第二十話
「よくお分かりになられて、こちらとしても一安心でございます。時折いらっしゃるのですが、いやいやしい表情と言葉で演じてみせても、お気づきになられない方というのは、どうしてもおられます。あなたにとっては、いらぬ気遣いでしたね」
他人と話している時に、耽っているなんて器用な真似俺にはできない。フラットな喋り方に聴こえる男性の言葉に、耳を傾け続けるが、どれもこれもマジックの種明かしをされているようで、確かなものが霞んでしまうようだ。
「さてさて」
じめじめと、主人に従う下人のような陰鬱とした男性の仕草に、不快感を覚える。裏にはとんでもない毒物を蓄えていそうな二十代後半から、三十代あたりの男性。身なりは黒のスーツでまとめてはいるものの、典型的な日本人の造形は、決して整っているとは言い難い。
ソファに腰掛けた男性は、持参したカバンの中をごそごそと探り、持ち運び型の消毒液とガーゼと絆創膏を取り出した。手慣れたように消毒液を中指に散布し、ガーゼで血を拭き取り、絆創膏のシールを剥がして傷口に貼った。
「本来は、内装されているであろう保証書なんかで切ったように偽装するつもりでしたが、偶然段ボールで切ってしまいました。油断していたのでしょうか」
こちらの視線だけで、俺が尋ねたいことを把握したかのように、男性は疑問点をまた一つ払拭してくれた。
「いつもではありません。お子様のおられるケースで、古風なマジックを披露するなどというのはありますが、このような凝った芝居を打つというのは、特別なケースに分類されるでしょう。昨今の情報化社会では、お客様への訪問販売というのは、どうしても高齢者の方々に偏ります。お客様世代のご加入者は、本当にごくわずかですね」
名刺に記された企業名に、聞き覚えはないが、おそらくネットで検索すれば、ちゃんと出てくるはずだ。保険業について知っていることなど一般人以下のものだろうが、一つの大手企業がもし詐欺を疑われれば、業界転覆なんてこともありうる話ではないだろうか。
若者はそういうところにわざわざ金をつぎ込むということはしないだろう。俺みたいなフリーターなどは余計に、健康状態を保っておくことに徹するのみだ。
「私どもは、保険業を生業としている利益団体ですが、お客様の半生と共に歩んでいく組織でありたいと願っております。たとえ契約が切られしまったとしても、お客様のご相談にはできるだけお応えしようと努める所存でございます」
男性はこちらに向き直し、姿勢を正して、しっかりと目を見つめて言葉を発した。
「お客様の幸福が私どもの幸福などと、綺麗事を述べるつもりはありません。しかし、お客様の幸福をそばで拝見させていただけることが、幸福ではないとは否定する気は一切ございません」
「そこまでおっしゃるのなら、なぜこうも不審を煽るようなことをしたんですか」
男性は気苦労絶えないだろう溜息をついて、やるせなく話す。
「こうでもしなければ、保険に興味のないお客様には振り向いてはもらえません。というのが表の理由でございます。裏の理由は、お客様が望んでおられる情報に基づいておりますゆえ、まずはこちらをご確認ください」
男性はカバンから紐付き封筒を出し、こちらに手渡した。
「これは?」
「それはご自分で確認された方が良いかと」
男性の淡々と語られる口調から、予期せぬことは起こりにくいだろうと思われた。悪い予感は悪いままに伝える。そんなポリシーが男性の言動を見ていて、なんとなく伝わってくる。
紐をぐるぐると回し、封を開けていく。手に持った感覚は、分厚い書類のようだが、中を見てみないことにはわからない。
中にあるものを手で全て掴み、ガバッと取り出す。親指にかかった感覚は、現像した写真のような感触だった。
「大学病院の診断書ですか」
ホッチキスで止められた書類の一枚目には、表題として有名大学病院の診断書というのが記載されていた。結構な分厚さがある一部と、薄い一部と、カラーで刷られたパンフレットらしきものが最後にあり、親指の感覚がそれだと判る。
「はい。診断書は」
男性の言葉が止まったことに、俺は何も言い返すことができない。
どうすることもできない。
文面に次々と目を通していくうちに、どんどん現実味がなくなるような錯覚に苛まれ、一通りを読み終えた後、もう一度前半部を読み返す。
何度読み返しても、いや、読み返せば読み返すほど、安堵するどこか現実味かけ離れていく。
こんなことはたまに見る悪夢だと。手渡した男性がさっきのように、顧客を信用させるための演出だとカミングアウトしてくれると。
そんな幻想に、縋っている。
ゲームの世界なら、近くに行って起こしてあげるだけで、また戦えるのに、回復すれば、また多くの人を助けられるのに、現実はこうも非情に降りかかる。
