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ナインカウント  作者: 森崎緩
To the nines
89/205

Try,try,try again.(5)

 石田が紹介してくれたのは創作和風料理の居酒屋だ。

 これがもう非の打ちどころのない完璧なチョイスだった。繁華街の片隅にあってけばけばしさのない落ち着いた佇まい。店内は木目調の壁が美しい和モダン風で、行灯を模した照明がさながら本物の炎のような温かみのある明かりを点している。糊の利いた甚平を着こなす店員に案内されて通された席は掘りごたつを備えた完全個室で、それでいて天井が高いので圧迫感がない。

 そして石田が言うには、数ある豆腐料理の中でも特に、湯豆腐が評判の店であるらしい。

 俺も事前にネットで調べてはいたが、実際に見てみると予想以上に雰囲気がよかった。夕方五時台に入店したお蔭で客数もさほど多くはなく、店内にはゆったりとした時間が流れている。デートには最適の雰囲気と言えた。


「ここの湯豆腐がすごく美味いって評判なんだ。だから園田を連れてこようと思った」

 向かい合って座り、メニューを広げながら俺は言った。

 それで園田は表情を輝かせ、パーカーの袖をまくって張り切る。 

「やっぱりお酒飲む時は豆腐だよね。冷たいビールに温かい豆腐とか最高だよ」

 となれば最初の注文は湯豆腐しかあるまい。お互いに湯豆腐を半丁ずつ、それにビールを選ぶ。

「あとは何にしようかな。他にお薦めとかある?」

 園田が尋ねてきたので、俺は石田から教わった通りの情報を彼女に教えた。

「湯葉の包み揚げもいいらしい。頼んでみよう」

「それいい、食べたい!」

 彼女は豆腐そのものだけじゃなく、厚揚げや湯葉も好きだ。あれこれ手の込んだ豆腐料理も当然好んでいたが、恐らく何よりも豆腐の味そのものが好きなのだろう。思った通り歓声を上げてくれたので、押さえておいてよかったと思う。石田さまさまだ。


 俺達はいくつか美味そうな物を思い思いに注文した。

 店員がまず運んできたのはビールとお通しで、まずは乾杯をしておく。

「かんぱーい!」

 園田が掲げたグラスを軽くぶつけてくる。

「何に乾杯?」

 すかさず俺が聞き返すと、彼女は当たり前というように即答した。

「もちろん美味しいと評判の湯豆腐にだよ」

 いかにも園田らしい回答だ。よほど楽しみにしているんだろう、いい笑顔だった。

 向かい合ってその笑顔を眺めていられるのは幸せなことだ。俺は込み上げてくる笑いを隠すように掲げたジョッキを口元で傾けた。

 やがてお待ちかねの湯豆腐も運ばれてきた。器の中、温かいだし汁にひたひたに浸かった湯豆腐には生姜や長ねぎといった薬味が別添えでついてきていた。園田がそれらの薬味をたっぷりと載せたので、俺も真似をして惜しみなく薬味をかけた。

 それから口に運んだ湯豆腐はどっしりとした食感、深い大豆の味がする大変美味いものだった。だし汁のほのかな塩気と旨味が豆腐の素朴さを引き立てる。薬味が味を単調にさせないのもいい。何よりビールとの相性が最高だった。

