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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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あの日から始まった(1)

 炊き立てのご飯の上に豆腐を乗せて、少し崩す。

 その上にかつおぶしと、あれば刻んだねぎを散らす。どちらも常備してあるので問題なし。

 更にその上から醤油を回しかけて、豆腐丼のできあがり。

 食欲が落ちる夏場にぴったりの定番朝食メニューだ。レシピもなく記憶を頼りに作ったものだが、見た目の再現度はなかなかだと思う。高さを出す盛りつけを意識して、どこに出しても恥ずかしくない見栄えの豆腐丼にはなっている。


 だが味の方は記憶に遠く及ばない。

「何か、足りないんだよな……」

 レンゲで豆腐丼を口に運びながら、俺は空しく独り言を呟いた。

 園田が作ってくれた豆腐丼はもっと美味しかった。ご飯の上に崩した豆腐を乗せて、薬味はたっぷり、醤油をかけているところも同じだが何かが足りない。醤油だけではない旨味と言うか、深みのある味つけだった。

 恐らく何らかの出汁を足しているのではないかと思われるが、最後に食べたのはもう三年以上も前だ。もともと食事は『食べられればいい』感覚だった俺にとって、記憶だけでその味を再現できるスキルはあるはずもない。日に日に薄れていく味の記憶が幸せだった頃の甘い記憶と混じり合い、多少の美化を施している可能性もある。

 それでもいつか、また食べたいと思う。

 同じ味の豆腐丼を、ではない。作り方を知りたいだけなら彼女に聞くという手もあるが、俺の手であの豆腐丼を再現できても今抱いている空しさが埋められるはずはない。

 本来目指すべき目的は彼女にまた豆腐丼を作ってもらうことだ。二人で食卓を囲んで、一緒にご飯を食べて、美味いと言う俺を見て少し得意げにする彼女を眺めることだ。

 実現するまでは一人きりで豆腐丼を食べるしかない。空しいが、仕方ない。

「まあこれも、美味くないわけじゃないしな」

 一人暮らしを続けていると独り言が増える。俺は自分で作った豆腐丼を誉めつつ、朝食を食べた。美味くないわけじゃない、それは確かだ。

 それに美味く作れるようになると本来の目的を忘れてしまうだろうから、俺はこの程度がちょうどいい。


 いつの間にやら一人きりの生活も三年を過ぎていた。

 弟が出て行った直後はせいせいしたものだったが、3DKの部屋は一人には広すぎた。

 リビング以外の一室はベッドルームに、もう一室はオーディオを置いて趣味の部屋にしているが、正直持て余しているというのも事実だ。それでなくともこのアパートはファミリー向けであり、俺以外の世帯はほとんどが子持ちの家族のようで、たまの休日に他の住人と行き会うと非常に寂しくなる。小さな子供を抱く夫婦が俺と同世代だったりすると、俺にも上手くすればあんな未来があったのではないかとさえ思えてくる。

 一人暮らしのいいところは買い置きの食べ物が勝手に減らない、という点だけだろう。独り言を呟いて返事もない生活にはそろそろ飽きた。しかしまた弟のような趣味嗜好の合わない人間と同居もしたくないので、次の同居人は可愛い女の子がいい。

 そういえば昔、彼女の為に合鍵を作ったっけな。

「……考えるの、やめよう」

 何を考えても彼女に行き着くのは豆腐丼を食べているせいかもしれない。帰宅後の夜ならともかく、これから仕事に向かおうという朝に考えていいことではない。

 俺は頭を切り替えようとテレビを点けた。朝のニュースではちょうど天気予報をやっていた。それによれば今日の天気は雨時々曇り、降水確率は九十パーセント。梅雨明けはまだまだ先で来週辺りまでぐずつきがちな天候が続くようだ。