「なんで、俺なんかじゃないんでしょうね」
そうした文学意的な角度からのつぶやきが、世間からの反感やバッシングを買うことになったとしても、当事者にすらなったことのない人間たちに、とやかく言われたくはないと思う。
隠れて生きているような「串揚げ団子」の人生は、そんな不純な動機ではじめたような、ちっぽけで、ネット上の虚構。
こんなのに涙したり、喘いだり、顔をくしゃくしゃにしていることは、俺であって優勝した串揚げ団子でもなんでもない。
「さあ、わからないよ。誰にもわからない。ただ、選択して悔いのないことを選ぶということができるだけ。自己欺瞞だろうとなんだろうと、僕たちは、悔いの少ない選択を選ぶことができて、選択するためには何かを努力したり、諦めたりしなければならない。それが僕たちの生きている現実でのことだよ。君が、本当にライフルで他人を殺したことがないように、魔法や超科学でも救えないものがある」
男性の放つ声が、すうっと意識の中によく入った。
「彼女はもうすでに選択した。有限の時間の中で、彼女は努力をし続けている。どうするべきかを模索している。君は、彼女の努力にどう報いるのか。僕にはそれを見届ける義務がある。保険屋として、いち大人として、お客様の幸福に力を注ぐ覚悟がある」
まだ止まらない嗚咽の中、俺は懸命に応えた。
「優勝します」
放った声は無様に震えていた。しかし、後悔をするものではなかった。後悔してなるもんかという意地にも捉えることができたが、それよりも心を埋め尽くしているのは、彼女の喜んでいる姿に応えたいという、野望だった。
この際、我欲でも意地っ張りでもいい。なんと言われようと、あのときのように、優勝の興奮に浸らせてやる。着眼しなかった奴らを見返してやる。この練習場で、俺は世界中の誰よりも上手くなってやる。
俺は、白城満は、涙を拭いて決意する。
苦しい思いを忘れさせてやる。
それはノースコリアと同じ、ソ連的ともいえる巨大建造物だった。東京の自宅から車で二時間弱ほどの、新緑地帯の中に佇む様相は、ノースコリアのような寒冷気候と、長年の政治体制によって生み出された二十世紀初頭のモダニズム建築の味。社会主義の味だった。
スターリン様式を嫌うわけではないが、あのような宮中めいた巨大建造物ではなく、合理性と機能性の欠陥を度外視しないための巨大空間は、やはりどこか悲壮的で、排他的で、この建築物が朽ちた先には、悲愴しかないのだろうと思わせてくれる社会主義的な様相は、やはり目を惹く。
晩秋の森林は、樹木が一斉に色めきだって、人間が頬を寒さで赤らめてしまうように、施設を取り囲む森林らも、僕という存在に対して、恥ずかしがっているのではないかと、不甲斐なくも思う。
企業の車両が車寄せに停車すると、上品な印象を持つ運転手は降りて、後部座席のドアを開けてくれた。暖房で暖められた車内を恋しく思い馳せながらも、降車し、先に降りていた女性の案内に従う。
「こちらです」
少しよれたリクルートスーツの女性の後に続き、エントランスホールへと出る。ここまでくると、そのスカート丈は、子供の頃にニュースで観た軍人女性のようで、少し恐ろしく感じる。
案内されたエントランスには、首が痛むほどの高天井が広がり、バロックのような豪奢なシャンダリアではなく、機能的な白色照明が、さんさんと僕らだけを照らす。
指先を温めるような吐息でさえも、こだましてしまいそうなほど、巨大なエントランスホールには、入ってきた僕たち以外に誰もいなかった。
「閑散としていますね」
暖房のごーっという駆動音もなく、されど空間内は冷えず、建築物通りの荘厳な静寂が、緊張感を際立たせる。
「ええ。ここはお客様専用のホールですから、通常、施設職員らが入ることはありません」
女性は立ち止まり、他にないですかという視線を送った。
僕は遠慮なく訊ねる。
「なにか、社会主義とか共産主義とか、人民主義とか、そういう香りがしますね。床一面に赤絨毯が敷かれていれば、なんというか、中華的にも捉えられます」
女性の佇む全身像は、北欧風のダイニングテーブルを挟んでいる時も、キューガーデンのようだと評した時も、この眼には捉えきれていなかった。
だから今も、捉えられているとは思えない。就活生のようなローヒールが、ますますのノースコリア。ソ連。東欧に広がったような社会的、共産的な存在にしか捉えられないことは、どこか狂っているとし思えない。
「弊社のルーツは、彼の国と深いものがございますので、あなたが感じておられる印象は、間違っておりません」
それは恐ろしかった。体力と精神力をぎりぎりまで削られ、そして犯されるように洗脳されていく。まるで、僕の生まれるずっと前に、人々を恐怖させたテロ事件のように恐ろしい。
