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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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あの日から始まった(2)

 今年の梅雨は長引くようで、だらだらと雨の日が続いていた。

 人事課で一人居残り仕事を片づけていると、窓の外からは静かな雨の音が聞こえてきた。朝に見た天気予報では夕方六時以降は降水確率百パーセント、傘を忘れずにお持ちくださいとのことだった。まさに予報通りだ。

 きっと園田も天気予報を見て、今日も自転車に乗れないと溜息をついたことだろう。

 しかし俺にとってそれは喜ばしいことであり、その上今日は仕事がいつもよりも早く片づきそうだった。今日は少し早めに上がって、さながら罠を張る蜘蛛のように園田を待ち伏せしてみようか。どういうふうに誘えば引っかかってくれるか、今夜はじっくり考える暇もありそうだ。


 そんなことを胸中で密かに企みながら、仕事を畳みに入った時だった。

「お先に失礼しまーす!」

 薄い壁一枚を隔てた廊下に、園田の元気な挨拶が響き渡った。

 広報課のオフィスはすぐ隣に入っていて、彼女の日々の出退勤はほとんど筒抜けの状態だった。だが今夜は思いのほか早い。思わず時計を確かめたら、まだ午後七時五分前だった。

 最近忙しそうにしていたから、こんなに早く上がれる日があるとは全くの予想外だった。このまますんなり帰られては、待ち伏せしてやろうという企みが水の泡だ。

 俺は慌てて席を立ち、ドアを開けて廊下へ飛び出した。


 明かりが点いた廊下にたった今出てきたばかりの園田は、いきなり、それも偶然とは思えぬタイミングで現れた俺を見てきょとんとしていた。

 俺は慌てて飛び出してきたことに面映ゆさを覚えつつ、何事もなかったように尋ねた。

「あれ、園田。今日は上がるの早いな」

「うん。寄るとこあるから」

 園田は俺の傍まで駆け寄ってきた後、急いでいることを示すみたいにその場で足踏みをしてみせた。こういう、一見子供じみたオーバーな仕種が可愛いなと思う。

 それにしても、そこまで急いで一体どこへ行くつもりなのか。俺は出てきたばかりのドアを閉めてから、更に突っ込んで聞いてみる。

「どこか行くのか」

 すると彼女は足踏みをやめて答える。

「本屋さんに寄ってくの。ほら、駅前に入ってる大きい本屋」

 彼女の言う通り、駅前のビルの一つには地元資本の大きな書店が入っている。この辺りでは知らない人間もいないくらいの老舗だが、駅ビルの閉店時間に合わせて店じまいしてしまうという欠点がある。残業当たり前の社会人にとっては休日でもなければ立ち寄れない店だ。

 それにしても、そんなに急いでまで大きな書店を目指す理由は何だろう。

 俺には一つ、思い当たる節があった。

「まさか、図書カード買いに行くんじゃないよな」

 社内報の為に提供した写真について、先日、彼女は『お礼がしたい』と言っていた。そこで俺が何をしてくれるのか尋ねたところ、彼女が挙げたお礼候補の一つが図書カードだった。貰って嬉しくないわけではないが、園田からはもっと別のものが欲しい。

 園田はそんな俺の疑念に、明るく笑って応じた。

「違う違う、検定受けるのにテキスト見たくて。あの店って八時閉店でしょ?」

 検定と言うと、広報課絡みの何かだろうか。

 だが八時閉店の店に今から向かって間に合うだろうか。さっき廊下へ出る直前に見たばかりの腕時計を再び確かめたが、やはり午後七時になろうかというところだ。急いで電車に乗ればぎりぎり閉店間際に間に合うかどうか、間に合ったところで早く閉店作業に入りたい書店員にそわそわと視線を送られながら本を探すのも肩身の狭いものだろう。

 園田の健脚ぶりなら常人よりは余裕が持てるのかもしれないが、それにしても。

「今から行ったって間に合うわけないだろ」

 俺の指摘に、園田は案の定自信たっぷりに答えた。

「走れば間に合うよ。だから急いでるんだってば」

「仮に間に合っても、じっくり立ち読みする時間もないよ」

 そもそも閉店間際の店に滑り込むなんて落ち着かないものだ。こと書店には時間に余裕をもって入り、じっくり吟味して歩きながら買い物をするのが一番いい。ビルやモールの中に入っていても書店エリアだけは不思議な静けさに満ちているもので、その中を時間を気にしてせかせか駆け回る必要もあるまい。

