第六話
先ほどのように頭を働かせたのは、いつ以来のことだろうか。おそらく僕が過ごした、冬の時代以来だろうか。よくはっきりしないのだが、僕の記憶力の経年劣化は着実だ。
「目下、いかがいたしましょうか」
そのような女性の開口があり、僕の認識を改めさせると同時にうろたえさせた。女性よりも察しに秀でていると傲るつもりはないが、その時察したことに相違はなかった。
つまり有り体に言ってしまえば、僕は仕事上の女性と一つ屋根の下を共にする。僕がネットの情報として手に入れた、従来の「生保レディ」による「枕営業」の可能性は、無きにしも非ずな訳である。が、しかし、そのようなことは発生しない。
なぜならば、ゲストルームを解放する余地もあれば、主寝室を明け渡すこともできる。なんなら、僕がソファで寝ることは、生得的行動と位置付けるに異論ないと強く主張できる。
「あなたが宿泊するための用意をしなければならないでしょう。私は来客として扱うことに努めることをいたしましょうが、来客を「おもてなす」ようなことについて、どうかご期待しないでいただきたいのですが、それでもよろしいですか。まあ、ご否定されても、どうすることもできない愚問ではありますが」
「理解しております。私は住まわせていただいております身、弁えておりますゆえ、何なりとお申しつけください。幼い頃から一通りの家事に関する経験はございます」
「それはこちらとしても喜ばしいことであります。この家の構造の把握などは、言葉で説明いたしますより、慣れていただいた方がよろしいでしょう。冷蔵庫や主寝室などのプライベート空間を垣間見ることに、抵抗感を覚えるほどのものは持ち合わせておりませんゆえ、どうか自然体でいてくださると、私の不安も幾許か払拭されることでしょう」
僕と女性の間には、不可思議な静寂が漂った。このような使い慣れない言葉を意識して申すには、常人離れした忍耐力が必要になってくるだろう。僕は血の繋がっていない人との共同生活などは経験がない上に、臨機応変に対応できることもまた、凡庸の域を超えない。
「僕の代わりに掃除をしてくれるロボット掃除機が、数台うろちょろとしていますが、駆動音が睡眠を損ねるのなら、停止してもらっても構いません。シャワーもお手洗いも、それぞれ複数あります。そちらの使用があるなら、手入れしますので申告ください。っと、このような具合で気分を害さないでしょうか」
女性は少しばかり考える素振りをみせ、僕とは違い慣れない様子で話し出す。
「ええ。わたしはそれで良いです。お客様、という呼称も変更した方が良いですか。お名前というのは、大変恐縮なのですが」
「それなら、代名詞でも構いませんよ。僕も代名詞を用いさせてもらいたいと考えていますが、どうでしょうか」
慣れない。ぎこちない。心中穏やかでない。おそらく僕でないのなら、女性に対しもう少し滑らかさを持った対話を織り成すことができただろうが、やはり凡庸ではこの程度が底になるだろう。
「はい。そこらが及第点かと」
そうして意思決定がなされたことで、女性は夕食を。僕はシャワールームの清掃とゲストルームの清掃を始めた。
女性が選択したのは、僕が眠る主寝室近くの十畳ほどの部屋。ベットはなく、フローリングに万年床になってしまうが、それでも女性は良いと了承した。
僕は稼働中のロボット掃除機を二つ移動させ、部屋のドアを閉め埃などのゴミを回収させている間に、僕が使っているシャワー室の清掃を開始し、手早く終わらせ、ゲストルームの清掃に取り掛かる。照明をつけ、クローゼットの布団を敷き、シーツを被せる。ベットメイキングだけしかないが、匂いも女性の許可を得た消臭剤を散布したに過ぎないが、僕は凡庸なりの仕事を頑張った。
香るは、和風出汁の旨味溢るる香り。僕の冷蔵庫には、冷凍うどんがストックされおり、顆粒出汁とお湯とで煮込めば、温かい料理が手間をかけず出来上がる。
流行りのレーションには、食感がネックとなって好めない。たった二本のチューブで摂取栄養素を賄いたかないし、コストもまだまだ掛かる。非常時用の域を超えないが、おそらくそのうち、冷凍うどんに代わる軽食として普及するだろう。
「そちらに運んでもよろしいですか」
僕は肯定して、鍋敷きをダイニングテーブルの上に置き、女性が鍋つかみを持って運ぶのとすれ違う。女性によって棚から出された小皿を運搬するためだ。
