「エレノア・・・この花は、私の一族が代々自分の妻となる人へ、自分の手で手折り贈る花です。ですから・・・どうか・・・どうか、この花を受け取り、私の妻となってくれませんか?」
その声は、何時もより、固く、低く、微かに震えている。
「はい・・。」
気付けば、ほとんど反射的に答えていた。
それは、うっかりとか、考え無しの事では無い。
そう答える事が当然であり、ブライアンからの求婚を断る事など、一欠片も思いつかなかった。
「本当に?後から撤回しても遅いのですよ。」
「分かっています・・・撤回する気は・・・ありません。」
自分の顔に、熱が集中し、頬が赤く染まっていくのが分かる。
恥ずかしい・・・しかし、それ以上に嬉しい。
そんな思いが身体中に溢れ、自然と視界がぼやけていく中で、ブライアンの持つ花にそっと触れ、受け取った。
確かに花は美しい。しかしそれ以上に、これから自分の夫となるブライアンの顔を見ていたかった・・・
かった・・・・かった・・???
ブライアンの顔がニヤリと不敵に笑って見えるのは、気のせいだろうか?
「捕まえた。やっと、捕まえた。もう逃さないからな。」
見た目は、先程までと変わらずブライアンだ。しかし、その姿が悪魔の様に見えるのは気のせいだろうか?
「あの・・・えっと、ブライアン様?」
「ん?何だ? さっきブライアンと呼んでくれただろう?結婚式はまだだが、エレノアは、もう俺の妻なのだから、ブライアンと呼んでくれ。」
・・・・何時も皮肉を言っていても、丁寧な口調を崩さなかったはずのブライアン・・・
「あー寒い。」
そう言って、ブライアンはブランケットの前を開くと、そのままエレノアを抱き込んだ。
・・・何時も紳士的で、軽くエスコートする事はあっても、今日まで手を繋ぐ事すらしなかったブライアン・・・
「おぉ、ちゃんと付いてるな。」
そう言って、花を持つエレノアの手を、ブライアンがそっと掴み、ゆっくりと撫でる。
気づけば持っていたはずの花は消え去り、薬指の付け根部分に、あの花によく似た青い花の模様が浮かんでいる。ブライアンは、その部分を自分の口元へと近づけ、そっと唇を落とした。
・・・何時も、清廉潔白な雰囲気を纏い、爽やかな色気はあっても、今にも捕食しそうな濃厚な色気は持っていなかったブライアン・・・・
「えっと・・・どちら様ですか?」
「エレノアの夫様だ。」
自信満々で堂々とした、多分夫の声が森の中をこだましていた。