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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
99/205

あの日から始まった(4)

 バーガーショップの店内は、アメリカ西海岸風の開放感ある内装でまとめられていた。

 白木のテーブルと椅子、レジ周りを飾るミニヤシの鉢、店の隅に置かれた青々としたパキラ。壁際にはただの置物と化したジュークボックスが鎮座しており、古めかしく加工された天井扇が高い位置で回っている。

 さほど広くないテナントの奥はガラス張りになっていて、その向こうにはテラスが張り出し、店内と同じテーブルと椅子が数組置かれている。戸外でも飲食ができるようになっているらしいが、俺も園田も蒸し暑い夜の戸外より冷房が程よく効いた店内を選んだ。


 園田一押しの豆腐バーガーは彼女の言う通り、絶品だった。

「おお、これは本当に美味い」

 一口食べて俺が感心すると、園田は自分の好きなものが認められて誇らしいのか、たちまち笑みを浮かべた。

「でしょ? 豆腐にこのソースが絶妙だよね」

 舌の先にぴりっと辛いソースはシンプルな味わいの豆腐とよく合う。そこに厚切りのトマトが瑞々しい酸味を添えている。この店のバーガーは結構な大きさがあったが、ボリュームの割にあっさりと食べられそうだった。

 彼女が容赦なく注文したサイドメニューの数々も、二人でシェアして食べる分には美味かった。夜九時近くにジャンクフードをどかどか食べるのは罪悪感も大きかったが、園田が楽しそうにしているので俺もなるべく気にしないよう心がけた。

「ポテトなんて食べたの久し振りだよ。意外といけるな」

 皮つきのポテトをつまみながら呟けば、向かい合わせに座る園田がきょとんとした。

「そうなの? あんまりこういうの食べない?」

「石田達と飲みに行く時は普通の居酒屋だからな。で、めいめいが好きなもの頼む」

 ここ数年、誰かと一緒に飲んだり食べたりという時はいつもあいつらが一緒だった。気兼ねなく過ごせる済む相手があいつらくらいしかいなかったからだ。

 できればこれからは園田がそういう相手になってくれればいいのだが、彼女はどう思っているのだろう。今夜は随分あっさりと誘いに乗ってくれた。食欲も旺盛な彼女は大ぶりのオニオンリングにケチャップをかけていて、その表情がなぜか嬉しそうだった。この夕食を楽しんでくれているようだ。

 俺も存分に楽しむ為に、まずは気になっていたことを確かめておく。

「これって、この間の写真のお礼とはまた別だよな」

 テーブルの上に広げられたポテトやオニオンリングを一瞥してから、俺は園田に尋ねた。

 園田はケチャップを絞り出していた手を止め、俺を見つめ返す。仕事の後の少しだけくたびれた顔が、なぜか一瞬だけ怯んだように見えた。

 だがその表情がすぐに雲散し、園田は明るく応じた。

「うん。今日のは乗せてきてもらったお礼だよ」

「そうか。ならよかった」

 俺は安堵し、正直に言葉にもしておいた。


 こちらが求めているのは金銭的な、あるいはそれに準ずるようなお礼ではないということを、園田には知っておいて欲しかった。

 もちろん俺が一番欲しいものは言うまでもなく決まりきっているのだが、それが直接お礼としていただけるはずもないことはわかっていた。だからその為の足がかりになるものが欲しい。

 具体的に言うなら、何がいいだろう。

 園田が俺をもう少し昔のような目で見てくれるきっかけ、彼女ともっと本心を打ち明けあえるような機会があればいいのかもしれない。ただ恋愛となると妙に恥ずかしがり屋の園田を攻め落とすには雰囲気作りが欠かせない。何もないところから口説こうとすると彼女は誤魔化して逃げに入ろうとするから、逃げられないように罠を張り巡らせる必要がある。

 例えば、夜空に浮かび上がる花火を見ながら、とか。

 浮かんだ想像を、俺は一秒で否定した。

 なぜかと言うと、あいにく花火にはいい思い出がないからだ。霧島が長谷さんを連れてきたことで、自業自得とは言え俺は園田を怒らせた。いつか彼女に見せたいと思っていた花火は、もう営業課の窓からは見られなくなっていた。そんな俺をあざ笑うかのように、去年、石田が屋上に上がって小坂さんと花火を見た。こうして振り返ってみてもつくづく花火とはご縁がない。俺にとって八月の花火大会は鬼門なのかもしれない。

