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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
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唯一無二の笑顔なり(1)

 夏が近づいてくると憂鬱になる。

 鬱陶しい梅雨の季節がしばらく続き、それが明ければ気温がぐんと高くなる。暑い日が続けば食欲は落ちるが、身体のことを考えれば食べないというわけにもいかない。

 お盆休みの前後には恒例の避けがたい繁忙期もあるからして、夏バテなんぞになっていられないのが社会人の悲しき宿命だ。オリジナルの出来映えには程遠い、我流の豆腐丼を作って乗り切るしかない。俺にとってここ数年、夏とはそういう季節だった。

 しかし今年はオリジナルの豆腐丼をいただけるのではないか。そんな期待を抱き始めている。


 もちろん確証はない。

 希望もごく最小限でしかない。外で手を繋いでも嫌がられなかった。言葉にすればたった一文で済むようなささやかな根拠だ。それでも希望がゼロではないという時点で前向きになれるから現金なものだ。

 園田は俺と手を繋いだ記憶を覚えていてくれたし、顔を赤らめてくれる程度には、その記憶をいいものだと思ってくれているらしい。

 もっと思い出せばいい。

 彼女も俺も、お互いの記憶をまだいくらでも身体で覚えているはずだ。


 五月の連休が終わってからも、俺は追撃の手を緩めなかった。園田にはたびたびメールを送り、次の機会を作るべくアプローチを続けていた。

 メールの内容は当たり障りのないご機嫌伺い、それに加えて『また必ず飲みに行こう、考えておいてくれ』と次の約束を訴えたものだが、園田からの返事はこちら以上に当たり障りがなかった。次の約束については『考えとくね』と言ってくれただけで、乗ってくる気配は見えない。彼女なりに先日の一件を重い事態として捉えているのかもしれない。案外、らしくもなく深刻に考えているのかもしれないなと思うと、何ともじれったい気分だった。

 余計なことを考えないで、試しに落ちてみればいいのに。

 俺もできればとっとと次の手を打ちたいところだったが、そうもいかないのが社会人の宿命というやつだ。園田も広報課の新しい仕事に取り組んでいるようだから、しばらくはメールで念を押すだけに留めておくしかない。全くもって、じれったい。


 六月に入ったある日、俺は昼食を取る為に休憩に入った。

 時刻は午後三時、昼食と呼ぶにはふさわしからぬ時間帯だったが、忙しかったのだから仕方がない。この時間では社員食堂の厨房も終わっているし、だからと言ってのんびり外に食べに行ったり、美味い弁当を買いに行ったりする余裕があるわけでもない。

 そんな時の昼食は大抵カップラーメンだ。自分のロッカーにいくつか買い置きしたものがあり、時間がない時は手っ取り早くそれで済ますようにしている。営業課時代から続く繁忙期の乗り切り方の一つだ。

 気だるい昼下がりの空気漂う廊下を、ロッカールーム目指して早足で移動する。そして辿り着いたところで、ちょうど出てきた顔見知りがいた。

「お、安井。お前もこれから飯か?」

 石田だった。

 未開封のカップラーメンを一つ手のひらの上に乗せている。こいつもこれから飯の時間らしい。

「そうだよ、よくわかったな」

 俺が誉めると石田は得意げに目を細める。

「そろそろ時期だろ。買い置きのカップ麺を消費し続ける季節、まさに夏の風物詩だ」

「情緒のかけらもない風物詩だな……」

 単に仕事が忙しいだけだ、面白くもなければ風情もない。本来なら夏にはもっと楽しいことがたくさんあるものなのに――夏と言えば水着の季節であり、浴衣の季節であり、そもそも薄着の季節でもある。だがそういうものを堪能する暇さえもらえない繁忙期は、実に憎き存在だ。

