第三話
当然のことだが、これまで異性を好きにならなかったわけではないし、普遍的な成人男性の概念に当てはまる人生を送ってきた。自尊心を傷つけられることに嫌悪感を抱き、異性との交流に適度な恥じらいを表現し、やったやられたで同性と盛り上がる。
いじめられる側のことがほとんどだったが、誰かしらの精神や肉体を傷つけたのが「いじめ」と規定されているのなら、そんな僕とて誰かをいじめる側にいたこともある。
でもまあ、ニュースで報道されるほど追い詰められ、自傷行為を行なって大々的に死ねるなんてことはできないし、やってもいない。生への執着というより、幸福を味わっていたから、まだやっていたいことがあるから、極端に言ってしまえば快楽をまだまだ味わいたいから。大義なんて思っていない、これは正常の範囲内にラベリングされる人間の本能的衝動に違いない。
そうではないのなら、僕もいくらか死ねる道を歩めるのかもしれないが、いまのところ予定はない。
自殺に予定なんてあるのかも理解できていない僕には、それくらいの抽象さが心地よく感じる。「これだ」という規定されたものに縛られる必要はない。
僕は、抽象画を「感じる」ということを理解しようと努力した、経歴を持っていたりする。
結果は、言葉にするまでもない。
両親が遺してくれた築うん十年の実家を出ると、朝日が僕の体を照らす。僕たち三人家族で暮らすには広すぎただろう実家の悩みは、不条理に感じる税金を支払わなければならないことと、ロボット掃除機の駆動音でたまに起こされることと、ホラー映画を独り観賞している時に上げる驚嘆の声が、この上なく虚しいこと。
前者の二つは両親の遺産で賄っているとしても、三つ目はただただおぞましい。テレビ番組でも、動画配信サイトでも、映像技術の進歩は素晴らしいし、僕の暇つぶしのお供になってくれる。ただし、時として空虚を連れてくる。
僕の自宅の前は、近所の通勤・通学の道としてよく利用される。ここらの住宅街の人たちが、駅やバスへと向かうための道で、僕と同じようなスーツ姿のサラリーマンやらでちょっとばかり賑わう。
バスやタクシーが行き交う道路まで出ると、さらに駅へ向かう人通りは多くなり、駅前の喧騒が耳に届くようになる。ひっきりなしに運行されている電車へ向かう庶民は、他の地域よりも少ないだろうが、それでも一定数は必ず鉄道を利用しているし、いくら高度情報化社会と言っても満員電車がなくなる訳ではなく、慣れたすし詰めを味わう。
列車内のモニターに表示された広告の音と、電車の走行音。静寂の満員電車で人々は、携帯端末や文庫本、ガジェット操作にいとまがない。眼鏡型やら腕時計型やら、時代のニーズに応えてきたガジェットが、ストレス軽減に一役を買っている時代であるため、文庫本の数は昔より減っている。そんな時代だ。
子供の頃、みんな寝首を掻かれるように、手元に意識を集中していたものだが、大人になった今では、そのような光景を目にすることはなくなった。ニューヨークのカウントダウンイベントとかに見られる、写真に収めたい瞬間は、昔のように携帯端末を向けるみたいだが、日常としてそのような光景は減少の一途をたどっている。
技術革新なんて、そうぽんぽん行われては、ついていくのも一苦労だが、現代人の適応力というのだろうか、僕らデジタルネイティブは離職率や就労率こそ昔より低迷しているが、ちゃんと生きている。
駅へ着くと、人の流れに従って改札を出る。職場となるオフィスは、主要駅近くの高層ビルではなく、低層階マンションを改装したもの。うちを合わせた三社が入り、数ヶ月に一回交流会があったりするが、参観者はお偉いさんばかりで、末端の僕なんかが参加できるものではない。
僕の仕事は事務作業。有り体に言ってしまえばコンピューターができない雑務。それと、コンピューターの作業の進捗状況の管理やら、来客のおもてなしやらで、決して暇ではなくちゃんと働いている。
「おはようございます」