子供の頃、テレビの特集を観ているだけでは判ることがなかった、洗脳による恐怖がこのようにして個人を食らう感覚。
僕には耐えられるだろうか。この荘厳の中で、僕は僕でいられることができるだろうか。
「ここに招かれるお客様は、さぞかし怯えるでしょうね」
僕の自虐的な言葉に、女性は言葉をそっと添えてくれた。
「ええ。だから供に住まうのです」
カルト的であり、そして社会主義的でもあるこのエントランスホールだけでも、僕に充分なインパクトを与えた。
僕が息を呑んだとき、女性は一歩を踏み出す。
エントランスホールには階段がなく、奥に進むか後ろに戻るかしかなかった。進行方向の一本道は、エントランスホールから伸びる裂け目道のように、天井高で、暖かい空気が漂っていた。
足音は僕と女性の二つだけ。それ以外に音らしい音は聴こえない。
「あなたはここで?」
「いいえ。この施設が完成しましたのは、私が企業に拾われたずっと後です。確か、竣工してから十年も経過していない新しい建築物ですよ」
僕が、どこか他人行儀なところを指摘すると、「私が担う業務は、東京の本社で行うことがほとんどなので、ここに来るのは、非常に稀です。もちろん便宜上、施設について網羅しましたが、それまでは至らない点がほとんどでした」と、応えてくれた。
「あなたのように、長く付き添ってきた人間にも明かされていなかった」
僕がつぶやくと、女性はこちらを向き、立ち止まった。
「そのような大それ陰謀説を唱えなくとも、私どもの組織体系は完成されているため、内部分裂は万が一にもありえないかと」
僕には、女性の自信の根拠に思い当たる節があった。
「僕を選定したという、高度なコンピューターですか」
女性は首肯し、歩みを再開させた。
「もちろん民主的で、倫理的な役員会議にて、議決された人事部人員というのは存在します。そこは人間で譬える大脳ですから、人間の手が入らなければ効率的に機能いたしません」
大脳に埋め込まれたチップか何かで、自身の意識が支配されるなんてSFの設定にありそうな事だから、つまりは、従っている細胞らは納得しないということだろう。
「あなたのように従順ではない人員もいることにはいると?」
「ええ。それはもう、個性的です」
女性はジョーク気味にそう言った。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花というが、女性にそのような美徳を感じることはない。感じはしないが、僕にとって女性を形容する言葉が、それぐらいしか知らないということを再認識しなければならない。
通路をしばらく進んでいると、何やら人間の肉声が聴こえてくる。
しかしそれは、大声を出し事を荒立てるようなものではなく、普通の声量の会話だった。
「ここは音がよく反響します。ご注意ください」
女性の小さな囁き声に、僕は頷き、そして小さな空間へと出る。
一辺、十五、六メートルはあるだろう、正方形の空間。奥にはまだまだ続く道があり、ここが目的地ではないことを匂わせる。窓はないが、空間は先ほどのエントランスと同様に、開放的で暖かい。
そして何より、人がいた。
両端には、壁と同じクリーム色のソファがあり、S字を描く大きなソファの位置から、待合スペースの役割をしていると推測される。しかし、そのソファに座る人物について、推測することはできず、僕は女性の動向を見守るばかりだった。
「お久しぶりです」
女性は最敬礼にて、感謝の意を体現していた。
顔を上げると女性は歩みを進め、僕もそれに従ってゆっくり後に続く。ソファから立ち上がったリクルートスーツの男性は、それとなく事情を把握している様相だったが、手前側に座る女性は、どうやら僕と同族らしかった。
「ごぶさしぶり」
噛んだ。
「お変わりないですか」
「え、まあ、それなりには」
なよなよ、びくびく、おどおどと、男性を言い表すにはそれらのオノマトペが適当だった。女性はどうどう、きりきり、やわやわと、一括りにするには勿体無いほど個性的であると思われる。
「ああ、ええと、こちら」
そういうしきたりがあるのか、どうやら作法上、あちらが見知らぬ女性を紹介するらしい。が、ここにいる誰もが予測した通り、スムーズに物事は進行しない。
「なんとお呼びすれば」
なよなおな男性の問いかけに、女性は腰を上げ、身なりを軽く整えながら話した。
「普通に名前でいいでしょう?」
「ああ、はい」
僕が紹介する立場だったら、気の強そうな女性をちゃんと紹介できるかだろうか。という再三の想像に感けていると、女性の紹介がやっと始まる。
「フタギナトミさんです」
印象とぴったりすぎて、微笑んでしまうのを抑える。他人の名前で笑われるなどは、第一印象として最悪だし、悪意がない笑いでも、ジョークが伝わるかは別の話だろう。