埃を長期間被ってしまわぬよう、レギュラーを設定し使い回してきた。二日に一回の洗浄をし、定期的に手入れをしている食洗機にかけているため、よほどの潔癖でなければ使ってくれるだろうが、念のための確認は怠らない。
鬱陶しいと思われても良い。最初だけはわからないから、女性にも馴れていくしかないと考えている。
そそくさと、皿やら箸やら調味料やらを並べ、僕と女性はいつもの席へ着く。女性がカーテンを閉じていない夜光が漏れる窓側を背に、僕が独り閾を跨いでいた玄関側を背に、天井から長く垂れる暖色系の照明に照らされて、陶器の鍋に、陶器の器。木製の箸とアクセントとなる香辛料は、いつも購入するものを決めてある。
「失礼ですが、あなたは特定の宗教をお持ちでしょうか」
女性にそのことを尋ねると、返ってきた反応は物珍しい視線だった。
「あなたは、それほどまでに客観性を重視するのですね。今時、信仰を訊ねられることなど、書籍の中だけのことだと思っていましたので」
「そうですかね。僕の周囲では、よくお見かけしますよ。信徒とは甚だ言い難いものですが、稀なものでゾロアスター教の概念に汲んだ独自の宗教観を持つ現代人だとか。もちろん仏教徒も、キリスト教徒も、お見かけしますよ」
おそらくこのことについては、女性側が少数派になるのだろう。信仰心などは、そう簡単に淘汰できないまでの歴史を歩んできた。世界宗教だろうと、過激な新興宗教だろうと、人間の信仰心はそれこそ、生得的であるレベルで証明されているのではなかと思うほど、人類史を輝かせ、どす黒い影を作り出してきた。
「わたしは、そのような方はお見かけしませんね。学校行事などに、クリスマス会などというのはありましたが、宗教的な好奇心を寄せることはありませんでした。両親の墓前へ立ったときもそうでした。火葬による意味などは、意識の外におりましたから」
「では、そこに座るあなたは何を抱いていますか。目の前の生命を食すことに、クリスマス会に参加したことに、あなたは何かを抱きますか」
女性はしばし口を閉ざした。食事の前にいちいちめんどうくさいことをしているなと、僕は思うが、女性が難しそうな表情をするところを観察するのは、少し愉快に思える。
「生きていくために、生命を奪うのなら、わたしは生きねばならないと感じます。いまは、そうですね。使命感というのがこの感情に起因しているのだと思います。企業からの使命感とわたしが抱く独善的な使命感と、「監査役」としての使命感。でしょうか」
最後の一節は、躊躇ったような間隔を空けた。
「あなたにとって「監査役」というのは、少々特別なものなのですね」
「ええ、そのようです。わたしは、あなたの行く末を見守りたいと思います。しかし、企業からの指示だからというわけではないようですが、あなたにそれらを立証することは残念ながら叶いません。それはひどい難問だからです。感情証明ほど、多数が優先されることはないと、わたしは諦めの意を持って発言させていただきます」
何を想い、そのとき犯行に及んだのだろうか。僕らに、猟奇殺人犯の心情などを的中させることは叶わないだろうし、胸中で「筆者の感情を察する」ようにすることには、証拠が欠けている。事実は小説より奇なりというが、至極当然のことなのかもしれない。
寝食風景の描写と現実での事象の可変率は、そもそもの情報量の絶対的な優劣によって事実には勝らない。
だから芸術、誇張したフィクションはそのような観点からおもしろい。宗教観を社会批判を、人格の批判を独善的に行うことが、僕にとってはちょうど良い息抜きになる。
僕はそれで、ストレスを溜め込み、向き合わなかったから、冬の時代を過ごすことになったのだと思う。まさか、女性が僕と同じような冬の時代を経験したとは傲らない。ただ、そうであればいいなと思うほどである。
「経験することは、何事にも代えられないことだからですか」
それは解っていることでしょう?と、女性の表情は問いかけていた。
うどんには解いた卵とねぎと白菜が添えられており、梅昆布茶の爽やかな香りと出汁の香りとが相まって、僕の胃袋を刺激した。白湯げを上げ、おたまで器に移し終えると、女性がよそい終えるのをいまかいまかと見つめた。
「いただきましょうか」
僕は、童心に帰りうどんをすすった。