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第九話

「僕は、慈悲深いノアにはなれなかった。だから資金を投じて、できる限りの再生を行った。この空間だけを切り取ったらの話だけれど、植物らに栄養や水分を与えてやらなければ、いつか枯れてしまう。そのように解釈してみれば、テラリウムは、植物園は、地球は、ゲージの中に覆われ、外には絶滅しうる恐怖が待っているということになる。神様などを大ぴらに語ることはできませんが、僕が神でもなんでもなく、反応を示さない彼らにとっても、それらを疎ましく思う僕にとっても、人間だと定義してもとやかく言われないでしょう。

 まあ、僕にとってここを管理する母は、神のように慈愛に満ちていると感じましたし、遺品をほとんど遺すことなかった母のナルシシズムを否定するには、物的証拠が乏しいです。ついでに母の遺した僕という存在も、すこぶる性能が乏しいものでですね、証人尋問をするには、少々の信憑性を欠いていると誓い言葉を述べるほかありません」

 花の香りはあまり感じることはない。それは強烈なまでの誘惑を漂わせる植物もいるにはいるが、人間の嗅覚では反応するのに限界が存在する。当然だが、僕に向けて匂いを放つ植物はごくわずかで、多くはポリネーターを誘い出すためのものであり、ピンセットを持ってくる僕を誘っているわけじゃない。

 母はこのような感情に苛みながら、彼らの手入れをしていたわけではないだろう。これこそ憶測でものを言うなと指摘されそうな事柄ではあるが、母が苦痛を求めたがためにこのコンサバトリーを増築し、手間を惜しむことなく、彼らに多くの財産と時間と愛情を注いでいたのなら、僕は、僕が彼らに対して抱いている感情と、母が僕に対して抱いていた感情は、同義と捉えかねない。

「子供を育てるには、多くの時間とお金と、愛情が必要であると仮定します。頻繁に手入れしてやらなければ、枯れてしまう個体も存在すれば、黒い肌や青い瞳や黄色い肌の個体も存在する。母は、僕を気にかけてくれましたが、それが母の愛の抑制した形であるのなら、僕が彼らのように、美しい花々を咲かせることがなかったのは当然だったのでしょう。ほら、僕はこの夜行に照らされても醜いままでしょう?それに偏屈ですし、越冬するまでの僕は、これより酷かった」

「誰しも、消し去りたい過去など持っているものでしょう」

 女性は後ろから閉めたドア付近に立ったまま、言葉だけで感情を表現する。

「顧みれば、わたしとてお医者様とて、あのようにしておけばと慚愧(ざんき)の念を抱くものと思います」

「慚愧の念ですか、おもしろい言葉をご存知なようですね。意味は、後悔といったニュアンスでしょうか。神々とて、己に罰を抱えて神話に綴られていると。僕も考えなかったわけではありません」

 古典文学は現代風ではないし、神話の語り口は、慣れないものがあってとっつきにくい印象が深い。漫画であるなら、暗記としてはともかく、読破することは叶うだろう。だが、僕にはウェブ上の情報を掬うことすらしなかった。

「途中で気づいた、なんて虫の良い話では納得していただけでないでしょうから、投げ出したと表現しましょう。めんどうくさくなって投げ出した。母は神でもなければ、僕がこの目にした、愛情を受け取っている同じ人間であることに、変わりなかったことを理由にして。

 それに僕はこれほど生意気でしょう?あの美しい母の尊顔からは遺伝を感じることはできない、花を咲かせることができない人間です。母の美的観点がどのように僕を捉えていたのかは定かでありませんが、母はここでの読書を好いていました」

 女性は僕の言葉を察したようで、僕に代わって言葉を発した。

「美しいものに囲まれて。と、あなたはおっしゃりたいのですね。しかしそれは、一つの可能性にすぎません」

 しゅんと小さくなるような声音の後に続いたのは、ちょっとばかりの沈黙と女性の強い声音だった。

「あなたはそのような可能性に、押しつぶされるのですか」

「押しつぶされはしませんよ。撃たれるとわかっているのなら自衛する分別を弁えています。それに冬の時代を過ごした僕は、常人とは少しだけ異なるだろう許容範囲を保有していますから。こんなのは、慣れてしまえば、おそらくあなたにもできることだと思いますよ。あなたは優秀でしょうから、僕よりも良いものを手にできるかもしれません。たとえば、大口契約を勝ち取ってくる。などでしょうか」

 僕のジョークは眠っている彼らにも聞こえてしまったのか、肉声が吸収されたような、しんと静まり返った空間ができた。ほらあ、数十年前に流行した、音楽を聴かせると踊りだすおもちゃがあっただろう。それに植物に音楽を聴かせると、育ちが良くなるとかならないとか、小耳に挟んだことがある。おそらくは、人間の脳内フィルターが影響しているのだろうことは、現代科学でも用いられる手法だ。

 わからないことは神に任せておけばいい。わからないことはオカルトに任せておけばいい。脳科学か何かが影響しているのだろうとしておけば、あながち間違っていることはあまりない。

「あなたがおっしゃることに間違いはないのでしょう。そこに行って見なければわからないことがあるように」

 女性が想像しているのは、おそらく顧客との対面だろうなと僕は想像する。

「そうですよ。感情を伝えるなんてことは、人間が発明した専売特許などではなく、生物界でも多く見受けられますからね。むしろ求愛行動においては、ヒトが一番下手くそかもしれません」

 新種の極楽鳥の映像を観て驚いた。彼らの求愛ダンスは見事なものだが、映像で流されるもののほとんどは、失敗に終わるパターンが多い気がする。僕ができてもいないことを、失敗を嘲笑う。微笑ましい笑いでも、きっとおそらく極楽鳥にとっては死活問題だろう。

「あなたは監査役としてこの家での生活を、一定期間共にする。僕がどのような人間であり、どのように変革を遂げるかを記録する。しかしそれはコンピューターが残したログを洗えば判断がつくこと。あなたには機械ができなことを命令されているか、あなたのためにここにいるのか、それとも母のためにここにいるのか。僕は尋ねはしません。尋ねはね?」

 母の病が発覚してから、天寿を全うするための期間は短かった。僕は病院に寝泊まりし、できるだけそばにいるよう努力したけれど、母が僕に意味のある言葉をかけることはなかった。もともと饒舌ではないと僕は思っていたし、学生時代の息子と母の関係性は、だいたいがあのようなものだろうといまでも思える。

 母は、特別な治療を望むことはなかった。病室から外を眺める母の虚弱の肉体が、僕にはちゃんと記憶として残っている。あれは抗がん剤でもなく、放射線治療でもなく、癌によって蝕まれていく動物のありのままだった。

 まるで信仰心厚い信徒のように、都会の烏らでもいいからついばんでくれと言わんばかりの最期だった。

「すみません。言い過ぎました。撤回します」

 ふと感じると撤回したくなる。女性は僕の言葉に返答しないが、撤回できていないのだから、僕は当然のことだと割り切って、後ろに佇む女性を観る。

「あなたはどうしてそこまで悪に徹するのですか」

 麻のブラウスと丈長のスカート、どちらも純白で、僕が使わなくなったものと母が着ていたであろうものを合わせた寝間着姿の女性が、そこにはいた。

「僕は悪ではありませんよ。独善的であることが、悪というのなら僕は悪でしょうが、その装いをしているあなたに言われると、僕は違和感を感じられずにはいられませんよ」

「そんなにも、おかしいでしょうか?」

「ええ。まるで、魔女みたいですよ」

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