「それならモールの本屋に行けばいい。あれだって相当大きいし、十時までやってる」

 俺は彼女にそう提案した。

 市郊外に近年建てられたショッピングモールには、この辺りどころか大体の日本国民が名前を知っているであろう全国チェーンの書店が入っている。当然ながら品揃えのよさは抜群、雑誌から文庫本、専門書に至るまで満足のいく買い物ができる。俺もモールができて以降はそちらの書店にばかり足を運んでいた。

 だが園田はこちらの提案に難色を示した。

「そうだけどさ。向こうまで行ってたら帰り何時になるかわからないよ」

 駅前まではここから電車一本で行けるが、郊外まで出るにはそうもいかない。天気予報でも予告されていた雨天の今夜、園田には向こうまで出ていくだけの足がないはずだった。

「今日は自転車じゃないから無理だよ。じゃあもう行くから、お先に」

 園田が焦れたように言い残して駆け出そうとしたから、俺は行く手を遮るように前へ出た。

 そして目を瞬かせる彼女に告げる。

「じゃあ、俺が向こうまで乗せてってやるよ。もちろん帰りも送る」

 予定していたのとは少々趣が違ったが、これも罠には違いない。彼女を捕まえる為の周到な、とは言いがたいがともかく罠だ。

 当然、園田は俺の申し出に戸惑ったようだ。一転して慌てふためき始めた。

「いや、そんなの悪いよ。と言うかそこまでしてもらうのも」

 彼女なりに本心から遠慮しているのだろうが、俺からすればあまりにも水臭く思えた。今の俺達はそこまでするくらいの間柄ですらないのか。

 だがそこをつつくと園田のことだ、かえってややこしくなる。

 なので口実を作ってみる。

「俺も本屋に寄りたかったんだ。あと十五分待てるか?」

 たった今考えついた口実だが、嘘にはなるまい。暇ができたらじっくり雑誌でも見たいと思っていたのは事実だし、用もなくふらりと立ち寄っても何やかやで買い物をしてしまうのが書店というものだ。

「だからいいってば。本当に悪いし」

 園田はまだ遠慮している。

 さすがに思いつきの口実では魂胆も見え見えだということだろうか。ばれたのなら仕方がない、もう一押ししておくことにする。

「一緒に行きたいんだって。十五分で上がるから、待てるよな?」

 それだけあれば片づけも終わる。俺も今日はもう帰るだけだった。園田をそれほど長くは待たせずに済むだろう。

「う、うん、そう言ってくれるのはすごくありがたいけど……」

 ここまで言葉を重ねても、園田は首を縦に振らなかった。

 ただ迷惑ではなさそうに見えたから、押し切れると俺は思った。


 そこで用心の為に辺りを見回し、誰もいないことを確認した。

 そしてスーツのポケットから車のキーレスを取り出すと、園田の手を取り、その小さな手の中に軽く握らせた。

 呆気に取られたのか園田はされるがままで、握り込んだ自らの手を、それこそ罠にかけられたかのようにぼんやりと見つめていた。

「先に乗って待っててくれ。すぐに行く」

 俺が告げると、園田はようやく我に返ったようだ。手のひらを軽く開いて中身を確かめる。そして困惑したように眉を顰め、唇を尖らせる。

 もう遅い。お前は捕まったも同然だ。

「早くしまえよ。誰かに見られたらうるさいぞ」

 園田が黙ってキーレスを見つめているから、俺は彼女を急かし立てた。

 それで彼女も慌てて手をポケットに突っ込んだ後、溜息交じりに零してみせる。

「……何か、ベタな手口」

「手口とか言うなよ。一度こういうことしてみたかったんだ」

 昔、付き合っていた頃にはこんなこともできなかった。

 こういうベタな、社内恋愛らしいことからやり直すというのも悪くない。本当に関係を隠したがるカップルならやらないようなことだ。少なくとも今の俺は、園田との関係を隠すつもりはなかった。