フタギナトミさんの会釈を待って、今度は僕の紹介が行われる。
「こちらサイノチカラさんです」
女性の口元が緩んだことを察知する。会釈している最中になんとか整いておいてもらわなければ、こちらとて親切心など持つ気になれない。
「二つの木と書いて、二木。ナトミはそのままひらがなです。すみません名刺を持ち合わせいませんので」
「こちらこそ名刺を持ち合わせておりませんゆえ、申し訳ございません。菜の花の野原を耕す力と書きます。よろしくお願いします」
互いに名乗り、握手を交わした。女性らしい冷たい手で、繊細だった。
「よろしくお願いします。素敵なご紹介ですね」
「簡潔に覚えやすくを追求した帰結です。お褒めいただくほどのものでは」
「いえいえ。私の名前はあまりに味気なく、「二つ」の呼び方を「本」にするか否か。ぐらいしか思いつきません。おこがましいながらも羨ましく思ってしまいます」
とても他人行儀な言葉で、どれもこれも核心に迫るものはなく、女性が介入しているのを待っている。どんな関係かも語られない中で、これ以上どうすることができるのか。と思う。
「両親から授かった名前の通り、パンプアップした肉体を有していれば誇れるのでしょうが、見ての通り痩せ型でして」
女性は僕のジョークに口元を和らげてくれた。
「失敬、笑ってもよろしかったでしょうか」
「ご好評承っております」
意外な、といったら失礼に当たるだろうか。女性の笑い声は、がははと酒樽飲み干す海賊のようなものではなく、お淑やかさが垣間見える上品なものだった。
「それで」
と、僕は切り出した。二木さんにそれとなく目配せしながら、僕は仮説をほのめかす。
「それで、そちらの方は、二木さんの保険外交員ということですか」
「ああ、ええ。はい。彼が私の元に訪れ、今回のお話を」
二木さんはその先を話して良いものか渋っているようにみえた。ここに来る車内で渡された紐付き封筒の中には、関係者以外の情報漏えいは、損害賠償請求対象となるという利用契約の書類が封入されていたし、女性の口頭でも説明を受ける事柄であった。許可なしに話すことは危ぶまれる。
「え、ええと。よろしかったですか」
男性はそうして、僕の保険外交員に訊ねた。
これは痛い。と僕は思う。
女性は僕の感情に呼応したように、言葉を添えた。
「この施設内では、ご自由にお話いただいても構いません」
僕からすれば、女性の言葉には通常とは異なる強さが込められていたし、二木さんの保険外交員の男性が、おどおどしているのは、一見普段通り見えて、二木さんからすればどこか違和感を覚えるのかもしれない。
「今回お話をいただいた次第です」
静寂が僕らを包み込んだ。なよなよしたままの男性と、違和感を感じる女性。それと二木さんと僕。暖房のシステムがさっぱりわからないのだが、これなら、いっそのこと昔ながらの駆動音を立ててくれた方が、静寂は苦しくなかったと言える。
「やめませんか。腹の探り合い」
病院での静寂など、この時に比べればずっとましだが、それでも切り出すには勇気がいる。
「得体の知れないものを知っておきたいという防衛本能からよく逃避できますね」
女性の少し強い言葉が、僕に浴びせられる。
「ここは倫理的に行きましょう。これだけの異様な空間を作り出してしまうような人間です。理性的にしてみても、損害を被ることがないよう努めるのが、あなたたちの役割では?それとも、他に優先されるべき役目が存在しますか。そう、それこそ、防衛本能の生物学的な観察を行うだとか」
僕の言葉の後に続く静寂は、時間と苦しみが比例する。
「菜野さん」
二木さんの諭すような言葉が、僕の背筋をざわめかせる。
「あなたは落ち着く必要があると思います。持論を攻め立てるように言い放っては、せっかくの持論が異なる形で解釈される可能性があります。落ち着きましょう。彼らが言うように、私たちには危害を加えるようなことは、企業理念に反する行為らしいですから」
僕には空虚が訪れる。
冷静にふと振り見てみれば、そこには防衛本能むき出しの僕がいた。
冬の時代の記憶の片隅にある、洗脳による恐怖に。社会主義を背景にした巨大建造物の荘厳さに。僕は慄き、恐怖が触れられる距離まで迫っていたことに、背筋をぞわりと震わせた。
「ええ。私どもは、お客様と共にあります」
僕は女性の言葉が終わるとともに、冷や汗を拭いながら、ソファに腰掛けた。
倦怠感と睡魔が瞼を重くし、深い溜息をつかせる。こういうことになるのなら、今朝のような無理は禁物だったと、後悔したくなる。目を閉じておくだけでも、休息にはなっただろうに。
「菜野さん」
はっと顔を上げると、額の汗が少量床に飛び散った。爽やかさなど微塵も感じることのない、嫌な汗が顔面と首筋を中心に滲んでいた。
