空の欠片を集めたら
黒猫が一匹、空を見上げた。美しい星空に小さなヒビが入り始めた。
「そう、始まったのね」
と、寂しげに猫は呟いた。
その現象は終末現象と呼ばれた。世界が終わる、最終段階。人々が震え、恐れるだけの最後の時間。空にヒビが入り、空が落ちてくる。そうしてこの世界もまた黒に飲み込まれるのである。
黒猫はそっと立ち上がると、誰もいない路地を抜け、廃屋の中へと入っていった。割れて散乱したガラスの上を歩いていくが、猫が歩く場所はガラスの破片も落ち葉も。まるでそのものが意思を持ったように避けていく。
そうして猫は既に円になって顔を見合せた他の猫達の側へと歩いていった。
「さて、終末現象が始まったわ。誰か異論はあるかしら?」
「ありませんわサテラ」
中でも体の大きなグレーの猫がそう言うと、サテラはふぅと小さく息をついてから机を飛び降りた。サテラの体はみるみるうちに形を変え、耳や尾が体の中に吸い込まれ、タイトなドレスに身を包んだ美しい女性が現れた。長く美しい黒髪に、黒のドレス。その美貌は、世の女達が妬み、男達を卒倒させるほどのものであった。
「この世界、結構好きだったのに」
そう言って俯いたのは髪の短い女である。
「あらマーブル、あなたもこの作戦に同意だったのでは?」
サテラがそう言うと、マーブルは頷く。
「わかって、ます。仕方がないってことは」
「終末現象は始まった。他の魔女達に伝えてちょうだい。それから、できるだけたくさんの空の欠片を集めて」
グレーの猫だけでなく、丸く座っていた猫達は次々にその姿を変えて、人の姿を取り戻し始めると、サテラに一礼してから散っていった。
サテラは割れた窓ガラスに指を這わせ、さらに深くなった空のヒビに目をやった。
「辛いのは皆同じ。でも、これでもう最後よ」
既に姿の見えないマーブルに向けて、サテラはそう呟いた。
終末現象開始より30分。人々はパニックの中にあった。突如現れた空のひび割れに、世界中の学者が釘付けになる。そうして、彼らは直ぐ様各国の頭脳とテレビ電話を繋げた。
「一体どういうことだ!この世界だけはこうはならないと言っていたではないか!」
「もちろんです!我々の理論は間違ってはいない!」
「ではなぜこんなことが起こっているのだ!」
誰もが焦りとパニックで怒鳴り散らしている。そんな回線の中に1人の女が姿を表した。
「ご忠告申し上げたはずです。パラレルワールドを繋げ、死んだ者を自分の世界に連れ込むことは時空の歪みに繋がると。その歪みはやがて世界を飲み込むと」
「貴様ら魔女ごときに何がわかろうか!お前達は死などないからそんなこと言えるのだ!」
「私達はこの世界と生まれ、この命を守るもの。世界が消えて命がなくなるのなら我々もまた皆様と同じように飲み込まれます」
その言葉に、学者達は口をつぐんだ。
「ここが、最後のパラレルワールドです。他の世界は全て黒に飲み込まれた。光さえも出られない闇に閉ざされた監獄に」
サテラの後ろに、1人、また1人と女が現れる。そこには先ほどまで一緒にいたマーブルの姿もあった。彼女らの手には、それぞれ違った色を発する欠片があった。
「これは飲み込まれていった世界から集めた世界の欠片達を圧縮したもの。そしてこれが、我々の世界の欠片です」
サテラが画面に移したそれは、パズルのピースのように小さく、いくつもの星が瞬いている不思議な欠片だった。まるで窓ガラスの欠片に今もなお星空が映っているような、美しい欠片であった。
「これを全て繋ぎ合わせれば、たった1つだけ世界を作ることができましょう。我々が闇に飲み込まれても、その世界には美しい色を残してあげられるはずです。この世界の人間は何を望みますか?全て道連れにして消えますか?それとも、たとえ犠牲になろうとも、次なる世界に命を繋げますか?」
学者達はぐうっと黙りこんだ。秒針の音がどこの会議室からか、マイクを通じて聞こえてくる。そのうち1人が絞り出すように問うた。
「我々が助かることは、できないのだな?」
「できません。人間も、我々世界を守るものも、この欠片を繋ぎ合わせ、完成したその瞬間、この素晴らしい色に満ちた世界に触れる前に闇に飲み込まれます」