「それじゃ、また後で」

 俺はそう言い残し、まだぼんやりしている園田を置いて人事課へ戻った。

 だが余裕ぶっていたのもそこまでだ。十五分でと言ったからには遅れてはならず、俺は他に誰もいないのをいいことに猛然と帰り支度を始めた。

 今ここに人事課の誰かがいたら『安井課長も必死なんですね』みたいなことを言われたのかもしれない。

 自分でもそう思う。罠にかける方だっていつもいつも余裕があるわけじゃない。


 きっちり十五分後、俺は仕事の片づけを済ませて地下駐車場へと下りた。

 ただでさえ駐車場は夏の夜らしい暑さと梅雨時らしい湿度とで息が詰まりそうだったというのに、俺の車に乗り込んでいた園田はエンジンもかけずエアコンも入れずに後部座席に潜むように座っていた。

 俺がドアを開けると、鼻の頭に汗を浮かべた彼女が気まずげにこちらを見てきた。

「暑くなかったか? エアコン入れればよかったのに」

 そこは遠慮するところでもないはずだ。俺が苦笑すると、園田は真面目な顔で言った。

「自慢じゃないけど私、ペーパー歴八年だから。人様の車なんておいそれと弄れないよ」

 八年というと、就職活動の為に免許を取ったくちか。言われてみれば彼女が普通免許を持っていることは知っていたが、車を運転した、あるいは運転したことがあるという話は聞いたことがなかった。免許の更新に行かなくちゃいけないという話だけはされていたような気もするが――乗らないのにいちいち更新に行くのか。実にもったいない。

「確かに自慢にはならないな」

 俺は笑いながら運転席に乗り込んだ。

 そして後部座席にいる園田をシートベルトを締めながら振り返り、言った。

「何で後ろに乗ってる? こっち来いよ」

 この間はちゃんと助手席に乗ったくせに、今日はどうしてわざわざ後ろに乗っているんだろう。

 園田はその理由をもっともらしく答えた。

「誰かに見られたら困るよ。結構人来るみたいだし、この時間は」

「助手席に乗せてるくらいで疑われたりしないだろ」

 そうやって人目を気にするところは相変わらずだ。

 だが昔と今では気にする理由が違う。昔は付き合っていることを隠す必要があったが、今はそもそも隠す必要もない間柄だ。代わりにあらぬ噂が立つという可能性もあるが、そんな噂を事実にしてしまいたい俺にとってはむしろ望むところだった。