「美味しい湯豆腐って幸せになれるよね」

 湯豆腐を一口、二口食べた時点で、園田の表情は幸福に緩みきっていた。頬に手を当ててしみじみと語るので、俺も見ているだけでつられて微笑んでしまう。酒だって進む。

「評判通りの味だったな。時期的にもぎりぎりだし、今のうちに来られてよかった」

 園田にも喜んでもらえたし、美味い豆腐も食べられた。ぼちぼち気温が上がり始める時期だから、湯豆腐を食べに行くなら今しかなかった。

 彼女もそのことに気づいたのだろう。お互いに頼んだ二杯目のビールが届いた直後に言ってきた。

「あ、そうか。もう五月だもんね。今誘ってくれてありがとう」

「どういたしまして」

 誘いたくて誘ったのだからお礼を言われる必要はないが、せっかくなので素直に受けておく。


 彼女とこうして差し向かいで飲むのも三ヶ月ぶりだった。

 二月にはできなかった話も、今夜はできるかもしれない。

 あれから少し、いろんなことが変わった――個人的には最近、思い出すのも憚られるほど恥ずかしい思いをした。

 園田はどうだろう。この三ヶ月で部署が変わり、上司が変わり、業務内容も変わった。四月の時点で明るくふるまっていたし心配事はないはずだが、一応尋ねておくことにする。


「仕事はもう慣れたか?」

 俺の問いに、園田は目を細めて頷く。

「うん、何とかね。まだようやく一ヶ月ってとこだけど」

 その答え方から、彼女にとって四月からの一ヶ月が内容の濃いものであったことが窺える。

 異動したての一ヶ月なんて新しい仕事を覚え、人間関係を構築するのに精一杯のはずだ。俺も、確かそうだった。

「異動って思ってたより単純でもなかったけど、とりあえず人間関係が上手く行ってればどうにかなるなって思ったよ」

 園田が明るい笑顔を見せる。小野口課長もよく誉めていた、あっけらかんとしたあの笑顔だ。

 そうやって笑っていられさえすれば、園田はきっと大丈夫だろう。

「安心したよ。園田ならどこ行っても上手くやると思ってたけど」

 俺が素直にそう告げると、彼女は照れ笑いを浮かべて器に視線を落とし、湯豆腐をつつき始めた。可愛い反応だった。

 どうやら広報での仕事は本当に心配要らないようだ。お見合いの件も片づいたし、お互いに当面、懸案事項は何もなしと言ったところか。

 それから俺はふと、居酒屋に入る前のやり取りを思い出す。園田が熱心に読み耽っていたのは料理教室のリーフレットだった。彼女が料理を他人に習う必要があるのか、不思議に思っていたが――動機はさておきタイミングとしては納得できた。

「ああ、それで料理教室なんて言い出したのか?」

 俺は彼女に尋ねた。

「仕事に慣れてきて余裕ができて、何か習い事でもしようって気になったんだろ。園田のことだ、何に影響されたのか知らないけど、思いつきでそういうこと言い出しそうだもんな」

 質問というよりは確認だった。どうも園田が料理を習う動機が思いつかなくて、どういうきっかけがあったのか知っておきたかったというのもある。ちょっとしたことではあるが、何となく、でも妙に気になっていた。

 俺が尋ねた瞬間、園田は微妙な顔つきをした。ぎくりとしたみたいに目を丸くして首を竦め、口元には引きつるような笑みを浮かべる。

「でもさ、料理くらいはできとかなきゃって思わない?」

 その顔にそう聞き返されたから、俺は怪訝に思う。

「だから、料理はできるだろ。お前の作った……あの、焼いた厚揚げがご飯の上に載ってるやつ。あれはすごく美味かったよ」

 焼いた厚揚げに甘辛い醤油だれを絡めた丼は、厚揚げの癖にスタミナメニュー然としていて非常に食べ応えがあった。もう一度食べたい、と思いつつ、あれから何年経っただろう。

「厚揚げソテー丼だよ」

 園田がメニュー名を口にしたので俺は顎を引き、

「そうそれ。あと、崩した豆腐載せた奴も」

 自分でもよく作る、豆腐丼についても言及する。


 彼女の味を再現できないまま、もう三年以上も不出来な豆腐丼を食べ続けている。

 いつかまた、彼女が作ってくれた記憶の中にある通りの豆腐丼を食べられないだろうか。そう願ってやまなかった。

 だが初めて見た時は――正直、衝撃的だった。ビジュアルも、冷たい豆腐に温かい丼ご飯という組み合わせもだ。

 あの時はいろんなことを考えたな。味が全く想像できなかったのもあって、たとえ口に合わなくても園田のことは誉めてやらなくちゃいけないよな、とか、その後でさり気なく改善点を告げる方向で行こう、とか。

