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第十五話

 あの人は、風潮に流されることが嫌いだった。

 わたしとあの人は高校の先輩と後輩で、あの人がわたしに接近するまで、接点などというのは何百人の中で括られる曖昧なものだった。同じホモ・サピエンス。同じ平成生まれ。同じ高校出身という非普遍的な概念だけが、あの人とわたし繋げる数少ない枠組みだった。

 自称進学校を謳っている我が母校は、生半可な自尊心を有した生徒で溢れ、殺伐としており、わたしのような独りぼっちも珍しくなく、結果としてわたしは青春らしい青春を過ごすことなく、東京の大学へと進学した。求心力がある全国区の名前は、両親すらも黙らせ、担当教諭の自慢げな笑みを見せつけられるまであった。

 本当に、高校生のわたしとあの人を、繋げるものなどないはずだった。

 あのとき、駅で電車を待っているわたしに声をかけなければ、あの人は救われないままだったし、わたしも苦慮することはなかった。

「君と一緒の大学へ進学する」

 確かにわたしが手にしていたのは赤本だったけど、豪語するのは勝手だけど、なぜわたしなのだろうかと、率直な感情は疑念だった。

 あの人は、傍目から観ればただのうつけ者だったけど、わたしの審美眼からすると、カリスマだったらしい。

「君は、僕が見てきた中で最も利潤的あり、僕が求めてきたものだ」

 「じゃあ、わたしはあなたの我欲を満たすだけの存在?」と、わたしが尋ねると、あの人は独演的な口調で、まるで世界など鑑みていないかのように話す。

「いいや、違う。とでもほざけば、君は僕の思い通りに動くのか。違うだろう?僕はあまり出来のいい人間ではなく、君とは本来接触するはずのなかった人種だ」

 じゃあなんでわたしに声をかけたの?と、わたしが尋ねる。

「野蛮でいることに飽きた。だから君のような人種に寄生する」

 あの人に利益はあっても、わたしが受け取るはずだった利益はどこかで無くしてしまった。あの人にはずっとわたしの利益を視ていたのだろうか。ヒトの視界とトンボの視界ほど異なりそうなあの人は、よく灰色の雲を物憂げに見つめていた。

「君がいてくれたおかげで、互いに孤独ではなくなった」

 努力が実らず、あえなくわたしの大学の不合格が決まり、滑り止めの東京の私立大に通うことになったあの人は、またもや豪語した。

 そして、こうも言った。

「それに、僕は君の両親を納得させる用意がある」

「証拠は?」

 孤独から脱した僕を信頼しろ、と言った。

 あの人はそのような人種であり、整髪料などを嫌っていた。ちょうど目の前の就活生くんのように、いつもぺったりした髪型を好み、着飾ることを好まなかった。

「あれは部族としてはアリだろうが、僕は彼らのようなコミュニティーを形成しているわけでもない。それに直線的な外見が好きだ」

「それって、単に方法がわからないからじゃない?」

 わたしの指摘にあの人は肩をすくめ、答えた。

「まさか。着飾ることが良きことだという社会が好めないだけだ」

「孤独にした現代社会?」

 あの人は首肯した。

「テロルことはしないが、僕にとってここは窮屈だ。世界は広い。僕の求めるだろう安寧が、ここではないどこかで広がっているだろう。君は確か、英語の成績が学年でもトップクラスだったな。国語はからっきしだったが」

 あの人はそうして自身の引っ越しを手伝わせ、わたしを翻訳機代わりのような口を叩く。国語は、確かに足を引っ張ったから、反論のしようもないから、仕方がないのかもしれないが、あの人はわたしよりもずっと国語ができなかった。

 古典なんて目も当てられない有様。わたしが勉強を見てあげると申し出ても、あの人はわたしに弱みを露呈させようとはしなかった。

 あの人が孤児院暮らしだったということも、奨学金を利用していることも、わたしには最後まで知らせることはなかった。

 小学校の時の夢は、数学者。なんて、わたしが記録をみていることを知ったら、あの人は悶絶するだろう。

 フィボナッチが好きだったあの人は、パルテノンをこの目で見て見たいと、常々口にしていた。

 わたしは、ピサのドゥオモ広場にも、パルテノン神殿にも、訪れたことがある。どれもこれも、歴史的価値のある素晴らしい建造物。としか印象を受けない。

 あの人のように、数学的な美を感じることはなかった。ただそこにあるだけ。ただそこに歴史の証明として存在しているだけ。わたしは仕事の問題について対処するだけ。わたしか、誰かが発生させたミスをカバーするように努めるだけ。

 ただそうして生きるだけが、あの人が憧れてくれた、わたしという人間。

 そんな人間を見捨てないでくれたのが、あの人。

 わたしの夫。

 誰がこの歳で寡婦(かふ)になると思ったことだろうか。両親に啖呵切って、離別すらも口にしたわたしに、何が遺ると想像できただろうか。

 後戻りはできない。あの人が戻ってくることはない。あの人は、火事で死んだ。その焼死体もこの目で見て、触れて、あれはよくできたマネキンと同じ価値しかないと、判った。

「僕が死んだら?なぜ、放っておいても訪れる瞬間について思考を割かなければならない」

「人間誰しも、死に対して何らかの概念を抱き、他者に語ってみたいものじゃない?」

 あの人は肩をすくめて、答える。

「死など恐るるに足らない。なぜなら、死の向こう側というのは、誰しも興味を抱くものだからな」

 あの人は、火に焼かれたとしても、同じことが言えたのだろうか。熱かっただろうに、痛かっただろうに、苦しかっただろうに。

 あの人は独善的にそう言ってみせただろうか。

「解るはずもない」

 こちらのつぶやきに、就活生くんは何か言葉をかけようとはしなかった。ヒーターと外の霧雨を運ぶ風の音だけが、わたしと就活生くんのいる応接間を包み込んでいる。

 卓上のスマホはスリープに入り、画面は真っ黒で、就活生くんかわたしかの汚れが気にかかる。きっとあの人も、汚れだと言って、気にかかったことだろう。

「お客様の心的外傷が見受けられた場合、その、権限により、常時サービスの停止を検討する余地があります。もしも、お客様がご希望なさられるのであれば、私にお申し付けくださると、手続きしますので」

 内心溜息する。容姿はあの人と同じ部類に入ると思うけれど、その言動はあの人はずっと異なる。あの人は少数派の意見だとしても、独善的な口調で話す。どこぞの独裁者というのは、普段、ああいう話し方だったのかもしれないと思わせるほど、あの人の口調には、カリスマ性であろう力が込められていた。

 まるで、世紀末に行われたコンサートのように、あの人の言葉と言葉の間にある静寂は、舌で弾くように話す数学の単語は、人間が生み出す芸術だった。

「いいえ。もう決めたことです。それに、わたしはまだ起こってもいない事柄に、一喜一憂しません。その時がきたら、あなたの助力が必要になってくるかもしれませんが」

 就活生くんは逡巡し、言葉を絞り出した。

「その時になったら、私はお客様のサポートに力を注ぎます。お客様が傷ついてしまわないように、私はお客様をお守りいたします」

 わたしの白々しい笑みは、就活生くんにとって何を思わせるだろうか。

 歯を見せず、口角だけを上げ、唇を伸ばすようにニヤつくあの人の癖。クールだと思ったわたしは、真似ていくうちに、やめる理由もなく、自分の癖として定着させてしまった。

「傷つかないで得たものに、わたしが満足するようなものはないわよ」

 解けない問題があれば自室に篭り、回答が得られるまで苦闘したあの人は、いつもそんなことを言っていた。

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