 雨が続くならしばらくは車で通勤しようかと思う。混み合う電車に乗り込んで、他人の濡れた傘でスーツを汚すのはごめん被りたい。

 それに、雨の日は彼女だって自転車に乗らないはずだ。

 俺が車を持っていれば、偶然を装って帰りに誘うこともできる。電車なら駅までしか一緒に歩けないが、車ならもう少しだけ長い時間一緒にいられる。そういう企みもあって、最近は天気予報を気にするようにしていた。

 何を考えても彼女に行き着くのは、献立のせいだけではないのかもしれない。

 いつの間にか、俺が作った中途半端な豆腐丼すら美味しい季節になっていた。


 寂しい私生活をよそに、夏真っ盛りの職場は俺と石田の話題で持ちきりだった。

 言うまでもなく、社内報に載せた若かりし頃の写真のせいだ。あれは普段の俺達を知る人々にとって想像以上にセンセーショナルな代物だったらしい。

 人事課のほぼ全員に、

「安井課長にもやんちゃな頃があったんですね」

 というような意味合いのことを言われた。それも堪えきれないくすくす笑いつきでだ。

 それだけならまだしも、普段は他の部署で話をする機会もない人間から、

「社内報見ましたよ!」

 とこれまた笑いながら言われたり、女子社員の集団と廊下ですれ違った直後にやはり笑われたりと、まあ覚悟していた通りの出来事には一通り遭遇した。

 聞くところによれば石田もそうらしい。ただ石田は他人からいくら笑われようと『主任はいつでも素敵です! 格好いいです!』と言ってくれる女の子がいるから気にしないだろう。俺には今のところ恥を晒した分だけのリターンが皆無だ。この点については是非、広報課の担当社員からアフターフォローをいただきたいところだ。

 それはさておき、俺もただ笑われているだけではない。せっかくなので記事を見た人々から社内報の感想を貰っておくことにした。広報では常に社内報へのご意見ご感想を募集しているそうだが、社外に出す広報誌とは違ってなかなか反応を貰えないものらしい。ことお褒めの言葉を貰うのは稀だと小野口課長が昔ぼやいていたのを覚えていた。

 俺が感想を集めて園田に伝えれば喜ばれるだろうし、俺は彼女と話す口実を得られる上、更に恩も売れる。一石三鳥である。


 近頃の園田は仕事が増えたのか、俺が遅めに社員食堂へ出向くと、同じように遅い昼食を取っていることがある。

 そういう時に俺が人から聞いた社内報の感想を伝えると、とても嬉しそうに笑ってくれた。

「今回の記事については人づてに好評だって聞いてたんだけどね。なかなか直接、それも全体の感想を貰うことはなくて……皆、結構読んでくれてるんだね。よかったあ」

 喜び、胸を撫で下ろす様子を見る限り、やはり感想には飢えているようだ。

 俺があれだけ他の社員から声をかけられているくらいだ。広報課に直接感想を伝える人間がちらほらいてもおかしくないはずなのだが、考えてみれば俺も社内報を読んで広報宛てに意見や感想を伝えたことはなかった。それどころか、園田が広報へ異動していなければ社内報への反応なんて気にしてもいなかっただろう。

「安井さんの他に直接感想をくれたのは、石田さんくらいのものだよ」

 園田が続けた言葉に俺は一瞬驚き、すぐに納得した。

 確かにあいつなら何かしら言うだろう。記事にしてもらって黙っているような奴じゃない。

「石田、なんて言ってた?」

 俺が尋ねると彼女は楽しそうに答える。

「『面白く記事にしてもらって美味しかった』って」

 口調どころかそれを言った時の表情まで思い浮かぶようなコメントだった。何だかんだでノリがよく、そして他人に親切なのが石田だ。

「……あいつなら言いそうだ」

 想像しながら俺は笑った。

 すると園田もその時のやり取りを思い出してか、軽く吹き出しながら続けた。

「あと、『営業課内どころか他部署の人間にまで声かけられまくり誉められまくり感動されまくり』とも言ってたかな」

 さすがにそれは盛りすぎだろう。俺は声こそかけられたもののどちらかと言うと笑われるばかりで、誉められたり感動されたりという気配すらなかった。

 むしろあの写真、あの記事でどう感動しろというのか。こんなアホ面を晒している二人も八年勤め上げればどうにか出世はできるのだというふうに、先行きに不安を抱く若手社員への道しるべになったりするのだろうか。それとも我が社の人間矯正技術のすさまじさをアピールするような比較画像になっているのだろうか。どちらにせよ、あんなもので感動する人間がいるなら見てみたいものだが――まさか、小坂さんじゃないだろうな。

