ギヤマン細工の鍵盤に想いを寄せて
──もしかしたら、なんて想いを何時だって抱いていた。
それ程に、ふたりでその目に映していた光景は美しかった。何時だって、どんな物だって。それはそれは、美しく見えていたのだ。
だから、目を背け続けた。もっとふたりで、この景色を目に映していたかったからと、見ない振りを続けていた。そんなことは不可能であり、何時か大きな代償を支払うことになると薄々分かっていたというのに。
それは蛍火のように可憐で、雪華のように儚いものなのだと。陽炎の花。──夢、幻のもの。何時かは失くすと気付いていたのに。永遠なんてものは有り得ないし、御伽噺のように都合の良いお終いはそうそう転がってはいないし、自ら掴みに行くとしてもそれはそう容易いことではない。そして、泣こうが叫ぼうが、喚こうが終わりは至極当然の顔をして、何時だって平等に、皆に必ず訪れる。
そうして、そういうものの大体はギヤマンが砕けて、最早元に戻ることのないもののようなことだ。
例え話として、もしも起こった出来事が、ギヤマン細工の欠片を寄せ集めてどろどろに融かした挙句に全く同じ形状へと加工し直すことが出来るようなものだとしても、それは真実元とそっくり同じということにはならないだろう。そっくりそのまま同じ形を作れたとしても、必ずなんらかの形で、元とは違いが生まれ落ちる。ギヤマン細工であれば、それには割れ、砕けたという事柄が記憶に刻まれる。来客はそれを知らなかったとしよう。けれど、それの所有者はその事を知っているのだ。そのギヤマン細工は、一度砕け融かされ元に戻した形ということを。それは、本来所有していたものとは違うものとなっているだろう。例えば、拾いきれなかった、拾い集めることの叶わなかった細かな破片が欠落した分何かが足りなくなるかのように。
──つまり、そのギヤマンの破片を取り零してしまったら、それは決して元のように戻ることはない。質量の不足分を補ったとしても、その分別のものが混ざっているということに置き換わるだけなのだから。
陽炎の花、溶ける雪片。
──破片を失うことを許容するどころか、己の存在そのものがその行為に加担していたというのだ。
終わりは何時かは訪れる。それは、もっと穏やかなものだと信じていたというのに。
泣かないでくれと言葉を掛けられた。
さめざめと涙を零す眼を見つめながら、美しい人となったものは静かに笑いかけているのだ。
遅かれ早かれこうなることは承知の上で、それでも傍に居たのだと。恋した者の為に殉じることを、この美しい人は良しとしたのだ。
瞬きのように短い時間だっただろう。そして、己自身は風化でもしていくかのように存在から削り取られていくのだ。恐ろしくはなかったのか、と問いかける。
恐ろしかった、という答えだった。
けれど、それ以上に傍に居られることが、何よりも嬉しくて、愛おしかったのだと。そう続けた。
互いに恋をしたのは確かなのだ。だからこそ、こんな形で恋した存在を失うのが何よりも痛みを伴った。──それは、共に同じだというのに。
満天の星空のような、そこを自由に駆け回る風のような美しいひと。人ではないそのひとを、他ならない自分が引きずり下ろした挙句に殺してしまうのだ。困ったように微笑み続ける人へ、声にならない嘆きをぶつけるしか出来なかった自身へと慰めるように風が吹く。
後悔などするものか。あなたに恋をしているのだから、それだけで十分だ。
だから笑ってくれ、自分が居なくなったその後であったとしても。空が曇り、雨を降らせるような時があったとしても、晴れる時は訪れる。どんな長雨であっても、その時を待っている。
その言葉が咽ぶ心には慰めになるというのに、涙は次々と溢れてくる。
浮かぶのは別れたくない、嫌だ、まだ居てくれと、そんな駄々ばかり。ふたりで見た景色は、何よりも美しかったことを鮮明に覚えているというのに。何時か訪れる風化を、色褪せることを許したくない。
思わず口にしたこの言葉。
嗚呼、嬉しいなぁ。
そう、目を伏せて言われた。
涙で歪んでいても、その美しさははっきりと分かる。きっと、何時だってその姿は文字に起こせるだろう。何もかもを失ったというのに、そして今にも風に掻き消されそうな姿だというのに。その姿は、今までに見たどんな光景よりも美しかった。
──私は、あなたに恋をしている。
最後に言われたその言葉が、どれ程心に残るものになったのか。
一度だけ額へと微かな口付けを落とし、綻ぶような微笑みを浮かべて──何よりも鮮やかに刻まれ、遺された想いを除いて世界は、崩れ落ちた。
何処を探してもあのひとはもう居ない。例え何処を巡ったとしても、触れず、見えず、それでも傍に居るような存在しない隣人が居る場所へ辿り着いたとしても。
何時かのように手を差し伸べられることはない。
何時かのように微笑むひとは居ない。
記憶の幻灯が映すその姿に別れを告げることも出来ずに、延々と名残を惜しむように抱え続けて。
しんしんと雪が降り積るように、それでも歩みは止まることがなかった。覚えている限りは、その人が傍に居るのだと、そう感じられたのだから。
遠い日のこと。漸く面を上げ、眺めることの出来た青空には、今でも一面に薄い絹織物のような雲がかかって、空に濃淡を彩っている。薄らと覆いが掛かっている晴天に、そっと目を細めた。
残り続ける、何よりも美しかったあの景色。
陽炎の花、ギヤマン細工の鍵盤。
砕けたそれはもう何の音も奏でることは無い。
──それでも、残るものは確かに有るのだ。