 それでも園田となら、その縁のなさすらやり直せるということにはならないだろうか。

 俺はかつて思ったはずだ。

 園田となら、何があっても乗り越えられる気がすると。


「そういえば、さっきの花火の話だけど」

 久々のポテトに尚も手を伸ばしながら、俺はふと切り出した。

 園田はケチャップを卓上に置き、目を瞬かせる。

「そんなに花火見たかった?」

「違う。その話じゃなくて」

 それよりも先に伝えておきたいことがある。

「ふと思い出したんだ。ちょうど花火大会の頃だったよな、俺が園田を怒らせたのも」

 俺は懐かしむ思いで同意を求めたが、彼女の反応はいまいちだった。驚きに目を瞠り、

「そうだっけ?」

 と言ってからオニオンリングにかじりつく。その合間にも記憶を手繰り寄せようとしているようで、しきりに首を傾げていた。

 覚えてないなんてことはないはずだし、あってはならないことだ。俺は多少不安になり、思案に暮れる園田に助け舟を出す。

「まさか忘れたんじゃないよな。二人で森林公園に行ったのも八月の終わりだった」

 すると園田は唇を尖らせ、拗ねた子供のような顔をした。

「忘れてはいないよ。花火大会と絡めて覚えてなかっただけ」

 確かに、俺達の思い出に花火大会は直接関わりがない。花火大会の前に石田が振られ、俺が園田に合コンの話を持ちかけた。そして花火大会の後に取りやめの通告をして怒られた。これだけだった。

「あの日の園田はちょっと怖かった」

 今でも思い出すと胸か胃か、曖昧な部分がきりきりする。

「駅で落ち合った時にまず睨まれたし、ろくに口も利いてくれないまま電車に乗ったよな」

 出かける前からある程度覚悟はしていたが、駅で待っていた園田は挨拶も素っ気なく、俺が笑いかけてもにこりともしなかった。駅から電車に乗って目的地へ向かう間、俺は何度となく彼女に話しかけたり、その日の服装を誉めたり、行き先について質問をぶつけたりしたが、園田は何一つとしてまともに返事をくれなかった。