「安井も社食で食うだろ? 席取っといてやるから感謝しろよ」

 石田は妙に恩着せがましい口調でそう言ったが、そんな必要がないことはわかりきっている。

「席取るも何も、この時間じゃどうせがらがらだろ」

 厨房から火が消え、賄いの皆さんも仕事を終えているはずの午後三時。社員食堂が埋まるほど人が入っているとはとても思えない。

「わかってねえな安井。そういう気の緩みが人生の明暗を分けんだよ」

 大げさに肩を竦め、石田はほらを吹き始める。

「経験則だけでものを語る人間になっちゃおしまいだぞ。常に最悪の事態を想定しろ」

「どういう事態を想定したら午後三時の社員食堂が席取れないほど混み合うんだ」

「そこを想像できない時点でダメダメだな。想像力の足りない男はいざって時に判断を誤る」

 得意げに茶化す言葉が今はぐさりと来た。

 どうしてこいつはこうもピンポイントに人の弱点を突けるのか。入社以来八年以上もつるんでいれば互いに言われたくないことくらいはわかるというわけか。

 俺は一呼吸置いてから石田を軽く睨む。

「じゃあ想像力のありすぎるお前はどうなんだよ。判断を誤ったことがないって言えるのか」

「そんなことはいちいち覚えてない。俺は未来に生きる男だからだ」

 全く、ああ言えばこう言う男だ。

 呆れる俺の前で石田は軽く手を挙げる。

「んじゃ、先に社食行ってるからな」

「わかった。後で行くよ」

 反論を諦めたのは時間が惜しいからでもあるし、腹が減っていたせいでもある。

 俺は石田と一旦別れ、ロッカールームに入って自分のロッカーから買い置きのカップラーメンを取り出す。醤油味と塩味で少し迷い、とっさに石田の『想像力の足りない男は云々』という言葉を思い出して今更ながらむっとする。

 カップラーメンの味を選ぶくらいで誤りも何もあるものか。醤油も塩もどっちも美味いんだからどっちだっていい――俺は塩味の方を引っ掴むと、ロッカーの扉を静かに閉めた。


 社員食堂へ歩いていくと、中から話し声が聞こえてきた。

 こんな時間に話し声がするほど利用者がいるのだろうか。耳を澄ませながら近づいていくと、どうやら男女の二人連れが何事か楽しげに話をしているようだ。

 奇妙なのは朗らかな女の声も、笑っている男の声も、両方とも妙に聞き覚えがあることだ。それも聞いたことがあるというレベルではない。どちらの声も頻繁に聞いているはずの声だった。

 もしかしてと社食の入口をくぐれば、思った通りだった。


 がらんとした社食の片隅、六人掛けテーブルに向かい合って座る石田と、園田がいた。

 俺が入っていくと園田は勢いよく顔を上げ、肉眼でわかるくらいにその顔を引きつらせた。

 一方の石田はこちらを振り向き、何やら得意そうに笑っている。

「あれ、園田もいたのか。石田だけだと思ったら」

 大して驚いていないふりをして、俺は二人に声をかけた。

 そしてカップラーメンに湯を入れようとビニール包装を破ったところで、石田が園田に話しかけるのが聞こえた。

「ああ、言い忘れてた。さっき安井と廊下で会って、後で来るっつってたんだよ」

「ふうん……」

 園田もまた、驚いているのを誤魔化そうとしているみたいに返事をしていた。


 五月の連休以来、当たり前だが園田とは社内で何度か顔を合わせた。

 彼女は賢明にも前回会った時のことを蒸し返してはこなかったし、表面上はそ知らぬふりで挨拶や世間話を振ってきた。だが未だに忘れていないのも、思い出せばうろたえているようなのも明白で、時々目を泳がせてみせるのが可愛かった。

 だが今回は石田がいる。それもどういうわけか園田と同じテーブルに座っている。もちろん石田と園田も入社以来の顔なじみ、がらがらに空いている食堂でわざわざ離れて座るような間柄でもないのだが――何となく引っかかるのは気のせいか。


 俺はカップラーメンに湯を注ぐと、二人が座っているテーブルへと向かう。

 石田の前で園田の隣に座るのは無防備で地雷原に突っ込むようなものなので、何食わぬ顔で石田の隣に腰を下ろした。石田はラーメンを粗方食べ終えていて、スープの中にはいかにもインスタントらしい薄っぺらいなると、そしてほんのわずかの麺しか残されていなかった。

