第七話
僕は、現政府批判や民主主義批判、啓蒙主義も蒙昧主義も、信徒への批判も口頭でしか行わないし、社会団体やセミナーなどに参加するほどのことではなく、ひどい主観的な解釈で、自壊しているとすら思える、人様に晒すようなものではないと重々承知している。
でも、新作バーガーに購買意欲を唆られるように、欲望に誘惑されるままに思考する。だから僕が、思考実験に対して軽快に模範解答を叩き出せるかと言われれば、また別の話になるわけで、ただ思考することの快感と、論理的な解答を得るためのプロセスを介するとでは、異なると解釈し、咀嚼している。
おそらく、とういうかそうなのだが、解を求められた時の快感は、僕が虜になった思考とは比べ物にならないほど歓喜に溢れている。
猟奇殺人犯の思考など、的中することはないが、僕はこんな仮説を立ててみる。
一言でまとめてしまうのなら、殺人衝動の中には、自他感情の因果関係性が確立されているが、その多くが自身のためなのだろう。
好奇心旺盛な人間ではなくとも、多くの人間が生命の絶命をこの目にしたことがあるのではないだろうか。たとえるのなら、蟻を踏みつぶした感覚だとか、アスファルトにの垂れる瀕死の蝉だとか、その喘ぎだとか。
他者はどれほどだろうか。僕が、感じた中で最も理性的かつ、感性に刺激を受けたのは、医者が死の三兆候を確認し終えたあと、病室で触れた人間の死体ただ一人。
亡骸の手先には、人としての温もりがなかった。
なぜ、各国の代表が握手を交わすのか、僕はそのとき実感した。夏に生まれた子供はヒトの子とだと肯定できた。両親は、冬の寒さを肌を重ね合って越したのだと、鮮明な回答を保有する存在が他界してから、そのようなことを想った。
僕は死体の美しさを、生命が抵抗することもできず喪失する瞬間は、ともかく希少だったと感じる。
たったそれだけで、僕は猟奇的殺人犯に共感を寄せることができる。魂を感じることがしたい、あの希少な瞬間をもっと味わいたい、セックスがしたい、お気に入りのアダルトビデオでオナニーしたい。殺人はそれらと酷似している。
人間誰しも悪人。善人などは、悪人の中でまだマシという捉え方で、僕はとんでもなく「底的な」思考回路に、どういうわけか陥ってしまった。
検討はついている。冬の時代だが、理論云々を抜きにしても、腑に落ちる解が得られない。それがわからない限りは、僕も猟奇殺人犯の思考を矯正することはおろか、読み取ることも不可能だ。まあ、解ったところで、他者に理解してもらえるだけの言葉と、理論と、確証など鍛えることなどできないが。
いつもの独りには大きすぎるキングサイズのベットで、いつも通りの独り。間接照明の灯りと空気清浄機の駆動音。カーテンの隙間から漏れる外の光は、肉眼では確認するには難しいだろう。
いつもなら、僕は疲労に任せてぐっすり眠るだろうが、いつもじゃない。僕は慣れないことを多くしたし、女性も慣れないことをしただろう。
むくりと起き上がる。目を閉じていればいいものを、僕は寝室のドアを注意を払いながら静かに開ける。フローリングを素足で歩けば汚れがつくが、僕はそういうところ過敏でない。そういえば、女性にスリッパを勧めることを忘れていた。
まあ、来賓・来客として扱わないのではあるならば、どこかに収納してあるスリッパを掘り出し、洗浄して使うだろう。僕はそのようなことに許可を出すほどの、家主ではないが、それでも女性は一声かけるだろうし、僕はそのことをいつのまにか忘れているだろう。
部屋を出て、横幅の広い階段を降りる。足音がたってしまうが、ロボット掃除機の駆動音の方がずっと騒がしい。廊下へ出てリビングダイニングへ出ると、照明が落とされたいつもの空間を感じ、息を深く吸い込む。最も強い香りは、僕がホームセンターで購入したシャンプーの匂い。
キッチンの方に視線を向ければ、夕食で使用した食器類を洗浄した痕が残っており、湿ったシンクからほんの少しの冷気を感じる。リビングのデジタル時計をみれば、夜も深まる時間帯で、長めの映画を一本みれば夜を明かすことにも諦めがつくことができるだろう。
しかし、映画の音声で起こすことは忍びない。こういう時こそ、読書という有意義であろう時間を過ごしておくべきで、僕もそれまでそうしてきたつもりだが、どうにも読書で落ち着きそうにはない。