「よろしかったら、これで汗を拭いてください」
手渡されたハンカチは、二木さんの親切心を染めたような黄色だった。菜の花のように鮮やかなハンカチを受け取ると、僕はお言葉に甘えて額の汗を拭った。
「ご迷惑をおかけします」
「いえいえ、これくらいは当然のことですよ」
さらりと言えるところ、二木さんはそういう親切心が重宝される世界で生きているのかもしれないと思った。年上の落ち着きを備えていながら、元気はつらつという常套句が絶妙に似合う女性。チャコールグレーのスーツの装いは、職場の若い女性が眺めていた雑誌に載っていそうなカジュアルなテイストで、身嗜みに気遣っていることが窺える。
そうして二木さんの様相を確認していると、保険外交員の二名は、僕らからは距離をとり、道を挟んだ反対側に位置するソファの端。最も僕らから離れたとこに、背中を向けて着席していた。
何かを話しているようだったが、ひそひそと話せば、内容まで把握することはできないし、されないと推測された。
「彼らのことが気がかりですか」
そうして小声で尋ねられ、僕は少し落ち着いた汗を拭いながら、ぼそぼそと話す。
「この建造物は異様に思えます」
「先ほどもありましたね」
二木さんの表情は、好奇心の思うままに相槌を打っているように思える。
「ここは異様だと」
「はいここは、ノースコリアやソビエト、社会主義や共産主義の様相が、よく反映されていると思います。ひどく主観的な解釈に過ぎませんが、この建物までの道の芝と松の木がより一層の、集中権力の味を増しています。カルト的な信仰を持つ教団や、軍事的な手段を容赦なく行使する政権。たとえは、他にもいくつかありますが、それらをモデルと仮定しています」
二木さんは、聞き入ってくれている様子だった。それが建前上のものでも、僕にはそういうサンドバックを嬉しく思う。
「そっか。これはそういうことか」
二木さんのつぶやきの真意を知りたく、僕は視線を向けた。日本人らしい美麗な顔は、小皺が気になってくる三十代くらいと予想されるが、現代の化粧技術というのは、マイナス五年を宣伝文句として謳うだけのことはあるなと、感心するほど高度だ。
「おそらく、私も似たような感覚を感じ取っていたのだと思います。しかし、菜野さんにお言葉を耳にしたことで、やっと気が付きました。この空間には欠けていることがあるということに」
それはなんなのだろうか。僕は思考したけれど、哲学的なことなのか文学的なことなのか、それとも立体構造的なことなのか、風水的なことなのか、見当つかない。おそらく、体調も少なからず見解を捻り出すに、なんらかの悪影響を与えていると思われる。
「本場とは異なる、寒冷な気候。ですかね?」
二木さんは、茶目っ気があるように答える。
「惜しい。すごく惜しいですよ」
ああ、モダニズム建築の線の力と、面の空間支配力を、これほどまでに論理的に述べ、当時の権力背景・時代背景に影響を与え、与えられるかについて、理解し、理解してもらいたいと思ったことか。
根っからの文系のくせに、そのようなことに手を出してしまいたいと、ないものねだりする。
「陳腐な肖像画や銅像、それか紋章。というのはどうでしょうか」
「陳腐かどうかはさて置き、正解です」
僕は予測を言葉にした。
「他の地域や国を貶すことは、二木さんにとって何か不都合でもあるのですか」
二木さんは、意外な反応で、人差し指を口元に当て、オフレコであることをジェスチャーした。
「それはご想像にお任せしますが、菜野さんが抱いておられることに大きな間違いはありませんよ。ただ少しだけ、立場をわかっていただけるのなら」
と、二木さんはそこで言葉を止め、僕の耳元で、囁いた。
「半官の仕事をしています。北にも幾度か」
二木さんの香りは、甘いバラの香りだった。
僕と距離を取って、それまでと同じように声量で付け加えた。
「この程度なら教えても問題はありませんし、私は彼らを信用しています」
一般の渡航者というのはあちらに許可された人間でいるし、ネットにも動画がアップされている。ただ、半官の組織となれば話は別。そして、このような巨大建造物に侵入を許可されたということが、余計に胸を騒つかせる。
「では、実物をその目にしたことがあると。まだ生きている建築物とその人々を」
二木さんは、「アーハン」と、グローバルに地球第一言語の合図地を打った。
「あちらにも英語を話せる御仁が、公的機関に限らず、多くおられるということですよね」
「ええ。同じホモ・サピエンス。同じ東アジア。彼らが生命上、重大な遺伝的欠損を有しているのならまだしも、そうではなく、民族や思想を批判しているのなら、分かり合える時がきます。それに、彼の国の男性は精悍な方が多いようですよ。軍人気質と捉えるかは、また個人の解釈の違いでしょうが」