「この顔触れで揃うの、珍しいな」

 ラーメンができ上がるまでの時間を計りつつ、俺はそう切り出した。

 すぐに石田と園田が相槌を打つ。 

「全くだ。もう同期で飲みに行くこともなくなったもんな」

「皆、それぞれに忙しいからね」

 同期達が忙しくなったというのも間違いではない。さすがに入社九年目ともなればそれなりに大きい仕事や重い責任を負わされるもので、一人二人ならともかく同期全員に声をかけて飲みに行くなんてことはなかなかできるものじゃなかった。三十前後ともなれば家庭を持っている人間もそう珍しくはなくなるし、ますます誘いにくい。

 だがそれらの理由はあくまで結果論であり、皆で集まらなくなったきっかけは別にある。

 俺と園田が率先して幹事をやらなくなったからだ。

 そんなことを考えながら園田に目をやると、彼女は自前と思しき赤い弁当箱を箸でつついていた。もうほとんど食べてしまった後でメニューの詳細はわからないが、ふわっとした黄色い衣に包まれた魚の切り身が見える。鮭のようだ。

「今日は園田、弁当なんだな」

 あわよくば一口分けてもらおうと思い、俺は言った。

 途端に石田が嬉々として語る。

「さっき一口食わせてもらったけど、すっげえ美味かったぞ」

 お前が食うなよ。俺より先に!

「はあ? お前、彼女持ちのくせによその女にも手を出すのか」

 内心むっとしながら嫌味を言ってやれば、石田もいくらか慌てたようだ。浮気疑惑をかけられては堪らんとばかり、軽く笑い飛ばしてみせた。

「人聞きの悪いこと言うなよ。園田が鬼退治に行くっていうから、一口くださいお供しますって言っただけだ」

 何の話だ。

 鬼退治?

「そしたら美味かったから、お前いい桃太郎になれるぞって誉めてやった」

 石田がさも実話のように続けたせいで、俺はますます訳がわからなくなった。

 いつから園田が桃太郎になったんだ。一体、俺のいない間にこの二人がどんなやり取りをして弁当を分けてもらうに至ったのか、まるでわからない。

 石田では埒が明かないと踏んだ俺は、園田に向かって尋ねた。

「園田、お前、何の為に鬼退治なんかしに行くんだ……」

 すると園田は脱力したように肩を落とし、大慌てで喚いた。

「あのね安井さん。今の石田さんの話、合ってるのは一口あげたところだけだからね!」

 まあ、そんなところだろうとは思っていた。園田は女の子だし桃太郎にはなれまい。そして退治すべき鬼が現代日本に実在するわけでもあるまい。

 俺が疑惑の目を向けると、石田は何がおかしいのか、げらげらとけたたましく笑い出す。何だってあんなほらを吹いたのかはわからないが、この調子では単に面白半分でという可能性さえありそうだ。


 もともと石田は人懐っこく、誰とでも分け隔てなく話をする人間だ。誰に対しても等しくこんな調子だ。園田もまた愛想のいい明るい人間だから、石田とは話がしやすいようだ。俺がいないところでも二人で話をすることがあるらしい。

 いや、俺のいるところでなければ話してはいけないなんて決まりがあるわけではないが――心配は要らないとわかっている。二人とも同期として仲がいいだけで、石田の好みから園田は上手く外れていることも、園田が石田をほぼ異性として見ていないらしいこともわかっている。

 何より石田には現在、目に入れても痛くないほど溺愛している彼女がいるのだから、心配はしていない。

 はずなのだが。


「弁当くらい彼女に作ってもらえよ」

 俺はそんな石田の唯一とも言える弱点、最愛の彼女について言及した。

 いざとなれば小坂さんにチクるぞ、と言外に匂わせたつもりだった。

「それはそれ、これはこれだろ」

 だが石田は俺の脅しなど意に介さず、逆に俺を諭そうとする始末だ。

「いいか安井、美味い食べ物に国境はないんだ。宇宙から見た地球に国境は引かれてない。人類皆兄弟。美味い食べ物は分け合うのが道理だろ」

 長々と胡散臭い美辞麗句を並べ立てる石田は、入社当時からずっとこんな口八丁ぶりを発揮していた。適当なことをさも重大な案件のように大仰に語って煙に巻くのがこいつのやり方で、無駄に冴え渡る弁舌を聞く度に、くだらないことにも全力で取り組む奴だとある意味尊敬の念すら抱いたものだ。