「園田、言いにくいけど石田の言うことは話半分くらいに聞いた方がいい」

 思わず助言した俺に、彼女もまたためらわず頷いてみせた。

「うん、わかってる。私としては話半分でも、それだけ社内報を見てくれる人がいたってことだけで嬉しいし」

 言われるまでもなく、園田は感想の活かし方をわかっているようだ。

 それならと俺も持ち得る限りの情報を彼女に伝えることにした。

「あの特集記事が呼び水になったのかもな。今回初めて社内報にじっくり目を通した、って人もいたよ」

 例えば新年度、新入社員の自己PRが掲載されると大抵の社員は社内報を読む。自分の課の新人がどんな人間か把握しておきたいからだ。

 だが自己PRだけ確認したらそれだけ、という社員も多いようだったし、それ以外の月は記事の関心度に応じて読んだり読まなかったりするものらしい。人事課は社内報の情報提供元になる都合上、ある程度目を通しておく課員が多いが、それでも今回のように興味を持って社内報を見たというケースは初めてだという話をちょくちょく聞いた。

「そうなんだ! ああでも、私も広報に来る前は読んだり読まなかったりしてたかも」

 園田は腑に落ちた様子ながらも、どこか後ろめたそうだった。

 これから社内報を多くの人に見てもらうなら、やはり呼び水となる話題性のある企画が必要不可欠だろう。もともと社内報には社員同士のコミュニケーション促進を図る役割もあるはずだ。そういう側面に着目すればより多くの社員に目を通してもらえるようになるだろう。

「それと口コミ力が意外に侮れないと思ったな。評判聞いてから読んだという人も多かった」

 俺は自分なりの分析を彼女に伝えた。

「社内報を読んで、例えば休憩中や飲み会の席で話題にする場合も多いみたいだ」

 例えば今回の俺と石田の写真、俺は社内報に掲載されることを朝礼のスピーチで人事課員に伝えていた。

 そこで社内報を見た課員がその面白さを他の部署の社員に伝え、そこからまた更に他の社員へと伝わっていって――というような話題の伝播があったらしい。営業課でも同じような動きがあったようだから、広まるのはあっという間だっただろう。

「より大勢に読ませたいなら社員共通の話題になるもので、なおかつ明るいネタがあるといいのかもな」

 俺の分析を園田は逐一丁寧にメモに取っていた。真剣な顔でペンを走らせる彼女はいかにも働く女と言う感じで凛々しく見えたが、休憩中に仕事の話ばかりというのも何だかな。


 こうして社内報の感想を伝えるという口実で、園田とじっくり話ができるのはいい。

 だがそのせいで近頃は仕事の話しかしていないようにも思える。むしろ意図的にその他の話を避けているような気さえする。

 少し前、俺は彼女に『やり直したい』と言った。

 それに対する園田からの明確な答えはまだない。

 俺も答えを急かすつもりはなかった。三年のブランクは簡単に乗り越えられるものではないだろうし、彼女からはっきりと拒まれなかっただけでも十分だ。これからお互い仕事も忙しくなるし、繁忙期が過ぎるまでは待ってもいい、今のところはそう考えている。

 だがあの夜のやり取りが俺達の間にいくらかの変化をもたらしたのは確かだった。


「ありがとう、いろいろ聞かせてくれて」

 メモを取り終わると、園田は改めて俺に礼を言ってくれた。

「役に立てて嬉しいよ。また何か聞いたら教えるからな」

 俺も明るく応じた。

 あの夜に話したことへの答えはないまま、俺達が会話を交わす機会は順調に増えていた。廊下ですれ違えば必ず話をしたし、こうして社員食堂で相席することも、帰宅後にメールを交換し合うことすらあった。距離は縮まっているとみていいのだろうが、話題に色気がないのはどうなのだろう。今が待ちの時期であるのはわかっているが、牽制球くらいは放っておいてもいいかもしれない。