 そうして葛藤の末に食べた一口めは思いのほか悪くなく、すぐに美味いと思った。俺の手のひら返しのスピードたるや、今思い返しても笑えてくるほどだ。


「初めて出された時は何だこれって思ったけど」

 喉を鳴らして俺は笑う。

「食べてみたら美味かったからさ。園田はちゃんと料理できる子なんだなって思ったよ」

 こちらとしては誉めたつもりだったが、彼女の反応はどことなく複雑そうだった。元カレに、付き合っていた頃の思い出について触れられるのは気まずいのか――と思ったらそうではないようだ。

「人に話したら、微妙な反応されたから。何かもうちょっとまともに作れるようになりたくなって」

 園田は、深い溜息をつきながら言った。

 人に話した。その言葉がなぜか引っかかった。

「やっぱり豆腐とか、丼とか、男の人からすれば微妙なのかなって気がするんだよね」

 彼女が嘆く口調で続ける。

 なぜ彼女が男受けを気にするのか。その点はまるで読めない。

 だが考えてみるといい。女の子からの『手料理できるよ』アピールはごくありふれた恋の手管だ。どの子もいずれかのタイミングで見計らったようにこれを言う。

 もしかして園田は誰かに、俺ではない他の男に、得意料理を明かす機会が最近あったのではないだろうか。その相手からあまり芳しくない反応が返ってきたので、躍起になって料理を習う気になったのではないか。

 湯豆腐で温まったはずの胃が急速に冷え込んでいく。

「ご飯、味噌汁、肉じゃが! みたいなのまでしっかり作れて初めて『料理できる』って名乗るべきなんじゃないかなと――」

「俺はそうは思わない」

 したり顔で語る園田を、俺は短く遮った。

 すぐに彼女はきょとんとして、恐らく笑っていないであろう俺の顔をまじまじと見返してくる。

 確かめる必要がある。俺は内心焦りながら切り出した。

「園田。その話、誰から言われた?」

「え? いや、誰からってわけじゃなくて」

 園田は言いよどんだが、誤魔化そうとしている態度には見えなかった。どちらかと言うと、恐らく純粋に答えにくいのだろう。なぜだ。

 考えたくない可能性が頭をもたげる。じわじわと蝕んでくる不安を振り払い、俺は勢いに任せて次の問いをぶつける。

「お前、まさか男ができたのか」

 そうだと言われたらどうするのだろう。

 どうすればいいのだろう。何も考えないうちから口にしていた。

 彼女は俺の剣幕に気圧されたようだったが、困ったようにしながらも笑ってみせた。

「できてるはずないよ。悲しいくらいそんな予感もないよ」

「本当だろうな」

「本当だってば。見栄張れるものなら張りたいよ……」

 呻くように添えられた言葉が弱々しげだった。


 俺はその後もしばらく、検分するように園田を見つめた。

 せっかくいい気分で酒を飲んでいたというのに、今の園田は戸惑いを隠さずに俺を見つめ返している。どうして俺が態度を変えたか、まるでわかっていないようだ。

 わかっていないということは、誤魔化してもいないということだろう。

 そんなふうに、俺は自らを納得させた。


「……何だ、気のせいか」

 安心した。

 安心しすぎて、身体からどっと力が抜けた。もう酔い始めているのかもしれない。

 俺は取り繕うつもりで笑って、言った。

「びっくりしたよ、園田に新しい彼氏ができたのかと思った」

「できてたらよかったんだけどね。全く予定にもないです」

 彼女も俺に歩調を合わせるように笑ってみせる。

 できてたら困るから聞いたのに――まあ、それはこの段階で言うことでもないか。

「そうか。それなら別にいいんだけどな」

 適当に相槌を打った後、喉の渇きを覚えた俺は二杯目のビールを急いで呷った。

 そして人心地ついてから、冗談半分で続けた。

「もし本当にできたらその時は俺にも知らせろよ。そしたらこんなふうには誘えなくなるんだから」

 そんなことが現実になっては困るのだが、ここで彼氏を作るななどと言い出すのは尚早だろう。まずは彼女の現状に探りを入れながらゆっくりと、搦め手で口説き落としていかなくてはならない。

