第二十二話
シンプルなレイアウトだ。ベットとテーブルとテレビ、ユニットバスにはシャンプーやボディーソープ。ビジネスホテルと変わりないレイアウトとアメニティ。きっと深い意味はない。
ドアを開けるとそこは廊下で、控えめなライティングが施されている。静寂が包む廊下には僕しかおらず、晩秋の堪え難い冷気がより一層僕の身体をひやりとさせる。あまり感じることのない冷気には、もちろん耐性がない。
廊下を静かに歩いていくと、エレベーターホールに着く。
このくらいは。
僕はそう思い、横の非常口階段の重厚な扉を開け、音を立てぬよう静かに閉める。階段には非常出口の緑の案内と、三階の表記があるが、空調の暖かさを受けることはできず、底冷えする寒さに思わず手をすり合わせる。
響く階段を降りていく度に、その寒さがましているように思う。まだ体温を上げきっていない身体が拒否反応を示し、着替えたばかりのウェアを着替えてもなお、暖かいベットで寝ていたいと糾弾する。
自分の身体のことは自分がよく知っていると云うが、そんなわけはないと思う。
朝の通勤を毎日こなすだけの筋肉量を駆使し、三階から一階まで降りると、また重厚な扉を開け、静かに閉める。暖かな空気が僕の身体を歓喜させ、僕の意識を少しはっきりとさせる。いち企業の、いち宿舎として考えれば豪奢。あの風変わりな建築物を建てたと考えれば、妥当な造りのエレベーターホールから移動すると、ロビーや談笑スペース、大きなグランドピアノが置かれたカフェが目に止まる。
宿舎という名のビジネスホテルだ。この時間帯から働き出す清掃スタッフや、フロントスタッフ、カフェスタッフはこの時間帯からモーニングの準備を行っている。
来客・賓客に加えて、地方に広がる支社・分社から出向を受けた社員も想定した宿舎は、サービスもさることながら、スタッフのレベルが高い。僕はその道のプロというわけでもなければ、マニアというわけでもないけれど、きっと高いホテルのスタッフはこんな風に、教育が怖いくらいに行き届いているのではないだろうか。
「おはようございます」
なんというか、近所の学生の元気を振りまく挨拶ではない、優しい声音と音量で挨拶をする。会釈や目礼で返すのも失礼ではないような、控えめでいて不足ではない絶妙な挨拶をする。
僕は歩きながら軽く会釈をして、フロントの前を通り過ぎる。
きっちりとした見た目は、やはりどこか自然的ではない。身を粉にしているといえばニュアンス的には伝わるだろうか。それは本心からの「おもてなしの心」なのだろうかと、疑問を抱いてしまう。
おもてなしとは、なんなのだろうか。他者を満足させるため、自己の保身を犠牲にしたブースト的なことではないのだろうか。
僕にはできないだろう。一人っ子の僕には、他者の気持ちを推し量るなんてこと。分を弁えない行動だ。
フロントを横切り、一面ガラスのエントランスを見る。朝靄がかかる車寄せに人はおらず、早朝のまだ世界がはっきりとしない空間が広がっている。
二つの自動ドアが開くと、世界の輪郭がその片鱗を覗かせる。僕の存在などちっぽけに過ぎないと、早朝の朝靄とともに知らしめてくる。
広大な芝は、今の時期、色味を失い灰色となっている。車がスムーズに流れるようになっているのか、通常よりも大きな円を描くロータリーは、なかなか特徴的で印象深い。都会ではなかなか見られない、広い土地をならではの構図。
芝生が主役、と僕的には言いたいのだが、きっと誰もが納得しない。
成層火山のそれは、郷土富士として親しまれていそうなほど綺麗な円錐型で、晴天を突き刺すような堂々たる佇まいには、思わず足を止めて眺めてしまう魅力がある。
今日はずっと晴天だろう。
ふと真上の上空を見上げると、青々とした空がある。自然に囲まれた中で、これほ雄大な土地で、僕は奇縁を感じている。
「おはようございます」
それはさっきのフロントフタッフと同じトーンの業務的な挨拶だったけれど、こちらも声を出すべきだろうと思うところは明確に違うことだった。