 もっとも、八年以上も付き合っていればさすがに引っかかりはしない。

「いや、国境とか兄弟とかこの際関係ないだろ……」

 俺が突っ込むと即座に園田が口を開き、

「安井さん、きっと上手いこと言って煙に巻こうって作戦だよこれ」

 彼女が俺と同じ分析をしていたことに満足しつつ、俺は黙って頷く。

 石田はそんな俺達をわざとらしいくらい心外そうに眺めてみせた。

「何だよ、安井も園田もドライだな。俺がせっかくいい話をしてやってんのに」

 奴の中の『いい話』の基準すら怪しいものである。

「有り体なこと言って誤魔化そうったってそうはいかない。石田はいつもこうだ」

「そうそう。素直に『美味しそうだったのでお願いしていただきました』と言えばよいのです」

 俺と園田が口々に言うと、さしもの石田も分が悪いようだ。苦笑しながら残りのカップラーメンを啜ると、器を空にして席を立つ。そして園田に向かって頭を下げてみせた。

「わかった、素直に言えばいいんだろ。園田、ごちそうさま。美味かったよ」

「お粗末さまでした」

 園田が頭を下げ返す。やっぱり親しげなやり取りで、それは当然のことなのだが、少しだけもやもやする。

 俺は拗ねたくなるのを誤魔化すつもりで石田に声をかけた。 

「石田、もう行くのか?」

「ああ、俺を待ってる人がいるからな。俺は彼女一筋なのに、引く手数多で困るぜ」

 彼女一筋の男が他の女に弁当のおかずをねだるのか。尚も突っ込んでやりたかったが、石田の逃げ足は速かった。

 あっという間に社食からいなくなり、俺は胸のもやもやを持て余しながら園田に向き直る。

「あいつ、誰を待たせてるんだ」

「新人さんだって。簡単な雑用させてるとこだから、早く戻らないとって言ってた」

 園田はもったいつけず、あっさりと種明かしをした。

 今年度の営業課の新人は春名くんという爽やかな男である。待ってる人には違いないだろうが、思わせぶりな言い方をする必要は全くないはずだった。

「男じゃないか。思わせぶりなこと言いやがって」

 俺が愚痴を零すと、園田はくすっと笑ってから手を合わせた。

「さてと。私もごちそうさまでした」

 そう言って弁当箱の蓋を閉める。いつの間にか弁当を食べ終えてしまったようだ。

 石田は味見をさせてもらったのに、俺は何も貰えなかった。何だこの差は。

「園田、俺は味見してないんだけど」

 恨めしげに抗議すると、園田は困ったように首を竦める。

「ちょっと遅かったね。全部食べちゃったよ」

「ったく、石田め……。手料理なら小坂さんに作ってもらってるだろうに」

 俺だって園田の手料理が食べたかった。もう何年も口にできていないというのに――。

 気がつけばカップラーメンの仕上がり時間を少し過ぎていた。鬱屈としながら蓋を剥がすと、園田が身軽に席を立つ。

 俺を見下ろし、こう言った。

「お茶でいいなら入れてきてあげるよ。番茶でいい?」

 手料理の代わりに、ということだろうか。

 そこまで気を遣われるほど食べたがっているように見えたのか。実際食べたかったが。

「お茶は手料理とは言えないよな」

「どうだろ。要らない?」

「いや、要る」

 お茶でもいい。園田が俺の為にしてくれることならこの際何でも。

「わかった」

 園田は厨房前に用意された電気ポットの方へ歩き出す。

 俺はラーメンを啜りながら、彼女が腰を屈めてお茶を入れる姿を盗み見た。ティーパックを開け、湯呑みに落とし、ポットの湯を注ぐ一連の動作に無駄がない。ちょっとしたことではあるが、こういうのが様になるというのがいい。

 お蔭ですっかり機嫌もよくなり、幸せ気分になってしまう。


 今となっては手料理どころか、こうしてお茶を入れてもらう機会さえ貴重だ。

 せっかくなので堪能しよう。

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