二木さんの話は、僕にとって興味深いものだ。
「では、彼女らはどうでしょうか」
二木さんはどういうこと?と、僕に説明を求めた。
「僕の元に訪れた保険外交員についてです。僕もここに来るついさっきまでは、彼女は普通の日本人と遜色ない外的造形をしていると思っていましたが、何か違う雰囲気が、エントランスに入ってから彼女の周囲に漂っていると思います。彼女自身、ここを知ったのはつい最近だというのですが、僕にはどうしても引っ掛かりを覚えてしまいます」
二木さんは、話し込む彼女らの背中を観る。
「確かにあちらの方の髪質は、黒がはっきりしていて綺麗ですが、日本でも「濡れ烏」の色彩は見られる思います。やはりそれだけでは、思い込みとしか。彼らは、私たちの要望があれば、採血に応じてくれると思いますが、それでは」
二木さんが濁した言葉を、明瞭化した。
「軋轢が生まれるかもしれない」
「極めて高いと推測されるでしょう。私を担当している保険外交員とて、ああ見えて繊細な人間であり、いち企業の社員としての誇りがあるようです。菜野さんの担当者は、それよりももっと思慮深く、聡明で、一筋縄ではいかないと思います」
二木さんがおっしゃるのなら、少しばかりの信憑性を得られているとは思うが、それでもまだ、あのなよなよした男性が、プライドなどを語れるほどの気概を有しているとは思えない。
「ええ。度外視するわけにもいかず、契約したからには、僕らは、彼女らと協力関係に位置していなければならない。それに、家に住まわせるという過程もあるならば、そのような事態は回避しなければならない。しかし、その一方で、彼女の正体をある程度把握しておかなければ」
二木さんは、天井に響くような笑い声を出した。
「防衛本能が黙っていない?」
おそらくその言葉も、お淑やかな笑い声も、彼女らにも聴こえていることだろう。一瞥しただけで、何も危害がないことを確認すると、すぐさま会話を再開させた。
「あー、久しぶりに笑わせてもらった」
二木さんの本性は、快活なお方なのだろうと僕は思う。どれくらかと言われれば、僕のような変人と同じくらいだろうか。
「菜野力さん」
立ち上がり、改まったように胸を張る二木さんを見上げ、再度出された右手を見た。
「あなたのようなお方が、この場この時にいらっしゃることを嬉しく思います。ありがとうございます。あなたとは良好な関係が築けそうです」
僕はその言葉を聴き終えてから立ち上がり、二木さんの手をしっかりと握った。握ったまま、二木さんはふと話し出す。
「最初に聞かされたとき、どう思いましたか」
「新手の詐欺かと。大概の現代人は、帰宅後に家に入れろ入れとしつこく付きまとわれれば、そのように思ってしまいますよ」
こそこそと話している限り、彼女らが内容を読み取ることはまずない。だが、盗聴器や彼女ら以外の存在が、聞き耳立てているかもしれない。
「そうですよね」
「そのようなことがお有りで?」
「ええ。私は帰省中に拿捕されました。これは後から知ったことですが、私の居場所が不確定なため、東京の自宅にも甲信越の自宅にも、網を張っていたそうです。私の仕事柄、一箇所に留まっていることが少ないので、たった一回の携帯電波の探知に全力を注いだようですよ」
僕は、忠告ですか、と二木さんに尋ねた。
「そう受け取ってもらって構わないと思っています。まあ、本意を語るならば、山を張っていた東京近郊ではなく、実家にいたことで、あのおどおど就活生くんが担当となった。ということに笑っていただきたかったのですが」
二木さんの声に同調して、僕も声を潜めていた。
「心中お察しします」
お心遣い感謝します、と二木さんは述べ、そのあと憂鬱を吐き出すような溜息をつく。
「いくらマニュアルだとしても、彼が適任とは思えない。対立構造を作為的に作り上げているとしたら合点がいくけれど、そうではないとしたら、信頼が売りの保険屋としてどうかと思う。それに、コンピューターが選定したという話だけれど、私たちの選考基準も不明瞭で、二人だけとは限らない。解せない点は、まだまだたくさんある」
二木さんは腕を組むと、足を交差させ、自然体だろう立ち姿をした。
「僕らに共通しているのは、近親者に死者が存在していることだけですか」
「訂正を加えるとしたら、死者ではなく、もっと上手くやれたはずの人間がいた。というのがより正しいかと」
上手くやれたはず。あの母とどうすることが、上手いのか、そうでないのか、今になってはわかるはずもない。
もしかしたら、二木さんもこのようなことを想っているのだろうか。僕と同じような境遇の人間が、他にもいることを、女性も肯定してくれていたが、それが二木さんなのだろうか。
「ご歓談はもうよろしいですか」