「そりゃそうだよ。私、すごく怒ってたからね」

 園田はためらいもなく言いきった。その物言いがいかにも彼女らしかった。

 そういうところに、俺は強く惹きつけられた。

「でも自転車に乗り始めたらあっという間に機嫌よくなって、ずっと笑ってたな。楽しそうだった」

 あの日、森林公園で見た笑顔は記憶に残っている。サイクリングロードでぶっ倒れた俺が道の脇に寝転がって、そして見上げた園田の笑顔は眩しかった。

「うん、まあ……自転車は楽しいからね」

 急に歯切れが悪くなって、園田は頷く。

 彼女にとってはどんな思い出になっているのか、聞かなくてもわかるような気がした。

「こっちは大変だったけどな。園田と一緒に自転車乗るのがあんなにきついとは思わなかった」

 タンデム自転車はデートで乗っていい代物じゃない。少なくとも俺みたいに見栄を張りたい男にはまるで向いてない。

「安井さんが運動不足なんだよ。あのくらいで音を上げるなんて」

 彼女はそう言うが、彼女の脚についていける男はそうそういないだろう。その辺にいてもらっても困るが。

「あのくらいって、十七キロもあっただろ。園田が健脚過ぎるんだ」

「まあ八月だしね。夏のサイクリングコースとしては長めだったかも」

「おまけに園田がぐんぐん飛ばすから、途中から漕ぐのやめようかと思った」


 蘇ってくるのは美しい記憶ばかりではない。

 あの日の蒸し暑さ、ぎらぎらと照りつける太陽、恨めしいくらい底抜けに青い夏の空と、だだっ広い公園の敷地を貫くアスファルトのサイクリングロード。

 緩やかな勾配の坂道をひいひい言いながら上ったことまで思い出されて、あれからもう四年になるというのに疲労がぶり返してくるようだった。


「そうだったんだ。安井さん、やめずに漕ぎ続けて偉かったね」

 園田は今更俺を誉めてくれたが、実際は途中でギブアップした俺にとって、その言葉はむしろぐさりと来た。

「いや、結局降参したんだから偉くもないよ。園田にも笑われたし、悔しかったな」

 もし俺が最後まで走り切ったら、園田はどんな顔をしたのだろう。

 ありえなかった仮定の話は想像が続かず、今、俺の目の前の園田はにやにやしている。妙に楽しそうだ。きっと自転車を降りてへばっている俺を思い出しているに違いない。

「楽しそうな顔するなよ。こっちは必死だったんだから」

 俺が咎めると、彼女は笑いを堪えながら詫びてくる。

「ごめん。けど、もっと早めにギブしてもよかったのに」

「そんな格好悪いことできるかって思ってたんだよ。しかも女の子の前で」

 それは俺にとっても悪くない思い出だったはずだが、多分悔しげな顔にでもなっていたんだろう。園田は俺を見て遂には笑い始めた。あどけなさが残る全開の笑顔で肩を揺らしている。

 四年経ってもやっぱり、あまり変わってないな。園田は。

「しかも笑うか。人の気も知らずに」

 俺は豆腐バーガーをかじりながらわざと拗ねたふりをして顔を背けた。だが結局、彼女の反応が気になって横目でちらりと窺う羽目になった。

 園田はまだ笑っている。もはや堪えようともしていない。

 その笑顔を見たら、笑われてもいいやと思えてくるから奇妙だ。格好悪いのも今更だろう。園田が笑ってくれるなら、俺は見栄を張りきれなくてもいい。

「でも、そうやって素直に笑ってくれるところが園田のいいとこだよな」

 実感したら、そう口にせずにはいられなかった。

「そう? 安井さんが笑われてるのに?」

 食べかけの豆腐バーガーに再び手を伸ばしつつ、園田が聞き返してくる。

「ずっと怒ってるよりいいよ。むしろあの時、笑ってくれて楽になれた」

 今度は俺が笑い、入れ替わりのように彼女は笑うのをやめた。

「その後、休憩するのに売店に入っただろ。それで俺が、全部奢るって約束してたから『何か欲しいものある?』って聞いたら、きょとんとして『何で?』って聞き返してきたよな」

 あの時の園田の不思議そうな顔、すごく可愛かった。

 直前に見た全開の笑顔と合わせて、俺は彼女が心底から俺を嫌っていたわけではないとわかって、すごくほっとしたものだった。

「何でってことないよな、約束してたのに。と言うか約束させたの園田の方なのに」

「素で忘れてた。安井さんが負けを認めて、やりきった気分だったから」

 俺のツッコミに、園田は気恥ずかしそうに首を竦める。


 やはりあの時、彼女は怒っていたのを忘れてしまっていたらしい。

 俺はどちらかというと怒りもその他の感情も非常に根に持つ方だから、そうやって忘れてしまえる彼女に感動と言うか、感銘と言うか、何だか込み上げてくるような気持ちになったものだった。

 一言で言い表すなら、あの時俺は彼女に惚れた。

 難しい話じゃない。たったそれだけのことだ。


「だと思ったよ。こいつ何しに来たのか忘れてるなって、すごくおかしかった」

 いつの間にやら豆腐バーガーが残り一口になっていた。

 俺は最後の一口を惜しんだが、躊躇せず口に放り込んで味わった。そして飲み込んでから続けた。

「あの時、園田って可愛いなと思った」

 園田も自分の豆腐バーガーを食べていたが、その動きがぴたりと止まる。

 そんな彼女を盗み見ながら、俺はバーガーの包み紙を丁寧に畳んだ。

「園田とならこれから先、何度喧嘩することがあっても、何度すれ違ったって、最後には笑ってもらえるんじゃないかって思った。こういう子と一緒にいられたら、何があっても幸せだろうなって」