誰もが唇を噛むなか、サテラは1人俯いた。
「人は近づきすぎてしまったのです。解き明かしてはならないことまで。禁忌を犯してしまったことにさえ気づかずに」
テレビ電話を繋いでいた複数の回線のうち、1つが砂嵐に変わった。1つ、また1つ。何も答えが出ることはなく、次々に砂嵐へと変わっていく。そうして最後の1つになると、学者は学者としてではなく、寂しそうな1人の老人としてサテラに言った。
「我々は、死別を恐れた。パラレルワールドが分かれば、その世界から大切な人を甦らせることができる。そうすれば、死別の悲しみを、死を、人は乗り越えられると勘違いしていた。君達は何度我々人間に教えてくれたのだろう。そして我々はどれほどの強欲と傲慢さでその忠告を一蹴してきたのだろう。今となっては、本当に愚かでしかない」
その言葉は、時折ノイズを含みながらも寂しく響き渡った。老人は目頭を抑え、涙をこらえながらサテラを見た。
「それでも私は、会えるはずもなかった孫に会うことができて、本当に嬉しかったよ。私は、この世界でもう死んでいる。私の世界では孫が死んでしまった。この世界に来て、孫と大切な時間を過ごすことができた。愚かだが、それでも私は1人の人間として、素晴らしい時間を過ごすことができた……」
サテラは真っ直ぐに老人を見た。
「その欠片があれば、命が息づく新しい世界が、美しい色のある世界が出来上がるのだな」
「えぇ、もちろん。我々は闇に飲み込まれますが、確実に1つ、世界を産み出すことができましょう」
老人は目から大粒の涙を溢しながら頷いた。
「こんな老いぼれが全世界の総意などと誰1人認めてはくれんだろうが、どうか、次の世界に色を残しておいてやってくれ。どうか、どうか、美しい色に満ちた世界を作ってやってくれ」
サテラが頷くと同時に、最後の回線も途絶えた。砂嵐に変わった大きなモニターを見ていたサテラ達は、数秒の沈黙のあと自然と円になって顔を見合せた。
「全ての世界が選んだわ。世界を圧縮したこの欠片で、我々が新しい世界を作ります。私達は直後出来上がった世界を見るまでもなく闇に飲み込まれることでしょう。それでも良いですね」
サテラの言葉に全ての女達が頷いた。
「そのために今までやってきたのです」
「異論ありません」
「マーブル……」
たった1人、涙を落としていたマーブルもまた頷いた。
「残しましょう。新しい世界に、命を繋ぎましょう」
女達は次々に持っていた世界の欠片を差し出した。手の中で光る美しい欠片に、サテラは最後、持っていたこの世界の欠片をゆっくりと前に進めていく。
「人は愚かでした。でもきっと、愚かだからこそ幸せだったのかもしれません」
脳裏をよぎる老人の面影を振り払い、サテラが最後の欠片を全ての欠片の中心へと差し出した。
直後、周囲の景色は一気に割れ、ダムが決壊するように黒い闇が流れ込んできた。
「臆するな!最後までやりとげなさい!」
サテラの声に、全員が両手で世界の欠片を押さえた。1つも飛んでいかないように、闇に飲み込まれないように、丸く、形を作っていく。それはやがて輝きに満ちた1つの球体を作り出し、光りを放ち出した。直後、サテラは仲間達を抱き締め、彼女らは闇のなかに飲み込まれていった。
球体は闇を押し退け、大きく爆発し、やがて欠片のなかに秘めていた色と命を飛び散らせた。星も命も全てが大きな爆発によって無造作に飛ばされた。
それから長い年月を経て、星の散りばめられた世界に1つ、青い星が浮かぶようになる。
その星はこう呼ばれた。青い星。地球と。
「あれはなんだ?黒い、渦みたいなんだ」
そうしてある日、地球の中で1人の人間が宇宙の中に闇の塊を見つけた。
「あいつは、そうだな、ブラックホールって名前はどうだ?」
そんな声が地球の中で上がる。
「あぁ、そうしよう。ブラックホール。あのなかに何があるのか、知りたくなった」
その事実をどこまで解明してよいのか、はたまたその闇の渦がどういう意味を持つのか、人間達は知るよしもない。
我々がブラックホールと呼ぶあの黒い渦は、もしかすると他の世界が欲に溺れた結果できあがった、欲望その物なのかもしれない。そして今も、その中には闇に飲み込まれた世界が広がっているのかもしれない。