「おはようございます」
「身支度が整っていないあなたも珍しいものですね」
彼女は朝にもかかわらず、明るく振る舞う。よくできると尊敬する。
「早朝ですから。僕にかぎらず、多くの人間はこんな形で散歩に出かけるのでは?」
柔らかい表情で女性は答える。
「理解しています。もしよろしければ、私も「それなり」の格好をしてきますが、いかがでしょう?」
「いいえ。遠慮しておきます」
だらしないのは僕だけで十分だ。どうせこの天然パーマは、水に濡れないでもしないかぎり直らない。それなら、汗をかいてからシャワーを浴びたいものである。
彼女は、シンプルな装いだった。機能性が高そうな黒いダウンを羽織り、インナーは速乾性の高そうな白色の素材をのを着て、長いパンツを履いている。
美人はなにを着ても映える。あまりに不公平だ……なんて思わない。僕と彼女とでなんの比較になるのか。
「では参りましょうか」
彼女の先導に付き従い、エントランスから横に伸びる歩道を歩く。整備された芝生に挟まれた、幅広の歩道はまさしく散歩道というべき道で歩きやすい。きっと搬入口の確保という役割も担っていることだろう。
こうしていると、僕がどれほどコミュニケーションに秀でていないか判る。たとえば、天気のことでもいい。ここは朝靄がよく発生するんですか、とでも訊ねれば、彼女の手腕をもって芽吹かせてくれるだろう。
決して、沈黙が嫌いなわけではない。むしろ好物だ。だけれども、この静寂はあまり褒められた類のものでもなければ、僕に利益をもたらすようなものでもない……。
「どうでしょうか。ここでの生活は」
彼女は少し目配せして、後ろにいる僕に声をかける。僕はそれが申し訳なく思い、歩みを進ませ隣へと並んで歩く。
「生活というほど、長い時間を過ごしたわけではないので、なんとも言い難いものです」
彼女は手を口に当て微笑む。
「ふふ。ええ、そうでしたね。あなたはそのように振る舞われるお方でした」
「というと?」
「ええ。実はとても安堵しています。あなたの場合、予測のつけようもありませんでしたから」
僕は、僕が単純な性格の持ち主だとわかっている。考えているようで、何も考えちゃいない。僕の言葉は、苦しみをいなし、一日一日を繫ぎ止めるようなものだ。
僕がこのどうしようもない思考を止めれば、死んでいるも同然。モノと大差ない。
「そうでしょうか」
「ええ」
僕らは施設から離れた山林の前まで来る。エントランス横から伸びる歩道は、やがて整備された山林区画へと入る。立派なヒノキだろうか。間伐されたであろう日光の入り方と、手入れされたであろう歩道の状態から、人工的な管理が入っているだろうことは素人目にもわかった。
「虫は苦手でしょうか?」
彼女は立ち止まり訊ねた。僕は少し前で立ち止まり、何でもないように答える。
「とくにそういったことは、ないと思いますが。できれば過信しないでいただきたいところです」
「そうですか。それなら大丈夫だと思いますが、体調に変化が見られましたら、声をかけてください」
「毛虫とかですか」
「ええ。万が一があってはいけないので」
僕をよそ目に彼女は歩みを再開させる。そこまで過敏に気にかけるのは、もうそろそろ慣れなければならないことだ。彼女にも守るべき矜持と義務がある。僕にだってある。誇りは持つべきものだ。
森林の中に入ると、隔たりがあったかのように、空間がからりと変化する。空気は一層冷ややかなだけではない。空気そのものが浄化されているように、樹々の香りを感じ、鳥の声を耳にして、朝露に湿った空気に爽やかさを感じる。
どこが違うのだろうか。
母の残り香を再現しようとした僕の庭と、この手が付け加えれたであろう山林との違いは何なのだろうか。
「どう、されましたか」
なんと答えればよかったのだろうか。僕はもう少しだけでも、自問したい。
「いいえ。なんでもありません」
うまくできたと思う。なぜなら、彼女はなんでもないように微笑んで、前を向いて先導してくれたからである。それぐらいで充分だ。