 自分自身の直感を、一度は信じきれず途方に暮れた。

 だがあれからもうじき四年になる今、俺はあの時の直感を改めて信じたくなった。

 俺は、園田とだったらやり直せる。

 思い出話だってできるようになった。もう怖いものなんてないはずだ。

「今もそう思ってる。あの時からずっと、同じように」

 念を押すように告げると、彼女は困った顔をして豆腐バーガーを食べた。

 美味しいはずなのにもそもそと、らしくもなく小さな一口で食べている。視線が泳いでいるのはうろたえているからだろう。目を合わせてもらえないのは寂しかったが、即座に否定されなかっただけいい。俺達からすれば大した進歩だ。

 ただ、西海岸風のバーガーショップには不似合いな会話だったかもしれない。夜更けの店内にはもう俺達以外の客はおらず、俺達が黙り込むと開放感溢れる雰囲気には不似合いな沈黙が流れる。

 こういう話はそれこそ、いい雰囲気の中でするべきだった。

 例えば、花火でも見ながら。

「素面でするような話でもなかったか」

 俺がぼやくと、園田は黙々とポテトやオニオンリングの残りを食べ始めた。気まずげな顔で食欲旺盛に頬張る様子は、まるで大急ぎで帰りたがっているようにも見えた。だが席を立とうとはしない辺り、彼女も逃げられないことくらいはわかっているのかもしれなかった。

 その為に罠を張ったのだ。

 俺も今夜は、彼女の心が知りたい。


 食事を終えた俺達は、少しぎこちないままバーガーショップを後にした。

 ショッピングモールの駐車場へ向かう間も、車に乗り込んでから走り出すまでにも、そして彼女のアパート目指して夜道を走っている間にも、俺達はほとんど会話を交わさなかった。園田は来た時と同じように、黙って俺の車の後部座席に乗り込んだ。俺もそれをあえて咎めなかった。ただ俺が部屋まで送ると言ったら、園田は小さく頷き、ありがとうと言ってくれた。

 ヘッドライトが照らす車を走らせながら、俺は園田に言うべき言葉を探していた。告げたいことはたくさんあった。園田と別れてから俺がどんなふうに日々を過ごしてきたか、どんな思いを抱いてきたか、今は園田をどう思っているか、これからどうなりたいと思っているか――だがそれらの言葉は今ではない。今必要なのは、もっと昔に遡る言葉だ。

 俺は、あの日から始まった。

 園田は違っただろう。もっと前からだと知っていた。だが俺は愚かにも彼女を蔑ろにし続けて、そしてあの日までずっと彼女の魅力、可愛さと明るさに気づけなかったのだ。

 だから今も、まずはあの日の話からしなくてはならない。


「あの時、園田を好きになったんだ」

 ハンドルを握る俺は、後部座席の彼女にそう告げた。

 来月で四年になる。この想いを、結局四年も持ち続けてしまった。捨てることも、忘れることも一切できないままだった。俺は今でも、園田が好きだった。

 だがそのことを悔やみはしないだろう。

 後悔していることは他にもある。彼女の想いを無視し続けたこと、深く傷つけてしまったこと、その手を離してしまったことは大きな過ちだ。挽回もできずに足掻いている今、俺は過去の行いを何度も何度も悔やんだものだった。

 それでもこの恋そのものには後悔なんてしない。

 そんなものはとっくに通り過ぎて、後戻りできないところにいるのだ。前に進むしかない。

「あれから四年か。何もしないまま、できないまま時間だけが過ぎてるな」

 俺は静かに呟いた。

 それも今夜までだ。俺は罠を張った。彼女はそれに引っかかった。どういう形でも結果は出るだろう。

 この機を逃しはしない。

「知らなかったよ」

 黙っていた園田が口を開いたのは、彼女のアパート前に車を停めた時だった。

 思わず振り向くと、暗がりでもわかるくらい真っ赤な顔をした園田が、逃れるようにさっと俯く。

「てっきり、私だけが好きだったのかと思ってた」

 彼女の声が静かな車の中に溶けていく。

「……何で、俺が付き合おうって言ったんだと思った?」

 俺が尋ねると、園田はゆっくりと首を横に振った。そして言った。

「わからなかった。不思議だったけど、私を選んでくれたならそれだけでよかったから」


 俺にとってのあの日は、彼女に恋をして、彼女と付き合い始めた幸せな日だった。

 だが園田にとっては違ったようだ。

 愚かにも俺はその事実を、四年が経とうとしている今、ようやく思い知ったのだった。

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