 ちょうど、そんなことを考えていた時だった。

「何か、お礼がしたいと思ってるんだけど」

 不意に園田が、言いにくそうに切り出してきた。

 考え事をやめて目を向けると、彼女はどこか神妙な顔つきで俺を見ている。

「お礼? 写真のってことか?」

 俺が聞き返すと、間髪入れず頷いてみせた。

「そう。安井さんが見つけてくれたから記事にできたんだし、実際に手伝ってももらったし」

 それはどちらかと言うと彼女自身がそうしたいからというより、そうすべきだという考えによって口にされた言葉のようだった。もしかすると小野口課長辺りに『写真提供者には丁重なお礼を言うように』とでも指示されたのかもしれない。

 どちらにせよ、俺にとっては同じことだ。もともと下心百パーセントで協力した案件なのだから、彼女の申し出にも全力で乗っかるつもりでいる。遠慮などするものか。

「何でもいいのか」

 まずは彼女の考える『お礼』の範囲を確かめよう。そう思い、俺は尋ねた。

「何でもとは言わないけど。私に用意できるものなら」

 園田が小首を傾げてみせる。

「例えば?」

 どこまで期待していいのか。希望を抱く俺に、彼女はあっさりと例を挙げた。

「そうだなあ、図書カードとか、商品券とか?」

 全くもって夢も希望もない例だった。まさに取材協力へのお礼として包む金一封みたいな、ビジネスライクなお礼だ。楽しくもなんともない。

 期待を裏切られた俺は深々と溜息をついた。

「お前の答えと俺の希望に温度差がありすぎる」

「じゃあ安井さんは何がいいの?」

 園田は唇を尖らせて、逆に俺から例となる答えを引き出そうとした。

 そんなもの、言うまでもない。俺は黙って彼女が尖らせている唇に目をやった。下唇の方が厚めでふっくらしている、きれいな唇だ。

 ただ、俺の視線の意味を彼女は早々と察したらしい。すぐに睨まれた。

「こないだみたいなこと言うのは駄目だよ」

「わかってる。そういうのはお礼って形じゃなくて、自発的にしてもらいたい」

 お礼でしてくれ、と言ったところで唯々諾々と叶えてくれるような園田ではないこともわかっている。その辺りは雰囲気に任せて一気に畳みかける方がいいだろう。


 ただ、それ以外のお礼にふさわしい俺の欲しいものとなると――なかなか思いつかないのが正直なところだ。

 もちろん園田に関することなら欲しいものはたくさんある。豆腐丼を俺の為に作ってくれる権とか、デートに付き合ってくれる権とか、雨の日は時間が合えば部屋まで送らせてくれる権とか――だがそういうものを一度お礼として受け取ってしまうと、次回以降は誘いにくくなるというデメリットがある。

 やはりそういうものはお礼という名目の下にではなく、お互い了承の上でという方が望ましい。


「思いつくまで取っておく、ってのは駄目かな」

 結局それらしいものが思いつかず、俺は彼女の申し出を切り札として残すことに決めた。

 園田はなぜか不審そうに俺を見る。

「いいよ。でも、変なこととかなしだからね」

 そんなことを言われたら聞き返したくなる。

「その、変なことっていうのは具体的にどの辺まで?」

「聞かないで! 察して! というかそういうのは安井さんの方が詳しいでしょ!」

「詳しくないよ俺なんて。セクハラとかしたこともないし」

 人事課一同に『安井課長にもやんちゃな頃があったんですね』なんて言われるような俺だ。今の職場では品行方正で通っている。

 そういう狼藉を働くのは好きな子と二人きりの時だけだ。

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