僕らの会話が終わった頃、こちらの視線を見計らった女性が近づき、声を掛けてきた。
「ええ。それはもう、親交を深めたものです」
そう言われると、こそばゆいものがある。貞操観念の低い人間のような言動は、生き恥を晒すと同等の屈辱だ。
「お身体に不調をきたしたのなら、いつでもおっしゃってください」
女性はこちらに一声かけ、僕の首肯を受け取ると、奥側に佇む男性の元へと行き話し始める。
「私にも言ってくださってよろしいですよ」
「ええ、ありがとうございます」
やはり、僕は他人とのコミュニケーションが得意ではない。母は、そういうところ教育不足。というか、興味がなかったように思える。
二木さんは、母のような頼れる人物を失ったのだろうか、それとも、守ろうとしたものだろうか。もし、母のような強い人物なら、彼女らは酷いことをする。
僕がそうして溜息をついたとき、こちらに近寄ってくる足音をキャッチする。僕たちと同じような、少数の人間が歩いて来る足音は、男性のものばかりだろうと思い、的中させる。
通路の入り口側で立ち止まったスーツ姿の男性は、彼女らよりも年上で、どちらかというと二木さんと同世代だろうと思う。
「お久しぶりです」
こちらに近づいて、会釈した男性の肉声は、姿と打って変わって優しい声音だった。低音域の男性特有の渋く、深く、優しさに満ちているようないい声だった。
「一週間も経っていないでしょう?」
「これは謝罪の意も込められております」
二木さんはそうして冗談に付き合う気はないとばかりに、語気を強めていう。
「もしそうなら、適した言葉を述べたらどうですか」
何か軋轢が生まれたのだろうか。いや、この場合は軋轢ではなく、ただのお調子者とそうでないものと区別するのがいいだろうか。それとも、これを噂に聞く腐れ縁というやつだろうか。
男性は笑みを浮かべながら、いってみせた。
「いやいや、それではお客様に対しての心遣いというのが成されません。このような場において、ユーモアというのは欠かせない要素なのです。ご理解いただけると嬉しいのですが、どうしてもとおっしゃるのなら、あなたが犯してしまった失態を露呈させ、免罪符の回帰を実現させるべく」
二木さんが嫌う理由がなんとなくわかった気がした。価値観の根本的な相違なのだろう。自身の汚点を軽々しくも口にすることで、憎悪するには充分すぎる理由だ。
「それ以上言ったら、ぶっ飛ばすから」
二木さんの印象が少し変わった。なにせ、今にも手を出しそうな表情には、僕もいい声の男性も口を詰むんだものだから、武闘派の一面は正直驚く。
「失敬。度が過ぎたようで。菜野様にもお詫びを申し上げます」
僕の情報が共有されていることに対して、いろいろ判る。まずこの男性は、企業側の人間ということ。それから、二木さんとは顧客だけの関係性ではないということ。僕の顧客情報を管理する、上位の存在と判断するには、まだ懐疑的ではあるが、彼女らの態度ですぐ判る。
「おお、珍しい顔がいるね。長崎以来かな」
「はい。その節はお世話になりました。お久しぶりです」
お辞儀をしているということは、つまりはそういうことなのだろう。重役の風格というのは、一朝一夕で身につくことはできないと、僕自身が証明しているし、なんなら母のことを引き合いにしてもいい。
「それにしても、吉日良辰だと思わないですか」
男性は、人が集まり出した混乱を避けるためか、取りまとめるため声量大きく、みんなに話しかける。
「まさか、お客様が全員揃われる日が、奇しくも今日とは、こちらとしても嬉しい誤算でございます。ではこれから説明を始めさせていただくとします。お客様と担当者はお集まりください」
男性の声かけのあと、僕は女性に「こちらです」と囁かれ誘導された。事前に整列としての掛け声が設定されていたようで、他の人物もそれぞれ固まる。学生時代の体育実習に戻ったような感覚だ。
僕と女性担当者。
二木さんと男性担当者。
そして、青年と眼鏡をかけた優しそうな男性担当者が、一同に並んだ。
「皆様に、ご足労願いましたのは、私どもが提案させていただいている新規プロジェクトの成功を実現させるべく、私どもの施設をご覧になっていただくためでございます。ところで、私の風貌により、恐怖感を与えてしまうということが度々意見として上げられまして、お客様には大変恐縮ではございますが、不躾な発言をご了承ください」
男性はそうして前置きを話し終えると、すっと胸に手を当て、また口開くときには砕けた印象で話し出す。
「さて、緊張も解けましたところで」
そこでみんなに細やかな微笑みが浮かんだ。これがツカミはばっちりというやつだろう。僕が知る限りで最も豪快に笑いそうな二木さんは、ぴくりともしなかったが。