そうして軽く挨拶を交わして、デスクに座りで仕事をこなし、途中昼休憩をとって、晩まで働く。嫌なこともあれば嬉しいこともあって、まちまちの職場で日々精を出す。
帰りの時間になると、電子書籍ではなく本物の書籍が売ってある本屋に立ち寄り、ハンバーガーショップやらカフェやらで、読書をする。帰宅ラッシュの電車に乗ることもあれば、そうでない時もあって、ともかく僕には仕事後に飲みに行くほど親しい仲の人間がいないということ。
しかし、これは決して勘違いしてはいけないのだが、寂しいとは少し異なるのだ。子供の頃に感じたところではなく、このたわいもない毎日が続いた先には、何かしらあると思うと感じるのだ。
僕が優柔不断だから。ふわふわした人生の中で何かを続くことはあまりなかったから。というのは、的を射ていると思う。
こうなった経緯は意外にも明快で、痛みを僕が印象深く覚えているから。危篤状態の期間を含めた、壮絶な痛みを味わったことが、僕の形成に大きく影響している。痛みは僕を強くしてくれた。先生や先端医療を受けれたことが、こうして帰路を急ぐ僕を成り立たせていることを度外視するつもりはないけれど、やっぱり痛みが特効薬として作用してくれたことは、否定できない。
何言ってんだろうと、ときどき思う。たとえば、職場の同僚と話すことがあって、メディアが発信することや僕たちが共感できるだろう苦労話を聴いていると、価値観の異質さを感じるのだが、身を翻すには至らない。愉悦に浸っている気もしないわけではないけれど、理解してくれていたら、僕は喜ばしく思うだろう。
そういうわけで、僕は日々技術革新と主観性の中で生きている。
他者にこれら話すわけにもいかない。これは主観性の露呈で、僕のアイデンティティの一つだ。否定されることにも慄けば、可及的な解決が求められることじゃない。それでもまあ、「あなたの価値観には、矛盾が生まれていますよ」と言われてしまえば、僕はどうすることができるだろうか。
びくびく怯えている。
これでも痛みを覚えたのだから、僕の学生時代は相当異質な存在だったのだろうと思う。貶されること、貶すこと、集団生活で紛れることは、僕にとって不向きだったと、こうしていると当然のことながら思う。
そんなわけで、僕の自宅の前には待たせてしまっただろう、いつもの女性の姿があり、僕はあのようなお方と、学生のお気楽な雰囲気では愉しめないのだろうと思ったり、あわよくばを想像してみたり、想像する分には文句を言われないことではあるが、僕は醜いオタクだし。
「すみません。お待たせしてしまったようで」
「いいえ。お構いなく」
他人で自宅に入れるのだから、お構いもしなければ落ち着くものではない。それに「今きたところだから」と言ってくれるのなら、「ああ、この人は人間なんだな」と軽蔑したものなのに。僕は何様のつもりなんだろうか。
「どうぞ」
もう見慣れたリクルートスーツとリクルートバックとリクルートシューズ。髪は後ろで一つに束ね、清純さとミステリアスさを兼ね備えた「生保レディ」のお人は、僕が鍵を開けた玄関ドアを引くと、小慣れたように土間に入り、玄関灯の中と外のスイッチを押す。
慣れたもので、靴を丁寧に揃え家へと入り、こちらの目が届く距離を保ちながら、すたすたと広く薄暗いリビングへと出る。木製のダイニングテーブルがセンターを型取り、夜光が広いリビングダイニングをぼんやり照らす。
一人暮らしには広すぎるし、三人暮らしにも広い。二階へと上がれば有り余るほどに空き部屋があるし、トイレも三個にシャワー室も二つあるし、なんなら、中小企業のオフィスを構えることも可能だろう。もちろん僕はそんなことを許可することはしない。
だって僕は、この家がなければ消えたくなるから。僕がこれを失ってしまうのなら、アイデンティティなんてゴミと一緒だから。
「さあ、お話ししましょう」
女性はいつもの席に座り、僕の出す麦茶に口をつけてくれる。