「いいの。乗せてってもらうのに迷惑かけたくない」

 園田は昔と同じように頑固に言い張り、らしくもなく険しい顔つきのまま後部座席から動こうとしなかった。

「迷惑だと思うくらいなら誘ってない」

 俺はそう言い返したが、くだらない言い合いで時間を潰すのも癪だ。

 彼女が暑がっているのもわかっていたから、ひとまず行きの説得は諦めることにしてエンジンをかけた。

 帰りは時間をかけて口説き落とすことにしよう。

 エアコンから涼しい風が吹き出してくると、園田もほっとしたのか表情が和らいだ。

 それを見てから俺が車を動かし、地下駐車場を出ると、後部座席からはうってかわって穏やかな声が聞こえてきた。

「確かにそうだね。ありがとう、誘ってくれて」

 あっさりと機嫌を直すところも、昔のままだ。

 運転中だから振り返ることはできなかったが、俺の脳裏にはかつて見た彼女のいい笑顔が浮かんでいた。そうするとこちらまでつられて笑いたくなる。

「素直でよろしい」

 お互いに笑うと車内の空気まで入れ替わったようだ。エアコンからの風は冷たくて心地よく、車を走らせながら少しいい気分になる。

 多分、彼女もそうだったのだろう。一層明るい声になって問いかけてきた。

「安井さんは何買うの?」

 俺は今の園田の顔が見たくて、ちらりとバックミラーを覗いた。残念ながら目が合っただけだったが、彼女が俺を見ていることだけはわかった。

「ちょっと雑誌でも見ようかと思ってた。近頃、なかなか本屋まで行く機会がないから」

「本屋さんは手に取って選べるのがいいよね」

「だな。お前は? 検定受けるって言ってたよな」

「そうだよ。DTPのね」

 園田はそう答えたが、確か彼女は既に資格持ちだったはずだ。小野口課長が引き抜いた条件の一つでもあったから間違いない。

「お前、DTPなら持ってなかったか?」

 思わず聞き返せば、園田は迷いのない口調で語を継ぐ。

「あるけど、勉強し直すつもりでいるんだ。検定もこの際だからコンプしようかと」

「へえ、勉強熱心だな」

 園田なりに今の広報課に貢献しようとしているのだろうし、それだけ今の仕事に意欲的だということでもあるのだろう。順調そうで何よりだと、俺は内心安堵していた。

「そうだよ私って勤勉なんだよ。もっと誉めてくれてもいいよ」

 俺が感心したのをからかわれているとでも取ったのだろうか。彼女がどこかおどけた物言いになった。

「資格取ったらいくらでも誉めてやるよ」

 だから俺も軽く応じておく。


 実際、彼女が検定に合格したら、それを口実にまた食事に誘うというのもいいかもしれない。

 園田が誉めて欲しいと言うなら俺はいくらでも誉めてやるつもりでいる。ご褒美だと言ってちょっと高い食事を奢って少し酒でも飲ませれば、また深い話ができるかもしれない。


「資格って自分の価値の証明だって、東間さんが言ってたんだよね」

 俺の不埒な思案とは正反対に、園田は真面目な言葉を口にした。

「だから私も自分の価値を高めてみたいなって思って。まあ使わない資格でもないし」

 それはまあ、間違った考え方でもない。

 だが園田が言うとちょっとおかしい。

「むしろ使わない資格なんて宝の持ち腐れだろ。ペーパー歴八年なんてもったいない」

 今度は本当にからかうつもりで、俺は彼女に突っ込んだ。

「車乗らないのか、園田は」

 運動神経はいいし視力にも問題ないはずだし、別段方向音痴でもないはずだ。車の運転が苦手だというようにも見えないのだが、園田は弁解するように言った。

「だって自転車の方が楽しいし、気持ちいいし、一台でどこへでも行けるし、エコだし」

 どうやら車に乗らない一番の理由は、あの愛車に惚れ込んでいるからということらしい。

 全く羨ましいことだ。

「そうだよな。園田は自転車大好きだもんな」

 俺は笑ったが、彼女は少し神妙にしていた。

「まあね。でも確かに、ちょっともったいない気はしてる」

 とは言え彼女は車を持っていないし、新たに購入するくらいなら今の愛車に注ぎ込みたい、なんて考える方だろう。広報の仕事では社用車を動かす機会もまずないだろうし、よほどのきっかけでもない限り、彼女はペーパードライバーのままなのかもしれない。

 それならそれでいい。車は主に、俺の助手席専門にしてくれてもいい。

「安井さんは主に車で通勤してるの? 結構な頻度で電車にも乗ってくるよね?」

 後部座席から園田の質問が飛んでくる。

「定期買ってるけど、忙しい時期は車にしてる。その方が早く帰れるからな」

「そっか。そういう利点もあるよね」

「あとは天気の悪い日も。小雨程度ならいいけど、土砂降りの日は駅まで行くのも大変だ」

 ワイパーがフロントガラスに張りつく水滴を拭う。雨は弱いながらも降り続いていた。

「じゃあ梅雨の時期なんかはいつも車になるんだね」

 俺の車に乗り込む園田が、何にも気づいていないような朗らかな声を上げる。

「そうだな。最近は特に、天気予報を見るようにしてるよ」

 俺がそう言った意味も、多分、気づいてはいないだろう。天気予報を見る時、俺が彼女のことを考えているなんて話、想像すらしないに違いない。

 だがこれは罠だ。

 俺が危うく張り損ないかけて、必死になって張り直したぎりぎりの罠だ。そこにかかった以上、何にも気づかないまま帰れるなんて思わない方がいい。


 車は順調に郊外のショッピングモールへと辿り着いた。

 この時間は立体駐車場も空いていて、俺達はエレベーターホール近くの好位置に車を停めることができた。

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