頭を働かせたくない衝動と心を落ち着けたい衝動が、混じり合っている。遅読なうえ、感情表現の過失が多く見受けられた僕は、読書をしていても、試験の点数には反映されなかった記憶している。
だから、僕の前に広がる光景が、帰宅途中の電車内と似ていると感じたことに、特なる意味はない。
僕は、リビングダイニングから離れる。真っ暗で底冷えしてしまう廊下を進んでいると、僕が人間であることを感じることができる。
そんな廊下を独り歩いて行くと、増築されたコンサバトリーへと辿り着く。
耐寒機能を備えたコンサバトリーには、母の愛した植物たちが、夜光に照らされひっそりと生命を営んでいる。
母は僕とこの植物たちのどちらをより愛していたのだろうか、ぼんやりと思う。彼らは水や肥料を与えてやらなければ、遺伝子を継承することも、僕の愚痴を聴くこともできない。
母の愛した彼らを保存しておくには、僕が世話をしてなければならず、僕がこうして苦慮する割の採算は、残念ながら取れていない。潤沢な遺産というのは、つまるところの残りカス。どうせのことなら、相続税の名の下に今後の医療費と年金生活を確約してもらえるのなら、僕はそれでもよかったとすら思う時期もあった。
彼らは、非常にデリケートな存在で、寒いことを心底嫌うし、隣人が気に食わなければ、すぐに茎を曲げてしまう。水分量やら肥料やら、その他諸々。ともかく僕にとって植物との対話は、大義がなければ、廃墟マニアが屯ってきそうな状態に凋落していくということ。
コンサバトリーの価格査定してもらったとき、僕は正直たじろいだ。
コンサバトリーの肝である植物らは、専門店の店員さんやネット知識で枯らすことはなくとも、ガラスやフレームは素人にはどうにもならない。痛みを放っておけばひどくなることと同じで、目に見える劣化を放置しておけば、そのうち自然と朽ちていく。
だから、厳密にいうのならば、ここは生前の母が愛した空間ではなく、僕の中での記憶と生き残りが入り混じった僕の空間。つまりは、惰性ではじめてしまったことには、多少の後ろめたさが付き纏うということである。僕の何年か分のボーナスが積まれた証であったりすることも、大義だ。
母はリスト遺していることはなかった。几帳面な人なら、プライベートでも管理リストを製作していそうなものだが、母の遺品整理をしているときも、とうとう発見には至らず、独自の管理法の研究や実験を行おうとしなかった様相で、愛でていたかも、僕の記憶の中では定かではない。
周囲をぐるりと見渡せば、緑の大きな南国の観葉植物がベースとして並び、専門店並みの豊富な種類の花々が、南国原産を中心に空間を彩っている。
そして、中央に鎮座するテーブルが一脚。チェアが二脚。どちらも英国にて購入したと語る、母の残した品。てらてらとワックスが輝くシックな木製家具は、英国に住まう職人に見てもらう約束をして購入した、こだわりの品。価値を理解できない僕が座るのもはマニアへ対しての冒涜だろう、希少な品。
足裏がつく床はほんのり暖かく、オートメーション化されている温度管理システムが正常であることを感じる。素足で、鼻腔で、耳で、皮膚で感じ取らなければ、僕の苦労は浮かばれることはないし、母は椅子に座り読書をしているとき、素足に感情なるのが癖であることを忘れてしまうかもしれない。
足を組み、ぷらぷらと重ねた上の足を月に行ったバレリーナのように、母は、男性に負けまいと生命力溢れる若い女性ピアニストのように、この空間と類似した場所に映えていた。
比喩でなく、母はバレエもピアノも、幼い頃に習っていたのかもしれない。
母がこの世界に遺したもののほとんどは、僕が僕と知った自我がある頃に遺した物で、僕の黎明期やらの遺物は皆無に等しい。
母が、自身を語ることなどなかった。
母には、僕が感じにくい人間であることがわかっていたのかもしれない。それなら僕は合点がいく。僕も血が繋がっていようといまいと、自身の過去などは心に留めておきたい。
まったく独善的な解釈だが、僕の冬の時代を耳にして、正気を保てる人間は、僕になど眼中にないと思う。
では、そのような人が現れるか、創るかしなければ、僕の色が入ってしまったコンサバトリーの朽ちた先に、何が遺るというのか。僕は、それらを知っておきたいと思う。