 行灯を模した明かりの下、園田は俺の言葉に即答せず、黙ってビールを飲んでいた。

 だが不意にジョッキを置いたかと思うと居住まいを正す。

「あのさ。彼氏はできてないんだけど」

 どこか言いにくそうに、彼女は口を開く。

 俺は再びぎくりとして、苦々しい思いで機先を制した。

「何だよ。まさか……彼氏はいないけど好きな奴ならいる、とかか」

 考えたくない可能性をあえて自分から切り出すのは、防衛本能の働きだ。彼女自身から言われるよりはこちらから言い当てた方がダメージもいくらか軽減される。そんな小賢しい気持ちがそうさせた。

 だが俺の考えた可能性は外れだったらしく、園田は曖昧に否定してみせた。

「そういうわけでも全くないんだけど」

「じゃあ何だ。もったいつけずに言えよ」

 俺が促すと、彼女は恥じ入るように右手で軽く髪をかき上げた。

 場違いにどきっとさせるその仕種の後、酔いのせいか恥じらいのせいかほんのり赤くなった頬が晒される。温かい照明の下では陶器みたいにすべすべしているように見えた。

「う、うん。実はね」

 唇に微かな笑みを浮かべて、園田は言った。

「婚活、を始めたんだよね、私……」


 客が入り始めていた店内のざわめきが、その瞬間、違う世界の出来事みたいに遠ざかった。

 彼女の口からよもや聞くとは思いもしなかった単語が飛び出した。

 婚活。

 園田が――婚活?


「はあ!?」

 俺の声は無様に裏返ったが頓着している余裕はなかった。俺はテーブルに両手をついて身を乗り出し、発言の真偽を問い質しにかかる。

「婚活って誰が。園田が?」

「そ、そうだよ。似合わないかな?」

 園田は瞬きを繰り返しながらも、はにかんで小首を傾げた。

 まるで噛み合っていない。似合わないから俺が驚いたと思っているのか。

「似合うとか似合わないとかそういうことじゃなくて……」

 俺はますます混乱して、何から聞いていいのかわからなくなる。何だって園田がそんなことを言い出したのか、そこからしてまずわからない。

「本気なのか?」

「う、うん。一応ね」

 問いかけると、彼女はこくんと頷いた。

「何で?」

「いや、何でって……結婚したかったからだよ」

 園田は、前にも話したでしょと言いたげに答えた。

 事実、聞いていた。三ヶ月前、酒を飲みながら彼女が言った『私も結婚しようかな』という言葉を、俺は確かにこの耳で聞いていた。聞いていたからこそ、その言葉が口にされた経緯を全く重んじていなかった。

 どうせいつもの、彼女らしい思いつきだ。

 そうやって軽く考えていたのだ。

 小野口課長が園田に見合い話を用意しようとしていたことも、園田の思いつきをあの人が真剣なものとして受け止めてしまったからこそだと思っていた。園田自身が断ったと言っていたのもあり、俺は広報課長とその部下との間にあった正確なやり取りを確認することもなく放置してきた――。

 油断していた。

 こちらは実に俺らしい、全く馬鹿げた気の緩みだった。


 考えてみるといい。俺は園田のことをよく知っている。

 彼女が物事を深く考えず、思いつきで行動することがよくあることを知っている。

 だがその思いつきの後の行動には驚くべきフットワークの軽さを見せることもある――俺はそんな園田のことをよくわかっていたのに、今の今まで考えつきもしなかった。

 彼女は彼女なりに、本気だったのだ。


 だが俺も本気のはずだ。違ったか。

 ほんの軽い気持ちで彼女を飲みに誘ったわけでもなければ、何の意味もなく小野口課長に頭を下げてお見合いを保留にしてもらったわけでもない。今日、ここに辿り着くまでには様々な葛藤があり、悩みもしたし大いに恥もかいた。

 こんなことで打ちひしがれている場合じゃない。

 どうせ諦めきれやしないとわかっている。ならば決して、ここで折れてはならない。

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