「私どもは、お客様同士の干渉を推奨しております。しかし、お客様がお断りされるのなら、それも貴重なデータとして記録させていただきます。私どもが期待しておりますのは、お客様による干渉がどのように影響するかを、汲み取っていただけるかどうかは、私どもが選定したお客様次でございます」
そのような高度な判断が、例の人工知能に実現できるのだろうか。僕の疑問は、さっそく答えられる。
「お客様にはご覧の通り、優秀な担当者としてご要望に応えられるよう、二十四時間待機しております。どうか、懐疑心をお持ちにならず、信頼関係を構築していただきたいと思います」
そうは言われても、彼女ら企業側の人間が、監査役だということに変わりなく、僕の心は快晴とはいかない。
「そして、我々の施設を開放いたします。ここをはじめとした、全世界に存在する我々と提携している施設に立ち入ることが可能になります。もちろん担当者と同伴していただくことが最も好ましいですが、緊急性を要する場合は、一報を入れていただけるのなら、それもよろしいかと」
そういえば、そういうところ、訊きそびれていた。
二木さんは、機嫌悪そうに言葉を発する。
「勤務中はどうするの?」
男性はにっこりと笑って、言ってみせた。
「それにつきましては、こちらの圧力及ぶまで。ということで回答とさせていただきます。もっとも、お客様が不快感を訴えられるのなら、こちらとしても再考の余地があるというものですが、全面的な拒否をご希望されるのなら、お客様であることの権限剥奪もありうるかと」
男性は、少し間をおいて、「私が決定を下すことではないので、確定的なことを申すには信憑性が欠けます。ですが、そのような可能性を予測することは容易いと申し上げておきたいと思います」と述べた。
「具体的には、各々の担当者と相談して決めろ。ということですか」
僕は合いの手を入れるつもりで、言った。
「ええ。そのような解釈で間違いないと思います。担当者らは、評議会が設定したノルマというのがありまして、どこからが線引きされるというのは把握しておりません。すべては担当者らの上位組織の評議会が決定を下すこと。私はもちろん、多数の社員がその実情には詳しくないでしょう」
それは組織として如何なものか。僕は疑問に思うが、秘匿性を有している方が何かと身動きが取りやすいと思うし、万が一素人であるこちらが口を滑らしてしまった場合を想定すると、それらの体制に文句は言えない。
では、結局のところ。僕らは「お客様」としてサービスを受けるのか。それとも、一緒にプロジェクトを作り上げていくのか。
もしかしたら、それすらも、決めろというのか。評価に値すると。そんなのはまるで、僕らが試されているようで、嫌な感じだ。
「さて、前説はこれほどに。私の口からお話しすることは、どれも真実味ないと自負しているつもりなので、核心の口からお話をお聞きになられたいことでしょう」
男性は、一拍をおいて、雄大に詭弁をふるってみせた。
「死人に口なしなどと申しますが、もしそうでないとしたら、あなた方は、どのような死した言葉を欲しますでしょうか」
僕らはおそらく、試されている。アンコウチョウチンみたく、餌を眼前に吊るされて、踊る様をまじまじと観察されている。この生き物はどれほど馬鹿げているだろうか。いつ、どのようにして己の恥辱に気付くだろうか。そして、気づいたあと、どうすることができるのだろうかを、観察されている。
信頼の欠落を云々謳うには、少々、的外れな概要だ。
僕らは、男性の案内に従い、奥へと歩を進めた。相変わらずの高天井。相変わらずのクリーム色。相変わらずの面々が進んでいくと、開けた空間へと出る。
エントランスホールよりも大きい、巨大空間。規則的に配置された何本もの支柱が、空間の壮大さを与え、周囲に配置された観葉植物が、とてもちっぽけに見える。この空間にマッチするのは、それこそ王立植物園規模の温室ぐらいだろう。
僕らが空間の壮大さにうつつを抜かしていると、男性が僕らを呼び醒まし、空間中央となる場所へ導いた。
男性は、円を描くアラブ的な文様の石床中央に立ち、キザに指をパチンと打つ。
音はこだましたが、すぐに聴こえなくなり、僕らはその瞬間呆気に取られていたが、それもすぐに消えた。
「私どもは、お客様のご多幸を祈っております。どうか、お気持ちを強く、ご自分の存在を見失うことのないよう、ご注意ください」
僕らはその時、想定できるはずのない事態に陥ったことを実感した。
僕らが目にしたのは、最も核心をついた「物体」だった。
「さあ、再会。そして、出会いでございます」
僕らはその時、息を呑む。
「サミテイシアプロジェクト」の核心が、電動車椅子に乗り、僕らの元にやってくる。
「死人の言葉に、お客様は、どのような葛藤を演じられるでしょうか」
僕は、数年ぶりに母の姿を視る。